高杉晋作の名言・伝承45選|晋作AIと『東行先生遺文』から出典をたどる

高杉晋作の名言・伝承45選|晋作AIと『東行先生遺文』から出典をたどる 名言

幕末の志士の名言をたどるのが趣味なのですが、高杉晋作のページを開くたびに引っかかることがあります。言葉はいくらでも出てくるのに、それがどこに書いてあるのかが、どこにも書いていないのです。

2026年9月、「高杉晋作 名言」で上位に並ぶ4つのサイトを実際に開いて数えました。多いところで35件。ところが4サイトとも、出典を1件も示していませんでした。

そこで、並んでいる言葉を一つずつ国立国会図書館のデジタルコレクションで当たってみました。すると、妙なことに気づきます。

この記事の結論

「高杉晋作の名言」として出回っている言葉のなかに、高杉自身が「これは他人の言葉だ」と書き残しているものが3件ありました。

たとえば「負けて退く人をよわしと思うなよ」。高杉の日記には確かにこの歌が出てきます。ただし本文は「夜、戯作あつめ草を読む。狂歌に云う」と書いてから、この歌を写しているのです。読んだ本に載っていた歌でした。

  • 22件
    刊本で高杉自身の文面を確認
  • 5件
    伝記・回想が伝える発言
  • 7件
    他人の言葉・古典、または高杉を評した言葉
  • 11件
    高杉本人の言葉とは確認できず

同じことが、あと2件あります。「学問を成すなら世間から利口と思われるな」は熊沢蕃山『集義和書』からの引用で、高杉自身が引用元を書いています。「朝に人としての道を悟ることができれば」は『論語』里仁篇です。

この記事では45件を集めて、出どころを一つずつたどりました。確かめられた度合いで4つに分けています。聞き手として、高杉晋作AI(高杉晋作をモデルにしたAI)にも登場してもらいました。

※以下の高杉晋作AIの発言部分は、公開されている史料をもとに高杉晋作の人物像を再現した創作です。実際の発言をそのまま掲載したものではありません。掲載する言葉は、刊本で文面を確認できたものと、確認できなかったものを分けて書いています。自筆原本を確認したものは一件もありません。
出典の確かめ方と、公開前に行っているチェックは編集方針にまとめています。

筆者
筆者

2026年9月、『高杉晋作 名言』の上位4サイトを開いたら、多いところで35件。出典は4サイトとも1件もありませんでした。

今日は一つずつ、どこに書いてあるかを確かめながらうかがいます。

高杉晋作AI
高杉晋作AI

三十五も並べて、出どころが一つもない。それはそれで、おもしろい話じゃのう。

僕の書き散らしたものを数えて回るとは、君も物好きなことじゃ。

まあ、付き合おう。ただし、覚えのないものまで引き受ける気はないぞ。

HAGY(へいじい)
この記事を書いた人
HAGY(へいじい)
ウェブマーケティング(SEO・SNS)を仕事にしている歴史好きです。子どもの頃は、教科書や歴史漫画で偉人の名前を覚えるだけでした。高野山真言宗の尼僧と結婚し、空海を調べるうちに、その時代の空気や周りの人々まで気になるようになりました。これまでに100を超える偉人AIを作ってきました。
  1. 高杉晋作の言葉を読む前に|どんな人物だったか
  2. 高杉の名言は、どこまで本人の言葉なのか|出典の4区分
    1. 45件を一覧で
  3. 区分A|刊本で高杉自身の文面を確認できた22件
    1. 名言①「面白き事もなき世にをもしろく/住なすものはこゝろなりけり」
    2. 名言②「西へ行く人を慕ひて東行く/心の底ぞ神や知るらむ」
    3. 名言③「吾すれば人もするかと思ひきに/人々ぞなき人の世の中」
    4. 名言④「弔むらわるる人に入るべき身なりしに/弔むらう人となるぞはづかし」
    5. 名言⑤「おくれてもおくれても又君たちに/誓ひし言を吾忘れめや」
    6. 名言⑥「人は人吾は吾なり山の奧に棲てこそしれ世乃浮沈」
    7. 名言⑦「里人の知らぬも宜や谷間なる/深き淵瀨に潜む心を」
    8. 名言⑧「白菊の咲榮ぬる御世なれは/取る杯も快き哉」
    9. 名言⑨「死たなら釋迦と孔子に追付て/道の奥義を尋んとこそ思へ」
    10. 名言⑩「雪折れし松にとがこそなかりけり/栽にし人の報とぞ知る」
    11. 名言⑪「志々猿を友とし遊る山人も/三絃の糸を聞く耳はわり」
    12. 名言⑫「親も妻も遺して独り伊勢参り」
    13. 名言⑬「灯火の影細く見る今宵かな」
    14. 名言⑭「内憂外患迫吾洲、正是邦家存亡秋、將立回天回運策、捨親捨子亦何悲」
    15. 名言⑮「内憂外患迫吾州、正是存亡危急秋、唯爲邦君爲家國、焦心碎骨又何愁」
    16. 名言⑯「半生事業與心違、空被愁情促客衣、愧殺篷窓孤枕上、夢魂獨向故園飛」
    17. 名言⑰「誰言樂裡還生苦、知是眞娯在苦中」
    18. 名言⑱「蠖屈龍伸丈夫志、作奴爲僕又何辭」
    19. 名言⑲「偸生決死任時宜、不患世人論是非」
    20. 名言⑳「爲國破家家亦輕、不辭世上喚狂生」
    21. 名言㉑「詩酒悠悠宜送日、男兒成事豈無時、任他市井呼游俠、一片丹心未敢差」
    22. 名言㉒「人は不忘舊か義の初と奉存候」
  4. 区分B|伝記や回想が伝える発言5件
    1. 名言㉓「死すべき時に死し、生くべき時に生くるは、英雄豪傑のなす処である」
    2. 名言㉔「凡そ、英雄といふものは、変なき時は、非人乞食となつて潜れ」
    3. 名言㉕「男子といふものは、困つたといふ事は、決していふものぢやない」
    4. 名言㉖「最早口舌の間にて、成敗の論無用なれば、是よりは長州男児の腕前懸御目可申」
    5. 名言㉗「一里行けば一里の忠を盡し、二里行けば二里の義を盡す時であつて」
  5. 区分C|本人が引いた他人の言葉、他人が評した言葉7件
    1. 名言㉘「朝聞道夕死可矣、是聖賢之道」
    2. 名言㉙「學文を作す程となれは、世間の利發の人と爲る勿れ、世間の愚者と爲るへし」
    3. 名言㉚「艱難は共にすべきが、富貴は共にすべからず」
    4. 名言㉛「まけてのく人をよはしとおもふなよ/智惠の力のつよきゆへなり」
    5. 名言㉜「過而不改謂之過」
    6. 名言㉝「動如雷電、發如風雨、衆目駭然、莫敢正視焉」
    7. 名言㉞「三千世界の鴉を殺し、主と朝寝がしてみたい」
  6. 区分D|高杉本人の言葉とは確認できなかった11件
  7. 【番外編】「三千世界の鴉を殺し」は高杉の句なのか
  8. 45件から見えてくる3つの傾向
  9. よくある質問(FAQ)
  10. インタビュー後記|引用した本人が、引用元にされていた
  11. 参考資料

高杉晋作の言葉を読む前に|どんな人物だったか

項目内容
名前高杉晋作(たかすぎ しんさく)。名は春風、字は暢夫、号は東行
生没年1839年9月27日(天保10年8月20日)〜1867年5月17日。満27歳、数えでは29歳
出身萩城下・菊屋横町(現在の山口県萩市南古萩町)
家萩藩の大組士・高杉小忠太の長男。家禄は150石とする資料と200石とする資料がある
主な事績奇兵隊の結成、四国連合艦隊との講和交渉、功山寺での挙兵

高杉は1857年(安政4年)に松下村塾へ入り、吉田松陰に学びました。1863年(文久3年)には下関で奇兵隊を結成しています。

没日は、一般には慶応3年4月14日(1867年5月17日)を命日とします。一方、4月13日深夜に死去したとする資料もあります。

言葉を読むうえで大きいのは、満27歳で亡くなったことです。 自分で著作をまとめる機会がないまま世を去りました。

今回文面を確認した刊本は、いずれも没後に刊行されたものです。まとまった形で読めるのは、高杉の五十年祭に合わせて1916年(大正5年)に編まれた『東行先生遺文』になります。

奇兵隊の結成をはじめ、高杉の歩みを、研究者がゆかりの地を訪ねながらたどった評伝が音声で聴けます。

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オーディオブック|Audible

『人をあるく 高杉晋作と長州』

一坂太郎 朗読:常盤昌平・6時間5分

この作品の聴きどころ

  • 長州藩のなかで、高杉が何を考え、何を目指したのか
  • 奇兵隊の歩みを、高杉による創設から終わりまでたどる
  • 萩・山口・下関から江戸・京都・長崎・福岡まで、ゆかりの史跡を訪ねる(略年表・人物相関図・史跡地図は付属資料のPDF)

Audibleの聴き放題に入っています(2026年9月29日時点。対象は入れ替わることがあります)。30日間の無料体験があります。

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筆者
筆者

五十年祭に合わせて、1916年に『東行先生遺文』という一冊が編まれました。

高杉晋作AI
高杉晋作AI

五十年祭とな。死んで五十年も祝われるとは、くすぐったいのう。

書き散らしたものを集められるのは、面はゆい。人に見せるつもりのない走り書きも混じっちょるはずじゃ。

まあ、集めた者の物好きに免じて、文句は言うまい。

高杉の名言は、どこまで本人の言葉なのか|出典の4区分

45件を、確かめられた度合いで4つに分けました。区分の名前は、この記事が実際に何をどこまで確認したかに合わせています。

区分内容件数
A刊本で高杉自身の文面を確認できたもの(詩歌・漢詩・書簡・日記)22件
B伝記や回想が「高杉の発言」として伝えるもの。本人の文書ではない5件
C本人が引いた他人の言葉・古典、他人の作、または他人が高杉を評した言葉7件
D広く知られるが、高杉本人の言葉であることを今回確認できなかったもの11件

自筆の原本を確認したものは、一件もありません。 区分Aの「確認した」は、あくまで刊本(活字になった本)で文面を読んだという意味です。

多くは『東行先生遺文』(東行先生五十年祭記念会 編、民友社、1916年)に拠っています。高杉の五十年祭に合わせて編まれた本です。

略系・年譜・書翰・日記及手録・詩歌文章・東行遺稿・略傳の順に編まれており、詩歌と漢詩はここでまとめて読めます。

45件を一覧で

先に全体を並べておきます。詳しい解説は、この後で1件ずつ扱います。

#言葉区分出典の要点
①面白き事もなき世にをもしろくA『東行先生遺文』詩歌文章。原本画像で確認
②西へ行く人を慕ひて東行くA同・詩歌文章。号「東行」の由来
③吾すれば人もするかと思ひきにA同。文久3年3月26日
④弔むらわるる人に入るべき身なりしにA同。招魂場の祭事
⑤おくれてもおくれても又君たちにA同。東行庵に歌碑
⑥人は人吾は吾なりA同。原本画像で確認
⑦里人の知らぬも宜やA同。原本画像で確認
⑧白菊の咲榮ぬる御世なれはA同。重陽の節句
⑨死たなら釋迦と孔子に追付てA同。詞書「余り病の烈しければ」
⑩雪折れし松にとがこそなかりけりA同。詞書「雪中松」
⑪志々猿を友とし遊る山人もA同。三味線を詠む
⑫親も妻も遺して独り伊勢参りA同。文久2年8月の俳句
⑬灯火の影細く見る今宵かなA同。元治元年10月27日
⑭内憂外患迫吾洲(題焦心錄)A日記及手録。東行庵に詩碑
⑮内憂外患迫吾州(題焦心錄後)A東行遺稿。後篇にあたる
⑯半生事業與心違A東行遺稿。文久3年4月1日
⑰誰言樂裡還生苦A日記及手録。野山獄中
⑱蠖屈龍伸丈夫志A東行遺稿。比喩の原典は『易経』
⑲偸生決死任時宜A野山獄中日記。松陰の言葉を承ける
⑳爲國破家家亦輕A野山獄中日記。元治元年5月6日
㉑詩酒悠悠宜送日、男兒成事豈無時A東行遺稿「次悠悠道人韻」
㉒人は不忘舊か義の初A書翰。田中顕助あて
㉓死すべき時に死し、生くべき時に生くるB田中光顕『維新風雲回顧録』
㉔凡そ、英雄といふものはB同書
㉕男子といふものは、困つたといふ事はB同書
㉖長州男児の腕前懸御目可申B徳富蘇峰『近世日本国民史 長州征伐』
㉗一里行けば一里の忠を盡しB『東行先生遺文』略伝(中原邦平 述)
㉘朝聞道夕死可矣C『論語』里仁篇。高杉が引用
㉙學文を作す程となれはC熊沢蕃山『集義和書』。高杉が引用
㉚艱難は共にすべきが、富貴は共にすべからずC『史記』范蠡。伊藤博文の回想が伝える
㉛まけてのく人をよはしとおもふなよC高杉が日記に書き写した狂歌
㉜過而不改謂之過C『論語』衛霊公篇。擬作のなかの一節
㉝動如雷電、發如風雨C伊藤博文が撰した顕彰碑
㉞三千世界の鴉を殺しC木戸孝允の作とする記述のほうが古い
㉟なにより大事なのは自分の心の持ちようだD名言サイトのみ
㊱苦しいという言葉だけはD㉕の言い換えとみられる
㊲機会は、それを待つ人にはなかなか来ないD刊本では原典を特定できず
㊳天地も人も皆気のみであるD全文検索で該当なし
㊴今の長州男児の肝っ玉をD㉖と同系。語形は戦前の刊行物になし
㊵たとえ我一人となるともD全文検索で該当なし
㊶われは赤間関の鬼となるD全文検索で該当なし
㊷吉田へD下関市の公式サイトが逸話として紹介
㊸人間、窮地におちいるのはよいD小説由来とする紹介あり。未確認
㊹戦いは一日早ければ一日の利益があるD当時の常套句。高杉との結びつき不明
㊺苦労する身は厭わねどD俚謡としての採録のほうが古い
筆者
筆者

45件のうち、区分Cに入れたのは7件です。あなたが誰かの言葉を引いたものや、人があなたを評した言葉です。

高杉晋作AI
高杉晋作AI

書物を読めば、気に入った一節は書き留める。当たり前のことじゃ。

それが七つも僕の言葉として回っちょるなら、おもしろうないのう。貸した側に気の毒じゃ。

区分A|刊本で高杉自身の文面を確認できた22件

まず、『東行先生遺文』などの刊本で、高杉自身の詩歌・書簡・日記として文面を確認できた22件です。

この22件をどう確かめたか
  • 国立国会図書館デジタルコレクションの『東行先生遺文』で、文面をそのまま読んだもの
  • 詞書(ことばがき。歌の前に置かれた前書き)があるものは、いつ・どんな場面で詠まれたかも添えた
  • ただし原本の画像まで開いたのは一部で、残りは全文テキストで読んでいる
  • 全文テキストは機械読み取りのため、字に誤りが残っている可能性がある

漢字や仮名づかいは、刊本の表記をそのまま載せています。読みにくい箇所は解説で補いました。それでは1件ずつ見ていきます。

名言①「面白き事もなき世にをもしろく/住なすものはこゝろなりけり」

項目内容
出典『東行先生遺文』詩歌文章11ページ。詞書なし。上の句の下に「些々生」、下の句の下に「望東」の署名
解釈おもしろいことなど何もないこの世を、おもしろく
今回の確認原本の画像で確認。この歌を記した高杉の自筆資料は、今回確認できていない

もっとも広く知られているものの一つです。上の句を高杉、下の句を野村望東尼が詠んだ合作として伝えられています。

ただし、この歌には論点が多くあります。「世に」と「世を」で表記が割れること、下の句の作者を今回さかのぼれたのが1893年(明治26年)の刊本までであること、臨終の作ではないとする研究が紹介されていること(本記事は原文を確認していません)。

別の記事で刊本12点を並べて検証したので、そちらをご覧ください。

筆者
筆者

この一首は別の記事で、刊本12点を並べて追いかけました。

高杉晋作AI
高杉晋作AI

一首のために本を十二冊。君もようやるのう。

で、十二冊並べて、下の句は誰のものと決まったんか。

筆者
筆者

決めきれませんでした。下の句の作者は、1893年の刊本までしかさかのぼれていません。

高杉晋作AI
高杉晋作AI

そのほうがおもしろい。

決まらんものを決まらんと書く者は、案外少ないからのう。

名言②「西へ行く人を慕ひて東行く/心の底ぞ神や知るらむ」

項目内容
出典『東行先生遺文』詩歌文章。詞書に「三月十五日…名を東行と曰ふ…乃ち国歌を賦して壁に書す」
解釈西へ行く人を慕って東へ行く。その胸の底は神が知っているだろう
今回の確認全文テキストで確認

号「東行」の由来を語る歌です。1863年(文久3年)3月、剃髪して東行と名乗ったときに詠まれ、壁に書きつけられたと詞書にあります。

西行法師の名を踏まえた命名だと読まれることが多い一首です。西へ行くのが西行なら、自分は東へ行く、という言葉遊びとして説明されます。

ただし、この歌は同じ本の中で表記が食い違います。 詩歌文章は下の句を「心の底ぞ」とし、伝記部分は「我が心をば」とします。剃髪の日付も三月十五日と三月十六日で違います。

筆者
筆者

同じ『東行先生遺文』の中で、剃髪の日が三月十五日と十六日、下の句も『心の底ぞ』と『我が心をば』に割れています。

高杉晋作AI
高杉晋作AI

編んだ者も苦労したじゃろう。一冊の中で日も句も揃わんのじゃから。

西行を踏まえた名じゃと読まれちょるそうじゃな。そう読んでもろうて構わん。

大層な由来を期待されると困るのう。

名言③「吾すれば人もするかと思ひきに/人々ぞなき人の世の中」

項目内容
出典『東行先生遺文』詩歌文章。詞書「癸亥三月念六、京城を発す」=文久3年3月26日
解釈自分がやれば人も続くと思っていたのに、続く人がいない世の中だ
今回の確認全文テキストで確認

詞書に日付が入っている、数少ない歌の一つです。1863年(文久3年)3月26日、京を発つときに詠まれました。

自分が動けば人も動くと思っていた、という失望が読み取れる歌です。ただし、このとき何があってこう詠んだのかまでは、詞書からは分かりません。

この歌は下関の東行庵に建つ合作歌碑の右側面にも刻まれています。碑では「人々そなき」と表記されています。

筆者
筆者

文久3年3月26日、京を発つときの歌です。『人々ぞなき』、続く人がいない、と。

高杉晋作AI
高杉晋作AI

詞書というのは律儀なものじゃ。日付まで残しよる。

何があってそう詠んだかを詞書に書いちょらんのなら、僕も言うまい。

ただ、人が続かんのを嘆くより、一人で先に飛び出すほうがおもしろい。いま問われれば、そう答える。

名言④「弔むらわるる人に入るべき身なりしに/弔むらう人となるぞはづかし」

項目内容
出典『東行先生遺文』詩歌文章。詞書「八月六日、招魂場祭事、奇兵隊諸士と之に謁す」
解釈弔われる側に入るはずの身だったのに、弔う側になったのが恥ずかしい
今回の確認全文テキストで確認

招魂場(しょうこんじょう)は、戦死した同志を祭る場所です。桜山招魂社の祭事で、奇兵隊の隊士たちと参列したときの歌とされます。

生き残った側の負い目を詠んだ一首です。同志が次々に倒れていくなかで、自分が弔う側に立っていることへの居心地の悪さが出ています。

なお東行庵の紹介文では「弔むらわる人に…」と、活用が少し違う形で載っています。

筆者
筆者

8月6日、招魂場の祭事に、奇兵隊の隊士たちと参列したときの歌とされます。

高杉晋作AI
高杉晋作AI

弔われるはずの身が、弔う側に立っちょる。これは、おもしろいとは言えん話じゃ。

先に逝った者の前に立つ居心地の悪さは、歌にでもせねば収まらんものじゃろう。

歌に書いた以上のことは、僕にも言えぬ。

名言⑤「おくれてもおくれても又君たちに/誓ひし言を吾忘れめや」

項目内容
出典『東行先生遺文』詩歌文章。詞書「白石資興、尊攘の為に忠死せし御魂を祭る」
解釈遅れても遅れても、君たちに誓った言葉を私が忘れるものか
今回の確認全文テキストで確認

先に死んだ同志への歌です。自分は遅れて生き残っているが、誓った言葉は忘れていない、という内容になっています。

この歌は東行庵の高杉東行歌碑に刻まれており、碑文は「誓ひしことをあに忘れめや」と、刊本と少し違う形です。 碑は1973年(昭和48年)4月14日の建立で、文字は曾孫の高杉勝によるものと紹介されています。

東行庵は、慶応元年8月6日の桜山招魂社鎮座祭の作としています。

筆者
筆者

東行庵の歌碑は1973年4月14日の建立で、字は曾孫の高杉勝さんだそうです。碑では『あに忘れめや』になっています。

高杉晋作AI
高杉晋作AI

曾孫とな。……僕の曾孫が、僕の歌を石に書いたか。

『吾忘れめや』が『あに忘れめや』。書く者が変われば、字も少し変わる。それも悪うない。

死んだ者に向かって言えることなど、忘れちょらんと言うくらいのものじゃ。

名言⑥「人は人吾は吾なり山の奧に棲てこそしれ世乃浮沈」

項目内容
出典『東行先生遺文』詩歌文章11ページ。詞書「山莊に入りて」
解釈人は人、自分は自分。山奥に住んでこそ世の浮き沈みが分かる
今回の確認原本の画像で確認

辞世として知られる歌と同じページに載っている一首です。詞書は「山莊に入りて」とだけあります。

「人は人吾は吾なり」という上の句は、現代でもそのまま通じる言い回しです。ただし後半は、山奥に引きこもってこそ世間の動きが見える、という含みになっています。

高杉は1864年(元治元年)以降、たびたび身を隠しています。そうした時期の作とみることもできますが、詞書に年が入っていないため、いつの作かは特定できません。

筆者
筆者

辞世として知られる歌と同じ11ページに、この一首があります。『人は人吾は吾なり』は、いまもそのまま使われる言い回しです。

高杉晋作AI
高杉晋作AI

愉快じゃのう。いまの世でもそのまま通じるなら、言い回しも長生きしたものじゃ。

ただ、山奥に籠もれば世の浮き沈みが見えるというのは、少々気取りが過ぎるのう。

籠もって見えるものもあろうが、僕は出ていって確かめるほうが性に合う。

名言⑦「里人の知らぬも宜や谷間なる/深き淵瀨に潜む心を」

項目内容
出典『東行先生遺文』詩歌文章11ページ。詞書「有所感賦國歌」(感ずる所有りて国歌を賦す)
解釈里の人が知らないのももっともだ、谷間の深い淵に潜む心を
今回の確認原本の画像で確認

自分の考えが人に理解されないことを、谷底の淵にたとえた歌です。詞書の「有所感」は、思うところがあって詠んだ、という意味になります。

前の歌と同じ所蔵の一群に収められていますが、年は特定できません。

筆者
筆者

詞書は『有所感』、思うところがあって、とだけ。いつの作かも分かりません。

高杉晋作AI
高杉晋作AI

書いた本人が理由を書いちょらんのじゃから、聞かれても困るのう。

谷底の淵は、上から覗いても底が見えん。そういう歌として読んでくれればよい。

分かってもらえんと嘆く夜もあろう。歌というのは、そのためにあるのではないか。

名言⑧「白菊の咲榮ぬる御世なれは/取る杯も快き哉」

項目内容
出典『東行先生遺文』詩歌文章11ページ。詞書「重九」(重陽の節句=9月9日)
解釈白菊が咲きさかる御代であるから、手に取る杯も心地よい
今回の確認原本の画像で確認

重陽の節句を詠んだ、めずらしく明るい一首です。重陽は菊の節句とも呼ばれ、菊を浮かべた酒を飲む習わしがありました。

高杉の歌は、憂いや焦りを詠んだものが多く残っています。そのなかで、この歌は素直に季節を楽しむ一首として読めます。

同じページに、辞世として知られる歌と、この祝いの歌が並んでいるわけです。編まれた本のなかでは、気分の違う歌が隣り合っています。

筆者
筆者

同じ11ページに、辞世として知られる歌と、この重陽の祝いの歌が並んでいます。

高杉晋作AI
高杉晋作AI

編んだ者の並べ方が、おもしろいのう。辞世の隣に酒の歌を置くんじゃから。

節句に杯を持てば、そういう歌にもなろう。

憂いた歌ばかり集められると、こちらも窮屈でかなわん。

名言⑨「死たなら釋迦と孔子に追付て/道の奥義を尋んとこそ思へ」

項目内容
出典『東行先生遺文』詩歌文章12ページ。詞書「余り病の烈しければ」
解釈死んだなら釈迦と孔子に追いついて、道の奥義を尋ねようと思う
今回の確認原本の画像で確認

詞書に「余り病の烈しければ」とあり、病が重かった時期の作と分かります。死んだら釈迦と孔子に会いに行って、教えの神髄を聞いてやろう、という歌です。

病が重かった時期の歌でありながら、湿っぽさがありません。あの世で釈迦や孔子に直接教えを尋ねようとする、豪快な書きぶりです。

なお後の刊本には「死んだなら釋迦と孔子に追つきて道の奥義を問はんとぞ思ふ」と、別の表記で載せるものもあります。伝わる形に幅があります。

筆者
筆者

詞書は『余り病の烈しければ』。それで、あの世で釈迦と孔子に道の奥義を尋ねよう、と。

高杉晋作AI
高杉晋作AI

病が重かろうが、聞きたいことは尽きん。

釈迦と孔子に直に問えるなら、死ぬのも悪い話ではない。そういう歌の作りじゃろう。

湿っぽく詠むより、そのほうがよほどおもしろい。

名言⑩「雪折れし松にとがこそなかりけり/栽にし人の報とぞ知る」

項目内容
出典『東行先生遺文』詩歌文章12ページ。詞書「雪中松」
解釈雪で折れた松に罪はない。植えた人の報いだと知る
今回の確認原本の画像で確認

雪の重みで折れた松を詠んだ歌です。折れたのは松のせいではなく、そこに植えた人の責任だ、という内容になっています。

何かの比喩として詠まれた可能性はありますが、詞書は「雪中松」とだけで、何をたとえたのかは書かれていません。読み手の解釈に委ねられる一首です。

責任の所在を、実行した側ではなく仕向けた側に見る。そう読むこともできます。

筆者
筆者

折れた松に罪はなく、植えた人の報い。何のたとえなのか、詞書は『雪中松』とだけです。

高杉晋作AI
高杉晋作AI

何を指しちょるのかと聞かれても困るのう。詞書に書いちょらんのなら、僕からも足さん。

ただ、折れた枝より植えた手を見る、という読み方は、僕は好きじゃ。

読む者が好きにたとえてくれればよい。

名言⑪「志々猿を友とし遊る山人も/三絃の糸を聞く耳はわり」

項目内容
出典『東行先生遺文』詩歌文章12ページ。詞書「友人に誘れ市に出し日」
解釈鹿や猿を友として遊ぶ山住まいの者も、三味線の音を聞く耳は持っている
今回の確認原本の画像で確認

友人に誘われて町に出た日の歌です。山に籠もっていた自分でも、三味線の音には耳が動く、という戯れの一首になっています。

高杉は三味線を好んだと伝えられます。この歌は、そうした一面が出た作です。

「三絃(さんげん)」は三味線のことで、「聞く耳はわり」は聞く耳は持っている、という意味に読めます。

筆者
筆者

三絃は三味線のこと。友人に誘われて町に出た日の歌です。

高杉晋作AI
高杉晋作AI

山に籠もっておっても、撥の音が聞こえれば耳が動く。それを歌にせんでどうする。

志士は遊ばぬものと思われちょるなら、それはおもしろうないのう。

歌にまで残っちょるのじゃから、隠しようもない。

名言⑫「親も妻も遺して独り伊勢参り」

項目内容
出典『東行先生遺文』詩歌文章。詞書「壬戌八月、君命を受け…江戸に赴くとて誹歌一枝を賦す」=文久2年8月
解釈親も妻も置いて、一人で伊勢参りに出る
今回の確認全文テキストで確認

1862年(文久2年)8月、藩命で江戸へ向かうときの句です。詞書に「誹歌(俳諧の歌)を賦す」とあり、俳句として詠まれています。

藩の用で江戸へ行くのに「伊勢参り」と言い換えているところに、軽口の味があります。この年、高杉は上海へも渡っています。

親も妻も置いていく、という言い方は、後ろめたさを笑いに変える書き方にも読めます。

筆者
筆者

文久2年8月、藩命で江戸へ向かうときの句です。この年には上海へも渡っています。

高杉晋作AI
高杉晋作AI

藩の御用を伊勢参りと言い換える。それくらいでないと句にならん。

同じ年に上海と江戸か。急いじょったんじゃのう、僕は。

親も妻も置いて出るのを笑い事にしておく、そういう句じゃと読んでくれ。

名言⑬「灯火の影細く見る今宵かな」

項目内容
出典『東行先生遺文』詩歌文章。詞書「十月廿七日午後…断然脱走、奇隊の陣処に至る」=元治元年10月27日
解釈灯火の影が細く見える今宵であることよ
今回の確認全文テキストで確認

1864年(元治元年)10月27日、藩を脱して奇兵隊の陣所へ向かった日の句です。このおよそ7週間後に、功山寺で挙兵しています。

大きな決断をした日の句が、灯火の影という小さなものを詠んでいます。決意も高揚も書かれていません。

詞書には「断然脱走」とあるのに、句は静かです。この落差が、この一句を印象深いものにしています。

筆者
筆者

元治元年10月27日、詞書には『断然脱走』。功山寺の挙兵は、そのおよそ7週間後です。

高杉晋作AI
高杉晋作AI

断然脱走と書いて、句は灯火の影。おもしろい取り合わせじゃろう。

腹を決めた晩ほど、かえって静かなものかもしれん。

勇ましい句を期待されても困る。そういうものは、あとの世が勝手に作ってくれるらしいからのう。

名言⑭「内憂外患迫吾洲、正是邦家存亡秋、將立回天回運策、捨親捨子亦何悲」

項目内容
出典『東行先生遺文』日記及手録(甲子残稿)。元治元年10月下旬の位置に置かれる。題は「題焦心錄」
読み下し内憂外患 吾が洲に迫る/正に是れ邦家存亡の秋(とき)/将に回天回運の策を立てんとす/親を捨て子を捨つるも亦た何ぞ悲しまん
今回の確認全文テキストで確認。東行庵の詩碑にも刻まれている

高杉の漢詩のなかで、広く知られたものの一つです。国の内にも外にも危機が迫り、まさに国の存亡のときだ、と歌い出します。

後半の「捨親捨子亦何悲」は、親を捨て子を捨てても悲しむことはない、という激しい句です。 東行庵の詩碑は、これを24歳・元治元年(1864年)晩秋の作としています(満年齢では25歳)。

読み下しや訳し方には幅があります。ここに示した読み下しも、一つの読み方です。

筆者
筆者

題は『焦心録に題す』。結びが『捨親捨子亦何悲』です。

高杉晋作AI
高杉晋作AI

心を焦がしちょった時分の題じゃな。詩というのは、勢いで書くところがある。

親も子も捨てると書く者ほど、家のことを考えちょるものかもしれん。

で、君はこの一首を読んで、勇ましいと思うたか、危ういと思うたか。

筆者
筆者

危ういほうです。勢いのある言葉ほど、前後を外して引かれやすいと思うので。

高杉晋作AI
高杉晋作AI

危ういか。なかなか言うのう。

勢いで書いた詩から、勢いだけを持っていかれる。そういうことかもしれんのう。

名言⑮「内憂外患迫吾州、正是存亡危急秋、唯爲邦君爲家國、焦心碎骨又何愁」

項目内容
出典『東行先生遺文』東行遺稿。題は「題焦心錄後」
読み下し内憂外患 吾が州に迫る/正に是れ存亡危急の秋/唯だ邦君の為 家国の為/心を焦がし骨を砕くも又た何ぞ愁えん
今回の確認全文テキストで確認

「題焦心録」には後篇があります。 前の一首とよく似ていますが、第2句以下が違います。

第1句はほぼ同じで「洲」が「州」になり、第2句は「邦家存亡」が「存亡危急」に変わります。後半は、主君のため国のためなら骨を砕いても愁うことはない、という内容です。

名言集で「題焦心録」として引かれるのはたいてい前篇のほうです。後篇があることまで示している資料は、今回調べた範囲では見当たりませんでした。

筆者
筆者

同じ題で後篇がありました。第2句は『邦家存亡』が『存亡危急』に変わっています。

高杉晋作AI
高杉晋作AI

一度書いて足りんと思えば、また書く。それだけのことじゃろう。

同じ題で二度書くときは、たいてい腹の虫が収まっちょらんときじゃ。

後のほうまで読む者がおるとはのう。

名言⑯「半生事業與心違、空被愁情促客衣、愧殺篷窓孤枕上、夢魂獨向故園飛」

項目内容
出典『東行先生遺文』東行遺稿。詞書「四月朔旦、舟を室港に泊す、感有りて作る」=文久3年4月1日
読み下し半生の事業 心と違い/空しく愁情に客衣を促さる/愧殺す 篷窓 孤枕の上/夢魂 独り故園に向かって飛ぶ
今回の確認全文テキストで確認

1863年(文久3年)4月1日、周防の室津港に船を泊めた夜の作です。「半生の事業 心と違い」で始まります。

このとき高杉は満23歳です。 その若さで「半生の事業が思うようにいかない」と書いていることになります。

後半は、旅の船の窓で一人寝ながら、夢のなかの魂だけが故郷へ飛んでいく、という内容です。荒々しい詩の多い高杉のなかでは、静かな一首になっています。

筆者
筆者

文久3年4月1日、室津の港に泊めた船での作です。満23歳で『半生の事業』と書いています。

高杉晋作AI
高杉晋作AI

二十三で半生とは大げさじゃと笑われそうじゃのう。いま聞かれれば、急いで生きる者には二十三でも半生じゃ、と答えたい。

船の窓で一人寝て、夢の魂だけが故郷へ飛ぶ。そういう歌の作りじゃな。

荒い詩ばかりと思われちょるなら、これも読んでくれ。

名言⑰「誰言樂裡還生苦、知是眞娯在苦中」

項目内容
出典『東行先生遺文』日記及手録。野山獄中の「投獄集」に収める
読み下し誰か言う 楽裡に還って苦を生ずと/知る是れ真娯は苦中に在るを
今回の確認全文テキストで確認

野山獄に入れられていたときの詩です。楽しみのなかにかえって苦しみが生じると誰が言ったのか、本当の楽しみは苦しみのなかにあると知った、という内容になっています。

名言集で見かける「真の楽しみは苦しみの中にこそある」は、この2句の現代語訳とみられます。 原文には題も詞書もあり、獄中で書かれたことまで分かります。

同じ箇所に転結を改めた形も併記されており、「初知極樂無量界、却在辛途苦海中」となっています。推敲の跡が残っているわけです。

筆者
筆者

野山獄の『投獄集』の2句です。名言集では『真の楽しみは苦しみの中にこそある』の形で広まっています。

高杉晋作AI
高杉晋作AI

訳して並べると、ずいぶん立派な教えに聞こえるのう。

牢の中でそう詠む。負け惜しみと読むほうが、僕にはおもしろい。

転結を書き直した跡まで残っちょるのなら、なおさらじゃ。

名言⑱「蠖屈龍伸丈夫志、作奴爲僕又何辭」

項目内容
出典『東行先生遺文』東行遺稿「船中次野唯人韻」。元治元年11月2日、馬関を発した船中の作
読み下し蠖屈龍伸は丈夫の志/奴と作(な)り僕と為るも又た何ぞ辞せん
今回の確認全文テキストで確認。比喩の原典は『易経』繋辞下伝

名言集で「シャクトリムシのように身を屈するのも、いずれは龍のように伸びるためだ」という形で広まっている言葉の原文です。

「蠖屈龍伸(かくくつりょうしん)」は『易経』繋辞下伝に由来する言葉で、原文は「尺蠖之屈、以求信也。龍蛇之蟄、以存身也」となっています。尺取虫が身を屈めるのは伸びるためだ、という意味です。

つまり比喩そのものは古典から来ています。高杉はそれを踏まえて、奴僕になることも辞さない、と続けました。同じ2句は直後の詩にも重ねて出てきます。

筆者
筆者

シャクトリムシのたとえは『易経』繋辞下伝から。元治元年11月2日、馬関を発った船の中の作です。

高杉晋作AI
高杉晋作AI

書物で覚えた言い回しを使うたまで。目新しい思いつきではない。

身を屈めておる時分に、屈むのも志のうちと書けば、少しは格好がつく。そういう作りじゃろう。

それを僕の考え出した教えのように言われては、易経に申し訳が立たんのう。

名言⑲「偸生決死任時宜、不患世人論是非」

項目内容
出典『東行先生遺文』日記及手録。野山獄中日記の四月十一日条(元治元年)
読み下し偸生決死 時宜に任す/世人の是非を論ずるを患えず
今回の確認全文テキストで確認

「生きるか死ぬかは時機に任せよう」という形で広まっている言葉の原文です。生き延びるのも死を決するのも時宜に任せる、世間の是非の議論は気にしない、という内容になっています。

注目したいのは、同じ日の日記に、吉田松陰が江戸の獄から寄せた言葉が引かれていることです。「死生可置度外、雖高節如天祥、可偸生則偸生」と記されています。

死生は度外に置いてよい、文天祥のような高節の人であっても、生き延びられるなら生き延びよ、という趣旨です。師の言葉を承けた作と読めます。

筆者
筆者

同じ四月十一日の日記に、松陰先生が江戸の獄から寄せた『生き延びられるなら生き延びよ』という言葉が引かれています。

高杉晋作AI
高杉晋作AI

死ぬのが立派で、生きるのが卑怯というものでもない。

どう受け止めたかを日記に書いちょらんのなら、僕からも足さん。そこを足さんのが、日記というものじゃ。

名言⑳「爲國破家家亦輕、不辭世上喚狂生」

項目内容
出典『東行先生遺文』日記及手録。野山獄中日記。前日の条から元治元年5月6日と分かる
読み下し国の為に家を破るも家も亦た軽し/辞せず 世上の狂生と喚ぶを
今回の確認全文テキストで確認

「国のために家が潰れても、家などは軽いものである」という形で広まっている言葉の原文です。世間から狂生(気ちがい書生)と呼ばれることも辞さない、と続きます。

高杉は「西海一狂生」「東洋一狂生」といった号を使っています。自分を狂生と呼ぶことに、ある種の開き直りがあったとみることもできます。

日付が分かるのは、前日の条に「屈平以此日沒汨羅」(屈原はこの日に汨羅で没した)とあるためです。端午の5月5日を屈原の死と結びつける伝承を踏まえると、翌日の条は5月6日と読めます。

筆者
筆者

『西海一狂生』『東洋一狂生』という号も使っておられます。

高杉晋作AI
高杉晋作AI

狂生と呼ばれるくらいで、ちょうどよい。まともなふりをしておっては、動けんことがある。

号にまで使うちょるのじゃから、言い訳もできん。

もっとも、家の者にしてみれば、おもしろうない話じゃったろうな。

名言㉑「詩酒悠悠宜送日、男兒成事豈無時、任他市井呼游俠、一片丹心未敢差」

項目内容
出典『東行先生遺文』東行遺稿「次悠悠道人韻」。年次は今回の調査では特定できず
読み下し詩酒悠悠 宜しく日を送るべし/男児事を成すに豈に時無からんや/他に任す 市井の游侠と呼ぶを/一片の丹心 未だ敢えて差(たが)わず
今回の確認全文テキストで確認

「男児が事を成すには時があるのだ」という形で広まっている言葉の原文です。

この一首は、流布している形と原文の対応がはっきり分かります。 名言集に載る全文は「男児が事を成すには時があるのだ。たとえ市井の侠客と呼ばれても、胸にある一片の素の心は全く変わっていない」というものです。

後半は「任他市井呼游俠、一片丹心未敢差」の2句と、そのまま対応しています。なお「丹心」は、ここでは「まごころ」「忠誠の心」ほどの意味です。

つまり、これは漢詩の現代語訳です。ただし多くの名言集は、前半だけを切り出して載せています。

筆者
筆者

名言集の多くは、前半の『男児が事を成すには時がある』だけを載せています。

高杉晋作AI
高杉晋作AI

四句を一句に切れば、意味が変わる。切った者は、おもしろいところを落としちょる。

市井の游侠と呼ばれても構わん、という開き直りまで込みで一つの詩じゃ。

後ろの二句まで読んでくれ。

名言㉒「人は不忘舊か義の初と奉存候」

項目内容
出典『東行先生遺文』書翰。田中顕助(のちの田中光顕)あて書簡。所蔵表記は「伯爵田中光顯氏所藏」
解釈人は旧(古くからの縁・旧知の人)を忘れないことが義の初めだと存じます
今回の確認全文テキストで確認。日付は特定できなかった

「人は旧を忘れざるが義の初め」として広まっている言葉です。この記事で扱う45件のうち、高杉自身の書簡で文面を確認できた唯一の一件です。

宛先の田中顕助は、のちに宮内大臣となる田中光顕です。高杉の語録を伝えた人物でもあります。

なお、「故旧を忘れず」という発想は『論語』泰伯篇にも見えますが、この一文が古典の翻案なのかどうかは、今回の調査では確かめられませんでした。

筆者
筆者

45件のうち、あなたの書簡で文面を確かめられたのは、田中顕助さんあてのこの1通だけでした。

高杉晋作AI
高杉晋作AI

手紙は相手があって書くもの、名言を残すために書くものではないからのう。一通でも名言の出どころに数えてもろうたなら、上出来じゃ。

古い縁を忘れぬのが義の始まり。そう突飛な考えでもあるまい。

誰かの受け売りかどうかは、調べた者に任せる。

区分B|伝記や回想が伝える発言5件

ここからは、高杉が書いたものではなく、後の時代に書かれた伝記や回想が「高杉の発言」として伝えている言葉です。

区分Bを読むときの前提
  • 伝えているのは、いずれも高杉の没後に刊行された本である
  • 語り手の記憶や立場が入るため、一字一句そのままとは限らない
  • それでも「誰が、いつ、どの本で伝えたか」までは示せる

出典が示せる点で区分Dとは違いますが、本人の筆ではありません。その差を踏まえて読んでください。

名言㉓「死すべき時に死し、生くべき時に生くるは、英雄豪傑のなす処である」

項目内容
出典田中光顕『維新風雲回顧録』(大日本雄弁会講談社、1928年)
解釈死ぬべきときに死に、生きるべきときに生きるのが英雄豪傑のすることだ
今回の確認同書の全文テキストで文面を確認

高杉の語録として広く引かれる言葉です。続けて「両三年は、軽挙妄動せずして、専ら学問をするがよい、其の中には、英雄の死期が来るであらうから」と語ったと伝えられます。

伝えているのは田中光顕で、刊行は1928年。高杉の没後61年です。 田中は幕末に高杉と接した人物で、のちに宮内大臣になりました。

なお、この3件の語録の出典を『維新夜話』とする記述をよく見かけますが、その本の本文は今回確認できませんでした。 文面を確かめられたのは『維新風雲回顧録』のほうです。

筆者
筆者

田中光顕さんがこの言葉を伝えた本は、1928年刊。あなたの没後61年です。

高杉晋作AI
高杉晋作AI

六十一年。それだけ経てば、人の覚えは都合よく整う。

田中がそう覚えちょったなら、そう伝わるのも無理はない。ただ、僕がそう言うたかは、僕には確かめようがないのう。

おもしろいのは、覚えちょる側のほうが、言うた側よりずっと長生きしちょることじゃな。

名言㉔「凡そ、英雄といふものは、変なき時は、非人乞食となつて潜れ」

項目内容
出典田中光顕『維新風雲回顧録』(1928年)
解釈英雄というものは、事の起こらないときは非人乞食となって身を潜めよ
今回の確認同書の全文テキストで文面を確認

続けて「変ある時に及んで、龍の如くに振舞はねばならない」と語ったと伝えられます。潜むときは徹底して潜み、動くときは一気に動け、という趣旨です。

高杉自身、たびたび身を隠しています。1864年(元治元年)には藩を脱して筑前へ逃れ、変名を使って過ごしました。その経験と重なる言葉ではあります。

ただし、これも田中の回想が伝える形です。高杉の文書に同じ表現があるかは、今回は確認できませんでした。

筆者
筆者

1864年には藩を脱して筑前へ逃れ、変名で過ごされています。この言葉は、その経験と重なります。

高杉晋作AI
高杉晋作AI

名を変えて身を隠すのは、恥じることではない。隠れるのが下手な者は、動くのも下手じゃ。

重なるから僕の言葉らしく聞こえる。そこが危ういところじゃ。

龍のごとく振る舞えと言うたかどうかは、田中の覚え書きに聞いてくれ。

名言㉕「男子といふものは、困つたといふ事は、決していふものぢやない」

項目内容
出典田中光顕『維新風雲回顧録』(1928年)
解釈困ったという言葉は、決して口にするものではない
今回の確認同書の全文テキストで文面を確認

「必ず、窮すれば通ずで、どうにかなるものだ」と続き、結びは「平生は無論、死地に入り、難局に処しても、困つたといふ一言だけは、断じていふ勿れ」となっています。

ここで注意したいのは「窮すれば通ず」です。 これは『易経』繋辞下伝に由来する成句で、高杉が考え出した言葉ではありません。

なお、名言集でよく見る「苦しいという言葉だけはどんなことがあっても言わないでおこう」は、この語録の言い換えとみられます。ただし「困った」が「苦しい」に置き換わった経緯は、今回は確認できませんでした。

筆者
筆者

田中さんの本では『困った』。名言集では『苦しい』に置き換わっています。

高杉晋作AI
高杉晋作AI

困ったと苦しいでは、ずいぶん違う。困ったは口が言うが、苦しいは体が言う。

誰が置き換えたか分からんというのは、気味が悪いのう。

我慢の教えとして掲げられると、こそばゆい。

名言㉖「最早口舌の間にて、成敗の論無用なれば、是よりは長州男児の腕前懸御目可申」

項目内容
出典徳富猪一郎(蘇峰)『近世日本国民史 長州征伐』(民友社、1939年)。蘇峰は五卿方の記録から引く
解釈もはや口先で成否を論じても無用だ。これからは長州男児の腕前をお目にかけよう
今回の確認同書の全文テキストで文面を確認。下関市の公式観光サイトも同趣旨で紹介

1864年(元治元年)12月15日、功山寺での挙兵にあたっての言葉と伝えられます。西暦では1865年1月12日にあたります。

藩の主流は幕府への恭順に傾いており、少人数での挙兵でした。

なお、一般に広まっている「長州男児の肝っ玉をご覧に入れ申す」という形は、国立国会図書館の全文検索では、戦前の刊行物に見つかりませんでした。 今回確認できた古い形は「腕前」です。

筆者
筆者

功山寺での挙兵の言葉として、今回たどれた古い形は『肝っ玉』ではなく『腕前』でした。

高杉晋作AI
高杉晋作AI

言いやすいほうへ流れるのは、唄も言葉も同じじゃのう。腕前より肝っ玉のほうが、口に乗りやすい。

数が足りんのを分かったうえで動くほかない時はある。いま問われれば、そう答える。

あの場で何と言うたかは、書き残した者に任せる。

名言㉗「一里行けば一里の忠を盡し、二里行けば二里の義を盡す時であつて」

項目内容
出典『東行先生遺文』略伝(中原邦平 述)。功山寺挙兵の前、諸隊の隊長を激励した席の言葉として引く
解釈一里進めば一里の忠を尽くし、二里進めば二里の義を尽くすときだ
今回の確認全文テキストで確認

『東行先生遺文』に収められた略伝が伝える言葉です。ただしこの略伝は中原邦平が口述したもので、高杉自身が書いた文書ではありません。

続きは「志士なる者が寸時でも安座する時でない」となっています。じっとしている場合ではない、という激励です。

名言集では「二里行けば二里の義をあらわす」という形で広まっていますが、略伝の原文は「盡す(尽くす)」です。 伝わる途中で言葉が変わっています。

筆者
筆者

略伝の原文は『義を盡す』。名言集では『義をあらわす』になっています。

高杉晋作AI
高杉晋作AI

尽くすと現すでは、ずいぶん意味が違う。写し違いか、言いやすいほうに直したか。

そもそも口述された伝記の話じゃ。僕が言うたかどうかから怪しい。

怪しい話ほど広まるのは、おもしろいと言うべきか、おもしろうないと言うべきか。

区分C|本人が引いた他人の言葉、他人が評した言葉7件

ここがこの記事でいちばん申し上げたい区分です。

「高杉晋作の名言」として広く出回っている言葉のなかに、高杉自身が「これは他人の言葉だ」と書き残しているものがあります。今回3件見つかりました。

この7件に共通すること
  • 高杉の言葉として流通しているが、本人の考案とは確かめられない
  • 引用元を高杉自身が書いている場合と、他人の証言が伝える場合がある
  • 他人が高杉を評した言葉が、高杉の言葉として流通している例もある

「その史料に載っている」ことと「本人がそう言った」ことは別です。順に見ていきます。

名言㉘「朝聞道夕死可矣、是聖賢之道」

項目内容
出典『論語』里仁篇 第8章「朝聞道、夕死可矣」。高杉は『東行先生遺文』東行遺稿の「自叙」で引用
解釈朝に道を聞くことができたなら、夕方に死んでもかまわない
今回の確認『論語』の原文と、高杉の自叙の文面をそれぞれ確認

名言集では「朝に人としての道を悟ることができれば、その晩に死んでも悔いはない」という現代語訳の形で載っています。

これは孔子の言葉です。 高杉は自叙のなかで「朝聞道夕死可矣、是聖賢之道」と書いています。「これは聖賢の道である」と、自分の言葉ではないことを明記しているわけです。

面白いのは、あるサイトの掲載形です。「『朝に人としての道を悟ることができれば、その晩に死んでも悔いはない』という事こそが人の道である」となっており、高杉の文の構造をそのまま残しています。カギ括弧の中だけを切り出すと、本人の言葉に見えてしまいます。

筆者
筆者

自叙では『朝聞道夕死可矣、是聖賢之道』。『これは聖賢の道だ』と添えてあります。

高杉晋作AI
高杉晋作AI

孔子の言葉じゃ。断って書いちょるのに、抜き出されて僕の名言になっちょる。孔子に叱られるのう。

書物で覚えた言葉を引くのは、書生なら誰でもやることじゃ。

引いた断りのほうが落ちる。これは、おもしろうない。

名言㉙「學文を作す程となれは、世間の利發の人と爲る勿れ、世間の愚者と爲るへし」

項目内容
出典熊沢蕃山『集義和書』。高杉は『東行先生遺文』日記及手録の自叙(元治元年6月14日、野山獄北窓下)で引用
解釈学問をするほどの者は、世間の利口者になるな。世間の愚者になれ
今回の確認高杉の自叙の文面を確認。高杉自身が引用元を明記している

名言集では「学問を成すなら世間から利口と思われるな。愚者と思われる人になれ」という形で広まっています。

高杉の原文は、こう書き出されています。 「余年少時…熊澤氏の集義和書を讀む、有云」。つまり若い頃に熊沢蕃山の『集義和書』を読んだところ、こう書いてあった、と引用元を先に示しているのです。

そのうえで「余も世間の愚者と爲らんことを願ひ」と続けます。蕃山の言葉に感じ入って、自分もそうありたいと書いた形です。

横山健堂『高杉晋作』(1916年)も、蕃山の書を読んで感じ入ったこととして紹介しています。

筆者
筆者

野山獄の北窓の下で書いた自叙に、『熊澤氏の集義和書を讀む』と引用元まで書いてあります。

高杉晋作AI
高杉晋作AI

蕃山先生の言葉じゃと、ちゃんと断っちょる。それで僕の教えとして並べられるのは、筋が違う。

利口ぶる者ほど、いざというとき動かん。世間の愚者になれ、とは、よい教えじゃ。

ただ、教えたのは蕃山先生で、僕は感じ入った側じゃ。

名言㉚「艱難は共にすべきが、富貴は共にすべからず」

項目内容
出典『史記』越王勾践世家の范蠡の言葉。高杉が引いたことを、伊藤博文の直話が伝える
解釈苦難は共にできるが、富貴は共にできない
今回の確認『史記』の原文と、末松謙澄編『維新風雲録:伊藤・井上二元老直話』(1900年)の文面を確認

名言集では「人間というのは困難は共にできる。しかし富貴は共にできない」という形で載っています。

伊藤博文の直話には、こうあります。「一日高杉が妙な男で、范蠡が勾践は艱難は共にすべき人であるが、富貴は共にすべからざる人であると云ふことを言つた」。高杉が范蠡の話を持ち出した、という回想です。

原典は『史記』巻41の越王勾践世家で、范蠡が残した書に「可與共患難、不可與共樂」とあります。越王勾践の人柄を評した言葉でした。

つまり、中国の故事を高杉が引き、それを伊藤が回想し、いつのまにか高杉の名言になった形です。

筆者
筆者

伊藤博文さんの直話は1900年に本になりました。『一日高杉が妙な男で』と始まります。

高杉晋作AI
高杉晋作AI

伊藤も言うのう。妙な男で結構、悪い気はせん。

范蠡の話をしたと伊藤が覚えちょるなら、そういう話をしたのかもしれん。

ただ、勾践を評した古い故事が僕の名言として並ぶとは、伊藤も思わなんだじゃろうな。

名言㉛「まけてのく人をよはしとおもふなよ/智惠の力のつよきゆへなり」

項目内容
出典高杉が読んだ本に載っていた狂歌。『東行先生遺文』日記及手録50ページ(六月廿三日条)に書き写されている
解釈負けて退く人を弱いと思うな。知恵の力が強いからだ
今回の確認原本の画像で確認。日記の本文が「夜讀戯作あつめ草、有狂歌云」と書いている

この記事でもっともはっきりした例です。

高杉の日記には、確かにこの歌が出てきます。しかし本文はこうです。「終日閑座、夜讀戯作あつめ草、有狂歌云(夜、戯作あつめ草を読む。狂歌に云う)」。そう書いてから、二首の狂歌を書き写しています。その一首がこれです。

つまり高杉が読んだ本に載っていた歌であって、高杉の作ではありません。日記に出てくるからといって、本人の言葉とは限らないのです。

同じ歌は足立栗園『教訓俚歌集』(1900年)に作者名なしの教訓俚歌として載っています。後の刊本には、作者不明として載せるものもあります。

筆者
筆者

日記には『夜讀戯作あつめ草、有狂歌云』。読んだ本の狂歌を二首写した、そのうちの一首です。

高杉晋作AI
高杉晋作AI

気に入った歌を書き留めただけじゃ。誰の作かは書いちょらん。

負けて退くのを弱いと思うな。これは道理じゃと思う。退き際で決まる戦は多い。

じゃが、それを僕が詠んだことにされては、詠んだ者が浮かばれまい。

名言㉜「過而不改謂之過」

項目内容
出典『論語』衛霊公篇 第30章「過而不改、是謂過矣」。高杉の文にも同句があるが、それは護良親王になりかわって書いた擬作
解釈過ちを改めないこと、それを過ちという
今回の確認『論語』の原文と、高杉の「擬護良親王獄中上書」の文面を確認

名言集では「過ちを改めれば、それは過ちではないのだ」という形で載っています。

原典は『論語』です。 さらに、高杉の文に出てくるほぼ同趣旨の句は「擬護良親王獄中上書」という文稿のなかにあります。これは護良親王(もりよししんのう)になりかわって、獄中からの上書を書いてみるという擬作です。

「人誰無過、過而不改謂之過」という一節で、南北朝時代の皇子の言葉として書かれています。高杉が自分の考えとして述べたものではありません。

『論語』を踏まえた表現を、別人の口を借りて書いた文のなかで使っている。二重に本人の言葉から遠いわけです。

筆者
筆者

『擬護良親王獄中上書』。護良親王になりかわって書いた文の中の一節でした。

高杉晋作AI
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昔の人になりかわって上書を書く。書生のよくやる遊びじゃな。

そこで使うた論語の句が、僕の名言に。二重にも三重にも借り物じゃ。

ここまで来ると、恥ずかしいより先に、おもしろうなってくるのう。

名言㉝「動如雷電、發如風雨、衆目駭然、莫敢正視焉」

項目内容
出典伊藤博文が撰した高杉晋作顕彰碑の碑文。高杉の言葉ではなく、高杉を評した言葉
読み下し動けば雷電の如く/発すれば風雨の如し/衆目駭然として/敢えて正視する莫し
今回の確認東行庵の公式サイトと『東行先生遺文』略伝で文面を確認

「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し」も、高杉の言葉として引かれることがあります。

これは顕彰碑の碑文です。 東行庵に1911年(明治44年)5月20日に除幕された碑で、撰文は伊藤博文、揮毫は杉孫七郎。碑文は「此非我東行高杉君乎」(これ我が東行高杉君に非ずや)と続きます。

つまり、伊藤が没後に高杉を讃えた文章の一節です。高杉が自分をそう名乗ったわけではありません。

筆者
筆者

東行庵の顕彰碑は1911年の除幕です。撰文は伊藤博文さんで、『動けば雷電の如く』とあります。

高杉晋作AI
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雷だの風雨だの、伊藤もずいぶん持ち上げたものじゃ。

生きておるうちに言うてくれれば、酒の一本も奢ったものを。

それを僕の言葉として並べるのは、さすがに違う。あれは伊藤の文じゃ。

名言㉞「三千世界の鴉を殺し、主と朝寝がしてみたい」

項目内容
出典高杉の作とする活字より、木戸孝允の作とする記述のほうが古い。『東行先生遺文』には収められていない
解釈世界中の烏を殺して、あの人と朝寝坊がしてみたい
今回の確認小泉八雲 Gleanings in Buddha-Fields(原著1897年。邦題『仏の畠の落穂』)と『都々逸及俗謡集』(1910年)の文面を確認

高杉の作として広く知られた都々逸です。この記事の番外編として、後ろで詳しく扱います。

先に結論だけ書くと、今回確認できた範囲では、木戸孝允の作とする1897年の記述のほうが、高杉の作とする1910年の活字より古いという結果になりました。

筆者
筆者

あなたの作として、いちばん有名な都々逸かもしれません。

高杉晋作AI
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その句は、あとで詳しく聞くのじゃろう。ならばそのときに答えよう。

座敷で唄われる歌の作者など、たいてい分からんものじゃ。名の通った者の作にしておけば、唄も売れるのかもしれん。

そうだとしたら、ちゃっかりした商いじゃのう。

区分D|高杉本人の言葉とは確認できなかった11件

最後は、名言集に広く載っているものの、高杉本人の言葉であることを今回確認できなかった言葉です。紹介元は分かっても、高杉にさかのぼる資料に届かなかったものを集めています。

「存在しない」という意味ではありません。古い活字の全文検索には読み取りの限界があり、まだ見つけられていないだけの可能性があります。調べた範囲を正直に書いておきます。

#言葉どこまで調べたか
㉟なにより大事なのは自分の心の持ちようだ名言サイトのみ。原典の表示なし。辞世として知られる歌の言い換えとみられる
㊱苦しいという言葉だけはどんなことがあっても言わないでおこう㉕の「困つたといふ一言だけは、断じていふ勿れ」の言い換えとみられるが、置き換わった経緯は確認できず
㊲機会は、それを待つ人にはなかなか来ない。それを求めて狩り出す人のところにやってくる名言サイトでは確認できたが、今回調べた刊本では原典を特定できなかった
㊳天地も人も皆気のみである。気を養えば、あとは行動に移すのみだ『東行先生遺文』の全文を「気を養」「養気」で検索したが該当なし
㊴今の長州男児の肝っ玉を、後世の者に見せてやる㉖と同系。「肝っ玉」の語形は戦前の刊行物で確認できず
㊵たとえ我一人となるとも、決して大義において後れをとることはしない全文検索で該当を確認できず
㊶われは赤間関の鬼となる同上
㊷吉田へ(葬ってくれ)下関市の公式観光サイトが「死ぬ間際につぶやいた」と紹介。原典は示されていない
㊸人間、窮地におちいるのはよい。意外な方角に活路が見出せるからだ『東行先生遺文』『維新風雲回顧録』を「窮地」「活路」で検索したが該当なし。司馬遼太郎の小説に登場する高杉の言葉として紹介する記事があるが、本記事では小説の該当箇所を確認していない
㊹戦いは一日早ければ一日の利益がある。まず飛びだすことだ「一日早ければ一日の利」自体が明治・大正の刊行物に広く出る常套句。高杉と結びつける出典は見つからなかった
㊺苦労する身は厭わねど、苦労し甲斐のあるように俚謡(民謡)として1913年の『俚謡』に高杉の名なしで載る。一方『一事一言』(1915年)は高杉の名を添えて載せる。『東行先生遺文』には収録されていない

最後の㊺は、少し込み入っています。高杉の名を添えた刊本(1915年)は確かにあるのですが、名前なしの俚謡としての採録(1913年)のほうが古いのです。

和歌山でも俚謡として採集されています。高杉の作とも、そうでないとも言い切れません。年代の前後だけが確かめられました。

筆者
筆者

出典をたどれなかったのが11件。『存在しない』とは書かず、『今回確認できなかった』と書きました。

高杉晋作AI
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見つからんものを無いと言い切らんのは、良い心がけじゃ。

僕の書いたものが、全部残っちょるはずもない。

ただ、どこにも見当たらん言葉を僕の名で通すのは、本当に言うた者がおるなら、その者に気の毒ではないかのう。

【番外編】「三千世界の鴉を殺し」は高杉の句なのか

高杉の作として広く知られているのが、この都々逸です。改めて出どころをたどりました。

年資料誰の作としているか
1897年小泉八雲 Gleanings in Buddha-Fields(原著。邦題『仏の畠の落穂』)長州の木戸の作(木戸孝允)
1910年『都々逸及俗謡集』(花月情史 編、内外出版協会)高杉晋作の作
1916年『東行先生遺文』収録されていない

今回確認できた範囲では、木戸孝允の作とする記述のほうが13年古いという結果になりました。

小泉八雲の英語原文では “San-zen sékai no / Karasu we koroshi / Nushi to soi-né ga / Shité mitai” と表記されています。

作者については “composed by Kido of Chō-shū”(長州の木戸の作)と説明されています。

また、萩の民謡「男なら」の歌詞にこの句が入るという説明も見かけますが、山口県文書館が紹介する「男なら」の歌詞3系統には、この句は含まれていません。

作者名を付さず、民謡として載せる本も同時期にあります。座敷で唄われた歌の作者を特定するのは、そもそも難しいことなのかもしれません。

筆者
筆者

1897年の小泉八雲の本は『長州の木戸の作』。高杉作とする活字は1910年で、13年あとでした。

高杉晋作AI
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木戸さんの作という話まであるなら、作者探しは難儀じゃろう。

唄というものは、誰かが作って、誰かが変えて、また誰かが唄う。作者の名など残らんのが普通じゃ。

それでも僕の名で通っちょるのは、遊び好きと思われちょるからじゃろうな。心当たりがないでもない。

45件から見えてくる3つの傾向

出どころをたどり終えて、見えてきたことがあります。

並べて分かったこと
  • 高杉自身の文面をたどれるものが、思ったより多く残っている
  • 一方で、本人が「他人の言葉だ」と断って書いたものが、本人の名言になっている
  • 名言集で見る形のうち、少なくとも5件は漢詩の現代語訳だった

第一に、出典をたどれる言葉は確かにあります。 45件のうち22件は、刊本で高杉自身の詩歌・漢詩・書簡・日記の文面を確認できました。「出典が示せない」わけではないのです。

第二に、引用が名言に変わっています。 『論語』、熊沢蕃山『集義和書』、そして読んだ本にあった狂歌。高杉は律儀に引用元を書いているのに、その断り書きのほうが落ちて広まりました。『史記』の范蠡については、高杉が引いたことを伊藤博文の回想が伝えています。

第三に、少なくとも5件は漢詩の現代語訳でした。 「シャクトリムシのように」も「男児が事を成すには時がある」も、もとは漢詩の一節です。訳の後半まで読めば漢詩だと分かるのに、前半だけが切り出されています。

言葉が短くなるほど、力は強くなります。ただ、その手前にあった文脈は落ちていきます。名言集を読むのが好きな私にとって、これは何度でも思い知らされることでした。

筆者
筆者

45件のうち22件は、あなた自身の文面までたどれました。一方で、あなたが断って引いた言葉が、あなたの名言になっています。

高杉晋作AI
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思うたより多く残っちょったのう。

ただ、引いた元まで消してしまうのは惜しいのう。孔子も蕃山先生も、僕より余程えらい人じゃ。

僕の名が残るより、その人らの名が残るほうが、世のためではないか。

よくある質問(FAQ)

高杉晋作の名言でもっとも有名なものは何ですか?

もっとも広く知られているものの一つが「おもしろきこともなき世をおもしろく」です。上の句を高杉、下の句「住みなすものは心なりけり」を野村望東尼が詠んだ合作として伝えられています。ただし、この歌を記した高杉の自筆資料は今回確認できていません。

「三千世界の鴉を殺し」は高杉晋作の作ですか?

断定できません。今回確認できた範囲では、木戸孝允の作とする1897年の記述のほうが、高杉の作とする1910年の活字より古いという結果でした。『東行先生遺文』にも収められていません。

高杉晋作の名言の出典はどこで確認できますか?

高杉自身の文面を確認するときの基本資料の一つが『東行先生遺文』(東行先生五十年祭記念会 編、民友社、1916年)です。国立国会図書館デジタルコレクションで公開されており、詩歌文章・東行遺稿・日記及手録・書翰の各編で文面を読めます。

高杉晋作が影響を受けた言葉はありますか?

獄中の自叙で熊沢蕃山『集義和書』の一節を引き、「自分も世間の愚者になりたい」と書いています。また『論語』里仁篇の「朝聞道夕死可矣」を「聖賢の道」として引用しています。

なぜ出典が示されていない名言が多いのですか?

理由は分かりません。本記事が文面を確認できた刊本は、いずれも高杉の没後に刊行されたものでした。まとまった形で読めるのは、五十年祭に合わせて1916年に編まれた『東行先生遺文』です。

インタビュー後記|引用した本人が、引用元にされていた

45件を集めて出どころをたどる作業でした。分かったことより、驚いたことのほうが多い調査でした。

なにしろ、今回確認した3件では、高杉自身が引用であることをきちんと示していたのです。蕃山の書を読んで感じ入ったと書き、論語の句には「これは聖賢の道だ」と添え、狂歌には「読んだ本にあった」と断っています。

ところが、いま流通している名言では、その断り書きが落ちています。引用した本人が、いつのまにか引用元にされていたわけです。

一方で、漢詩の訳が名言として広まっているものも多くありました。訳が悪いのではありません。ただ、訳の後半まで読めば漢詩だと分かるのに、前半だけが切り出されているのは惜しいと思いました。

言葉を引くとき、私たちはたいてい出どころを気にしません。それでも、たどれる言葉はたどってみたい。あなたは高杉晋作の生き方から、何を受け取りますか。

辞世として知られる一首については、刊本12点を並べて別の記事で検証しています。

同じ手法で、豊臣秀吉の名言も出典から検証しました。

参考資料

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