幕末の志士の名言をたどるのが趣味なのですが、高杉晋作のページを開くたびに引っかかることがあります。言葉はいくらでも出てくるのに、それがどこに書いてあるのかが、どこにも書いていないのです。
2026年9月、「高杉晋作 名言」で上位に並ぶ4つのサイトを実際に開いて数えました。多いところで35件。ところが4サイトとも、出典を1件も示していませんでした。
そこで、並んでいる言葉を一つずつ国立国会図書館のデジタルコレクションで当たってみました。すると、妙なことに気づきます。
この記事の結論
「高杉晋作の名言」として出回っている言葉のなかに、高杉自身が「これは他人の言葉だ」と書き残しているものが3件ありました。
たとえば「負けて退く人をよわしと思うなよ」。高杉の日記には確かにこの歌が出てきます。ただし本文は「夜、戯作あつめ草を読む。狂歌に云う」と書いてから、この歌を写しているのです。読んだ本に載っていた歌でした。
- 22件
刊本で高杉自身の文面を確認 - 5件
伝記・回想が伝える発言 - 7件
他人の言葉・古典、または高杉を評した言葉 - 11件
高杉本人の言葉とは確認できず
同じことが、あと2件あります。「学問を成すなら世間から利口と思われるな」は熊沢蕃山『集義和書』からの引用で、高杉自身が引用元を書いています。「朝に人としての道を悟ることができれば」は『論語』里仁篇です。
この記事では45件を集めて、出どころを一つずつたどりました。確かめられた度合いで4つに分けています。聞き手として、高杉晋作AI(高杉晋作をモデルにしたAI)にも登場してもらいました。
※以下の高杉晋作AIの発言部分は、公開されている史料をもとに高杉晋作の人物像を再現した創作です。実際の発言をそのまま掲載したものではありません。掲載する言葉は、刊本で文面を確認できたものと、確認できなかったものを分けて書いています。自筆原本を確認したものは一件もありません。

幕末の志士のなかでも、あなたの言葉はよく引かれています。今日はその一つひとつを、どこに書いてあるかまで確かめながらうかがいます。よろしくお願いします。

ほう、物好きなことじゃのう。僕の書き散らしたものを、わざわざ数えて回るとは。
断っておくが、僕は名文を残すつもりで筆をとったことはない。腹が立てば詩にし、退屈すれば歌にした。それだけのことじゃ。
まあ、付き合おう。ただし、覚えのないものまで引き受ける気はないぞ。
- 高杉晋作の言葉を読む前に|どんな人物だったか
- 高杉の名言は、どこまで本人の言葉なのか|出典の4区分
- 区分A|刊本で高杉自身の文面を確認できた22件
- 名言①「面白き事もなき世にをもしろく/住なすものはこゝろなりけり」
- 名言②「西へ行く人を慕ひて東行く/心の底ぞ神や知るらむ」
- 名言③「吾すれば人もするかと思ひきに/人々ぞなき人の世の中」
- 名言④「弔むらわるる人に入るべき身なりしに/弔むらう人となるぞはづかし」
- 名言⑤「おくれてもおくれても又君たちに/誓ひし言を吾忘れめや」
- 名言⑥「人は人吾は吾なり山の奧に棲てこそしれ世乃浮沈」
- 名言⑦「里人の知らぬも宜や谷間なる/深き淵瀨に潜む心を」
- 名言⑧「白菊の咲榮ぬる御世なれは/取る杯も快き哉」
- 名言⑨「死たなら釋迦と孔子に追付て/道の奥義を尋んとこそ思へ」
- 名言⑩「雪折れし松にとがこそなかりけり/栽にし人の報とぞ知る」
- 名言⑪「志々猿を友とし遊る山人も/三絃の糸を聞く耳はわり」
- 名言⑫「親も妻も遺して独り伊勢参り」
- 名言⑬「灯火の影細く見る今宵かな」
- 名言⑭「内憂外患迫吾洲、正是邦家存亡秋、將立回天回運策、捨親捨子亦何悲」
- 名言⑮「内憂外患迫吾州、正是存亡危急秋、唯爲邦君爲家國、焦心碎骨又何愁」
- 名言⑯「半生事業與心違、空被愁情促客衣、愧殺篷窓孤枕上、夢魂獨向故園飛」
- 名言⑰「誰言樂裡還生苦、知是眞娯在苦中」
- 名言⑱「蠖屈龍伸丈夫志、作奴爲僕又何辭」
- 名言⑲「偸生決死任時宜、不患世人論是非」
- 名言⑳「爲國破家家亦輕、不辭世上喚狂生」
- 名言㉑「詩酒悠悠宜送日、男兒成事豈無時、任他市井呼游俠、一片丹心未敢差」
- 名言㉒「人は不忘舊か義の初と奉存候」
- 区分B|伝記や回想が伝える発言5件
- 区分C|本人が引いた他人の言葉、他人が評した言葉7件
- 区分D|高杉本人の言葉とは確認できなかった11件
- 【番外編】「三千世界の鴉を殺し」は高杉の句なのか
- 45件から見えてくる3つの傾向
- よくある質問(FAQ)
- インタビュー後記|引用した本人が、引用元にされていた
- 参考資料
高杉晋作の言葉を読む前に|どんな人物だったか
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 名前 | 高杉晋作(たかすぎ しんさく)。名は春風、字は暢夫、号は東行 |
| 生没年 | 1839年9月27日(天保10年8月20日)〜1867年5月17日。満27歳、数えでは29歳 |
| 出身 | 萩城下・菊屋横町(現在の山口県萩市南古萩町) |
| 家 | 萩藩の大組士・高杉小忠太の長男。家禄は150石とする資料と200石とする資料がある |
| 主な事績 | 奇兵隊の結成、四国連合艦隊との講和交渉、功山寺での挙兵 |
高杉は1857年(安政4年)に松下村塾へ入り、吉田松陰に学びました。1863年(文久3年)には下関で奇兵隊を結成しています。
没日は、一般には慶応3年4月14日(1867年5月17日)を命日とします。一方、4月13日深夜に死去したとする資料もあります。
言葉を読むうえで大きいのは、満27歳で亡くなったことです。 自分で著作をまとめる機会がないまま世を去りました。
今回文面を確認した刊本は、いずれも没後に刊行されたものです。まとまった形で読めるのは、高杉の五十年祭に合わせて1916年(大正5年)に編まれた『東行先生遺文』になります。

ご自分の書いたものが、後の世で一冊にまとめられました。

そなたらの世の話じゃな。僕の知らぬところで、そんなことになっちょるのか。
書き散らしたものを集められるというのは、面はゆいものじゃのう。人に見せるつもりのない走り書きもあったはずじゃ。
まあ、集めた者の物好きに免じて、文句は言うまい。
高杉の名言は、どこまで本人の言葉なのか|出典の4区分
45件を、確かめられた度合いで4つに分けました。区分の名前は、この記事が実際に何をどこまで確認したかに合わせています。
| 区分 | 内容 | 件数 |
|---|---|---|
| A | 刊本で高杉自身の文面を確認できたもの(詩歌・漢詩・書簡・日記) | 22件 |
| B | 伝記や回想が「高杉の発言」として伝えるもの。本人の文書ではない | 5件 |
| C | 本人が引いた他人の言葉・古典、他人の作、または他人が高杉を評した言葉 | 7件 |
| D | 広く知られるが、高杉本人の言葉であることを今回確認できなかったもの | 11件 |
自筆の原本を確認したものは、一件もありません。 区分Aの「確認した」は、あくまで刊本(活字になった本)で文面を読んだという意味です。
多くは『東行先生遺文』(東行先生五十年祭記念会 編、民友社、1916年)に拠っています。高杉の五十年祭に合わせて編まれた本です。
略系・年譜・書翰・日記及手録・詩歌文章・東行遺稿・略傳の順に編まれており、詩歌と漢詩はここでまとめて読めます。
45件を一覧で
先に全体を並べておきます。詳しい解説は、この後で1件ずつ扱います。
| # | 言葉 | 区分 | 出典の要点 |
|---|---|---|---|
| ① | 面白き事もなき世にをもしろく | A | 『東行先生遺文』詩歌文章。原本画像で確認 |
| ② | 西へ行く人を慕ひて東行く | A | 同・詩歌文章。号「東行」の由来 |
| ③ | 吾すれば人もするかと思ひきに | A | 同。文久3年3月26日 |
| ④ | 弔むらわるる人に入るべき身なりしに | A | 同。招魂場の祭事 |
| ⑤ | おくれてもおくれても又君たちに | A | 同。東行庵に歌碑 |
| ⑥ | 人は人吾は吾なり | A | 同。原本画像で確認 |
| ⑦ | 里人の知らぬも宜や | A | 同。原本画像で確認 |
| ⑧ | 白菊の咲榮ぬる御世なれは | A | 同。重陽の節句 |
| ⑨ | 死たなら釋迦と孔子に追付て | A | 同。詞書「余り病の烈しければ」 |
| ⑩ | 雪折れし松にとがこそなかりけり | A | 同。詞書「雪中松」 |
| ⑪ | 志々猿を友とし遊る山人も | A | 同。三味線を詠む |
| ⑫ | 親も妻も遺して独り伊勢参り | A | 同。文久2年8月の俳句 |
| ⑬ | 灯火の影細く見る今宵かな | A | 同。元治元年10月27日 |
| ⑭ | 内憂外患迫吾洲(題焦心錄) | A | 日記及手録。東行庵に詩碑 |
| ⑮ | 内憂外患迫吾州(題焦心錄後) | A | 東行遺稿。後篇にあたる |
| ⑯ | 半生事業與心違 | A | 東行遺稿。文久3年4月1日 |
| ⑰ | 誰言樂裡還生苦 | A | 日記及手録。野山獄中 |
| ⑱ | 蠖屈龍伸丈夫志 | A | 東行遺稿。比喩の原典は『易経』 |
| ⑲ | 偸生決死任時宜 | A | 野山獄中日記。松陰の言葉を承ける |
| ⑳ | 爲國破家家亦輕 | A | 野山獄中日記。元治元年5月6日 |
| ㉑ | 詩酒悠悠宜送日、男兒成事豈無時 | A | 東行遺稿「次悠悠道人韻」 |
| ㉒ | 人は不忘舊か義の初 | A | 書翰。田中顕助あて |
| ㉓ | 死すべき時に死し、生くべき時に生くる | B | 田中光顕『維新風雲回顧録』 |
| ㉔ | 凡そ、英雄といふものは | B | 同書 |
| ㉕ | 男子といふものは、困つたといふ事は | B | 同書 |
| ㉖ | 長州男児の腕前懸御目可申 | B | 徳富蘇峰『近世日本国民史 長州征伐』 |
| ㉗ | 一里行けば一里の忠を盡し | B | 『東行先生遺文』略伝(中原邦平 述) |
| ㉘ | 朝聞道夕死可矣 | C | 『論語』里仁篇。高杉が引用 |
| ㉙ | 學文を作す程となれは | C | 熊沢蕃山『集義和書』。高杉が引用 |
| ㉚ | 艱難は共にすべきが、富貴は共にすべからず | C | 『史記』范蠡。伊藤博文の回想が伝える |
| ㉛ | まけてのく人をよはしとおもふなよ | C | 高杉が日記に書き写した狂歌 |
| ㉜ | 過而不改謂之過 | C | 『論語』衛霊公篇。擬作のなかの一節 |
| ㉝ | 動如雷電、發如風雨 | C | 伊藤博文が撰した顕彰碑 |
| ㉞ | 三千世界の鴉を殺し | C | 木戸孝允の作とする記述のほうが古い |
| ㉟ | なにより大事なのは自分の心の持ちようだ | D | 名言サイトのみ |
| ㊱ | 苦しいという言葉だけは | D | ㉕の言い換えとみられる |
| ㊲ | 機会は、それを待つ人にはなかなか来ない | D | 刊本では原典を特定できず |
| ㊳ | 天地も人も皆気のみである | D | 全文検索で該当なし |
| ㊴ | 今の長州男児の肝っ玉を | D | ㉖と同系。語形は戦前の刊行物になし |
| ㊵ | たとえ我一人となるとも | D | 全文検索で該当なし |
| ㊶ | われは赤間関の鬼となる | D | 全文検索で該当なし |
| ㊷ | 吉田へ | D | 下関市の公式サイトが逸話として紹介 |
| ㊸ | 人間、窮地におちいるのはよい | D | 小説由来とする紹介あり。未確認 |
| ㊹ | 戦いは一日早ければ一日の利益がある | D | 当時の常套句。高杉との結びつき不明 |
| ㊺ | 苦労する身は厭わねど | D | 俚謡としての採録のほうが古い |

区分を4つに分けました。Cは、あなたが誰かの言葉を引いたものです。

なるほど、そこを分けたか。
書物を読めば気に入った一節は書き留める。人と話せば良いことを言う者の言葉も控える。当たり前のことじゃ。
それが僕の言葉として回っちょるとは、聞かねば分からぬままじゃったのう。
区分A|刊本で高杉自身の文面を確認できた22件
まず、『東行先生遺文』などの刊本で、高杉自身の詩歌・書簡・日記として文面を確認できた22件です。
- 国立国会図書館デジタルコレクションの『東行先生遺文』で、文面をそのまま読んだもの
- 詞書(ことばがき。歌の前に置かれた前書き)があるものは、いつ・どんな場面で詠まれたかも添えた
- ただし原本の画像まで開いたのは一部で、残りは全文テキストで読んでいる
- 全文テキストは機械読み取りのため、字に誤りが残っている可能性がある
漢字や仮名づかいは、刊本の表記をそのまま載せています。読みにくい箇所は解説で補いました。それでは1件ずつ見ていきます。
名言①「面白き事もなき世にをもしろく/住なすものはこゝろなりけり」
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 出典 | 『東行先生遺文』詩歌文章11ページ。詞書なし。上の句の下に「些々生」、下の句の下に「望東」の署名 |
| 解釈 | おもしろいことなど何もないこの世を、おもしろく |
| 今回の確認 | 原本の画像で確認。この歌を記した高杉の自筆資料は、今回確認できていない |
もっとも広く知られているものの一つです。上の句を高杉、下の句を野村望東尼が詠んだ合作として伝えられています。
ただし、この歌には論点が多くあります。「世に」と「世を」で表記が割れること、下の句の作者を今回さかのぼれたのが1893年(明治26年)の刊本までであること、臨終の作ではないとする研究が紹介されていること(本記事は原文を確認していません)。
別の記事で刊本12点を並べて検証したので、そちらをご覧ください。

この歌については、別の記事で刊本を並べて追いかけました。

ずいぶん熱心なことじゃのう。一首のために本を12冊も並べるとは。
そなたらの世の本では、上の句は僕の作ということになっちょるそうじゃな。あとの世で数えられるとは思うちょらんかった。
まあ、そういう物好きがおるから、言葉が残るのじゃろうな。
名言②「西へ行く人を慕ひて東行く/心の底ぞ神や知るらむ」
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 出典 | 『東行先生遺文』詩歌文章。詞書に「三月十五日…名を東行と曰ふ…乃ち国歌を賦して壁に書す」 |
| 解釈 | 西へ行く人を慕って東へ行く。その胸の底は神が知っているだろう |
| 今回の確認 | 全文テキストで確認 |
号「東行」の由来を語る歌です。1863年(文久3年)3月、剃髪して東行と名乗ったときに詠まれ、壁に書きつけられたと詞書にあります。
西行法師の名を踏まえた命名だと読まれることが多い一首です。西へ行くのが西行なら、自分は東へ行く、という言葉遊びとして説明されます。
ただし、この歌は同じ本の中で表記が食い違います。 詩歌文章は下の句を「心の底ぞ」とし、伝記部分は「我が心をば」とします。剃髪の日付も三月十五日と三月十六日で違います。

東行という号は、この歌から来ているのですね。

西へ行く僧の名にあやかって、こちらは東へ行く。それだけの思いつきじゃ。
髪を落として名を変えれば、少しは腹も据わろうと思うたのかもしれぬ。
大層な由来を期待されると困るのう。
名言③「吾すれば人もするかと思ひきに/人々ぞなき人の世の中」
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 出典 | 『東行先生遺文』詩歌文章。詞書「癸亥三月念六、京城を発す」=文久3年3月26日 |
| 解釈 | 自分がやれば人も続くと思っていたのに、続く人がいない世の中だ |
| 今回の確認 | 全文テキストで確認 |
詞書に日付が入っている、数少ない歌の一つです。1863年(文久3年)3月26日、京を発つときに詠まれました。
自分が動けば人も動くと思っていた、という失望が読み取れる歌です。ただし、このとき何があってこう詠んだのかまでは、詞書からは分かりません。
この歌は下関の東行庵に建つ合作歌碑の右側面にも刻まれています。碑では「人々そなき」と表記されています。

続く人がいない、と詠まれています。

そう書いたのなら、そのときはそう思うたのじゃろうな。
ここからは僕の勝手な物言いじゃが、人が動かぬのを嘆くのは、たいてい己の見通しが甘いときじゃ。
一人でも先に飛び出すほかない。そう思い直した覚えのある者は、僕だけではあるまい。
名言④「弔むらわるる人に入るべき身なりしに/弔むらう人となるぞはづかし」
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 出典 | 『東行先生遺文』詩歌文章。詞書「八月六日、招魂場祭事、奇兵隊諸士と之に謁す」 |
| 解釈 | 弔われる側に入るはずの身だったのに、弔う側になったのが恥ずかしい |
| 今回の確認 | 全文テキストで確認 |
招魂場(しょうこんじょう)は、戦死した同志を祭る場所です。桜山招魂社の祭事で、奇兵隊の隊士たちと参列したときの歌とされます。
生き残った側の負い目を詠んだ一首です。同志が次々に倒れていくなかで、自分が弔う側に立っていることへの居心地の悪さが出ています。
なお東行庵の紹介文では「弔むらわる人に…」と、活用が少し違う形で載っています。

弔う側になったのが恥ずかしい、と詠まれています。

先に逝った者の前に立つのは、どうにも据わりが悪いものじゃ。
手を合わせながら、なぜ自分がここにおるのかと思う。そういう気分は、歌にでもせねば収まらぬ。
もっとも、これも僕の勝手な物言いじゃ。歌に書いた以上のことは、僕にも言えぬ。
名言⑤「おくれてもおくれても又君たちに/誓ひし言を吾忘れめや」
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 出典 | 『東行先生遺文』詩歌文章。詞書「白石資興、尊攘の為に忠死せし御魂を祭る」 |
| 解釈 | 遅れても遅れても、君たちに誓った言葉を私が忘れるものか |
| 今回の確認 | 全文テキストで確認 |
先に死んだ同志への歌です。自分は遅れて生き残っているが、誓った言葉は忘れていない、という内容になっています。
この歌は東行庵の高杉東行歌碑に刻まれており、碑文は「誓ひしことをあに忘れめや」と、刊本と少し違う形です。 碑は1973年(昭和48年)4月14日の建立で、文字は曾孫の高杉勝によるものと紹介されています。
東行庵は、慶応元年8月6日の桜山招魂社鎮座祭の作としています。

遅れても、誓いは忘れない。前の歌と同じ場面のようです。

同じ場所で詠んだのかもしれぬな。僕にも覚えのないことじゃが。
死んだ者に向かって言えることなど、そう多くはない。忘れちょらんと言うくらいのものじゃ。
それを石に彫るというのは、そなたらの世も律儀なことよのう。
名言⑥「人は人吾は吾なり山の奧に棲てこそしれ世乃浮沈」
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 出典 | 『東行先生遺文』詩歌文章11ページ。詞書「山莊に入りて」 |
| 解釈 | 人は人、自分は自分。山奥に住んでこそ世の浮き沈みが分かる |
| 今回の確認 | 原本の画像で確認 |
辞世として知られる歌と同じページに載っている一首です。詞書は「山莊に入りて」とだけあります。
「人は人吾は吾なり」という上の句は、現代でもそのまま通じる言い回しです。ただし後半は、山奥に引きこもってこそ世間の動きが見える、という含みになっています。
高杉は1864年(元治元年)以降、たびたび身を隠しています。そうした時期の作とみることもできますが、詞書に年が入っていないため、いつの作かは特定できません。

人は人、自分は自分。今でもよく聞く言い方です。

そうか、今の世でも言うのか。
人に合わせて動いておっては、間に合わぬことがある。そう思うて書いたのじゃろうな。
ただ、山奥に籠もれば世が見えるというのは、少々気取りが過ぎたかもしれぬのう。
名言⑦「里人の知らぬも宜や谷間なる/深き淵瀨に潜む心を」
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 出典 | 『東行先生遺文』詩歌文章11ページ。詞書「有所感賦國歌」(感ずる所有りて国歌を賦す) |
| 解釈 | 里の人が知らないのももっともだ、谷間の深い淵に潜む心を |
| 今回の確認 | 原本の画像で確認 |
自分の考えが人に理解されないことを、谷底の淵にたとえた歌です。詞書の「有所感」は、思うところがあって詠んだ、という意味になります。
前の歌と同じ所蔵の一群に収められていますが、年は特定できません。

里の人には分からない、と詠まれています。

谷底の淵は、上から覗いても底が見えぬ。そういうものじゃと書いたまでのこと。
分かってもらえぬと嘆く暇があれば、動いたほうが早い。とはいえ、嘆きたい夜もあるものじゃ。
歌というのは、そのためにあるのではないか。
名言⑧「白菊の咲榮ぬる御世なれは/取る杯も快き哉」
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 出典 | 『東行先生遺文』詩歌文章11ページ。詞書「重九」(重陽の節句=9月9日) |
| 解釈 | 白菊が咲きさかる御代であるから、手に取る杯も心地よい |
| 今回の確認 | 原本の画像で確認 |
重陽の節句を詠んだ、めずらしく明るい一首です。重陽は菊の節句とも呼ばれ、菊を浮かべた酒を飲む習わしがありました。
高杉の歌は、憂いや焦りを詠んだものが多く残っています。そのなかで、この歌は素直に季節を楽しむ一首として読めます。
同じページに、辞世として知られる歌と、この祝いの歌が並んでいるわけです。編まれた本のなかでは、気分の違う歌が隣り合っています。

めずらしく、明るい歌ですね。

節句に杯を持てば、そういう歌にもなろう。
僕はいつも肩を怒らせちょったわけではない。酒も好けば、三味線も弾いた。
憂いた歌ばかり集められると、こちらも窮屈でかなわぬのう。
名言⑨「死たなら釋迦と孔子に追付て/道の奥義を尋んとこそ思へ」
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 出典 | 『東行先生遺文』詩歌文章12ページ。詞書「余り病の烈しければ」 |
| 解釈 | 死んだなら釈迦と孔子に追いついて、道の奥義を尋ねようと思う |
| 今回の確認 | 原本の画像で確認 |
詞書に「余り病の烈しければ」とあり、病が重かった時期の作と分かります。死んだら釈迦と孔子に会いに行って、教えの神髄を聞いてやろう、という歌です。
病が重かった時期の歌でありながら、湿っぽさがありません。あの世で釈迦や孔子に直接教えを尋ねようとする、豪快な書きぶりです。
なお後の刊本には「死んだなら釋迦と孔子に追つきて道の奥義を問はんとぞ思ふ」と、別の表記で載せるものもあります。伝わる形に幅があります。

病が重いときの歌なのに、明るい書き方です。

床に伏せっておっても、聞きたいことは尽きぬからのう。
釈迦にも孔子にも、面と向かって尋ねたいことがあった。死ねば会えるというなら、悪い話でもない。
ここからは僕の勝手な物言いじゃが、そう思うことにしておけば、寝ておるのも退屈せぬ。
名言⑩「雪折れし松にとがこそなかりけり/栽にし人の報とぞ知る」
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 出典 | 『東行先生遺文』詩歌文章12ページ。詞書「雪中松」 |
| 解釈 | 雪で折れた松に罪はない。植えた人の報いだと知る |
| 今回の確認 | 原本の画像で確認 |
雪の重みで折れた松を詠んだ歌です。折れたのは松のせいではなく、そこに植えた人の責任だ、という内容になっています。
何かの比喩として詠まれた可能性はありますが、詞書は「雪中松」とだけで、何をたとえたのかは書かれていません。読み手の解釈に委ねられる一首です。
責任の所在を、実行した側ではなく仕向けた側に見る。そう読むこともできます。

折れた松に罪はない、と詠まれています。

雪の日に庭を見ておれば、そういうことも思う。
何を指しちょるのかと聞かれても困るのう。歌はそう細かく仕込むものでもない。
ただ、折れた者を責めても始まらぬというのは、確かにそう思うちょった気がする。
名言⑪「志々猿を友とし遊る山人も/三絃の糸を聞く耳はわり」
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 出典 | 『東行先生遺文』詩歌文章12ページ。詞書「友人に誘れ市に出し日」 |
| 解釈 | 鹿や猿を友として遊ぶ山住まいの者も、三味線の音を聞く耳は持っている |
| 今回の確認 | 原本の画像で確認 |
友人に誘われて町に出た日の歌です。山に籠もっていた自分でも、三味線の音には耳が動く、という戯れの一首になっています。
高杉は三味線を好んだと伝えられます。この歌は、そうした一面が出た作です。
「三絃(さんげん)」は三味線のことで、「聞く耳はわり」は聞く耳は持っている、という意味に読めます。

山にいても三味線の音は気になる、と。

町に出れば、どこからか撥の音が聞こえてくる。あれを聞いて素通りできる者がおるか。
山に籠もる暮らしも悪くはないが、根が街の男じゃからのう。
志士は遊ばぬものと思われても困る。歌にまで残しちょるのじゃから、隠しようもない。
名言⑫「親も妻も遺して独り伊勢参り」
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 出典 | 『東行先生遺文』詩歌文章。詞書「壬戌八月、君命を受け…江戸に赴くとて誹歌一枝を賦す」=文久2年8月 |
| 解釈 | 親も妻も置いて、一人で伊勢参りに出る |
| 今回の確認 | 全文テキストで確認 |
1862年(文久2年)8月、藩命で江戸へ向かうときの句です。詞書に「誹歌(俳諧の歌)を賦す」とあり、俳句として詠まれています。
藩の用で江戸へ行くのに「伊勢参り」と言い換えているところに、軽口の味があります。この年、高杉は上海へも渡っています。
親も妻も置いていく、という言い方は、後ろめたさを笑いに変える書き方にも読めます。

江戸へ行くのを、伊勢参りと言い換えています。

藩の御用と書けば、句にならぬからのう。
家の者を置いて出るのは、いつも同じことじゃ。何度も繰り返せば、言い訳も軽くなる。
笑い事にしておかねば、出づらくなるというのもある。
名言⑬「灯火の影細く見る今宵かな」
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 出典 | 『東行先生遺文』詩歌文章。詞書「十月廿七日午後…断然脱走、奇隊の陣処に至る」=元治元年10月27日 |
| 解釈 | 灯火の影が細く見える今宵であることよ |
| 今回の確認 | 全文テキストで確認 |
1864年(元治元年)10月27日、藩を脱して奇兵隊の陣所へ向かった日の句です。このおよそ7週間後に、功山寺で挙兵しています。
大きな決断をした日の句が、灯火の影という小さなものを詠んでいます。決意も高揚も書かれていません。
詞書には「断然脱走」とあるのに、句は静かです。この落差が、この一句を印象深いものにしています。

大きな決断をした日に、灯火の句を詠まれています。

腹を決めた晩は、かえって静かなものじゃ。
陣所に着いて、灯りを見ておった。それだけの句じゃな。
勇ましい句を期待されても困る。そういうものは、あとの世が勝手に作ってくれるらしいからのう。
名言⑭「内憂外患迫吾洲、正是邦家存亡秋、將立回天回運策、捨親捨子亦何悲」
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 出典 | 『東行先生遺文』日記及手録(甲子残稿)。元治元年10月下旬の位置に置かれる。題は「題焦心錄」 |
| 読み下し | 内憂外患 吾が洲に迫る/正に是れ邦家存亡の秋(とき)/将に回天回運の策を立てんとす/親を捨て子を捨つるも亦た何ぞ悲しまん |
| 今回の確認 | 全文テキストで確認。東行庵の詩碑にも刻まれている |
高杉の漢詩のなかで、広く知られたものの一つです。国の内にも外にも危機が迫り、まさに国の存亡のときだ、と歌い出します。
後半の「捨親捨子亦何悲」は、親を捨て子を捨てても悲しむことはない、という激しい句です。 東行庵の詩碑は、これを24歳・元治元年(1864年)晩秋の作としています(満年齢では25歳)。
読み下しや訳し方には幅があります。ここに示した読み下しも、一つの読み方です。

親を捨て子を捨てても、と詠まれています。

詩というのは、勢いで書くところがあるからのう。
焦心録と題した通り、心を焦がしちょった時分の作じゃ。落ち着いて推敲した文ではない。
ここからは僕の勝手な物言いじゃが、家を捨てると書いた者ほど、家のことを考えちょるものかもしれぬ。
名言⑮「内憂外患迫吾州、正是存亡危急秋、唯爲邦君爲家國、焦心碎骨又何愁」
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 出典 | 『東行先生遺文』東行遺稿。題は「題焦心錄後」 |
| 読み下し | 内憂外患 吾が州に迫る/正に是れ存亡危急の秋/唯だ邦君の為 家国の為/心を焦がし骨を砕くも又た何ぞ愁えん |
| 今回の確認 | 全文テキストで確認 |
「題焦心録」には後篇があります。 前の一首とよく似ていますが、第2句以下が違います。
第1句はほぼ同じで「洲」が「州」になり、第2句は「邦家存亡」が「存亡危急」に変わります。後半は、主君のため国のためなら骨を砕いても愁うことはない、という内容です。
名言集で「題焦心録」として引かれるのはたいてい前篇のほうです。後篇があることまで示している資料は、今回調べた範囲では見当たりませんでした。

同じ題で、もう一首あったのですね。

一度書いて足りぬと思えば、また書く。それだけのことじゃ。
同じことを二度書くのは、たいてい腹の虫が収まっちょらんときじゃな。
後の一首まで読んでもらえるとは、思うちょらんかった。
名言⑯「半生事業與心違、空被愁情促客衣、愧殺篷窓孤枕上、夢魂獨向故園飛」
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 出典 | 『東行先生遺文』東行遺稿。詞書「四月朔旦、舟を室港に泊す、感有りて作る」=文久3年4月1日 |
| 読み下し | 半生の事業 心と違い/空しく愁情に客衣を促さる/愧殺す 篷窓 孤枕の上/夢魂 独り故園に向かって飛ぶ |
| 今回の確認 | 全文テキストで確認 |
1863年(文久3年)4月1日、周防の室津港に船を泊めた夜の作です。「半生の事業 心と違い」で始まります。
このとき高杉は満23歳です。 その若さで「半生の事業が思うようにいかない」と書いていることになります。
後半は、旅の船の窓で一人寝ながら、夢のなかの魂だけが故郷へ飛んでいく、という内容です。荒々しい詩の多い高杉のなかでは、静かな一首になっています。

満23歳で半生を振り返っておられます。

若い者ほど、半生などと大げさに言いたがるものじゃ。
船の上は退屈でのう。することもなく、思い出すのは国のことばかりじゃった。
今から思えば、まだ何も成しちょらん時分の話じゃな。
名言⑰「誰言樂裡還生苦、知是眞娯在苦中」
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 出典 | 『東行先生遺文』日記及手録。野山獄中の「投獄集」に収める |
| 読み下し | 誰か言う 楽裡に還って苦を生ずと/知る是れ真娯は苦中に在るを |
| 今回の確認 | 全文テキストで確認 |
野山獄に入れられていたときの詩です。楽しみのなかにかえって苦しみが生じると誰が言ったのか、本当の楽しみは苦しみのなかにあると知った、という内容になっています。
名言集で見かける「真の楽しみは苦しみの中にこそある」は、この2句の現代語訳とみられます。 原文には題も詞書もあり、獄中で書かれたことまで分かります。
同じ箇所に転結を改めた形も併記されており、「初知極樂無量界、却在辛途苦海中」となっています。推敲の跡が残っているわけです。

『真の楽しみは苦しみの中にこそある』の形で広まっています。

牢に入れられて、そうとでも思わねばやっていられぬ。それだけのことじゃ。
訳して並べられると、ずいぶん立派な教えのように聞こえるのう。
もとは獄の中の負け惜しみじゃと、断っておいてくれ。
名言⑱「蠖屈龍伸丈夫志、作奴爲僕又何辭」
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 出典 | 『東行先生遺文』東行遺稿「船中次野唯人韻」。元治元年11月2日、馬関を発した船中の作 |
| 読み下し | 蠖屈龍伸は丈夫の志/奴と作(な)り僕と為るも又た何ぞ辞せん |
| 今回の確認 | 全文テキストで確認。比喩の原典は『易経』繋辞下伝 |
名言集で「シャクトリムシのように身を屈するのも、いずれは龍のように伸びるためだ」という形で広まっている言葉の原文です。
「蠖屈龍伸(かくくつりょうしん)」は『易経』繋辞下伝に由来する言葉で、原文は「尺蠖之屈、以求信也。龍蛇之蟄、以存身也」となっています。尺取虫が身を屈めるのは伸びるためだ、という意味です。
つまり比喩そのものは古典から来ています。高杉はそれを踏まえて、奴僕になることも辞さない、と続けました。同じ2句は直後の詩にも重ねて出てきます。

シャクトリムシのたとえは、『易経』から来ているのですね。

書物で覚えた言い回しを使うたまでのことじゃ。目新しい思いつきではない。
筑前へ逃れる船の上での作じゃな。身を屈めておる時分に、屈むのも志のうちと書けば、少しは格好がつく。
それを僕の考え出した教えのように言われては、易経に申し訳が立たぬのう。
名言⑲「偸生決死任時宜、不患世人論是非」
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 出典 | 『東行先生遺文』日記及手録。野山獄中日記の四月十一日条(元治元年) |
| 読み下し | 偸生決死 時宜に任す/世人の是非を論ずるを患えず |
| 今回の確認 | 全文テキストで確認 |
「生きるか死ぬかは時機に任せよう」という形で広まっている言葉の原文です。生き延びるのも死を決するのも時宜に任せる、世間の是非の議論は気にしない、という内容になっています。
注目したいのは、同じ日の日記に、吉田松陰が江戸の獄から寄せた言葉が引かれていることです。「死生可置度外、雖高節如天祥、可偸生則偸生」と記されています。
死生は度外に置いてよい、文天祥のような高節の人であっても、生き延びられるなら生き延びよ、という趣旨です。師の言葉を承けた作と読めます。

同じ日に、松陰先生の言葉も書き留めておられます。

先生が獄から寄せてくださった言葉じゃ。忘れられるものではない。
死ぬのが立派で、生きるのが卑怯というものでもない。その言葉を書き留めたのは確かじゃ。どう受け止めたかまでは、日記には書いておらぬ。
東行遺稿のほうでは『任時機』と作っちょるらしいのう。どちらで書いたかは、僕にも判じがたい。
名言⑳「爲國破家家亦輕、不辭世上喚狂生」
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 出典 | 『東行先生遺文』日記及手録。野山獄中日記。前日の条から元治元年5月6日と分かる |
| 読み下し | 国の為に家を破るも家も亦た軽し/辞せず 世上の狂生と喚ぶを |
| 今回の確認 | 全文テキストで確認 |
「国のために家が潰れても、家などは軽いものである」という形で広まっている言葉の原文です。世間から狂生(気ちがい書生)と呼ばれることも辞さない、と続きます。
高杉は「西海一狂生」「東洋一狂生」といった号を使っています。自分を狂生と呼ぶことに、ある種の開き直りがあったとみることもできます。
日付が分かるのは、前日の条に「屈平以此日沒汨羅」(屈原はこの日に汨羅で没した)とあるためです。端午の5月5日を屈原の死と結びつける伝承を踏まえると、翌日の条は5月6日と読めます。

狂生と呼ばれても構わない、と書かれています。

まともな者のふりをしておっては、動けぬことがある。
狂うちょると言われるくらいでちょうどよい。号にまで使うちょったくらいじゃからのう。
もっとも、家の者にしてみれば、たまったものではなかったじゃろうな。
名言㉑「詩酒悠悠宜送日、男兒成事豈無時、任他市井呼游俠、一片丹心未敢差」
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 出典 | 『東行先生遺文』東行遺稿「次悠悠道人韻」。年次は今回の調査では特定できず |
| 読み下し | 詩酒悠悠 宜しく日を送るべし/男児事を成すに豈に時無からんや/他に任す 市井の游侠と呼ぶを/一片の丹心 未だ敢えて差(たが)わず |
| 今回の確認 | 全文テキストで確認 |
「男児が事を成すには時があるのだ」という形で広まっている言葉の原文です。
この一首は、流布している形と原文の対応がはっきり分かります。 名言集に載る全文は「男児が事を成すには時があるのだ。たとえ市井の侠客と呼ばれても、胸にある一片の素の心は全く変わっていない」というものです。
後半は「任他市井呼游俠、一片丹心未敢差」の2句と、そのまま対応しています。なお「丹心」は、ここでは「まごころ」「忠誠の心」ほどの意味です。
つまり、これは漢詩の現代語訳です。ただし多くの名言集は、前半だけを切り出して載せています。

訳の後半まで読むと、漢詩そのままだと分かります。

切り取られるのは仕方ないのう。四句もあれば長いと思われるのじゃろう。
ただ、詩は一句だけ抜けば意味が変わる。前の句があってこその後の句じゃ。
遊侠と呼ばれても構わぬという開き直りまで込みで、一つの詩じゃからな。
名言㉒「人は不忘舊か義の初と奉存候」
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 出典 | 『東行先生遺文』書翰。田中顕助(のちの田中光顕)あて書簡。所蔵表記は「伯爵田中光顯氏所藏」 |
| 解釈 | 人は旧(古くからの縁・旧知の人)を忘れないことが義の初めだと存じます |
| 今回の確認 | 全文テキストで確認。日付は特定できなかった |
「人は旧を忘れざるが義の初め」として広まっている言葉です。この記事で扱う45件のうち、高杉自身の書簡で文面を確認できた唯一の一件です。
宛先の田中顕助は、のちに宮内大臣となる田中光顕です。高杉の語録を伝えた人物でもあります。
なお、「故旧を忘れず」という発想は『論語』泰伯篇にも見えますが、この一文が古典の翻案なのかどうかは、今回の調査では確かめられませんでした。

書簡に残っている言葉です。

手紙は相手があって書くものじゃ。田中に何を頼んだのかまでは、いま思い出せぬがのう。
古い縁を忘れぬのが義の始まりというのは、そう突飛な考えでもあるまい。
誰かの受け売りかもしれぬ。そこは調べた者に任せるほかない。
区分B|伝記や回想が伝える発言5件
ここからは、高杉が書いたものではなく、後の時代に書かれた伝記や回想が「高杉の発言」として伝えている言葉です。
- 伝えているのは、いずれも高杉の没後に刊行された本である
- 語り手の記憶や立場が入るため、一字一句そのままとは限らない
- それでも「誰が、いつ、どの本で伝えたか」までは示せる
出典が示せる点で区分Dとは違いますが、本人の筆ではありません。その差を踏まえて読んでください。
名言㉓「死すべき時に死し、生くべき時に生くるは、英雄豪傑のなす処である」
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 出典 | 田中光顕『維新風雲回顧録』(大日本雄弁会講談社、1928年) |
| 解釈 | 死ぬべきときに死に、生きるべきときに生きるのが英雄豪傑のすることだ |
| 今回の確認 | 同書の全文テキストで文面を確認 |
高杉の語録として広く引かれる言葉です。続けて「両三年は、軽挙妄動せずして、専ら学問をするがよい、其の中には、英雄の死期が来るであらうから」と語ったと伝えられます。
伝えているのは田中光顕で、刊行は1928年。高杉の没後61年です。 田中は幕末に高杉と接した人物で、のちに宮内大臣になりました。
なお、この3件の語録の出典を『維新夜話』とする記述をよく見かけますが、その本の本文は今回確認できませんでした。 文面を確かめられたのは『維新風雲回顧録』のほうです。

田中光顕さんが、あなたの言葉として伝えています。

田中に宛てて手紙を書いた覚えはある。そのほかにどれほど言葉を交わしたかは、そなたらの世の本に聞いてくれ。
ただ、僕がそう言うたかどうかは、僕には確かめようがないのう。60年も経ってからの覚え書きじゃ。
人の記憶というのは、都合よく整うものじゃからな。
名言㉔「凡そ、英雄といふものは、変なき時は、非人乞食となつて潜れ」
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 出典 | 田中光顕『維新風雲回顧録』(1928年) |
| 解釈 | 英雄というものは、事の起こらないときは非人乞食となって身を潜めよ |
| 今回の確認 | 同書の全文テキストで文面を確認 |
続けて「変ある時に及んで、龍の如くに振舞はねばならない」と語ったと伝えられます。潜むときは徹底して潜み、動くときは一気に動け、という趣旨です。
高杉自身、たびたび身を隠しています。1864年(元治元年)には藩を脱して筑前へ逃れ、変名を使って過ごしました。その経験と重なる言葉ではあります。
ただし、これも田中の回想が伝える形です。高杉の文書に同じ表現があるかは、今回は確認できませんでした。

潜むときは徹底して潜め、ということでしょうか。

隠れるのが下手な者は、動くのも下手じゃ。
名を変え、身なりを変えて逃げ回った覚えはある。恥じることではない。
もっとも、龍のごとく振る舞えと言うたかどうかは、そなたらの世の本に聞いてくれ。
名言㉕「男子といふものは、困つたといふ事は、決していふものぢやない」
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 出典 | 田中光顕『維新風雲回顧録』(1928年) |
| 解釈 | 困ったという言葉は、決して口にするものではない |
| 今回の確認 | 同書の全文テキストで文面を確認 |
「必ず、窮すれば通ずで、どうにかなるものだ」と続き、結びは「平生は無論、死地に入り、難局に処しても、困つたといふ一言だけは、断じていふ勿れ」となっています。
ここで注意したいのは「窮すれば通ず」です。 これは『易経』繋辞下伝に由来する成句で、高杉が考え出した言葉ではありません。
なお、名言集でよく見る「苦しいという言葉だけはどんなことがあっても言わないでおこう」は、この語録の言い換えとみられます。ただし「困った」が「苦しい」に置き換わった経緯は、今回は確認できませんでした。

『苦しいという言葉だけは』という形でも広まっています。

言い換えられちょるのか。困ったと苦しいでは、ずいぶん違う気がするがのう。
困ったと言うたところで誰も助けてはくれぬ。それなら言わぬほうが得じゃ、という程度の話じゃ。
我慢の教えとして掲げられると、こそばゆいのう。
名言㉖「最早口舌の間にて、成敗の論無用なれば、是よりは長州男児の腕前懸御目可申」
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 出典 | 徳富猪一郎(蘇峰)『近世日本国民史 長州征伐』(民友社、1939年)。蘇峰は五卿方の記録から引く |
| 解釈 | もはや口先で成否を論じても無用だ。これからは長州男児の腕前をお目にかけよう |
| 今回の確認 | 同書の全文テキストで文面を確認。下関市の公式観光サイトも同趣旨で紹介 |
1864年(元治元年)12月15日、功山寺での挙兵にあたっての言葉と伝えられます。西暦では1865年1月12日にあたります。
藩の主流は幕府への恭順に傾いており、少人数での挙兵でした。
なお、一般に広まっている「長州男児の肝っ玉をご覧に入れ申す」という形は、国立国会図書館の全文検索では、戦前の刊行物に見つかりませんでした。 今回確認できた古い形は「腕前」です。

功山寺での挙兵のときの言葉とされています。

口で言い合うても埒が明かぬ時があるからのう。
ここからは僕の勝手な物言いじゃが、数が足りぬのは分かったうえで動くほかない場合がある。
ただ、あの場で何と言うたかは、そなたらの世の本のほうが詳しいらしい。
名言㉗「一里行けば一里の忠を盡し、二里行けば二里の義を盡す時であつて」
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 出典 | 『東行先生遺文』略伝(中原邦平 述)。功山寺挙兵の前、諸隊の隊長を激励した席の言葉として引く |
| 解釈 | 一里進めば一里の忠を尽くし、二里進めば二里の義を尽くすときだ |
| 今回の確認 | 全文テキストで確認 |
『東行先生遺文』に収められた略伝が伝える言葉です。ただしこの略伝は中原邦平が口述したもので、高杉自身が書いた文書ではありません。
続きは「志士なる者が寸時でも安座する時でない」となっています。じっとしている場合ではない、という激励です。
名言集では「二里行けば二里の義をあらわす」という形で広まっていますが、略伝の原文は「盡す(尽くす)」です。 伝わる途中で言葉が変わっています。

広まっている形は『義をあらわす』になっています。

尽くすと現すでは、ずいぶん意味が違うのう。
誰かが写し違えたか、言いやすいほうに直したのじゃろう。
そもそも僕が言うたのかどうかも、口述された伝記の話じゃからな。
区分C|本人が引いた他人の言葉、他人が評した言葉7件
ここがこの記事でいちばん申し上げたい区分です。
「高杉晋作の名言」として広く出回っている言葉のなかに、高杉自身が「これは他人の言葉だ」と書き残しているものがあります。今回3件見つかりました。
- 高杉の言葉として流通しているが、本人の考案とは確かめられない
- 引用元を高杉自身が書いている場合と、他人の証言が伝える場合がある
- 他人が高杉を評した言葉が、高杉の言葉として流通している例もある
「その史料に載っている」ことと「本人がそう言った」ことは別です。順に見ていきます。
名言㉘「朝聞道夕死可矣、是聖賢之道」
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 出典 | 『論語』里仁篇 第8章「朝聞道、夕死可矣」。高杉は『東行先生遺文』東行遺稿の「自叙」で引用 |
| 解釈 | 朝に道を聞くことができたなら、夕方に死んでもかまわない |
| 今回の確認 | 『論語』の原文と、高杉の自叙の文面をそれぞれ確認 |
名言集では「朝に人としての道を悟ることができれば、その晩に死んでも悔いはない」という現代語訳の形で載っています。
これは孔子の言葉です。 高杉は自叙のなかで「朝聞道夕死可矣、是聖賢之道」と書いています。「これは聖賢の道である」と、自分の言葉ではないことを明記しているわけです。
面白いのは、あるサイトの掲載形です。「『朝に人としての道を悟ることができれば、その晩に死んでも悔いはない』という事こそが人の道である」となっており、高杉の文の構造をそのまま残しています。カギ括弧の中だけを切り出すと、本人の言葉に見えてしまいます。

これは『論語』の言葉ですね。

言うまでもなかろう。孔子の言葉じゃ。
僕は自分の文に、これは聖賢の道じゃと断って書いた。それを抜き出して僕の名言と言われては、孔子に叱られる。
書物で覚えた言葉を引くのは、当時の書生なら誰でもやったことじゃ。
名言㉙「學文を作す程となれは、世間の利發の人と爲る勿れ、世間の愚者と爲るへし」
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 出典 | 熊沢蕃山『集義和書』。高杉は『東行先生遺文』日記及手録の自叙(元治元年6月14日、野山獄北窓下)で引用 |
| 解釈 | 学問をするほどの者は、世間の利口者になるな。世間の愚者になれ |
| 今回の確認 | 高杉の自叙の文面を確認。高杉自身が引用元を明記している |
名言集では「学問を成すなら世間から利口と思われるな。愚者と思われる人になれ」という形で広まっています。
高杉の原文は、こう書き出されています。 「余年少時…熊澤氏の集義和書を讀む、有云」。つまり若い頃に熊沢蕃山の『集義和書』を読んだところ、こう書いてあった、と引用元を先に示しているのです。
そのうえで「余も世間の愚者と爲らんことを願ひ」と続けます。蕃山の言葉に感じ入って、自分もそうありたいと書いた形です。
横山健堂『高杉晋作』(1916年)も、蕃山の書を読んで感じ入ったこととして紹介しています。

熊沢蕃山の言葉だと、ご自分で書かれています。

獄の中で昔読んだ本を思い出して書いたのじゃ。蕃山先生の言葉じゃと、ちゃんと断っちょる。
利口ぶる者ほど、いざというとき動かぬ。あの言葉には若い時分に打たれた。
じゃが、僕の考えた教えとして並べられるのは、筋が違うのう。
名言㉚「艱難は共にすべきが、富貴は共にすべからず」
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 出典 | 『史記』越王勾践世家の范蠡の言葉。高杉が引いたことを、伊藤博文の直話が伝える |
| 解釈 | 苦難は共にできるが、富貴は共にできない |
| 今回の確認 | 『史記』の原文と、末松謙澄編『維新風雲録:伊藤・井上二元老直話』(1900年)の文面を確認 |
名言集では「人間というのは困難は共にできる。しかし富貴は共にできない」という形で載っています。
伊藤博文の直話には、こうあります。「一日高杉が妙な男で、范蠡が勾践は艱難は共にすべき人であるが、富貴は共にすべからざる人であると云ふことを言つた」。高杉が范蠡の話を持ち出した、という回想です。
原典は『史記』巻41の越王勾践世家で、范蠡が残した書に「可與共患難、不可與共樂」とあります。越王勾践の人柄を評した言葉でした。
つまり、中国の故事を高杉が引き、それを伊藤が回想し、いつのまにか高杉の名言になった形です。

范蠡の言葉を引かれたと、伊藤博文さんが回想しています。

伊藤がそう覚えちょるなら、そういう話をしたのかもしれぬ。
范蠡の話をしたのかもしれぬ。書物の話をするのは好きじゃったからのう。
ただ、それが僕の名言として並ぶとは、伊藤も思わなんだじゃろうな。
名言㉛「まけてのく人をよはしとおもふなよ/智惠の力のつよきゆへなり」
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 出典 | 高杉が読んだ本に載っていた狂歌。『東行先生遺文』日記及手録50ページ(六月廿三日条)に書き写されている |
| 解釈 | 負けて退く人を弱いと思うな。知恵の力が強いからだ |
| 今回の確認 | 原本の画像で確認。日記の本文が「夜讀戯作あつめ草、有狂歌云」と書いている |
この記事でもっともはっきりした例です。
高杉の日記には、確かにこの歌が出てきます。しかし本文はこうです。「終日閑座、夜讀戯作あつめ草、有狂歌云(夜、戯作あつめ草を読む。狂歌に云う)」。そう書いてから、二首の狂歌を書き写しています。その一首がこれです。
つまり高杉が読んだ本に載っていた歌であって、高杉の作ではありません。日記に出てくるからといって、本人の言葉とは限らないのです。
同じ歌は足立栗園『教訓俚歌集』(1900年)に作者名なしの教訓俚歌として載っています。後の刊本には、作者不明として載せるものもあります。

日記には『読んだ本の狂歌』と書かれています。

気に入った歌を書き留めただけのことじゃ。誰の作かは日記に書いちょらん。
負けて退くのを弱いと思うな、というのは道理じゃと思うたのじゃろうな。退き際で決まる戦は多い。
じゃが、それを僕が詠んだことにされては、詠んだ者が浮かばれまい。
名言㉜「過而不改謂之過」
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 出典 | 『論語』衛霊公篇 第30章「過而不改、是謂過矣」。高杉の文にも同句があるが、それは護良親王になりかわって書いた擬作 |
| 解釈 | 過ちを改めないこと、それを過ちという |
| 今回の確認 | 『論語』の原文と、高杉の「擬護良親王獄中上書」の文面を確認 |
名言集では「過ちを改めれば、それは過ちではないのだ」という形で載っています。
原典は『論語』です。 さらに、高杉の文に出てくるほぼ同趣旨の句は「擬護良親王獄中上書」という文稿のなかにあります。これは護良親王(もりよししんのう)になりかわって、獄中からの上書を書いてみるという擬作です。
「人誰無過、過而不改謂之過」という一節で、南北朝時代の皇子の言葉として書かれています。高杉が自分の考えとして述べたものではありません。
『論語』を踏まえた表現を、別人の口を借りて書いた文のなかで使っている。二重に本人の言葉から遠いわけです。

擬作のなかの一節だったのですね。

若い時分の手すさびじゃ。昔の人になりかわって上書を書いてみる。書生のよくやる遊びじゃな。
そこで使うた論語の句が、僕の名言になっちょるとは。
二重にも三重にも借り物じゃ。恥ずかしくてかなわぬのう。
名言㉝「動如雷電、發如風雨、衆目駭然、莫敢正視焉」
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 出典 | 伊藤博文が撰した高杉晋作顕彰碑の碑文。高杉の言葉ではなく、高杉を評した言葉 |
| 読み下し | 動けば雷電の如く/発すれば風雨の如し/衆目駭然として/敢えて正視する莫し |
| 今回の確認 | 東行庵の公式サイトと『東行先生遺文』略伝で文面を確認 |
「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し」も、高杉の言葉として引かれることがあります。
これは顕彰碑の碑文です。 東行庵に1911年(明治44年)5月20日に除幕された碑で、撰文は伊藤博文、揮毫は杉孫七郎。碑文は「此非我東行高杉君乎」(これ我が東行高杉君に非ずや)と続きます。
つまり、伊藤が没後に高杉を讃えた文章の一節です。高杉が自分をそう名乗ったわけではありません。

これは伊藤博文さんが、あなたを評した言葉です。

伊藤がそんな大層な文を書いたのか。悪い気はせぬが、面はゆいのう。
雷だの風雨だのと、ずいぶん持ち上げたものじゃ。生きておるうちに言うてくれれば、酒の一本も奢ったものを。
それを僕の言葉として並べるのは、さすがに違うじゃろう。
名言㉞「三千世界の鴉を殺し、主と朝寝がしてみたい」
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 出典 | 高杉の作とする活字より、木戸孝允の作とする記述のほうが古い。『東行先生遺文』には収められていない |
| 解釈 | 世界中の烏を殺して、あの人と朝寝坊がしてみたい |
| 今回の確認 | 小泉八雲 Gleanings in Buddha-Fields(原著1897年。邦題『仏の畠の落穂』)と『都々逸及俗謡集』(1910年)の文面を確認 |
高杉の作として広く知られた都々逸です。この記事の番外編として、後ろで詳しく扱います。
先に結論だけ書くと、今回確認できた範囲では、木戸孝允の作とする1897年の記述のほうが、高杉の作とする1910年の活字より古いという結果になりました。

あなたの作として、いちばん有名な句かもしれません。

その句のことは、あとで詳しく聞くのじゃろう。ならばそのときに答えよう。
一つだけ言うておくが、座敷で唄われる歌の作者など、たいてい分からぬものじゃ。
名の通った者の作にしておけば、唄も売れるということかもしれぬのう。
区分D|高杉本人の言葉とは確認できなかった11件
最後は、名言集に広く載っているものの、高杉本人の言葉であることを今回確認できなかった言葉です。紹介元は分かっても、高杉にさかのぼる資料に届かなかったものを集めています。
「存在しない」という意味ではありません。古い活字の全文検索には読み取りの限界があり、まだ見つけられていないだけの可能性があります。調べた範囲を正直に書いておきます。
| # | 言葉 | どこまで調べたか |
|---|---|---|
| ㉟ | なにより大事なのは自分の心の持ちようだ | 名言サイトのみ。原典の表示なし。辞世として知られる歌の言い換えとみられる |
| ㊱ | 苦しいという言葉だけはどんなことがあっても言わないでおこう | ㉕の「困つたといふ一言だけは、断じていふ勿れ」の言い換えとみられるが、置き換わった経緯は確認できず |
| ㊲ | 機会は、それを待つ人にはなかなか来ない。それを求めて狩り出す人のところにやってくる | 名言サイトでは確認できたが、今回調べた刊本では原典を特定できなかった |
| ㊳ | 天地も人も皆気のみである。気を養えば、あとは行動に移すのみだ | 『東行先生遺文』の全文を「気を養」「養気」で検索したが該当なし |
| ㊴ | 今の長州男児の肝っ玉を、後世の者に見せてやる | ㉖と同系。「肝っ玉」の語形は戦前の刊行物で確認できず |
| ㊵ | たとえ我一人となるとも、決して大義において後れをとることはしない | 全文検索で該当を確認できず |
| ㊶ | われは赤間関の鬼となる | 同上 |
| ㊷ | 吉田へ(葬ってくれ) | 下関市の公式観光サイトが「死ぬ間際につぶやいた」と紹介。原典は示されていない |
| ㊸ | 人間、窮地におちいるのはよい。意外な方角に活路が見出せるからだ | 『東行先生遺文』『維新風雲回顧録』を「窮地」「活路」で検索したが該当なし。司馬遼太郎の小説に登場する高杉の言葉として紹介する記事があるが、本記事では小説の該当箇所を確認していない |
| ㊹ | 戦いは一日早ければ一日の利益がある。まず飛びだすことだ | 「一日早ければ一日の利」自体が明治・大正の刊行物に広く出る常套句。高杉と結びつける出典は見つからなかった |
| ㊺ | 苦労する身は厭わねど、苦労し甲斐のあるように | 俚謡(民謡)として1913年の『俚謡』に高杉の名なしで載る。一方『一事一言』(1915年)は高杉の名を添えて載せる。『東行先生遺文』には収録されていない |
最後の㊺は、少し込み入っています。高杉の名を添えた刊本(1915年)は確かにあるのですが、名前なしの俚謡としての採録(1913年)のほうが古いのです。
和歌山でも俚謡として採集されています。高杉の作とも、そうでないとも言い切れません。年代の前後だけが確かめられました。

出典をたどれなかったものが11件ありました。

見つからなんだものを、無いと言い切らぬのは良い心がけじゃ。
僕の書いたものが全部残っちょるはずもない。焼けたものも、捨てられたものもあろう。
ただ、どこにも見当たらぬ言葉を僕の名で通すのは、詠んだ者に気の毒ではないかのう。
【番外編】「三千世界の鴉を殺し」は高杉の句なのか
高杉の作として広く知られているのが、この都々逸です。改めて出どころをたどりました。
| 年 | 資料 | 誰の作としているか |
|---|---|---|
| 1897年 | 小泉八雲 Gleanings in Buddha-Fields(原著。邦題『仏の畠の落穂』) | 長州の木戸の作(木戸孝允) |
| 1910年 | 『都々逸及俗謡集』(花月情史 編、内外出版協会) | 高杉晋作の作 |
| 1916年 | 『東行先生遺文』 | 収録されていない |
今回確認できた範囲では、木戸孝允の作とする記述のほうが13年古いという結果になりました。
小泉八雲の英語原文では “San-zen sékai no / Karasu we koroshi / Nushi to soi-né ga / Shité mitai” と表記されています。
作者については “composed by Kido of Chō-shū”(長州の木戸の作)と説明されています。
また、萩の民謡「男なら」の歌詞にこの句が入るという説明も見かけますが、山口県文書館が紹介する「男なら」の歌詞3系統には、この句は含まれていません。
作者名を付さず、民謡として載せる本も同時期にあります。座敷で唄われた歌の作者を特定するのは、そもそも難しいことなのかもしれません。

木戸孝允さんの作とする記述のほうが古い、という結果でした。

木戸さんの作という話があるのか。ならば僕が口を挟むことでもない。
唄というものは、誰かが作って、誰かが変えて、また誰かが唄う。作者の名など残らぬのが普通じゃ。
それを僕の名で通しちょるのは、僕が遊び好きだと思われちょるからじゃろうな。心当たりがないでもない。
45件から見えてくる3つの傾向
出どころをたどり終えて、見えてきたことがあります。
- 高杉自身の文面をたどれるものが、思ったより多く残っている
- 一方で、本人が「他人の言葉だ」と断って書いたものが、本人の名言になっている
- 名言集で見る形のうち、少なくとも5件は漢詩の現代語訳だった
第一に、出典をたどれる言葉は確かにあります。 45件のうち22件は、刊本で高杉自身の詩歌・漢詩・書簡・日記の文面を確認できました。「出典が示せない」わけではないのです。
第二に、引用が名言に変わっています。 『論語』、熊沢蕃山『集義和書』、そして読んだ本にあった狂歌。高杉は律儀に引用元を書いているのに、その断り書きのほうが落ちて広まりました。『史記』の范蠡については、高杉が引いたことを伊藤博文の回想が伝えています。
第三に、少なくとも5件は漢詩の現代語訳でした。 「シャクトリムシのように」も「男児が事を成すには時がある」も、もとは漢詩の一節です。訳の後半まで読めば漢詩だと分かるのに、前半だけが切り出されています。
言葉が短くなるほど、力は強くなります。ただ、その手前にあった文脈は落ちていきます。名言集を読むのが好きな私にとって、これは何度でも思い知らされることでした。

ご自分の言葉が、こういう形で伝わっています。

短うなるのは仕方あるまい。長い詩を覚えちょる者はおらぬ。
ただ、引いた元まで消してしまうのは惜しいのう。孔子も蕃山先生も、僕より余程えらい人じゃ。
僕の名が残るより、その人らの名が残るほうが世のためではないか。
よくある質問(FAQ)
高杉晋作の名言でもっとも有名なものは何ですか?
もっとも広く知られているものの一つが「おもしろきこともなき世をおもしろく」です。上の句を高杉、下の句「住みなすものは心なりけり」を野村望東尼が詠んだ合作として伝えられています。ただし、この歌を記した高杉の自筆資料は今回確認できていません。
「三千世界の鴉を殺し」は高杉晋作の作ですか?
断定できません。今回確認できた範囲では、木戸孝允の作とする1897年の記述のほうが、高杉の作とする1910年の活字より古いという結果でした。『東行先生遺文』にも収められていません。
高杉晋作の名言の出典はどこで確認できますか?
高杉自身の文面を確認するときの基本資料の一つが『東行先生遺文』(東行先生五十年祭記念会 編、民友社、1916年)です。国立国会図書館デジタルコレクションで公開されており、詩歌文章・東行遺稿・日記及手録・書翰の各編で文面を読めます。
高杉晋作が影響を受けた言葉はありますか?
獄中の自叙で熊沢蕃山『集義和書』の一節を引き、「自分も世間の愚者になりたい」と書いています。また『論語』里仁篇の「朝聞道夕死可矣」を「聖賢の道」として引用しています。
なぜ出典が示されていない名言が多いのですか?
理由は分かりません。本記事が文面を確認できた刊本は、いずれも高杉の没後に刊行されたものでした。まとまった形で読めるのは、五十年祭に合わせて1916年に編まれた『東行先生遺文』です。
インタビュー後記|引用した本人が、引用元にされていた
45件を集めて出どころをたどる作業でした。分かったことより、驚いたことのほうが多い調査でした。
いちばん驚いたのは、今回確認した3件では、高杉自身が引用であることをきちんと示していたことです。蕃山の書を読んで感じ入ったと書き、論語の句には「これは聖賢の道だ」と添え、狂歌には「読んだ本にあった」と断っています。
ところが、いま流通している名言では、その断り書きが落ちています。引用した本人が、いつのまにか引用元にされていたわけです。
一方で、漢詩の訳が名言として広まっているものも多くありました。訳が悪いのではありません。ただ、訳の後半まで読めば漢詩だと分かるのに、前半だけが切り出されているのは惜しいと思いました。
言葉を引くとき、私たちはたいてい出どころを気にしません。それでも、たどれる言葉はたどってみたい。あなたは高杉晋作の生き方から、何を受け取りますか。
辞世として知られる一首については、刊本12点を並べて別の記事で検証しています。
同じ手法で、豊臣秀吉の名言も出典から検証しました。
参考資料
- 国立国会図書館デジタルコレクション『東行先生遺文』(東行先生五十年祭記念会 編、民友社、1916年)詩歌文章11ページ※辞世として知られる歌の表記と「些々生」「望東」の署名の根拠。原本画像で確認
- 国立国会図書館デジタルコレクション『東行先生遺文』詩歌文章12ページ※「死たなら釋迦と孔子に」「雪折れし松に」「志々猿を友とし」の根拠。原本画像で確認
- 国立国会図書館デジタルコレクション『東行先生遺文』(別の電子化本)詩歌文章※「西へ行く人を慕ひて東行く」「吾すれば人もするかと」「弔むらわるる人に」「おくれてもおくれても」「親も妻も遺して」「灯火の影細く」の詞書と文面。全文テキストで確認
- 国立国会図書館デジタルコレクション『東行先生遺文』日記及手録50ページ※「まけてのく人をよはしと」を「夜讀戯作あつめ草、有狂歌云」として書き写している箇所。原本画像で確認
- 国立国会図書館デジタルコレクション『東行先生遺文』日記及手録(自叙)※熊沢蕃山『集義和書』からの引用と「余も世間の愚者と爲らんことを願ひ」の文面。全文テキストで確認
- 国立国会図書館デジタルコレクション『東行先生遺文』日記及手録(野山獄中日記)※「偸生決死任時宜」と、同じ日に引かれた吉田松陰の言葉の根拠。全文テキストで確認
- 国立国会図書館デジタルコレクション『東行先生遺文』日記及手録※「爲國破家家亦輕」と屈原の命日に関する記述の根拠。全文テキストで確認
- 国立国会図書館デジタルコレクション『東行先生遺文』詩歌文章※「親も妻も遺して独り伊勢参り」「灯火の影細く見る今宵かな」の詞書と文面。全文テキストで確認
- 国立国会図書館デジタルコレクション『東行先生遺文』東行遺稿※「題焦心錄後」「蠖屈龍伸丈夫志」の文面。全文テキストで確認
- 国立国会図書館デジタルコレクション『東行先生遺文』東行遺稿※「半生事業與心違」の文面と詞書。全文テキストで確認
- 国立国会図書館デジタルコレクション『東行先生遺文』東行遺稿「自叙」※「朝聞道夕死可矣、是聖賢之道」の文面。全文テキストで確認
- 国立国会図書館デジタルコレクション『東行先生遺文』東行遺稿「次悠悠道人韻」※「詩酒悠悠宜送日、男兒成事豈無時」の文面。全文テキストで確認
- 国立国会図書館デジタルコレクション『東行先生遺文』東行遺稿「擬護良親王獄中上書」※「人誰無過、過而不改謂之過」が擬作のなかの一節であることの根拠。全文テキストで確認
- 国立国会図書館デジタルコレクション『東行先生遺文』書翰※田中顕助あて書簡「人は不忘舊か義の初と奉存候」の根拠。全文テキストで確認
- 国立国会図書館デジタルコレクション『東行先生遺文』略伝(中原邦平 述)※「一里行けば一里の忠を盡し」の根拠。全文テキストで確認
- 国立国会図書館デジタルコレクション『東行先生遺文』略伝※伊藤博文が撰した顕彰碑の碑文「動如雷電、發如風雨」の根拠。全文テキストで確認
- 山口県観光連盟「高杉晋作誕生地|おいでませ山口へ」※家禄を「禄高200石」とする記載の根拠
- 国立国会図書館デジタルコレクション『維新風雲回顧録』(田中光顕、大日本雄弁会講談社、1928年)※「死すべき時に死し」「凡そ、英雄といふものは」「男子といふものは、困つたといふ事は」の3件の文面
- 国立国会図書館デジタルコレクション『維新風雲録:伊藤・井上二元老直話』(末松謙澄 編、1900年)※伊藤博文の直話が伝える「范蠡が勾践は艱難は共にすべき人であるが」の文面
- 国立国会図書館デジタルコレクション『近世日本国民史 長州征伐』(徳富猪一郎、民友社、1939年)※功山寺挙兵の「長州男児の腕前懸御目可申」の根拠
- 国立国会図書館デジタルコレクション『高杉晋作』(横山健堂 著、武侠世界社、1916年)※熊沢蕃山の書を読んで感じ入ったとする紹介の根拠
- 国立国会図書館デジタルコレクション『高杉晋作小伝』(香川政一 著、東行会・白銀日新堂、1936年)※高杉の読書一覧に『集義和書』があることの根拠
- 国立国会図書館デジタルコレクション『教訓俚歌集』(足立栗園 編、1900年)71ページ※「まけてのく人をよはしと」を作者名なしの教訓俚歌として載せる。原本画像で確認
- 国立国会図書館デジタルコレクション『俚謡』(湯朝竹山人、1913年)※「苦勞し甲斐のあるやうに」を高杉の名なしで載せる例
- 国立国会図書館デジタルコレクション『一事一言』(1915年)37ページ※同じ句に「高杉晋作」と署名して載せる例。原本画像で確認
- 国立国会図書館デジタルコレクション『和歌山県俚謡集』(1936年)※同系の句を和歌山で採集された俚謡として載せる例
- 国立国会図書館デジタルコレクション『都々逸及俗謡集』(花月情史 編、内外出版協会、1910年)※「三千世界の鴉を殺し」を高杉の作とする、確認できた最古の活字
- 国立国会図書館デジタルコレクション『仏の畠の落穂』(小泉八雲、邦訳1926年。原著は1897年の Gleanings in Buddha-Fields)※同句を木戸孝允の作とする記述
- Project Gutenberg「Gleanings in Buddha-Fields」(Lafcadio Hearn)※同句を “composed by Kido of Chō-shū” とする英語原文
- 中國哲學書電子化計劃「論語 里仁」※「朝聞道、夕死可矣」の原文
- 中國哲學書電子化計劃「論語 衛靈公」※「過而不改、是謂過矣」の原文
- 中國哲學書電子化計劃「周易 繫辭下」※「尺蠖之屈、以求信也」の原文
- 維基文庫「史記 卷041 越王句踐世家」※范蠡の書「可與共患難、不可與共樂」の原文
- コトバンク「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり」※『論語』里仁篇の句の訳と解説
- 東行庵「文学碑(歌碑・詩碑 他)|境内紹介」※合作歌碑・高杉東行歌碑・詩碑の碑文と建立年
- 東行庵「顕彰碑|境内紹介」※「動如雷電、發如風雨」の碑文、撰文が伊藤博文、1911年の除幕
- 下関市公式観光サイト「高杉晋作|しものせき物語」※略歴、功山寺挙兵の言葉、「吉田へ」の逸話
- 山口県立山口図書館「高杉晋作(明治維新人物調べ方案内 No.14)」※号・通称、松下村塾入塾、主要文献
- 山口県文書館「レキシノオト 19号 幕末の歌(1)〜『男なら』〜」※「男なら」の歌詞3系統に「三千世界」の句がないことの根拠
- 国立国会図書館「高杉晋作|近代日本人の肖像」※生没年月日・経歴
- コトバンク「高杉晋作」※家禄150石、号、奇兵隊、肺結核





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