解体新書とは?全5巻の中身と「神経」を生んだ翻訳を玄白AIと解説

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私たちは日常で「神経を使う」という言葉をよく使います。整形外科では「軟骨がすり減っている」と説明されます。

この「神経」「軟骨」という医学用語が、どちらも1冊の江戸時代の本の翻訳から生まれたと知ったとき、私はしばらく動けませんでした。その本が『解体新書』です。

教科書では「杉田玄白が訳した解剖書」の一行で終わってしまいます。でも、中身を見た人はどれだけいるでしょうか。私は気になって、原本の画像まで追いかけました。

この記事の結論

『解体新書』は、1774年(安永3年)に杉田玄白・前野良沢らが刊行した、西洋の解剖学書の翻訳書です。本文4巻と序図1巻の全5巻で、本文は漢文で書かれています。

原書はドイツ人クルムスの解剖書のオランダ語訳、通称『ターヘル・アナトミア』でした。「神経」「軟骨」「門脈」といった言葉は、この翻訳のときに新しくつくられた訳語です。

ただし、『解体新書』以前にも、西洋解剖書を翻訳する試みはありました。原書のすべてが訳されたわけでもありません。そのどちらも、この本の価値を下げるものではないと私は考えています。

  • 1774年
    刊行(安永3年)
  • 全5巻
    本文4巻+序図1巻
  • 約3年半
    腑分けから刊行まで

この記事では、全5巻に何が書かれているのか、どう訳されたのか、何が訳されなかったのか、そして原本を今どこで見られるのかまでたどります。

語り手として、杉田玄白AI(杉田玄白をモデルにしたAI)にも登場してもらいます。訳した当人たちの手ざわりを想像する手がかりにしてください。

※以下のインタビュー部分は、公開されている史料をもとに杉田玄白の人物像を再現した創作です。実際の発言をそのまま掲載したものではありません。

筆者
筆者

玄白先生、今日はあなたご自身ではなく、あなたたちが出した本のほうをうかがいます。『解体新書』とは、ひとことで言えばどんな書物なのでしょうか

杉田玄白AI
杉田玄白AI

『解体新書』は、わしらが蘭書を訳して世に出した、人の体の書じゃ。

もとは阿蘭陀の言葉で記された解剖の書でな、それを漢文に移した。本文が四巻、図がひと巻。

ただし、わし一人の仕事ではない。良沢殿がおらねば一行も進まなんだであろうし、図は直武どのの手によるものよ。

『解体新書』とはどんな本?基本情報を先に押さえる

細かい話に入る前に、書誌を表で確認しておきましょう。

項目内容
書名解体新書(かいたいしんしょ)※原本の表記は『解體新書』
刊行安永3年(1774年)8月
構成本文4巻+序図1巻の全5巻(5冊)
原書ドイツ人クルムスの解剖書のオランダ語訳『Ontleedkundige Tafelen』(1734年刊)。通称『ターヘル・アナトミア』
訳者の署名杉田玄白訳、中川淳庵校、石川玄常参、桂川甫周閲
小田野直武
版元須原屋市兵衛(江戸)
本文の言語漢文

まず押さえておきたいのは、本文が漢文で書かれていることです。現代の私たちが思い浮かべる口語の日本語訳とは、見た目がかなり違います。

当時、学術の書物の多くは漢文で書かれていました。なぜこの形をとったのかを直接伝える史料までは、本記事では確認できていません。

もうひとつ、訳者の署名に前野良沢の名がありません。国立国会図書館は良沢について、「『解体新書』を訳述する際、オランダ語の能力が最も高く指導的な役割を果たした」としています。

そのうえで同館は、良沢が「刊行するにあたり訳者としての名前を出すことを拒絶した」と記しています。

この経緯は、杉田玄白その人を扱った記事で詳しく書いています。

筆者
筆者

本文が漢文というのは、いまの私たちには意外です。せっかく訳したのに、なぜ漢文だったのですか

杉田玄白AI
杉田玄白AI

学問の書といえば漢文。そういう時世であったとしか申せぬのう。

ことさら選んだというより、ほかの形が思い浮かばなんだ、というほうが近いのやもしれぬ。

なにゆえこの形にしたか、今となって確かなことまでは申せぬがな。

『解体新書』には何が書かれている?全5巻の中身

では、中身を見ていきます。全5巻の内訳は次のとおりです。

内容
序図序・自序・凡例・解剖図・跋。図はこの巻にまとまっている
巻之一総論、人体の形と名称、骨と関節について
巻之二頭部。脳、神経、眼、耳、鼻、舌
巻之三胸部と腹部。肺、心臓、動脈、静脈、腸など
巻之四脾臓、肝臓、腎臓、生殖器、筋肉

表を見て気づくのは、図が1冊にまとまっていることです。本文と図が別々の巻になっており、読者は文章を読みながら図の巻を開く形になります。

骨、頭部、胸腹部、内臓、筋肉と、人体の各部を順に説明していく構成です。250年前の日本で、この順序の本が出たという事実そのものが、この書物の位置を示しています。

なお、各巻が扱う部位の細目については、本記事は原本の目次まで確認できていません。上の表は概要としてご覧ください。

筆者
筆者

全5巻のうち、先生がいちばん骨を折られたのはどのあたりでしょうか

杉田玄白AI
杉田玄白AI

どこと言われても困るのう。どの巻も難儀であった。

強いて申せば、初めのうちじゃ。長い一日を費やしても、一行さえ読み解けぬことがあったと、わしは書き残しておる。

言葉の当てがつかぬのだから、進みようがない。慣れるにつれ、少しずつ速うはなったがな。

『解体新書』はどう訳された?腑分けから刊行までの約3年半

翻訳が始まったきっかけは、1回の解剖の見学でした。流れを追ってみましょう。

出来事
明和8年3月4日(西暦1771年4月18日)江戸・小塚原の刑場で腑分け(解剖)を実見。持参した『ターヘル・アナトミア』の図と照らし合わせる
明和8年3月5日実見の翌日、前野良沢の家に集まって翻訳を始める
安永2年(1773年)訳がほぼ仕上がり、予告版として『解体約図』を出版する
安永3年(1774年)8月『解体新書』を刊行

出発点は、明和8年3月4日の腑分けです。和暦の日付なので、西暦に直すと1771年4月18日にあたります。

玄白たちは持参したオランダ語の解剖書を開き、目の前の人体と見比べました。

図と実物が近いことに驚いた一行は、その翌日から翻訳にとりかかります。ここから刊行までにかかった年数は、3年半とする資料と4年とする資料があります

当時、頼りになる蘭和辞書はまだありませんでした。日本最初の蘭和辞書とされる『波留麻和解』は、稲村三伯らが寛政8年(1796年)に刊行したもので、『解体新書』より20年以上あとにあたります。

辞書のない状態で、専門用語の並ぶ医学書を訳す。しかも、日本語に対応する言葉がそもそも存在しない概念が次々に出てきます。

このときの苦労は、玄白が後年の回想録『蘭学事始』に書き残しています。

史料の原文|『蘭学事始』

日暮る迄考へ詰め、互ににらみ合て、僅一二寸の文章、一行も解し得る事ならぬことにて有りしなり

日が暮れるまで考え詰め、たがいに顔を見合わせても、わずか一、二寸の文章すら一行も読み解けないことがあった

ただし『蘭学事始』が書かれたのは1815年で、出来事から40年以上あとの回想にあたります。

刊行の前年には、予告版として『解体約図』を出しています。『解体新書』本編をいきなり出すのではなく、要点をまとめた図を先に世に出した形です。

筆者
筆者

辞書もない状態で、どこから手をつけたのでしょう。想像もつきません

杉田玄白AI
杉田玄白AI

図じゃ。まずは図から入ったと、わしは書き残しておる。

図を見て、腑分けで目にした形と照らし合わせれば、この語はここを指しておるらしい、と見当がつく。

そこから前後の文を崩していった。辞書のかわりに、体そのものを引いたようなものよ。

『解体新書』がつくった日本語|神経・軟骨・門脈

この記事でいちばんお伝えしたいのが、ここです。翻訳の過程で、いまも使われている日本語が生まれました

この翻訳から生まれた言葉
  • 神経(しんけい)
  • 軟骨(なんこつ)
  • 門脈(もんみゃく)

『改訂新版 世界大百科事典』は、「〈軟骨,神経,門脈〉などの言葉は玄白らの新造語である」と明記しています。

文化遺産オンラインは、これに「動脈」も加えて、この本で初めてつくられた用語として挙げています。どこまでをこの翻訳の成果と数えるかは、資料によって幅があります。

考えてみると、これは翻訳という仕事の本質にふれる話です。対応する言葉がなければ、訳すことはできません。だから、彼らは言葉のほうを作りました。

ゼロから記号を発明したのではなく、手持ちの漢語を組み替えて、新しい概念の器にしたことになります。

私たちが「神経質だね」と言うとき、そこには250年前の翻訳作業から生まれた言葉が残っていることになります。これは、なかなか面白い事実ではないでしょうか。

ただし、すべての語がこのとき決まったわけではありません。『改訂新版 世界大百科事典』は、「訳名を与えられなかった言葉には,のちに宇田川玄真や大槻玄沢らが新造語を当て,また玄白らの訳名の一部改訂もみられる」としています。

つまり訳語づくりは、この1冊で完結せず、次の世代へ引き継がれていきました。

筆者
筆者

新しい言葉をつくるというのは、どういう作業だったのでしょうか

杉田玄白AI
杉田玄白AI

難儀であり、恐ろしくもあった。

当てた言葉が誤っておれば、それを読んだ者が皆、誤って覚えることになるのだからな。

それでも、当てねば訳せぬ。手持ちの言葉を組み合わせて据えるほかなかった。今も使われておると聞けば、面映ゆいのう。

『解体新書』以前にも、西洋解剖書の翻訳はあった

『解体新書』は「日本初の翻訳解剖書」と紹介されることがあります。ただし単純にそう書くと、先行する本木良意の仕事が見えなくなります。

項目『阿蘭陀経絡筋脈臓腑図解』『解体新書』
訳者本木良意(長崎のオランダ通詞)杉田玄白・前野良沢ら
原書ドイツ人レメリンの解剖図譜クルムスの解剖書の蘭訳
訳された時期天和2年(1682年)ごろ1771年〜1774年
刊行1772年に『和蘭全躯内外分合図』として刊行1774年

本木良意(1628年〜1697年)がドイツの解剖書をオランダ語訳から訳したのは、天和2年(1682年)ごろとされます。玄白たちが翻訳を始めた1771年より、90年ほど前のことです。

しかもその訳は、良沢たちの仕事と重なる時期に世に出ています。明和9年(1772年)、鈴木宗云が『和蘭全躯内外分合図』と題を変えて刊行しました。

刊行年で比べても、『解体新書』より2年早いことになります。

ではなぜ『解体新書』のほうが知られているのでしょうか。理由として挙げられるのは、次の点です。

それでもこの本が知られている理由
  • 国立国会図書館は『解体新書』を「体系的な西洋解剖学書の最初の翻訳」と説明している
  • 本文4巻と図1巻という規模で、版元から刊行される形をとった
  • この翻訳で生まれた訳語が、その後の日本語に残った

良意の訳については、計良吉則・酒井シヅ「『阿蘭陀経絡筋脈臓腑図解』の翻訳書としての不完全さ」(『日本医史学雑誌』58巻1号、2012年)という研究があります。

図と解説文の順序が原本と異なるなど、現代でいう翻訳の形をとっていなかった、と紹介する記事もあります。

ただし本記事が確認できたのは、この論文の書誌(題名から、訳出されなかった語を扱った研究だと分かること)までです。論文本文は読んでいません。

「最初の翻訳書」ではなく「体系的な解剖学書としては最初」という言い方に、この本の位置がよく表れています。

筆者
筆者

先生たちより前に、同じような試みをした人がいたのをご存じでしたか

杉田玄白AI
杉田玄白AI

その書のことをわしがどこまで承知しておったか、今となっては確かなことを申せぬ。

ただ、わしらより先に阿蘭陀の書へ向かった者がおったのは、道理であろう。長崎には通詞がおったのだからな。

初めであったかどうかより、続いたかどうかのほうが大事ではあるまいか。

何が訳されなかったのか|注記の省略と誤訳

もうひとつ、正面から書いておきたいことがあります。『解体新書』は原書のすべてを訳した本ではありません。

ジャパンサーチ(国立国会図書館)は、次のように説明しています。

国立国会図書館が示す翻訳の範囲
  • 翻訳は漢文で記述されている
  • 訳されているのは原書の本文のみ
  • 注記は翻訳されていない

クルムスの原書は、本文に詳しい注記が添えられた構成でした。その注記の部分が、まるごと落ちているということです。

加えて、誤訳もあります。医史学者の酒井シヅが、具体例をひとつ挙げています。

巻之一の終わりに足の骨の説明があり、そこにはこう書かれています。

史料の原文|『解体新書』巻之一(酒井シヅの引用による)

可都(この語、解せず。凡そその物を解して、その語を解せざる者、蛮名を存して以て後の訳者を侯つ)骨

可都(この語の意味は解せない。物そのものは分かっても語が分からないものは、原語の音を残して後の訳者を待つ)骨

意味が分からなかったと、訳者自身が本文に書き込んでいるのです。

酒井によれば、原本のその箇所は「koot been(距骨)」でした。玄白たちはkとhを読み違えたことになります。酒井は「原本のミスプリントでないことは確めた」と記しています。

引っかかるのは、『解体新書』が11回も書き改められたと伝えられることです。酒井も「玄白らは11回も書き改めながら、それになぜ気付かなかったのであろうか」と書いています。

そのうえで酒井は、書き改めが原書との突き合わせではなく、漢文としての推敲だったのではないかと推測しています。訳者の全員が原書を持っていたわけではないからです。

それでも、この本の価値が下がるとは思いません。辞書のない状態で始めた仕事に、完璧を求めるほうが無理があります。不完全なまま世に出したからこそ、次の世代が直していけたとも言えます。

実際、訳し切れなかった部分は、のちに大槻玄沢の手で改められていきました。

筆者
筆者

注記を訳さなかったことについては、どうお考えでしたか

杉田玄白AI
杉田玄白AI

ここからは想像で申すが、本文を移すだけで手一杯であったのであろうな。

注まで手を伸ばしておれば、あと幾年かかったか分からぬ。出さずに終わったやもしれぬ。

足らぬところは、後の者が埋めてくれればよい。そう考えるほかなかったのではあるまいか。

『解体新書』の挿絵を描いたのは誰?小田野直武と平賀源内

『解体新書』の図を描いたのは、秋田藩士の小田野直武です。医者でも蘭学者でもなく、画家でした。

項目内容
名前小田野直武(おだの なおたけ)
生没年寛延2年12月(西暦では1750年1月)〜安永9年(1780年)。満30歳(数え32歳)で死去
出身秋田藩・角館
江戸に出た経緯1773年に秋田へ来た平賀源内から西洋画法を学び、同年、藩の命で江戸へ赴任した
『解体新書』での仕事原書の銅版画を写し、木版にするための図を描いた
その後洋風画の技法を取り入れた「秋田蘭画」の代表者とされる

直武と江戸を結んだのが、平賀源内でした。1773年(安永2年)に秋田へ来た源内から西洋画法を学び、同じ年、藩の命で江戸へ赴任しています。

ここが面白いところです。『解体新書』は、医者だけで作られた本ではありません。蘭語を読める者、事を起こす者、絵を描ける者が、平賀源内らを介して同じ時期の江戸でつながりました。

原書の図は銅版画でした。それを木版で再現するのは難しい仕事で、線のとらえ方そのものを移し替える必要があります。直武は、西洋画の陰影や遠近の技法を学びながらこの仕事にあたりました。

直武はその後、秋田蘭画と呼ばれる画風の代表者とされます。ただし安永9年(1780年)に郷里で亡くなっており、『解体新書』刊行から6年後、満30歳(数え32歳)の若さでした。

なお生年は、和暦では寛延2年12月ですが、西暦に直すと1750年1月にあたります。資料によって1749年と1750年の両方の表記が見られるのはこのためです。

筆者
筆者

絵師の直武どのは、どのように迎えられたのでしょうか

杉田玄白AI
杉田玄白AI

絵師の腕がなければ、あの書は形にならなんだ。

阿蘭陀の版画の線を、こちらの木版に移す。これは文を訳すのと変わらぬ難しさがある。

わしには到底できぬ仕事よ。あれもまた、ひとつの翻訳であったと思うておる。

『重訂解体新書』へ|大槻玄沢が引き継いだもの

『解体新書』の話は、1774年では終わりません。玄白自身が門人の大槻玄沢に命じて、この本を訳し直させています。

重訂版で加えられたこと
  • 改訂は、師である杉田玄白の命によるものだった。日本大百科全書は「師の杉田玄白から命ぜられた『解体新書』の改訂」と記す
  • 『重訂解体新書』は13冊(1826年)
  • 『改訂新版 世界大百科事典』は「のち大槻玄沢が本書を改訳増補して《重訂解体新書》(1826)とした」と記す
  • 訳名のなかった言葉に、宇田川玄真や大槻玄沢らが新しい訳語を当てた
  • 付図も銅版画(中伊三郎の刻)に改められた

つまり『重訂解体新書』は、単なる再版ではありません。訳し直しと増補です。

注目したいのは、これを命じたのが玄白本人だという点です。自分の訳した本を、弟子に直させたことになります。

刊行は文政9年(1826年)でした。初版から半世紀あまりが経っており、玄白はすでに世を去っています(1817年没)。

ここで注意したいことがあります。デジタルアーカイブで「解体新書」として公開されている資料のなかには、1774年の初版ではなく、重訂版の系統が含まれています。

たとえば京都大学貴重資料デジタルアーカイブが「解体新書」として公開しているものは、標題紙に「鳩盧莫斯解体譜」「芝蘭堂再鐫」とある1冊で、文政4年(1821年)の刊記を持ちます。

中伊三郎による銅版の図譜にあたるもので、1774年の初版そのものではありません。原本を見に行くときは、書名と刊年を確かめてください。

筆者
筆者

『重訂解体新書』は、先生が玄沢どのに命じて始まったと聞きました。ご自分の訳を直させるというのは、どんなお気持ちだったのでしょう

杉田玄白AI
杉田玄白AI

改めよと申しつけたのは、ほかならぬわしじゃ。粗があるのは、書いた当人がいちばんよう知っておる。

じゃが、刷り上がった書をこの手に取ることはかなわなんだ。世に出たのは、わしが逝ったあとと聞く。

それでよい。直されて当然のものを出したのだからのう。直せる者に託せたのなら、上出来ではあるまいか。

『解体新書』の原本はどこで見られる?

最後に実用的な話をします。『解体新書』は、いくつかの機関がデジタル公開しており、誰でも画像を見ることができます

機関公開されているもの
東京大学医学図書館『解體新書』安永3年(1774年)刊、全5冊。デジタルアーカイブポータルで画像を公開
国立国会図書館「江戸時代の日蘭交流」で標準画像を公開
慶應義塾大学 信濃町メディアセンター解剖学コレクションとして公開。大鳥蘭三郎旧蔵の『解体新書』を含む
京都大学貴重資料デジタルアーカイブ重訂版の系統にあたる銅版の図譜1冊。文政4年(1821年)の刊記
文化遺産オンライン大分市歴史資料館が所蔵する5冊を掲載

画像で見て驚くのは、図の線の細かさです。銅版画を木版で再現するという難しい仕事を、どう成立させたのかが伝わってきます。

本文を読みたい方には、現代語訳があります。杉田玄白『解体新書』(酒井シヅ全現代語訳、講談社学術文庫)で、注釈つきで通して読めます。

原本の画像と現代語訳を並べると、この本が何をどこまでやったのかが自分の目で確かめられます。教科書の一行で済ませるには、もったいない本です。

筆者
筆者

250年後の世で、誰でもあの本を開けるようになりました

杉田玄白AI
杉田玄白AI

にわかには信じがたい話じゃ。板木が擦り切れるまで刷ったとて、行き渡る数には限りがあったものを。

そなたらの世では、遠い国の者まで同じ頁を開けるというのか。

ならば、誤ったところも一緒に見られてしまうわけじゃな。それもまた、よいのかもしれぬ。

よくある質問(FAQ)

解体新書とはどんな本ですか?

1774年(安永3年)に刊行された、西洋の解剖学書の翻訳書です。本文4巻と序図1巻の全5巻からなり、本文は漢文で書かれています。

原書はドイツ人クルムスの解剖書のオランダ語訳、通称『ターヘル・アナトミア』でした。

解体新書は誰が訳したのですか?

杉田玄白・前野良沢・中川淳庵・桂川甫周らの共同作業です。国立国会図書館は、良沢がオランダ語の能力が最も高く指導的な役割を果たしたとしています。

ただし良沢は刊行時に訳者として名前を出すことを拒み、本の署名は「杉田玄白訳」で始まります。

解体新書の挿絵を描いたのは誰ですか?

秋田藩士の小田野直武です。寛延2年12月(西暦1750年1月)に生まれ、1780年に没しました。

1773年に秋田へ来た平賀源内から西洋画法を学び、同年に藩命で江戸へ赴任してこの仕事にあたっています。

解体新書のきっかけになった解剖で、亡くなったのはどんな人ですか?

玄白の回想録『蘭学事始』は、その日の刑死者を「五十歳ばかりの老婦」で京都の生まれ、「青茶婆」と呼ばれた人だと記しています。

ただし出来事から40年以上あとの回想であり、本名は伝えられていません。

解体新書は日本で最初の翻訳解剖書ですか?

単純に「日本初」とは言い切れません。本木良意が1682年ごろに訳した先行例があり、1772年に刊行されています。

一方で国立国会図書館は、『解体新書』を「体系的な西洋解剖学書の最初の翻訳」と位置づけています。

「神経」という言葉は解体新書で生まれたのですか?

はい。『改訂新版 世界大百科事典』は「〈軟骨,神経,門脈〉などの言葉は玄白らの新造語である」と記しています。

対応する日本語がなかったため、訳語そのものを作る必要がありました。文化遺産オンラインも同様の説明をしています。

解体新書は今でも読めますか?

読めます。東京大学医学図書館や国立国会図書館などが原本の画像を公開しており、誰でも見ることができます。

本文を日本語で読みたい場合は、酒井シヅによる全現代語訳が講談社学術文庫に入っています。

インタビュー後記|『解体新書』は「完成品」ではなく「始まり」だった

今回も杉田玄白AIに登場してもらいました。

調べる前、私は『解体新書』を完成された偉業だと思っていました。実際には、注記は訳されておらず、誤訳の指摘もあり、これ以前にも西洋解剖書を訳す試みがありました

それでもこの本が特別なのは、次が続いたからだと思います。大槻玄沢が訳し直し、宇田川玄真が訳語を足し、蘭学は学問として広がっていきました。

そして何より、「神経」「軟骨」という訳語が今日まで生き残っています。250年前の不完全な仕事が、私たちの日常語になっている。それだけでも、この翻訳が後世に残したものの大きさが分かります。

この本を世に出した杉田玄白その人については、別の記事で詳しくたどっています。

同じ時代の空気を知りたい方は、こちらもどうぞ。

参考資料

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