テストの前の晩、鎖国、士農工商、参勤交代と唱えて覚えた記憶があります。私にとって江戸時代は、そういう暗記用語の詰まった時代でした。
ところが、いまの教科書に士農工商のピラミッド図は載っていません。鎖国の説明も、私が習ったころとは変わっています。
つまり、習った側の知識のほうが古くなっていたわけです。それならばと、江戸時代を頭から調べ直して書いたのがこの記事です。
この記事の結論
江戸時代は、1603年から1867年までの約265年間です。徳川家康が征夷大将軍となって江戸に幕府を開いてから、15代将軍・徳川慶喜が政権を朝廷に返すまでを指します。
大きな内戦のない状態が長く続き、都市と商業、庶民の文化が育った時代です。一方で、大火や飢饉も繰り返し記録されています。
また「鎖国」や「士農工商」といった教科書でおなじみだった説明は、近年の研究で見直しが進みました。この記事では、その書き換わりも柱の一つとして扱います。
- 265年
1603年〜1867年 - 15代
徳川将軍の数 - 約100万人
18世紀初頭の江戸の推定人口
構成は、時代の流れをつかんだあと、幕府のしくみ、鎖国、身分、江戸の町、教育、文化、時代の終わり、主な人物の順です。
聞き役は私ですが、答え役として江戸の町人AI(江戸で暮らした町人をモデルにしたAI)にも登場してもらいます。制度の年号だけでは見えない、暮らす側の感覚を補ってもらうためです。
※以下のインタビュー部分は、江戸時代の史料や研究をもとに構成した創作です。江戸の町人AIは特定の実在人物ではなく、その発言も実際の記録ではありません。

はじめまして。今日は江戸時代の265年を、そこで暮らしていた方の目線からうかがいたいと思っています。
最初に教えてください。あなたはいつごろの、どのような暮らしをされていた方なのでしょうか。

これはご丁寧にどうも。とはいえ、あっしはこれといった誰かじゃござんせん。いつごろの者かも、一つには決められやせんでね。
江戸の町人を時代をまたいで寄せ集めたような身でさ。暮らしぶりのほうは、日本橋あたりの裏長屋で小商いとでも思ってくだせえ。
年号やお上の決まりごとは、この目で見た話じゃなく、聞き伝えでお答えしやすよ。
江戸時代とは?いつからいつまでかを2分で確認
最初に、検索でよく調べられている三つの疑問、いつから、いつまで、何年間かに答えます。次の表が全体像です。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 時代区分 | 日本の近世。安土桃山時代の次、明治時代の前 |
| いつから | 1603年(慶長8年)。徳川家康が征夷大将軍に任じられ、江戸に幕府を開く |
| いつまで | 1867年(慶応3年)。15代将軍の徳川慶喜が政権を朝廷に返上する |
| 期間 | 約265年間 |
| 政治の中心 | 江戸(現在の東京)。朝廷は京都に置かれたまま |
| 将軍 | 徳川家の15代 |
| 別の呼び名 | 徳川時代 |
表を見て、終わりの年に引っかかった方がいるかもしれません。資料によっては、江戸時代の終わりが1868年と書かれているからです。
ずれの理由の一つが、当時の暦(旧暦)と西暦の関係です。大政奉還が行われた慶応3年10月14日は、西暦に直すと1867年11月9日にあたります。
続く王政復古の大号令は慶応3年12月9日でした。和暦では同じ慶応3年ですが、西暦に直すと1868年1月3日です。和暦の年末は、西暦では翌年になるのです。
始まりの側も同じです。家康の将軍宣下は慶長8年2月12日で、西暦では1603年3月24日でした。どの出来事を区切りに取り、どちらの暦で数えるかで、書き方に幅が出るとされます。

教科書では265年間と習いますが、暮らしている側に、そういう長さの感覚はあったのでしょうか。

二百六十五年なんて数え方は、あとの世でまとめられたものでござんしょう。
あっしらは慶長だ元禄だ天保だと、元号で暮らしておりやしてね。改元のたびに世が改まる、その繰り返しでさ。
徳川さまの世をひとまとめに数える日が来るなんて、思いもしやせんでしたよ。
江戸時代の流れ|265年をざっくりつかむ
ここからは流れを追います。265年をすべて並べると読み切れなくなるので、時代の骨組みになる出来事にしぼった年表にしました。
年は西暦でそろえています。旧暦とのずれが大きい出来事には、解説の欄にその旨を書きました。
| 年 | 出来事 | 解説 |
|---|---|---|
| 1603年 | 徳川家康が征夷大将軍となり江戸幕府を開く | 慶長8年2月12日。西暦では3月24日 |
| 1615年 | 大坂夏の陣で豊臣家が滅びる | 夏の陣は慶長20年5月、武家諸法度は元和元年7月。同じ年に改元をはさむ |
| 1635年 | 武家諸法度の改定で参勤交代が制度化される | 3代将軍・徳川家光のとき |
| 1637年 | 島原・天草一揆が起こる | 翌年に鎮圧される |
| 1639年 | ポルトガル船の来航を禁止する | のちに鎖国と呼ばれる体制が整う |
| 1641年 | オランダ商館を平戸から長崎の出島へ移す | 対外的な窓口が絞られる |
| 1703年 | 赤穂浪士が吉良邸に討ち入る | 元禄15年12月14日。西暦では1703年1月30日 |
| 1716年 | 享保の改革が始まる | 8代将軍・徳川吉宗 |
| 1787年 | 寛政の改革が始まる | 老中・松平定信。1793年まで |
| 1841年 | 天保の改革が始まる | 老中・水野忠邦。1843年まで |
| 1853年 | ペリーが浦賀に来航する | 嘉永6年 |
| 1858年 | 日米修好通商条約が結ばれる | 安政5年 |
| 1867年 | 徳川慶喜が大政奉還を行う | 慶応3年10月14日。西暦では11月9日 |
一つ目の注目は赤穂浪士の行です。討ち入りは元禄15年12月14日で、この日付を西暦に換算すると1703年1月30日にあたります。
年表によっては、元禄15年に西暦1702年を対応させて記す場合もあります。和暦の年に西暦の年を並べる書き方と、日付を換算した結果とでは、示しているものが違うのです。
二つ目は並び方です。17世紀に体制を固める出来事が集まり、18世紀からは享保・寛政・天保と改革が続き、19世紀半ばに外圧が強まる、という流れが読み取れます。

後半に改革が三つも並んでいますね。お達しや倹約令が増えていく感じは、町の側にもあったのでしょうか。

ええ、倹約のお触れが出りゃあ、着物も芝居も派手なのはご法度、なんて時期があったと記録に残っておりやす。
享保だ寛政だ天保だと、改革の名でひとまとめにしたのは、あとの世の学者衆の仕事でしょうよ。
あっしらにすりゃあ、きついお触れの続く年は商いも息をひそめる、それだけの話でさ。
年ごとの出来事をもっと細かくたどりたい方には、年表だけをまとめた記事があります。前期・中期・後期に分け、徳川15代将軍の就任年や元号との対応も載せました。
江戸幕府のしくみ|幕藩体制と参勤交代
次に政治のしくみです。江戸幕府は、将軍が全国を直接治めるかたちではありませんでした。幕府と各地の藩(大名の領地と組織)が、役割を分けて土地と人を治めるしくみで、幕藩体制と呼ばれます。
大名は徳川家との関係で分けられていました。一門の親藩、古くからの家臣である譜代、関ヶ原の戦い前後に従った外様です。
そのうえで幕府は、大名が力を持ちすぎないための手立てをいくつも重ねました。代表的なものを挙げます。
- 武家諸法度:大名が守るべき決まりを定めた法令。1615年に最初に出され、その後も改定された
- 参勤交代:大名が江戸と国元を行き来する制度。1635年の武家諸法度の改定で定められた
- 改易・転封:大名家の取りつぶしや、領地の移し替えといった処分
なかでも参勤交代は、1635年(寛永12年)に3代将軍・徳川家光が武家諸法度を改定し、第2条で定めたものです。『日本大百科全書』は「大名・小名、在江戸交替相定むる所なり」という条文を紹介しています。
当初は外様の大名を中心に適用され、1642年には譜代の大名にも広がりました。ただし、一律ではありません。
『日本大百科全書』は、対馬の宗氏は三年一勤、水戸藩や老中など役付の大名は江戸定府だったと記しています。大名は巨額の出費を余儀なくされ、妻子は江戸に置かれたとされます。

大名行列が定期的に江戸へ出入りしていたわけですよね。町の側から見ると、参勤交代はどんな出来事だったのでしょうか。

お大名の行列が江戸へ入る日にゃ、道筋の町は何かと気を張ったもんだったと聞いておりやす。
道中の宿場は、宿も飯屋も行列でにぎわったそうでしてね。江戸の店にとっても、お屋敷勤めの方々は大事なお得意でさ。
もっとも、お大名の懐具合がどうだったかは、あっしらの知るところじゃありやせんよ。
「鎖国」は本当に国を閉ざしていたのか
ここからが、この記事の中心です。まずは「鎖国」を見直します。
意外に思われるかもしれませんが、体制が固められた17世紀に「鎖国」という言葉はまだありませんでした。
語の初めとされるのは、オランダ通詞(オランダ語の通訳)の志筑忠雄が、ケンペルの『日本誌』の一部を訳し、享和元年(1801年)に『鎖国論』と題したものです。
つまり「鎖国」は、寛永期に体制が整ってから160年余りのちに付いた呼び名です。少なくとも、17世紀に体制が整えられた当初から「鎖国」と呼ばれていたわけではありません。
では、実際に国は閉ざされていたのでしょうか。『改訂新版 世界大百科事典』は、外との関係が続いた窓口を「四つの口」として整理しています。
- 長崎:幕府がオランダ・中国と結んだ窓口
- 対馬:宗氏(対馬藩)が朝鮮との関係を担う
- 薩摩:島津氏(薩摩藩)が琉球との関係を担う
- 松前:松前氏(松前藩)が蝦夷地との関係を担う
同事典は、この状態について「海禁」という概念も用いられていると記しています。人と物のやり取りは、この四つを通じて続いていました。
ただし、だからといって「鎖国はなかった」と言い切るのも行きすぎです。出入りする相手も場所も、幕府が強く絞っていたこと自体は動きません。
見直されたのは「国を完全に閉ざしていた」という描き方のほうであって、統制があった事実そのものではないのです。

長崎に窓口が開いていたことは、江戸の町にも伝わっていたのでしょうか。舶来の品を目にする機会はありましたか。

あと世でいう「国を完全に閉めていた」ってのとは、少し違ったようでござんすね。鎖国なんて言葉も、昔から使われていたものじゃないと聞いておりやす。
長崎に窓口があるって話はよく知られておりやしたし、唐渡りだ阿蘭陀渡りだって品を店先で見かけることもありやした。
どこをどう通ってきた品なのかまでは、あっしらは見当をつけるだけでしてね。
江戸時代の身分|「士農工商」が教科書から消えた理由
見直しがもう一つあります。武士・農民・職人・商人が上から順に積み上がる、あの「士農工商」のピラミッド図です。
実は「士―農―工―商」をピラミッド型に並べる説明は、いまの教科書では採られなくなっています。四つの身分が上下に並ぶという説明そのものが、実態に合わないと分かってきたためです。
| 言われてきた説明 | 近年の説明 |
|---|---|
| 武士・農民・職人・商人の四つが、上から順に並ぶ身分制度だった | 武士は支配する側だが、百姓・町人などのあいだに上下関係はなかったとされる |
| 士農工商の下に、さらに別の身分が置かれるピラミッド構造だった | 武士・百姓・町人のほかに公家、僧侶や神職、芸能者などさまざまな身分があり、厳しく差別された人々もいた |
| 教科書の定番として長く載っていた | 東京書籍は2000年度版から、身分制度を表す言葉として「士農工商」を使用していない |
そもそも「士農工商」という言葉は、古代中国に由来します。東京書籍によれば『管子』に「士農工商の四民は石民なり」とあり、「国を支える職業」といった意味で使われていました。
また、これらをまとめた「四民」のほうが、本来は「天下万民」「すべての人々」といった意味だったとされます。
百姓・町人のあいだに上下はなかったとする研究成果は、1990年代以降に相次ぎました。
東京書籍は公式サイトで、平成12年度(2000年度)版から、身分制度を表す言葉として「士農工商」を使用していないと説明しています。用語そのものが記述から一切消えたという意味ではありません。
ここで取り違えたくないのは、身分そのものがなかったわけではない、という点です。武士は支配する側にあり、住む場所も務めも、町人や百姓とは分かれていました。
書き換わったのは「四つが上下に積み重なる」という説明のほうです。図が消えたからといって、身分のない社会だったことにはなりません。

暮らしのなかでうかがいます。武士とそれ以外の線引きと、町人と百姓の関係とは、違うものに感じられていたのでしょうか。

お侍さんとあっしらの間の線は、そりゃあはっきりしたもんでしたよ。住む場所もお勤めも、まるで別でしてね。
けど、町人と百姓のどっちが上かなんて、並べて考えたことはござんせん。稼業が違う、ただそれだけの話でさ。
教科書がどうしたって話は、そいつはあっしの世の話じゃござんせん。旦那がたの世で調べられたことでしょうよ。
江戸の町はどんな場所だったのか|人口100万人の中身
舞台を町そのものに移します。江戸はよく「人口100万の大都市」と言われますが、この100万という数字には内訳があります。
『改訂新版 世界大百科事典』によれば、江戸の人口は1695年(元禄8年)に35万人、1721年に50万人でした。ただし、これは町人だけを数えた記録です。
同事典は、これにほぼ同数とみられる武家の人口を加えて、約100万人を江戸の総人口と説明しています。つまり100万人は、帳面に残る町方の数字と、武家の推計を足したものです。
おおむね半分は帳面に残る町方の人数で、残りには武家などの推計が含まれます。100万という数字は、そう分けて読んでおくと安全です。
- 長屋:狭い借家が並ぶ町人の住まい。井戸や便所は共同で使う
- 火事:木造の家が密集していたため、大火が繰り返し起きた
- 飢饉:享保・天明・天保など、全国規模の飢饉が何度も記録されている
暮らしの現実も並べました。人が密に集まる木造の町では、大火が繰り返し起き、飢饉も何度も記録されています。江戸の町を「にぎやかで豊か」とだけ語るわけにはいきません。

長屋の暮らしとは、実際のところどんなものだったのでしょう。火事の心配は、いつも頭の隅にあったのでしょうか。

長屋ってのは、井戸も厠もご近所と共同の、壁の薄い借家暮らしでさ。木と紙の町ですからね、半鐘が鳴りゃあ家財を担いで逃げるが先。
住めば都なんて言いやすが、いいことばかりじゃありやせんでしたよ。
ついでに言やあ、百万って人数も、町方の帳面にお武家の見当を足した数だと聞いておりやす。
江戸時代の教育|「識字率は世界一」はどこまで確かめられているか
寺子屋の話にも、通説の点検が必要です。「江戸時代の日本は識字率が世界一だった」という言い方を、本やテレビで見かけた方は多いと思います。
この説がどのように生まれたのかを追った研究があります。清水一彦氏が『出版研究』48巻(2017年)に発表した論文です。
- 1960年代後半から1970年代に、男子40〜50%・女子10〜15%という数字が学術出版で示された
- その数字は、もともと「就学率」として発表されたものだった
- のちに「識字率」と言い換えて引用される過程があった
- 1970年代半ばに新聞や一般向けの出版で広まり、受け入れられていった
要するに、「世界一」の根っこにあった数字は、識字率ではなく就学率だったという指摘です。読み書きできた人の割合を直接示す統計ではありませんでした。
ここで振り子を逆に振り、「実際の識字率は低かった」と結論づけるのも早計です。同論文の抄録は「江戸時代の識字率は学術的には高低が判断出来ない」としています。
高いとも低いとも決められない。それが出発点だということです。研究がたどったのは、世界一という主張の根拠が確かめられていない経緯であって、低さの証明ではありません。
また、この研究が問うているのは数字の扱いであって、寺子屋という学びの場があったこと自体ではありません。そこは切り分けて読む必要があります。

読み書きは、商いの町ではどれくらい必要とされたのでしょうか。手習いに通う子どもは身近にいましたか。

商いをするってえと、帳面が付けられて証文が読めなけりゃ話になりやせん。手習いに子をやる家は、商いの町にはずいぶんありやした。
とはいえ、通わせる余裕のねえ家も、子どもの手を稼ぎに借りる家もありやしてね。
みんなが読み書きできたなんてことは、あっしの口からは言えやせんよ。
江戸時代の文化|元禄文化と化政文化
ここで少し肩の力を抜いて、文化の話です。江戸時代の文化は、前半の元禄文化と後半の化政文化という二つの山で語られます。
| 文化名 | 時期 | 中心地 | 代表的な人物 |
|---|---|---|---|
| 元禄文化 | 元禄(1688〜1704年)前後 | 上方(京都・大坂) | 井原西鶴、松尾芭蕉、近松門左衛門、尾形光琳 |
| 化政文化 | 文化文政(1804〜1830年)を中心 | 江戸 | 曲亭馬琴、十返舎一九、式亭三馬、喜多川歌麿 |
元禄文化は、上方を中心に、経済力をつけた町人層を背景として栄えました。井原西鶴の浮世草子、松尾芭蕉の俳諧をはじめ、近松門左衛門や尾形光琳の名がこの時期に並びます。
化政文化の中心は江戸です。曲亭馬琴の読本、十返舎一九や式亭三馬の滑稽本、喜多川歌麿らの浮世絵など、広い層の手に届くものが主役になりました。
表を見比べると、文化の中心地が上方から江戸へ移っていることが分かります。同じ265年のなかでも、文化の地図は動いていたのです。

芝居や浮世絵は、庶民の懐でも手が届く楽しみだったのでしょうか。ふだんの娯楽を教えてください。

楽しみには事欠きやせんでしたよ。芝居に寄席、相撲見物、錦絵に貸本屋。本は買わずに借りて回し読みってわけで。
懐に応じた楽しみ方がそれぞれにあった、とだけ申しておきやしょう。
上方には上方の、江戸には江戸の好みがあるなんて、よく言われたもんでさ。
江戸時代の終わり|ペリー来航から大政奉還まで
終わりの局面です。江戸時代の幕引きは一つの事件で決まったのではなく、外からの圧力と国内の政治の動きが、十数年かけて重なった結果でした。
| 年 | 出来事 | 解説 |
|---|---|---|
| 1853年 | ペリーが浦賀に来航する | 嘉永6年。翌年に再び来航する |
| 1854年 | 日米和親条約が結ばれる | 下田・箱館を開く |
| 1858年 | 日米修好通商条約が結ばれる | 安政5年。朝廷の許可を得ないまま調印された |
| 1867年 | 徳川慶喜が大政奉還を行う | 慶応3年10月14日。政権を朝廷に返上する |
| 1868年 | 王政復古の大号令が出される | 和暦では慶応3年12月9日。西暦では1868年1月3日 |
二つの条約の性格の違いにも触れておきます。1854年の日米和親条約は下田・箱館を開くもので、1858年の日米修好通商条約は、朝廷の許可を得ないまま調印されました。
注意したいのは大政奉還の位置づけです。これは将軍が政権を朝廷に返上した一つの段階であって、ここで新しい政府が完成したわけではありません。
このあと王政復古の大号令が出され、戊辰戦争を経て、明治の新政府が形を整えていきます。大号令の写本は、国立公文書館が所蔵資料として公開しています。
そして年表の最後の2行が、冒頭で説明した暦のずれの実例です。同じ慶応3年の出来事が、西暦では1867年と1868年に分かれて並んでいます。

黒船の来航から大政奉還まで、およそ15年です。時代の変わり目は、町の暮らしにどう届いていたのでしょうか。

黒船が来たって話は、瓦版やら人の噂やらで、あっという間に広まったと聞いておりやす。
みなとが開いて本式の商いが始まってからは、物の値が上がって、暮らし向きの苦しくなった時期もあったそうでしてね。
もっとも、世が改まるなんてことは、渦中にいる者にゃ分からねえ。あとになって分かるもんでござんすよ。
江戸時代の主な人物|この時代を生きた人たち
締めくくりに、この265年で名前の挙がる人物を一覧にします。教科書でおなじみの将軍から、幕末の幕臣・志士まで、当サイトで記事のある人物も含めて並べました。
| 人物 | 立場 | 何をした人か |
|---|---|---|
| 徳川家康 | 初代将軍 | 1603年に征夷大将軍となり、江戸に幕府を開いた |
| 徳川家光 | 3代将軍 | 参勤交代を制度化し、対外関係の窓口を絞った |
| 徳川吉宗 | 8代将軍 | 1716年から享保の改革を進めた |
| 勝海舟 | 幕臣 | 幕末に海軍の整備に関わり、江戸城の引き渡しの交渉にあたった |
| 小栗忠順 | 幕臣 | 横須賀製鉄所の建設など、幕府の近代化政策に関わった |
| 坂本龍馬 | 志士 | 土佐藩を脱藩し、薩長同盟の成立に関わったとされる |
| 徳川慶喜 | 15代将軍 | 1867年に大政奉還を行い、その後、将軍職の辞退を申し出た |
並べてみると、前半と後半で顔ぶれの性格が変わります。前半は体制を築いた将軍たちが中心で、後半は幕臣や志士など、将軍以外の名前が増えていくのです。
これは年表で見た流れとも重なります。体制を固める時期には将軍の決断が節目をつくり、揺らぐ時期には、さまざまな立場の人物が表舞台に出てきたと読めます。
幕末の人物については、当サイトに個別の記事があります。江戸時代の最後の十数年を、それぞれの立場から読み比べてみてください。
よくある質問(FAQ)
江戸時代はいつからいつまでですか?
一般には1603年から1867年までとされます。徳川家康が江戸に幕府を開いた年から、徳川慶喜が大政奉還を行った年までです。王政復古の大号令を西暦で数えて、1868年までとする資料もあります。
江戸時代は何年続きましたか?
約265年間です。終わりを大政奉還に取るか王政復古に取るか、また西暦に直すかどうかで、数え方には多少の幅があります。
江戸時代は今から何年前ですか?
この記事を書いている2026年を基準にすると、始まりの1603年は423年前、終わりの1867年は159年前にあたります。
江戸時代の前と次は何時代ですか?
前は安土桃山時代、次は明治時代です。時代区分のうえでは、江戸時代は「近世」と呼ばれる時期にあたり、明治時代からが「近代」とされます。
江戸時代は本当に鎖国していたのですか?
国を完全に閉ざしていたわけではありません。長崎・対馬・薩摩・松前の「四つの口」を通じて、外との関係は続いていました。ただし、相手も場所も幕府が強く絞っていました。
士農工商という身分制度はなかったのですか?
身分の区別はありました。見直されたのは、百姓・町人などを上下に並べる説明のほうです。東京書籍は2000年度版から、身分制度を表す言葉としては使っていません。
インタビュー後記|江戸時代を調べ直して見えたこと
今回は江戸の町人AIに登場してもらい、江戸時代の265年をたどりました。
調べ直して痛感したのは、覚えた知識には賞味期限がある、ということでした。鎖国も士農工商も、私が教わったままの形では、もう教科書に残っていません。
とはいえ、通説がすべてひっくり返ったわけでもありません。窓口が絞られていたことも、身分の区別があったことも事実です。変わったのは事実そのものではなく、説明のしかたなのだと思います。
もう一つは数字の扱いです。江戸の100万人も識字率も、記録と推計、就学率と識字率という別のものが混ざって独り歩きしていました。数字は出どころとセットで覚えるに限ります。
江戸の暮らしを懐かしく語りたくなる気持ちは私にもありますが、大火と飢饉が繰り返された時代でもあります。よい面だけを切り取らずに眺めることを、この記事では心がけました。
江戸時代の終わりに立ち会った人物の記事もあります。時代の締めくくりを、人の目線で追いたい方はこちらもどうぞ。
参考資料
- コトバンク「江戸」※『改訂新版 世界大百科事典』『日本大百科全書』ほかを収録。江戸の町人人口(1695年35万人・1721年50万人)と、武家人口を加えた約100万人という推計の出典
- コトバンク「鎖国」※志筑忠雄が享和元年(1801年)に『鎖国論』と題したこと、寛永期の法令が段階的に整えられたこと、長崎・対馬・薩摩・松前の「四つの口」と「海禁」の概念の出典
- コトバンク「参勤交代」※1635年(寛永12年)の武家諸法度改定による制度化、条文「大名・小名、在江戸交替相定むる所なり」、1642年の譜代大名への適用拡大、対馬の宗氏の三年一勤や水戸藩・役付の大名の江戸定府といった例外、大名の出費と妻子が江戸に置かれたことの出典
- コトバンク「元禄文化」※元禄文化の時期・上方中心であること・井原西鶴・松尾芭蕉・近松門左衛門・尾形光琳らの出典
- コトバンク「文化文政時代」※化政文化の年代(1804〜1830年)・江戸中心であること・曲亭馬琴・十返舎一九・式亭三馬・喜多川歌麿らの出典
- 国立公文書館「日本のあゆみ|慶応3年(1867)12月 王政復古の大号令が発せられる」※王政復古の大号令の日付と、写本を所蔵資料として公開していることの出典
- 日本出版学会 清水一彦(江戸川大学)「『江戸時代の識字率は世界一』という出版での言説の構成過程」2016年5月 春季研究発表会 ※男子40〜50%・女子10〜15%という数字がもともと就学率として示されたこと、のちに識字率と言い換えて引用された経緯の出典
- 東京書籍FAQサイト「『士農工商』や『四民平等』の用語が使われていないことについて」※平成12年度(2000年度)版から身分制度を表す言葉として「士農工商」を使用していないこと、『管子』の「士農工商の四民は石民なり」と「国を支える職業」という原義、「四民」が「天下万民」の意味であること、近世にさまざまな身分があったこと、ピラミッド型の理解が適切でないことの出典
- J-STAGE 清水一彦「出版における言説構成過程の一事例分析 『江戸時代の識字率は高かった』という”常識”を例として」『出版研究』48巻(2017年)1〜21ページ ※「江戸時代の識字率は学術的には高低が判断出来ない」という抄録の記述の出典
- ねとらぼ「最近の教科書には『士農工商』が載っていない? 近年の研究で『不適切だった』と判明 → 教科書から削除に」※東京書籍で平成12年度(2000年度)の教科書から削除されたこと、江戸時代の身分の区分の出典
- 刀剣ワールド「士農工商 日本史辞典」※1990年代以降に、農民・職人・商人のあいだの上下関係を否定する研究成果が相次いだことの出典
- 名古屋刀剣ワールド「日本史/江戸時代の年表」※大坂夏の陣・島原天草一揆・享保の改革・ペリー来航など、年表に挙げた出来事の年の照合に使用








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