川路聖謨(かわじ としあきら)の没日を調べていて、手が止まりました。慶応4年3月15日です。
江戸城が明け渡された日ではありません。新政府軍による江戸城総攻撃が予定されていた日です。実際の明け渡しは、そこから1か月近くあとになります。
事典には「江戸開城の翌日に自殺」と書くものがあります。その一行が何を指しているのか確かめたくて、この人物を調べ始めました。
この記事の結論
川路聖謨は、下田で日露和親条約に調印した幕末の幕臣です。勘定奉行・外国奉行を務め、ロシアとの国境の取り決めに立ち会いました。
豊後国日田(現在の大分県日田市)の代官所につとめる下級役人の子に生まれ、10代のうちに勘定所の計算の試験に通って役人になった人でもあります。
奈良奉行だった時期には、興福寺や東大寺の境内に桜と楓を植えることを発案しています。奈良市を流れる佐保川の並木は、今も「川路桜」と呼ばれています。
- 満66歳
没年齢(数え年68歳) - 1855年
日露和親条約の調印 - 1817年
勘定所の試験に合格
この記事では、名前と経歴の整理から始めて、三つの功績、江戸城総攻撃の予定日に起きたこと、生涯の年表までを順にたどります。
語り手として、川路聖謨AI(川路聖謨をモデルにしたAI)にも登場してもらいます。当時の空気や、本人がどう感じていたかを想像する手がかりにしてください。
※以下のインタビュー部分は、公開されている史料をもとに川路聖謨の人物像を再現した創作です。実際の発言をそのまま掲載したものではありません。
出典の確かめ方と、公開前に行っているチェックは編集方針にまとめています。

聖謨さん、はじめまして。まずはご自身が何者なのか、あなたの言葉で教えていただけますか。お名前を読むところでつまずく人も多いようです

わしが川路聖謨じゃ。読みは『としあきら』でござる。ふだんは三左衛門と呼ばれておった。
豊後の日田で、代官所につとめる下役の子として生まれ、幼いころ江戸へ出て川路の家の養子となった身でござる。
十七の年に勘定所の筆算吟味に通ってな、そこから役についた。学問吟味のほうは、同じ年に落ちておる。
まずは川路聖謨の基本プロフィールと、何をした人物なのかを2分で知ろう
細かい話に入る前に、表で全体像をつかんでみましょう。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 名前 | 川路聖謨(かわじ としあきら)※通称は弥吉、のち三左衛門。叙任により左衛門尉と称した。号は敬斎・頑民斎 |
| 生没年 | 享和元年4月25日(1801年6月6日)〜慶応4年3月15日(1868年4月7日)。満66歳で死去(数え年では68歳) |
| 出身 | 豊後国日田(現在の大分県日田市) |
| 家 | 日田代官所の属吏の子。文化9年(1812年)8月に小普請組・川路光房の養子となり、翌年3月に家督を相続 |
| 活躍した時代 | 幕末 |
| 主な役職 | 佐渡奉行、奈良奉行、大坂町奉行、勘定奉行、外国奉行 |
| 主な功績 | 日露和親条約の調印、奈良での桜と楓の植樹、日記や記録の執筆 |
この表で注意したいのが、生没年の欄です。
国立公文書館とデジタル版日本人名大辞典は没年齢を「68歳」と記しますが、これは数え年です。西暦の誕生日から数えた満年齢では66歳になります。
もうひとつ、実父の名も資料で分かれます。国立公文書館は「内藤歳由」と記し、日本大百科全書とブリタニカ国際大百科事典は「内藤吉兵衛」と記しています。
実名と通称の違いである可能性はありますが、本記事では確かめられていません。この記事では、家の立場だけを「日田代官所の属吏の子」と書いておきます。

日田の代官所といえば、幕府の役所ではありますが、そこにお勤めのご家族から江戸の旗本家へ入られたわけですね。ご自身では、どこの人という感覚がありましたか

むずかしいことを聞くのう。生まれは豊後じゃが、物心ついたころには江戸におった。
川路の家を継いだのは十二の年でござる。家柄で世に出た者ではないゆえ、どこの人かより、何を任されておるかで自分を数えておった。
さよう、帳面に自分の名が載っている役所こそ、わしの居場所であったかもしれぬ。
川路聖謨の三つの功績|条約・桜・日記
40年を超える役人生活のなかで、性質の違う三つの仕事が残りました。外交、まちづくり、そして記録です。
- ① 下田で日露和親条約に調印したこと
- ② 奈良奉行として桜と楓の植樹を発案したこと
- ③ 日記と記録を書き残したこと(『川路聖謨文書』全8巻)
一つ目は国境の話、二つ目は町の景色の話、三つ目は紙の上の話です。順に見ていきましょう。
① 下田で日露和親条約に調印した(1855年)
いちばん大きな仕事は、ロシアとの条約です。交渉の流れを表で追ってみましょう。
| 年(和暦) | できごと |
|---|---|
| 1853年(嘉永6年)9月 | 勘定奉行として海防掛を兼ねる |
| 1853年(嘉永6年)10月 | 露使応接掛を拝命し、長崎へ向かう |
| 1854年(嘉永7年・安政元年) | 伊豆の下田で折衝を重ねる |
| 1855年2月7日(安政元年12月21日) | 下田で日露和親条約に調印 |
表のいちばん下に注意してください。安政元年12月21日は、西暦では1855年2月7日にあたります。和暦の年末は、西暦では翌年にずれこみます。
安政元年を1854年と対応させて「1854年に条約を結んだ」と書く資料もあります。日付を換算した1855年2月7日と、年どうしの対応表記は別のものです。
調印の場所は下田の長楽寺で、日本側の全権は筒井政憲と川路聖謨、ロシア側の全権はプチャーチンでした。
条約で決まったのは、択捉島と得撫島(うるっぷとう)のあいだを国境とすること、樺太には国境を設けないこと、そして箱館・下田・長崎を開くことなどです。
ロシア側の受け止め方についても、事典が触れています。日本大百科全書は「ロシア側では、この間の川路の手腕を高く評価している」と書いています。
下田開国博物館は、プチャーチンが川路にガラスのコップを贈ったことを紹介しています。川路本人と夫人、それに孫への3つだったとされています。

相手の使節から贈り物が届くというのは、交渉としてはうまくいったということでしょうか

うまくいった、と申すのは気が早いのう。取り決めができたというだけのことでござる。
わしがしたのは、取り決めの文言を一つずつ確かめることでござった。国境の線引きは、あとの世まで残るものじゃからな。
もらい物のことまで、よう残っておるものじゃ。
プチャーチンとの折衝を任された川路の姿は、吉村昭の歴史小説『落日の宴』に描かれています。史実をもとにした小説で、創作を含みます。
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この作品のポイント
- 上巻:交易と北辺の国境画定を迫るロシア使節プチャーチンとの折衝
- 上巻:軽輩の身から勘定奉行に登りつめ、その折衝を任された川路
- 下巻:地震と津波で艦船を失ったプチャーチン一行と、幕府の配慮で完成した「戸田号」での帰国
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② 奈良奉行として桜と楓の植樹を発案した(1846〜1851年)
条約より前、川路は5年余りを奈良で過ごしました。この時期の仕事は、今も奈良の景色に残っています。
奈良市の公式ページで確認できることを、表にまとめます。
| 項目 | 奈良市の文化財のページに書かれていること |
|---|---|
| 発案 | 興福寺・東大寺の境内への桜・楓の植樹を発案した |
| 広がり | 町民にも呼びかけ、植樹は高円・佐保地域にまで及んだといわれる |
| 石碑 | 「植桜楓之碑」が1850年(嘉永3年)3月に建てられた |
| 碑の場所 | 猿沢池北側の五十二段のかたわらに今も残っている |
注目したいのは「広がり」の行です。奈良市自身が「といわれています」と書いています。
命じて植えさせたという書き方ではなく、町民にも呼びかけたという伝え方になっているところが、この記述の性格を示しています。
一方で、奈良市のページに書かれていないこともあります。植えた本数、費用の出どころ、そして今残る桜の樹齢です。
ほかの資料には「数千本」「約50万本」といった数字が出てきますが、資料のあいだで開きが大きすぎます。この記事では本数を書かないでおきます。
佐保川の桜並木が「川路桜」と呼ばれていることは、奈良市観光協会が紹介しています。いつからそう呼ばれているかは、本記事では確認していません。

奉行の仕事といえば裁きや取り締まりを思い浮かべます。なぜ木を植えようと思われたのですか

なぜ木を植えたか、その理由を書き残した覚えはござらぬ。ここからは創作としての物言いと思われよ。
木は植えれば育つ。わしが去ったあとも育つ。役人の申し渡しより、そちらのほうが確かじゃと思うたまでのこと。
そなたらの世でも、まだ咲いておるのか。それは聞いてうれしい話じゃ。
③ 日記と記録を書き残した|『川路聖謨文書』全8巻
三つ目は、紙に残した仕事です。川路はとにかく書く人でした。
- 『寧府紀事』(ねいふきじ)… 奈良奉行の時期の日記
- 『長崎日記』『下田日記』… ロシア使節との応接の記録
- 『島根のすさみ』… 佐渡奉行在勤の日記として山川日本史小辞典が挙げる
これらをまとめた『川路聖謨文書』全8巻は、日本史籍協会から1932年7月から1934年12月にかけて刊行されました。
『島根のすさみ』は同書の第1巻に収められています。国立国会図書館サーチの書誌は、第1巻の内容を「濃役紀行・岐岨路の日記・島根のすさみ」と記しています。
同じ書誌で巻ごとの収録もたどれます。『寧府紀事』は『玉川日記』とともに1933年の巻に、『長崎日記』『下田日記』は1934年の巻に入っています。
幕末の役人が、任地ごとに何を見て何を決めたのかを、本人の筆でたどれる資料です。幕府側の実務を知るうえでは貴重なまとまりです。
なお、デジタル版日本人名大辞典は川路の格言として「小心でなくては大事はできない」を挙げ、出典を『寧府紀事』としています。
原文の該当箇所は本記事では確認していません。事典が『寧府紀事』の言葉として紹介している、という範囲で受け取ってください。

毎日書き続けるのは、大変ではなかったのですか

役目のうちでござる。もっとも、なぜ書き続けたかを記した覚えはござらぬ。人の申したこと、決めたことは、その日に書いておかねば形が変わってしまう。
覚えというものは、都合のよいほうへ曲がるものじゃからな。わしは自分の覚えも信じておらぬ。
それに、書いておけば孫の代の者が読むこともあろう。そう思えば筆も進むものじゃ。
川路聖謨の死因と最期|江戸城総攻撃の予定日に起きたこと
川路が亡くなったのは慶応4年3月15日、西暦では1868年4月7日です。改訂新版世界大百科事典は、晩年の川路が「中風で半身不随となった」と記しています。
事典はいずれも「ピストル自殺」と記します。切腹したのちに拳銃を用いたとするのは、WEB歴史街道(PHP研究所)の記述です。
「日本で最初のピストル自殺」と紹介されることもありますが、その最初性は本記事では確かめられていません。
ここで整理しておきたいのが日付です。事典が書く「江戸開城の翌日」が何を指すのか、3つの日を並べてみます。
| 和暦 | 西暦 | できごと |
|---|---|---|
| 慶応4年3月13日・14日 | 1868年4月5日・6日 | 勝海舟と西郷隆盛が江戸の薩摩藩邸で会談。翌日に迫っていた江戸城総攻撃が中止になる |
| 慶応4年3月15日 | 1868年4月7日 | 総攻撃の予定日。川路が自ら命を絶つ |
| 慶応4年4月11日 | 1868年5月3日 | 江戸城が明け渡される |
日本大百科全書は、川路の最期を「江戸開城締約の翌日(3月15日)」と記しています。
つまりここでいう「江戸開城」は、4月11日の城の明け渡しそのものではありません。3月14日の会談で開城の方針がまとまったことを指しています。
「江戸開城」という言葉は、この締約と実際の明け渡しの両方を指して使われます。日付を読むときは、どちらのことかを分ける必要があります。
城の引き渡しは、そこからおよそ1か月あとでした。川路はその日を見ていません。
会談は2日にわたりました。国立国会図書館が紹介する勝海舟の日記には、初日を「明日をもって決せむ」と結ぶ記述が見えます。
この会談のもう一方の当事者については、別の記事で詳しく紹介しています。
では、川路は総攻撃が中止になったことを知っていたのでしょうか。今回参照した資料では、そこを確かめられませんでした。
資料の書き方は分かれています。改訂新版世界大百科事典は「江戸開城のうわさを聞いて」と書き、日本大百科全書は「江戸開城締約の翌日」と書きます。
台東区の観光情報サイトは「江戸開城の報に接し」としています。いずれも、報せがどこまで届いていたのかまでは書いていません。
動機についてはWEB歴史街道が、最下級の身分から勘定奉行まで引き上げてくれた幕府への恩義に報いるためだろうと推測しています。
墓は大正寺(東京都台東区池之端)にあります。

最期のことをお尋ねしてよいか、迷っています

その先のことは、わしの口から申すべきではござらぬ。何を思うて何をしたか、当てるのは残った者の仕事でござろう。
ただ一つだけ申せば、あのころのわしは半身が動かなんだ。それも、そなたらの世に残った史料が伝えているだけのことじゃ。
そこから先は、そなたらが史料を読んで決めるがよい。
川路聖謨の生涯の年表
ここまでの話を、年の順に並べます。
和暦の年末は、西暦では翌年になります。そのため、表の左端には和暦を併記しました。
年齢は載せません。旧暦生まれの人物は、出来事ごとに満年齢の換算が必要になるためです。
| 年(和暦) | できごと | 解説 |
|---|---|---|
| 1801年(享和元年) | 豊後国日田に生まれる | 日田代官所につとめる下級役人の子 |
| 1804年(文化元年) | 母とともに江戸へ出る | 以後の生活の場は江戸になる |
| 1812年(文化9年) | 小普請組・川路光房の養子となる | 翌年3月に家督を相続する |
| 1817年(文化14年) | 勘定所の筆算吟味に合格 | 国立公文書館は「17歳で」と記す(数え年)。同じ年に受けた学問吟味は不合格 |
| 1818年(文政元年) | 支配勘定出役に採用される | 勘定所の下役として役人生活が始まる |
| 1823年(文政6年) | 評定所留役 | 幕府の裁判事務にあたる役 |
| 1835年(天保6年) | 勘定吟味役に抜擢される | 改訂新版世界大百科事典は仙石騒動の断罪での手腕を理由に挙げる |
| 1840年(天保11年) | 佐渡奉行 | 佐渡の統治にあたる。『島根のすさみ』はこの時期の日記とされる |
| 1846年(弘化3年) | 奈良奉行 | 桜と楓の植樹を発案するのはこの任地 |
| 1850年(嘉永3年) | 「植桜楓之碑」が建てられる | 奈良市によれば同年3月 |
| 1851年(嘉永4年) | 大坂町奉行 | 奈良を離れ、大坂へ移る |
| 1852年(嘉永5年) | 勘定奉行 | 幕府の財政をあずかる役に就く |
| 1853年(嘉永6年) | 海防掛を兼ね、露使応接掛として長崎へ | プチャーチンの来航を受けての人事 |
| 1855年(安政元年12月) | 下田で日露和親条約に調印 | 安政元年を1854年と対応させ、1854年と書く資料もある |
| 1857年(安政4年) | 勘定奉行勝手方首座、米国総領事上府御用掛 | ハリスの江戸出府にかかわる役も兼ねる |
| 1858年(安政5年) | 京都へ随行したのち、西丸留守居に左遷 | 将軍の継嗣と条約の勅許をめぐる争いのなかで地位を失う |
| 1859年(安政6年) | 隠居・差控を命じられる | 役目から完全に離れる |
| 1863年(文久3年) | 勘定奉行格外国奉行に復す | 同年10月に辞職。以後は役に就いていない |
| 1868年(慶応4年3月15日) | 自ら命を絶つ | 江戸城総攻撃の予定日にあたる |
この年表で目を引くのは、1858年から1859年の落差です。条約の勅許を求めて京都へ向かった年に左遷され、翌年には隠居を命じられています。
将軍の継嗣問題で一橋派とみなされたためと日本大百科全書は説明し、改訂新版世界大百科事典は安政の大獄による左遷と退隠と書いています。この時期の中心にいた人物は、こちらの記事で扱っています。
川路聖謨のすごさと、後世に残ったもの
「すごさ」と言われると誇張しやすいところなので、資料からたどれることだけを並べます。
- 勘定所の下役から勘定奉行・外国奉行まで役目を重ねたこと
- 日本大百科全書が「ロシア側では、この間の川路の手腕を高く評価している」と記すこと
- 日記や記録が『川路聖謨文書』全8巻として活字になっていること
- 奈良の佐保川の桜並木が「川路桜」と呼ばれていること
一つ目は、経歴そのものの話です。10代で受けた試験から始まって、佐渡・奈良・大坂・江戸と任地を変え、幕府の財政と外交の両方を扱う位置まで進みました。
二つ目は、相手方からの評価が残っている点です。交渉の巧拙は自国の記録だけでは測れませんが、この人物については相手側の評価に触れた事典の記述があります。
三つ目と四つ目は、残り方の違いです。一方は活字として、もう一方は桜の呼び名として残りました。どちらも本人が見届けていないものです。
弟の井上清直も幕府の外交にあたった人物で、外国奉行としてハリスに応接しました。兄弟で開国期の交渉に関わっています。

ご自身の仕事のなかで、後の世に残ってほしいと思うものはありますか

残ってほしいと願うて残るものではあるまい。役所の書きつけなど、たいていは焼けるか捨てられるかじゃ。
とはいえ、もし何か残るなら、勘定所の下役から始めた者でも奉行の役はつとまる、という一事でよい。
家柄を当てにできぬ者が、どこを頼りに働けばよいか。そこが知れるだけで十分でござる。
川路聖謨の歩みから考える現代へのヒント
ここからは筆者の解釈です。史料が語っていることではなく、読み手として受け取ったことを書きます。
| 川路聖謨の歩み | 筆者が受け取ったヒント |
|---|---|
| 学問吟味に落ち、筆算吟味に通って役人になった | 得意な入口はひとつでよい。入ってから広げられる |
| 長崎と下田でロシア使節に応接し、条約に調印した | 畑違いの場に立たされても、それまでの仕事の作法は持ち込める |
| 奈良で桜と楓の植樹を発案し、町民にも呼びかけたと伝わる | 遅く効くことに手をつけられるかどうかが分かれ目になる |
| 任地ごとに日記を書き残した | 自分の記憶を信じすぎないほうが、判断は正確になる |
この表でいちばん書きたかったのは、いちばん上の行です。
学問の試験に落ちた同じ年に、計算の試験に通って役所に入りました。得意なほうの入口から入り、そこから外交まで届いています。
事典が紹介する「小心でなくては大事はできない」という言葉も、同じ方向を向いているように読めます。慎重さを弱さと見なかった人だった、という解釈です。
ただしこれは、日記の原文を確かめたうえでの解釈ではありません。事典が紹介した一句から、筆者が受け取った印象です。

川路兄弟が生きた開国期の流れは、ペリー来航から幕府の終わりまでを扱う学習まんがの通史でも追えます。
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この本の読みどころ
- 「外国船の出現と天保の改革」から「江戸幕府の終わり」まで、江戸時代後期の4章
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よくある質問(FAQ)
川路聖謨は何と読みますか?
「かわじ としあきら」と読みます。通称は弥吉、のち三左衛門で、叙任により左衛門尉と称しました。号は敬斎・頑民斎です。
川路聖謨は何をした人ですか?
幕末の幕臣です。勘定奉行としてロシア使節プチャーチンに応接し、下田で日露和親条約に調印しました。奈良奉行のときには桜と楓の植樹を発案しています。
川路聖謨の死因は何ですか?
慶応4年3月15日(1868年4月7日)に自ら命を絶ちました。事典は「ピストル自殺」と記し、切腹のうえ拳銃を用いたとする紹介もあります。
なぜ江戸開城の前後に自ら命を絶ったのですか?
事典や自治体の資料は「江戸開城のうわさを聞いて」「報に接し」という書き方をします。ただし総攻撃の中止を知っていたかどうかは、参照した資料では確認できませんでした。
川路桜はどこで見られますか?
奈良市を流れる佐保川の桜並木がそう呼ばれています。奈良奉行だった川路が興福寺・東大寺の境内への植樹を発案し、高円・佐保地域にまで及んだといわれています。
警察制度をつくった川路利良とは親戚ですか?
本記事が参照した資料に、両者の血縁について書いたものはありませんでした。利良は薩摩藩士として戊辰戦争に参加した人物で、聖謨は豊後日田の生まれです。
川路聖謨の子孫はいますか?
詩人の川路柳虹(1888〜1959年)が子孫にあたります。ただし続柄は事典によって分かれ、曾孫と書くものと孫と書くものがあります。
川路聖謨の日記はどこで読めますか?
『川路聖謨文書』全8巻(日本史籍協会、1932〜1934年刊)に収められています。『寧府紀事』『長崎日記』『下田日記』などが入っています。
インタビュー後記|川路聖謨は「数えて書いた人」
今回は川路聖謨AIに登場してもらいました。
調べていて印象に残ったのは、この人の記録が数字と日付でできているところです。勘定所の試験、条約の調印日、任地ごとの日記。どれも数えられる形で残っています。
その一方で、いちばん知りたいところは数えられませんでした。慶応4年3月15日に、江戸城総攻撃の中止を知っていたのかどうかです。
資料の書き方は分かれたままで、報せがどこまで届いていたかを決める手がかりは見つかりませんでした。日記を書き続けた人の最後の一日が、いちばん不明なままになっています。
植えた桜の本数も分かりませんでした。奈良市の公式ページは本数を書いておらず、ほかの資料の数字は開きが大きすぎます。
数えられるものは細かく残り、数えたいことは残らない。記録というのはそういうものなのかもしれません。
同じ時期に幕府の財政をあずかり、最後まで戦うことを主張した人物の記事もあります。あわせて読むと、幕末の幕臣の選択の幅が見えてきます。
あなたは川路聖謨の生き方から、何を受け取りますか。
参考資料
- 国立公文書館「異才の幕臣たち|川路聖謨」※生年月日、実父を「内藤歳由」と記すこと、養子入りと家督相続、筆算吟味の合格と学問吟味の不合格、各官職の年次の出典
- コトバンク「川路聖謨」※実父を「内藤吉兵衛」と記すこと、通称・号、左遷の理由の説明が事典で分かれること、ロシア側の評価、没年齢を68歳とすることの出典。同ページ所収の山川日本史小辞典が『島根のすさみ』を佐渡奉行在勤日記として挙げ、デジタル版日本人名大辞典が格言「小心でなくては大事はできない」の出典を『寧府紀事』とすることの出典も同じページです
- コトバンク「日露通好条約」※調印日を1855年2月7日(安政元年12月21日)とすること、全権が筒井政憲・川路聖謨とプチャーチンであること、国境と開港地の内容の出典
- 奈良市「ならまち歳時記~4月~ 奈良の桜と川路聖謨」※植樹の発案、町民への呼びかけ、高円・佐保地域まで及んだといわれること、植桜楓之碑の建立年月と所在の出典
- 奈良市観光協会「佐保川・川路桜祭り」※佐保川の桜並木が「川路桜」と呼ばれていることの出典
- 台東区公式観光情報サイト「川路聖謨墓」※墓所が大正寺(台東区池之端2-1-21)であること、「江戸開城の報に接し」と書くことの出典
- WEB歴史街道(PHP研究所)「川路聖謨」※切腹したのちに拳銃を用いたとすること、動機を幕府への恩義に報いるためと推測していること、中風で倒れたとすることの出典
- 国立国会図書館「川路利良|近代日本人の肖像」※川路利良が薩摩藩士として戊辰戦争に参加し、明治7年の警視庁創設のときに大警視となったことの出典
- 下田開国博物館「プチャーチンが川路聖謨に贈ったコップ」※調印の場所を下田の長楽寺とすること、コップが3つ贈られたことの出典。なお同ページの国境の記述は事典と読みが異なるため、条約の内容は事典側を根拠にしました
- 国立国会図書館サーチ『川路聖謨文書』(日本史籍協会、1932.7〜1934.12)※全8巻の刊行年の出典
- 国立国会図書館サーチ『川路聖謨文書:玉川日記 寧府紀事』(1933年)※『寧府紀事』が1933年の巻に収められていることの出典
- 国立国会図書館サーチ『川路聖謨文書:浪花日記 房総海岸巡見日記 長崎日記 下田日記』(1934年)※『長崎日記』『下田日記』が1934年の巻に収められていることの出典
- 国立国会図書館サーチ『川路聖謨文書』第1(濃役紀行,岐岨路の日記,島根のすさみ)※『島根のすさみ』が第1巻に収められていることの出典
- コトバンク「川路柳虹」※川路柳虹の生没年と、続柄を「曾孫」と書く事典と「孫」と書く事典があることの出典
- コトバンク「江戸開城」※勝海舟と西郷隆盛の会談が3月13日・14日の両日であること、江戸城総攻撃の予定日を3月15日とすること、4月11日に開城したこと、慶応4年4月11日を1868年5月3日とする西暦換算の出典
- 国立国会図書館 電子展示会「日記の世界」勝海舟:慶応4年3月13日(1868年4月5日)の日記より※慶応4年3月13日が西暦1868年4月5日にあたること、会談初日を「明日をもって決せむ」と結ぶ日記の文面の出典






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