岩倉具視の家系図を開くと、すぐに引っかかるところがあります。実子なのに「孫」と書かれている人がいるのです。
書き間違いではありません。しかも、そう書いているのは、のちに編まれた公式の伝記『岩倉公実記』でした。
この記事の結論
岩倉具視の血筋は、いまも続いています。 俳優の加山雄三さんは、事典が具視の曽孫と記す女優・小桜葉子の長男です。ただし家の名前を先に継いだのは、実子ではなく養子でした。
理由をたどると、公家の家の仕組みそのものに行き当たります。血のつながりと、家の名前を継ぐことは、この時代には別の話だったのです。
そして岩倉具視自身、岩倉家に生まれた人ではありません。 数えで14歳のときに、他家から入った養子でした。
- 数え14歳
具視が堀河家から岩倉家に移った年齢(『岩倉公実記』) - 4家
明治に「岩倉」「南岩倉」の名で立った華族の家の数 - 1947年5月3日
日本国憲法の施行で華族制度が廃止された日
この記事では、家系図を国立国会図書館で公開されている系譜集と公式伝記で1代ずつ確かめ、岩倉4家のその後までたどります。資料が食い違うところは、どちらにも寄らずに並べます。
そして今回は、具視AI(岩倉具視をモデルにしたAI)にも登場してもらいます。ただし、この記事で扱う出来事の多くは具視の死後に起きたものです。
華族令も、公爵家の代替わりも、子孫の現在も、すべて明治16年より後のことです。本人が知り得ない話は「そなたらの世の記録では」と伝え聞く形で語ってもらいます。
※以下のインタビュー部分は、公開されている史料をもとに岩倉具視の人物像を再現した創作です。実際の発言をそのまま掲載したものではありません。
具視の没後の出来事については、後の世に伝わったものとして伝えたうえで語ってもらう形にしています。
出典の確かめ方と、公開前に行っているチェックは編集方針にまとめています。

岩倉さん、今日はあなたの家のその後を伺います。
まず確かめたいのですが、あなたは岩倉家に生まれた方ではないのですね。

いかにも。わしは堀河の家の者じゃ。
数えの14で岩倉の家に移り、そこで元服いたした。
家の記録には具慶の子と書かれておるが、生みの父母は別におります。そこは隠しようもありませぬ。
岩倉具視の子孫は続いている|家系図で確かめる
結論から書きます。岩倉具視の血筋は続いています。 ただし、家の名前をたどる線と、血のつながる線は、途中で何度も入れ替わります。
先に全体を図で示します。生まれた家から、4つに分かれた子孫の家までを1枚にまとめました。

※この図は、本記事が確認できた資料の範囲で作成したものです。資料によって説明が分かれる点は、以下の本文で示します。
※図の生年は太陽暦に換算した日付です。和暦では文政8年9月15日にあたります。また、子がどの順に生まれたか、誰を母とするかを記した資料は、今回確認できていません。
岩倉具視の家系図
『華族類別譜』『岩倉公実記』(1906年)と、コトバンク収録の事典で続柄を1人ずつ確かめたものです。血のつながりと、家名の継承を分けて示しました。
※維新前の公家は、養子も系図に「実子」と書くのが慣例でした(『岩倉公実記』上巻の附注)。
※この図の「血」の印は、事典や公式伝記で血縁と確認できたものに限っています。
※具張・具栄が爵位を継いだ日付と、両者の続柄(具定の子・具張の子)は、今回Wikipedia以外で確認できませんでした。
※道倶を四男とする続柄と、明治29年の分家も、今回Wikipedia以外で確認できていません。
まず、具視の周囲にいた人を整理します。続柄の「実子」「養子」は、『華族類別譜』『岩倉公実記』と、コトバンク収録の事典で1人ずつ確かめたものです。
| 続柄 | 名前 | 資料が書いていること |
|---|---|---|
| 実父 | 堀河康親 | 前権中納言。具視はその第二子 |
| 実母 | 勧修寺氏 | 『岩倉公実記』が実母として記す |
| 養父 | 岩倉具慶 | 岩倉氏第10世。正三位。具視は第11世にあたる |
| 本人 | 岩倉具視 | 幼名は周丸(かねまる)。号は対岳 |
| 妻 | 誠子 | 文久2年の幽居の場面に「夫人誠子」と出る |
| 養子 | 岩倉具綱 | 公卿・富小路政直の子。具視の死後、まず家を継いだ |
| 実子(男子) | 具義・具定・具経・道倶 | それぞれ別の家を立てる(後述) |
| 実子(女子) | 複数 | 戸田氏共に嫁いだ女子など。『華族類別譜』は「女子二人」とまとめて記す箇所もある |
| 曾孫 | 岩倉具方 | 洋画家。1937年に上海で戦死、30歳 |
ここで一つ、はっきり書いておきます。具視の子の数を「4男○女」と断定できません。
よく挙げられるのは4人の男子ですが、『華族類別譜』の子女欄には、それより多くの名が並んでいます。直丸・具幸・具徳といった名です。
事典に立項がないため、この記事では人数を数えずに書きます。

お子さんは何人いらしたのですか。

家の記録に何人と書かれておるか、わしにもすぐには申せぬ。
そなたらの世に残る系譜には、名だけ並んで事績の伝わらぬ子もおるのじゃろう。
数を言い切るより、確かめられた者から順に並べるのが筋道ではないかのう。
岩倉具視は岩倉家の実子ではありません|堀河家から数え14歳で
具視は文政8年9月15日(1825年10月26日)、京都に生まれました。父は前権中納言の堀河康親で、具視はその第二子です。
移り先の岩倉家は、村上源氏の流れをくむ久我家の庶流にあたります。『華族類別譜』は当主の欄に「舊高百五十石」と記しており、公家のなかでは家禄の少ない家でした。
岩倉家に入ったのは、天保9年(1838年)のことでした。きっかけを作ったのは、具視が学んでいた師匠でした。
- 天保8年(1837年)の春、師の伏原宣明が岩倉邸を訪ね、子のない具慶に「吾カ門生ニ堀河周丸ト云ヘル童子アリ(わが門生に堀河周丸という童子がおります)」と勧めた
- 具慶は錦織久雄を介し、堀河康親へ、具視を実子として養いたいと申し入れた
- 引き渡しの口状書が伝わる。「周丸様 永々御預ケ被申置候処、今度御返シ可被進候ニ付」。進物は太刀・馬代・肴・酒
- 岩倉邸で具慶と「始メテ父子相見ノ礼」を行い、用人が迎えに来て移った。その夜の宴には実父の康親夫妻と、実兄の堀河親賀も来会した
- 「具視 時ニ年十四ナリ」。数えで14歳のときでした
同じ年の9月、叙爵と元服(成人の儀式)にあたって名前が決まります。師の宣明が『詩経』の「民具爾瞻(民 ともに 爾を 瞻る)」から「具瞻」の二字を選んで与えました。
ところが具視は、「瞻」の字は画数が多くて書きにくいと嫌い、画数の少ない字に換えます。こうして「具視」になった、と公式伝記は書いています。

師匠がつけてくださった字を、書きにくいという理由で変えたのですか。

筆を持つ手が正直に嫌うたのじゃ。
生涯に幾度、己の名を書くことになるか考えてみられよ。画の多い字は、それだけで手間が増えますでのう。
宣明先生には、さぞ呆れられたことじゃろう。
維新前の公家は、養子も「実子」と書きました
ここから先を読むために、前提を一つ押さえてください。この時代の系図は、養子を養子と書かないことがあります。
推測ではありません。公式伝記『岩倉公実記』自身が、理由まで添えて断っています。
明治維新以前ハ堂上ノ家ニ於テ子女出生スルモ之ヲ朝廷及ヒ幕府ニ届クルノ法規ナシ。故ニ他人ノ子ヲ養フモ太抵実子ト称スルノ慣例ナリ
出典:多田好問編『岩倉公実記』上巻、1906年(国立国会図書館デジタルコレクション、コマ24)
続くコマには、なぜそうなったのかも書かれています。養子を認めるかどうかは幕府の指揮を仰がねばならず、それを皆が嫌ったからだというのです。
此ノ如ク養子ノ許否ハ幕府ノ指揮ニ従ハサルヲ得サルヲ以テ皆之ヲ厭フ。事故ナケレハ、他人ノ子ヲ養フト兄弟准養子ト為スヲ問ハス、一切実子ト称セリ
出典:同書 コマ25
つまり、系図に「実子」と書いてあることは、血がつながっている証拠になりません。 岩倉家の系譜も、具視を具慶の子として記しています。
この記事で続柄を一つずつ資料名つきで示しているのは、そのためです。系図の字面だけでは足りないのです。

系図を額面どおりに読むな、ということになりますね。

届け出る法がなかったのじゃから、書くほうも整えようがありませぬ。
養子の許否に幕府の指揮を仰ぐことを厭い、養子も実子と称するのが慣例となっておった、ということじゃな。
責めても仕方のない話じゃが、後の世で系図を読む者は迷いましょうな。
実子の具定が、記録では「孫」と呼ばれています
さて、冒頭に書いた引っかかりです。
具視の死後、岩倉家をまず継いだのは養子の具綱でした。実子の具定は、その次です。そして資料は、具定を具視の「孫」の位置に置きます。
- 『華族類別譜』は、具綱を嫡男、具定を嫡孫(家を継ぐ孫)として並べる
- 『岩倉公実記』下巻の明治10年の附注は「三月一日 具視ハ孫具定ヲ京都ニ遣リ」と書く。具視の伝記自身が、実子を「孫」と呼んでいる
同書の上巻にも、宮中からの沙汰が具綱にあてられ、そこで呼ばれている「周丸」を具視の孫とする記述があります。時期から具定にあたるとみられますが、同一人物と明記した資料は今回確認できませんでした。
一方、事典はそろって具定を具視の実子とします。「二男」(20世紀日本人名事典・新訂 政治家人名事典)、「次男」(デジタル版 日本人名大辞典+Plus)、「第三子」(国立国会図書館「近代日本人の肖像」)です。
この3つは矛盾していません。男子のなかで2番目、子全体では3番目と読めます。
では、実子なのになぜ「孫」なのか。家の上では、養子の具綱が具視の次の代に座ったからだと読めます。 家の継承順が1代ずれたことが、具定を「孫」の位置に置いた背景の一つだった可能性があります。
ただし、具定が具綱の養子に入ったと明記した資料は、今回確認できませんでした。 そのため、この記事では「孫として扱われた」までにとどめ、理由を断定しません。

あなたの実のお子さんが、記録では孫と書かれています。

家の順と腹の順が違うのじゃろう、とそなたは読むわけじゃな。
わしの口から、そう申すわけにはいかぬ。系譜がなにゆえそう記したかは、記録に聞いてくだされ。
……呑み込みにくい話であることは、わしにも分かりますとも。
国葬の喪主も、養子の具綱でした
血と家の食い違いは、具視の葬儀にも出ています。
明治16年7月20日の7時45分、具視は没しました。国葬の礼を賜り、廃朝(朝廷が政務を休むこと)3日、陸軍・海軍・司法の三省には死刑執行の停止が命じられています。
このとき、葬儀御用掛を置く旨の太政大臣・三条実美の達が届いたのは、「従四位 岩倉具綱」でした。 発葬式の儀注にも「次 喪主具綱 玉串ヲ捧ケテ二拝短手」とあります。
では実子の具定はどこにいたのか。葬列の記録には、こうあります。
具定 名代 家扶 徒歩
出典:多田好問編『岩倉公実記』下巻、1906年(国立国会図書館デジタルコレクション、コマ526)
名代は代理という意味です。 具定は明治15年から伊藤博文の憲法調査に随行して欧州に渡っており、父の死に際して代理を立てたことになります。
ただし「間に合わなかった」と書いた記録は、今回確認できませんでした。この記事では、名代を立てたという記録の形で書きます。
葬儀は神式でした。斎主は出雲大社の千家尊福、副斎主は本居豊頴です。葬場は「武蔵国荏原郡南品川浅間臺 海晏寺ノ後」と記されています。現在の東京都品川区南品川です。
なお、没後20年の明治36年には、宮中から銅燈台2基が墓前に下賜されています。海晏寺の墓地には松平春嶽の墓もありますが、しながわ観光協会は「一般拝観はできません」と明記しています。
この記事は、具視の没後の家の話に絞りました。具視本人がどのように権力の中枢へ進んでいったのかは、作家の永井路子による評伝で読めます。
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この作品のポイント
- 作品紹介が「幾度となく追放されながら」と書く、権力の中枢へのぼっていった過程を追う
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子孫は4つの家に分かれました|岩倉4家それぞれの行き先
具視の男子は、それぞれ別の家を立てました。まとめると、次のようになります。
| 家 | 立てた人 | 分家・創立の経緯 | 爵位 | 旧高(江戸時代の家禄) |
|---|---|---|---|---|
| 公爵 岩倉家(本家) | 具定が継承 | 明治17年に家督を継ぐ | 公爵 | 150石 |
| 男爵 南岩倉家 | 具義 | 慶応4年4月30日に興福寺から復飾。明治2年3月、勅命により一家を創立し「南岩倉」を号す | 男爵 | 40石 |
| 子爵 岩倉家 | 具経 | 慶応4年(1868年)正月に東山道鎮撫副総督。同年6月に分家して堂上(昇殿を許された公家の家格)に列する | 男爵(明治17年)のち子爵 | 200石 |
| 男爵 岩倉家 | 道倶 | 明治29年に分家(年は今回Wikipedia以外で確認できず) | 男爵 | 今回確認できず |
4人が同じように分家したのではありません。 立てた時期も、爵位も、経緯もまるで違います。
長男とされる具義は、南都興福寺の住職でした。慶応4年(1868年)に復飾(僧をやめて俗人に戻ること)し、翌年に勅命で一家を立てています。僧から華族になった経緯です。
三男の具経は、戊辰戦争で東山道鎮撫副総督を務めたのち分家しました。妻は東本願寺(大谷)光勝の女・俊子です。明治3年には兄の具定とともにアメリカへ留学し、11年に帰国しています。
四男とされる道倶は、男爵・貴族院議員として長く在職しました。1944年の『帝国議会貴族院事務局報告』は「男爵岩倉道倶君 貴族院議員ノ任ニ在ルコト三十年」と表彰を記録しています。
具経の爵位には、一つ気になる記述があります。新訂 政治家人名事典は「男爵:17年、子爵:24年」と並べますが、具経は明治23年10月17日に没しています。 明治24年の子爵が誰に対するものかは、今回確認できませんでした。

お子さんたちは、それぞれ別の家を立てられました。

具義が寺を出て家を起こし、具経が堂上に列したのは、わしの目の黒いうちのことじゃ。
僧であった者が家を立てるなど、わしが若い頃には考えられませなんだ。
道倶が家を分けたのは、そなたらの世の記録で知るほかありませぬ。世が変わるときには、家の立て方まで変わるものじゃな。
公爵・岩倉家はどう受け継がれたか|華族制度の廃止まで
岩倉家は華族のなかで最上位の公爵でした。具視の勲功によるものです。その代替わりを、今回確認できた範囲で並べます。
| 代 | 当主 | 家督を継いだ年 | 爵位 |
|---|---|---|---|
| 具視の死後 | 岩倉具綱(養子) | 明治16年(1883年)の具視の死後に家を代表し、明治17年に隠退 | — |
| 初代公爵 | 岩倉具定(実子) | 明治17年(1884年) | 公爵 |
| 2代 | 岩倉具張 | 明治43年(1910年) | 公爵 |
| 3代 | 岩倉具栄 | 大正3年(1914年) | 公爵 |
※具張を具定の子、具栄を具張の子とする続柄は、今回Wikipedia以外で確認できませんでした。確実に言えるのは、『華族名簿』などの公刊物が、その年にその人を当主として載せていることです。
公爵に叙された年は、資料で分かれます。 国立国会図書館の略歴は「17年家督を継ぎ公爵」とし、20世紀日本人名事典と新訂 政治家人名事典は「18年父の功により公爵」とします。
家督相続と叙爵は別の出来事です。この記事では家督は明治17年、叙爵は17年説と18年説があると書きます。
具張の代替わりは、同時代に近い公刊物で裏がとれました。1933年の『株式ニ関スル判例集』の判決理由に「岩倉具張カ大正三年九月中隱居ヲ」という一節があります。
ただし日付までは「九月中」しか書かれていません。 具張・具栄の襲爵の日付は、今回Wikipedia以外で確認できなかったため、この記事では年だけにとどめます。
そして昭和22年(1947年)5月3日、日本国憲法の施行によって華族制度は廃止されました。公爵という位そのものが、ここで消えています。

その公爵という位は、いまはありません。1947年に華族制度そのものが廃止されました。

爵位が消えたと。ほう。
そなたらの世の記録ではそうなっておるのじゃろうが、わしにはにわかに信じ難い話じゃ。
……いや、笑い話ではないのう。わしは公家の家に生まれながら、その家格を崩す側に回った身じゃ。旧例を守って国が立つなら、わしは何もいたしませぬ。位が要らぬ世になったのなら、それはそれで筋が通っておりましょう。
子孫が関わった保存|岩倉具視幽棲旧宅と遺品の行方
子孫の足どりを公的な資料でたどれる場所が、京都にあります。岩倉具視幽棲旧宅です。昭和7年(1932年)3月25日に国の史跡へ指定されました。
具視が洛北の岩倉村に幽棲したのは文久2年(1862年)から慶応3年(1867年)までです。ただし、いま残る建物はその全期間のものではありません。
公式サイトは「元治元年(1864)に大工藤吉の居宅(現在の附属屋)を購入し、主屋と繋屋を増築して住居とした」と記しています。
ここに、子孫が関わった記録が残っています。
- 敷地内の対岳文庫は1928年の建築。鉄筋コンクリート造で、設計は京都帝国大学教授の武田五一
- 1930年の『財団法人岩倉公旧蹟保存会要誌』の遺品寄贈者一覧に、岩倉具方・岩倉道倶・子爵岩倉具明・公爵岩倉具栄の名が並ぶ
- 1933年の『岩倉公五十年祭記要』には、公爵岩倉具栄が母堂・櫻子、夫人・良子とともに献詠者として名を連ねる
- 平成25年(2013年)、財団法人岩倉公旧蹟保存会から京都市が旧宅の寄付を受けた。現在の指定管理者は植彌加藤造園株式会社
- 収蔵資料のうち国指定重要文化財1,018点と市指定109点は、京都市歴史資料館が保管している
遺品を寄贈した一人、岩倉具方は具視の曾孫です。太平洋美術学校に学び、昭和2年(1927年)に二科展へ初入選した洋画家でした。
1930年から36年まで外遊し、1937年(昭和12年)9月に嘱託画家・報知新聞特派員として日中戦争に従軍、同年10月14日に上海で戦死しています。満29歳でした(事典は数え年で30歳と記します)。
嘱託画家の所属は、陸軍省とする事典と海軍省とする事典に分かれています。
なお、重要文化財には「岩倉具視関係資料」という名前のものがもう一つあります。紙本墨書1,707点で、平成25年6月19日の指定です。所有者は広島県廿日市市の宗教法人平等大慧会です。
京都の1,018点とは、別の資料群です。 名前が似ているので、資料を探すときは所在地で見分けられます。
いま公表されている子孫
存命の方について、この記事が書けるのは公表されている範囲だけです。 調べれば分かることでも、公表されていないことは書きません。
事典と公的な資料で続柄まで確認できたのは、次の方々でした。
| 具視からの続柄 | 名前 | 確認できたこと | 確認した資料 |
|---|---|---|---|
| 曾孫 | 岩倉具方 | 洋画家。昭和2年に二科展初入選。1937年10月14日、上海で戦死。満29歳 | コトバンクが「岩倉具視の曾孫」と記す |
| 曾孫 | 小桜葉子(本名 池端具子) | 女優。1918年3月4日〜1970年5月12日 | コトバンクが「岩倉具視の曽孫」と記す |
| 玄孫 | 加山雄三さん | 俳優・歌手。小桜葉子の長男 | 同事典の「長男=加山雄三」の記載 |
| 玄孫の子 | 池端信宏さん・山下徹大さん・梓真悠子さん・池端えみさん | 音楽家・俳優 | 同事典が小桜葉子の「孫」として名を挙げる |
| 公爵家3代 | 岩倉具栄 | 英文学の翻訳と、岩倉家の文書の編纂 | 国立国会図書館サーチ/『華族名簿』 |
続柄を資料上はっきり確認できるのが、小桜葉子です。 コトバンク収録の『新撰 芸能人物事典 明治〜平成』が「岩倉具視の曽孫」と書いています。
その長男が加山雄三さんです。曽孫の子ですから、具視から見れば玄孫にあたります。NHK「ファミリーヒストリー」でも家系がたどられ、加山さんのオフィシャルサイトに載る番組告知にも岩倉具視の名が出ています。
一方で、代数が資料によって食い違う方もいます。 そうした方は、この記事では扱いません。

岩倉家の血筋は、いまも続いています。

家が続いておると聞けば、それだけで十分にござる。
継いだ者たちがどのような道を歩んだかは、そなたらの世の記録に聞くほかありませぬ。
血がどこへ流れてゆくかは、親の思うようにはならぬものじゃな。
そして、もう一人の名前に触れておきます。公爵家の3代目にあたる岩倉具栄は、英文学の翻訳者でもありました。
国立国会図書館サーチで著作をたどると、D・H・ロレンスの『太陽』(作品社)やラスキンの『黄金河の王様』(南雲堂)といった訳書が並びます。
さらに目を引くのが、先祖の文書を自分で編んでいることです。『岩倉贈太政大臣集』は具視の文集、『岩倉宮内大臣集』(明玄書房)は宮内大臣を務めた具定の文集です。
「贈太政大臣」は具視が没後に贈られた官、「宮内大臣」は具定が務めた役職です。子孫が、先祖の言葉を集めて世に出したことになります。
ただし、具栄が具張の子で具視の曾孫にあたるという続柄は、今回Wikipedia以外で確認できませんでした。確実に言えるのは、『華族名簿』(昭和6年5月20日調)が「公爵 岩倉具栄」と記していることです。

あなたの文集を、子孫の方が編んでいます。『岩倉贈太政大臣集』という本です。

……わしの書いたものを、か。
家の者が集めて世に出したと聞けば、面目ないような、ありがたいような心持ちじゃ。これは創作としての物言いと思われよ。
記録を残すのは、家を継ぐこととはまた別の仕事じゃな。血がつながっておらずとも、そこは誰かが引き受ければよい。
よくある質問(FAQ)
岩倉具視の子孫は現在もいるのですか?
います。俳優・歌手の加山雄三さんは、事典が「岩倉具視の曽孫」と記す女優・小桜葉子(本名 池端具子)の長男で、具視から見れば玄孫にあたります。どの男子の系統かは、今回確認した事典には書かれていません。
岩倉具視は岩倉家に生まれた人ではないのですか?
はい。実父は前権中納言の堀河康親で、具視はその第二子です。天保9年(1838年)、数えで14歳のときに岩倉具慶の養子として岩倉家に入りました。公式伝記『岩倉公実記』は、具慶を岩倉氏第10世、具視を第11世としています。
なぜ実子の具定が「孫」と書かれているのですか?
養子の具綱が先に家を継ぎ、具定はその次だったためと読めます。『華族類別譜』は具綱を嫡男、具定を嫡孫として並べ、『岩倉公実記』も「孫具定」と書いています。ただし具定が具綱の養子に入ったと明記した資料は、今回確認できませんでした。
岩倉家は公爵だったのですか?
本家は公爵です。明治17年に家督を継いだ具定が初代公爵になりました。ただし叙爵の年は資料によって明治17年説と18年説に分かれます。公爵位は昭和22年(1947年)5月3日、華族制度の廃止で消えました。
岩倉の名を持つ華族の家はいくつあったのですか?
今回確認できたのは4家です。本家の公爵岩倉家、具義が立てた男爵南岩倉家、具経が立てた子爵岩倉家、道倶が立てた男爵岩倉家です。立てた時期も経緯も違い、具義は興福寺の僧から復飾して一家を起こしています。
岩倉具視の墓はどこにありますか?
東京都品川区南品川の海晏寺です。公式伝記は葬場を「武蔵国荏原郡南品川浅間臺 海晏寺ノ後」と記しています。同じ墓地には松平慶永(春嶽)や由利公正の墓所もあります。ただししながわ観光協会は「一般拝観はできません」と明記しています。
岩倉具視ゆかりの場所は見学できますか?
京都市左京区の岩倉具視幽棲旧宅が公開されています。幽棲は文久2年から慶応3年までで、元治元年(1864年)に現在の附属屋にあたる建物を買い取り、主屋と繋屋を増築しました。昭和3年建築の対岳文庫(武田五一設計)もあります。
インタビュー後記|血の線と、家の線
調べていて何度も立ち止まったのは、血のつながりと家の名前が、別々に動いていることでした。
具視は堀河家から養子に入り、死後はまず養子の具綱が家を代表しました。実子の具定は記録で「孫」と書かれ、父の葬列には名代を立てています。
現代の感覚だと不思議に見えます。ところが公式伝記は、養子を実子と称するのは慣例だったと、理由まで添えて書いていました。届け出る法がなく、幕府の指揮を仰ぐのを皆が嫌ったからだ、と。
つまりこれは例外ではなく、当時の公家にとってはありふれた話だったことになります。系図を字面どおりに読めない理由が、資料の側から説明されていたわけです。
一方で、もう一つ気づいたことがあります。家の記録を残す仕事は、一つの家だけが担ったのではありませんでした。
公爵家3代目の具栄は、具視と具定、2代の文集を編みました。京都の旧宅に遺品を寄せた人々の名簿には、公爵家も子爵家も男爵家も並んでいます。
家が続くというのは、血が続くことだけを指すのではないのかもしれません。
岩倉具視とともに王政復古を画策した大久保利通については、こちらでまとめています。
その王政復古のあと、幕臣として罷免された小栗忠順の生涯は、こちらです。
2027年の大河ドラマ『逆賊の幕臣』の人物関係は、こちらでまとめています。岩倉具視も登場します。
あなたは、この家の続き方から何を読み取りますか。
参考資料
- 国立国会図書館「岩倉具視|近代日本人の肖像」 ※生没年の和暦と西暦、実父が堀河康親であること、岩倉具慶の養嗣子となったこと、経歴の骨格の出典
- 国立国会図書館「岩倉具定|近代日本人の肖像」 ※具定を「第三子」とすること、明治15年から伊藤博文の憲法調査に随行して欧州へ渡ったこと、明治17年の家督相続の出典
- コトバンク「岩倉具視」 ※『日本大百科全書』『世界大百科事典』『山川 日本史小辞典 改訂新版』『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』を収録。数え14歳で具慶の養子となったことの出典
- コトバンク「岩倉具定」 ※続柄を「二男」「次男」とする記述、具綱の隠退により家督を継いだこと、公爵の叙爵を明治18年とする記述の出典
- コトバンク「岩倉具経」 ※三男であること、東山道鎮撫副総督、アメリカ留学(明治3年〜11年)、男爵17年・子爵24年の記述、明治23年10月17日没の出典
- コトバンク「岩倉具綱」 ※富小路政直の子で具視の養子であること、天保12年生・大正12年没の出典
- コトバンク「岩倉具方」 ※具視の曾孫であること、洋画家としての経歴、1937年に上海で戦死したことの出典
- コトバンク「岩倉家」 ※『世界大百科事典(旧版)』の「久我家」項。岩倉家が村上源氏・久我家の庶流であることの出典
- コトバンク「小桜葉子」 ※『新撰 芸能人物事典 明治〜平成』『20世紀日本人名事典』を収録。本名が池端具子であること、「岩倉具視の曽孫」と記されること、生没年月日、長男が加山雄三さんであること、孫として池端信宏さん・山下徹大さん・梓真悠子さん・池端えみさんの名が挙がることの出典
- 加山雄三 オフィシャルサイト「NHK『ファミリーヒストリー』再放送決定!」 ※加山雄三さんの家系がNHKの番組でたどられ、その告知に岩倉具視の名が出ていることの出典
- 国立国会図書館サーチ「岩倉具栄」 ※D・H・ロレンス『太陽』(作品社)、ラスキン『黄金河の王様』(南雲堂)などの訳書と、『岩倉贈太政大臣集』(岩倉具視著・岩倉具栄編)『岩倉宮内大臣集』(岩倉具定著・岩倉具栄編、明玄書房)の編纂を確認した出典。刊年は書誌によって表示が異なるため、本記事では記していません
- 国立国会図書館デジタルコレクション 柴山典編『華族類別譜』上巻 コマ188 ※岩倉家の系図、当主欄の「舊高百五十石」、具綱を嫡男・具定を嫡孫として並べる記載、南岩倉家の創立の出典。本記事は該当コマの画像で文面を確認しました。なお同書には出版者の異なる版が複数あり、国立国会図書館の書誌はこの資料を明治15年(1882年)とします。本記事が見た版の刊年は特定できていません
- 国立国会図書館デジタルコレクション 柴山典編『華族類別譜』上巻 コマ189 ※「岩倉具視三男 具経」の記載と、子爵岩倉家の旧高200石の出典。本記事は該当コマの画像で文面を確認しました
- 国立国会図書館デジタルコレクション 多田好問編『岩倉公実記』上巻、1906年 コマ23〜25 ※具慶を岩倉氏第10世・具視を第11世とする記載、養子入りの経緯と口状書、「具視 時ニ年十四ナリ」、養子を実子と称する慣例を説明した附注、「具視」の名が『詩経』に由来する経緯の出典
- 国立国会図書館デジタルコレクション 多田好問編『岩倉公実記』上巻、1906年 コマ358 ※文久2年の幽居の場面に「夫人誠子」と出ることの出典
- 国立国会図書館デジタルコレクション 多田好問編『岩倉公実記』下巻、1906年 コマ217 ※明治10年の附注が具定を「孫具定」と書いていることの出典
- 国立国会図書館デジタルコレクション 多田好問編『岩倉公実記』下巻、1906年 コマ524〜527 ※薨去の時刻と国葬の礼、葬儀御用掛の達が岩倉具綱にあてられたこと、喪主が具綱であること、葬列に「具定 名代」と記されること、葬場を「南品川浅間臺 海晏寺ノ後」とすること、神式の儀注、没後20年の銅燈台下賜の出典
- 国立国会図書館デジタルコレクション『復古記綱文』150巻 五 ※明治元年6月に「岩倉具経ノ籍ヲ分チテ堂上ニ班ス」とある記述の出典
- 国立国会図書館デジタルコレクション『華族名簿』昭和6年5月20日調 ※「公爵 岩倉具栄」の記載と、南岩倉家・子爵岩倉家が昭和初期にも続いていたことの出典
- 国立国会図書館デジタルコレクション『財団法人岩倉公旧蹟保存会要誌』1930年 ※対岳文庫の落成と、遺品寄贈者として岩倉具方・岩倉道倶・子爵岩倉具明・公爵岩倉具栄の名が並ぶことの出典
- 国立国会図書館デジタルコレクション『岩倉公五十年祭記要』1933年 ※公爵岩倉具栄が母堂・櫻子、夫人・良子とともに献詠者に名を連ねることの出典
- 国立国会図書館デジタルコレクション 大阪株式取引所編『株式ニ関スル判例集』下 ※判決理由中の「岩倉具張カ大正三年九月中隱居ヲ」という記述の出典。日付は「九月中」までしか書かれていません
- 国立国会図書館デジタルコレクション『帝国議会貴族院事務局報告』第77〜80回 ※「男爵岩倉道倶君 貴族院議員ノ任ニ在ルコト三十年」という表彰の記録の出典
- 国立国会図書館デジタルコレクション『真宗六派年契』1911年 ※大谷派光勝法主の五女・俊子が岩倉具経に嫁いだことの出典
- 岩倉具視幽棲旧宅 公式サイト ※昭和7年3月25日の史跡指定、対岳文庫が1928年建築で武田五一の設計であること、平成25年に京都市が寄付を受けたこと、収蔵資料を京都市歴史資料館が保管していることの出典
- 文化遺産オンライン(文化庁)「岩倉具視関係資料」 ※紙本墨書1,707点が平成25年6月19日に重要文化財へ指定され、所有者が宗教法人平等大慧会であることの出典
- しながわ観光協会「海晏寺」 ※墓地に岩倉具視と松平春嶽の墓があること、一般拝観ができないことの出典






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