小栗忠順の妻は誰?道子の生涯と会津への逃避行を忠順AIとたどる

oguri tsuma df eyecatch 何をした人

小栗忠順の記事をいくつか書いてきて、ずっと気になっていた人がいます。妻の道子です。子孫の記事でも処刑の記事でも、彼女は「身重で会津へ逃れた人」として数行だけ登場し、話はすぐ次へ進んでしまいました。

調べてみると、道子本人が書き残したものは、今回確認した範囲では見つかりませんでした。それでも夫の日記、寺の記録、甥の回想をつなぐと、一人の女性の足取りがおぼろげに見えてきます。

この記事の結論

小栗忠順の妻は、播州林田藩主・建部政醇の娘、道子(みち)です。 天保10年(1839年)に生まれ、嘉永2年(1849年)に忠順と結婚したと、東善寺の略歴は記しています。

慶応4年(1868年)、忠順が捕らえられる直前に夫と別れ、身重のまま会津へ逃れました。逃れた先で産んだ娘・国子が、忠順の唯一の実子です。 明治に入ってからは東京で暮らし、明治18年(1885年)に亡くなりました。

  • 1849年
    忠順と結婚(東善寺の略歴)
  • 約19年
    結婚から娘の誕生まで
  • 1885年
    道子が亡くなった年

この記事では、道子の出自と結婚、権田村での日々、会津への逃避行、明治の暮らしと墓所を、資料ごとにたどります。2027年の大河ドラマ『逆賊の幕臣』で上白石萌音さんが演じる「みち」と、史料の道子の違いも整理します。

そして今回は、忠順AI(小栗忠順をモデルにしたAI)にも登場してもらいます。忠順は、道子と別れた2日ほど後に斬られています。そのため、娘の誕生から後のことは知りません。そこは後の世に伝わった話として聞いてもらいます。

※以下のインタビュー部分は、公開されている史料をもとに小栗忠順の人物像を再現した創作です。実際の発言をそのまま掲載したものではありません。

小栗の没後の出来事については、後の世に伝わったものとして伝えたうえで語ってもらう形にしています。
出典の確かめ方と、公開前に行っているチェックは編集方針にまとめています。

筆者
筆者

小栗さん、今日は奥さまの道子さんのことを伺いに来ました。

あなたの功績を知る人は多くても、奥さまのことを知る人はほとんどいません。

忠順AI
忠順AI

妻のことでございますか。これは意外な問いにて候。

私が表に立っておった分、家の内のことは記録に残りにくうございましょう。

そなたらの世にどれほど伝わっておるのか、私のほうこそ伺いたく存ずる。

小栗忠順の妻は道子(みち)|播州林田藩主・建部政醇の娘

小栗忠順の妻は道子(みち)で、播州林田藩(いまの兵庫県姫路市林田町)の藩主・建部政醇の娘です。 東善寺は政醇の長女と記しています。

東善寺(高崎市倉渕町権田)は、小栗上野介父子主従の菩提寺です。今回確認した範囲では、道子についての記録は、この寺のサイトがもっとも多く伝えています。基本の情報を表にまとめます。

項目内容典拠
名前道子(みち)東善寺。ドラマの役名は「みち」
生まれ天保10年6月10日(1839年7月20日)東善寺の略歴
父建部政醇(林田藩の8代藩主)東善寺・ステラnet
実家播磨国林田に陣屋を置いた、1万石余の外様大名・建部家日本大百科全書
結婚嘉永2年(1849年)。月日は不明東善寺の略歴
子国子。慶応4年6月10日(1868年7月29日)、会津で誕生東善寺
没明治18年(1885年)3月27日東善寺の略歴
妹はつ。国際法学者・蜷川新の母東善寺

建部家は、大坂の陣の功で1万石の大名となり、播磨の林田へ移って陣屋を構えた家です。移った年を、日本大百科全書は元和3年(1617年)、『改訂新版 世界大百科事典』はその前年とします。明治4年(1871年)の廃藩置県まで、林田の藩主を続けました。

一方の小栗家は、将軍に直接仕える旗本です。道子は大名家の娘として、旗本の家へ嫁いだことになります。

表の最後に挙げた妹はつの子が、蜷川新です。昭和3年(1928年)に『維新前後の政争と小栗上野の死』を著し、道子の晩年を身内の立場から書き残しました。この記事でも何度か引きます。

結婚は嘉永2年|道子は満10歳前後、忠順とは12歳差

東善寺の略歴によれば、結婚は嘉永2年(1849年)です。生年から数えると、道子は満9〜10歳、忠順は満21〜22歳でした。

略歴は、結婚の月日を「不明」としています。道子の年齢からみて、この「結婚」が縁組の取り決めを指すのか、実際に小栗家で暮らし始めた時期を指すのかは、略歴からは読み取れません。

建部家と小栗家のつながりとして、東善寺が挙げていること
  • 道子が、林田藩主・建部政醇の娘であること
  • 林田藩士だった塚本真彦が、道子の付人として小栗家へ移ったこと
  • 道子の妹はつの子・蜷川新が、昭和7年に建てられた顕彰慰霊碑の碑文を書いたこと

2つめの塚本真彦は、のちに小栗家の用人となった人です。万延元年(1860年)の遣米使節では、目付・小栗の従者9人の一人として世界を一周しました。

塚本は慶応4年閏4月7日、養嗣子の又一忠道とともに斬られています。東善寺には、寺の土蔵から見つかった建部家の蝶の家紋入りの鞍が残り、寺は塚本が使ったものと推定しています。

両家の行き来については、もう一つ話が伝わっています。蜷川新は、建部家の旧藩士から聞いた話として、「十四歳」の少年だった忠順が建部家を訪れ、藩主の政醇と堂々と応答したと書いています(東善寺が同書から引いています)。

年齢の基準は書かれていませんが、数え年とみれば満12〜13歳です。ただしこれは、蜷川が少年時代に聞いた話を書き留めたもので、伝聞のさらに伝聞です。道子との縁組のいきさつを記した資料は、今回確認できませんでした。

筆者
筆者

結婚したとき、あなたは21、2歳、奥さまはまだ10歳前後だったことになります。

忠順AI
忠順AI

家と家とが結ぶ縁組は、武家ではよくあることと聞き及びまする。

ここからは創作としての物言いと思われよ。妻となる人がまだ幼かったのなら、互いに夫婦らしくなるまでには、時を要したことでありましょう。

そのあたりを伝える記録は、そなたらの世でも見つかっておらぬようでございますな。

江戸の小栗家での道子|伝わる話は少なく、出典も限られます

結婚から約19年間の道子について、同時代の史料や典拠の明らかな記録は、今回ほとんど確認できませんでした。 たどれたのは、東善寺が伝える2つの話です。

1つめは、遣米使節から帰国したのち、忠順が道子にお歯黒をやめさせたという話です。当時、既婚の女性は歯を黒く染める習わしがありました。東善寺は忠順の合理的な気性を示す例として挙げていますが、典拠は示していません。

筆者
筆者

アメリカから帰ったあと、奥さまにお歯黒をやめさせた、という話が伝わっています。

忠順AI
忠順AI

そなたらの世には、そのような話が伝わっておるのでございますな。

それを確かめられる書き物が残っておるかどうか、私には分かりかねまする。

伝わる話と記録とは、分けて聞いていただくのがよろしゅうございましょう。

2つめは、2026年3月に東善寺へ寄進された螺鈿の飾り棚です。扉には蝶が計8頭描かれ、寺はこれを建部家の家紋「建部蝶」にちなむものとみて、道子の嫁入り道具ではないかとしています。

ただし寺自身が、この見立てを「推測」と明記しています。本記事も、嫁入り道具と確かめられたものとしては扱いません。

もう一つ、年代から分かることがあります。結婚から国子の誕生までは、およそ19年あります。この間に道子が子を産んだとする記録は、今回確認した資料にはありません。

安政6年(1859年)12月、小栗家は親族の日下家から鉞子(よきこ)を養女に迎え、駒井家の次男・忠道をその許婚としました。忠順の渡米を前にした時期にあたります。家の跡取りは、この養子の縁組で整えられていきました。

権田村での道子|『小栗日記』に残る「お道」の着帯

道子の姿が日付つきで残っているのは、夫の日記です。 慶応4年(1868年)、上州権田村(いまの高崎市倉渕町権田)へ移った一家の暮らしを、『小栗日記』が伝えています。

忠順は同年1月に役を解かれ、許可を得て3月1日(3月24日)に権田村へ移り住みました。東善寺が掲げる日記の現代語訳から、道子が登場する日を抜き出します。

日付(西暦)日記に書かれていること(東善寺の現代語訳による)
3月4日(3月27日)暴徒が押し寄せるとの知らせで、母・道子・鉞子・塚本の家内など女性たちを、家来や村人をつけて裏山の集落へ避難させた
3月14日(4月6日)「お道はきょう日がいいので、着帯の儀を塚本の母とまきが手伝って行なう」。二人に祝儀百疋を渡した
3月21日(4月13日)午後、お道は鎮守に参詣した
3月24日(4月16日)お道は鉞子と母と近所へ摘草に出た
閏4月1日(5月22日)高崎・安中・吉井の三藩の使者が来て談判。成り行きが分からないため、母・道子・鉞子を午後に上ノ久保へ行かせ、夕方に戻った

着帯の儀は、一般に妊娠5か月ごろに腹帯を締める祝いです。この日の記述から、少なくとも3月14日の時点で道子が身ごもっていたことが確かめられます。 権田村へ移ったのは、その13日前でした。

東善寺によれば、日記の原文は漢字カタカナ交じりで、現代語訳・意訳は同寺の村上泰賢氏によるものです。本記事は日記の原文を確認していません。 日記は閏4月2日の記述で途切れています。

摘草や参詣の記事からは、姑のくにや養女の鉞子と連れ立って出かける日があったことが分かります。ただし日記は出来事を短く記すだけで、道子の気持ちまでは書かれていません。

筆者
筆者

権田村に移ってまもなく、日記に奥さまの着帯の儀が書かれています。

忠順AI
忠順AI

そなたらの世に残る私の日記に、そう記してあるのでございますな。

日の良い日を選んで帯を締める。そうした習いがあったことは、そなたらの世にも伝わっておりましょう。

ここからは創作としての物言いと思われよ。遅くに授かった子なれば、家の者一同、胸をなでおろしたことでありましょう。

夫と別れたのは捕らえられる前|権田村から会津への逃避行

道子が夫と別れたのは、忠順が捕らえられる前です。 東善寺の「道子夫人の会津脱出行」によれば、閏4月4日、権田村の亀沢で忠順と別れ、村人に守られて会津へ向かいました。

東善寺の記述では、閏4月3日、西軍がふたたび来るという知らせを受けて、忠順は道子を伴い亀沢の大井彦八の家に身を寄せます。翌4日、名主の佐藤藤七が「お戻りいただかないと、村の者が難儀いたします」と説き、忠順は東善寺へ引き返しました。

忠順は道子らを村役人の中島三左衛門に託し、会津へ逃れるよう頼んだといいます。忠順が捕らえられたのは閏4月5日、斬られたのは6日(1868年5月27日)です。

逃れたのは3人の女性でした。東善寺は、道子30歳、忠順の母くに(邦子)63歳、養女の鉞子15歳と記します。いずれも数え年とみられ、道子は生年から計算すると満28歳です。国子が生まれるおよそ2か月前でした。

東善寺が掲げる行程表(小板橋良平『小栗上野介一族の悲劇』による)をもとに、道筋をまとめます。

区間行程表と本文に書かれていること
権田村から吾妻へ坂上村上関の高橋家などに分宿
六合村広池で休み、和光原(いまの中之条町)の山田家に3日ほど滞在して旅支度を整える
秋山郷へ野反池から地蔵峠を越え、秋山郷の和山温泉に2泊
越後へ反里口、十日町の中条村、堀之内村、六日町を経て新潟へ
新潟忠順の父・忠高が眠る法音寺に墓参
会津へ津川を経て会津若松の紙問屋「湊屋」に入り、その夜に家老・横山主税の家へ

一行は途中で二手に分かれています。くにと鉞子らは善光寺参りを装い、渋峠を越えて信州回りで越後へ向かいました。 二つの隊は、越後の堀之内村で合流できたと東善寺は書いています。

新潟は、忠順の父・忠高が新潟奉行として赴任し、安政2年(1855年)に没した土地です。くにはその墓に参ってから、会津へ向かったといいます。

筆者
筆者

捕らえられる前に、奥さまたちを村の人に託して会津へ逃がしていたんですね。

忠順AI
忠順AI

家の者を先に落とすは、家を預かる者の務めにて候。

ここからは創作としての物言いと思われよ。身重の妻に山を越えさせるのは、酷な頼みでありました。

それを引き受けた村の衆には、礼の申しようもございませぬ。

逃避行の日付と道筋は、資料によって違います

逃避行の日付と道筋は、同じ東善寺のページどうしでも一致しません。 そのため、この記事では日付を1つに決めていません。

逃避行について、資料が食い違っているところ
  • 夫と別れた日:東善寺「道子夫人の会津脱出行」は閏4月4日、同寺「権田村での最後の64日間」は閏4月5日、同寺「略歴」は閏4月3日ごろに逃避行へ出たとする
  • 権田村を発った日:同じページの行程表は「閏四月六日夕方」とする
  • 会津若松に着いた日:行程表は閏4月28日、本文は閏4月29日
  • 最初の道筋:上毛新聞(2026年9月7日)は、権田の大反のやぶに2日ほど隠れ、萩生を経て須賀尾峠の手前で二手に分かれたとする
  • 妊娠の月数と護衛:上毛新聞のコラム欄への2005年の寄稿は「妊娠七ヶ月」「村人二十一人の護衛隊」と書き、鉞子を14歳とする

とくに注意したいのが、村を発った日です。行程表の「閏四月六日夕方」に従うと、道子らは忠順が斬られた当日の夕方に村を出たことになります。

夫と別れたのが処刑の前であることは、どの資料でも変わりません。一方で、権田村を離れた日まで処刑の前だったとは言い切れません。

上毛新聞2026年の記事は、安中市の郷土史家・小板橋良平さんの踏査記に基づくと明記しています。東善寺の行程表も、同じ小板橋氏の本に拠っています。

同じ研究をもとにしながら、細かさの違う書き方になっている可能性があります。上毛新聞の記事は大半が有料部分のため、結末までは確認していません。

2005年の記事は、上毛新聞のコラム欄「視点 オピニオン21」への寄稿で、筆者は東善寺の住職らと道筋の一部を歩いています。道子を山駕籠に乗せて山越えをしたとも書いていますが、典拠は示されていません。

会津で国子を出産|会津戦争が迫るなかで

道子は慶応4年6月10日(1868年7月29日)、会津の南原の避難所で女の子を産み、国子と名づけました。 忠順が斬られてから約2か月後のことで、国子は忠順の唯一の実子です。

東善寺は、こう書いています。

道子夫人は会津戦争直前の6月10日、南原の避難所で女児を出産、国子と名づけた。小栗上野介の唯一の遺児である。出産後、難を避けるためか、さらに南へ行き松川村で冬を迎えた。

出典:東善寺「道子夫人の会津脱出行」

会津に着いた一行は、家老の横山主税の家族に迎えられて保護されました。東善寺は、主税が慶応3年のパリ万博の使節に同行しており、その前後に小栗と交友が生まれたと思われる、と書いています。

その主税は若年寄として白河へ出陣し、5月1日に戦死します。会津の城下にも戦火が迫り、道子らは横山家を出て、南原の野戦病院に当てられていた建物(東善寺は「農家?」と記す)へ移りました。 国子が生まれたのは、そこでのことです。

ただし、東善寺自身が「南原、松川ともに、どこにいたのか詳細は判明していない」と注記しています。生まれた場所は、村の名までしか分かっていません。

守る側にも犠牲が出ました。護衛についた権田村の若者のうち、佐藤銀十郎と塚越富五郎(東善寺は21歳・23歳と記す)は会津軍に加わり、会津戦争で戦死しています。

国子の祖母、つまり忠順の母の名も「くに」です。ただし、国子という名をつけた理由を伝える記録は、今回確認できませんでした。

筆者
筆者

奥さまは会津で女の子を産み、国子と名づけました。お母さまの名前も、くにでしたね。

忠順AI
忠順AI

……さようでございますか。私はその子の顔を見ておりませぬ。

母と同じ音の名に何か思いがあったのかどうか、それを確かめる術は私にもございませぬ。

ここからは創作としての物言いと思われよ。母と妻と娘が戦乱のなかで身を寄せ合っておったと聞けば、胸のふさがる思いにて候。

道子の結婚と会津への逃避行は、2026年9月に出た中公新書の小栗の評伝にも、それぞれ節として立てられています。夫の側から同じ出来事を読み直すことができます。

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『小栗上野介 「逆賊」とされた開明派幕臣』

塚越俊志 中公新書

この作品のポイント

  • 第一章:「播磨国林田藩主の娘と結婚」の節
  • 第六章:「小栗夫人ら会津へ逃れる」の節
  • 「現在残る『小栗日記』」の節

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明治の道子|会津から静岡、そして深川の住まいへ

会津戦争が終わると、道子らは明治2年(1869年)の春に会津を発ちました。 その後の足取りと、誰に支えられたかは、資料によって書き方が違います。

資料書いていること
東善寺護衛隊が一行を東京を経て静岡まで送り届け、村人は「乞食同然の姿」で権田へ戻った。静岡には叔父の日下数馬、忠道の実家の駒井家、妹はつの嫁ぎ先の蜷川家が移っていた。道子らはまもなく東京へ出て、三野村利左衛門の保護を受けた
蜷川新(1928年)会津戦争が済んだあと東京に戻り、深川の三野村の邸に身を寄せた。実家の建部家は神田明神下に屋敷を構えていたが、道子はそこを頼らなかった

蜷川の本は、国立国会図書館デジタルコレクションで原本の画像を読めます。該当の一文を引きます。

小栗夫人は、會津戰爭の濟みし後東京に戻られ、深川に在りし三井家の大番頭三野村の邸に養はれた

現代語訳小栗夫人は会津戦争が済んだあと東京に戻り、深川にあった三井家の大番頭・三野村の屋敷に身を寄せた

出典:国立国会図書館デジタルコレクション 蜷川新『維新前後の政争と小栗上野の死』日本書院、1928年、114頁

三野村利左衛門は、のちに三井の大番頭となった人物です。蜷川は三野村を、旧幕時代に「小栗上野介の恩顧を受けた人」と書いています。どんな人だったのかは、こちらの記事で紹介しています。

蜷川は、道子のその後の暮らしについて、自分の記憶も書き添えています。幼いころ母に連れられて、道子の「小さき貧しき深川の住居」を訪ねたというのです。

蜷川は道子を、建部家の兄弟姉妹のなかで「最も賢明の夫人と云はれた」と書いています。評価の部分は伝聞の形で、しかも身内の筆なので、割り引いて読む必要があります。一方、住まいを訪ねた記憶は本人の体験として書かれたものです。

蜷川は続けて「その後夫人は不幸の生活の中に他界せられた」と記しています。

筆者
筆者

明治の奥さまは実家を頼らず、深川で暮らしたそうです。支えたのは三野村利左衛門でした。

忠順AI
忠順AI

三野村、と申されるか。

その者がのちに三井で重きをなしたというなら、それは私の見届けられなかった先の話にて候。

妻を支えてくれたと聞けば、ただ礼を申すほかございませぬ。

道子の没年と墓|明治18年3月27日、墓所は確かめきれません

道子が亡くなったのは明治18年(1885年)3月27日と、東善寺の略歴は記しています。 このとき国子は満16歳でした。

道子の最期と墓について、今回たどれたこと
  • 没年月日:明治18年3月27日(東善寺の略歴)。明治19年とする紹介記事もあるが、典拠は示されていない
  • 没年齢:東善寺は48歳と記すが、同寺が記す生年から数えると満45歳、数え47歳で合わない
  • 亡くなった場所と死因:今回確認した資料には書かれていない
  • 墓:東善寺の略歴は、雑司ケ谷に明治以後の小栗家の神葬祭の墓があると記す

没年齢は、どちらを基準にしても東善寺の「48歳」になりません。この記事では、没年月日だけを載せます。

墓については、東善寺の略歴に次の記述があります。雑司ケ谷墓地の墓は「明治以後小栗家が神葬祭となって設けた墓で忠順の埋骨等はない」。また、忠順の家の菩提寺は保善寺(いまの中野区)だとしています。

雑司ケ谷霊園の「小栗家累代之墓」の裏面に、道子の名が刻まれていると紹介する個人ブログもあります。ただし、本記事は現地を確認していません。

東京都公園協会の雑司ケ谷霊園の案内図(令和8年4月現在)にも、著名人の墓所として小栗家は載っていませんでした。道子がどこに葬られたかを示す公的な資料は、今回確認できませんでした。

大河ドラマ『逆賊の幕臣』のみち|役の紹介と史料の道子を比べる

2027年の大河ドラマ『逆賊の幕臣』では、上白石萌音さんが「みち」を演じます。 2026年2月の配役発表で示された役の紹介には、史料で確かめられる部分と、ドラマの設定にあたる部分が混ざっています。

役の紹介に書かれていること今回確認した資料では
建部政醇の娘として江戸に生まれ育つ父は東善寺の略歴と一致。生まれた場所を記した資料は確認できなかった
記録好きで家計の帳簿をつけ、量距尺を持ち歩く道子について書いた資料は見当たらない。東善寺は、忠順自身が家計簿「量入制出簿」を残したと伝える
親同士の取り決めで小栗家に嫁ぐいきさつを記した資料は見当たらない。結婚の年に満9〜10歳だったことは、略歴の年から計算できる
夫のよき相談役となる資料は見当たらない
なかなか子供に恵まれず、ひそかに思い悩む結婚から国子の誕生まで約19年あるのは年代から分かる。思い悩んだかどうかを示す記録は見当たらない

「子に恵まれなかった」という設定は、約19年間に子の記録が確認できないことと矛盾しません。 一方で、道子の性格や夫婦の関係は、今回の資料からは読み取れません。そこはドラマが描く部分です。

2026年8月の発表では、父・建部政醇を飯尾和樹さんが演じることも明らかになりました。役の紹介には「少年時代の小栗が建部家を訪れ、国家について堂々論じあったという逸話も残る」とあります。蜷川新が書き留めた、あの伝聞の話です。

ほかの配役と史実の関係は、こちらの記事で整理しています。

道子の生涯を年表で確認

道子の歩みを、年ごとに並べます。年月日は東善寺の資料による和暦で、括弧内は西暦に換算した日付です。

逃避行の日付は、先に書いたとおり資料によって1日ずれるものがあります。年表では幅を持たせて書きました。

年できごと解説
1839年(天保10年)6月10日(7月20日)、生まれる林田藩主・建部政醇の娘
1849年(嘉永2年)小栗忠順と結婚月日は不明。道子は満9〜10歳
1855年(安政2年)義父・小栗忠高が新潟で没する新潟奉行として赴任中だった
1859年(安政6年)12月、鉞子を養女に、忠道をその許婚に迎える忠順の渡米を前にした縁組
1860年(万延元年)忠順が遣米使節の目付として渡米建部家から来た塚本真彦も従者として随行
1868年(慶応4年)3月1日(3月24日)、一家で権田村へ移る忠順は1月に役を解かれていた
1868年(慶応4年)3月14日(4月6日)、着帯の儀『小栗日記』に記載
1868年(慶応4年)閏4月3日〜5日ごろ、夫と別れる東善寺は場所を亀沢とする。日付は資料で分かれる
1868年(慶応4年)閏4月6日(5月27日)、忠順が斬られる翌7日に忠道と塚本真彦も斬られる
1868年(慶応4年)閏4月28日〜29日ごろ、会津若松に着く横山主税の家族に保護される
1868年(慶応4年)6月10日(7月29日)、国子を出産南原の避難所。その後、松川村で冬を越す
1869年(明治2年)春、会津を発つ東京を経て静岡へ。まもなく東京へ出る
1877年(明治10年)三野村利左衛門が没する東善寺は、この後は大隈重信夫妻が保護したとする
1885年(明治18年)3月27日、没する没年齢は資料の数字が生年と合わない

表からは、道子の生涯が1868年の数か月で大きく折れ曲がったことが分かります。大名の娘として生まれ、結婚の年から約19年ののち、半年足らずのあいだに夫を失い、山を越え、会津戦争が迫るなかで娘を産みました。

明治以降の16年ほどについては、住まいも暮らしぶりも、蜷川新の回想と東善寺の記述を合わせてようやく輪郭が分かる程度です。国子のその後は、こちらの記事でたどっています。

よくある質問(FAQ)

小栗忠順の妻は誰ですか?

道子(みち)です。播州林田藩(いまの兵庫県姫路市林田町)の藩主・建部政醇の娘で、天保10年(1839年)に生まれ、嘉永2年(1849年)に忠順と結婚したと東善寺の略歴は記しています。

道子は何歳で結婚したのですか?

生年と結婚の年から計算すると、満9〜10歳です。略歴は結婚の月日を「不明」としており、縁組の取り決めの時期なのか、小栗家で暮らし始めた時期なのかは分かりません。忠順とは12歳の差がありました。

小栗忠順に子どもはいましたか?

実子は娘の国子ひとりです。慶応4年6月10日(1868年7月29日)、道子が逃れた先の会津で生まれました。忠順はその約2か月前に斬られており、娘の顔を見ていません。

道子はなぜ会津へ逃れたのですか?

東善寺によれば、忠順が村役人の中島三左衛門に家族を託し、会津へ逃れるよう頼みました。会津では家老・横山主税の家族が一行を保護しています。東善寺は、主税と小栗のあいだにパリ万博をめぐる交友があったと思われる、と書いています。

道子のお墓はどこにありますか?

今回、公的な資料では確かめられませんでした。東善寺の略歴は、雑司ケ谷に明治以後の小栗家の神葬祭の墓があると記します。その墓石に道子の名が刻まれていると紹介するブログもありますが、本記事は現地を確認していません。

大河ドラマ『逆賊の幕臣』でみちを演じるのは誰ですか?

上白石萌音さんです。2026年2月の配役発表で明らかになりました。役の紹介にある「記録好き」「夫のよき相談役」といった人柄は、今回確認した資料には見当たらず、ドラマの設定にあたります。

インタビュー後記|日記の一行と、寺の記録と、甥の記憶

調べ終えて残ったのは、道子自身の言葉が一つも見つからなかったことでした。彼女の姿は、夫の日記の一行、寺が伝える逃避行の記録、甥が幼いころに訪ねた深川の住まい。その三つの断片からしか見えてきません。

それでも、日付のついた記録はたしかにありました。慶応4年3月14日、日の良い日を選んで締めた腹帯。その約4か月後、戦火の迫る会津で、娘が生まれています。

資料を並べると、別れた日も、会津に着いた日も、1日ずつずれます。墓の場所も、はっきりとは確かめられませんでした。分からないことは分からないまま書くのが、この人について書くうえでの誠実さだと考えました。

来年、上白石萌音さんの「みち」が画面に現れたとき、その背後にいる史料の道子のことも思い出してもらえたらうれしいです。

小栗忠順その人については、こちらの記事でまとめています。

なぜ取り調べもなく斬られたのかは、こちらで検証しました。

あなたは、この人の生き方から何を読み取りますか。

参考資料

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