小栗忠順はなぜ斬首されたのか?処刑の理由と取り調べを忠順AIと史料からたどる

小栗忠順はなぜ斬首されたのか?処刑の理由と取り調べを忠順AIと史料からたどる 死因・最期

2027年の大河ドラマの題は『逆賊の幕臣』です。主人公は小栗忠順(おぐり ただまさ)。逆賊とは、朝廷にそむく者として新政府側からみなされた、という意味合いの言葉です。

では小栗は、何をした罪で斬られたのか。調べると、取り調べがあったかどうかで史料の書いていることが食い違いました。

この記事の結論

小栗忠順がなぜ斬首されたのかを、一つに確定できる史料は、今回確認できませんでした。 残っているのは嫌疑を記した追捕令と、処刑を届け出た藩の文書と、のちに編まれた記録で、それぞれ書いていることが違います。

追捕令には「陣屋等厳重に相構へ、加之砲台を築き」、つまり陣屋を構え砲台まで築いている、という嫌疑が書かれています。基本の命令は捕らえること。ただし三藩の手に余る場合は誅滅せよという条項も付いていました。

高崎藩が総督府へ出した届書の写しには「糺問(きゅうもん)の上」とあり、高崎市の文化財解説は「何の取り調べもなく」と書きます。どちらが実態かは決められません。

  • 満40歳
    没年齢(数え年42歳)
  • 2通り
    斬首の日付(閏4月5日と6日)
  • 4月22日
    追捕令が出された日(和暦)

この記事では、これまで挙げられてきた5つの見方を、当時の文書に残るもの・噂として広まったもの・後世の解釈に分けて見ていきます。首がどこへ運ばれたのかも追いました。

そして今回は、忠順AI(小栗忠順をモデルにしたAI)にも登場してもらいます。史料で確かめられないことは言い切らない対話としてお読みください。

※以下のインタビュー部分は、公開されている史料をもとに小栗忠順の人物像を再現した創作です。実際の発言をそのまま掲載したものではありません。

また、小栗の没後の出来事は、筆者が質問のなかで伝え、それに答えてもらう形にしています。
出典の確かめ方と、公開前に行っているチェックは編集方針にまとめています。

筆者
筆者

小栗さん、本日はよろしくお願いします。

追捕令の日付は慶応4年4月22日、斬首は閏4月6日。5日とする記録もあります。西暦に直すと、あいだは2週間足らずです。

忠順AI
忠順AI

十三日。……五日と書く記録なら十二日。どちらにせよ、二週に足りませぬな。

勘定で申せば、帳尻を合わせる暇もない日数にございます。

己がなぜ斬られたのかを、斬られた当人がいちばん申せぬ。妙な話でございます。

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HAGY(へいじい)
この記事を書いた人
HAGY(へいじい)
ウェブマーケティング(SEO・SNS)を仕事にしている歴史好きです。子どもの頃は、教科書や歴史漫画で偉人の名前を覚えるだけでした。高野山真言宗の尼僧と結婚し、空海を調べるうちに、その時代の空気や周りの人々まで気になるようになりました。これまでに100を超える偉人AIを作ってきました。

小栗忠順はなぜ斬首されたのか|5つの見方を一覧で確認

これまでに挙げられてきた「なぜ」を、先に並べておきます。大事なのは数ではなく、それぞれの出どころが違うことです。

見方内容出どころ今回確認できた強さ
① 陣屋と砲台の嫌疑権田村で陣屋を構え砲台を築き、容易ならざる企てがあるとされた追捕令の文言。『復古記』と明治以降の刊本に載る文言はたどれる。探索を行ったとする記録はあるが、その中身は今回確認できず
② 武器と農兵大砲と小銃を持ち、村で兵を集めていたとされた三藩の家記と高崎藩の届書写に、武器を請け取った記述がある引き渡しは複数の記録にある。数は藩ごとに違う
③ 徳川埋蔵金幕府の御用金を隠したとして狙われたとする見方後世に広まった伝説処刑の理由として書いた資料は今回確認できず
④ 抗戦を唱えた経歴徹底抗戦を主張した人物として危険視されたとする見方館林市は抗戦の主張を、群馬県観光物産国際協会は実力を恐れられたことを記す経歴は確認できる。それが理由だと書いた史料は確認できず
⑤ 現場の判断追捕を命じた文書のもとで、捕縛後に斬首まで進んだ経緯を、現場の判断とみる見方命令の本体が「追捕」だったこと、捕縛の翌日までに斬首されていること状況は指摘できるが、誰がいつ決めたかを示す記録は確認できず

この5つは、確からしさの種類がそろっていません。①だけが、当時の文言としてたどれる嫌疑です。②は数字が動き、③は伝説、④と⑤は後世の読み取りにあたります。

一つ補足します。①の文言がたどれることと、そこに書かれた嫌疑が事実であることは、別の話です。ここを混ぜると、命令書がそのまま真相になってしまいます。

忠順AI
忠順AI

五つ並べて、当時の文言としてたどれるのは一つ目だけ。五分の一でございますな。

二つ目の武器は、渡した数が藩ごとに違うと、この表にございます。数の合わぬ帳面は、勘定方なら突き返すところ。

残る三つは後の見立て。見立てが重なるのは、それだけ帳面が足りぬということでございましょう。

小栗忠順の処刑の理由を史料からたどる

ここからは一つずつ見ていきます。どの資料が、いつ出た、どういう立場の本なのかを添えながら読んでいきます。

この章で確かめる5つ
  • 新政府軍が示した嫌疑は、何と書かれていたのか
  • 武器と農兵は、どこまで確認できるのか
  • 徳川埋蔵金の噂は、処刑の理由として書かれているのか
  • 取り調べはあったのか(ここで史料が食い違います)
  • 誰が斬ると決めたのか

残る「抗戦を唱えた経歴」という見方は、ほかの幕臣がどう扱われたかと並べたほうが分かりやすいので、章をあらためます。

① 嫌疑は何と書かれていたか|「陣屋等厳重に相構へ」

慶応4年閏4月1日(1868年5月22日)、三藩の役人が権田村に到着します。東善寺によれば、役人は東山道総督府の回文を示し、「陣屋等厳重に相構候加之砲台を築き」という嫌疑をかけました。

追捕令があて先としたのは、高崎・安中・吉井の三藩です。太政官が編んだ『復古記』も高崎藩の届書写も吉井藩とします。後世の刊本には小幡藩と書くものがあり、伝わる過程で異同が生じたようです。

同じ文言は、明治以降の刊本にも載っています。蜷川新(にながわ あらた)の『維新前後の政争と小栗上野の死』(日本書院、1928年)は、三藩あての命令文を次のように引いています。

小栗上野介近日、其領地上州権田村に陣屋等厳重に相構へ、加之砲台を築き、不容易企有之趣き諸方注進難聞捨、深く探索を加候処、逆謀判然、上は天朝に対し奉り不埒至極、下は主人慶喜恭順の意に相戻り候に付、追捕の儀其藩々へ申附候

現代語訳小栗が権田村で陣屋を厳重に構え、砲台まで築き、容易ならざる企てがあるとの知らせが各方面から届いた。探索を加えたところ反逆の企てが明らかなので、追捕を各藩に申し付ける。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション 蜷川新『維新前後の政争と小栗上野の死』(日本書院、1928年)

この文言は、次の資料でたどれます。

追捕令の文言が載っている資料
  • 『復古記』第11冊(太政官編、内外書籍、1931年):4月22日付、差出は東山道総督府執事、あて先は松平右京亮(高崎)・板倉主計頭(安中)・吉井鉄丸
  • 『読史余録』(塚越芳太郎、民友社、1901年):東山道総督が三藩に出した檄として引く
  • 写本『麗斎叢書』(国立国会図書館デジタルコレクション):三藩あて御達書の写しを収める

写本については、全文検索用のテキストで本文を読んだだけで、原本の画像との照合はしていません。

つまり、嫌疑の文言そのものは複数の資料でたどれます。

探索についても、『復古記』が収める新田俊純の従軍事蹟に、総督府から巨細に探索せよと命じられ、絵図面にして届け出たという記述があります。

ただし、その探索で何がどこまで確かめられたのかは、今回確認できませんでした。

東善寺は、小栗が現地を見るよう促したところ、役人は観音山の建物を見て疑いなしと同意した、と記しています。調べたうえでの嫌疑だったのかが、ここで揺らぎます。

なお蜷川は、小栗の妻・道子の妹の子にあたります。水沼河原に立つ顕彰碑の文字も蜷川が書いており、身内の立場から書かれた本として読む必要があります。

筆者
筆者

東善寺の話では、観音山の建物を見た役人が『疑いなし』と同意したそうです。それなのに追捕令には『砲台を築き』とあります。

忠順AI
忠順AI

疑いなしと見た役人と、砲台ありと書いた命令書。同じ建物で、勘定が二通りに割れておるわけですな。

寺の伝えるとおりなら、見に来た者の目より、諸方からの注進のほうが重かったことになりましょう。

いま問われれば、建物を見た者の帳面を先に開いてほしかった、と答えとうございます。

小栗が最後に暮らした東善寺には、いまも墓と遺品が残っており、訪ね方とあわせて紹介しています。

② 武器と農兵|引き渡した数が資料で違う

嫌疑の中身として具体的なのは、武器と兵です。小栗が権田村で大砲と小銃を持ち、農兵を訓練していた、という筋書きになります。

武器の引き渡し自体は、同時代の文書に出てきます。高崎藩が総督府へ出した届書の写しは、閏4月1日に三藩が権田村へ人数を出し、小栗父子が所持していた「大小砲其外」を請け取った、と書いています。

数になると記録が割れます。『復古記』所収の吉井信謹家記は「大砲二門、小銃五挺」を差し出したとし、石原戒造編『幕末の英傑小栗上野介を偲ぶ』(マネジメント社、1934年)は「大砲一門、小銃二十挺」と書きます。

大河内輝聲家記と安中藩記は数を挙げず、「大小砲その外の器械を請け取った」とだけ記します。

農兵のほうは、今回参照した高崎市の文化財・観光ページや館林市、事典類には出てきません。菩提寺の東善寺は、抗戦の準備という見方そのものを通説の誤りとして否定しています。

武器があることが、ただちに反逆を意味するわけではありません。武器を差し出した相手が、そのあと捕らえられている。この順序の説明のつきにくさが残ります。

筆者
筆者

渡した数は、吉井藩の家記では大砲2門・小銃5挺、昭和の本では大砲1門・小銃20挺です。

忠順AI
忠順AI

二門に五挺、一門に二十挺。大砲は一つ減って、小銃は四倍。同じ受け渡しで、ここまで割れる帳面も珍しゅうございますな。

もっとも、どちらの数でも、渡したあとで捕らえられた順序は変わりませぬ。

そこから先の腹の内は、どちらの帳面にも書いてございませぬ。

③ 徳川埋蔵金|処刑の理由として書かれているのか

小栗の処刑は、しばしば徳川埋蔵金と結び付けて語られます。勘定奉行として幕府の金庫を握っていた人物だから、金の在りかを知る者として消された、という筋書きです。

そもそも400万両という数字がどこから出てきたのかを、根拠までさかのぼって確かめています。

ところが、今回確認した自治体・寺・事典の資料に、埋蔵金を処刑の理由として書いたものはありませんでした。新政府軍が示した嫌疑にも、金の話は出てきません。

研究の側では、高橋敏『小栗上野介忠順と幕末維新 『小栗日記』を読む』(岩波書店、2013年)があります。出版社の内容紹介は、埋蔵金の噂を処刑後の掠奪の背景として挙げており、処刑の理由としてではありません。

同じ内容紹介は「官軍によって処刑されるに至ったのはなぜか」と、理由を問いの形で書いています。本文がどう答えているかは、本記事では確認していません。

伝説が処刑と結び付いたのは、説明のつかない死に、分かりやすい動機をあてはめたかったからかもしれません。ここは筆者の推測であり、そう書いた史料があるわけではありません。

筆者
筆者

埋蔵金の話は、400万両という数字つきで、いまも小栗さんの名前とセットで語られています。

忠順AI
忠順AI

四百万両。……ずいぶん大きく見積もってくださったものですな。

勘定を預かった者は、金を隠した者と思われる。役目柄、そこは覚悟のうちにて候。

隠したか隠さぬかを私が語れば、話がまた一つ増えるだけ。それより、その数字の出どころを洗ってくだされ。

④ 取り調べはあったのか|史料で記述が食い違う

まず命令の中身です。三藩に命じられているのは追捕、つまり捕らえることでした。蜷川も、これは「追捕」であって「殺害の命」ではなかったと注記しています。

ただし命令には続きがあります。追捕が三藩の手に余る場合は本陣へ申し出よ、先鋒諸隊をもって一挙に誅滅せよ、という一文です。捕らえきれないときの手当ては、あらかじめ書かれていました。

では、捕らえたあとに取り調べはあったのか。ここで史料が食い違います。

高崎藩が総督府へ出した届書の写しが『太政官日誌』第25号に載っています。処刑した側が出した報告です。

(前略)保太郎殿糺問之上(中略)上野介父子首級并武器類等ハ御総督府ヘ護送仕候

現代語訳原保太郎殿が糺問(取り調べ)をしたうえで斬首し、上野介父子の首級と武器類は総督府へ護送しました。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション『太政官日誌』慶応4年 第5巻(太政官)所収「高崎藩届書写」

『復古記』が収める三藩の家記は、もっと細かく書いています。高崎藩の大河内輝聲家記と安中藩記は、閏4月5日に「保太郎糺問を遂げ候上」で斬首したと記します。

吉井信謹家記はさらに細かく、5日に使員の「御糺問の上」捕縛して三ノ倉の本陣へ引き立て、翌6日に三藩の隊長が本陣へ出張して「立会糺問」をしたのち斬首した、という流れを書いています。

一方、高崎市が編んだ『高崎市史』(1927年)は、小栗父子について「二人一モ訊問セズ」、つまり一度も訊問しなかったとします。現在の高崎市の文化財解説も「何の取り調べもなく」です。

古い刊本も同じ側に立ちます。川崎三郎『戊辰戦史』(博文館、1894年)の一節です。

忠順ハ、此時、自ラ十分ニ其志ヲ明ニシ得ベキヲ信シテ疑ハサリキ。而シテ、官軍ノ意必殺ニ在ルヲ以テ、一ノ問フ所アラズ

現代語訳忠順はこのとき、自分の考えを十分に説明できると信じて疑わなかった。しかし官軍の意図は必殺にあったので、一つも問うところがなかった。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション 川崎三郎『戊辰戦史』(博文館、1894年)

本山荻舟『近世数奇伝』(金桜堂書店ほか、1921年)にも「唯一回の訊問をも受けず」とあります。官軍の意図が必殺にあったという部分は、書き手の判断であって、根拠は示されていません。

整理すると、処置にあたった三藩の家記と届書はいずれも糺問があったとし、明治以降に編まれた記録は訊問がなかったとする、という分かれ方をしています。

どちらが実態かを、本記事では決められません。届書や家記は処置した側の報告文書です。後世の記録も、成立した時期・編者・典拠がそれぞれ違います。双方とも、史料の性格を踏まえて読む必要があります。

言えるのは、捕らえてから翌日までに斬首まで進んでおり、その間に何がどこまで行われたのかを、史料から一つに決められないということです。

なお東善寺は、閏4月1日に見分へ来たのは三藩の役人、その後に捕縛したのは西軍だったと書き分けています。

筆者
筆者

高崎藩の届書には『糺問之上』、高崎市史には『二人一モ訊問セズ』。正反対のことが、両方残っています。

忠順AI
忠順AI

届書を出したのは処置した側、市史は六十年ほどのちの編纂。どちらにも、そう書く訳がございましょう。

私の側から、どちらが本当かを申し立てるのは筋が違いまする。

ただ、糺問があったにせよなかったにせよ、問われて何と答えたかまでは、この二つの文言からは出てまいりませぬな。

⑤ 誰が斬ると決めたのか

現場に来た総督府の使員として、原保太郎・豊永貫一郎・大音竜太郎の3人の名が『高崎市史』に挙がっています。『復古記』も、原と豊永が三藩の兵を監督したと記します。

処刑のときに立てられた札の文言を伝える記録も残っています。『高崎市史』と『碓氷郡志』(群馬県碓氷郡編、1923年)は、「其方儀、朝廷に対し奉り叛状明白に付、天誅を蒙らしむる者也」という趣旨の宣告を載せています。

家臣にあてた札には、主人の企てを助けた罪が明白なので梟首にする、という趣旨が書かれています。罪の内容を告げたとされる文言が、後世の編纂物に伝えられているわけです。

ただし、斬首を最終的に誰がどの権限で決めたのかを直接示す文書は、今回確認できませんでした。捕縛から斬首までの経過は家記に残っているのに、決定そのものの部分だけが分かりません。

筆者
筆者

札の『叛状明白』は、追捕令の『逆謀判然』とほぼ同じ趣旨の言葉です。

忠順AI
忠順AI

逆謀判然に、叛状明白。四文字が四文字に置き換わっただけで、中身は少しも増えておりませぬな。

探索の中身がたどれぬまま、初めの嫌疑が最後の札まで運ばれた、とも読めましょう。

誰がそれを決めたのかは記録に出てこぬ、と。そこがいちばん知りたい一行にございます。

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小栗忠順の最期|捕縛から斬首までの経緯

役を解かれてから斬首までは、3か月あまりです。並べてみると、最後の数日だけが急に速く動いていることが分かります。

年月日(和暦)西暦出来事
慶応4年1月15日1868年2月8日御役御免となる
慶応4年3月1日1868年3月24日権田村へ移り、東善寺に仮住まいする
慶応4年3月4日1868年3月27日押し寄せた一団と衝突したと東善寺は記す
慶応4年4月22日1868年5月14日東山道総督府が三藩へ追捕を命じる(『復古記』の日付)
慶応4年閏4月1日1868年5月22日三藩が権田村へ人数を出し、大小砲などを請け取る
慶応4年閏4月4日夕1868年5月25日総督府の使員が高崎城下へ入り、出兵を達する(届書写)
慶応4年閏4月5日1868年5月26日捕縛される。高崎・安中の家記と高崎藩の届書写は、この日の斬首とする
慶応4年閏4月6日1868年5月27日吉井信謹家記・高崎市・東善寺は、この日の斬首とする
慶応4年閏4月7日1868年5月28日養嗣子の又一忠道が高崎で斬首される

日付は資料によって動きます。しかも、同じ『復古記』の中で食い違っています。並べるとこうなります。

斬首の日そう記している資料
閏4月5日『復古記』の本文、同書所収の大河内輝聲家記(高崎藩)・安中藩記、『太政官日誌』の高崎藩届書写、『日本大百科全書』
閏4月6日『復古記』所収の吉井信謹家記、高崎市、館林市、東善寺、国立国会図書館、『高崎市史』が載せる札の日付

処置にあたった三藩のうち、高崎と安中が5日、吉井が6日と書いている形です。同じ現場にいた藩の記録どうしで1日ずれています。

この記事は本文で閏4月6日を採りました。ただしどちらかが誤りと決められるわけではありません。

同時に斬られた家臣の人数も割れています。高崎市と東善寺は3人とし、館林市は「家来4人とともに」と記します。高崎市は、翌日の又一忠道の斬首にも家臣3名が伴ったとしています。

東善寺には家臣や従者の墓も並びますが、内訳までは示されていません。

場所の呼び方も分かれます。高崎市と東善寺は水沼河原(現在の高崎市倉渕町水沼)、館林市は三ノ倉の河原とします。東善寺は三ノ倉へ連行されたのち水沼河原で斬首されたとしており、連行先と処刑地の違いと読めます。

忠順AI
忠順AI

御役御免から三か月あまり。この表の九行のうち五行が、閏四月の七日間に詰まっておりますな。

帳面がこう詰まるときは、たいてい誰かが急いでおるときにございます。

誰が急いだのかまでは、この表には書いてございませぬが。

捕縛から斬首、その後の首の行方までは、2026年9月に出た中公新書の評伝も第六章でたどっています。斬首後の届と小栗の首級の話まで進みます。

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この作品のポイント

  • 第六章:「迫りくる東征軍」から捕縛・斬首までをたどる節
  • 「斬首後の届と小栗の首級」の節
  • 「現在残る『小栗日記』」の節

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榎本武揚は生き延び、退いた小栗は斬られた

小栗が斬られた理由を考えるとき、避けて通れない比較があります。新政府と戦った榎本武揚のほうが、生き延びているのです。三人の処遇を並べてみます。

人物戊辰戦争での立場その後
榎本武揚艦隊を率いて箱館で戦い、降伏した投獄ののち赦され、海軍卿・逓信大臣などを歴任した
勝海舟江戸開城の交渉にあたった明治政府で海軍卿・枢密顧問官などを務めた
小栗忠順抗戦を唱えたが容れられず、役を解かれて領地へ移った捕縛の翌日に斬首された

この落差は、昭和初期に出た顕彰の本にも嘆きとして引かれています。小栗を偲ぶ本には、会津の松平容保も箱館の榎本武揚も命は助けられたのに、田舎に引き込んでいた小栗だけがこうなった、という趣旨の嘆きが引かれています。

ただし、ここから「見せしめにされた」と言い切るのは早いところです。時期が違います。小栗が捕らえられたのは江戸の開城から3週間ほどのちで、戦いの帰趨(きすう)がまだ定まっていない時期でした。

榎本が降伏したのは翌年で、戦いが終わったあとです。助命の交渉にあたる人も時間もありました。同じものさしで並べにくい、という前置きは必要になります。

館林市は、小栗が鳥羽・伏見の敗戦後に徹底抗戦を主張していたと記します。群馬県観光物産国際協会は、実力を恐れた西軍によって斬られたと書きます。ただし、それが処刑の理由だったと述べた史料は今回確認できませんでした。

筆者
筆者

榎本武揚さんは箱館で戦い、翌年に降伏したあと赦され、明治の政府で海軍卿や逓信大臣を務めています。

忠順AI
忠順AI

戦って降った者が大臣に、戦わずに退いた者が河原に。……並べると、順序が逆さまの帳面でございますな。

もっとも、私が捕らえられたのは江戸の開城から三週間ほど、榎本殿が降ったのは翌年。時が違えば勘定も違う、と言う者もおりましょう。

国に人が要るなら、使える者を使うのが道理。恨みは申しませぬ。ただ、この並びはいまも飲み込みにくうございます。

小栗忠順の首はどこへ運ばれたのか

処刑のあと、首はすぐには権田村に戻りませんでした。この行方については、館林市と東善寺がそれぞれ経緯を公表しています。

時期出来事伝えている資料
斬首の直後首級と武器類を総督府へ護送したと、高崎藩が届け出る『太政官日誌』の届書写
斬首の直後首級が高崎へ、翌日に館林の総督府へ送られる東善寺
館林到着後館林城で総督・岩倉具定の首実検を受ける館林市・東善寺
その後泰安寺に預けられ、墓所がないため法輪寺の墓地に埋められる館林市・東善寺
明治2年権田村の人々が掘り出し、東善寺へ運んで遺体とともに葬る館林市・東善寺

又一忠道の首級については、館林市が父子ともに館林へ送られたとし、東善寺は別に下斉田村へ渡されたと記します。ここは資料が分かれます。

掘り出しにあたったのは、権田村の村役人・中島三左衛門ら数人です。館林市は、下野国高橋村の名主や館林の住人が手引きしたこと、取り調べにあたった館林藩士のもとで罪に問われなかったことまで記しています。

時期の書き方は資料で異なります。館林市は一周忌にあたる夜とし、東善寺は明治2年の春とします。同じ出来事を指していると読めますが、日付の細かさが違います。

1928年に出た蜷川の本は、首の所在を不明と書き、いくつかの噂を並べていました。いま自治体と寺がたどれる経緯のほうが、1928年の本より詳しくなっています。

筆者
筆者

首は館林へ送られ、法輪寺の墓地に埋められました。それを掘り出して東善寺へ運んだのは、権田村の中島三左衛門たち数人です。

忠順AI
忠順AI

数人、とな。……館林の寺の墓地を、掘り返しに。

知行地とは申せ、私が権田に住んだのは三月の初めから、わずか二月ほど。その者たちに、そこまでさせる勘定がどこにあったのか。

礼を申すより先に、その者たちが罪に問われなんだかを尋ねとうございます。

筆者
筆者

館林市の記録では、取り調べた館林藩士のもとで、罪には問われなかったそうです。

忠順AI
忠順AI

それは何より。

……それを聞いて、ようやく一つ、帳尻が合い申した。

小栗忠順の墓と顕彰碑|「罪なくして此所に斬らる」

墓は、小栗が最後の日々を過ごした東善寺(高崎市倉渕町権田)にあります。境内の墓と、処刑の場所に立つ碑は、それぞれ別の時期に地元の人々が建てたものです。

東善寺と水沼河原に残るもの
  • 供養墓:境内にある父子主従の墓。東善寺は明治初年に権田の村人が建てたものとする
  • 本墓:供養墓から数分登った寺山にあり、遺体と取り返された首級が葬られたとされる
  • 県指定史跡:高崎市は「小栗上野介忠順の墓」を群馬県指定史跡(昭和28年指定)として紹介する
  • 顕彰慰霊碑:水沼河原に立つ碑。昭和7年(1932年)に地元の有志が建てた

碑には「偉人小栗上野介罪なくして此所に斬らる」と刻まれています。文字を書いたのは蜷川新で、小栗の妻・道子の妹の子にあたる人物です。

東善寺は、この碑を建てるとき、碑文の「罪なくして」に高崎警察署長が異議を唱えたと伝えています。処刑から60年以上たっても、罪の有無を石に刻むことは簡単ではなかったようです。

養嗣子の又一忠道は、翌日に高崎で斬られました。東善寺は城内、高崎市は城下と記します。享年21と伝わりますが、満年齢か数え年かは示されていません。

妻の道子は身重のまま会津へ逃れ、6月10日に女児を産んで国子と名づけたと東善寺は記します。のちに東京へ出て、明治18年(1885年)に亡くなりました。

なお、この出来事を「処刑」と呼ぶかどうかも、資料によって分かれます。自治体や事典は処刑・斬首と書き、菩提寺の東善寺は取り調べがなかった以上それは処刑ではないとして、殺害という語を使っています。

筆者
筆者

水沼河原の碑には『偉人小栗上野介罪なくして此所に斬らる』と刻まれています。昭和7年に地元の有志が建て、字は身内にあたる蜷川新さんが書きました。

忠順AI
忠順AI

昭和七年。六十年あまりたって、石に、でございますか。

身内の筆であるなら、罪の有無について私から申すことはございませぬ。斬られた側が言うことでもない。

ところで貴殿、その碑文は、すんなり石になったのでござるか。

筆者
筆者

東善寺の話では、『罪なくして』に高崎警察署長が異議を唱えたそうです。

忠順AI
忠順AI

罪なくして、のほうに。……偉人の二文字は通ったのでござるな。

役人の勘定とは、いつの世もそういうものでございます。建てるのに骨を折った方々には、ありがたく礼を申しておきます。

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小栗忠順は何をした人だったのか|生涯のふり返り

処刑のことから調べ始めた方のために、人物の輪郭も置いておきます。斬られたところだけが知られがちですが、その前に何をしていた人なのかも見ておきます。

項目内容
名前小栗忠順(通称は又一、官途名は上野介)
生没年1827年〜1868年(満40歳没・数え42歳)
出身江戸・神田駿河台
主な功績遣米使節としての通貨交渉、横須賀製鉄所の建設、兵庫商社の提案

1860年の遣米使節では、目付として渡米し、フィラデルフィア造幣局で日米の金貨の分析を求めました。通貨の交換比率を数字で詰めようとした交渉として知られます。

1865年に起工した横須賀製鉄所は、幕府が倒れたあとも工事が止まりませんでした。新政府に引き継がれ、明治4年(1871年)に1号ドックが完成しています。

仕事は残り、本人は残りませんでした。この対比が、小栗忠順という人物をいまも語らせています。生涯と功績は、こちらの記事でくわしく紹介しています。

よくある質問(FAQ)

小栗忠順はなぜ斬首されたのですか?

理由を一つに確定できる史料は今回確認できませんでした。追捕令は陣屋を構え砲台を築いたという嫌疑を挙げ、処刑のときの札は「叛状明白」と記しますが、その中身を裏づける調査の記録は確認できていません。

取り調べは本当になかったのですか?

史料で記述が食い違います。高崎藩が総督府へ出した届書の写し(『太政官日誌』第25号)には「糺問之上」とあり、取り調べがあったと読めます。一方、『高崎市史』は「二人一モ訊問セズ」と書きます。どちらが実態かは決められません。

いつ、どこで処刑されましたか?

場所は水沼河原(現在の高崎市倉渕町水沼)です。日付は、高崎市・東善寺・吉井信謹家記が慶応4年閏4月6日(1868年5月27日)とし、高崎・安中の家記と高崎藩の届書写は閏4月5日として、資料が分かれます。

罪状は何と書かれていたのですか?

二つに分けて見る必要があります。追捕令に書かれたのは、陣屋を構え砲台を築き容易ならざる企てがある、という嫌疑です。処刑のときの札には「朝廷に対し奉り叛状明白に付、天誅を蒙らしむる者也」という趣旨が記されています。

小栗忠順の首はどうなったのですか?

館林へ送られて首実検を受けたのち、法輪寺の墓地に埋められました。その後、権田村の人々が掘り出し、東善寺で遺体とともに葬ったと、館林市と東善寺が記しています。

家族はどうなりましたか?

養嗣子の又一忠道は翌日に高崎で斬首されました。享年21と伝わります。妻の道子は身重のまま会津へ逃れ、6月10日に女児を産んだと東善寺は記しています。

この女児・国子が婿を迎えたことで、小栗家の家名は明治以降も続いていきます。

小栗忠順の墓はどこにありますか?

群馬県高崎市倉渕町権田の東善寺にあります。境内の供養墓とは別に、寺山に本墓があるとされ、高崎市は「小栗上野介忠順の墓」を群馬県指定史跡として紹介しています。

徳川埋蔵金が処刑の理由だったのですか?

そう語られることはありますが、今回確認した資料に、埋蔵金を処刑の理由として書いたものはありませんでした。研究の側では、処刑後の掠奪の背景として触れられています。

インタビュー後記|食い違いが残る、ということ

小栗忠順が斬首された理由をたどって意外だったのは、資料が足りないのではなく、同じ出来事について書いていることが食い違うことでした。処刑した側の届書は糺問をしたと書き、のちに編まれた市史は一度も訊問しなかったと書きます。

日付も、斬首の日が1日ずれたまま両方が残っています。私たちが「なぜ」と問うとき、出てくるのは一つの答えではなく、食い違ったままの複数の記録でした。

説を一つ選んで断定するほうが、読み物としては収まりがよいのだと思います。けれど、首を掘り返しに行った村人がいたことのほうが、どの説よりも記憶に残りました。

小栗が生きていたら歴史はどうなったのか。その問いは、別の記事でたどっています。

同じ幕臣でありながら、戦わない道を選んで生き延びた人物についても紹介しています。

Xでも小栗が話しています
  • この記事の小栗AIが、X(旧Twitter)で「小栗上野介-勘定方-」として、勘定の小ネタをつぶやいています
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参考資料

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