小栗忠順は何をした人?2027年大河『逆賊の幕臣』主人公を忠順AIと解説

小栗忠順は何をした人?2027年大河『逆賊の幕臣』主人公を忠順AIと解説 何をした人

小栗忠順(おぐり ただまさ)は、幕府の側から日本の近代化を進めた人物として知られています。ところが「では具体的に何をしたのか」となると、説明が難しい人でもあります。

今回あらためて自治体や菩提寺の資料を確認し直して、いちばん驚いたことがあります。よく知られる「アメリカから拾ってきたネジ」の話を、そのネジを所蔵する寺自身が否定していました

この記事の結論

小栗忠順は、江戸幕府の勘定奉行などを歴任した旗本です。 フランスの技術を取り入れた横須賀製鉄所の建設計画に加わり、幕府の財政と軍制の立て直しにも関わりました。

1860年(万延元年)には遣米使節の目付として渡米し、フィラデルフィアの造幣局で日米の金貨を分析させています。

幕府が倒れたあとは領地の上野国権田村に移りましたが、新政府軍に捕らえられ、慶応4年閏4月6日(1868年5月27日)に斬首されました。満40歳、数え年では42歳でした。

  • 満40歳
    没年齢(数え年42歳)
  • 8年
    遣米使節から最期まで
  • 1865年
    横須賀製鉄所が起工

この記事では、2027年の大河ドラマの話から入り、基本プロフィール、三大功績、ネジの逸話、死因と最期、年表、後の時代への影響の順にたどります。

そして今回は、小栗忠順AI(小栗忠順をモデルにしたAI)にも登場してもらいます

※以下のインタビュー部分は、公開されている史料をもとに小栗忠順の人物像を再現した創作です。史料で確認できない心情を補った創作的な対話であり、実際の発言をそのまま掲載したものではありません。
出典の確かめ方と、公開前に行っているチェックは編集方針にまとめています。

筆者
筆者

小栗さん、本日はよろしくお願いします。

あなたは名前こそ知られていても、何をした人かとなると説明が難しい方です。まずは、表舞台に立たれるまでの回り道から聞かせていただけますか。

小栗忠順AI
小栗忠順AI

おお、よう参られた。私が小栗忠順にて候。

神田駿河台の旗本の家に生まれ、目付として海を渡り、勘定奉行として国の台所を預かり申した。横須賀に船を造る場を興そうと図ったのも、この身にございます。

もっとも、思うたことの半ばも成らぬうちに世は変わりました。さあ、何なりとお尋ねなされ。

2027年大河ドラマ『逆賊の幕臣』の主人公に

小栗忠順は、2027年のNHK大河ドラマ『逆賊の幕臣』の主人公です。高崎市の観光サイトによれば、初回放送日は2027年1月10日と発表されています。

制作発表は2025年3月3日でした。主演は松坂桃李さん、脚本は安達奈緒子さん、制作統括は勝田夏子さん、演出は西村武五郎さんです。

本作では、幕臣の側から幕末が描かれるのが大きな特徴です。放送される2027年は、1827年に生まれた小栗にとって生誕200年にあたります。

この記事で取り上げる主なキャストは、次のとおりです。

出演
小栗忠順松坂桃李さん
勝海舟大沢たかおさん
父・小栗忠高(ただたか)北村有起哉さん
母・くに鈴木京香さん
妻・みち上白石萌音さん
恩師・安積艮斎(あさかごんさい)中村雅俊さん
井伊直弼岡部たかしさん

このほかにも、多くの出演者が発表されています。同じ幕臣でありながら対照的な道を選んだ勝海舟も登場します。

ドラマ化を受けて、ゆかりの2つの市が動いています。高崎市は小栗上野介プロジェクト推進協議会を設け、東善寺の隣に記念館の建設を進めています。横須賀市はヴェルニー公園のガイドツアーを始めました。

筆者
筆者

小栗さんが亡くなったあとの話になりますが、あなたを主人公にした物語が作られると聞いたら、どう思われますか?

小栗忠順AI
小栗忠順AI

はて、私にはうかがい知れぬ先の話にございますな。

ここからは創作としての物言いと思し召せ。この身が何を考え、何を成そうとしたのか。

そこまで見ていただけるなら、本望にございます。

小栗忠順は何をした人?基本プロフィールを2分で知ろう

こまかい話に入る前に、小栗がいつの時代の、どんな立場の人だったのかを表でつかんでおきましょう。

項目内容
名前小栗忠順(おぐり ただまさ)。幼名は剛太郎、通称は又一(またいち)
官途名豊後守(1859年ごろ〜)、のち上野介(こうずけのすけ)
生没年文政10年6月23日(1827年7月16日)〜慶応4年閏4月6日(1868年5月27日)。閏4月5日とする資料もあります
享年満40歳(数え年では42歳)
出身江戸・神田駿河台/2500石の旗本の家
主な功績遣米使節としての渡米、横須賀製鉄所の建設計画への参画、幕府の財政・軍制改革

まず名前の整理からです。「又一」は小栗家が代々受け継いだ通称、「上野介」は官途名にあたります。

さらに注意したいのが、遣米使節に加わった1860年の時点では「豊後守」だったことです。『日本大百科全書』の「万延元年遣米使節」の項も、使節の構成を「目付 小栗豊後守忠順」と記しています。

上野介と改めるのは、その後の文久年間です。

なお、国立国会図書館は別称を「豊後」と表記しており、『日本大百科全書』や東善寺の「豊後」と差があります。この記事は後者にならいました。

父は新潟奉行を務めた小栗忠高で、安政2年(1855年)に父が新潟で没し、忠順が家督を継ぎました。

若いころは天保6年(1835年)に儒学者・安積艮斎の塾へ入門し、剣術・柔術・砲術も学んでいます。ただしこの時期の役職は両御番や進物番、使番といった将軍近侍・警固の職で、幕政改革の中核にいたわけではありません。

表舞台に立つのは安政6年(1859年)の目付(外国掛)就任からです。ここから、亡くなるまでの9年間に仕事が集中します。

筆者
筆者

幕政の中心に出られたのは、意外に遅かったのですね。

小栗忠順AI
小栗忠順AI

三十を過ぎてからにございます。それまでは城中の勤めばかりでのう。

もっとも、そのころ何を思うておったかを書き残してはおりませぬゆえ、ここからは作り物と思し召せ。

遅く出た者ほど、残された時が短いと知っております。だからこそ急いだのかもしれませぬな。

小栗忠順の三大功績|遣米使節・横須賀・幕府の改革

小栗の功績は数多くありますが、この記事では次の3つを取り上げます。

小栗忠順が担った3つの仕事
  • 海を渡って交渉した:遣米使節の目付として、日米の金貨の成分を分析させた
  • 造船の拠点を計画した:フランスの協力を得て横須賀製鉄所の建設を立案した
  • 幕府の仕組みを変えようとした:財政と軍制の改革に関わった

1つずつ詳しく見ていきましょう。

① 遣米使節としての渡米と金銀交渉(1860年)

1860年(万延元年)、小栗は遣米使節の目付(監察役)として、アメリカ軍艦ポーハタン号で太平洋を渡りました。日米修好通商条約の批准書を交換するための、江戸幕府として最初の遣外使節です。

使節は正使・新見正興、副使・村垣範正、そして目付の小栗という構成で、役人17名、従者51名、賄方6名を含む計77名でした。

ここでよく混同されるのが咸臨丸です。咸臨丸は使節が乗った船ではなく、警固の名目でサンフランシスコまで随伴した別の船でした。艦長は勝海舟です。

この咸臨丸を「日本人初の太平洋横断」と紹介する事典もあります。ただし同じ事典の別項は、1610年にメキシコへ渡った田中勝介を「太平洋を横断した最初の日本人」としています。

東善寺は、勝海舟自身が「軍艦として初の太平洋横断」と限定して書いていたと指摘しています。「初」の中身は資料によって違います。

一行は5月17日にホワイトハウスでブキャナン大統領に謁見し、22日に国務省で批准書を交換しました。

そして6月13日と14日、フィラデルフィアの造幣局を訪ねます。ここが小栗の見せ場です。

当時、開港後の日本からは小判が大量に海外へ流出していました。日本の一分銀と外国の銀貨を重さで交換する取り決めが、結果として金の流出を招いたのです。

フィラデルフィア造幣局で小栗が求めたこと
  • 米側は貨幣の一部を削り取って分析しようとした
  • 小栗は「小判1枚とドル金貨1個を、それぞれ丸ごと溶かして分析すべきだ」と主張した
  • 米側は時間がかかると渋ったが、最後まで立ち会うと言って全量分析に同意させた
  • 結果は「両者の金の含有量はほぼ同等」だった

ここで大事なのは、この分析で交渉が決着したわけではないという点です。使節には交換比率を改定する権限が幕府から与えられておらず、通貨に関するやりとりはここまででした。

流出を抑えるため、幕府は使節の出発後に国内で改鋳を行っています。万延元年4月10日(1860年5月30日)、大きさと重量を3分の1にした万延小判が発行されました。

なお、この使節が世界を一周して帰国したことは「日本人初の世界一周」と紹介されることがあります。東善寺は、これを「正式な旅として日本人初の世界一周」と限定した形で紹介しています。

筆者
筆者

削った小片ではだめだ、と食い下がられたそうですね。

小栗忠順AI
小栗忠順AI

異国と渡り合うには、腕力ではのうて数字と証拠が要りまする。

削り屑を秤にかけて何が分かりましょうや。丸ごと溶かして初めて、まことの中身が知れるというもの。

もっとも、数字を得たところで、それを使う権限が私にはございませなんだ。そこは無念にございます。

② 横須賀製鉄所(のちの横須賀造船所)の建設(1865年起工)

小栗がもっとも力を注いだのが、横須賀製鉄所の建設です。横須賀市は「その計画を立てたのは、幕府の勘定奉行などを歴任した小栗上野介忠順でした」と記しています。

ただし、これは小栗ひとりの仕事ではありません。横須賀市の別のページは、幕府内の親フランス派として栗本瀬兵衛(鋤雲)・小栗忠順・浅野美作守の3人を挙げ、この3人がフランス公使ロッシュに協力を依頼したと書いています。

当初はアメリカに協力を求めましたが、南北戦争のさなかで断られました。そこでフランスに頼み、技術者レオンス・ヴェルニーを招きます。

現場で指揮を執ったときのヴェルニーは28歳で、技師や職工、医師、教師などおよそ130名が横須賀村へやってきました。

計画は元治元年(1864年)に立案され、フランスのツーロン軍港の3分の2程度の規模の施設を、4か年・240万ドルで整備する構想でした。

そして慶応元年(1865年)11月15日、くわ入れ式が行われます。

ここからが、この記事でいちばん誤解の多いところです。

横須賀製鉄所は「いつ完成したのか」
  • 慶応元年(1865年)11月15日:くわ入れ式(起工)
  • 慶応3年(1867年)3月:1号ドックが起工
  • 慶応4年(1868年):幕府が倒れ、設備の大半が未完成のまま明治政府へ引き継がれる
  • 明治4年(1871年):1号ドックが完成し、同年4月に「横須賀造船所」へ改称
  • 明治36年(1903年):横須賀海軍工廠となる。この時点でも4号ドックは建設中だった

つまり1871年は「1号ドックの完成と改称」であって、施設全体の完成ではありません。この経過を段階ごとに記しているのは財務省の広報誌で、山川『日本史小辞典』も設備の大半が未完成のまま引き継がれたと書いています。

幕府崩壊の時点で、すでに234万ドルが使われ、完成にはさらに60万ドルが必要と報告されていました。

また翌1866年には、軍艦や銃砲の購入、陸軍教官の招聘などにあてる600万ドルの借款契約も結ばれています。ただし幕府の倒壊により、その大部分は実現していません

それでも、この事業は残りました。1号ドックは日本最古の石造ドライドックとして、いまも在日米海軍横須賀基地内で使われています。日本遺産「鎮守府 横須賀・呉・佐世保・舞鶴」の構成文化財でもあります。

製鉄所に据えられたスチームハンマーは1998年に国の重要文化財となり、ヴェルニー記念館で見ることができます。

筆者
筆者

幕府がいつまで持つか分からないなかで、なぜ造船所だったのですか。

小栗忠順AI
小栗忠順AI

ただ船を直すだけでのうて、軍艦を造れる場を築こうと図りました。造船には鉄も機械も、それを扱う人も要りまする。

胸の内を伝える記録は残っておりませぬゆえ、ここからは作り物と思し召せ。たとえ徳川の世が終わろうとも、この鉄と技が次の世の役に立てば。そう考えたことにしておきましょう。

もっとも、あれは私ひとりの企てではござらぬ。栗本殿も浅野殿もおりました。

③ 幕府の財政・軍制改革

小栗は勘定奉行・歩兵奉行・軍艦奉行・陸軍奉行並・海軍奉行並などを歴任し、幕府の立て直しにも関わりました。

軍制では、文久2年(1862年)の改革で幕府陸軍が歩兵・騎兵・砲兵の「三兵」に編成されます。慶応2年(1866年)には横浜に調練場が開かれ、翌年フランスから招かれた教官の指導で大規模な演習が行われました。

ここでも帰属には注意が要ります。国立公文書館は、小栗を軍制改革の「参画」者と書いています。改革は幕府という組織の事業でした。

経済では、慶応3年(1867年)に兵庫商社が設立されます。国立国会図書館によれば、商社設立を提案したのは勘定奉行だった小栗でした。

提案書で初めて「商社」という言葉を使ったとされます。複数の人から資金を集めて結成された経営体、という意味です。

これを「日本初の株式会社」と紹介する資料もあります。ただしこれは顕彰の場での表現で、学術論文は兵庫商社を合名会社として説明しています。この記事では「日本初」とは書きません。

築地ホテル館にも小栗の名が出てきます。清水建設の資料によれば、二代清水喜助は「小栗上野介の勧めもあり」、一口100両として出資を募り、完成後の利益から配当を出す仕組みでホテルを建てました。

なお、封建制を廃して郡県制を樹立する構想も持っていたとされますが、幕府内の反対で実現していません。

筆者
筆者

『商社』という言葉を初めて使ったとされていますね。

小栗忠順AI
小栗忠順AI

一人の懐で足りぬなら、多くの者の金を束ねればよい。ただそれだけの道理にございます。

兵庫の港を開くにあたり、大坂の商人衆に出させて事を起こそうと図りました。もっとも、幕府とともに消えましたがな。

ここからは作り物の物言いにござる。金の巡りを作らねば国は動かぬ。そう考えたことにしておきましょう。

小栗忠順が持ち帰ったと伝わるネジ|東善寺は「拾った1本」説を否定

小栗の逸話でもっとも有名なのが、アメリカから持ち帰ったネジの話でしょう。「工場の床に落ちていた1本を拾い、日本もこれを作れる国にしたいと言った」という形で広く語られています。

ところが、そのネジを所蔵する東善寺(小栗の菩提寺)は、この語られ方を否定しています

東善寺が否定していること
  • 「拾った」のではない:武士は落ちているものを黙って持ち帰らない、というのが東善寺の説明です
  • 「1本」ではない:箱ごともらい受け、土産として配ったうちの1本が寺に残るとしています
  • 「拾った」説の出どころ:東善寺は、工場の床で拾う姿をイラスト入りで載せた歴史雑誌の記事を挙げています
  • 「1本」が広まった経緯:2002年11月20日放送のNHK『その時歴史が動いた』が「一本のネジを握りしめて持ち帰った」と紹介し、1本だけ持ち帰ったように誤解されたとしています

東善寺は、寺に残るこのネジの寸法を公開しています。ただし掲載されている数値は長さと重さの釣り合いが取れておらず、単位の記載に誤りがある可能性があるため、この記事では数値を引用しません。

ネジを見たのはワシントン海軍造船所で、日付は1860年5月24日。貨幣の分析を行ったフィラデルフィア造幣局とは、場所も日付も別です。

もう一つ、東善寺は「ネジ自体は種子島に鉄砲が伝わったときから日本に入っている」として、格別珍しいものとは言えないとも書いています。

同寺は、小栗が配った趣旨を「アメリカではこういうモノをどんどん造っていた。日本もこういうモノをどんどん造れる国にしたい」ということであろう、と推定の形で説明しています。

筆者
筆者

ネジの話は、ずいぶん形を変えて伝わっています。

小栗忠順AI
小栗忠順AI

武士が人様の工場で物を拾いましょうや。心外にございます。

もっとも、この身が何と申したかを書き残してはおりませぬゆえ、寺に伝わる話としてお聞きくだされ。

同じ物が幾つも寸分違わず作られておる。あれこそが、かの国の力にございました。

小栗忠順の死因と最期|取り調べもなく、烏川の河原で

小栗の最期は急でした。慶応4年(1868年)正月、鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が敗れたあと、小栗は新政府への抗戦を唱えましたが受け入れられず、役職を解かれます。

その後、領地である上野国権田村(現在の群馬県高崎市倉渕町)へ移りました。東善寺を仮住まいとし、観音山に住宅を建てる計画を進め、村人のために用水路も整備しています。

権田村で過ごした日数は、高崎市が65日、東善寺が『小栗日記』にもとづいて64日間としており、資料によって1日の差があります。

権田村に移ってから最期まで
  • 慶応4年3月1日(1868年3月24日):権田村に到着し、東善寺に仮住まいする
  • 同年閏4月5日:家臣3人とともに捕縛される
  • 同年閏4月6日(1868年5月27日):水沼河原(烏川の河原)で斬首される
  • 同年閏4月7日:養子の又一(忠道)も高崎で斬首される。享年21と伝わります

高崎市は文化財の解説で、「上野介と家臣3人は捕縛され何の取り調べもなく、翌日水沼川原において斬首されました」と記しています。嫌疑については、別の解説で「『反逆の企て』があるとされ」とかぎ括弧つきで書かれています。

処刑の日については、閏4月6日とする資料が多い一方、『日本大百科全書』のように閏4月5日とする資料もあります。この記事は、高崎市と国立国会図書館にならって閏4月6日を採ります。

享年は満40歳、数え年では42歳です。高崎市などが「42歳」とするのは数え年にあたります。

なお、小栗は幕府の御用金を隠したという「徳川埋蔵金」伝説と結び付けて語られます。ただし確かな史料は残っておらず、伝説として語られているものです。

小栗と同じ幕臣でありながら、戦を避ける道を選んだのが勝海舟です。対照的な2人の生き方は、こちらの記事でも紹介しています。

筆者
筆者

取り調べもないまま、という最期でした。

小栗忠順AI
小栗忠順AI

心の内を申すのは作り物の物言いにござる。そのつもりでお聞きくだされ。

申し開きの場すら与えられなんだのは、いかにも心残りにございます。

されど、うろたえはいたしませぬ。横須賀の槌の音が、いつか私の代わりに答えを出してくれれば。そんな言葉を残したかもしれぬ、という程度にお聞きくだされ。

小栗忠順の生涯を年表で振り返る|駿河台から権田村まで

小栗の生涯を年表で振り返ってみましょう。要職を何度も解かれた不遇の時期まで含めて追うと、その人物像がより立体的に見えてきます。

年(西暦/和暦)出来事ひとこと解説
1827年(文政10年)江戸・神田駿河台に生まれる2500石の旗本の家に誕生
1835年(天保6年)安積艮斎の塾に入門剣術・柔術・砲術も学びます
1855年(安政2年)家督を継ぐ父の死により当主となり「又一」と改名
1859年(安政6年)目付(外国掛)となるここから表舞台に立ちます
1860年(万延元年)遣米使節の目付として渡米当時の官途名は「豊後守」でした
1860年(万延元年)末帰国し外国奉行に就任使節の功で2700石に加増されます
1861年(文久元年)ロシア軍艦対馬占領事件に対応退去に至らず江戸へ戻り、外国奉行を辞任
1862年(文久2年)〜勘定奉行などを歴任罷免と再任を繰り返します
1864年(元治元年)横須賀製鉄所の建設を立案4か年・240万ドルの構想でした
1865年(慶応元年)横須賀製鉄所が起工フランス人技師ヴェルニーを招きます
1866年(慶応2年)横浜に三兵の調練場が開かれるフランス式の軍制改革が進みます
1867年(慶応3年)兵庫商社が設立される「商社」の語を提案書で用いました
1868年(慶応4年)正月抗戦を唱えるも罷免鳥羽・伏見の敗戦後、役職を解かれます
1868年(慶応4年)3月権田村へ移る東善寺を仮住まいとしました
1868年(慶応4年)閏4月捕縛され、斬首される閏4月6日、西暦では5月27日です
1871年(明治4年)1号ドック完成/横須賀造船所へ改称建設は明治政府に引き継がれました

この年表の西暦は、和暦の年に対応させたものです。旧暦の12月にあたる出来事は、日付まで西暦に直すと翌年になります。生年を1827年としているのも、年で対応させた表記です。

小栗忠順のすごさ・影響力|横須賀に残ったものと、後世の評価

小栗が関わった事業は、本人の死後に形になりました。いま残っているものを並べてみます。

小栗の関わった事業で、いまも残るもの
  • 横須賀の1号ドック:日本最古の石造ドライドックとして現役。日本遺産の構成文化財
  • スチームハンマー:1998年に国の重要文化財に指定。ヴェルニー記念館で展示
  • 小高用水:権田村滞在中に整備した用水路が、いまも使われています

顕彰も続いています。横須賀市は昭和27年(1952年)から毎年11月中旬に、小栗の功績をたたえる国際式典を開いてきました。ヴェルニー公園の「小栗広場」には、小栗とヴェルニーの胸像が並んでいます。

高崎市では、東善寺で毎年「小栗まつり」が開かれ、隣接地に記念館の建設が進んでいます。境内の墓は群馬県の指定史跡、水沼河原の終焉の地は高崎市の指定史跡です。

終焉の地には昭和7年(1932年)に「偉人小栗上野介罪なくして此所に斬らる」と刻んだ碑が建てられました。

後世の評価については、伝わり方の区別が必要です。

よく紹介されるのが、東郷平八郎の謝辞です。明治45年(1912年)、東郷が小栗家の人を招き、日本海海戦の勝利は小栗が横須賀に造船所を造っておいてくれたおかげだ、と述べたという話です。

東善寺には、このとき贈られたと伝わる「仁義禮智信」の書が残っています。款記は「壬子夏為小栗又一君 東郷書」で、壬子は明治45年にあたります。招かれたのは婿の小栗貞雄と孫の又一だったとされます。

ただし、東郷が述べたという言葉そのものには、東善寺も出典を示していません。書が残っていることは事実として書けますが、発言の文言は東善寺に伝わる話として読むのが適当です。

もう一つ、大隈重信が小栗を高く評価したという話も広く紹介されています。ただし本記事では原典の該当箇所まで確認できませんでした

よく出典に挙げられる『大隈侯一言一行』(早稲田大学出版部、1922年)には小栗を扱う章が2つありますが、流布する文言そのものは確認できていません。

確認できなかったことは、その言葉が存在しないという意味ではありません。

小栗は「明治の父」と呼ばれることもあります。高崎市の資料も、誰の言葉とはせずに「といわれています」と紹介しています。この記事も、後世に生まれた呼び名として扱います。

筆者
筆者

ご自分の仕事が後世に与えた影響を、どう受け止めますか。

小栗忠順AI
小栗忠順AI

私どもが図った横須賀の場が、私の亡きあとどうなったか。それは、私が見届けることのできなかった先の話にて候。

あの地で育った技と人が、後の世の役に立ったのなら、これに勝る喜びはございませぬ。

名を残そうと思うて働いたのではござらぬ。ただ、この国という船を沈めとうなかった。それだけにございます。

小栗忠順の仕事から考える現代へのヒント

小栗が何を考えていたかを、内心のレベルで確かめることはできません。ただ、残された仕事の形からは、その進め方を読み取れます。

一つは、議論の土台になる数字を取りに行ったことです。フィラデルフィアで削り屑ではなく全量の分析を求めたのは、交渉の根拠を数字で押さえるためでした。

もう一つは、自分の代で終わらない仕事に着手したことです。4か年・240万ドルの計画は、幕府の先行きが見えないなかで始まっています。

小栗の仕事から見える3つの型
  • 数字を取りに行く:主張の前に、根拠となる測定を確保した
  • 時間のかかる事業に手をつける:4か年計画を、政権の余命が読めないまま始めた
  • 仕組みごと持ち込む:技術者・教師・医師まで含めて招き、人を育てる形にした

もっとも、この読み方には限りがあります。分析で数字を得ても交換比率の改定には至りませんでしたし、600万ドルの借款計画は大部分が実現しませんでした。横須賀の事業も、完成させたのは次の時代の人々です。

150年以上前の仕事ですから、そのまま現代に当てはめられるものではありません。それでも、主張の前に根拠を押さえること、自分がいなくなった後も残る形にしておくこと。この2点は、考える材料になりそうです。

筆者
筆者

先の見えない時代を生きる私たちに、伝えたいことはありますか?

小栗忠順AI
小栗忠順AI

これも作り物の物言いにござるが、聞いてくだされ。

金があっても、技があっても、それを動かす意志がなければ何も変わりませぬ。

私は沈む船の上で明日の船を造ろうといたしました。貴殿らの立つ場所が、たとえ心もとなくとも、どうか己の信じる槌を振るいなされ。

あなたは小栗忠順の生き方から、何を学びますか?

よくある質問(FAQ)

小栗忠順は何をした人ですか?

江戸幕府の勘定奉行などを歴任した旗本です。遣米使節の目付として渡米し、フィラデルフィアの造幣局で日米の金貨を分析させました。横須賀製鉄所の建設計画にも加わっています(小栗ひとりの事業ではありません)。

「上野介」と「又一」はどう違うのですか?

「又一」は小栗家が代々受け継いだ通称、「上野介」は官途名です。さらに、遣米使節に加わった1860年の時点では「豊後守」を称していました。上野介と改めたのは、その後の文久年間です。

小栗忠順はなぜ処刑されたのですか?

高崎市の解説は「何の取り調べもなく」斬首されたと記しています。嫌疑については別の解説が「『反逆の企て』があるとされ」と書いており、処刑に至った詳しい経緯には不明な点が残っています。

小栗忠順は何歳で亡くなりましたか?

満40歳です(数え年では42歳)。文政10年6月23日(1827年7月16日)に生まれ、慶応4年閏4月6日(1868年5月27日)に亡くなりました。高崎市などが「42歳」とするのは数え年です。

横須賀製鉄所(造船所)はいつ完成したのですか?

段階を分ける必要があります。1865年に起工し、幕府崩壊時は設備の大半が未完成でした。1871年に1号ドックが完成して横須賀造船所へ改称されますが、1903年に横須賀海軍工廠となった時点でも4号ドックは建設中でした。

小栗忠順が持ち帰ったネジの話は本当ですか?

「床に落ちていた1本を拾った」という話は、ネジを所蔵する東善寺が否定しています。箱ごともらい受けて土産に配ったうちの1本だとしており、広まったのは2002年のNHK番組のナレーションが発端だと説明しています。

小栗忠順と勝海舟の関係は?

同じ幕臣ですが、方針は対照的でした。小栗が抗戦を唱えたのに対し、勝は西郷隆盛との交渉などを通じて江戸城総攻撃の回避に関わりました。2027年の大河ドラマでは、勝を大沢たかおさんが演じます。

徳川埋蔵金との関係は本当ですか?

幕府の御用金を隠したという伝説と結び付けて語られますが、確かな史料は残っておらず、伝説として語られているものです。

小栗忠順の墓はどこにありますか?

群馬県高崎市倉渕町権田の東善寺境内にあります。群馬県の指定史跡で、指定は昭和28年(1953年)8月25日です。境内の墓は明治初年に権田の村人が建てたもので、裏山には本墓があります。

インタビュー後記|「拾った1本」ではなかった

今回は小栗忠順AIに登場してもらい、その生涯をたどりました。

書きながらいちばん驚いたのは、ネジの語られ方を、そのネジを持つ寺自身が否定していたことです。

東善寺によれば、「拾った」という形はある歴史雑誌の記事から、「1本だけ」という形は2002年のNHK番組のナレーションから広まったといいます。

しかも同じ寺が「ネジ自体は種子島に鉄砲が伝わったときから日本にある」とも書いています。持ち帰ったネジの意味は、珍しさよりも、同じような部品を大量に作るアメリカの工業力のほうにあったのかもしれません。

もう一つ引っかかったのが、横須賀の「完成」です。1871年をもって完成としている紹介をよく見かけますが、財務省の資料をたどると、この年に終わったのは1号ドックと改称までで、施設の整備はその後30年以上続いていました。

一代記として読むと、どうしても一人の手柄に見えてきます。実際には、始めた人と、続けた人がいました。

拾ったのか、もらったのか。1本なのか、箱ごとなのか。たった1本のネジをめぐってさえ、語られ方は何通りにも分かれます。その分かれ目を一つずつ見ていくほうが、逸話をなぞるより確かでした。

同じ幕末を生きた人物たちと読み比べると、時代の見え方がぐっと広がります。あわせてどうぞ。

参考資料

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