「もし坂本龍馬が生きていたら、明治の日本はどう変わっていたのか?」
幕末の志士のなかでも、ひときわ人気の高い坂本龍馬。大政奉還や薩長同盟への関わりで知られる人物です。
その龍馬は明治の世を見ることなく、1867年に京都・近江屋で凶刃に倒れました。満31歳、数え年では33歳という若さでした。
この記事の結論
結論からいえば、龍馬が生きていても、明治の日本が大きく変わったとは断定できません。
ただし、官職よりも海運や貿易の道へ進み、日本と世界をつなぐ役割を担った可能性は、たびたび語られてきました。
少なくとも本記事で確認した史料や研究からは、龍馬が明治以降にどのような道を選んだかを確定することはできません。この記事も「もしも」を楽しむ思考実験として読んでください。
- 満31歳
没年齢(数え年33歳) - 1867年
近江屋で落命 - 1868年
戊辰戦争の始まり
だからこそ、歴史ファンは何度も想像してきました。もしあの夜を生き延びていたら、龍馬は新しい日本で何を成し遂げただろうか、と。
今回は龍馬AI(坂本龍馬をモデルにしたAI)に加え、龍馬の師の一人である勝海舟をモデルにした勝海舟AIにも登場してもらいます。二人の掛け合いで、この「歴史IF」を考えてみます。
※以下の会話は、公開されている史料や研究をもとに、坂本龍馬と勝海舟の人物像をAIで再現した創作です。実際に交わされた会話や発言を再現したものではありません。
また、二人が明治以降の歴史も知っているという設定で、歴史上の可能性を語っています。
それでは、龍馬AIと勝海舟AIに登場してもらいましょう。まずはお二人に、自己紹介をお願いします。

わしは坂本龍馬、土佐の生まれぜよ。郷士のせがれとして育ち、河田小龍先生の話に目を開かれたというのが、よう知られた話じゃ。
やがて勝先生と出会うて、船で世界とつながる道を志すようになったがよ。
わしには「世の人はわれをなにともいはばいへ わがなすことはわれのみぞしる」と詠んだ歌もあってのう(『詠草二 和歌』京都国立博物館蔵)。
後の世では、人の評判に左右されず、自分の道を進もうとする歌として読まれちゅうようじゃ。

おれは勝海舟。龍馬にとっちゃあ、海の手ほどきをした師匠筋にあたる男さ。もっとも、こいつは教えたこと以上に、勝手にでかい絵を描く男でな。
今日はこいつと、「もし龍馬が生き延びていたら」って話を、後の世のことも承知のうえでやってみようじゃねえか。
坂本龍馬はどんな人物?基本情報をひとまとめ
IFシナリオに入る前に、まずは坂本龍馬がどんな人物だったのかを、基本情報から確認しておきましょう。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 名前 | 坂本龍馬(さかもと りょうま) |
| 生没年 | 天保6年11月15日(新暦換算:1836年1月3日)〜慶応3年11月15日(新暦換算:1867年12月10日)。満31歳/数え年33歳 |
| 出身 | 土佐国高知城下(現在の高知市上町) |
| 活躍した時代 | 幕末 |
| 主な役割 | 志士・海援隊隊長。薩長同盟に関わり、同盟の内容を裏書きした書簡が現存する。大政奉還前後の政局にも関わったとされる |
龍馬は土佐藩の郷士(下級武士)の家に生まれました。
身分の壁が厳しい時代に、藩の枠を越え、薩摩・長州の藩士や幕臣、公家など、幅広い立場の人々と交わり、人と人をつないでいったのが大きな特徴です。
河田小龍(かわだ しょうりょう)から海外の事情を学んだと伝えられ、勝海舟との出会いを機に、海軍や海運への関心をさらに深めていきました。
小龍は土佐の画家で、アメリカから帰国した中浜万次郎(ジョン万次郎)から聞き取りを行い、『漂巽紀略』を著した人物です。
武器の調達や軍事行動にも関わる一方、交渉や商いによって新たな道を開こうとした姿勢は、現代でも多くの人を惹きつけています。
龍馬の海軍や海運への関心に大きな影響を与えた勝海舟については、こちらの記事で詳しく紹介しています。
坂本龍馬が生きていたら?3つの歴史IFシナリオ
ここからが本題です。坂本龍馬が近江屋の一件を生き延び、明治の世を歩んでいたら、歴史はどう動いたのか。
そんな「もう一つの世界線」を、3つのシナリオで龍馬AIと勝海舟AIに語ってもらいます。
- シナリオ1:新政府に入らず「世界の海援隊」を目指したのか → 確かめようがない
- シナリオ2:戊辰戦争という内戦は避けられたのか → 大政奉還の2か月半後に開戦
- シナリオ3:同郷の岩崎弥太郎と、どう関わったのか → 並ぶ場面は史実に訪れず
どれも龍馬の生き方から自然に想像がふくらむテーマです。1つずつ、じっくり見ていきましょう。
新政府に入らなかったかは、確かめようがない|「世界の海援隊」の逸話
もし坂本龍馬が生きていたら、明治新政府の要職に就いていたのでしょうか? まず、答えから聞いてみます。

ほんまにそうしたかは、わしにも分からんぜよ。
じゃが、亀山社中から海援隊まで、わしがやってきたのは船と商いじゃ。
これまでの歩みを考えれば、官職より海運の道へ進んだ可能性はあるかもしれんのう。
では、その「可能性」はどこまで史料でたどれるのでしょうか。
後世に伝えられた逸話では、龍馬の名がない新政府の人事案を前にして、今後について尋ねられた龍馬が「世界の海援隊でもやりますかな」などと答えたとされています。
ただし、発言の文言には異同があり、具体的な会話の相手や経緯も史料上明確ではありません。この言葉がどこから来たのかは、あとの章で出典までたどります。
もう一つ、この逸話の前提にあたる「人事案」のほうにも注意が要ります。
慶応3年10月16日の日付をもつ新政府の職制案が伝わっており、「新官制擬定書」と呼ばれます。
宮地佐一郎『龍馬の手紙』(講談社学術文庫)に収められた本文を見ると、参議の候補は小松・西郷・大久保・木戸・後藤・三岡八郎・横井平四郎・長岡良之助。たしかに龍馬の名はありません。
とはいえ、そこから言えるのは「公刊されている本文では龍馬の名を確認できない」ということまでです。
- たどれること:公刊されている職制案の本文に、龍馬の名は見あたりません
- たどれないこと:この案がそのまま新政府の人事として決まったわけではありません
- 研究がある:職制案そのものを主題にした研究もあります(寺島宏貴「大政奉還と『職制案(新官制擬定書)』」)
- 問答は別の話:「世界の海援隊」の受け答えの出典は、次の章でたどります
海援隊での活動や、この逸話から、新政府の官職より海運・貿易の道を志向したのではないかと見る向きがあります。ただし、実際にどの道を選んだかは分かりません。

龍馬、役人にならず世界の海へ出たなんて話は、ずいぶん後世の連中に好かれているようだな。
おれから見りゃ、お前は役所の椅子におとなしく座る柄には見えなかったがねえ。
もっとも、そいつは器量の話じゃねえ。ただの性分だ。
大政奉還のあと、2か月半で内戦が始まった|戊辰戦争は避けられたか
坂本龍馬が存命だったとしたら、戊辰戦争という内戦は起きずに済んだのでしょうか? これも、答えから聞いてみます。

わし一人で世の流れは変えられんかったろう。
戦を避けられるなら避けたい。じゃが、話し合うためにも、こちらに力が要ることは分かっちょった。
それでも、できるだけ血を流さん道を探したとは思うぜよ。
この答えを、当時の日程と突き合わせてみます。
龍馬が凶刃に倒れたのは慶応3年11月15日(1867年12月10日)です。その翌年から、新政府側と旧幕府を支持する諸勢力との間で戊辰戦争が始まりました。
ここで押さえておきたいのが、大政奉還から武力衝突までの短さです。
| 日付(和暦) | 出来事 |
|---|---|
| 慶応3年10月14日 | 徳川慶喜が大政奉還を表明し、朝廷に政権の返上を申し出る |
| 慶応3年11月15日 | 龍馬と中岡慎太郎が近江屋で襲われる |
| 慶応3年12月9日 | 王政復古の大号令。同夜の小御所会議で慶喜の辞官納地が決まる |
| 慶応4年1月3日 | 鳥羽・伏見の戦い。戊辰戦争が始まる |
大政奉還から鳥羽・伏見まで、わずか2か月半です。小御所会議では土佐の山内豊信が慶喜を朝議に加えるべきだと主張しましたが、討幕派の強硬姿勢に押し切られました。
つまり、大政奉還によって内戦が避けられたわけではありません。そして龍馬は、小御所会議も鳥羽・伏見も見ていません。
龍馬は大政奉還による政治的な移行を模索しました。ただし、武器の調達や軍事行動にも関わっており、武力を全面的に否定していたわけではありません。
当時は武力による倒幕を主張する勢力も強く、龍馬一人の力で流れを変えられたかどうかは、誰にも断定できません。

お前が生きていたところで、戊辰の戦を全部止められたとは、おれは思わねえ。
ただ、話をまとめる役には立ったかもしれねえな。
……お前だって、刀も鉄砲も要らねえと言っていたわけじゃあるまい。
二人が実業家として並ぶ場面は、史実には訪れなかった|岩崎弥太郎との距離
龍馬が明治まで生きていたとしたら、海運業や商いの世界はどう変わっていたのでしょうか? ここでも、答えから聞いてみます。

生きちょったら、手を組んだか、ぶつかったか、それは想像するほかないぜよ。
のちに大きな海運事業を築いたところを見ると、弥太郎には商いの才があったようじゃのう。
わしが生きちょったら、目指すところに重なる部分もあったかもしれん。
実際のところ、二人はどれくらい近くにいたのでしょうか。
龍馬と同じ土佐の出身で、明治に海運業で頭角を現したのが岩崎弥太郎です。のちに三菱の原点となる事業を築いた人物で、龍馬と弥太郎はドラマなどでよく好敵手として描かれます。
弥太郎が勤めたのは、土佐藩の開成館貨殖局に属する土佐商会の長崎出張所でした。ここで藩のための金策や船・武器の買い付けにあたっています。
高知市の資料によれば、この長崎出張所は海援隊の運営資金の調達や船の出入り事務にも関与しており、そこから二人の間に密接な関係が生まれました。
二人の距離が実際どれくらいだったのか、慶応3年の記録を並べてみます。
| 慶応3年 | 弥太郎の側に残る記録 |
|---|---|
| 3月 | 福岡孝弟の推薦で、土佐商会長崎出張所の下役として長崎へ赴任 |
| 4月23日 | いろは丸が紀州藩船と衝突して沈没 |
| 5月26日 | 異例の早さで主任の地位に就く |
| 6月2日 | 「早朝紀州償金ノ帖面ヲ相調、到後藤公、与坂本良馬密話」 |
| 6月7日 | 長崎での全指揮権を委任される |
| 6月9日 | 京都へ発つ後藤・龍馬を見送り「余不覚流涕数行」と記す |
| 9月12日 | 日記に「何分心気不快」 |
| 11月15日 | 龍馬、京都の近江屋で襲われる |
わずか8か月の記録です。 弥太郎の日記には龍馬がたびたび登場し、酒を飲みながら意見を交換したという記述もあります。
とくに6月2日は、いろは丸事件の賠償交渉のさなかです。弥太郎が朝から帳簿を整え、後藤のもとへ行き、龍馬と密談したことが記されています。資料は「弥太郎が龍馬から受けた影響は、極めて大きかった」と結んでいます。
6月9日に龍馬たちを見送ったときには、気の強い弥太郎が思わず涙を流したとも書かれています。この船中で「船中八策」がまとめられたとされる、あの航海です。
その一方で、良好一色でもありませんでした。同じ資料は、土佐商会の活動が海援隊に振り回されることが多くなり、弥太郎が海援隊に対立的な感情を持つまでになったとも書いています。
慶応3年9月12日夜の弥太郎の日記には、こう書きつけられています。
過日来海援隊ノ引合、商会ノ盛衰ヲ深思発シ、何分心気不快
現代語訳このところの海援隊との掛け合いと、商会の浮き沈みを思うと、どうにも心が晴れない。
出典:高知市「高知市歴史散歩 305 弥太郎、九十九商会へ」
弥太郎はこののち主任を辞し、長崎を一時離れました。
つまり、ドラマで描かれる宿命のライバルという間柄も、単純な友情も、どちらか一方では言い表せません。
もう一つ、弥太郎が本格的に海運事業へ乗り出すのは、龍馬の死後です。弥太郎が九十九商会を起こすのは明治3年(1870年)10月で、龍馬の死からおよそ3年後にあたります。
二人が実業家として向き合う場面は、史実には一度も訪れていません。
- 仕事の縁:弥太郎が勤めた長崎出張所が、海援隊の運営資金と船の事務に関わっていました
- 私的な交流:弥太郎の日記に龍馬がたびたび登場し、酒を酌み交わした記述も残ります
- 実務での摩擦:土佐商会が海援隊に振り回され、弥太郎が対立的な感情を持つに至ったとも書かれています
- すれ違った時期:弥太郎が海運業に乗り出すのは、龍馬の死のあとでした

お前と弥太郎には、確かに仕事の縁があった。
だが、後世の物語が描くような宿命の好敵手ってのは、いささか出来すぎた筋書きさ。
帳面を預かる側と、金を使う側だ。近しくもあり、ぶつかりもする。そういう間柄だったんだろうよ。
岩崎弥太郎がどんな人物だったかは、こちらの記事で詳しく紹介しています。
「世界の海援隊」という言葉を、出典までたどってみた
この記事のシナリオ1は、「世界の海援隊でもやりますかな」という一言から始まっています。あまりに有名な言葉ですが、どこに載っているのかを確かめたことはあるでしょうか。
本記事がたどれた範囲では、早い時期の記載は千頭清臣『坂本竜馬』(博文館、1914年)にありました。国立国会図書館デジタルコレクションで全文が公開されています。
そこで、いくつか分かったことがあります。
- 文言が違う:同書の原文は「左様さ、世界の海援隊でもやらんかな」。広く知られる「やりますかな」ではありません
- 西郷との問答として書かれている:官職に就かないのかと問われ、龍馬がこう答えた、という形です
- 陸奥宗光の回想は別の項にある:同書の「諸士の評」に「維新前、新政府の役割を定めたる際龍馬は世界の海援隊云々と言へり」とあり、内容を要約するにとどまります
- 龍馬の没後47年の伝記:同時代の一次史料ではありません。著者自身、この本を「年少子弟の読物」として書いたと述べています
ここから言えるのは、「西郷とのこの具体的な問答を、海援隊に加わっていた陸奥宗光が証言した」とは書けない、ということです。
陸奥が「世界の海援隊云々」という趣旨を語ったとは書けます。ただし問答の文言そのものは著者の地の文にあり、陸奥の回想はそれとは別の項で、内容をかいつまんで伝えているだけだからです。
もう一つ、この本には見逃せない一節があります。著者の千頭は、龍馬が長生きしていたらどうなったかを、こう書いているのです。
もし龍馬に寿を借さば、今の三菱会社は龍馬の掌中に属すべく、我が海軍亦龍馬を推して元老とせむ
現代語訳もし龍馬が長生きしていたら、今の三菱会社は龍馬のものになっていただろうし、海軍もまた龍馬を元老に推しただろう。(引用は新字体に改めています)
出典:千頭清臣『坂本竜馬』博文館、1914年(国立国会図書館デジタルコレクション 155コマ)
この記事が考えている「もしも」を、100年以上前の伝記がすでに書いていたわけです。もちろんこれは1914年時点の著者の推測であって、史実でも同時代の証言でもありません。
ちなみに同じ本では、案を携えて西郷を訪ねたのは龍馬のほうだと書かれています。人事案を見せられた、という形ではありません。
「龍馬が生きていたら」という問いは、龍馬本人の史料から出てきたものではなく、後世が繰り返し語り継いできた問いなのだと分かります。

百年前の本にまで、同じことが書いてあったかい。よほど惜しまれる男だったんだな、お前は。
もっとも、書いた当人だって確かめようがねえ。だからこそ、みんな好き勝手に想像できるのさ。

わしが言うたとされる言葉が、少しずつ形を変えて伝わっちゅうがか。
「やらんかな」が「やりますかな」になっちょる、と。
じゃが、そもそもわしがほんまに言うたかどうかも、そなたらの世の史料では確かめられんがじゃろう? 後の世が語り継いだ言葉と、わしの実の言葉は、分けて読んでもらいたいぜよ。
「船中八策」と「新政府綱領八策」は、性格がまったく違う
もう一つ、龍馬をめぐってよく混同されるものがあります。「船中八策」と「新政府綱領八策」です。名前は似ていますが、史料としての性格はまるで違います。
| 新政府綱領八策 | 船中八策 | |
|---|---|---|
| 時期 | 慶応3年11月 | 慶応3年6月とされる |
| 原本 | 龍馬自筆とされる本が2点 | 現存が確認されていない |
| 所蔵 | 国立国会図書館/下関市立歴史博物館 | ― |
| 事典の書き方 | 龍馬が起草して土佐藩重役に示した政体案 | 「示したといわれる」と伝聞形 |
| 近年の研究 | ― | 龍馬の手によるものではないとする説 |
新政府綱領八策は、慶応3年11月に龍馬が起草し、土佐藩の重役に示した政体案です。龍馬自筆とされる本が2点伝わっており、国立国会図書館と、山口県の下関市立長府博物館(現在の下関市立歴史博物館)にあります。
末尾には「慶応丁卯十一月 坂本直柔」の署名があります。「直柔(なおなり)」は龍馬の実名です。
八箇条の内容は、次のとおりです。
- 人材の招致
- 有能な諸侯の登用
- 外国との交際
- 律令(国の基本となる法典)の制定
- 上下の議政所
- 海陸軍局
- 親兵
- 金銀物価の対外平準
本文には伏字があり、誰を指すかは定まっていません。山内容堂説や徳川慶喜説がありますが、通説は定まっていないと国立国会図書館は書いています。
対して船中八策は、慶応3年6月、長崎から上京する土佐藩船・夕顔丸の船中で龍馬が後藤象二郎に示したもの、と説明されてきました。
ただし、原本の現存は確認されていません。『山川 日本史小辞典』も「筆記させて後藤に示したといわれる」と、伝聞の形で書いています。
さらに近年は、知野文哉『「坂本龍馬」の誕生』(人文書院、2013年)が、船中八策は龍馬の手によるものではなく後世に形づくられたと論じています。
龍馬自筆とされる資料が残っているものと、原本が確認されていないもの。 龍馬の「構想」を語るとき、この2つを同じ重さで扱うことはできません。
この記事も、龍馬の政治構想を考えるときには、自筆とされる資料が残る新政府綱領八策のほうを重視しています。
現代における「坂本龍馬が生きていたら」の教訓とは
坂本龍馬のIFシナリオから、現代の私たちが学べることをまとめます。
- 枠を越えてつなぐ力:藩や身分にとらわれず、人と人を結んだ龍馬の姿勢は、立場の違う相手と協力する現代のヒントになります
- 力だけに頼らず道を開く:武力だけでなく、交渉や商いによって道を開こうとした発想は、対立の多い時代にこそ意味を持ちます
- 肩書きより、進む道を選ぶ:官職より海運や貿易を選ぼうとしたという逸話からは、肩書きにとらわれない生き方を考えることができます

わしがやってきたのは、藩やら身分やらの垣根を越えて、人と人をつなぐことじゃった。今の世でも、立場の違う者どうしが手を取れば、動かせんものは少ないと思うちょる。
力がすべてではない。じゃが、力を持たぬ者の声は届きにくいのも世の常ぜよ。
話し合いと商い、そして必要な備え。それらをもって、己の道を切り開いてほしいのう。

龍馬の言い分にゃ、おれも半分は同感さ。ただな、志だけじゃ世は動かねえ。人を動かすにゃ、時勢を読む目と、退くときに退く度胸も要るのよ。
おれの目にゃ、こいつは少し向こう見ずに映ることもあった。だが、その向こう見ずが時代を前へ押したのかもしれねえな。
肩書きより己のやりたいことを見つける。そいつはいつの世も、難しくて尊いことさ。
坂本龍馬のような存在が現代にいたとしたら、あなたはどんな問いを投げかけますか?
「坂本龍馬が生きていたら」というテーマによくある質問
坂本龍馬が生きていたら、総理大臣になっていたのですか?
裏づけとなる根拠はありません。内閣制度の創設は1885年で、明治政府の発足当初に総理大臣という役職はありませんでした。
官職より海運・貿易の道を選ぶ意向を示したとする逸話は伝えられています。
なぜ坂本龍馬は新政府に入らなかったと言われるのですか?
そもそも龍馬は大政奉還の直後に亡くなっており、明治新政府には参加していません。
官職より実業の世界を志向していたとする逸話が、この「入らなかった」というイメージのもとになっていると考えられます。
坂本龍馬が生きていたら、戊辰戦争は起きなかったのですか?
これも断定はできません。龍馬は大政奉還による政治的な移行を模索しましたが、武器の調達や軍事行動にも関わっていました。
当時の情勢を考えると、龍馬が存命でも戊辰戦争を回避できたとは断定できません。
坂本龍馬と岩崎弥太郎はどんな関係だったのですか?
弥太郎が勤めた土佐商会の長崎出張所は、海援隊の資金や船の事務にも関わっていました。
ただし高知市の資料は、弥太郎が海援隊に対立的な感情を持つに至ったとも書いています。宿命のライバルという像は後世のものです。
坂本龍馬の死因は何ですか?
京都の近江屋で襲撃を受け、その傷によって亡くなりました。慶応3年11月15日、新暦では1867年12月10日のことです。
同席した中岡慎太郎も2日後に亡くなっています。実行犯は京都見廻組とする説が有力ですが、黒幕は未解明とされます。
インタビュー後記
今回は龍馬AIと勝海舟AIの掛け合いで、「坂本龍馬が生きていたら」というテーマを考えてみました。
IFを考えると、つい「総理大臣になったのでは」と大きな肩書きを想像しがちです。ですが今回書きながら気づいたのは、龍馬の面白さは到達した地位ではなく、枠の外へ漕ぎ出す動き方そのものにある、ということでした。
勝海舟AIに現実的な限界を語らせたのも、そのためです。一人の英雄が時代を動かしたという物語からは、かえって龍馬の像が遠ざかる気がしています。
もう一つ、書きながら手が止まったのが「世界の海援隊」でした。出典をたどった先の著者が、すでに「もし龍馬が長生きしていたら」と書いていたのです。この記事が考えていることを、100年以上前の人がもう考えていたわけです。
「龍馬が生きていたら」という問いは、龍馬自身が残したものではなく、後世の人々が繰り返し投げかけてきた問いなのだと思います。
歴史のIFを考えることは、過去を学ぶだけでなく、現代の選択を見直すヒントにもなります。あなたなら、龍馬にどんな未来を託しますか。
坂本龍馬が実際に何を成し遂げた人物なのかは、こちらの記事で詳しくまとめています。
参考資料
- 国立国会図書館「近代日本人の肖像|坂本竜馬」※龍馬の生没年と経歴
- 国立国会図書館 国際子ども図書館「中高生のための幕末・明治の日本の歴史事典|坂本 竜馬」※生没日の和暦と西暦の対応(天保6年11月15日=1836年1月3日、慶応3年11月15日=1867年12月10日)
- 国立国会図書館「史料にみる日本の近代|1-2 坂本龍馬の政体構想」※新政府綱領八策が「船中八策」をもとに龍馬が起草して土佐藩重役に示した政体案であること、慶応3年11月の成立、下関市立長府博物館に別本が所蔵されること、伏字部分は山内容堂説・徳川慶喜説などがあり通説が定まっていないこと
- 国立国会図書館 国際子ども図書館「中高生のための幕末・明治の日本の歴史事典|史料編 新政府綱領八策」※「竜馬自筆とされる新政府綱領八策は、国立国会図書館と下関市立長府博物館に所蔵されています」という表現、署名の「坂本直柔」が龍馬の実名であること
- 国立国会図書館「[新政府綱領八策](テキスト)」※新政府綱領八策の八箇条の内容と、末尾の「慶応丁卯十一月 坂本直柔」の署名、本文に伏字があること
- 青空文庫「新官制擬定書 慶応三年十月十六日」(坂本龍馬)※慶応3年10月16日の日付をもつ職制案で、参議の候補として小松・西郷・大久保・木戸・後藤・三岡八郎・横井平四郎・長岡良之助の名が挙がること。底本は宮地佐一郎『龍馬の手紙』(講談社学術文庫、2003年)です
- 新潟大学学術リポジトリ 寺島宏貴「大政奉還と『職制案(新官制擬定書)』――『公議』の人事」(『19世紀学研究』第7号、新潟大学19世紀学研究所、2013年、159〜182頁)※この職制案そのものを主題にした研究。本記事は書誌情報を確認したにとどまり、本文の該当箇所は確認していません
- 国立国会図書館デジタルコレクション 千頭清臣『坂本竜馬』(博文館、1914年)155コマ※「左様さ、世界の海援隊でもやらんかな」という原文と、西郷との問答として書かれていること、「もし龍馬に寿を借さば〜」という著者の推測
- 国立国会図書館デジタルコレクション 千頭清臣『坂本竜馬』156コマ※「諸士の評」に載る陸奥宗光の回想「龍馬は世界の海援隊云々と言へり」
- 国立国会図書館サーチ「坂本竜馬」(千頭清臣、博文館、1914年)※同書の書誌(著者・出版者・刊行年・290頁)
- コトバンク「船中八策」(『日本大百科全書』『改訂新版 世界大百科事典』『山川 日本史小辞典』ほかを収録)※慶応3年6月の夕顔丸船中での成立とされること、山川が「筆記させて後藤に示したといわれる」と伝聞形で書いていること
- 人文書院『「坂本龍馬」の誕生――船中八策と坂崎紫瀾』(知野文哉、2013年)※船中八策が龍馬の手によるものではないと論じる研究があること。本記事は版元の紹介と目次を確認したにとどまります
- コトバンク「河田小竜」(『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』を収録)※土佐高知藩士で画家であること、1852年に中浜万次郎から聞き取って『漂巽紀略』を著したこと。事典の見出しは「河田小竜」表記です
- コトバンク「坂本竜馬」(『改訂新版 世界大百科事典』ほかを収録)※襲撃者についての記述と、黒幕をめぐる議論が残っていること
- 京都観光Navi(京都市公式)「坂本龍馬中岡慎太郎遭難之地」※近江屋事件の日時と場所、中岡慎太郎が2日後に亡くなったこと
- 高知県立坂本龍馬記念館「龍馬について」※実行犯は見廻組説が有力とされる一方、黒幕は未解明であること
- コトバンク「中岡慎太郎」(『日本大百科全書』ほかを収録)※中岡の生没日と、遭難の2日後に亡くなったこと
- 文化遺産オンライン「坂本龍馬関係資料 詠草二 和歌」(京都国立博物館蔵)※本文で引用した和歌
- コトバンク「海援隊」(『日本大百科全書』ほかを収録)※亀山社中からの改組と土佐藩の外郭機関となった経緯、龍馬の死後に隊士が分散し慶応4年閏4月に解散したこと
- コトバンク「小御所会議」(『改訂新版 世界大百科事典』ほかを収録)※慶応3年12月9日の会議で慶喜の辞官納地が決まったこと、山内豊信の主張が押し切られたこと、この決定が鳥羽・伏見の戦いを経て戊辰戦争につながったこと
- 国立国会図書館 国際子ども図書館「中高生のための幕末・明治の日本の歴史事典|大政奉還」※慶応3年10月14日の大政奉還と、同年12月9日の王政復古の大号令
- コトバンク「戊辰戦争」(『日本大百科全書』ほかを収録)※戊辰戦争が慶応4年1月3日の鳥羽・伏見の戦いに始まること
- 福山市「坂本龍馬と鞆」※いろは丸事件が慶応3年4月に起こり、鞆の浦で賠償の談判が行われたこと
- 高知市「高知市歴史散歩 304 坂本龍馬と弥太郎」※長崎土佐商会が海援隊の資金調達と船舶事務に関与し、弥太郎と龍馬の間に密接な関係が生まれたこと
- 高知市「高知市歴史散歩 305 弥太郎、九十九商会へ」※弥太郎が海援隊に対立的な感情を持つに至ったこと、慶応3年9月12日夜の日記の記述、九十九商会が明治3年10月に発足したこと
- 三菱グループサイト 岩崎彌太郎「vol.07 坂本竜馬と彌太郎」※長崎商会での金策と海援隊への支援についての三菱側の記述
- 国立国会図書館「近代日本人の肖像|岩崎弥太郎」※弥太郎の生没年と、藩の事業を引き継いで九十九商会を立ち上げた経緯
- 国立国会図書館「近代日本人の肖像|陸奥宗光」※陸奥宗光が海援隊に参加したこと
- 国立国会図書館「近代日本人の肖像|後藤象二郎」※後藤象二郎の人物同定(土佐藩の重役で、龍馬が構想を示した相手とされること)
- 首相官邸「内閣制度の概要」※内閣制度の創設が明治18年(1885年)であること






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