上野公園の銅像などでその姿は広く知られているのに、いざ「何をした人?」と聞かれると答えに詰まる。西郷隆盛は、その筆頭ではないでしょうか。
調べていて厄介だったのは、有名な話ほど出典がつかめないことでした。最期の言葉も、銅像の除幕式で妻がもらしたという台詞も、本記事で調べた範囲では元の記録を特定できません。
そこでこの記事では、確かめられたことと、後世に語られてきた話を分けて並べることにしました。
この記事の結論
西郷隆盛は、薩長同盟の締結や江戸城無血開城の交渉にあたり、明治維新を推し進めた薩摩藩士です。
新政府では参議・陸軍大将として廃藩置県などの改革に加わりましたが、1873年の政変で職を辞し、故郷の鹿児島へ帰ります。
そして1877年、私学校の士族に擁立される形で西南戦争に身を投じ、鹿児島の城山で最期をむかえました。
- 満49歳
没年齢(数え年51歳) - 2度
離島で暮らした時期 - 1889年
罪が赦された年
この記事では、基本プロフィールと人物像を押さえたうえで、三大功績、挫折と最期、年表、後世への影響、『南洲翁遺訓』の言葉という順にたどります。
今回は西郷AI(西郷隆盛をモデルにしたAI)にも登場してもらいます。倒幕から新政府での改革、そして西南戦争へ。その波乱の道のりを、じっくり見ていきましょう。
※以下のインタビュー部分は、公開されている史料や西郷隆盛の人物像を参考に構成した創作です。西郷本人の実際の発言や心情を再現したものではありません。
出典の確かめ方と、公開前に行っているチェックは編集方針にまとめています。

それでは西郷隆盛さん、よろしくお願いします。

おう、よう来なさった。おいどんが西郷隆盛でごわす。薩摩の下級武士の家に生まれ、島での暮らしも二度経験した男でごわす。
世間ではあれこれ言われておるようじゃっどん、なに、大したことはしておらん。おいどんの歩いた道を、ゆるりと見ていってくいやんせ。
西郷隆盛は何をした人?基本プロフィールを2分で解説
西郷隆盛は、薩長同盟や江戸城無血開城に関わり、明治維新の実現に大きく貢献した薩摩藩の武士です。新政府でも参議・陸軍大将などの要職に就きました。
二度の島暮らしを経て新政府の中枢に立ち、最後は政府軍と戦いました。この振れ幅を先に頭へ入れておくと、このあとの話が追いやすくなります。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 名前 | 西郷隆盛(さいごう たかもり)。幼名は小吉、通称はのち吉之介・吉之助 |
| 諱(いみな)・号 | 諱はもともと隆永。号は南洲(なんしゅう) |
| 生没年 | 1828年〜1877年(満49歳、数え年では51歳)。生年は和暦で文政10年12月7日にあたり、太陽暦では1828年1月23日です。和暦の年をそのまま置いた1827年生まれと記す資料もあります |
| 出身 | 薩摩国鹿児島城下・下加治屋町(現在の鹿児島県鹿児島市加治屋町) |
| 活躍した時代 | 江戸時代末期〜明治初期(幕末・明治維新) |
| 主な功績 | 薩長同盟への尽力、江戸城無血開城の交渉、御親兵の編成と新政府の改革 |
西郷隆盛は、薩摩藩の下級武士の家に生まれました。維新の三傑(明治維新で中心的な役割を果たした西郷隆盛・大久保利通・木戸孝允を指す呼称)のひとりに数えられています。
維新の三傑のひとりで、のちに西郷と袂を分かつことになる大久保利通が何をした人なのかを知ると、西南戦争までの流れがつかみやすくなります。
1854年(安政元年)には藩主・島津斉彬に見出されて庭方役に抜擢されますが、その後は二度にわたる島での暮らしを経験しています。国立国会図書館も、薩長連合・江戸城無血開城・新政府での改革を、西郷の主要な事績として挙げています。
そんな西郷に、まずは自己紹介をお願いしてみました。

西郷さんは、明治維新を成し遂げた側にいながら、最後は政府と戦うことになりました。ご自分では、一貫していたとお考えですか?

おいどんは薩摩の下級武士のせがれでごわす。斉彬公に取り立てられて江戸へ出たのが、安政の初めでごわした。
そのあとは奄美、徳之島、沖永良部と島暮らしが続いてのう。先の見えぬ日々もあったでごわす。
あとはおはんと一緒に、おいどんの歩みを一つずつたどっていきもんそ。
西郷隆盛はどんな人だったのか
功績の話に入る前に、西郷という人そのものを見ておきましょう。分かっていることと、後から作られたイメージが、いちばん混ざりやすいところです。
まず名前です。「隆盛」は本来の諱ではありません。もとの諱は隆永でした。
西郷南洲顕彰館の年表は、1869年(明治2年)に正三位を叙せられた際、父の諱である「隆盛」が誤って用いられたと記しています。以後、西郷はその名で通しました。
号の「南洲」は、沖永良部島で文筆にあたっていたころに用いた名によります。これは国立公文書館が説明しています。
意外に思われるかもしれませんが、生前の西郷を写したと確かめられる写真は伝わっていません。国際子ども図書館も、生前の写真は残っていなかったと説明しています。
そのため、教科書などでおなじみの肖像は、イタリア人版画家キヨッソーネが描いたものです。京都大学総合博物館は、弟の従道と従弟の大山巌の顔をもとにした作品で、原本はすでに失われていると解説しています。
| 見られ方 | 内容 |
|---|---|
| 名前の扱い | 幼名は小吉、のち吉之介・吉之助。潜居や配流の時期には菊池源吾・大島三右衛門などの変名も使いました |
| 顔のイメージ | 生前の写真は伝わらず、広く知られる肖像は没後にキヨッソーネが描いたものです |
| 後世の語られ方 | 東京・上野公園と鹿児島市に銅像が建てられ、2018年のNHK大河ドラマ『西郷どん』では主人公として描かれました |
なお「西郷どん」の「どん」は、鹿児島の言葉で「殿」に由来するとされる敬称です。地元では「せごどん」と読まれてきました。

『隆盛』はもともとお父様の名前だったそうですね。

おいどんの諱は隆永と申した。それが正三位を頂戴したときに、父の名で届けられてしもうたそうじゃ。
誰がどう間違えたかまでは、おいどんの口からは申せんでごわす。
なぜ直さなんだかと聞かれても、それを伝える記録は残っておらんでごわす。
西郷隆盛は何をした人?三大功績を分かりやすく紹介
西郷隆盛の功績は数多くありますが、特に押さえておきたいのが次の3つです。
- ① 薩長同盟の成立に尽力した(1866年)
- ② 江戸城無血開城の交渉にあたった(1868年)
- ③ 御親兵の編成と新政府の改革に関わった(1871年)
どれも、日本が武士の世から近代国家へと生まれ変わる激動の時代を象徴する出来事です。一つずつ詳しく見ていきましょう。
① 薩長同盟の成立に尽力した(1866年)
幕末、薩摩藩と長州藩は、かつて激しく対立する間柄でした。その両藩を結びつけたのが、1866年(慶応2年)の薩長同盟です。
慶応2年正月21日(1866年3月7日)、坂本龍馬と中岡慎太郎の周旋によって、薩摩の小松帯刀(こまつ たてわき)・西郷と、長州の木戸孝允(きど たかよし)との間で六か条が結ばれました。
同盟の翌年、龍馬は暗殺されます。もし生きていたら維新はどう進んだのか、龍馬AIと海舟AIに聞いた記事もあります。
互いに敵視していた二つの雄藩が連携したことで、のちの倒幕運動につながる基盤ができました。
| 時期 | 出来事 |
|---|---|
| 1864年 | 禁門の変で薩摩と長州が武力衝突する |
| 慶応2年正月21日 | 京都で薩摩・長州の間に六か条が結ばれる |
| 慶応2年2月5日 | 坂本龍馬が木戸の書面の裏に、内容に相違ない旨を朱書きする |
坂本龍馬がどんな人物だったのかは、こちらの記事で詳しく紹介しています。

かつて敵対していた長州と手を結ぶのは、迷いもあったのではないでしょうか?

迷いはあったじゃろうのう、と申しておきもんそ。薩摩と長州は、長らく刀を向け合うてきた仲じゃったでな。
じゃっどん、京での話がまとまったのは事実でごわす。龍馬どんや中岡どんが間を走り回ってくれたおかげじゃ。
そのとき何を考えておったかまでは、いまとなっては確かめる術もござらん。
② 江戸城無血開城の交渉にあたった(1868年)
1868年(慶応4年)、新政府軍と旧幕府軍が争う戊辰戦争(ぼしんせんそう)が始まります。西郷は東征大総督府の下参謀として、この戦いにあたりました。
3月9日、旧幕府側の使節である山岡鉄舟(やまおか てっしゅう)が西郷と接触し、徳川処分の条件が協議されます。続く3月13日・14日の両日、西郷は勝海舟(かつ かいしゅう)と江戸の薩摩藩邸などで会談しました。
14日の会談を経て、翌15日に予定されていた江戸城総攻撃は中止されることになりました。そして4月11日、東征軍の諸兵が江戸城へ入り、開城となりました。
| 日付(慶応4年) | 出来事 |
|---|---|
| 2月14日 | 西郷が東征大総督府の下参謀に任じられる |
| 3月6日 | 3月15日をもって江戸城を総攻撃すると布告される |
| 3月9日 | 山岡鉄舟と会い、徳川処分の条件を協議する |
| 3月13日・14日 | 勝海舟と会談。14日に総攻撃の中止が決まる |
| 4月11日 | 東征軍が江戸城へ入り、開城となる |
これは西郷ひとりの手柄ではありません。『日本大百科全書』は、徳川一門や輪王寺宮・静寛院宮らの嘆願、内戦の拡大を望まないイギリスの要請などが重なって妥協が成立したと説明しています。
それでも、江戸城への総攻撃と市街地での大規模な戦闘が回避された意義は大きいものでした。
この交渉にあたった勝海舟が後年その舞台裏をどう語ったのかは、『氷川清話』などに残る言葉から確かめられます。

勝海舟さんとの会談は、どのような心持ちで臨まれたのでしょうか?

あの談判の前には、山岡どんが先に条件を運んでくれておった。下地はそこでできておったでごわす。
十四日の談判を経て総攻めは取りやめとなり、四月の十一日に城は開いた。おいどんがしたのは、その段取りの一部でごわす。
勝どんの決断も、慶喜公の恭順もあってのこと。おいどん一人で成した話ではなか。
③ 御親兵の編成と新政府の改革に関わった(1871年)
明治維新のあと、西郷は新政府の参議として改革にあたります。なかでも大きかったのが、1871年(明治4年)の廃藩置県(はいはんちけん)です。
廃藩置県とは、藩を廃止して、中央政府が直接地方を治める制度のこと。藩主に代わって中央政府が任命した府知事や県令を置く大改革で、激しい反発も予想されました。
そこで政府は、鹿児島・山口・高知の三藩から集めた御親兵(ごしんぺい)を軍事的な後ろ盾としました。『山川日本史小辞典』は、この御親兵が山県有朋と西郷隆盛によって編成されたと記しています。
明治4年7月14日に廃藩置県の詔が発せられ、藩知事は全員が罷免されて東京居住を命じられました。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 御親兵の編成 | 明治4年2月、鹿児島・山口・高知の3藩が献じた約1万の兵を兵部省の管轄下に置いた |
| 集結の完了 | 同年6月 |
| 廃藩置県の詔 | 明治4年7月14日。藩知事は全員が罷免され、東京居住を命じられた |
| 詔のあと | 3府302県となった |
| 御親兵のその後 | 1872年3月に近衛兵と改称された |
ただし、西郷がこの改革をどこまで主導したかについては、記述に幅があります。『日本大百科全書』は西郷が主導的役割を果たしたとする一方、『改訂新版 世界大百科事典』は山県有朋ら少壮の官僚が木戸・大久保・西郷を動かしたと説明しています。

藩をなくすというのは、当時としては大変な決断だったのではないですか?

わっぜ大きな変わり目でごわした。長年続いた藩の仕組みをなくすのじゃから、反発が出るのは当たり前でごわす。
おいどんも御親兵の編成に関わったでごわす。山県どんらと一緒でのう。後ろ盾がなければ、詔も紙切れになりかねん。
誰が言い出し、誰が動かしたかは、おいどんの口からは言えんでごわす。
西郷隆盛の挫折と最期|征韓論の政変から西南戦争へ
華々しい功績の一方で、西郷の後半生には、新政府からの離脱や西南戦争という大きな転機がありました。ここでは、新政府を去ってから最期をむかえるまでの流れをたどります。
征韓論・遣韓論をめぐる政変で新政府を去る
明治政府では、朝鮮との外交関係をどう打開するかが大きな争点になっていました。これがいわゆる征韓論・遣韓論(せいかんろん・けんかんろん)をめぐる対立です。
1873年(明治6年)8月17日の閣議で、西郷を朝鮮へ派遣することがいったん決まります。しかし9月に岩倉具視が欧米視察から帰国すると流れが変わり、10月に入って決定は覆りました。
ここで注意したいのが、西郷が何を主張したのかは、事典のあいだでも記述が分かれているという点です。
| 事典 | 西郷の位置づけ |
|---|---|
| 『デジタル大辞泉』 | 朝鮮へ出兵しようとした主張 |
| 『山川日本史小辞典』『ブリタニカ国際大百科事典』 | 自ら使節として渡り、交渉が決裂すれば出兵すべきとする主張 |
| 『日本大百科全書』 | 出兵論に反対し、平和的な交渉を主張。三条実美がこれを征韓論と誤解したとする |
| 『改訂新版 世界大百科事典』 | 交渉による修交を求めたもので、征韓論者というイメージを否定する意見も出ている |
| 『精選版 日本国語大辞典』 | 即時出兵の主張と、まず使節派遣という二説があるとする |
西郷は10月23日に陸軍大将近衛都督兼参議の辞職願を提出します。この辞表は「西郷参議辞表」として国立公文書館に残っています。翌24日には板垣退助・後藤象二郎・江藤新平・副島種臣が抗議辞職し、西郷は故郷の鹿児島へ帰りました。
私学校と、高まる士族の不満
鹿児島に戻った西郷は、1874年(明治7年)6月に私学校(しがっこう)を開きます。名前から学校を思い浮かべますが、実態は少し違いました。
私学校は、篠原国幹が主宰する銃隊学校と、村田新八が監督する砲隊学校からなる組織でした。旧近衛の歩兵や砲兵が中心で、ほかに士官を養成する賞典学校なども置かれています。
- 設立:1874年(明治7年)6月、鹿児島
- 中身:篠原国幹の銃隊学校と、村田新八の砲隊学校が柱
- 広がり:鹿児島県下に136の分校が置かれた
- 後ろ盾:県令・大山綱良の支持のもと、区長や警察官にも私学校の関係者が多く就いた
つまり私学校は、若者の教育の場であると同時に、県政にも大きな影響を持つ組織になっていきました。当時は明治維新で身分や特権を失った士族(もと武士の身分を持つ人々)の不満が各地で高まっていた時期です。
こうして鹿児島は、新政府と一触即発の緊張をはらむ土地になっていきました。
西南戦争と、城山での最期
1877年(明治10年)1月末、政府が県庁に知らせないまま火薬を搬出しようとしたことをきっかけに、私学校党が陸軍火薬局などを襲って弾薬を奪います。
西郷は彼らに擁立される形で兵を率い、西南戦争(せいなんせんそう)へと進みました。国立公文書館も、鹿児島県の士族が中心となり、西郷を擁立して起こした戦いだと説明しています。
2月に約1万3000の兵が北上し、22日に熊本鎮台を攻めますが、谷干城の率いる3500の鎮台兵が籠城して落ちません。籠城は50日あまりに及び、4月中旬に包囲が解かれました。
3月4日から20日にかけての田原坂の戦いは、西南戦争を代表する激戦として知られます。
九州各地を転戦しながら敗北を重ねた西郷軍は、最後は故郷・鹿児島の城山(しろやま)に追い詰められます。
- 日付:明治10年(1877年)9月24日
- 場所:鹿児島・城山の岩崎谷
- 経緯:山県有朋の指揮する政府軍が総攻撃をかけ、西郷は腰と大腿部に銃弾を受けたと伝わる
- その後:西郷ら160名が死亡(文化遺産オンラインの解説は「戦死」と記す)。のちに政府軍の幹部が遺体と首を実検した
最期の場面について、鹿児島県の公式観光サイトは、別府晋介(べっぷ しんすけ)の介錯(かいしゃく)によって最期をむかえたと言われています、という書き方をしています。事典では「自刃」「戦死」と表現が分かれており、断定はできません。
よく知られる最期の言葉についても、本記事では初出の記録を特定できませんでした。
なお、西郷の死後もその評価は変わっていきます。1889年(明治22年)2月11日、大日本帝国憲法の発布にともなう大赦(たいしゃ)によって罪が赦され、正三位(しょうさんみ)が追贈されました。

新政府を去り、最後は政府軍と戦うことになったご自身の道のりを、どう振り返りますか?

火薬庫の一件からこちら、鹿児島は一気に張りつめていったでごわす。
兵を率いたのは事実じゃ。担がれた、と言われれば、それまででごわす。おいどんが何を思うておったかは、記録には残っておらん。
城山で何があったかも、おいどんの口から語る話ではなか。残った記録を、おはんが読んでくいやんせ。
西郷隆盛の生涯を年表で振り返る
ここまでの歩みを、生まれてから罪を赦されるまでの流れでたどってみましょう。二度にわたる島での生活や政変での失脚を経験しながら、そのつど表舞台へ戻っていった道のりが見えてきます。
| 年 | 出来事 | 解説 |
|---|---|---|
| 1828年 | 薩摩藩に生まれる | 鹿児島城下・下加治屋町の下級武士の家に、小吉として誕生しました |
| 1854年 | 藩主・島津斉彬に見出される | 安政元年1月に江戸へ出て、4月に庭方役へ抜擢されます |
| 1858年 | 僧・月照と入水し、西郷のみ蘇生 | 安政5年11月、鹿児島湾で月照とともに身を投げ、月照は死亡、西郷は蘇生しました |
| 1859年 | 奄美大島に潜居する | 菊池源吾と変名し、龍郷村に潜居しました(罪人ではなく潜居の扱い) |
| 1862年 | 徳之島を経て沖永良部島へ配流される | 島津久光の命に背いて捕らえられ、7月に徳之島、閏8月に沖永良部島へ送られました |
| 1864年 | 赦免されて政治の表舞台へ戻る | 2月に召還され、7月の禁門の変で薩摩兵を指揮。10月に西郷姓へ復しました |
| 1866年 | 薩長同盟が結ばれる | 慶応2年正月21日、坂本龍馬・中岡慎太郎の周旋で長州と六か条を結びました |
| 1868年 | 江戸城無血開城の交渉にあたる | 2月に東征大総督府下参謀。3月に山岡鉄舟・勝海舟と交渉し、4月11日に開城となりました |
| 1871年 | 御親兵の編成と廃藩置県 | 2月に三藩の献兵で御親兵を編成。7月14日に廃藩置県の詔が発せられました |
| 1872年 | 陸軍元帥兼参議・近衛都督に就任する | 留守政府の中心人物として国政にあたりました |
| 1873年 | 政変で新政府を去る | 10月23日に辞表を提出し、鹿児島へ帰郷しました |
| 1874年 | 私学校を設立する | 6月に銃隊学校・砲隊学校からなる私学校を開きます |
| 1877年 | 西南戦争。城山で最期をむかえる | 1月末の火薬庫襲撃をきっかけに挙兵。9月24日、城山で最期をむかえました |
| 1889年 | 罪が赦される | 2月11日、憲法発布にともなう大赦で罪が赦され、正三位を追贈されました |
こうして並べてみると、順風満帆とはほど遠い人生だったことが分かります。二度にわたる島での生活や政変での失脚を経ながら、そのつど表舞台へ戻り、時代を動かす場面に立ち会っていきました。
西郷隆盛のすごさ・影響力
西郷の影響力を示すのは、立場の違う相手と交渉をまとめた場面です。旧幕府側の勝海舟と会談し、江戸城への総攻撃と市街地での大規模な戦闘が回避されました。
もう一つは、新政府に不満を抱く士族が西郷のもとに集まったことです。西南戦争は、明治初期に相次いだ士族反乱のうち最大規模のものになりました。
そして西郷像は、没後に大きく育っていきます。賊軍の将として官位を奪われた人物が、12年後には罪を赦されて正三位を追贈され、その9年後には東京の公園に銅像が建ちました。
| 時期 | 西郷がどう扱われたか |
|---|---|
| 1877年 | 開戦後に官位を剥奪される(「西郷隆盛外二名官位褫奪」) |
| 1879年 | 勝海舟が私費で留魂詩碑を建立する(現在は洗足池公園) |
| 1889年 | 憲法発布の大赦で罪が赦され、正三位を追贈される |
| 1898年 | 上野恩賜公園の銅像が除幕(12月18日、高村光雲作、犬は後藤貞行作) |
| 1937年 | 鹿児島市の銅像が完成(安藤照作、没後50年祭を記念して企画され、8年をかけて完成した陸軍大将の制服姿) |
| 2018年 | NHK大河ドラマ『西郷どん』の主人公として描かれる |
上野に建った理由については、当初は皇居の近くが希望されたものの取りやめとなり、薩摩藩兵が彰義隊と戦ったゆかりの地である上野に決まった、とレファレンス協同データベースが伝えています。
なお、除幕式で妻の糸が「うちの人はこげんな人じゃなか」ともらしたという話が広く語られています。ただし本記事では、この発言を伝える同時代の記録や初出の文献を特定できませんでした。

多くの人に慕われた理由は、どこにあったと思いますか?

人望などと大げさに言われても、おいどんにはよう分からんでごわす。
ただ、鹿児島には、おいどんを頼って集まってきた者が確かにおった。止められなかったのも、また事実でごわす。
あとの世でどう語られておるかは、おいどんの知らぬ話じゃ。おはんらの好きに読んでくいやんせ。
西郷隆盛の「敬天愛人」|『南洲翁遺訓』が伝える言葉
西郷を語るときによく引かれるのが「敬天愛人(けいてんあいじん)」という言葉です。「天を敬い、人を愛する」という意味で読まれています。
ただし、この言葉を西郷自身が書き残したと確かめられているわけではありません。西郷の思想を表す言葉として知られ、その考え方は『南洲翁遺訓』に記されています。
- 刊行:1890年(明治23年)
- 編んだ人:旧庄内藩士たち
- 経緯:戊辰戦争後の寛大な処置に感銘を受け、明治3〜8年に鹿児島の西郷を訪ねて聞いた教えを書き残したもの
- 位置づけ:西郷自身の著述ではなく、聞き取った教えをまとめたもの
『南洲翁遺訓』は、西郷の死から13年後の1890年(明治23年)に刊行された本です。西郷自身の著述ではなく、旧庄内藩士が聞いた教えをまとめたものでした。
西郷本人が「敬天愛人」を生涯の指針としていたかどうかまでは、この本から断定できません。
それでも、聞き書きが残るほど交わりが深かったことは確かです。明治8年には旧庄内藩中老の菅実秀が鹿児島の西郷を訪ね、「徳の交わり」を誓い合ったと酒田市は伝えています。
「自分の利益より、他者や公のために動く」という読み方は、現代でもリーダーシップを語るうえでたびたび引用されます。ここから何を受け取るかは、読む人しだいでしょう。

最後に、現代を生きる私たちへ、何か一言いただけますか?

そう言われてものう。おいどんが庄内の衆に話したことは、後の世で一冊にまとめられたと聞いておりもす。
ここから先は、おはんらの世で拵えた物言いと思うて聞いてくいやんせ。
天を敬い、人を愛する。そう書き残されたのなら、それはそれで悪くない言葉でごわす。
あなたは西郷隆盛の生き方から、何を学びますか?
よくある質問(FAQ)
西郷隆盛は何をした人ですか?
幕末の薩摩藩士で、明治維新の実現に大きく貢献した「維新の三傑」のひとりです。薩長同盟の締結にあたり、勝海舟との会談を経て江戸城の無血開城に至りました。新政府では御親兵の編成などに関わりましたが、1873年の政変で下野し、西南戦争で最期をむかえました。
西郷隆盛の死因は何ですか?
1877年(明治10年)9月24日、城山で腰と大腿部に銃弾を受け、別府晋介の介錯によって最期をむかえたと言われています。ただし事典では「自刃」「戦死」と表現が分かれており、断定はできません。
西郷隆盛は征韓論を主張したのですか?
西郷が何を主張したのかは、事典のあいだでも記述が分かれています。出兵論とするもの、使節として渡り決裂すれば出兵とするもの、平和的交渉を主張したとするものがあり、決着していません。
西郷隆盛と大久保利通の関係は?
幼少期に同じ郷中で育ち、幕末にはともに薩摩藩を代表する人物として活動しました。ともに「維新の三傑」に数えられますが、征韓論・遣韓論をめぐって対立し、袂を分かちます。大久保も西南戦争の翌年(1878年)に暗殺されています。
「隆盛」はもともと誰の名前ですか?
父の諱です。西郷本人の諱は隆永でした。1869年(明治2年)に正三位を叙せられた際、父の諱である「隆盛」が誤って用いられ、以後その名で通したと西郷南洲顕彰館は記しています。
西郷隆盛の写真は残っていますか?
生前の西郷を写したと確かめられる写真は伝わっていません。広く知られる肖像は、イタリア人版画家キヨッソーネが弟の従道と従弟の大山巌をもとに描いたもので、原本もすでに失われています。
私学校とはどんな組織でしたか?
1874年(明治7年)6月に鹿児島で開かれた組織で、篠原国幹の銃隊学校と村田新八の砲隊学校が柱でした。県下に136の分校が置かれ、県令・大山綱良の支持のもと県政にも影響力を持っていました。
西郷隆盛の銅像はどこにありますか?
東京・上野恩賜公園の像は1898年(明治31年)12月18日に除幕式が行われました。作者は高村光雲、傍らの犬は後藤貞行の作です。鹿児島市の像は安藤照の作で、8年をかけて1937年(昭和12年)に完成した陸軍大将の制服姿です。
「西郷どん」という呼び名の由来は?
鹿児島の言葉で「どん」は「殿」に由来するとされる敬称です。地元では「せごどん」と読まれてきました。2018年のNHK大河ドラマの題名にも使われています。
インタビュー後記|「栄達より信念を優先した」と語られてきた西郷隆盛
今回は西郷AIに登場してもらいました。
調べていて強く印象に残ったのは、西郷が二度にわたる島での生活や政変での失脚を経験しながら、そのつど表舞台に戻ってきたことです。明治維新という大事業に関わりながら、新政府の中では大久保利通らとの対立が深まり、最後は擁立される形で戦いに臨みました。
もうひとつ、書きながら何度も手が止まったのが、有名な話ほど出典をたどれないという点です。最期の言葉も、銅像の除幕式で妻がもらしたという台詞も、元の記録には行き当たりませんでした。
- 「隆盛」が父の諱で、正三位の叙位のときに誤用されたこと(西郷南洲顕彰館)
- 生前の写真が伝わらず、肖像がキヨッソーネの作であること(国際子ども図書館・京都大学総合博物館)
- 別府晋介の介錯を、鹿児島県の公式観光サイトが伝聞形で書いていること
- 『南洲翁遺訓』が、没後13年に旧庄内藩士によって刊行されたこと(酒田市)
栄達より信念を優先した人物として語られてきた西郷ですが、その像の多くは没後に形づくられたものです。何が確かめられて、何が語り継がれてきたのかを分けて読むと、この人はいっそう面白くなります。
西郷と袂を分かった人物の側から読むと、西南戦争までの流れが立体的になります。
参考資料
本記事の史実部分は、以下の資料を参考にしています。
- 国立国会図書館「近代日本人の肖像|西郷隆盛」※生没年(文政10年12月7日〜明治10年9月24日=1828年1月23日〜1877年9月24日)、別称「南洲」、島津斉彬に取り立てられたこと、入水と配流、薩長連合・江戸城無血開城・新政府での改革を主要な事績として挙げていること
- 国際子ども図書館「中高生のための幕末・明治の日本の歴史事典|西郷隆盛」※生前の写真が残っていないこと、キヨソネ(本記事ではキヨッソーネと表記)が弟と従弟の写真をもとに原画を描いたこと、上野の銅像が高村光雲の作であること
- 西郷南洲顕彰館「西郷さんを知る(南洲年表)」※庭方役への抜擢(1854年)、変名の使用、島での経緯、東征大総督府下参謀(1868年2月14日)、3月6日に3月15日の江戸城総攻撃が布告されたこと、私学校(1874年6月)、山県有朋が指揮する政府軍による9月24日の城山総攻撃、そして1869年に正三位を叙せられた際に父の諱「隆盛」が誤用されたこと
- 西郷南洲顕彰館「錦江湾へ入水編」※安政5年11月の入水の経緯、月照は死亡し西郷は蘇生したこと
- コトバンク「西郷隆盛」(『日本大百科全書』ほかを収録)※鹿児島城下下加治屋町の生まれであること、幼名・通称の変遷(小吉・吉之介・吉之助)、諱が隆永であること、奄美大島での潜居と徳之島・沖永良部島への配流。同書は生年を1827年と表記しています
- コトバンク「月照」(『日本大百科全書』ほかを収録)※安政5年11月16日の入水で、西郷は助かり月照は没したこと
- コトバンク「維新の三傑」※西郷隆盛・大久保利通・木戸孝允を指す呼称であること
- コトバンク「薩長同盟」(『改訂新版 世界大百科事典』『百科事典マイペディア』を収録)※慶応2年(1866年)正月21日、坂本龍馬・中岡慎太郎の周旋で、薩摩の小松帯刀・西郷隆盛と長州の木戸孝允(桂小五郎)との間に6か条が結ばれたこと
- コトバンク「江戸開城」(『日本大百科全書』を収録)※慶応4年3月9日に山岡鉄舟が西郷と接触したこと、3月13・14日の会談、4月11日の開城。徳川一門や輪王寺宮・静寛院宮の嘆願、内戦の拡大を望まないイギリスの要請も妥協の成立に働いたこと
- コトバンク「御親兵」(『山川日本史小辞典』ほかを収録)※明治4年2月に鹿児島・山口・高知3藩の献兵約1万を兵部省管轄下に置いたこと、集結の完了が同年6月であること、山県有朋と西郷隆盛によって編成されたこと、1872年3月に近衛兵と改称されたこと
- コトバンク「廃藩置県」(『改訂新版 世界大百科事典』ほかを収録)※山県有朋ら少壮の官僚が木戸・大久保・西郷を動かしたとする説明、詔のあと3府302県となったこと
- 国立公文書館「日本のあゆみ」明治4年(1871)7月 廃藩置県が断行される※明治4年7月14日に廃藩置県の詔が発せられ、藩知事が罷免されたこと
- コトバンク「征韓論」※西郷の主張の位置づけが事典ごとに割れること、1873年8月17日の閣議決定と9月13日の岩倉具視帰国
- コトバンク「明治六年の政変」(『デジタル大辞泉』を収録)※1873年に西郷隆盛・板垣退助・後藤象二郎・江藤新平・副島種臣の5人の参議が下野し、同調する政治家・官僚・軍人の辞職が相次いだこと
- 国立公文書館「国立公文書館ニュース Vol.13|あの日の公文書」※明治6年10月23日の「西郷参議辞表」、「西郷隆盛外二名官位褫奪」、号「南洲」が沖永良部島での文筆活動に由来すること
- コトバンク「私学校」(『日本大百科全書』ほかを収録)※1874年6月の設立、篠原国幹の銃隊学校と村田新八の砲隊学校、県下136の分校、県令・大山綱良の支持
- コトバンク「西南戦争」(『日本大百科全書』を収録)※明治10年1月末の火薬庫襲撃、2月に約1万3000が北上して22日に熊本鎮台を強襲したこと、4月15日の包囲解除、秩禄処分・徴兵制・廃刀令を背景とする士族の反政府風潮
- 鹿児島県(黎明館 常設展)「西南戦争」※政府が県庁に無断で火薬を搬出しようとしたことが襲撃の背景にあること
- 熊本城 公式「熊本城の歴史」※谷干城率いる鎮台兵3500人が籠城し、籠城が50日あまりに及んだこと
- 熊本市「熊本市田原坂西南戦争資料館へ行こう!!」※田原坂の戦いが明治10年3月4日から20日までの17日間であったこと
- 鹿児島県観光サイト かごしまの旅「西郷隆盛終焉の地」※1877年9月24日に城山で腰と大腿部に銃弾を受け、別府晋介の介錯によって最期を遂げたと「言われている」こと
- 鹿児島県(黎明館 常設展)「西郷隆盛像」※下加治屋町の生まれであること、城山岩崎谷での最期、肖像画の作者がキヨソネであること
- 文化遺産オンライン(文化庁)「西郷隆盛首実検之図」※9月24日の総攻撃で西郷ら160名が戦死したこと、のちに政府軍幹部が遺体と首を実検したこと
- 国立公文書館「日本のあゆみ」明治10年(1877)1月 西南戦争※鹿児島県の士族が中心となり西郷を擁立して起こした戦いであるとする説明
- 大田区「西郷南洲留魂詩碑」※明治22年2月11日の大赦で罪が免じられ正三位が追贈されたこと、勝海舟が明治12年に私費で留魂詩碑を建立したこと
- 東京都建設局「上野恩賜公園 公園の見どころ」※銅像の除幕式が明治31年12月18日であること、作者が高村光雲で犬が後藤貞行の作であること
- レファレンス協同データベース「東京上野の西郷隆盛像の作者は誰か。銅像が上野にある理由が知りたい。」※当初は皇居近くが希望されたが取りやめとなり、薩軍が彰義隊と戦ったゆかりの地である上野に決まったこと
- かごしまの旅「西郷隆盛銅像」※鹿児島市の銅像が昭和12年完成、作者が安藤照、没後50年祭を記念した陸軍大将の制服姿であること
- 京都大学総合博物館「西郷隆盛(肖像画)」※弟の従道と従弟の大山巌の顔を合成して描かれたコンテ画で、原本は消失していること(同館の表記はキヨソネ)
- 酒田市「『西郷どん』と庄内・酒田の縁〜南洲翁遺訓のふるさと」※『南洲翁遺訓』が明治23年に旧庄内藩士によって刊行されたこと、旧庄内藩士が明治3〜8年に鹿児島の西郷を訪ねて教えを聞いたこと、明治8年に菅実秀が訪ねて「徳の交わり」を誓い合ったこと
- 龍郷町「西郷南洲流謫跡」※奄美大島・龍郷での潜居先が鹿児島県指定文化財であること








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