上野公園の銅像でその姿は広く知られているのに、いざ「何をした人?」と聞かれると答えに詰まる。西郷隆盛は、その筆頭ではないでしょうか。
調べていて厄介だったのは、有名な話ほど出典がつかめないことでした。最期の言葉も、銅像の除幕式で妻がもらしたという台詞も、今回当たった資料では元の記録にたどり着けません。
そこでこの記事では、確かめられたことと、後世に語られてきた話を分けて並べることにしました。
この記事の結論
西郷隆盛は、薩長同盟の締結や江戸城無血開城の交渉にあたり、明治維新を推し進めた薩摩藩士です。
新政府では参議として廃藩置県などの改革に加わり、のちに陸軍大将も務めましたが、1873年の政変で職を辞し、故郷の鹿児島へ帰ります。
そして1877年、私学校の士族に擁立される形で西南戦争に身を投じ、鹿児島の城山で最期をむかえました。
- 満49歳
没年齢(数え年51歳) - 2度
離島で暮らした時期 - 1889年
罪が赦された年
この記事では、基本プロフィールと人物像を押さえたうえで、三大功績、挫折と最期、年表、後世への影響、『南洲翁遺訓』の言葉という順にたどります。
語り手として、西郷AI(西郷隆盛をモデルにしたAI)にも登場してもらいます。本人がいま問われたらどう答えるかを想像する手がかりにしてください。
※以下のインタビュー部分は、公開されている史料や西郷隆盛の人物像を参考に構成した創作です。西郷本人の実際の発言や心情を再現したものではありません。
出典の確かめ方と、公開前に行っているチェックは編集方針にまとめています。

西郷さん、はじめまして。鹿児島市には、陸軍大将の制服姿のあなたの銅像が立っています。1937年に完成したものです。まず、ご自身では何をした人だと答えますか。

大将の制服で立たされておると。そうでごわすか。妙な話じゃが、まずは丸ごと受けもんそ。
何をした者かと問われれば、長州と手を結び、江戸の城を戦わずに開け、藩をなくす詔の後ろに兵を置いた。
そして最後は、その政府の兵と戦うた。薩摩の下級武士のせがれが歩いた道は、それだけでごわす。
西郷隆盛は何をした人?基本プロフィールを2分で解説
西郷隆盛は、薩長同盟と江戸城無血開城の交渉にあたって明治維新を進め、新政府では参議・陸軍大将を務めた薩摩藩士です。
二度の島暮らしから新政府の中枢へ、そして政府軍との戦いへと動いた、この振れ幅こそが西郷の生涯のいちばんの特徴でしょう。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 名前 | 西郷隆盛(さいごう たかもり)。幼名は小吉・吉之介、通称は吉兵衛・吉之助 |
| 諱(いみな)・号 | 諱はもともと隆永。号は南洲(なんしゅう) |
| 生没年 | 1828年〜1877年(満49歳、数え年では51歳)。生年は和暦で文政10年12月7日にあたり、太陽暦では1828年1月23日です。文政10年に西暦の年を対応させて1827年と記す事典も多くあります(年どうしの対応表記で、誤りではありません) |
| 出身 | 薩摩国鹿児島城下・下加治屋町(現在の鹿児島県鹿児島市加治屋町) |
| 活躍した時代 | 江戸時代末期〜明治初期(幕末・明治維新) |
| 主な功績 | 薩長同盟への尽力、江戸城無血開城の交渉、御親兵の編成と新政府の改革 |
参考:西郷隆盛|コトバンク
参考:西郷さんを知る(南洲年表)|西郷南洲顕彰館
西郷隆盛は、薩摩藩の下級武士の家に生まれました。維新の三傑(明治維新で中心的な役割を果たした西郷隆盛・大久保利通・木戸孝允を指す呼称)のひとりに数えられています。
1854年(安政元年)には藩主・島津斉彬に見出されて庭方役に抜擢されますが、その後は二度にわたる島での暮らしを経験しています。
国立国会図書館も、薩長連合・江戸城無血開城・新政府での改革を、西郷の主要な事績として挙げています。
幼いころに同じ郷中(ごじゅう:薩摩の青少年の地域組織)で育ち、のちに西郷と袂を分かつ大久保利通については、別の記事で政変から暗殺までを追っています。

1854年に庭方役に抜擢されてから、1877年の城山まで23年。その間に、島で暮らした時期が2度あります。

上がっては落ちる道でごわした。斉彬公に取り立てられて江戸へ出たのが安政の初め。そのあとは奄美、徳之島、沖永良部と続いた。
筋が通っておったかどうかは、おいどんが決めることではなか。おはんの目には、どう映りもすか。

落ちるたびに、戻ってきた人に見えます。

戻ったのではなか、呼び戻されたのでごわす。己の足で島を出る道など、ありもはんでな。
呼ばれたときに何をするか。それだけは、島におっても己で決められもした。
西郷隆盛はどんな人だったのか
西郷隆盛の「隆盛」は父の諱で、本人の諱は隆永でした。分かっていることと、後から作られたイメージが、名前と顔の両方で混ざりやすい人物です。
西郷南洲顕彰館の年表は、1869年(明治2年)に正三位を叙せられた際、父の諱である「隆盛」が誤って用いられたと記しています。以後、西郷はその名で通しました。
号の「南洲」は、沖永良部島で文筆にあたっていたころに用いた名によります(国立公文書館)。
参考:国立公文書館ニュース Vol.13 あの日の公文書|国立公文書館
顔も同じです。生前の西郷を写したと確かめられる写真は伝わっていません。国際子ども図書館も、生前の写真は残っていなかったとしています。
そのため、教科書などでおなじみの肖像は、イタリア人版画家キヨッソーネが描いたものです。国際子ども図書館によれば、弟の従道と従弟の大山巌の写真をもとに描かれました。
京都大学総合博物館も、従道と大山巌の顔を合成して描いたコンテ画で、原本は消失したと説明しています。
参考:中高生のための幕末・明治の日本の歴史事典 西郷隆盛|国際子ども図書館
参考:西郷隆盛(肖像画)|京都大学総合博物館
| 見られ方 | 内容 |
|---|---|
| 名前の扱い | 幼名は小吉・吉之介、通称は吉兵衛・吉之助。潜居や配流の時期には菊池源吾(1858年)・大島三右衛門(1862年)の変名も使いました |
| 顔のイメージ | 生前の写真は伝わらず、広く知られる肖像は没後にキヨッソーネが描いたものです |
| 後世の語られ方 | 東京・上野公園と鹿児島市に銅像が建てられ、2018年のNHK大河ドラマ『西郷どん』では主人公として描かれました |
なお「西郷どん」は、地元の鹿児島で「せごどん」と読まれてきた呼び名です。

1869年に正三位を受けたとき、用いられた名が『隆盛』。お父様の諱だったそうですね。

そうでごわすか、と他人事のように聞きたくなる話でごわす。おいどんの諱は隆永じゃった。
それが父の名で通ってしもうて、以後はそのまま。
いま問われれば、名が一つ違うたくらいで中身は変わらん、と笑うて済ませたいところでごわす。
西郷隆盛は何をした?薩長同盟・江戸城無血開城・御親兵の三大功績
西郷の功績は、薩長同盟・江戸城無血開城・御親兵の編成の三つに絞れます。
- ① 薩長同盟の成立に尽力した(1866年)
- ② 江戸城無血開城の交渉にあたった(1868年)
- ③ 御親兵の編成と新政府の改革に関わった(1871年)
どれも、武士の世が終わって近代国家へ変わる節目の出来事です。
① 薩長同盟の成立に尽力した(1866年)
慶応2年正月21日(1866年3月7日)、西郷は薩摩の小松帯刀(こまつ たてわき)とともに、長州の木戸孝允(きど たかよし)との間で六か条を結びました。これが薩長同盟です。
薩摩と長州は、その2年前の禁門の変で武力衝突した間柄でした。間を取り持ったのは、坂本龍馬と中岡慎太郎です。
参考:薩長同盟|コトバンク
互いに敵視していた二つの雄藩が連携したことで、のちの倒幕運動につながる基盤ができました。
| 時期 | 出来事 |
|---|---|
| 元治元年7月(1864年) | 禁門の変で薩摩と長州が武力衝突する |
| 慶応2年正月21日(1866年3月7日) | 京都で薩摩・長州の間に六か条が結ばれる |
| 慶応2年2月(1866年) | 坂本龍馬が、木戸が六か条を書き送った書面の裏に、内容に相違ない旨を朱書きする(宮内庁書陵部が所蔵) |
同盟の翌年、龍馬は暗殺されます。もし生きていたら維新はどう進んだのかを、龍馬AIと海舟AIに聞いた記事があります。
薩長同盟の周旋にあたった坂本龍馬が、同盟のほかに何をした人かは、こちらで紹介しています。

1864年の禁門の変では、薩摩と長州は京都で撃ち合っています。その2年後に六か条です。

迷いがなかったとは、いま問われても言えもはん。2年前には刀を向け合うた相手でごわすでな。
京で話がまとまったのは、龍馬どんや中岡どんが間を走り回ってくれたおかげでごわす。
ところでおはんの世でも、昨日の敵と組むようなことはありもすか。

競い合っていた会社どうしが手を組むことは、珍しくありません。

商いの世も、そこは変わらんとみえもすな。
組むときに要るのは、相手を信じる腹と、間を走ってくれる人でごわす。
② 江戸城無血開城の交渉にあたった(1868年)
慶応4年3月13日・14日、西郷は旧幕府側の勝海舟(かつ かいしゅう)と江戸で会談し、15日に予定されていた江戸城総攻撃は中止されました。4月11日、東征軍の諸兵が江戸城へ入ります。
この年に始まった戊辰戦争(ぼしんせんそう:新政府軍と旧幕府軍の戦い)で、西郷は東征大総督府の下参謀を務めていました。
会談に先立つ3月9日には、旧幕府側の使節である山岡鉄舟(やまおか てっしゅう)が西郷と接触し、徳川処分の条件が協議されました。
| 日付(慶応4年) | 出来事 |
|---|---|
| 2月14日 | 西郷が東征大総督府の下参謀に任じられる |
| 3月6日 | 3月15日をもって江戸城を総攻撃すると布告される |
| 3月9日 | 山岡鉄舟と会い、徳川処分の条件を協議する |
| 3月13日・14日 | 勝海舟と会談。14日に総攻撃の中止が決まる |
| 4月11日 | 東征軍が江戸城へ入り、開城となる |
参考:江戸開城|コトバンク
参考:西郷さんを知る(南洲年表)|西郷南洲顕彰館
これは西郷ひとりの手柄ではありません。『日本大百科全書』は、徳川一門や輪王寺宮・静寛院宮らの嘆願、内戦の拡大を望まないイギリスの要請などが重なって妥協が成立したと説明しています。
それでも、江戸城への総攻撃と市街地での大規模な戦闘が回避された意義は大きいものでした。
会談の相手だった勝海舟が、後年その舞台裏をどう語ったのか。『氷川清話』などに残る言葉の出典をたどった記事があります。

総攻撃の予定は3月15日でした。勝海舟さんとの14日の会談で、その前日に止まったわけですね。

下地は、9日に山岡どんが条件を運んでくれたときにできておりもした。徳川の方々からの嘆願もあった。
おいどんがしたのは、その段取りの一部でごわす。一人で城を開けたように言われると、尻がこそばゆか。
③ 御親兵の編成と新政府の改革に関わった(1871年)
1871年(明治4年)、西郷は鹿児島・山口・高知の3藩から集めた御親兵(ごしんぺい)の編成に関わり、その後ろ盾のもとで7月14日に廃藩置県の詔が出されました。
廃藩置県(はいはんちけん)とは、藩を廃止して、中央政府が直接地方を治める制度のこと。藩主に代わって中央政府が任命した府知事や県令を置く大改革で、激しい反発も予想されました。
政府が軍事的な後ろ盾とした御親兵は、『山川日本史小辞典』によれば、山県有朋と西郷隆盛によって編成されたものです。
参考:御親兵|コトバンク
明治4年7月14日に廃藩置県の詔が発せられ、藩知事は全員が罷免されて東京居住を命じられました。
参考:日本のあゆみ 明治4年(1871)7月 廃藩置県が断行される|国立公文書館
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 御親兵の編成 | 明治4年2月、鹿児島・山口・高知の3藩が献じた約1万の兵を兵部省の管轄下に置いた |
| 廃藩置県の詔 | 明治4年7月14日。藩知事は全員が罷免され、東京居住を命じられた |
| 詔のあと | 3府302県となった |
| 御親兵のその後 | 1872年3月に近衛兵と改称された |
ただし、西郷がこの改革をどこまで主導したかについては、記述に幅があります。『日本大百科全書』は西郷の主導的役割を書き、『改訂新版 世界大百科事典』は山県有朋ら少壮開明派が木戸・大久保・西郷を動かしたとします。
参考:廃藩置県|コトバンク

詔のあと、3府302県になりました。いまの日本は47都道府県です。

四十七、でごわすか。三百余りに切ったものを、そこまで継いだのじゃな。
御親兵の編成には、おいどんも山県どんらと関わりもした。
誰が言い出して、どこまで引っ張ったかは、見る者で話が違うと聞きもす。兵を出した薩摩の者として関わった、とだけ言うておきもんそ。
西郷隆盛の挫折と最期 征韓論の政変から西南戦争へ
西郷は1873年(明治6年)の政変で新政府を去り、4年後の1877年に西南戦争で城山に倒れました。
功績の章で見たのと同じ人物の、裏側の4年間です。
征韓論・遣韓論をめぐる政変で新政府を去る
1873年(明治6年)10月、西郷を朝鮮へ派遣するという8月の閣議決定が覆り、西郷は10月23日に辞表を出して鹿児島へ帰りました。
争点は、朝鮮との外交関係をどう打開するかという、いわゆる征韓論・遣韓論(せいかんろん・けんかんろん)をめぐる対立でした。
8月17日の閣議で、西郷を朝鮮へ派遣することがいったん決まります。しかし9月に岩倉具視が欧米視察から帰国すると流れが変わり、10月に入って決定は覆りました。
西郷が何を主張したのかは、事典のあいだでも記述が分かれているため、一つに決めずに並べます。
| 事典 | 西郷の位置づけ |
|---|---|
| 『デジタル大辞泉』 | 西郷・板垣退助らによって、朝鮮へ出兵しようとした主張 |
| 『山川日本史小辞典』(「明治6年の政変」の項) | 政府が西郷を朝鮮に派遣して交渉にあたり、拒否されれば武力行使も辞さないとする方針 |
| 『ブリタニカ国際大百科事典』 | 西郷は、まず自分が使節として渡り、交渉決裂後に出兵すべきだとした |
| 『日本大百科全書』(「西郷隆盛」の項) | 出兵論に反対し、平和的な交渉を主張。三条実美がこれを征韓論と誤解したとする |
| 『改訂新版 世界大百科事典』 | 交渉による修交を求めたもので、征韓論者というイメージを否定する意見も出ている |
| 『精選版 日本国語大辞典』 | 西郷らを「征韓派」とし、政府内に即時出兵と、まず使節派遣という二つの主張があったとする |
参考:征韓論|コトバンク
参考:明治6年の政変|コトバンク
参考:西郷隆盛|コトバンク
西郷は10月23日に陸軍大将近衛都督兼参議の辞職願を提出します。この辞表は「西郷参議辞表」として国立公文書館に残っています。
参考:国立公文書館ニュース Vol.13 あの日の公文書|国立公文書館
西郷に続いて板垣退助・後藤象二郎・江藤新平・副島種臣も辞職し、西郷は故郷の鹿児島へ帰りました。
参考:西郷隆盛|コトバンク

国立公文書館には、10月23日付のあなたの辞表が残っています。朝鮮へ行く話は、ふた月あまりで覆りました。

辞表は、たしかに出しもした。
行って何を言うつもりじゃったかは、いまも人によって言うことが違うと聞く。おいどんがここで一つに決めれば話は早かろうが、それはおはんらの楽しみに取っておきもんそ。
それより、おはんなら、刀を持って行きもすか。言葉だけで行きもすか。

言葉だけで行って、だめなら帰ります。

帰れる道があるなら、それがよか。
おいどんのときは、行く前に止められもしたがの。
私学校と、高まる士族の不満
1874年(明治7年)6月、西郷は鹿児島に私学校(しがっこう)を開きました。名前からは学校を思い浮かべますが、実態は少し違います。
私学校は、篠原国幹が主宰する銃隊学校と、村田新八が監督する砲隊学校からなる組織でした。旧近衛の歩兵や砲兵が中心で、ほかに士官を養成する賞典学校なども置かれています。
参考:私学校|コトバンク
- 設立:1874年(明治7年)6月、鹿児島
- 中身:篠原国幹の銃隊学校と、村田新八の砲隊学校が柱
- 広がり:鹿児島県下に136の分校が置かれた
- 後ろ盾:県令・大山綱良の支持のもと、区長や警察官にも私学校の関係者が多く就いた
つまり私学校は、若者の教育の場であると同時に、県政にも大きな影響を持つ組織になっていきました。当時は明治維新で身分や特権を失った士族(もと武士の身分を持つ人々)の不満が各地で高まっていた時期です。
こうして鹿児島は、新政府と一触即発の緊張をはらむ土地になっていきました。

新政府を去ってから西南戦争にいたるまでの過程は、学習まんがでもたどれます。
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この本の読みどころ
- 第1章「薩摩武士の少年」から第5章「日本の夜明け」までの5章構成
- 監修者は、新しい日本をつくった働きや、西南戦争にいたる過程を丁寧に描いたと紹介
- 監修者は、なぜ今も西郷を慕う人が多いのかを考えながら読むよう勧めています
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西南戦争と、城山での最期
1877年(明治10年)1月末の火薬庫襲撃をきっかけに、西郷は私学校の士族に擁立されて兵を率い、9月24日に城山(しろやま)で最期をむかえました。
政府が県庁に知らせないまま火薬を搬出しようとしたことをきっかけに、私学校派の一部が陸軍火薬局などを襲って弾薬を奪いました。
参考:西南戦争|コトバンク
国立公文書館も、鹿児島県の士族が中心となり、西郷を擁立して起こした戦いだと説明しています。
参考:日本のあゆみ 明治10年(1877)1月 西南戦争|国立公文書館
2月に約1万3000の兵が北上し、22日に熊本鎮台を攻めますが、谷干城の率いる3500の鎮台兵が籠城して落ちません。籠城は50日あまりに及び、4月中旬に包囲が解かれました。
参考:西南戦争|コトバンク
参考:熊本城の歴史|熊本城 公式
3月4日から20日にかけての田原坂の戦いは、西南戦争を代表する激戦として知られます。
九州各地を転戦しながら敗北を重ねた西郷軍は、最後は故郷・鹿児島の城山に追い詰められます。
- 日付:明治10年(1877年)9月24日
- 場所:鹿児島・城山の岩崎谷
- 経緯:山県有朋の指揮する政府軍が総攻撃をかけ、西郷は腰と大腿部に銃弾を受けたと伝わる
- その後:西郷ら160名が死亡(文化遺産オンラインの解説は「戦死」と記す)。のちに政府軍の幹部が遺体と首を実検した
最期の場面について、鹿児島市の公式観光サイトは、別府晋介(べっぷ しんすけ)の介錯(かいしゃく)で最期をむかえたと言われています、と伝聞の形で書いています。事典では「自刃」「戦死」と表現が分かれ、断定はできません。
「晋どん、もうここらでよか」として知られる最期の言葉も、事典や自治体の資料をたどった範囲では、初出の記録に行き当たりませんでした。
なお、西郷の死後もその評価は変わっていきます。1889年(明治22年)2月11日、大日本帝国憲法の発布にともなう大赦(たいしゃ)によって罪が赦され、正三位(しょうさんみ)が追贈されました。
参考:西郷南洲留魂詩碑|大田区

城山には「西郷洞窟」が残っていて、最期の5日間を過ごした場所と言われています。いまは周遊バスの停留所の名前にもなっています。

洞窟が名所になっておると。そうでごわすか。
兵を率いたのは事実じゃ。担がれた、と言う人もおりもす。それも違うとは申しもはん。
城山で何があったかは、おいどんが語るより、残った記録をおはんが読んでくいやんせ。
西郷隆盛の生涯を年表で振り返る
年表にすると、三大功績はすべて、1864年の赦免から1873年の下野までの9年間に収まります。その前後に、二度の島暮らしと西南戦争が置かれています。
| 年 | 出来事 | 解説 |
|---|---|---|
| 1828年 | 薩摩藩に生まれる | 鹿児島城下・下加治屋町の下級武士の家に、小吉として誕生しました |
| 1854年 | 藩主・島津斉彬に見出される | 安政元年1月に江戸へ出て、4月に庭方役へ抜擢されます |
| 1858年 | 僧・月照と入水し、西郷のみ蘇生 | 安政5年11月、鹿児島湾で月照とともに身を投げ、月照は死亡、西郷は蘇生しました |
| 1859年 | 奄美大島に潜居する | 菊池源吾と変名し、龍郷村に潜居しました(罪人ではなく潜居の扱い) |
| 1862年 | 徳之島を経て沖永良部島へ配流される | 島津久光の命に背いて捕らえられ、7月に徳之島、閏8月に沖永良部島へ送られました |
| 1864年 | 赦免されて政治の表舞台へ戻る | 2月に召還され、7月の禁門の変で薩摩兵を指揮。10月に西郷姓へ復しました |
| 1866年 | 薩長同盟が結ばれる | 慶応2年正月21日、坂本龍馬・中岡慎太郎の周旋で長州と六か条を結びました |
| 1868年 | 江戸城無血開城の交渉にあたる | 2月に東征大総督府下参謀。3月に山岡鉄舟・勝海舟と交渉し、4月11日に開城となりました |
| 1871年 | 御親兵の編成と廃藩置県 | 2月に三藩の献兵で御親兵を編成。7月14日に廃藩置県の詔が発せられました |
| 1872年 | 陸軍元帥兼参議・近衛都督に就任する | 留守政府の中心人物として国政にあたりました |
| 1873年 | 政変で新政府を去る | 5月に陸軍大将兼参議。10月23日に辞表を提出し、鹿児島へ帰郷しました |
| 1874年 | 私学校を設立する | 6月に銃隊学校・砲隊学校からなる私学校を開きます |
| 1877年 | 西南戦争。城山で最期をむかえる | 1月末の火薬庫襲撃をきっかけに挙兵。9月24日、城山で最期をむかえました |
| 1889年 | 罪が赦される | 2月11日、憲法発布にともなう大赦で罪が赦され、正三位を追贈されました |
参考:西郷さんを知る(南洲年表)|西郷南洲顕彰館
参考:錦江湾へ入水編|西郷南洲顕彰館
こうして並べてみると、順風満帆とはほど遠い人生だったことが分かります。
二度の島暮らしのあとは、そのつど表舞台へ呼び戻されました。1873年の下野のあとだけは、政府に戻ることなく西南戦争へ向かっています。
西郷隆盛のすごさ・影響力
西郷の影響力は、生前は立場の違う相手と交渉をまとめた場面に、没後は12年で罪が赦され、21年で銅像が建った経緯に表れています。
旧幕府側の勝海舟と会談し、江戸城への総攻撃と市街地での大規模な戦闘が回避されました。
もう一つは、新政府に不満を抱く士族が西郷のもとに集まったことです。西南戦争は、明治初期に相次いだ士族反乱のうち最大規模のものになりました。
賊軍の将として官位を奪われた人物が、罪を赦されて正三位を追贈され、東京の公園に銅像が建つまでの経緯を表にします。
| 時期 | 西郷がどう扱われたか |
|---|---|
| 1877年 | 開戦後に官位を剥奪される(「西郷隆盛外二名官位褫奪」) |
| 1879年 | 勝海舟が私費で留魂詩碑を建立する(現在は洗足池公園) |
| 1889年 | 憲法発布の大赦で罪が赦され、正三位を追贈される |
| 1898年 | 上野恩賜公園の銅像が除幕(12月18日、高村光雲作、犬は後藤貞行作) |
| 1937年 | 鹿児島市の銅像が完成(安藤照作、没後50年祭を記念して企画され、8年をかけて完成した陸軍大将の制服姿) |
| 2018年 | NHK大河ドラマ『西郷どん』の主人公として描かれる |
参考:西郷南洲留魂詩碑|大田区
参考:上野恩賜公園 公園の見どころ|東京都建設局
参考:西郷隆盛銅像|鹿児島市
参考:西郷隆盛銅像|かごしま市観光ナビ
上野に建った理由については、当初は皇居の近くが希望されたものの取りやめとなり、薩摩藩兵が彰義隊と戦ったゆかりの地である上野に決まった、とレファレンス協同データベースが伝えています。
参考:東京上野の西郷隆盛像の作者は誰か。銅像が上野にある理由が知りたい。|レファレンス協同データベース
なお、除幕式で妻の糸が「宿んしはこげんなお人じゃなかったこてぇ」ともらしたという話が広く語られています。国際子ども図書館も「言ったそうです」と伝聞の形で載せており、同時代の記録や初出の文献には行き当たりませんでした。
参考:中高生のための幕末・明治の日本の歴史事典 西郷隆盛|国際子ども図書館

亡くなって12年後に罪が赦され、その9年後には上野の公園に銅像が建ちました。犬を連れた姿です。

銅像、でごわすか。賊の将の像を、東京の公園に。怪しか話でごわすな。
犬まで連れておるとは、像を拵えた者も念の入ったことじゃ。
じゃっどん、鹿児島でおいどんを頼って集まった者と共に立ったのも事実でごわす。像より先に、そっちを覚えておいてほしか。
上野の銅像や大河ドラマで知られる西郷を、生まれ育った薩摩の土地からたどる評伝が、音声で聴けます。
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オーディオブック|Audible
『人をあるく 西郷隆盛と薩摩』
この作品の聴きどころ
- 地元の研究者の視点で、西郷を育てた薩摩の歴史と風土をたどる
- 鹿児島市内の生誕地や城山、配流先の奄美大島・沖永良部島、西南戦争の熊本城・田原坂などを歩く
- 略年表・人物相関図・関連地図が付属資料(PDF)で付く
Audibleの聴き放題に入っています(2026年9月29日時点。対象は入れ替わることがあります)。30日間の無料体験があります。
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西郷隆盛の「敬天愛人」と『南洲翁遺訓』が伝える言葉
「敬天愛人(けいてんあいじん)」は西郷の座右の銘として知られる四字で、西郷筆とされる書が鹿児島市立美術館に所蔵されています。「天を敬い、人を愛する」という意味で読まれています。
この書は、2018年に東京藝術大学大学美術館で開かれたNHK大河ドラマ特別展「西郷どん」にも、「西郷隆盛筆「敬天愛人」」として出品されました。
参考:墨のモノトーン展 ―鹿児島市立美術館所蔵の書―|アートコモンズ(国立新美術館)
参考:NHK大河ドラマ特別展 西郷どん|アートコモンズ(国立新美術館)
参考:上野で開催中!東京藝術大学大学美術館《NHK大河ドラマ特別展 西郷どん》|サライ.jp
この四字の考え方は、没後13年に刊行された『南洲翁遺訓』にも記されています。
- 刊行:1890年(明治23年)
- 編んだ人:旧庄内藩士たち
- 経緯:戊辰戦争後の寛大な処置に感銘を受け、明治3〜8年に鹿児島の西郷を訪ねて聞いた教えを書き残したもの
つまり『南洲翁遺訓』は、西郷自身の著述ではなく、旧庄内藩士が聞いた教えをまとめたものです。本人の書いた四字は残り、言葉の中身は聞き書きで伝わった、という関係になります。
参考:『西郷どん』と庄内・酒田の縁〜南洲翁遺訓のふるさと|酒田市
それでも、聞き書きが残るほど交わりが深かったことは確かです。明治8年には旧庄内藩中老の菅実秀が鹿児島の西郷を訪ね、「徳の交わり」を誓い合ったと酒田市は伝えています。
「自分の利益より、他者や公のために動く」という読み方は、現代でもリーダーシップを語るうえでたびたび引用されます。ここから何を受け取るかは、読む人しだいでしょう。

「敬天愛人」の書は鹿児島市立美術館に残っていて、2018年には東京・上野の美術館で展示されました。

おいどんの書いた四文字が、上野まで運ばれたと。そうでごわすか。
天を敬い、人を愛する。悪か言葉ではなか、といまも思いもす。庄内の衆が聞き書きしてくれた一冊も、ありがたか話じゃ。
おはんらが何かに迷うたら、その一点に戻ってみればよか。
あなたは西郷隆盛の生き方から、何を学びますか?
よくある質問(FAQ)
西郷隆盛は何をした人ですか?
幕末の薩摩藩士で、「維新の三傑」のひとりです。薩長同盟を結び、勝海舟との会談を経て江戸城の無血開城に至りました。新政府では御親兵の編成に関わり、1873年の政変で下野。1877年の西南戦争で最期をむかえました。
西郷隆盛の死因は何ですか?
1877年(明治10年)9月24日、城山で腰と大腿部に銃弾を受け、別府晋介の介錯によって最期をむかえたと言われています。ただし事典では「自刃」「戦死」と表現が分かれており、断定はできません。
西郷隆盛は征韓論を主張したのですか?
西郷が何を主張したのかは、事典のあいだでも記述が分かれています。出兵論とするもの、使節として渡り決裂すれば出兵とするもの、平和的交渉を主張したとするものがあり、決着していません。
西郷隆盛と大久保利通の関係は?
幼少期に同じ郷中で育ち、幕末にはともに薩摩藩を代表する人物として活動しました。ともに「維新の三傑」に数えられますが、征韓論・遣韓論をめぐって対立し、袂を分かちます。大久保も西南戦争の翌年(1878年)に暗殺されています。
「隆盛」はもともと誰の名前ですか?
父の諱です。西郷本人の諱は隆永でした。1869年(明治2年)に正三位を叙せられた際、父の諱である「隆盛」が誤って用いられ、以後その名で通したと西郷南洲顕彰館は記しています。
西郷隆盛の写真は残っていますか?
生前の西郷を写したと確かめられる写真は伝わっていません。広く知られる肖像は、イタリア人版画家キヨッソーネが弟の従道と従弟の大山巌をもとに描いたもので、原本もすでに失われています。
私学校とはどんな組織でしたか?
1874年(明治7年)6月に鹿児島で開かれた組織で、篠原国幹の銃隊学校と村田新八の砲隊学校が柱でした。県下に136の分校が置かれ、県令・大山綱良の支持のもと県政にも影響力を持っていました。
西郷隆盛の銅像はどこにありますか?
東京・上野恩賜公園の像は1898年(明治31年)12月18日に除幕されました。作者は高村光雲、犬は後藤貞行です。鹿児島市の像は安藤照の作で、8年をかけて1937年(昭和12年)に完成した陸軍大将の制服姿です。
「西郷どん」はどう読みますか?
地元の鹿児島では「せごどん」と読まれてきました。2018年のNHK大河ドラマの題名にも、この呼び名が使われています。
インタビュー後記 有名な話ほど、出典をたどれない
書き終えて残ったのは、有名な話ほど出典をたどれない、という手応えでした。最期の言葉も、銅像の除幕式で妻がもらしたという台詞も、元の記録には行き当たりません。
逆に、地味な事実ほど出典がはっきりしています。
- 「隆盛」が父の諱で、正三位の叙位のときに誤用されたこと(西郷南洲顕彰館)
- 生前の写真が伝わらず、肖像がキヨッソーネの作であること(国際子ども図書館・京都大学総合博物館)
- 別府晋介の介錯を、鹿児島市の公式観光サイトが伝聞形で書いていること
- 「敬天愛人」の書が鹿児島市立美術館に所蔵され、2018年の特別展に出品されたこと(アートコモンズ・サライ.jp)
- 『南洲翁遺訓』が、没後13年に旧庄内藩士によって刊行されたこと(酒田市)
私は、この落差そのものが西郷という人の読み方を教えてくれると思っています。栄達より信念を優先した人物として語られてきましたが、その像の多くは没後に形づくられたものです。
浮き沈みの大きい生涯に、人は言葉を足したくなるのでしょう。
足された言葉を一枚ずつはがしても、二度の島暮らしと、江戸城の開城と、城山は残ります。
何が確かめられて、何が語り継がれてきたのかを分けて読むと、この人はいっそう面白くなります。
江戸城開城の交渉で西郷と向かい合い、西郷の死から2年後に私費で留魂詩碑を建てた勝海舟が何をした人かは、こちらの記事で読めます。
参考資料
本記事の史実部分は、以下の資料を参考にしています。
- 国立国会図書館「近代日本人の肖像|西郷隆盛」※生没年(文政10年12月7日〜明治10年9月24日=1828年1月23日〜1877年9月24日)、別称「南洲」、島津斉彬に取り立てられたこと、入水と配流、薩長連合・江戸城無血開城・新政府での改革を主要な事績として挙げていること
- 国際子ども図書館「中高生のための幕末・明治の日本の歴史事典|西郷隆盛」※生前の写真が残っていないこと、キヨソネ(本記事ではキヨッソーネと表記)が弟の従道と従弟の大山巌の写真をもとに原画を描いたこと、上野の銅像が高村光雲の作であること、除幕式で妻の糸が「宿んしはこげんなお人じゃなかったこてぇ」と言ったそうだと伝聞の形で載せていること
- 西郷南洲顕彰館「西郷さんを知る(南洲年表)」※庭方役への抜擢(1854年)、変名の使用、島での経緯、東征大総督府下参謀(1868年2月14日)、3月6日に3月15日の江戸城総攻撃が布告されたこと、1873年5月の陸軍大将兼参議、私学校(1874年6月)、山県有朋が指揮する政府軍による9月24日の城山総攻撃、そして1869年に正三位を叙せられた際に父の諱「隆盛」が誤用されたこと
- 西郷南洲顕彰館「錦江湾へ入水編」※安政5年11月の入水の経緯、月照は死亡し西郷は蘇生したこと
- コトバンク「西郷隆盛」(『日本大百科全書』ほかを収録)※鹿児島城下下加治屋町の生まれであること、幼名・通称の変遷(小吉・吉之介・吉之助)、諱が隆永であること、通称の吉兵衛(『日本人名大辞典』)、奄美大島での潜居と徳之島・沖永良部島への配流、菊池源吾(1858年)・大島三右衛門(1862年)の変名、1873年の朝鮮問題で西郷が出兵に反対して使節派遣を主張し三条実美がこれを征韓論と誤解したとする記述、10月23日の辞表と板垣退助らの辞職。『日本大百科全書』など多くの事典は生年を1827年と表記しています
- コトバンク「月照」(『日本大百科全書』ほかを収録)※安政5年11月16日の入水で、西郷は助かり月照は没したこと
- コトバンク「維新の三傑」※西郷隆盛・大久保利通・木戸孝允を指す呼称であること
- コトバンク「薩長同盟」(『改訂新版 世界大百科事典』『百科事典マイペディア』を収録)※慶応2年(1866年)正月21日、坂本龍馬・中岡慎太郎の周旋で、薩摩の小松帯刀・西郷隆盛と長州の木戸孝允(桂小五郎)との間に6か条が結ばれたこと
- コトバンク「江戸開城」(『日本大百科全書』を収録)※慶応4年3月9日に山岡鉄舟が西郷と接触したこと、3月13・14日の会談、4月11日の開城。徳川一門や輪王寺宮・静寛院宮の嘆願、内戦の拡大を望まないイギリスの要請も妥協の成立に働いたこと
- コトバンク「御親兵」(『山川日本史小辞典』ほかを収録)※明治4年2月に鹿児島・山口・高知3藩の献兵約1万を兵部省管轄下に置いたこと、山県有朋と西郷隆盛によって編成されたこと、1872年3月に近衛兵と改称されたこと
- コトバンク「廃藩置県」(『改訂新版 世界大百科事典』ほかを収録)※山県有朋ら少壮開明派が木戸・大久保・西郷を動かしたとする説明、詔のあと3府302県となったこと
- 国立公文書館「日本のあゆみ」明治4年(1871)7月 廃藩置県が断行される※明治4年7月14日に廃藩置県の詔が発せられ、藩知事が罷免されたこと
- コトバンク「征韓論」※西郷の主張の位置づけが事典ごとに割れること、1873年8月17日の閣議決定と9月13日の岩倉具視帰国
- コトバンク「明治六年の政変」(『デジタル大辞泉』を収録)※1873年に西郷隆盛・板垣退助・後藤象二郎・江藤新平・副島種臣の5人の参議が下野し、同調する政治家・官僚・軍人の辞職が相次いだこと
- コトバンク「明治6年の政変」(『山川 日本史小辞典 改訂新版』ほかを収録)※政府が西郷を朝鮮に派遣して交渉にあたり、拒否されれば武力行使も辞さないとする方針を打ち出したと山川が書いていること
- 宮内庁 書陵部所蔵資料詳細「尺牘(龍馬裏書)」※木戸孝允が慶応2年正月に薩長同盟の内容を6項目にまとめて坂本龍馬に確認を求め、翌月に龍馬が相違ない旨を朱書で返答した書状が木戸家文書として現存すること
- アートコモンズ(国立新美術館)「墨のモノトーン展 ―鹿児島市立美術館所蔵の書―」※2008年12月〜2009年2月の同展の案内に、西郷隆盛「敬天愛人」が鹿児島市立美術館の所蔵する書として挙げられていること
- アートコモンズ(国立新美術館)「NHK大河ドラマ特別展 西郷どん」※2018年5月26日〜7月16日に東京藝術大学大学美術館で開催されたこと、西郷の座右の銘を記した書「敬天愛人」が出品されたこと
- サライ.jp「上野で開催中!東京藝術大学大学美術館《NHK大河ドラマ特別展 西郷どん》」(2018年6月12日)※出品作の図版に「西郷隆盛筆「敬天愛人」 鹿児島市立美術館」と所蔵先が記されていること
- 国立公文書館「国立公文書館ニュース Vol.13|あの日の公文書」※明治6年10月23日の「西郷参議辞表」、「西郷隆盛外二名官位褫奪」、号「南洲」が沖永良部島での文筆活動に由来すること
- コトバンク「私学校」(『日本大百科全書』ほかを収録)※1874年6月の設立、篠原国幹の銃隊学校と村田新八の砲隊学校、県下136の分校、県令・大山綱良の支持
- コトバンク「西南戦争」(『日本大百科全書』を収録)※明治10年1月、政府が県庁に連絡せずに陸軍火薬局の火薬を搬出しようとし、30日夜以後に私学校派の一部が火薬局などを襲って弾薬を奪ったこと、2月に約1万3000が北上して22日に熊本鎮台を強襲したこと、4月15日の包囲解除、秩禄処分・徴兵制・廃刀令を背景とする士族の反政府風潮
- 鹿児島県(黎明館 常設展)「西南戦争」※明治10年1月末に私学校生徒が政府の火薬庫を襲い、西南戦争が起こったこと
- 熊本城 公式「熊本城の歴史」※谷干城率いる鎮台兵3500人が籠城し、籠城が50日あまりに及んだこと
- 熊本市「熊本市田原坂西南戦争資料館へ行こう!!」※田原坂の戦いが明治10年3月4日から20日までの17日間であったこと
- かごしま市観光ナビ(鹿児島市の公式観光サイト)「西郷隆盛終焉の地」※1877年9月24日に腰と太ももに銃弾を受け、別府晋介の介錯によって最期を遂げたと「言われています」と伝聞の形で書いていること
- かごしま市観光ナビ「西郷洞窟」※最期の5日間を過ごした場所と言われていること、周遊バス「カゴシマシティビュー」の停留所になっていること
- 鹿児島県(黎明館 常設展)「西郷隆盛像」※下加治屋町の生まれであること、城山岩崎谷での最期、肖像画の作者がキヨソネであること
- 文化遺産オンライン(文化庁)「西郷隆盛首実検之図」※9月24日の総攻撃で西郷ら160名が戦死したこと、のちに政府軍幹部が遺体と首を実検したこと
- 国立公文書館「日本のあゆみ」明治10年(1877)1月 西南戦争※鹿児島県の士族が中心となり西郷を擁立して起こした戦いであるとする説明
- 大田区「西郷南洲留魂詩碑」※明治22年2月11日の大赦で罪が免じられ正三位が追贈されたこと、勝海舟が明治12年に私費で留魂詩碑を建立したこと
- 東京都建設局「上野恩賜公園 公園の見どころ」※銅像の除幕式が明治31年12月18日であること、作者が高村光雲で犬が後藤貞行の作であること
- レファレンス協同データベース「東京上野の西郷隆盛像の作者は誰か。銅像が上野にある理由が知りたい。」※当初は皇居近くが希望されたが取りやめとなり、薩軍が彰義隊と戦ったゆかりの地である上野に決まったこと
- 鹿児島市「西郷隆盛銅像」※作者が安藤照、1937年(昭和12年)5月23日の設置、設置者が南洲神社50年奉賛会であること
- かごしま市観光ナビ「西郷隆盛銅像」※没後50年祭を記念して8年をかけて制作され、昭和12年5月23日に完成した陸軍大将の制服姿であること
- 京都大学総合博物館「西郷隆盛(肖像画)」※従道と大山巌の顔を合成して描かれたコンテ画で、原本は消失していること(同館のページに続柄と画家名の記載はありません)
- 酒田市「『西郷どん』と庄内・酒田の縁〜南洲翁遺訓のふるさと」※『南洲翁遺訓』が明治23年に旧庄内藩士によって刊行されたこと、旧庄内藩士が明治3〜8年に鹿児島の西郷を訪ねて教えを聞いたこと、明治8年に菅実秀が訪ねて「徳の交わり」を誓い合ったこと
- 龍郷町「西郷南洲流謫跡」※奄美大島・龍郷での潜居先が鹿児島県指定文化財であること








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