幕末の人物を調べていると、勝海舟だけ座りの悪さを感じることがあります。剣術の達人で、船で太平洋を渡り、最後は交渉役。肩書きが一つに定まらないのです。
「江戸城無血開城の人」と覚えている方も多いと思います。ただ、あの一日にたどり着くまでに何をしていたのかとなると、急に説明が難しくなります。
この記事の結論
勝海舟は、日本の海軍の土台づくりに関わり、江戸城の明け渡しをまとめた幕末の幕臣です。 明治政府でも海軍大輔などの要職を務めました。
押さえておきたい功績は3つ。1860年の咸臨丸での渡米、1864年の神戸海軍操練所、そして1868年の江戸城明け渡しの交渉です。
どれも「勝ひとりの手柄」ではありません。誰と組み、何を引き継いだのかを見ていくと、この人の役回りがはっきりしてきます。
- 満75歳
数え年では77歳(1823年〜1899年) - 3つ
咸臨丸・神戸海軍操練所・江戸城明け渡し - 0回
人を斬ったことはないと語ったとされる(本人の回想)
貧しい旗本の子がどうやって太平洋を渡り、日本の海軍を育て、幕末には新政府軍側の西郷隆盛と向き合うことになったのか。坂本龍馬との関係や晩年まで、順にたどります。
語り手として、海舟AI(勝海舟をモデルにしたAI)にも登場してもらいます。
※以下のインタビュー部分は、公開されている史料をもとに勝海舟の人物像を再現した創作です。史料で確認できない心情や受け止め方を補った創作的な対話であり、実際の発言をそのまま掲載したものではありません。
出典の確かめ方と、公開前に行っているチェックは編集方針にまとめています。

それでは海舟さん、よろしくお願いします。まずは、どんな人物なのかを教えていただけますか。

おう、よく来なすった。勝麟太郎、のちの海舟だ。江戸の貧乏旗本の家に生まれて、気がつきゃ幕府の船と一緒に沈みかけていた男よ。
世間じゃ偉い人物だと言われているらしいが、なに、大したことはしちゃいねえ。
まあ、ゆっくり聞いていきな。
勝海舟は何をした人?基本プロフィールを2分で解説
勝海舟は、日本の海軍の土台づくりに関わり、江戸城の明け渡しの交渉にあたった幕末の幕臣で、明治政府でも要職を務めた人物です。
まずは、どんな人物だったのかを表でざっくりつかんでみましょう。生まれた場所や活躍した時代を知っておくと、このあとの功績の話がぐっと分かりやすくなります。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 名前 | 勝海舟(かつ かいしゅう)/本名は義邦、のちに安芳。通称は麟太郎 |
| 生没年 | 1823年〜1899年(満75歳没・数え年では77) |
| 出身 | 江戸・本所亀沢町(現在の東京都墨田区両国) |
| 活躍した時代 | 幕末〜明治 |
| 主な功績 | 咸臨丸での渡米、神戸海軍操練所での人材育成、江戸城明け渡しの交渉 |
勝海舟は、旗本(はたもと:将軍直属の武士)の子として江戸に生まれました。ただし家は無役で石高も低く、暮らしは決して楽ではなかったと言われています。
10代のうちから剣術に打ち込み、20代からは蘭学(らんがく:オランダ語で西洋の学問を学ぶこと)を修めます。この2つが、のちに彼の人生を大きく開くことになりました。
「海舟」は号(ごう:本名とは別の呼び名)です。学者・佐久間象山が書いた「海舟書屋」という額から取ったと言われています。

若いころの暮らし向きは、どのようなものだったのでしょうか。

生まれは本所の男谷家の屋敷でな。育った勝家は、禄の少ねえ旗本の家だった。暮らし向きは、決して楽じゃなかったよ。
だがな、貧乏てえのは案外いい師匠でね。金がねえから頭と体を使うしかねえ。
剣を振り、蘭書を写して、そうやって道をこじ開けたのさ。おれの一生は、そこから始まったって寸法よ。
勝海舟の三大功績|咸臨丸・神戸海軍操練所・江戸城明け渡し
勝海舟の功績は数多くありますが、特に押さえておきたいのが次の3つです。
- ① 咸臨丸で太平洋を渡り、アメリカを自分の目で見た(1860年)
- ② 神戸海軍操練所で海軍を担う人材を育てた(1864年)
- ③ 江戸城明け渡しの交渉にあたった(1868年)
どれも日本が近代国家へ生まれ変わる激動の時代を象徴する出来事です。1つずつ詳しく見ていきましょう。
① 咸臨丸で太平洋を渡り、アメリカを自分の目で見た(1860年)
1860年(万延元年)、勝海舟は軍艦「咸臨丸(かんりんまる)」に乗り、太平洋を渡ってアメリカへ向かいました。我が国の軍艦として初の太平洋横断とされています。
勝は艦長(船将)を務めました。ただし、これを日本人だけの力による快挙と考えるのは正確ではありません。
日本側の依頼で米海軍のブルック大尉らが同乗しており、航海を支援しました。日本人乗組員だけで成し遂げた航海ではありません。
そもそも咸臨丸は、使節団の本隊が乗る船ではありませんでした。目的は日米修好通商条約(アメリカとの貿易を定めた条約)の批准書交換で、本隊はアメリカ軍艦ポーハタン号で渡っています。
咸臨丸はそれに随行する別船であり、日本人の手で操船できるかの挑戦でもありました。軍艦奉行・木村喜毅、艦長・勝海舟、通訳のジョン万次郎らが乗り組み、荒天続きの冬の北太平洋をおよそ37日かけて渡っています。
こうして見ると、咸臨丸の航海は、我が国の軍艦として初の太平洋横断であると同時に、米海軍の士官の助力を受けながらの航海でもあったことが分かります。
それでも勝がここで得たものは大きなものでした。勝は、アメリカを家柄よりも働きが重んじられる社会だと受け止めたとされています。
勝は渡米より前に長崎海軍伝習所で学んでいます。この渡米もまた、海軍の教育や人材育成を考えるうえで大きな経験になったと考えられます。

実際に太平洋を渡ってみて、いちばん印象に残ったことは何でしたか。

なに、いい格好はよしにしようじゃねえか。冬の太平洋てえのは化け物みてえなもんでな、船は木の葉のごとく揺れる。ブルックさんらに助けられた場面も多かったよ。
向こうに着いてからの話も、後年おれが方々で語ってきた一件だから、そのつもりで聞いてくんな。家柄より働きで人を見る国だと、そう受け取ったのさ。
こいつぁ敵わねえと、正直思ったよ。
② 神戸海軍操練所で海軍を担う人材を育てた(1864年)
帰国後の勝海舟が力を注いだのが、海軍を動かす人を育てることでした。その舞台となったのが、勝の建言を受けて幕府が設けた神戸海軍操練所(こうべかいぐんそうれんじょ)です。
神戸市の資料には、1863年(文久3年)の設置と1864年(元治元年)の開設が記されています。勝は開設の年にあたる1864年、軍艦奉行に就いています。
操練所は幕府の機関でしたが、勝は幕臣以外の諸藩の藩士や脱藩した浪士も受け入れました。勝は操練所とは別に私塾も設けており、彼らは操練所や私塾で学びました。
この開かれた姿勢が、やがて勝自身の立場を危うくします。1864年に禁門の変(京都で長州藩が幕府側と衝突した事件)が起きると、諸藩の志士とのつながりなどが幕府から警戒されたといわれています。
勝は同年のうちに軍艦奉行を罷免され、操練所も1865年に閉鎖されます。開設から1年足らずの短い命でした。
それでも、操練所や勝の私塾に集った若者たちはのちの日本を動かしていきます。坂本龍馬のほか、明治の外務大臣となる陸奥宗光、海軍の指揮官となる伊東祐亨らが名を連ねていたと言われています。

藩の垣根を越えて人材を受け入れたことは、どのような意味を持ったとお考えですか。

そりゃおまえさん、船を動かすのは肩書きじゃねえ、人だからさ。幕臣だけ数えて足りるなら苦労はしねえよ。
そうした動きも上からは睨まれたらしい。しまいにゃ役を解かれた。まあ、無理もねえだろうな。
だがそこで学んだ連中が、後の世で存分に働いたと聞く。学びの場は閉じても、人は残る。悪くねえ商売じゃねえか。
③ 江戸城明け渡しの交渉にあたった(1868年)
勝海舟の名を最も有名にしたのが、1868年(慶応4年)の江戸城明け渡しです。江戸城無血開城とも呼ばれます。
前年に大政奉還が行われたものの、鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍は敗れ、新政府軍が江戸へ迫っていました。勝は旧幕府側の責任者として、新政府軍の参謀・西郷隆盛と江戸で会談します。
この会談で総攻撃は回避され、その後の調整を経て、江戸城は戦うことなく明け渡されました。当時の江戸は多くの人が暮らす都市であり、市街戦になっていれば被害は大きなものになったはずです。
ただし、これを勝ひとりの手柄と考えるのは正確ではありません。山岡鉄舟が先に駿府(現在の静岡市)で西郷と会い、徳川家の処遇や戦闘回避の条件を協議して持ち帰っていました。
前将軍・徳川慶喜が恭順の姿勢を示していたこと、そして西郷が決断したこと。いくつもの条件が重なって成り立った結果だったのです。
なお、勝が江戸を焼き払う準備を進めたうえで交渉に臨んだという話も知られていますが、その規模や実態については諸説あります。

西郷隆盛との会談には、どのような心持ちで臨まれたのでしょうか。

あの談判かい。一つ間違えりゃ江戸は火の海だ。そう思や、腹の据わり方も違ってくるってもんさ。
だがな、おれの手柄みてえに言われるのは困る。山岡が先に駿府まで行って、西郷との交渉に道筋をつけてきた。慶喜公も恭順の腹を決めていなさった。
そいつらが揃って初めて成った話よ。おれ一人でどうこうできるほど、世の中は甘くねえ。
勝海舟と坂本龍馬の関係|弟子入りの逸話はどこまで本当?
勝海舟を語るうえで欠かせないのが、坂本龍馬との関係です。2人の出会いは、幕末を語るエピソードとして今も語り継がれています。
有名なのは「龍馬は勝を斬るつもりで訪ねたが、話を聞くうちに弟子入りしてしまった」という逸話です。ただしこれは、勝が晩年の談話で語ったものが元になっており、細部については諸説あります。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 出会った時期 | 文久2年の暮れ(西暦では1863年の初め)とされます |
| 学んだ場所 | 勝のもとで航海術や世界の情勢に触れ、神戸で学びました |
| 逸話の出どころ | 斬るつもりだったという話は、勝自身が後年語ったものが元になっています |
龍馬が勝から受けた影響は小さくなかったはずです。海を舞台に活動していく龍馬のその後を考えると、勝との出会いが一つの転機になったと考えられています。
師弟関係にはありましたが、龍馬の思想や行動のすべてを勝の影響と考えるのは避けたほうがよいでしょう。
坂本龍馬がどんな人物だったのかは、こちらの記事で詳しく紹介しています。

坂本龍馬とは、実際どのような間柄だったのでしょうか。

龍馬か。あいつは面白い男だったよ。初めて来たときは、おれを斬るつもりだったともいう。まあ、これは後におれが語った話だから、どこまで本当かは差し引いて聞いてくれ。
もっとも、おれが育てたなんぞと言う気はねえぜ。あの手の男は、誰に教わらなくたって勝手に伸びるのさ。
おれはただ、海の向こうにゃ広い世界があると教えただけよ。
勝海舟の晩年|旧幕臣を支え、死後は洗足池のほとりに眠る
明治維新のあと、勝海舟は新政府にも仕えました。1872年(明治5年)に海軍大輔(かいぐんたいふ:海軍の次官にあたる役職)となり、翌年には参議兼海軍卿を務めています。
その一方で、職を失った旧幕臣の生活や、徳川家の処遇にも心を配り続けたと言われています。旧幕府の側にいた人々にとって、勝は頼れる相談相手であり続けました。
- 1887年(明治20年):伯爵に叙せられ、翌年からは枢密顧問官を務めます
- 1891年(明治24年):洗足池(現在の東京都大田区)のほとりに別荘「洗足軒」を構えます
- 1899年(明治32年)1月19日:死去。満75歳(数え77歳)でした
洗足軒は建坪33坪ほどの、農家風の小さな家だったと伝わります。晩年の勝は赤坂氷川の邸で過ごし、政府の依頼で『吹塵録』『海軍歴史』などの編纂に関わっています。
死因は脳溢血(現在でいう脳出血)とされています。遺志により、その亡骸は洗足軒の近くに葬られました。現在も洗足池のほとりには、妻・たみとともに眠る夫妻の墓があります。
死因や最期の経緯、最期の言葉として伝わる「コレデオシマイ」の出どころは、こちらの記事で史料からたどりました。

晩年、旧幕臣の人々を支え続けたのはなぜだったのでしょうか。

後の世じゃ、そこを問われるらしいな。おれは当たり前のことをしたつもりでいるよ。幕府が潰れりゃ、そこで飯を食っていた連中が路頭に迷う。
世間にゃ、旧幕臣のくせに新政府で禄を食むとは何事だと怒る奴もいたよ。
だがな、頭を下げてでも助けられる者がいるなら、そのほうが余程ましと思ったのさ。
勝海舟の生涯を年表で振り返る
ここまでの功績を、生まれてから亡くなるまでの流れでたどってみましょう。貧しい旗本の子が海軍を語る立場になり、罷免や謹慎も経験しながら幕末の交渉役になっていきます。
| 年 | 出来事 | 解説 |
|---|---|---|
| 1823年 | 江戸・本所亀沢町に生まれる | 旗本・勝小吉の長男として誕生。父の実家である男谷家の屋敷(現在の両国公園付近)で生まれました |
| 1840年代 | 剣術と蘭学に打ち込む | 10代から島田虎之助のもとで剣術を修め、1845年頃からは永井青崖に蘭学を学びます |
| 1850年 | 赤坂に私塾を開く | 蘭学と兵学を教える塾を開き、これが世に知られるきっかけになっていきます |
| 1853年 | 海防意見書を提出する | ペリー来航を受けて幕府が広く意見を募集。勝の意見書が老中・阿部正弘の目にとまったと言われています |
| 1855年 | 幕府に登用される | 蕃書翻訳係に採用され、その後、長崎海軍伝習所へ派遣されます |
| 1860年 | 咸臨丸で太平洋を渡る | 遣米使節に随行してサンフランシスコへ。米海軍のブルック大尉らの支援を受けた航海でした |
| 1862年 | 軍艦奉行並に就任 | 幕府海軍の要職に就きます。この年(文久2年)の暮れ、西暦では1863年の初めに坂本龍馬が訪ねてきたと言われています |
| 1864年 | 神戸海軍操練所が開設される | 神戸市の資料は1863年の設置と1864年の開設を記しています。勝は軍艦奉行に就任します |
| 1864年 | 軍艦奉行を罷免される | 禁門の変のあと、諸藩の志士とのつながりなどが幕府から警戒されたといわれています |
| 1865年 | 神戸海軍操練所が閉鎖 | 開設から1年足らずで閉鎖。勝は江戸で謹慎の身となります |
| 1866年 | 軍艦奉行に再任される | 再び表舞台へ呼び戻され、のちに第二次長州征討の停戦交渉にあたります |
| 1868年 | 江戸城明け渡し | 旧幕府側の責任者として西郷隆盛と会談。山岡鉄舟の駿府での協議を経て、江戸城は戦わずに明け渡されました |
| 1872年 | 海軍大輔に就任する | 海軍の次官にあたる役職に就きます。翌1873年には参議兼海軍卿を務めました |
| 1875年 | 元老院議官となる | 政府の要職を歴任しながら、旧幕臣や徳川家のために動き続けます |
| 1887年 | 伯爵に叙せられる | 華族に列せられます。翌1888年からは天皇の相談役である枢密顧問官を務めました |
| 1891年 | 洗足池のほとりに別荘を構える | 風景を気に入り「洗足軒」を建てます。晩年に別荘として利用しました |
| 1899年 | 死去 | 1月19日に亡くなりました。満75歳。遺志により洗足軒の近くに葬られました |
こうして並べてみると、順風満帆どころではない人生だったことが分かります。30歳を過ぎるまで無役に近い立場で、登用されてからも罷免と再任を繰り返しました。
歴史に名を残す江戸城明け渡しのとき、勝はすでに40代半ば。長い下積みと挫折の先に、あの一日があったのです。
勝海舟の功績が後世に与えた影響
勝が関わった仕事は、その後どのように受け継がれたのでしょうか。功績の大きさは、後の世代がそれをどう引き継いだかを見ると分かりやすくなります。
| 勝が関わったこと | その後の展開例 |
|---|---|
| 長崎海軍伝習所で学んだ経験 | 帰国後の海軍教育や人材育成に生かされました |
| 神戸海軍操練所 | 1年足らずで閉鎖されるも、学んだ者が明治の海軍や政界で活躍したと言われています |
| 江戸城明け渡し | 江戸の市街が大規模な戦火を免れ、のちに東京と改称されて首都として発展します |
| 旧幕臣への支援 | 職を失った幕臣の生活再建や、徳川家の処遇に晩年まで関わり続けました |
なかでも影響が大きかったのは、やはり江戸の市街が大規模な戦火を免れたことでしょう。もし江戸が大規模な戦火に見舞われていれば、その後の首都・東京の整備にも大きな影響が出ていた可能性があります。
海舟が幕引きに立ち会った江戸時代が、そもそもどう始まり、どんな出来事を経て終わったのか。流れを年表で追うと、この一日の位置づけがつかみやすくなります。
勝の役割は、複数の人物の判断によって整いつつあった条件を、実際の合意にまとめ上げたことにありました。
敵と味方の間に立ち、話が壊れないように橋を架け続けた。そこに彼の持ち味があります。

ご自身がやってきたことを、いまどう振り返りますか。

偉業だなんぞと言われると、こそばゆくていけねえ。おれは剣術をずいぶん修めたが、生涯ただの一度も人を斬っちゃいねえと、後年そう話してきた。おれの言い分だから、そこは差し引いて聞いてくんな。
斬るのは誰にでもできる。難しいのは、斬らずに事を収めることよ。
敵と味方の真ん中に立って、双方の顔を潰さずに話をまとめる。地味だが、これがいちばん骨が折れるんだ。
勝海舟の思想と現代へのメッセージ
勝海舟の生き方をよく表しているのが、「行蔵は我に存す、毀誉は他人の主張(こうぞうはわれにそんす、きよはたにんのしゅちょう)」という言葉です。
これは晩年、福沢諭吉から『瘠我慢の説(やせがまんのせつ)』の草稿を送られ、返答を求められたときの答書にある一節です。1892年(明治25年)2月6日付とされます。
- 福沢の批判:幕府の要職にいた者が、幕府が倒れたあとに明治政府の高い地位へ就くのは武士の精神に反するのではないか
- 勝の答え:自分がどう動くかは自分の問題、それをけなすか褒めるかは他人の勝手
- 見落とされやすい点:答書には「実に慙愧に不堪ず」と、恥じ入る旨の言葉も続きます
決して軽い批判ではありません。勝は正面から論じ返すことはせず、恥じ入る旨を記したうえで、評価は他人に委ねる姿勢を示しました。
他人の目や評価が可視化されやすい現代だからこそ、この言葉は響くのではないでしょうか。すべての批判に反応する必要はない。勝の答書は、そう読むこともできます。
ただし、強がりだけの言葉ではなかったことも、あわせて押さえておきたいところです。
勝海舟の言葉については、出どころをたどった記事もあります。

現代を生きる私たちに、伝えたいことはありますか。

おまえさん、人の口に戸は立てられねえよ。何をやったって、褒める奴もいりゃ、けなす奴もいる。いちいち相手にしていたら、身が保たねえ。
おれは福沢先生から手厳しく批判された。細かな弁明はしなかったが、恥じ入るとは書いたぜ。行いは己のもの、評価は他人のもの。
そう線を引いちまえば、ずいぶん楽になるってもんさ。
あなたは勝海舟の生き方から、何を学びますか?
よくある質問(FAQ)
勝海舟は何をした人ですか?
幕末の幕臣で、明治政府でも要職を務めた人物です。1860年に咸臨丸で太平洋を渡り、1864年には神戸海軍操練所で海軍の人材を育てました。1868年には西郷隆盛と会談し、江戸城の明け渡しをまとめています。
江戸城無血開城とは何ですか?
1868年、新政府軍が江戸に迫るなか、話し合いによって江戸城が戦わずに明け渡された出来事です。勝海舟と西郷隆盛の会談が有名ですが、その前に山岡鉄舟が駿府で西郷と会い、条件を協議していました。勝ひとりの功績ではありません。
勝海舟と坂本龍馬はどんな関係ですか?
師弟だったと言われています。龍馬は勝を斬るつもりで訪ねたが弟子になった、という逸話が有名ですが、これは勝が晩年に語ったものが元で、細部には諸説あります。龍馬は神戸で航海術や世界の情勢を学びました。
勝海舟はいつ亡くなりましたか?
1899年(明治32年)1月19日です。満75歳(数え年では77)でした。死因は脳溢血とされています。死因の根拠や最期の経緯は、別記事で史料からたどっています。
なぜ「海舟」と呼ばれるのですか?
「海舟」は号(本名とは別の呼び名)です。学者・佐久間象山が書いた「海舟書屋」という額から取ったと言われています。本名は義邦、のちに安芳と改めました。
勝海舟は本当に人を斬らなかったのですか?
剣術を修めながら人を斬ったことはないと、晩年の談話で語ったと伝えられています。ただし本人の回想とされるもので、その通りだったと断定できる史料は乏しいのが実情です。
インタビュー後記|勝海舟は「斬らずに事を収めた交渉人」
今回は海舟AIに登場してもらいました。
調べていて強く印象に残ったのは、江戸城の明け渡しが勝ひとりの手柄ではなかったことです。
山岡鉄舟が先に条件を詰め、慶喜が恭順の姿勢を示し、西郷が決断しました。勝の役割は、整いつつあった条件を壊さずに合意へ運ぶことでした。
派手さはありません。けれど、敵と味方の真ん中に立ち、合意をまとめるのは容易なことではありません。
批判を受けても、細かな弁明に終始しなかった晩年の姿も心に残りました。他人の評価に振り回されず、自分の役割を果たそうとした姿勢は、現代にも通じるものがあると感じました。
会談の相手だった西郷隆盛の記事も、あわせてどうぞ。
参考資料
- 国立国会図書館「勝海舟|近代日本人の肖像」※生没年月日と経歴の根拠
- 国立国会図書館「第1章 洋靴事始|近代日本の装いの変遷」※咸臨丸が「初めて太平洋を渡った日本の軍艦」であること、使節団の護衛と遠洋航海の実地訓練を兼ねていたことの根拠
- 横須賀市「咸臨丸フェスティバル式典」※咸臨丸が「我が国の軍艦として初の太平洋横断」に成功したことの根拠
- 墨田区立図書館「勝海舟(すみだゆかりの人物を紹介します)」※出生地(本所亀沢町・男谷家の屋敷)の根拠
- 神戸市「海軍操練所跡」※神戸海軍操練所の設置年・開設年と閉鎖の根拠
- レファレンス協同データベース「咸臨丸はどのようにして太平洋を渡ったのか?」(岡山県立図書館)※ブルック大尉らの同乗と、軍艦奉行・木村摂津守/船将・勝海舟という役職の根拠
- 江戸東京博物館「山岡鉄舟と江戸無血開城」※山岡鉄舟が駿府で西郷隆盛と会見し、条件を協議したことの根拠
- 大田区「勝海舟と大田区」※洗足軒の造営と規模、洗足池畔への埋葬の根拠
- 青空文庫「瘠我慢の説 書簡」(福沢諭吉・勝海舟・榎本武揚)※「行蔵は我に存す、毀誉は他人の主張、我に与からず我に関せず」の原文、「実に慙愧に不堪ず」と続くこと、二月六日付という日付の根拠
- 慶應義塾「開館記念 第1回企画展『慶応四年五月十五日 ―福澤諭吉、ウェーランド経済書講述の日―』出品目録」※答書が「勝安芳(海舟) 福澤諭吉宛書簡(行蔵は我に存す) 明治25年(1892)2月6日」として所蔵されていること、および年の根拠








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