日本の歴史の教科書をめくると、ほんの数ページ目に卑弥呼が登場します。名前は誰もが知っているのに、「何をした人?」と聞かれると答えにくい。歴史好きを自任する私自身がそうでした。
理由ははっきりしています。卑弥呼について書かれた記録が、驚くほど少ないからです。しかも日本側の同時代の史料ではなく、海の向こうの中国で編まれた史書に残されています。
この記事の結論
卑弥呼は、3世紀ごろの倭(当時の日本列島)で女王となったと記される人物です。 長く続いた争乱の末に、国々が共にひとりの王として立てたと伝えられています。
中国の史書『魏志倭人伝』によれば、卑弥呼は一般に邪馬台国と呼ばれる国に都したと記され、「鬼道」と呼ばれる宗教的な営みに関わりました。さらに大国・魏へ使者を送り、「親魏倭王」の称号を授かっています。
一方で、生まれた年も、素顔も、邪馬台国がどこにあったのかも分かっていません。この記事では、分かっていることと分かっていないことを分けながら整理していきます。
- 3世紀
弥生時代の終わり〜古墳時代のはじめ - 親魏倭王
魏の皇帝から授かった称号 - 247〜248年ごろ
没年(諸説あります)
語り手として、卑弥呼AI(卑弥呼をモデルにしたAI)にも登場してもらいました。史料にないことは分からないと答える、慎重な語り口の対話としてお読みください。
※以下のインタビュー部分は、公開されている史料をもとに卑弥呼の人物像を再現した創作です。史料で確認できない心情や受け止め方を補った創作的な対話であり、実際の発言をそのまま掲載したものではありません。
出典の確かめ方と、公開前に行っているチェックは編集方針にまとめています。

本や資料でしか知らなかった卑弥呼さんと、こうしてお話しできるとは。まずうかがいますが、あなたはご自身をどのような者だとお考えですか。

うむ、そなたのような後の世の者と言葉を交わせるとは、なんともこそばゆい心地じゃ。
われは倭の国々に共に王として立てられた、と後の世の書きつけには残っておるらしい。
ただ、われがどのような者であったかは、そなたらに伝わった記録のほうが詳しかろうな。
卑弥呼はいつの時代の人?基本プロフィールで2分でつかむ
はじめに、卑弥呼がいつの時代の、どんな立場の人だったのかを表でつかんでおきましょう。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 名前 | 卑弥呼(ひみこ) |
| 生没年 | 生年不明。247〜248年ごろ没(没年には諸説があります) |
| 活躍した時代 | 3世紀。弥生時代の終わりごろ〜古墳時代のはじめ |
| 活動地域 | 倭(当時の日本列島)。出生地は不明で、邪馬台国の所在地にも諸説があります |
| 立場 | 諸国に共立された倭の女王。一般に邪馬台国と呼ばれる国に都したと記されます |
| 主な事績 | 「鬼道」と呼ばれる宗教的な営み、魏への遣使と「親魏倭王」の称号 |
卑弥呼が活躍したと記録されるのは3世紀です。日本の時代区分でいえば、弥生時代の終わりごろから古墳時代のはじめにあたります。稲作が広まり、各地に小さな国が生まれていた時期でした。
ただし、生まれた年は分かっていません。年代を比較的詳しくたどれるのは、魏への最初の遣使が記録される238〜239年ごろから247年ごろまでの、およそ10年間に限られます。
卑弥呼について書かれた記録はごくわずかです。その人物像を知るうえでは、主に中国の史書『三国志』魏書東夷伝倭人条(通称『魏志倭人伝』〈ぎしわじんでん〉)に頼らざるを得ません。
なお「卑弥呼」という表記は、この中国の史書に記された文字です。当時の倭で本人がどう呼ばれていたのかは、史料からは分かっていません。
「邪馬台国」も同じです。現存する古い版本では「邪馬壹国(やまいこく)」と記されており、「臺(台)」の誤りとみる説と、そのまま「壹」と読む説があります。

いつの時代の方なのか、まずそこがつかみにくいのです。ご自身では、どのくらい昔のこととお感じですか。

そなたらは三世紀と申すそうじゃな。われの世には、そのような数え方はござらぬ。
稲を植え、いくつもの国々が並び立っていた時分、とでも申せばよいのか。
遠い国の暦に照らして年を数えたのは、われではなく、そなたらのほうであろうな。
卑弥呼がしたこと|『魏志倭人伝』に記された3つのこと
卑弥呼について確かなことは多くありませんが、『魏志倭人伝』に記された主な事がらとして、次の3つが挙げられます。
- ① 長く争乱が続いた倭で、諸国に共立されて女王となった
- ② 「鬼道」と呼ばれる宗教的な営みに関わった
- ③ 魏に使者を送り、「親魏倭王」の称号を授かった
いずれも、史料に記された事がらです。1つずつ詳しく見ていきましょう。
① 長く争乱が続いた倭で、諸国に共立されて女王となった
卑弥呼が史料に姿を現す最初の場面が、諸国によって女王に共立された場面です。まず、そこに至るおおまかな流れを見てみましょう。
- もともとは男の王が倭を治めていた
- やがて国々が長く争った(倭国大乱)
- 長い争乱の末、諸国が共に卑弥呼を王として立てた
『魏志倭人伝』によれば、もともと倭では男の王が国を治めていましたが、その後、長らく国々が争う乱れた時代が続いたと伝わります。この争乱は、のちに「倭国大乱(わこくたいらん)」と呼ばれています。
長い争乱の末、諸国は共にひとりの女性を王として立てました。それが卑弥呼だと記されています。
諸国が共に王として立てたと記されている点が、卑弥呼の大きな特徴です。この「共立(きょうりつ)」こそが、卑弥呼の登場を伝える記録の要にあたります。
ただし、共立に至る具体的な経緯や、なぜ卑弥呼が選ばれたのかを伝える記述は残っていません。

争乱の末に王として立てられた、と記録は伝えています。なぜあなただったのでしょうか。

もとは男の王が治めておったが、いつしか国々は長く争うようになった、と記されておるそうな。
その争乱の末、国々が共にわれを王として立てたと伝わっておるらしい。
なにゆえこのわれであったのか。その理由を書き残した記録は、そなたらの世にも伝わっておらぬそうじゃ。
② 「鬼道」と呼ばれる宗教的な営みに関わった
卑弥呼といえば「鬼道」ですが、その姿は史料にごく断片的にしか残っていません。まずは、その断片をひとつずつ見ていきましょう。
『魏志倭人伝』は、卑弥呼が「鬼道に事(つか)え、能(よ)く衆を惑わす」と伝えています。鬼道とは宗教的・呪術(じゅじゅつ)的な営みだったと考えられていますが、その具体的な内容は分かっていません。
神まつりや占いに関わるものとする説などがありますが、断定はできません。なお「鬼道」という語そのものが、中国側の史書に用いられた表現です。
卑弥呼はすでに年齢を重ねていましたが、夫はいなかったと記されています。弟が卑弥呼の政治を補佐したとも伝わります。
王となってからは人前にほとんど姿を見せず、多くの女性が身のまわりに仕え、ただひとりの男性が食事を運び、言葉を取り次いだと記されています。
住まいには楼観(ろうかん=高い建物)や城柵(じょうさく)が厳重に設けられ、武器を持った兵が守っていたとも記されています。
ここまでを整理すると、『魏志倭人伝』が伝える卑弥呼の姿は次のようになります。
- 「鬼道」と呼ばれる宗教的・呪術的な営みに関わっていた
- すでに年齢を重ねていたが、夫はいなかった
- 弟が卑弥呼の政治を補佐した
- 人前に姿を見せず、多くの女性が身のまわりに仕えた
- 住まいには楼観と呼ばれる高い建物や城柵が設けられ、武器を持った兵が守っていた

鬼道とは、どのような営みだったのでしょうか。

鬼道と申すが、それがいかなるものであったか、そなたらの世にはうまく伝わっておらぬようじゃな。
神まつりであったか、占いであったか。後の世の者がさまざまに説を立てておると聞く。
ここから先は創作としての物言いと思うてほしいが、見えぬものを前にしたとき、人の心が静まることはあろうと思うのじゃ。
③ 魏に使者を送り、「親魏倭王」の称号を授かった
卑弥呼のもうひとつの大きな働きが、海の向こうの大国・魏との外交でした。まずは、その主なやりとりを表で見てみましょう。
| 年 | できごと |
|---|---|
| 239年(諸説あり) | 難升米らを帯方郡を通じて魏へ派遣する |
| 239年 | 「親魏倭王」の称号や金印・銅鏡などを与える詔が出る |
| 240年 | 魏の使者が倭を訪れ、詔書・印綬・贈り物を届ける |
| 243年 | 再び魏へ使者を送る |
一度きりではなく、たびたび使者を送り合う関係が続いたことが分かります。順を追って見ていきましょう。
239年、卑弥呼は難升米(なしめ/なんしょうまい)らを、魏の出先機関である帯方郡(たいほうぐん=朝鮮半島にあった役所)を通じて魏へ派遣したと伝わります。
この遣使の年には議論があります。現存する『三国志』の本文は「景初二年」=238年と記しますが、『日本書紀』が引く『三国志』や『梁書』倭国伝は景初三年=239年としています。
239年とする見方が広く採られてきましたが、238年とみる説もあり、決着はついていません。
これを受けて魏の皇帝は、卑弥呼に「親魏倭王(しんぎわおう=魏の皇帝から与えられた倭王の称号)」を与え、金印(きんいん)と紫のひも、銅鏡(どうきょう)100枚などを贈る詔(みことのり)を出したと記されています。
これらの品が実際に倭へ届けられたのは、翌240年のこととされます。魏は当時、呉・蜀と並び立つ大国のひとつでした。
ただし、このとき贈られたとされる金印は、現在まで見つかっていません。銅鏡が具体的にどの鏡を指すのかについても、研究者の間で議論が続いています。

なぜ、海の向こうの魏に使者を送ったのでしょうか。

海の向こうに魏という大きな国がある。使いを送ったと、記録には残っておるそうじゃ。
ただ、いかなる思惑で送ったのかを書き残したものは、そなたらの世に伝わっておらぬと聞く。
かの国の帝より『親魏倭王』の名や幾枚もの鏡を賜(たまわ)ったと伝えられておるが、その先はそなたらが考えることであろうな。
卑弥呼はどんな人だったのか|史料から言えることと言えないこと
「卑弥呼はどんな人だったのか」は、この人物についてもっともよく問われることのひとつです。ただし、答えは単純ではありません。
- 言える:諸国に共立された女王で、鬼道と呼ばれる営みに関わったと記される
- 言える:年齢を重ねており、夫はなく、弟が政治を補佐したと記される
- 言えない:性格や内心、王としての方針
- 言えない:容姿。姿を写したと確かめられる同時代の絵や像は伝わっていません
史料が伝えるのは、あくまで立場と行いの断片です。卑弥呼がどのような性格で、何を考えて国を治めたのかを記した史料はありません。
教科書や物語では、祈りによって国をまとめた巫女(みこ)のような姿で描かれることがあります。しかしそれは、限られた記述をもとに後世が思い描いた像であり、史実として確認できるものではありません。
同じことは容姿にもいえます。ドラマや挿絵でおなじみの装いも、同時代の史料にもとづくものではありません。卑弥呼の姿を写したと確かめられる絵や像は伝わっていないのです。
分かっていることは少なくても、その少なさ自体が卑弥呼という人物の輪郭でもあります。だからこそ、後の世の人々が想像で埋めたくなってきたのでしょう。

後の世では、祈りで国をまとめた女性という姿で語られることが多いのです。

ほう、そのような姿で語られておるか。それはそなたらが思い描いた形であろうな。
われの心の内や、王としてなにを思うたかを書き残した記録は、伝わっておらぬと聞く。
姿を写した絵も、確かめられるものは残っておらぬそうじゃ。想い描くのは、そなたらの自由じゃがのう。
卑弥呼の死因と最期
卑弥呼の最期は、確かなことがほとんど分かっていません。まずは、史料から分かる範囲を表にまとめます。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 没年 | 247〜248年ごろ(諸説があります) |
| 死因 | 不明(史料に記述がありません) |
| 晩年のできごと | 南方の狗奴国との争い |
| 死後のようす | 径「百余歩」の墓が造られ、奴婢百余人が殉葬されたと伝わる |
| 墓の場所 | 未確定(箸墓古墳とする説もありますが、断定できません) |
表のとおり、確かなことがほとんど分かっていないのが卑弥呼の最期です。それでも、史料に残るわずかな手がかりを見ていきましょう。
『魏志倭人伝』によれば、晩年の卑弥呼は、南方にあったとされる狗奴国(くなこく)という国と争っていたと伝わります。247年ごろ、その争いのようすを帯方郡に報告した、という記録が残っています。
その前後に卑弥呼は世を去ったとされます。没年ははっきりせず、一般には247〜248年ごろとされることが多いようです。死因についても史料に記述はなく、分かっていません。
卑弥呼が亡くなると、径(さしわたし)が「百余歩」ある大きな墓が造られ、奴婢(ぬひ=隷属する身分の人々)百余人が殉葬(じゅんそう=主とともに葬られること)されたと『魏志倭人伝』は伝えます。
奈良県の箸墓古墳(はしはかこふん)を卑弥呼の墓とみる説もあります。ただしこれは古墳の年代などから推し量った見方で、卑弥呼の墓と特定できる文字史料があるわけではありません。
所在地とあわせて、議論は決着していません。

あなたの死因や、亡くなったときの具体的なようすについては、史料に書かれていないのです。

南に狗奴国という、われに従わぬ国があったと記録は伝えておるそうじゃな。
わが最期がいかなるものであったかは、そなたらの世にも伝わっておらぬと聞く。
われが去ったのちに国がまた乱れたと記されておるのなら、案ずる者もおったであろう。
もっとも、われが何を思うたかを伝える記録は、ひとつも残っておらぬそうじゃ。
卑弥呼の生涯を年表で振り返る
卑弥呼の歩みを、『魏志倭人伝』や『後漢書』などに残る主な出来事で振り返ってみましょう。
ただし、卑弥呼が生まれた年や、女王となった正確な時期は分かっていません。はっきりと年代を追えるのは、主に魏とのやりとりが記された3世紀なかばの約10年間に限られます。
そのため下の年表は、年がはっきり分かる出来事と、「年代不明」「〜ごろ」としか言えない出来事が入りまじっています。細かな年代よりも、おおよその流れをつかむ手がかりとして見てください。
| 年 | 出来事 | ひとこと解説 |
|---|---|---|
| 2世紀後半ごろ | 倭で争乱が続く(倭国大乱) | 年代は主に『後漢書』の記述にもとづきます |
| 年代不明 | 諸国に共立されて卑弥呼が女王となる | 長い争乱の末、共に王として立てられたとされます |
| 年代不明 | 「鬼道」と呼ばれる営みに関わる | 弟が卑弥呼の政治を補佐したと伝わります |
| 239年 | 魏へ難升米らを使者として派遣する | 帯方郡を通じて大国・魏と結びます(年には諸説あり) |
| 239年 | 「親魏倭王」の称号や金印・銅鏡などを与える詔が出る | 魏の皇帝が卑弥呼に授けることを決めたとされます |
| 240年 | 魏の使者が倭を訪れ、詔書・印綬・贈り物を届ける | 授けられた品が実際に倭へ届いたとされます |
| 243年 | 再び魏へ使者を送る | たびたび使者を送り、交流を続けたとされます |
| 245年 | 難升米に「黄幢」を授ける詔が出される | 黄色い軍旗で、魏による軍事的支援を示すとする説もあります |
| 247年 | 狗奴国との争いを帯方郡に報告する | 晩年は南方の国と対立していたと伝わります |
| 247年 | 帯方郡の張政が詔書と黄幢を携えて倭へ派遣される | 檄文によって告諭したと記されます |
| 247〜248年ごろ | 卑弥呼が世を去る | 没年には諸説があります |
| 卑弥呼の死後 | 大きな墓が造られる | 径「百余歩」の墓が造られ、奴婢百余人が殉葬されたと伝わります |
| 卑弥呼の死後 | 男王が立つが国が再び乱れる | 人々が従わず、争いで多くの死者が出たとされます |
| 卑弥呼の死後 | 卑弥呼の「宗女」と記される壹与(いよ)が女王となり国が治まる | 『魏志倭人伝』に「年十三」と記され、乱れた世を再びまとめたと伝わります |
こうして並べてみると、卑弥呼の生涯のうち年代をたどれるのは、魏との交流が続いた238〜239年ごろから247年ごろに集中していることが分かります。
それ以前の前半生や、女王として共立された正確な時期は、史料からはたどれません。
また、記録は卑弥呼の死で終わりません。男王の擁立、再びの争乱、そして壹与(いよ。後代の史料には「臺与〈とよ〉」とも記され、読みにも説があります)が女王となる場面へと続いていきます。
卑弥呼ひとりの一代記というより、倭の国々の動きのなかに卑弥呼が現れ、去っていったようすが読み取れる年表です。
卑弥呼のすごさ・影響力
卑弥呼が歴史に残した足あとを、先に並べてみましょう。
- 中国の史書に名が記された、日本列島の最古級の女性統治者のひとり
- 長い争乱の末、諸国に共立された女王
- 海の向こうの魏から「親魏倭王」の称号を得た
- 『魏志倭人伝』に、そのありようが比較的くわしく書き残された
卑弥呼が注目されるのは、諸国に共立された女王として、宗教的な営みや魏との外交を行ったと記されている点です。長い争乱の時代に、国々が共にひとりの王を立てたという記録そのものが、当時の倭のありようを今に伝えています。
さらに卑弥呼は、大国・魏と結び、「親魏倭王」という称号を得ました。『魏志倭人伝』には、この外交に関する記事とともに、卑弥呼や当時の倭のようすが比較的くわしく記されています。
史料に名前が確認できる、日本列島の最古級の女性統治者。それが卑弥呼です。同時に、邪馬台国がどこにあったのか、卑弥呼とはいったい何者だったのかという数々の謎が、今も多くの人を惹きつけ続けています。

あなたの名は、千七百年以上たった今も知られています。

すごさなどと言われると、面はゆいのう。われは諸国によって王に立てられた、と伝えられておるだけの身じゃ。
遠き魏とも誼(よしみ)を結んだと記録は伝えておるらしい。
倭の名が遠い国の記(しる)しに残ったのであれば、少しは役目を果たせたのやもしれぬな。
卑弥呼の記録から考える現代へのヒント
ここからは、史料を離れた筆者の感想です。卑弥呼について記されていることから感じたヒントを挙げてみます。いずれも史実そのものではなく、筆者の解釈です。
| 卑弥呼について記されていること | 筆者が感じたヒント |
|---|---|
| 争乱の末、諸国が共にひとりの王を立てた | 対立する集団が共通の中心を持つことの意味を考えさせられる |
| 「鬼道」と呼ばれる営みに関わった | 目に見えないものが、人の心の支えになることがある |
| 人前にほとんど姿を見せなかった | 目立って前に立つことだけが、人を動かす方法ではない |
諸国が争乱の末にひとりの王を共に立てた。その記録からは、対立する人々が同じ中心を持つことの意味を、つい考えさせられます。
バラバラだった国々が、どうやってひとりの王を戴くに至ったのか。その過程を伝える史料はありませんが、難しさと大切さは時代を超えて考えさせられるテーマです。
これは卑弥呼自身の統治がそうだったという意味ではありません。史料から統治のやり方は分かりません。
そのうえで現代に引き寄せて考えるなら、学校でも職場でも、力で押さえつけるのではなく、みんなの気持ちをつなぎとめる人がいるからこそ、集まりはうまく回っていきます。
もっとも、卑弥呼については分からないことが多く、その人物像も後世の想像に支えられている部分が少なくありません。
だからこそ、あなた自身が史料や物語に触れながら、「卑弥呼とはどんな王だったのか」を思い描いてみるのも、この人物の楽しみ方のひとつです。

最後に、後の世に生きる私たちへ、何か言葉をいただけますか。

ここから先は創作としての物言いと思うてほしい。われの考えを書き残した記録は、ひとつも伝わっておらぬのじゃからな。
そのうえで申すなら、力で押さえつければ、いっときは鎮まっても、恨みまでは消えぬのではあるまいか。
そなたの世は、いかにして人の心をまとめておるのじゃろうな。それを考えるよすがになれば、それでよい。
あなたは卑弥呼の生き方から、何を学びますか?
よくある質問(FAQ)
卑弥呼は何をした人ですか?
3世紀ごろの倭で女王となったと記される人物です。長い争乱の末に諸国から共に王として立てられ、「鬼道」と呼ばれる営みに関わり、魏へ使者を送って「親魏倭王」の称号を授かったと伝わります。
卑弥呼はいつの時代の人ですか?
3世紀の人物です。日本の時代区分では、弥生時代の終わりごろから古墳時代のはじめにあたります。生まれた年は分かっておらず、年代をたどれるのは魏との交流が記録された約10年間に限られます。
卑弥呼が魏から与えられた称号は何ですか?
「親魏倭王(しんぎわおう)」です。魏の皇帝が卑弥呼に与えた倭王の称号で、金印と紫のひも、銅鏡100枚などとともに贈る詔が出されたと『魏志倭人伝』に記されています。
卑弥呼の生没年はいつですか?
生年は分かっていません。没年は247〜248年ごろとされることが多いものの、諸説があります。年齢についても、すでに年を重ねていたと記される以外の手がかりはありません。
卑弥呼はどこにいたのですか?
都したとされる邪馬台国の場所は、今の奈良県あたりとする「畿内説」と、九州北部とする「九州説」に大きく分かれており、決着はついていません。日本の古代史における最大級の謎のひとつです。
卑弥呼の死因は何だったのですか?
史料に死因の記述はなく、分かっていません。晩年は南方の狗奴国と争っていたと伝わり、その争いを報告した時期の前後に亡くなったとみられますが、詳しい経緯は不明です。
卑弥呼は天皇とどういう関係があるのですか?
天照大神や、記紀に登場する人物と結びつける説がありますが、そうした関係を史料の上で確認することはできません。卑弥呼と天皇家の関係は、はっきりとは分かっていません。
卑弥呼が亡くなったあと、邪馬台国はどうなったのですか?
卑弥呼の死後しばらくの経緯は記録されていますが、その後の邪馬台国の行方は分かっていません。いったん男の王が立って国は再び乱れ、卑弥呼の「宗女」と記される壹与(いよ)が女王となって世が治まったと伝わります。
インタビュー後記|卑弥呼は「争乱の末に共立された謎の女王」
今回は卑弥呼AIに登場してもらいました。
調べていて印象に残ったのは、これほど有名な人物なのに、確かに分かっていることがほんのわずかだということです。生まれた年も、素顔も、邪馬台国の場所さえも謎のまま残されています。
それでも、長い争乱の末に諸国によって共に王として立てられ、遠く魏とも交わったという記録には、古代の王ならではの存在感を感じました。
同時に、卑弥呼をめぐる記録は、日本列島の政治や社会のようすが中国の史書に比較的くわしく記されるようになった、初期の時代のものです。
謎が多いからこそ、想像する楽しさがある。卑弥呼を知ることは、日本列島の古い歴史の一場面に触れることなのだと、あらためて感じました。
同じように、後世の史料から人物像が形づくられてきた古代の人物として、聖徳太子がいます。実在をめぐる議論の立て方まで含めて、読み比べると面白い相手です。
また、自分の言葉が文字で残った女性としては、平安時代の清少納言がいます。名前しか残らなかった卑弥呼と並べると、記録の残り方の違いがよく見えてきます。
参考資料
- コトバンク「卑弥呼」(『日本大百科全書』『山川 日本史小辞典』ほかを収録)※生没年不詳であること、2世紀後半の倭の大乱と共立、239年の難升米らの派遣と「親魏倭王」・金印紫綬、247年の戦況報告、径100余歩の墳墓と奴婢の殉葬
- コトバンク「邪馬台国」(『日本大百科全書』『山川 日本史小辞典』ほかを収録)※所在地をめぐる論争が定まっていないこと、畿内説と九州説という二大潮流、倭国大乱の年代
- コトバンク「魏志倭人伝」(『日本大百科全書』『山川 日本史小辞典』ほかを収録)※『三国志』魏書東夷伝倭人条という史料そのものの成り立ち
- 弥生ミュージアム(吉野ヶ里歴史公園)「魏志倭人伝」※『魏志倭人伝』の本文と現代語訳。邪馬壹国の表記、景初二年・三年の議論、共立・鬼道・弟による補佐・墓と殉葬の記述
- コトバンク「鬼道」(『改訂新版 世界大百科事典』ほかを収録)※「鬼道」が中国では鬼神の世界を貫く原理法則や、巫覡の行う呪術・国家非公認の呪術的宗教を指す語であること
- コトバンク「親魏倭王」(『ブリタニカ国際大百科事典』『山川 日本史小辞典』ほかを収録)※239年に明帝が卑弥呼に与えたとされる称号であること、金印紫綬と銅鏡100枚
- コトバンク「難升米」(『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』を収録)※景初3年(239年。景初2年説もある)に洛陽に至り、率善中郎将の称号と銀印青綬を授かったこと、「なしめ」とも読まれること
- コトバンク「狗奴国」(『日本大百科全書』『改訂新版 世界大百科事典』を収録)※邪馬台国の南に位置し従わなかったこと、男王・卑弥弓呼、位置に諸説あること
- コトバンク「壹与」(『日本大百科全書』『山川 日本史小辞典』ほかを収録)※卑弥呼の死後の争乱を13歳の壹与が女王となって収めたこと、「臺与(とよ)」の誤写とみる説があること
- 奈良県「箸墓古墳」※全長約280mの前方後円墳で3世紀中頃〜後半の築造と考えられること、卑弥呼の墓と考える研究者も少なくないこと、墳丘の大部分が宮内庁により倭迹迹日百襲姫命の大市墓に治定されていること
- 文化遺産オンライン「箸墓古墳周濠」※周濠推定部分の一部が2017年2月9日に史跡指定されたこと(文化庁 国指定文化財等データベース)
- コトバンク「箸墓古墳」(『百科事典マイペディア』ほかを収録)※陵墓として宮内庁の管理下にあり、学術調査が行われていないこと





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