幕末の人物の死因を調べていると、たいていは「諸説あって決まらない」という壁にぶつかります。ところが勝海舟の場合、確認した多くの伝記や解説記事で、同じ言葉が出てきました。脳溢血(のういっけつ)です。
ならば話は早いと思って、その根拠をたどってみたところ、事情はもう少し込み入っていました。病名と倒れた場面にはそれぞれ別の出典が示されており、最期の言葉は直接の出典を確認できなかったのです。
この記事の結論
勝海舟の死因は、脳溢血(現在でいう脳出血)とされています。 本記事が確認した伝記・解説記事では広く用いられており、別の病名を挙げるものは見当たりませんでした。
その病名の出典としてWikipediaが挙げているのは、医史学者・服部敏良の『事典 有名人の死亡診断 近代編』(吉川弘文館、2010年)です。本記事は同書を直接確認していません。
一方、本記事が確認した国史大辞典の項目紹介や自治体の資料では、具体的な病名が記されていません。同項目紹介は没日・年齢・葬られた場所までを記し、大田区は「享年:77歳(病死)」とだけ書いています。
- 満75歳
数え年では77歳(享年77) - 脳溢血
伝記・解説記事で広く用いられる病名 - 1899年
明治32年1月19日に死去
この記事では、脳溢血という記述がどこから来ているのかをたどり、倒れた場面を伝える談話との関係、ブランデーをめぐる食い違いまで、1つずつ確かめていきます。
最期の言葉「コレデオシマイ」の伝わり方と、洗足池のほとりに眠ることになった経緯も追いました。
語り手として、海舟AI(勝海舟をモデルにしたAI)にも登場してもらいます。分からないことは分からないと答える、慎重な語り口の対話としてお読みください。
※以下のインタビュー部分は、公開されている史料をもとに勝海舟の人物像を再現した創作です。史料で確認できない心情や受け止め方を補った創作的な対話であり、実際の発言をそのまま掲載したものではありません。

海舟さん、本日はよろしくお願いします。あなたの死因は脳溢血だったと伝わっています。ご自身の最期について、まずはどうお感じですか。

おかしなことを聞くじゃねえか。自分がどう死んだかなんてのは、当人がいちばん語れねえ話さ。
おれの口から言えるのは、そこまでだよ。あとはおまえさんたちが、残った書きつけを突き合わせて考えるより仕方があるまい。
おれの死にざまを、おれが証してみせるわけにはいかねえのさ。
勝海舟の死因は脳溢血?記録と根拠を一覧で確認
死因として具体的に挙げられている病名は、本記事が確認した範囲では脳溢血だけです。対立する病名の説があるわけではありません。
割れているのは、その周辺の書き方のほうでした。根拠のたどり方によって、記事ごとに書きようが変わっています。
| 項目 | 内容 | 主な根拠 | 本記事で確認できた範囲 |
|---|---|---|---|
| ① 病名|脳溢血(脳出血) | 入浴後に倒れ、意識が戻らないまま死去したとする | 服部敏良『事典 有名人の死亡診断 近代編』(Wikipediaが出典として提示) | 伝記・解説記事で広く用いられる。同書は直接確認していない |
| ② 倒れた場面|女中の談話 | 入浴後に倒れ、生姜湯を求めたが間に合わずブランデーが運ばれた | 増田糸子の談話(Wikipediaは『海舟座談』を出典として提示) | 引用部分に病名は出てこない。①とは別の出典 |
| ③ ブランデーの位置づけ | 飲んだ直後に意識を失ったのか、すでに意識のない海舟に含ませたのか | 同じ場面を描く読み物 | 記事によって順番が入れ替わっている |
| ④ 没日の表記 | 公的資料は1月19日。一部の二次記事に1月21日の記載 | 国立国会図書館、国史大辞典の項目紹介、大田区 | 公的資料は1月19日で一致している |
この表でいちばん大事なのは、①と②が別の出典から来ているという点です。病名を伝える資料と、倒れた場面を伝える談話は、同じものではありません。
この2つを結びつけて「女中が脳溢血の場面を語った」と読むと、実際より確かなことが分かっているように見えてしまいます。順に確かめていきます。
なお、現代の病名を過去の症状に当てはめることには限界があります。談話が伝えるのは倒れた場面のようすであって、診断そのものではありません。

並べてみると、ずいぶん書きようが違うもんだな。
おれの生きた世でも、人の噂ってのは伝わるうちに形を変えたもんさ。まして紙に書き写されりゃあ、なおのことだろうよ。
どれが本当かを決めるより、どこまで確かめられるかを見ておくほうが、よっぽど当てになる。
勝海舟の死因を史料から検証する
ここからは4つの項目を1つずつ見ていきます。読み解くうえで、先に押さえておきたい前提が3つあります。
- Wikipediaが挙げる出典は医史学者の事典:脳溢血を含む死去の記述に、服部敏良『事典 有名人の死亡診断 近代編』が付されている。本記事は同書を直接確認していない
- 倒れた場面の出典はこれとは別:増田糸子の談話には、Wikipediaが『海舟座談』を出典として挙げている
- 細部は資料によって入れ替わる:ブランデーの扱いも、没日の表記も、書き手によって違う
同じ死を扱っていても、書かれた目的によって記述の重みはまるで違います。順に確かめていきましょう。
① 脳溢血という病名は、どこから来ているのか
勝海舟の死因として広く用いられているのが、脳溢血です。本記事が確認した伝記・解説記事はおおむねこの言葉を使っており、別の病名を挙げる記事は見当たりませんでした。
Wikipediaがこの死去の記述に付けている出典は、服部敏良『事典 有名人の死亡診断 近代編』(吉川弘文館、2010年)です。医史学の研究者が、近代の著名人の病歴と死因を検証した事典として編まれた本です。
つまりWikipediaは、この病名の出典として、読み物ではなく死因を主題に扱った事典を示しています。この点は、記事を書き始めたときの見立てより確かでした。
ただし本記事は、同書の該当箇所(Wikipediaはpp.83-84として示しています)を直接確認していません。同書が何を根拠に脳溢血としているのか、そこまではたどれていません。
したがって本記事が言えるのは、病名を扱った専門の事典が出典として示されているところまでです。当時の診療記録や診断書にたどりついたわけではありません。

脳溢血という言葉は、事典よりも読み物のほうで多く見かけます。この違いをどうご覧になりますか。

書く者の仕事が違うんだろうよ。事典ってのは、確かめられることだけを短く並べる。読み物のほうは、そこへ人の話を継ぎ足していくのさ。
どっちが偉いって話じゃねえ。ただ、継ぎ足したところは継ぎ足したものとして読まなけりゃ、後の世が迷惑するだろうよ。
おれの病の名を、おれが名乗ってみせるわけにもいくまい。
② 倒れた場面を伝える談話の引用部分には、病名が出てこない
病名とは別に、倒れた場面を伝える記録もあります。長く女中を務めた増田糸子(ますだ いとこ)の談話で、Wikipediaはその出典として『海舟座談』(巌本善治編・勝部真長校注、岩波文庫)を挙げています。
Wikipediaに引用されている部分に語られているのは、入浴を終えたあと厠へ立ち、戻る途中で倒れていたこと、海舟が「死ぬかも知れないよ」と言ったこと、生姜湯を求めたが間に合わずブランデーが運ばれたことです。
注目したいのは、Wikipediaに引用されているこの部分には病名が出てこないことです。そばにいた人物が見たままを語ったものであり、診断ではありません。
ここを混ぜてしまうと、「女中が脳溢血の場面を証言した」という、実際より強い話ができあがります。病名は事典、場面は談話。出典は別だと押さえておくのが正確です。
なお本記事は、『海舟座談』の該当箇所も直接確認していません。確認できたのは、この談話をウェブ上で引用している記事までです。

増田糸子さんの談話には病名が出てきません。この書き残され方をどうお考えですか。

そばにいた者が語れるのは、見たことだけさ。名を付けるのは、後から調べる者の仕事だろうよ。
書いてねえところを埋めたがるのが人情ってもんだがね。空いた升目に、いちばんおさまりのいい話をはめ込みたくなる。
おれのことなら、埋めずに空けておいてくれて構わねえよ。
③ ブランデーは「飲んだ直後」か「死に水代わり」か
細部でいちばん食い違っているのが、ブランデーの位置づけです。同じ場面を描いているはずなのに、記事によって順番が入れ替わっています。
Wikipediaは、生姜湯が間に合わずに運ばれたブランデーを飲んだ直後に意識を失った、という書き方をしています。この記述にも、出典として服部敏良の事典が示されています。
これに対してBUSHOO!JAPANの記事は、ブランデーを死に水代わりに口へ含ませられて死去した、と書いています。こちらでは意識のない海舟に、周囲が含ませたことになります。
出来事の順番と、意識があったかどうかの読み取りが違います。本記事が確認できた範囲では、どちらが正しいかを決められる材料はありませんでした。
なお、ブランデーが死因になったかのように読める書き方も見かけます。少なくとも、ブランデーと死亡との因果関係を示す根拠は確認できませんでした。

ブランデーについて、飲んだ直後に意識を失ったとするものと、すでに意識のないあなたの口へ含ませたとするものがあります。この読み分けをどうお考えですか。

同じ場に居合わせた者の話でも、後から書き取れば前後が入れ替わることはあろうよ。
まして酒の一件は、話として据わりがいい。据わりがいい話ほど、形が整っていくもんさ。
どっちが先だったかを決めろと言われても、おれには請け合えねえ。
④ 一部の記事が1月21日とするのはなぜか
没日について、国立国会図書館・国史大辞典の項目紹介・大田区は、いずれも明治32年1月19日で一致しています。公的な資料の間で説が割れているわけではありません。
これに対して、葬儀社のコラムなど一部の二次記事は1月21日午後としています。年齢も76歳と書かれており、満年齢とも数え年とも合いません。
1月21日とする根拠は示されておらず、どこから来た表記なのかは分かりませんでした。
傍証になるのが、叙位の日付です。死の翌日にあたる明治32年1月20日付で、勝安芳への特旨叙位を裁可した公文書が国立公文書館に所蔵されています。
件名は「枢密顧問官従二位勲一等伯爵勝安芳特旨叙位ノ件」。この日付は1月19日死去と整合します。
ただし、贈られた位が正二位であることは、本記事ではWikipediaの記述によります。件名から読み取れるのは叙位前の従二位までで、文書の現物までは確認していません。
以上から、本記事では1月19日を没日として採ります。一部の記事にある1月21日の表記については、その由来までは確認できませんでした。

没日の表記が資料によって食い違っています。どうご覧になりますか。

日付ってのは、書き写されるうちにずれることもあるもんだ。人の口を渡ればなおさらだろうよ。
どっちが正しいかは、古い記録を持っている者に当たるしかあるまい。
おれのほうから、この日だと言い張るつもりはねえよ。
勝海舟の最期|晩年から葬送までの経緯
死の前後に何が起きていたのかを、時系列で並べてみます。晩年の海舟は赤坂氷川の邸で過ごし、政府の依頼で『吹塵録』『海軍歴史』『陸軍歴史』などの編纂に関わっていました。
跡取りをめぐる問題も抱えていました。長男の小鹿を亡くしたあと、旧主である徳川慶喜の十男・精を、小鹿の長女伊代子の婿養子として迎える話が進みます。
| 年月日 | 出来事 | 解説 |
|---|---|---|
| 明治25年(1892年)2月8日 | 長男・勝小鹿が死去 | 男子がなく、勝家の相続が課題となる |
| 明治30年(1897年)11月19日 | 徳川慶喜が静岡から東京へ移る | 巣鴨に居を構える |
| 明治31年(1898年)3月2日 | 慶喜が宮城に参内し、明治天皇に拝謁 | 大政奉還から30年余りを経ての対面 |
| 明治32年(1899年)1月19日 | 死去(入浴後に倒れたと伝わる) | 満75歳(数え77歳)。公的資料が一致して採る日付 |
| 明治32年1月20日 | 特旨により叙位(正二位とされる) | 同日付の裁可書が国立公文書館に所蔵。正二位という位階と法名はWikipediaの記述による |
| 明治32年(1899年) | 青山葬祭場で葬儀。遺骨は洗足池畔へ | 生前の希望に沿って埋葬された |
| 明治32年(1899年)11月 | 五輪塔形の墓石が完成 | 石工は鈴木猛麟。海舟自身が描いた図をかたどったとされる |
この年表で目を引くのが、死の10か月ほど前に慶喜の参内があったことです。大政奉還から30年余りを経ての対面でした。
もっとも、この一件と海舟の死を因果でつなぐことはできません。参内から死去までの間に何を思っていたかを伝える記録に、本記事はたどりついていません。
なお、慶喜が公爵に叙されるのは明治35年(1902年)で、海舟の死から3年後にあたります。海舟が見届けた出来事ではありません。

こうして並べられると、妙な心持ちがするもんだな。
慶喜公の一件を、そのころおれがどう受け止めたかを伝える書きつけは残っておらんそうだ。区切りらしきものがついた話には聞こえるがね。
そのあとどうなったかは、おれの知らねえ話だ。あの世の噂までは聞いちゃいねえよ。
「コレデオシマイ」は本当に最期の言葉だったのか
勝海舟の最期を語るとき、決まって引かれるのが「コレデオシマイ」という言葉です。潔さと飄々(ひょうひょう)とした人柄が凝縮された一言として、繰り返し紹介されてきました。
ところが、この言葉の直接の出典は、本記事が確認した範囲では特定できませんでした。増田糸子の談話として引用されている部分にも、この言葉は含まれていません。
- 広く流布している:伝記記事、葬儀社のコラム、名言サイトが共通して紹介している
- 引用されている部分には含まれていない:『海舟座談』を出典として掲載されている増田糸子の談話の引用部分に、この言葉は出てこない
- 評価と出典は別:作家の山田風太郎が『人間臨終図巻』でこの言葉を高く評したことは紹介されているが、それは評価であって出典ではない
こうして並べると、この言葉は「確かに言った」と証明されたものではなく、広く語り継がれてきたものだと分かります。存在しなかったという意味ではありません。直接の出典まで確かめられていない、ということです。
墓所についての遺言も同じ性格を持っています。大田区は、生前の希望に従って洗足池畔に埋葬されたと説明しています。ただし、遺言そのものの文面までは本記事では確認できていません。

『コレデオシマイ』が、あなたの最期の言葉として広く伝わっています。この伝わり方をどうご覧になりますか。

そいつぁ、おれが言ったかどうかを、おれが証したところで仕方があるまい。
ただ、いかにも言いそうな言葉だと思われているってのは、悪い気はしねえな。人ってのは、その者らしい言葉を最期に置きたがるもんさ。
らしいかどうかと、言ったかどうかは、別の話だがね。
勝海舟の死後、勝伯爵家はどうなったのか
海舟の死後、勝家を継いだのは徳川慶喜の十男・勝精(かつ くわし)でした。長男・小鹿の長女である伊代子の婿養子として迎えられた人物です。
旧幕臣・勝海舟の家に、旧主・徳川慶喜の子が入る組み合わせでした。跡取りを失った海舟の判断が関わっていたとされます。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 家督を継いだ人物 | 勝精(徳川慶喜の十男)。海舟の死後、勝伯爵家を相続 |
| 精の妻 | 勝伊代子(1888年〜1922年)。小鹿の長女 |
| 海舟の妻・たみの没年 | 1905年(明治38年) |
| 海舟の妻・たみの墓 | 当初は青山墓地。戦後に洗足池畔へ移された |
| 別荘「洗足軒」 | 海舟の死後は子の梶梅太郎が墓守を兼ねて住んだ。のちに移築された |
注目したいのは、たみの墓が長く別の場所にあったことです。夫妻の墓が洗足池のほとりにそろうのは、海舟の死から半世紀ほど後のことでした。
現在、洗足池のほとりには大田区立勝海舟記念館があります。国登録有形文化財の旧清明文庫を活用した施設で、令和元年(2019年)9月7日に開館しました。
清明文庫は、海舟に関する図書を収集・閲覧し、講演などを行う施設として設けられました。海舟の没後に生まれた建物であり、本人が知る由もありません。

跡取りのことは、生きているうちからずいぶん頭を悩ませたよ。
だが、その後どうなったかは、おれの見届けられなかった話さ。誰が家を継いで、どこに墓が並んだかまでは、おれの知らねえところだ。
おまえさんたちが調べたことを、こうして聞かせてもらうくらいがちょうどいい。
勝海舟の墓所|洗足池のほとりに眠る理由
勝海舟夫妻の墓は、東京都大田区南千束の洗足池公園にあります。大田区の区指定文化財です。
海舟がこの地を気に入っていたことは、複数の資料が伝えています。慶応4年(1868年)、江戸城明け渡しの談判で池上本門寺へ向かう道すがら、洗足池のほとりで休息したとされます。
- 明治12年(1879年):西郷隆盛をしのぶ留魂詩碑を建立(当初は葛飾の木下川浄光寺境内)
- 明治24年(1891年):洗足池のほとりに別荘「洗足軒」を構える。33坪ほどの農家風の建物だったと伝わる
- 明治32年(1899年):生前の希望に従い、洗足軒の近くに葬られる
- 大正2年(1913年):留魂詩碑が洗足池へ移される(海舟の没後)
墓石は簡素な五輪塔の形で、海舟自身が描いた図をかたどったとされます。水輪部分の「海舟」の文字は、徳川家達(いえさと)公爵の揮毫(きごう)によるものです。
海舟の墓のそばに西郷の碑が並ぶ現在の姿は、海舟の没後にできあがったものです。碑が建てられたのは葛飾の寺の境内で、洗足池へ移されたのは大正2年のことでした。

あなたが建てた西郷隆盛の留魂詩碑が、いまは洗足池のほとりにあります。

碑を建てたのは葛飾の寺の境内だよ。あれが池のそばへ移されたってのは、おれの知らねえ話さ。
洗足池はいい土地でね。江戸を明け渡す談判に向かう道すがら、あの池のほとりで休んだと伝わっているらしい。
そこへ西郷の碑まで来ているとなりゃあ、なんとも妙な取り合わせだな。
勝海舟は何をした人だったのか|生涯のふり返り
死因からこの記事にたどりついた方のために、生涯を短くまとめておきます。勝海舟は幕末から明治にかけて活動した幕臣・政治家です。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 名前 | 勝海舟(本名は勝義邦、のち勝安芳。通称は麟太郎) |
| 生没年 | 1823年〜1899年(満75歳没・数え77歳) |
| 出身 | 江戸本所(現在の東京都墨田区) |
| 主な功績 | 咸臨丸での渡米、海軍の基礎づくりへの関与、江戸城明け渡しの交渉 |
| 晩年 | 赤坂氷川に住み、『吹塵録』『海軍歴史』などの編纂に関わる |
万延元年(1860年)には咸臨丸の艦長として太平洋を渡りました。自身の建言を受けて幕府が設けた神戸海軍操練所には、坂本龍馬をはじめとする人材が集まっています。
慶応4年(1868年)には西郷隆盛と会談し、江戸城の明け渡しをまとめました。明治政府では海軍大輔や参議兼海軍卿などを務め、明治20年(1887年)に伯爵となっています。
晩年の談話をもとに編まれた『氷川清話』は、いまも読み継がれています。生涯をもう少し詳しく知りたい方は、こちらの記事もあわせてどうぞ。
よくある質問(FAQ)
勝海舟の死因は何ですか?
脳溢血(現在でいう脳出血)とされています。Wikipediaはこの記述の出典として、服部敏良『事典 有名人の死亡診断 近代編』を挙げています。一方、国史大辞典の項目紹介や大田区の解説は、具体的な病名を記していません。
勝海舟は何歳で亡くなりましたか?
満75歳です。数え年では77歳にあたり、国史大辞典の項目紹介も「七十七歳」と記しています。76歳と書く資料も見かけますが、満年齢とも数え年とも合いません。
勝海舟が亡くなったのはいつですか?
明治32年(1899年)1月19日です。国立国会図書館、国史大辞典の項目紹介、大田区の解説がいずれもこの日付で一致しています。一部の二次記事に1月21日とする記載がありますが、その由来は確認できませんでした。
勝海舟はどこで亡くなりましたか?
東京・赤坂氷川の自邸とされています。晩年の海舟はこの地で過ごし、政府の依頼を受けて幕府の記録の編纂にあたっていました。
最期の言葉「コレデオシマイ」は本当ですか?
広く最期の言葉として伝わっていますが、直接の出典は本記事では特定できませんでした。増田糸子の談話の引用部分にも、この言葉は含まれていません。確認できていないことと、言わなかったことは別です。
勝海舟の墓はどこにありますか?
東京都大田区南千束の洗足池公園内にあります。妻・たみとの夫妻の墓で、大田区の区指定文化財です。すぐ近くには、海舟が建てて後年この地へ移された西郷南洲留魂詩碑があります。
インタビュー後記|勝海舟の最期から見えてくるもの
今回は海舟AIに登場してもらい、その死因と最期をたどりました。
調べていていちばん驚いたのは、病名と倒れた場面には別々の出典が示され、最期の言葉には直接の出典が見つからなかったことでした。ひとまとめに語られていると、どれも同じ確かさに見えてしまいます。
病名には死因を主題にした事典が示されている。倒れた場面には、そばにいた人物の談話がある。そして最期の言葉には、本記事の調べた範囲では直接の出典が見つかりませんでした。
「コレデオシマイ」が海舟らしいことと、この言葉を確かに言ったことは、切り分けて扱う必要があります。切り分けたうえでなお、洗足池のほとりに残された墓は静かなものでした。
同じ人物の言葉について調べた記事もあります。あわせてどうぞ。
参考資料
- 国立国会図書館「勝海舟|近代日本人の肖像」※生没年月日(文政6年1月30日=1823年3月12日、明治32年1月19日)と経歴の根拠
- ジャパンナレッジ「勝海舟|国史大辞典・世界大百科事典」※国史大辞典が「明治三十二年一月十九日死去。七十七歳」と葬地を記す一方、具体的な病名を記していないことの根拠
- 国立国会図書館 国際子ども図書館「勝 海舟(かつ かいしゅう)|中高生のための幕末・明治の日本の歴史事典」※生没年月日の西暦換算と経歴の根拠
- 吉川弘文館「事典 有名人の死亡診断 近代編」(服部敏良著、2010年)※Wikipediaが勝海舟の死去の記述の出典として挙げる書籍。本記事は同書を直接確認しておらず、書誌情報を確認したにとどまります
- 岩波書店「新訂 海舟座談」(巌本善治編・勝部真長校注)※Wikipediaが増田糸子の談話の出典として挙げる書籍。本記事は該当箇所を直接確認していません
- アジア歴史資料センター「枢密顧問官従二位勲一等伯爵勝安芳特旨叙位ノ件」(国立公文書館所蔵、請求番号 叙00073100、『叙位裁可書・明治三十二年・叙位巻一』所収)※明治32年1月20日付で勝安芳の特旨叙位が裁可されたことの根拠。本記事が確認したのは目録情報(件名・年月日)で、文書の現物は確認していません
- 大田区「勝海舟夫妻の墓」※区指定文化財であること、生前の希望による埋葬、葬儀後に遺骨が青山葬祭場から現在地へ送られたこと、五輪塔形の墓石と石工・鈴木猛麟、徳川家達の揮毫、妻・たみの墓が戦後に青山墓地から移されたことの根拠
- 大田区「勝海舟と大田区」※「享年:77歳(病死)」という記載、洗足軒の造営と規模、子の梶梅太郎が墓守を兼ねて住んだこと、清明文庫の設立経緯の根拠
- 大田区「西郷南洲留魂詩碑」※明治12年7月30日に勝海舟が葛飾の木下川浄光寺境内に建立し、大正2年に洗足池へ移されたことの根拠
- 大田区「大田区立勝海舟記念館」※令和元年9月7日の開館と、国登録有形文化財の旧清明文庫を活用していることの根拠
- 講談社「明治天皇と徳川慶喜の酒盛り、二人で語った本音とは?」(久住真也『王政復古 天皇と将軍の明治維新』の紹介記事)※明治天皇と徳川慶喜の対面についての根拠
- BUSHOO!JAPAN「なぜ勝海舟は明治維新後に姿を消したのか?最期の言葉『コレデオシマイ』」※ブランデーを死に水代わりに含ませたとする記述があることの確認
- 刀剣ワールド「勝海舟の歴史」※風呂上がりに手洗いへ立ち寄った際に倒れたとする記述があることの確認
- 家族葬のみやび「最後の言葉は『これでおしまい』?不屈のヒト 勝海舟の最期」※没日を1月21日午後、年齢を76歳とする記述があることの確認
- Wikipedia「勝海舟」※補助的に参照。死去の記述に服部敏良『事典 有名人の死亡診断 近代編』、増田糸子の談話に『海舟座談』が出典として挙げられていること、山田風太郎『人間臨終図巻』が注釈で紹介されていること、贈られた位が正二位であること、法名、晩年の編纂事業は、本記事ではこの記述に拠っています
- Wikipedia「勝小鹿」※補助的に参照。小鹿の没年月日(明治25年2月8日)と、勝精が海舟の死後に勝伯爵家を相続したことは、本記事ではこの記述に拠っています
- Wikipedia「徳川慶喜」※補助的に参照。明治30年11月19日の東京移住、明治31年3月2日の参内、明治35年6月3日の公爵叙爵は、本記事ではこの記述に拠っています





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