幕末の本を読んでいると、孝明天皇の死は、たいてい一行で片づけられています。「慶応2年12月、天然痘で急死」。そして、そのすぐあとに「毒殺説もある」と添えられていることが多いのです。
この「毒殺説もある」が、ずっと気になっていました。誰が、いつ、何を根拠に言い出したのか。そこまで書いてある本は、意外なほど少ないからです。
この記事の結論
孝明天皇が暗殺されたと断定できる史料は、乏しいのが現状です。 当時公にされた病名は痘瘡(とうそう。天然痘のこと)です。歴史学者の町田明広は2022年の記事で、病死説が優勢とみています。ただし、決着はついていません。
毒殺説は崩御の直後からささやかれていたとする記述がある一方、いつ噂が生まれたのかは慎重にみる必要があります。歴史学の論文として本格的に論じられたのは戦後です。1989年に原口清が病死説を示してからも論争があり、決着はついていません。
黒幕として名前の挙がる岩倉具視については、疑いがかけられたことは事典に書かれています。けれども、本記事が確認した範囲では、関わったことを示す直接の史料は示されていません。
- 満35歳
数え年では36歳(享年36) - 13日
12月12日の発症から、一般に崩御の日とされる25日まで - 1867年1月30日
慶応2年12月25日とされる崩御の日。29日辰刻の崩御とする達も残る
この記事では、研究史で主に論じられてきた2つの説(天然痘による病死・毒殺)と、それとは別に語られる刺殺の主張を一覧にし、それぞれの根拠が一次史料なのか、後世の伝聞なのかを分けて確かめます。論争の流れと、事典ごとの書き方の違いも並べました。
2027年の大河ドラマ『逆賊の幕臣』では、孝明天皇を眞栄田郷敦さんが演じることが発表されています。放送を前に、史料で確かめられることと、確かめられないことの境目を整理しておきたいと思いました。
語り手として、孝明天皇AI(孝明天皇をモデルにしたAI)にも登場してもらいます。分からないことは分からないと答える、慎重な語り口の対話としてお読みください。
※以下のインタビュー部分は、公開されている史料をもとに孝明天皇の人物像を再現した創作です。史料で確認できない心情や受け止め方を補った創作的な対話であり、実際の発言をそのまま掲載したものではありません。
出典の確かめ方と、公開前に行っているチェックは編集方針にまとめています。

本日はよろしくお願いいたします。
崩御ののち、あなたは暗殺されたのではないかという説が語られてきました。まず、この噂をどうお聞きになりますか。

そなたらの世では、朕の死をめぐって、そのような話が語り継がれておるのか。
されど、己の死にざまを語れるほど、確かな記憶も記録も、朕は持ち合わせておらぬ。
確かめる術のないことは、ないままに置くがよい。そのうえで、そなたの問いには一つずつ向き合うぞ。
孝明天皇は暗殺された?病死説・毒殺説と刺殺の主張を一覧で確認
本記事で確認した研究史では、主に天然痘による病死説と、砒素(ひそ)などによる毒殺説の2つが論じられてきました。 これとは別に、伊藤博文が刃物で刺したとする主張もありますが、本記事が確認した事典・研究論文には出てきません。
根拠の確かさは大きく違います。病死説と毒殺説は、主として同時期の病状記録の読み方をめぐって争われてきました。刺殺の主張は、本記事が確認した範囲では裏づけとなる記録が示されていません。
| 説・主張 | 内容 | 主な根拠 | 評価(本記事が確認した範囲) |
|---|---|---|---|
| ① 天然痘による病死 | 痘瘡にかかり、悪性の型に進んで亡くなった | 『孝明天皇紀』『中山忠能日記』、朝廷の達・京都の町触 | 町田明広(2022年)は優勢とみる。ただし決着はしていない |
| ② 毒殺 | 回復に向かっていたところで急変したのは、砒素などの毒による | 同時期の病状記録の読み直しに加え、侍医・伊良子光順の日記、サトウの回想など | 研究者の間で論争が続いた。実行者を示す直接の史料は示されていない |
| (参考)③ 刺殺の主張 | 厠(かわや)で刃物により刺されたとする | 1998年刊の一般書(本記事は書誌・目次のみ確認)と、それを出典に挙げる個人ブログ | 本記事が確認した事典・研究論文では、研究上の説として確認できない |
この表で押さえておきたいのは、①と②は、主に同時期の病状記録をどう読むかで分かれていることです。ただし毒殺説では、伊良子光順の日記や後世の証言なども論拠に加えられてきました。
少なくとも本記事が確認した範囲では、どちらかを決定づける新たな一次史料は示されていません。
一方、③の刺殺の主張は根拠の性格がまったく違うため、表では参考として分けました。同じ「暗殺説」の名でくくられがちですが、ここは分けて考える必要があります。

死にまつわる話とひとまとめにされておるが、根の違うものが混じっておるのであろうな。
病の記録をどう読むかを軸に争われてきたのが、病と毒の二つ。刃の話は、拠るべき記録がそなたらの世で示されておらぬ。
束ねて『暗殺の噂』と呼べば、いずれも同じ重さに見えてしまう。そこは分けて聞かれよ。
孝明天皇の死因を史料から検証する
史料をめぐって本格的に争われてきたのは、①病死説と②毒殺説です。 ③の刺殺の主張も、どこまで確認できるかを見ておきます。読み解く前に、押さえておきたい前提が3つあります。
- 公にされた病名は疱瘡(痘瘡):京都の町触に「禁裏御疱瘡ニ付」とあり、天皇の病が疱瘡として町中に触れ出されていた
- 争点は24日夜の急変:回復に向かうと記された直後の急変を、病気の悪化とみるか、毒とみるかで説が分かれる
- 現代の病名を当てはめる限界:残るのは症状の記述であり、現代の医学で診断した記録ではない
同じ時期の記録を読んでいても、どこに重きを置くかで結論が変わります。1つずつ見ていきます。
① 天然痘による病死説|紫斑性痘瘡とみる見方
天皇の病は、当時から疱瘡(痘瘡)として公にされていました。 國學院大學図書館が所蔵する写本の翻刻には、京都の町触として次の一文が写されています。
禁裏御疱瘡ニ付、御所近辺は勿論、洛中洛外裏借屋ニ至迄、火之元別而入念候様可相触もの也
現代語訳天皇が疱瘡にかかられたので、御所の近辺はもちろん、京の町の裏長屋に至るまで、火の元にとりわけ念を入れるよう触れ知らせること。
出典:岡谷成康「國學院大學図書館所蔵『仁孝天皇崩御之記付孝明天皇崩御之記 仁孝天皇御養母』の解題と翻刻」(2018年)
歴史学者の町田明広によれば、発症は12月12日で、17日に天然痘と公式に公表されました。18日の晩には紫色の発疹が数か所見られたとされます。
町田はこの紫色の発疹を「悪性であり、病死説の大きな拠り所」と書いています。天然痘には、皮膚や粘膜に出血を起こす重い型があることが知られています。
病死説を強く押し出したのが、原口清「孝明天皇の死因について」(『明治維新史学会報』第15号、1989年)です。町田の紹介では、原口は死因を「悪質な紫斑性痘瘡、または出血性濃疱性痘瘡」としました。
「濃疱性」の表記は町田の記事のままです。医学用語としては「膿疱性」と書くのが一般的で、本記事は原口論文の原文を確認していません。
『史学雑誌』の1989年の研究動向の回顧は、毒殺説を「幕末政治史を考えるうえで暗黙の前提となった感のある」説と呼んだうえで、この論文が「関係史料を再点検して明快に否定している」と紹介しています。
ただし、ここで言う病名は、残された症状の記述を現代の医学に当てはめた解釈です。当時の侍医が現代の病名で診断した記録があるわけではありません。

紫色の発疹が、病死説の大きな拠り所とされています。症状の記録から死因を読み解くことを、どうご覧になりますか。

紫の斑が出た、と書き残されておるそうな。朕がそれを語れば、見てきたように聞こえよう。
書き留めたのは侍医と公卿であって、そなたらの世の医の名で診た記録ではあるまい。
残された文字から病の名を定めるには、文字の側に限りがある。そのことを忘れずに読むがよいぞ。
② 毒殺説|急変は砒素によるものとみる見方
毒殺説の中心にあるのは、回復に向かっていたはずの急変です。 町田の整理では、21日の『中山忠能日記』に「御順道(順調に経過している)」とあり、23日には発疹の膿が収まってかさぶたになり始めたとされます。
24日も、公式には「益々御機嫌よく」と報告されていました。ところがその夜中から容態が急変し、25日に崩御します。
この経過を、病気では説明しにくいとしたのが、ねずまさし「孝明天皇は病死か毒殺か」(『歴史学研究』第173号、1954年)です。町田によれば、死因を急性の毒物中毒と主張しました。
さらに、侍医の一人だった伊良子(いらこ)光順の曾孫・伊良子光孝が、1975年から医史学の雑誌『医譚(いたん)』で光順の拝診日記を紹介します。町田は、そこに毒殺を疑う記述が含まれると光孝が指摘した、と書いています。
外国人の証言として、よく引かれるのがイギリスの外交官アーネスト・サトウの回想録 “A Diplomat in Japan”(1921年、邦訳『一外交官の見た明治維新』)です。1867年2月、兵庫で崩御の知らせを聞いた場面に、次の一節があります。
Rumour attributed his decease to smallpox,
but several years afterwards I was assured by a Japanese well acquainted with what went on behind the scenes
that he had been poisoned.
[…]
In connexion with the Mikado I certainly never heard any such suggestion at the time.
現代語訳噂では死因は天然痘とされたが、数年後、内情に通じた日本人から、毒殺だったと請け合われた。(中略)帝については、当時そのような話を耳にしたことはたしかになかった。
出典:Ernest Satow “A Diplomat in Japan”(1921年)p.186
省いた部分でサトウは、天皇が外国人への譲歩に強く反対していたため、幕府の崩壊を見越した人々に除かれたのだという、聞かされた話の中身を書いています。
そのうえで最後の1文にあるとおり、サトウ自身は崩御の当時、毒殺の話を聞いていません。毒殺と聞いたのは数年後で、話し手の名も記されていません。
町田明広は、毒殺説が崩御の直後からささやかれていた例としてこの回想を挙げています。しかしサトウ自身は、当時は聞かなかったと書いています。この回想からは、噂がいつ生まれたのかまでは決められません。
石井孝も『幕末非運の人びと』(有隣新書、1979年)で、死因を急性砒素中毒とする説を示しました。近年では、作家の中村彰彦が『孝明天皇毒殺説の真相に迫る』(中央公論新社、2023年)を出しています。
また、本記事は伊良子光順の日記の原文を確認していません。毒殺説も病死説も、主として同時期の病状記録の読み方をめぐって争われてきた、という点は押さえておく必要があります。

『御順道』と記された数日後に急変しています。同じ記録から病死とも毒殺とも読まれていることを、どうお考えですか。

『御順道』と記されたのち、数日で急変が記される。同じ日々の記録であることに、まず目を留めるべきであろう。
病が良うなると見えたのちに崩れたのを、病そのものの転じと読むか、外から加えられたものと読むか。
そのどちらにも、朕は寄らぬ。寄れるだけの拠りどころを、記録は与えておらぬのであろう。
③ 刺殺の主張|伊藤博文が刺したという話はどこまで確認できる?
刺殺の主張は、本記事が確認した事典・研究論文には出てきません。 伊藤博文が厠にひそみ、手洗いに立った天皇を床下から刀で刺したとする話で、本記事が確認した個人ブログで紹介されています。
このブログは、話の出典として、鹿島曻・宮崎鉄雄・松重正『明治維新の生贄』(新国民社、1998年)と、宮崎鉄雄の父が遺した言葉を挙げていました。本記事では、同書の書誌と目次までは確認しましたが、本文は確認していません。
CiNii Booksに載る同書の目次には、次の項目があります。
徳川慶喜と伊藤博文の秘密(伊藤博文の天皇暗殺と父渡辺平左衛門;徳川慶喜とその周辺)
出典:CiNii Books『明治維新の生贄 : 誰が孝明天皇を殺したか : 長州忍者外伝』目次
ただし、厠で刺したという具体的な記述が同書にあるかどうかは、確認できていません。
話の裏づけとなる記録は、本記事が確認した範囲では示されていません。
ただ、伊藤博文と孝明天皇の死を結びつける話そのものは、明治の終わりにはすでにありました。1909年に伊藤を撃った安重根(アン・ジュングン)が、最初の訊問で挙げた理由の中に含まれています。
立命館大学の勝村誠が現代語に改めた訊問調書では、第十四に「今から四十二年前に現在の日本皇帝の父にあたる方を伊藤さんが亡きものにしました」とあります。
これは、伊藤が関わったことの証拠ではありません。安重根がそのように述べた、という記録です。少なくとも、1909年の時点で安重根がそのような認識を述べていたことは確認できます。

刺されたという話まで伝わっています。確かめようのない噂が生まれることを、どうお感じになりますか。

刃で刺された、とまで語られておるとは。裏づける記録も、そなたらの世では示されておらぬそうな。
ここからは記録に拠らぬ、創作の物言いと思うて聞かれよ。人の死が政の節目に重なれば、話は勝手に育つものであろう。
噂を憎むより、出どころをたどるほうがよい。それだけは、朕も申しておきたいぞ。
孝明天皇を暗殺したとされるのは誰?岩倉具視黒幕説はどこから来たのか
岩倉具視が関わったことを示す直接の史料は、本記事が確認した範囲では示されていません。 ただし、疑いがかけられたこと自体は事典に書かれています。『改訂新版 世界大百科事典』(田中彰執筆)の岩倉具視の項は、次のように記します。
「66年(慶応2)末の孝明天皇の急死では,毒殺説が流布し,岩倉に疑惑がかけられた」。つまり、疑いがかけられたという事実と、実際に関わったという事実は別の話です。
- 文久2年(1862年):朝廷内の尊攘派の台頭で辞官・落飾し、洛北の岩倉村に幽棲する
- 慶応2年(1866年):政治活動が活発になり、幕府の命で桑名藩に監視される。この年、孝明天皇が崩御
- 慶応3年(1867年):洛中へ戻ることを許され、王政復古に力を尽くす
公式年表によれば、崩御の年、岩倉は京都の中心から離れた村に住み、幕府の命で桑名藩の監視を受けていました。黒幕説では、宮中にいる身内の女官を通じて毒を盛らせた、という筋書きが語られます。
実行役とされる人物は、資料によって説明が分かれます。東京新聞の書評(長山靖生評、2023年)によれば、毒殺説が表立って論じられたのは昭和15年(1940年)です。
同じ書評は、医史研究家の佐伯理一郎が、岩倉が妹で女官の堀河紀子(ほりかわ もとこ)を操り、毒を盛ったとの論考を発表したと紹介しています。
ただし同じ書評は、この説に次のように書き添えています。
ただし紀子は孝明天皇が病床に伏した頃は、すでに御所を下がって落飾しており、この説は成り立たない。
出典:東京新聞「<書評>『孝明天皇毒殺説の真相に迫る』中村彰彦 著」(長山靖生評、2023年10月8日)
一方、国立国会図書館のレファレンス協同データベースに載る図書館の回答は、ねずまさし『天皇家の歴史 下』(1973年)の内容として、佐伯が伊良子の日記を検討した結果「岩倉具視の姪が天皇に毒を盛った説」を挙げ、ねずがそれを支持した、と紹介しています。
佐伯の説を、妹とするか姪とするかで、資料の説明が食い違っていることになります。本記事では、どちらが正しいかは決められません。
岩倉は崩御の翌年、明治天皇のもとで勅勘(天皇のとがめ)を許され、王政復古に力を尽くします。ただし、「崩御のあとに岩倉が復帰した」ことと、「岩倉が崩御を仕組んだ」ことは、つながりません。前者は記録に残る事実で、後者はそこからの推測です。
動機の面から疑問を示した研究もあります。原口清「孝明天皇と岩倉具視」(『名城商学』39巻別冊、1990年)です。
『史学雑誌』の1990年の回顧は、この論文を「孝明天皇毒殺の時点では佐幕派が公家内部で主導権を握り、武力倒幕派はいまだ誕生していないとする」と紹介しています。

崩御ののち、岩倉具視に疑いがかけられたと事典は書いています。岩倉という人物のことを、どう覚えておいでですか。

岩倉のことを覚えておるか、と問うか。その人となりを朕の口から語れば、それもまた一つの証のように扱われよう。
疑いを重くするのも軽くするのも、朕の言葉であってはならぬ。
崩御のころ、あの者は都を離れた村におったと、そなたらの世に残る年譜は伝えておる。疑いがかけられたことと、まことに手を下したかどうかとは、別に置いて読まれよ。
毒殺説はいつ誰が唱えたのか|論争の流れを年表で確認
毒殺説は、噂として語られたのち、昭和に入って研究者の論争になりました。 論文と本の刊年を、書誌で確かめられた範囲で並べます。
| 年 | 出来事 | 備考 |
|---|---|---|
| 1867年以降 | 毒殺の噂が流れたとされる | 事典や東京新聞の書評は「当時」「直後から」とする。噂がいつ生まれたかは慎重にみる必要がある |
| 1909年 | 安重根が訊問で、伊藤博文が孝明天皇を亡きものにしたと述べる | 訊問調書の現代語訳(勝村誠) |
| 1921年 | アーネスト・サトウ “A Diplomat in Japan” 刊 | 数年後に日本人から毒殺と聞かされたと記す |
| 1940年 | 佐伯理一郎が日本医史学会関西支部大会で毒殺の論考を発表 | 実行役を堀河紀子とする紹介と、姪とする紹介がある |
| 1949年 | 吉田常吉「孝明天皇崩御をめぐつての疑惑」(『日本歴史』16号) | 本記事は内容を確認していない |
| 1954年 | ねずまさし「孝明天皇は病死か毒殺か」(『歴史学研究』173号) | 毒殺説を学問的に論じた論文とされる |
| 1975年 | 伊良子光孝が光順の拝診日記の紹介を始める(『医譚』47号) | 毒殺を疑う記述が含まれると指摘 |
| 1979年 | 石井孝『幕末非運の人びと』(有隣新書) | 急性砒素中毒とする説 |
| 1989年 | 原口清「孝明天皇の死因について」(『明治維新史学会報』15号) | 紫斑性痘瘡などによる病死とする |
| 1990〜91年 | 石井孝と原口清の論争 | 町田明広の紹介による |
| 2023年 | 中村彰彦『孝明天皇毒殺説の真相に迫る』(中央公論新社) | 急性砒素中毒とし、黒幕と実行犯を推定する |
本記事が確認した範囲では、毒殺説が歴史学の論文として出てくるまでに、崩御から80年以上かかっていることになります。町田は、天皇の暗殺の可能性を人前で論じられる雰囲気ではなく、活発な議論は戦後のことだと書いています。
国立国会図書館のレファレンス協同データベースに載る図書館の回答も、『日本近代史の虚像と実像1』(藤原彰ほか編、1990年)を引く形で、ねずの研究を「これにより毒殺説ははじめて学問的水準に引き上げられた」と紹介しています。

朕の死から八十年あまりを経て、ようやく歴史の学者の論文に上るようになった、と。
天子の死を人前で問える世ではなかったのだ、と、そなたらの世の学者は見ておるそうな。
長く問われなかったからといって、噂が真になるわけでも、消えるわけでもない。年を追って見れば、そのことがよう分かるぞ。
病死説と毒殺説、研究者・事典はどう評価している?
町田明広は2022年の記事で病死説が優勢とみていますが、決着はしていません。 町田は「決定的な一次史料が発見されなければ、いずれかに断定することは困難である」と書き、自身は病死説が有力と判断しつつも「最終決着ということではない」としています。
事典の書き方も、ひとつにそろっていません。コトバンクに収録された事典5点の記述を並べます。
| 事典 | 死因の書き方 |
|---|---|
| 山川 日本史小辞典 改訂新版 | 「痘瘡で死去」 |
| 旺文社日本史事典 三訂版 | 「疱瘡で急死したが,毒殺説もある」 |
| 百科事典マイペディア | 「疱瘡で没したが,病気回復中の急死であったため,当時倒幕派による毒殺説が流れた」 |
| 日本大百科全書(河内八郎) | 「陰謀による毒殺との説が有力視された」 |
| 改訂新版 世界大百科事典(羽賀祥二) | 「病状が回復しつつあったときの急死のため毒殺の可能性が高い」 |
同じ出来事でも、痘瘡と書くだけの事典から、毒殺の可能性が高いと書く事典まで幅があります。どの事典を引くかで、読者の受ける印象はかなり変わるはずです。
事典は執筆された時期も執筆者も違います。本記事では、どれか1つの書き方に寄せず、並べて示すことにしました。

同じ死を記して、痘瘡とだけ書く書もあれば、毒の疑いが濃いと書く書もある、と。
書き手が違い、書かれた時も違うのであれば、同じ一行でも重みは違ってこよう。
どの一行を手に取るかで、朕という者の死の見え方まで変わる。一つだけを信じず、並べて読むがよい。
孝明天皇の最期|発症から崩御までの13日間
孝明天皇は慶応2年12月12日に発症し、一般には25日に崩御したとされています。 将軍・徳川慶喜の就任から、わずか20日後のことです。町田明広の整理と、國學院大學所蔵の写本の翻刻をもとに並べます。
| 年月日 | 出来事 | 解説 |
|---|---|---|
| 慶応2年12月5日(1867年1月10日) | 徳川慶喜が京都で将軍宣下を受ける | 茨城県立歴史館による |
| 12月12日 | 発症 | 町田明広による |
| 12月17日 | 天然痘と公式に公表 | 町田明広による |
| 12月18日 | 公式には「益々御機嫌よく」。晩に紫色の発疹が数か所 | 病死説が拠り所とする症状 |
| 12月21日 | 『中山忠能日記』に「御順道」 | 回復に向かっていると受け止められた |
| 12月23日 | 発疹の膿が収まり、かさぶたになり始める | 安堵の雰囲気が伝わる、と町田は書く |
| 12月24日 | 公式には「益々御機嫌よく」。夜中から容態が急変 | 毒殺説が拠り所とする急変 |
| 12月25日(1867年1月30日) | 一般に崩御の日とされる | 満35歳(数え36歳)。26日・29日とする記録もある(次の章) |
| 12月29日 | 29日辰刻の崩御と記した朝廷の達が出る | 「主上今廿九日辰剋崩御候」。25日・26日とする記録と食い違う |
この表で目を引くのは、18日の紫色の発疹と、24日夜の急変が、それぞれ別の説の拠り所になっていることです。病死説は前者を、毒殺説は後者を重く見ています。
なお町田は、『中山忠能日記』の22日条に、天然痘にかかった廷臣が治ってすぐに参殿したことを非難する記述があると紹介しています。当時、朝廷の内で天然痘がいつ広がってもおかしくない状況だったとみています。

十二日に病み、二十五日に世を去ったと一般には伝えられておる、とな。朕には、それを確かめる術がない。
十八日の紫の斑を重く見るか、二十四日の夜の急変を重く見るか。同じ日々の記録が、病死と毒殺、二つの読みを養っておる。
病み上がりの廷臣が参殿したのを咎めた書き込みがあるとは。病が宮中に持ち込まれうる、と考える材料にはなるのであろうな。
崩御はいつ?25日・26日・29日と記録で分かれる崩御の日時
崩御の日付は、記録によって書き方が分かれています。 事典は12月25日としますが、写本と朝廷の達には別の日付があります。國學院大學図書館所蔵の写本を岡谷成康が翻刻した論文(2018年)と事典を並べると、3通りの書き方になります。
- 12月25日:事典や、岡谷の解題の略歴が崩御の日とする日付
- 「実廿六日暁」:写本の書き込みに「慶応二丙寅十二月実廿六日暁崩御之由(実際には26日の明け方に崩御されたとのこと)」とある
- 「今廿九日辰剋」:朝廷の達(通達)に「主上今廿九日辰剋崩御候(天皇は本日29日の辰の刻に崩御された)」とある
朝廷の達は、29日辰刻の崩御として伝えています。一般に崩御日とされる25日や、写本の「実廿六日暁」とは食い違います。この違いが生じた理由は、本記事で確認した史料からは分かりません。
同じ写本には「主上御不予ニ附親王可有受禅之処、御大切乍御残念践祚御治定被仰出候」という達も写されています。天皇の病のため親王(のちの明治天皇)が譲位を受けるはずだったが、容態が重くなり践祚(せんそ。位を受け継ぐこと)と決まった、という趣旨に読めます。
岡谷の解題によれば、この写本は崩御後の慶応3年以降に関係の記録を書き写して作られたもので、作成者は分かっていません。3つの書き方のうちどれが正確かは、本記事では決められません。

崩御の日付が、記録によって25日・26日・29日と分かれています。このことをどうお考えになりますか。

二十五日か、二十六日の暁か、二十九日か。三つの日が並んでおるとは、朕にとっても妙な話ぞ。
なぜ食い違うのかを記した書は、そなたらの世でも確かめられておらぬそうな。
ならば、どれか一つを正しいと決めるのも、何かを隠したと言い切るのも、急ぐことになろう。
孝明天皇の死後、朝廷と幕府はどうなったのか
崩御から1年足らずのうちに、大政奉還と王政復古が続きます。 公武合体を支持した天皇が世を去ったあと、政局は大きく動きました。
| 和暦 | 出来事 |
|---|---|
| 慶応3年1月9日 | 睦仁親王(明治天皇)が践祚する |
| 慶応3年正月27日 | 泉涌寺の後山に葬られる |
| 慶応3年2月16日 | 諡号(しごう。死後の名)を「孝明天皇」とされる |
| 慶応3年10月14日(1867年11月9日) | 徳川慶喜が大政奉還を申し出る |
| 慶応3年12月9日(1868年1月3日) | 王政復古の大号令 |
事典の多くは、崩御のあと倒幕の動きが強まったと書いています。旺文社日本史事典は「以後武力討幕論が急激に発展した」と記します。
ただし、「崩御のあとに倒幕が進んだ」ことを、「倒幕のために崩御が仕組まれた」証拠として読むことはできません。 毒殺説の動機づけとしてよく語られる筋道ですが、時間の前後は因果の証明にはならないからです。
一方で原口清は、1990年の論文「孝明天皇と岩倉具視」で、天皇の死の時点では公家の間で佐幕派が主導権を握っており、武力倒幕派はまだ生まれていなかった、と論じたと紹介されています(『史学雑誌』の1990年の研究動向の回顧)。

朕の死から一年たたぬうちに、幕府が政を返し、王政が復した、と。いずれも朕の知らぬ世のことぞ。
そなたらの世の記録では、そう伝わっておるのか。朝廷と幕府が手を携える道を、朕は望んでおった。
されど、朕の死のあとに世が動いたからといって、動かすために死なせたとは、時の順だけでは言えぬこと。
孝明天皇の陵はどこにある?泉涌寺の後月輪東山陵
孝明天皇の陵は、京都市東山区の泉涌寺(せんにゅうじ)にある後月輪東山陵(のちのつきのわのひがしのみささぎ)です。 宮内庁が管理しており、陵の形は円丘です。
泉涌寺の公式サイトによれば、仁治3年(1242年)に四条天皇の葬儀が営まれて以来、皇室とのゆかりが深い寺です。江戸時代には、後水尾天皇から孝明天皇までの天皇・皇妃の陵が営まれ、明治維新のあとは「御寺(みてら)」として尊ばれるようになりました。
同じサイトの略年表には「1866年(慶応2年)孝明天皇崩御、翌年当山に奉葬する」とあり、明治11年(1878年)に「御陵、宮内省の所管となる」と続きます。
- 所在地:京都府京都市東山区今熊野泉山町 泉涌寺内
- 代数:第121代
- 陵形:円丘
- 交通:JR・京阪 東福寺駅から徒歩約25分
葬送は慶応3年正月27日に行われ、泉涌寺の後山に葬られました。國學院大學所蔵の写本には、その前日の正月26日に陵号を「後月輪東山陵」とした記録が写されています。
同じ写本には「大行天皇御葬送泉涌寺御行粧之記」として、葬列の並びも書き写されています。大行天皇(たいこうてんのう)とは、諡号が決まるまでの崩御した天皇の呼び名です。
孝明天皇は何をした人だったのか|生涯のふり返り
孝明天皇は、黒船来航から幕府の終わりが見えるまでの激動期に在位した、江戸時代最後の天皇です。 死因からこの記事にたどり着いた方のために、生涯を短くまとめます。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 名前 | 孝明天皇(諱は統仁〈おさひと〉、幼称は煕宮〈ひろのみや〉) |
| 生没年 | 天保2年(1831年)6月14日〜慶応2年12月25日(1867年1月30日)。満35歳没(数え36歳) |
| 父母 | 父は仁孝天皇、母は新待賢門院雅子 |
| 在位 | 弘化3年(1846年)の践祚から崩御まで |
| 主な出来事 | 日米修好通商条約の勅許を拒否、和宮の降嫁、公武合体の支持 |
| 子 | 明治天皇(第2皇子) |
1858年、幕府が日米修好通商条約の勅許(天皇の許可)を求めたとき、天皇はこれを拒みました。攘夷(外国を退けること)の立場をとったとされます。
その一方で、倒幕には批判的でした。妹の和宮(かずのみや)を14代将軍・徳川家茂に嫁がせることを認め、朝廷と幕府が手を携える公武合体を支持しています。
文久3年(1863年)の八月十八日の政変では、京都守護職の松平容保らと結んで、過激な尊攘派を京都から追い出しました。攘夷を望みながら倒幕は望まないという立場が、この天皇の政治姿勢の特徴とされます。
攘夷を望みながら倒幕は望まない天皇と、京都で力をもった一会桑(一橋慶喜・会津藩・桑名藩)の関係から、幕府の崩壊を描いた研究書があります。作品紹介が挙げる主題は死因ではなく、幕府が崩れた過程です。
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『江戸幕府崩壊 孝明天皇と「一会桑」』
この作品のポイント
- 強い攘夷の意思をもつ孝明天皇と、一橋慶喜・会津藩の松平容保・桑名藩の松平定敬(一会桑)
- 薩摩・長州が武力で倒幕を果たしたという「常識」を問い直す、著者の見方
- 第二次長州戦争が幕府の敗北に終わった理由と、王政復古がクーデタの形をとった理由という本書の問い
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幕府の側から幕末を描く2027年の大河ドラマ『逆賊の幕臣』の登場人物は、こちらの記事で整理しています。
よくある質問(FAQ)
孝明天皇は本当に暗殺されたのですか?
暗殺されたと断定できる史料は、乏しいのが現状です。当時公にされた病名は痘瘡(天然痘)で、町田明広は2022年の記事で病死説が優勢とみています。ただし毒殺説との論争は、決着していません。
孝明天皇を暗殺したのは誰だと言われていますか?
黒幕として岩倉具視の名がよく挙がります。疑いがかけられたことは事典に書かれていますが、本記事が確認した範囲では、関わったことを示す直接の史料は示されていません。実行役を妹の堀河紀子とする説には、紀子は当時すでに御所を下がっていたとの指摘があります。
伊藤博文が孝明天皇を暗殺したという話は本当ですか?
本記事が確認した範囲では、裏づけとなる記録は示されていません。1909年に伊藤を撃った安重根が、訊問でそのように述べた記録は残っていますが、証拠ではありません。厠で刺したとする話も、本記事が確認した事典・研究論文には出てきません。
孝明天皇の死因は何ですか?
当時、病名は痘瘡(天然痘)と公にされ、一般には天然痘による病死とされています。ただし毒殺説もあり、研究上の議論は決着していません。病状記録の読み方が大きな争点ですが、毒殺説では伊良子光順の日記や後世の証言なども論拠に加えられてきました。
孝明天皇は何歳で亡くなりましたか?
満35歳です。年齢を記す事典は「享年36歳」「36歳」と、数え年で書いています。
孝明天皇が亡くなったのはいつですか?
慶応2年12月25日(1867年1月30日)とされます。ただし朝廷の達には「今廿九日辰剋崩御」とあり、29日辰刻の崩御とする記録もあります。また写本には「実廿六日暁」との書き込みがあります。
孝明天皇の墓(陵)はどこにありますか?
京都市東山区の泉涌寺内にある後月輪東山陵です。宮内庁が管理しています。
孝明天皇と明治天皇はどういう関係ですか?
明治天皇は孝明天皇の第2皇子です。孝明天皇の崩御を受けて、慶応3年1月9日に践祚しました。
インタビュー後記|孝明天皇の死から見えてくるもの
今回は孝明天皇AIに登場してもらい、その死因と、暗殺説の出どころをたどりました。
調べていていちばん意外だったのは、病死説も毒殺説も、主に同じ時期の病状記録を読んで争われてきたことでした。本記事が確認した範囲では決定的な新史料は示されておらず、18日の紫色の発疹と24日夜の急変のどちらを重く見るかで、結論が分かれています。
事典の書き方が、痘瘡とだけ書くものから毒殺の可能性が高いとするものまで分かれていたのも驚きでした。1行の記述の裏に、それぞれの執筆者の判断があります。
岩倉具視や伊藤博文の名前は、この話にいつも付いてきます。けれども、疑いがかけられたことと、実際に関わったことは別の話です。その境目を、この記事で少しでも示せていればと思います。
孝明天皇の死をめぐって疑いをかけられた岩倉具視の家が、その後どうなったのかは、こちらの記事でたどっています。
参考資料
- 宮内庁「孝明天皇 後月輪東山陵」※陵名・所在地・陵形・代数・父母・交通の根拠
- 國學院大學学術情報リポジトリ 岡谷成康「國學院大學図書館所蔵『仁孝天皇崩御之記付孝明天皇崩御之記 仁孝天皇御養母』の解題と翻刻」(『國學院大學校史・学術資産研究』第10号、2018年)※京都の町触「禁裏御疱瘡ニ付」、朝廷の達「主上今廿九日辰剋崩御候」、写本の書き込み「実廿六日暁崩御之由」、践祚の達、陵号(慶応3年正月26日)・葬送(同27日)と諡号(同年2月16日)、写本の成立(慶応3年以降の書写で作成者不明)の根拠
- 国立国会図書館 レファレンス協同データベース「孝明天皇の死因について、特に岩倉具視による毒殺説について書かれた本を探してほしい。」※『日本近代史の虚像と実像1』(藤原彰ほか編、大月書店、1990年)を引いて、ねずまさしの研究で毒殺説が学問的水準に引き上げられたとする紹介と、ねずまさし『天皇家の歴史 下』(三一書房、1973年)の内容として、佐伯理一郎が岩倉具視の姪による毒殺説を挙げ、ねずがこれを支持したとする紹介の根拠
- 国立国会図書館サーチ「天脈拝診–孝明天皇拝診日記-1-」(伊良子光孝、『医譚』47号、1975年)※伊良子光孝による拝診日記の紹介の書誌。本記事は本文を確認していません
- 国立国会図書館サーチ『幕末非運の人びと』(石井孝、有隣堂、1979年)※書誌の根拠
- 国立国会図書館サーチ『近代史を視る眼 : 開国から現代まで』(石井孝、吉川弘文館、1996年)※書誌の根拠
- 国立国会図書館サーチ『王政復古への道』(原口清著作集2、岩田書院、2007年)※原口清の論文2本の収録先の根拠
- CiNii Research「孝明天皇は病死か毒殺か」(ねずまさし、『歴史学研究』173号、1954年)※書誌の根拠
- CiNii Research「孝明天皇崩御をめぐつての疑惑」(吉田常吉、『日本歴史』16号、1949年)※書誌の根拠。本記事は内容を確認していません
- CiNii Research「孝明天皇と岩倉具視」(原口清、『名城商学』39巻別冊、1990年)※書誌の根拠
- CiNii Books『明治維新の生贄 : 誰が孝明天皇を殺したか : 長州忍者外伝』(鹿島曻・宮崎鉄雄・松重正、新国民社、1998年)※刺殺の主張を出典とする書籍の書誌と、目次に「伊藤博文の天皇暗殺と父渡辺平左衛門」の項目があることの根拠。本記事は本文を確認していません
- アメーバブログ「孝明天皇、明治天皇は、伊藤博文が剌殺したから」※刺殺説の内容(厠の床下から刺したとする話)と、その出典として『明治維新の生贄』と宮崎鉄雄の父の遺言を挙げていることの確認。個人のブログで、史料としての裏づけはありません
- J-STAGE 池田宏「日本 : 近現代 二(一九八九年の歴史学界 : 回顧と展望)」(『史学雑誌』99編5号、1990年)※毒殺説を「幕末政治史を考えるうえで暗黙の前提となった感のある」説とし、原口清「孝明天皇の死因について」が「関係史料を再点検して明快に否定している」とする紹介の根拠
- J-STAGE 田中秀和「日本 : 近世 三(一九九〇年の歴史学界 : 回顧と展望)」(『史学雑誌』100編5号、1991年)※原口清「孝明天皇と岩倉具視」の論旨を「孝明天皇毒殺の時点では佐幕派が公家内部で主導権を握り、武力倒幕派はいまだ誕生していないとする」と紹介していることの根拠
- J-STAGE 高木俊輔「日本 : 近代 二(一九七九年の歴史学界 : 回顧と展望)」(『史学雑誌』89編5号、1980年)※石井孝『幕末非運の人びと』が急性砒素中毒とする新説を含むことの根拠
- 立命館大学学術情報リポジトリ 勝村誠「安重根の獄中口述記録「聴取書」を中心に」(『コリア研究』第11号、立命館大学コリア研究センター)※1909年10月30日の訊問調書の現代語訳(第十四の項目)の根拠
- コトバンク「孝明天皇」※日本大百科全書・山川 日本史小辞典・旺文社日本史事典・百科事典マイペディア・改訂新版 世界大百科事典の死因の書き方、生没年月日、諱・幼称、父母、享年、生涯の事績の根拠
- コトバンク「岩倉具視」※改訂新版 世界大百科事典(田中彰)の「毒殺説が流布し,岩倉に疑惑がかけられた」「翌年,明治天皇のもとで勅勘が許され」の根拠
- コトバンク「明治天皇」※孝明天皇の第2皇子であること、慶応3年1月9日の践祚の根拠
- 岩倉具視幽棲旧宅【公式】「岩倉具視の歴史・年表」※文久2年の幽棲、慶応2年に桑名藩の監視を受けたこと、慶応3年の洛中帰住の根拠
- 泉涌寺「泉涌寺と皇室」※四条天皇の葬儀以来の皇室とのゆかり、江戸時代の天皇・皇妃の陵、「御寺」の呼び名、略年表の「1866年(慶応2年)孝明天皇崩御、翌年当山に奉葬する」「御陵、宮内省の所管となる」の根拠
- 茨城県立歴史館「徳川慶喜15代将軍となる」※慶応2年12月5日の将軍宣下の根拠
- 中央公論新社『孝明天皇毒殺説の真相に迫る』(中村彰彦、2023年)※急性砒素中毒とし、黒幕と実行犯の女官の名を割り出すとする版元の紹介の根拠
- JBpress 町田明広「孝明天皇の死因をめぐる最新研究、天然痘との診断とその後の推移」(幕末維新人物伝2022(25))※『孝明天皇紀』を中心に病状を追う構成、研究史(ねず・伊良子光孝・石井孝・原口清の論争)と「現在は病死説が優勢のようであるが…断定することは困難」の根拠
- JBpress 町田明広「孝明天皇の「天然痘」発症、様態急変から崩御の謎、現代医師の重要な指摘とは」(幕末維新人物伝2022(26))※12月12日の発症から24日夜の急変までの経過、『中山忠能日記』の引用の根拠
- JBpress 町田明広「孝明天皇の死因の真相、なぜ、岩倉具視による「毒殺」説が噴出したのか?」(幕末維新人物伝2022(27))※「筆者は病死説が有力と判断しているが…最終決着ということではない」、サトウの証言の紹介の根拠
- 東京新聞「<書評>『孝明天皇毒殺説の真相に迫る』中村彰彦 著」(長山靖生評、2023年10月8日)※昭和15年の佐伯理一郎の発表と、堀河紀子がすでに御所を下がっていたとする記述の根拠
- Project Gutenberg, Ernest Satow “A Diplomat in Japan”(1921年)※崩御の知らせを聞いた場面と、数年後に毒殺と聞かされた、当時はそうした噂を聞かなかった、とする原文の根拠
- ステラnet「2027年大河「逆賊の幕臣」新キャスト発表! 眞栄田郷敦、奥野壮、山中崇、長塚京三」※孝明天皇役が眞栄田郷敦さんであることの根拠





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