歴代総理大臣の一覧を作るとき、出来事の欄より先に引っかかるのが数え方です。首相官邸の一覧は第105代まで並んでいるのに、名前を数えると66人しかいないのです。
同じ人が4回も5回も数えられている。この一覧は「人」ではなく「内閣」を数えているのです。
そこで、首相官邸の「歴代内閣」の個別ページ105件を1枚ずつ開き、代・氏名・在任期間を突き合わせて表にしました。出来事は、在任中の法律・条約・戦争・事件に限り、評価は書いていません。
この記事の結論
歴代の内閣総理大臣は、初代の伊藤博文から第105代の高市早苗まで105代、人数にして66人です(2026年10月21日時点)。代は内閣ごとに数えるため、同じ人物が何度も数えられます。
この記事では、代・氏名・在任期間・在任中の主な出来事を、明治・大正・昭和戦前・昭和戦後・平成・令和の6つの時代に分けて一覧にしました。
後半では、なぜ105代で66人なのか、首相がどう選ばれてきたか、在職日数や就任時年齢の記録、「いくやまいまい」の覚え方までまとめます。
- 105代
第1代 伊藤博文〜第105代 高市早苗 - 66人
重複を除いた人数 - 3,188日
通算在職日数の最長(安倍晋三)
聞き役は私ですが、答え役として伊藤博文AI(伊藤博文をモデルにしたAI)にも登場してもらいます。初代として内閣制度を作った側から、数え方や選ばれ方を聞くためです。
※以下のインタビュー部分は、公開されている史料をもとに伊藤博文の人物像を再現した創作で、実際の発言ではありません。伊藤博文AIは1909年までしか知らない設定で、以降の首相は筆者が一覧を見せて反応を聞いています。
出典の確かめ方と、公開前に行っているチェックは編集方針にまとめています。

伊藤さん、はじめまして。あなたが初代を務めた総理大臣は、いま第105代まで来ています。人数にすると66人です。1885年に始めたとき、ここまで続くと思っていましたか。

ほう、それはまた、よう積み上がったものじゃ。明治十八年の十二月に太政官を廃して内閣を立てたとき、百年先の帳面をつける気でおった者は、おそらく一人もおるまい。
ただ、六十六人で百五代という数には、すぐ合点がいった。内閣は首班が命を受けて組むもの。人ではなく内閣を数えるなら、そういう勘定になる。
ところで君、その百五のうち、わしの名は何度出てくるのかね。
- 歴代総理大臣の一覧を時代ごとに見る前に 表の読み方と全体の流れ
- 明治の歴代総理大臣一覧(第1〜14代)と主な出来事
- 大正の歴代総理大臣一覧(第15〜25代)と主な出来事
- 昭和戦前の歴代総理大臣一覧(第26〜42代)と主な出来事
- 昭和戦後の歴代総理大臣一覧(第43〜74代)と主な出来事
- 平成の歴代総理大臣一覧(第75〜98代)と主な出来事
- 令和の歴代総理大臣一覧(第99〜105代)と主な出来事 2026年10月21日時点
- なぜ歴代総理大臣は105代で66人なのか 代の数え方と臨時兼任
- 歴代総理大臣はどう選ばれてきたか 内閣職権から日本国憲法67条まで
- 歴代総理大臣の記録 在職日数・就任時年齢・出身県
- 歴代総理大臣の覚え方 「いくやまいまい」の頭文字と区切り
- よくある質問(FAQ)
- インタビュー後記 105代を並べて見えた「代」と「人」の違い
- 参考資料
歴代総理大臣の一覧を時代ごとに見る前に 表の読み方と全体の流れ
この記事の一覧は6つの表に分かれています。
- 明治の総理大臣(第1〜14代)は何人? → 7人。伊藤博文が4代を占める
- 大正の総理大臣(第15〜25代)で初の本格的政党内閣は? → 第19代 原敬
- 昭和戦前(第26〜42代)は何代で何人? → 17代15人。在任中に撃たれた首相が2人
- 昭和戦後(第43〜74代)で通算在職が長いのは? → 佐藤栄作 2,798日、吉田茂 2,616日
- 平成(第75〜98代)は何代で何人? → 24代16人。1年前後で交代した時期がある
- 令和(第99〜105代)の現職は? → 第105代 高市早苗(2026年10月21日時点)
表の数字は、首相官邸「歴代内閣」の個別ページのものです。読むときは、次の7点を押さえておくと迷いません。
- 退任日:総辞職した内閣は、次の内閣が成立した日(官邸の表記)。事典の「総辞職日」と数日ずれることがある
- 死去した首相:死去日と在任終了日が違う例がある。犬養毅は1932年5月15日に亡くなったが、官邸では5月16日まで
- 首相が欠けたとき:次の内閣が成立するまで、臨時に職務を執った人がいる
- 出来事の典拠:コトバンクに収められた事典(日本大百科全書・改訂新版世界大百科事典・山川日本史小辞典など)の各内閣・各事項の項目
- 氏名の字体:官邸の旧字(黑田淸隆・山縣有朋)を、常用の字体(黒田清隆・山県有朋)にした
- 時代の分け方:元号の境目をまたぐ内閣は、発足した時代の表に入れた(第14代の第2次西園寺内閣は1912年12月まで続くが明治)
- 第2次・第3次:同じ人物が続けて指名された場合も別の行。出来事の欄が空く行には、どの内閣に続くかを書いた
明治の歴代総理大臣一覧(第1〜14代)と主な出来事
明治の内閣は第1代から第14代までの14代で、人数は7人です。伊藤博文・黒田清隆・山県有朋・松方正義・大隈重信・桂太郎・西園寺公望が、交代で内閣を組みました。
14代のうち4代が伊藤博文、2代が桂太郎です。日清戦争と日露戦争はこの表のなかにあります。
| 代 | 氏名 | 在任期間 | 在任中の主な出来事 |
|---|---|---|---|
| 1 | 伊藤博文(第1次) | 1885年12月22日〜1888年4月30日 | 内閣制度の創設。1887年 保安条例公布 |
| 2 | 黒田清隆 | 1888年4月30日〜1889年10月25日 | 1889年2月11日 大日本帝国憲法公布 |
| 3 | 山県有朋(第1次) | 1889年12月24日〜1891年5月6日 | 1890年 教育勅語発布、第1回帝国議会 |
| 4 | 松方正義(第1次) | 1891年5月6日〜1892年8月8日 | 1891年 大津事件。1892年 第2回総選挙で選挙干渉 |
| 5 | 伊藤博文(第2次) | 1892年8月8日〜1896年8月31日 | 1894年 日英通商航海条約調印、日清戦争開戦。1895年 下関条約・三国干渉 |
| 6 | 松方正義(第2次) | 1896年9月18日〜1898年1月12日 | 1897年 貨幣法公布(金本位制) |
| 7 | 伊藤博文(第3次) | 1898年1月12日〜1898年6月30日 | 地租増徴案の否決で衆議院解散。憲政党の結成を受けて総辞職 |
| 8 | 大隈重信(第1次) | 1898年6月30日〜1898年11月8日 | 最初の政党内閣(隈板内閣)。共和演説事件で総辞職 |
| 9 | 山県有朋(第2次) | 1898年11月8日〜1900年10月19日 | 1900年 治安警察法公布、軍部大臣現役武官制 |
| 10 | 伊藤博文(第4次) | 1900年10月19日〜1901年5月10日 | 立憲政友会を基礎に組閣 |
| 11 | 桂太郎(第1次) | 1901年6月2日〜1906年1月7日 | 1902年 日英同盟。1904年 日露戦争開戦。1905年 ポーツマス条約、日比谷焼打ち事件 |
| 12 | 西園寺公望(第1次) | 1906年1月7日〜1908年7月14日 | 1906年 鉄道国有法公布、南満州鉄道株式会社の設立 |
| 13 | 桂太郎(第2次) | 1908年7月14日〜1911年8月30日 | 1910年 韓国併合、大逆事件。1911年 日米通商航海条約調印(関税自主権の回復) |
| 14 | 西園寺公望(第2次) | 1911年8月30日〜1912年12月21日 | 1912年7月 明治天皇崩御、大正改元。2個師団増設問題で総辞職 |
第2代の黒田清隆が辞めた1889年10月25日から、第3代の山県有朋が就く12月24日までは、2か月の空きがあります。この間は三条実美が内閣総理大臣を兼ねました。官邸のページでは「兼」と注記されています。
第8代の大隈内閣が「最初の政党内閣」、第19代の原内閣が「初の本格的政党内閣」です。事典はこの2つを書き分けています。
政党を基礎にした内閣は、第4次伊藤内閣にも見られます。伊藤自身が1900年に結成した立憲政友会を基礎に組閣しました。
初代としての伊藤博文の生涯は、別の記事でまとめています。憲法の起草から暗殺までを一人の人物として追いたい方は、こちらをどうぞ。

4代で2,720日。このうち、続けて座った日数はどれだけですか。

明治十八年、二十五年、三十一年、三十三年。四度じゃな。代が内閣ごとに進むから、わしひとりで四つ数えられる。
二千七百二十日とは、よう足したものよ。じゃが四度のうち三度は間が空いて、黒田、山県、松方、大隈の内閣が挟まっておる。続けて座った日数ではない。
長く座るより、議会と折り合える内閣をそのたびに組み直すほうが、わしの性には合うておる。
大正の歴代総理大臣一覧(第15〜25代)と主な出来事
大正の内閣は第15代から第25代までの11代で、人数は10人です。大正の表のなかで2度出てくるのは山本権兵衛だけです。
11代のうち、在任中に亡くなった首相が3人います。原敬は東京駅で刺され、加藤友三郎と加藤高明は病気で亡くなりました。
| 代 | 氏名 | 在任期間 | 在任中の主な出来事 |
|---|---|---|---|
| 15 | 桂太郎(第3次) | 1912年12月21日〜1913年2月20日 | 第1次憲政擁護運動(大正政変)で総辞職 |
| 16 | 山本権兵衛(第1次) | 1913年2月20日〜1914年4月16日 | 1913年 軍部大臣現役武官制の現役規定を廃止。1914年 シーメンス事件 |
| 17 | 大隈重信(第2次) | 1914年4月16日〜1916年10月9日 | 1914年 第一次世界大戦に参戦。1915年 対華二十一か条要求 |
| 18 | 寺内正毅 | 1916年10月9日〜1918年9月29日 | 1918年 シベリア出兵、米騒動 |
| 19 | 原敬 | 1918年9月29日〜1921年11月4日 | 初の本格的政党内閣。1919年 選挙法改正。1921年11月4日 東京駅で刺殺 |
| 20 | 高橋是清 | 1921年11月13日〜1922年6月12日 | ワシントン会議(四カ国条約・海軍軍縮条約・九カ国条約) |
| 21 | 加藤友三郎 | 1922年6月12日〜1923年8月24日 | 1922年 シベリア撤兵完了、海軍軍縮。1923年8月24日 在任中に病死 |
| 22 | 山本権兵衛(第2次) | 1923年9月2日〜1924年1月7日 | 関東大震災の直後に組閣、帝都復興院。虎ノ門事件で総辞職 |
| 23 | 清浦奎吾 | 1924年1月7日〜1924年6月11日 | 第二次護憲運動。総選挙で護憲三派が過半数 |
| 24 | 加藤高明 | 1924年6月11日〜1926年1月28日 | 1925年 普通選挙法・治安維持法成立、日ソ基本条約。1926年1月28日 在任中に死去 |
| 25 | 若槻礼次郎(第1次) | 1926年1月30日〜1927年4月20日 | 1926年12月 大正天皇崩御、昭和改元。1927年 金融恐慌 |
大正の表では、首相が亡くなったあとの空白が3回あります。原敬のあとは内田康哉が臨時に兼任し、9日後に高橋内閣が成立しました。加藤友三郎のあとも内田康哉が、加藤高明のあとは若槻礼次郎が、それぞれ臨時に兼ねています。
加藤友三郎の死去日は官邸の記載で8月24日ですが、25日とする人名事典もあります。表は官邸の日付です。
参考:加藤友三郎|コトバンク
第24代の加藤高明内閣を、事典では第1次・第2次に分けて説明することがあります。官邸の一覧では1つの代です。
参考:加藤高明内閣|コトバンク

大正に入ると、第19代の原敬が初の本格的政党内閣と呼ばれています。あなたの第4次内閣も、立憲政友会を基礎にしていました。政党を基礎にした内閣について、当時はどんな落としどころを考えていましたか。

落としどころは、はっきりしておる。議会に多数を持つ側と政府とが別々に綱を引き合うては、予算ひとつ通らぬ。ならば政府の側に、議会に根を持つ政党を据えるほかない。
それで明治三十三年に立憲政友会を立て、それを土台に四度目の内閣を組んだ。綱の両端を一人で持とうとした、と言うてもよい。
その内閣が本格的と呼ばれるなら、政党を土台に組む流儀は、わしのあとも続いたわけか。それは聞いておいてよかった。
昭和戦前の歴代総理大臣一覧(第26〜42代)と主な出来事
昭和の最初の20年は、第26代から第42代までの17代で、人数は15人です。近衛文麿が3度組閣しました(若槻礼次郎の第1次は大正の表にあります)。
浜口雄幸は東京駅で重傷を負い、犬養毅は五・一五事件で亡くなりました。17代のあいだに、首相が2人撃たれています。
| 代 | 氏名 | 在任期間 | 在任中の主な出来事 |
|---|---|---|---|
| 26 | 田中義一 | 1927年4月20日〜1929年7月2日 | 1928年 第1回普通選挙、三・一五事件、張作霖爆殺事件 |
| 27 | 浜口雄幸 | 1929年7月2日〜1931年4月14日 | 1930年 金解禁、ロンドン海軍軍縮条約調印。11月 東京駅で狙撃され重傷 |
| 28 | 若槻礼次郎(第2次) | 1931年4月14日〜1931年12月13日 | 1931年9月 柳条湖事件・満州事変 |
| 29 | 犬養毅 | 1931年12月13日〜1932年5月16日 | 金輸出再禁止。1932年 血盟団事件。5月15日 五・一五事件で射殺 |
| 30 | 斎藤実 | 1932年5月26日〜1934年7月8日 | 1932年 日満議定書。1933年 国際連盟脱退を通告。1934年 帝人事件 |
| 31 | 岡田啓介 | 1934年7月8日〜1936年3月9日 | 1935年 天皇機関説問題・国体明徴声明。1936年 二・二六事件 |
| 32 | 広田弘毅 | 1936年3月9日〜1937年2月2日 | 軍部大臣現役武官制の復活。日独防共協定 |
| 33 | 林銑十郎 | 1937年2月2日〜1937年6月4日 | 予算成立の直後に衆議院を解散。総選挙後に総辞職 |
| 34 | 近衛文麿(第1次) | 1937年6月4日〜1939年1月5日 | 1937年 盧溝橋事件。1938年 国家総動員法公布 |
| 35 | 平沼騏一郎 | 1939年1月5日〜1939年8月30日 | ノモンハン事件。独ソ不可侵条約を受けて総辞職 |
| 36 | 阿部信行 | 1939年8月30日〜1940年1月16日 | 第二次世界大戦の勃発に不介入を声明 |
| 37 | 米内光政 | 1940年1月16日〜1940年7月22日 | 日米通商航海条約の失効。斎藤隆夫の反軍演説 |
| 38 | 近衛文麿(第2次) | 1940年7月22日〜1941年7月18日 | 日独伊三国同盟、北部仏印進駐、大政翼賛会結成。1941年 日ソ中立条約 |
| 39 | 近衛文麿(第3次) | 1941年7月18日〜1941年10月18日 | 南部仏印進駐。御前会議で帝国国策遂行要領 |
| 40 | 東条英機 | 1941年10月18日〜1944年7月22日 | 1941年12月8日 対米英開戦。1942年 ミッドウェー海戦。1944年 サイパン陥落 |
| 41 | 小磯国昭 | 1944年7月22日〜1945年4月7日 | 最高戦争指導会議の設置。1945年4月 米軍の沖縄本島上陸 |
| 42 | 鈴木貫太郎 | 1945年4月7日〜1945年8月17日 | 8月14日 ポツダム宣言の受諾を通告。8月15日 総辞職 |
浜口雄幸は狙撃のあとも在任が続き、外相の幣原喜重郎が首相臨時代理を務めました。代は進んでいません。犬養毅のあとは高橋是清が臨時に兼任し、10日後に斎藤内閣が成立しています。
鈴木貫太郎内閣の総辞職は8月15日で、官邸の退任日は東久邇内閣が成立した17日です。林銑十郎・清浦奎吾の内閣も同じ理由で数日ずれます。
この表の17代には、第2次近衛内閣から第3次への移り変わりのように、総選挙を経ずに同じ人物が改めて組閣した例もあります。戦後にも、保守合同のあとの第3次鳩山内閣(1955年11月)に同じ例があります。
参考:鳩山一郎内閣|コトバンク

昭和の最初の20年で17代。そして大正の原敬から数えると、東京駅で原敬が刺され、浜口雄幸が撃たれ、犬養毅は五・一五事件で射殺されています。あなたの時代に、首相が襲われることを想定した備えはあったのでしょうか。

……しばらく言葉が出ぬ。東京駅で二人、それに五・一五の事件と。わしの知らぬ時代に、そこまでのことが続いたか。
備えと言えるのは、首班が欠けても次の内閣まで政が止まらぬ、その段取りくらいじゃ。それが働いたことは、君の表に出ておるな。
人を守るのは、最後には仕組みであってほしい。いまは、そう願うほかない。
昭和戦後の歴代総理大臣一覧(第43〜74代)と主な出来事
戦後の昭和は第43代から第74代までの32代で、人数は17人です。吉田茂が5代、佐藤栄作・池田勇人・鳩山一郎・中曽根康弘が3代ずつを占めています。
32代を2つの表に分けました。前半は占領期から1960年の安保改定まで、後半は所得倍増計画から平成改元までです。
| 代 | 氏名 | 在任期間 | 在任中の主な出来事 |
|---|---|---|---|
| 43 | 東久邇宮稔彦 | 1945年8月17日〜1945年10月9日 | 降伏文書調印、軍の解体などの終戦処理 |
| 44 | 幣原喜重郎 | 1945年10月9日〜1946年5月22日 | 1946年1月 天皇の「人間宣言」詔書。4月 戦後初の総選挙 |
| 45 | 吉田茂(第1次) | 1946年5月22日〜1947年5月24日 | 1946年11月3日 日本国憲法公布、1947年5月3日 施行 |
| 46 | 片山哲 | 1947年5月24日〜1948年3月10日 | 社会党首班の3党連立内閣 |
| 47 | 芦田均 | 1948年3月10日〜1948年10月15日 | 政令201号。昭和電工事件で総辞職 |
| 48 | 吉田茂(第2次) | 1948年10月15日〜1949年2月16日 | 総選挙後、第3次内閣へ |
| 49 | 吉田茂(第3次) | 1949年2月16日〜1952年10月30日 | 1949年 ドッジ・ライン。1950年 朝鮮戦争、警察予備隊創設。1951年 サンフランシスコ平和条約・日米安全保障条約調印 |
| 50 | 吉田茂(第4次) | 1952年10月30日〜1953年5月21日 | 総選挙後、第5次内閣へ |
| 51 | 吉田茂(第5次) | 1953年5月21日〜1954年12月10日 | 1954年7月1日 自衛隊発足 |
| 52 | 鳩山一郎(第1次) | 1954年12月10日〜1955年3月19日 | 総選挙後、第2次内閣へ |
| 53 | 鳩山一郎(第2次) | 1955年3月19日〜1955年11月22日 | 1955年11月 保守合同で自由民主党結成 |
| 54 | 鳩山一郎(第3次) | 1955年11月22日〜1956年12月23日 | 1956年10月 日ソ共同宣言。12月 国際連合加盟 |
| 55 | 石橋湛山 | 1956年12月23日〜1957年2月25日 | 1957年2月 病気のため総辞職。在任65日 |
| 56 | 岸信介(第1次) | 1957年2月25日〜1958年6月12日 | 総選挙後、第2次内閣へ |
| 57 | 岸信介(第2次) | 1958年6月12日〜1960年7月19日 | 1960年1月 新日米安全保障条約署名。6月 安保闘争、新条約発効 |
吉田茂は第45代と第48〜51代の2つの時期に分かれます。第1次と第2次のあいだに片山哲・芦田均の2代が挟まります。
第2次から第5次までは連続しています。官邸の通算在職日数は、5代を通して2,616日です。
| 代 | 氏名 | 在任期間 | 在任中の主な出来事 |
|---|---|---|---|
| 58 | 池田勇人(第1次) | 1960年7月19日〜1960年12月8日 | 総選挙後、第2次内閣へ |
| 59 | 池田勇人(第2次) | 1960年12月8日〜1963年12月9日 | 1960年12月 国民所得倍増計画を閣議決定 |
| 60 | 池田勇人(第3次) | 1963年12月9日〜1964年11月9日 | 1964年 OECD加盟、東京オリンピック。11月 病気で退陣 |
| 61 | 佐藤栄作(第1次) | 1964年11月9日〜1967年2月17日 | 1965年 日韓基本条約調印 |
| 62 | 佐藤栄作(第2次) | 1967年2月17日〜1970年1月14日 | 1967年12月 非核三原則を答弁。1968年 小笠原返還 |
| 63 | 佐藤栄作(第3次) | 1970年1月14日〜1972年7月7日 | 1972年5月15日 沖縄返還 |
| 64 | 田中角栄(第1次) | 1972年7月7日〜1972年12月22日 | 1972年9月29日 日中共同声明(国交正常化) |
| 65 | 田中角栄(第2次) | 1972年12月22日〜1974年12月9日 | 1973年 第1次石油危機。1974年12月 総辞職 |
| 66 | 三木武夫 | 1974年12月9日〜1976年12月24日 | ロッキード事件の解明、政治資金規正法改正。1976年 防衛費GNP1%以内を閣議決定 |
| 67 | 福田赳夫 | 1976年12月24日〜1978年12月7日 | 1978年8月 日中平和友好条約調印 |
| 68 | 大平正芳(第1次) | 1978年12月7日〜1979年11月9日 | 1979年 東京で主要国首脳会議(第5回サミット) |
| 69 | 大平正芳(第2次) | 1979年11月9日〜1980年6月12日 | 1980年5月 不信任案可決、衆参同日選挙へ。6月12日 選挙運動中に死去 |
| 70 | 鈴木善幸 | 1980年7月17日〜1982年11月27日 | 1981年 第二次臨時行政調査会発足 |
| 71 | 中曽根康弘(第1次) | 1982年11月27日〜1983年12月27日 | 総選挙後、第2次内閣へ |
| 72 | 中曽根康弘(第2次) | 1983年12月27日〜1986年7月22日 | 1986年 衆参同日選挙 |
| 73 | 中曽根康弘(第3次) | 1986年7月22日〜1987年11月6日 | 1986年11月 国鉄改革関連法成立。1987年4月1日 国鉄分割・民営化 |
| 74 | 竹下登 | 1987年11月6日〜1989年6月3日 | 1989年1月 昭和天皇崩御、平成改元。4月1日 消費税(3%)導入。リクルート事件 |
佐藤栄作の3代は、1964年11月から1972年7月まで続きます。官邸の通算在職日数は2,798日で、これが2020年まで連続在職の最長記録でした。
大平正芳が選挙運動中に亡くなったあとは、伊東正義が内閣総理大臣臨時代理を務めました。官邸のページでは「臨代」と注記され、戦前の「臨兼」とは表記が変わっています。
第74代の竹下登は昭和に発足し、平成改元をまたいで1989年6月まで続きました。

佐藤栄作は同じ2,700日台を、間を空けずに3代続けました。飛び飛びの4度と、続けての3代。どちらが大変ですか。

七年半、間を空けずにとは。わしの四度は飛び飛びで、間に人の内閣が挟まっておるから、同じ二千七百でも中身がまるで違う。抜かれたのは、まあ、よしとしよう。
長いのがよいか短いのがよいかと聞かれれば、どちらでもない。議会と折り合いがつく限り続き、つかなくなれば代わる。それが筋というものじゃ。
日数は、その結果として残る帳尻にすぎぬ。君は、どちらが性に合うかね。
平成の歴代総理大臣一覧(第75〜98代)と主な出来事
平成の内閣は第75代から第98代までの24代で、人数は16人です。安倍晋三が第90代と第96〜98代の2つの時期に分かれ、小泉純一郎が3代を占めます。
24代のあいだに、自民党が与党から外れた時期が2度あります。1993年8月からの細川・羽田内閣と、2009年9月からの鳩山由紀夫・菅直人・野田内閣の時期です。
| 代 | 氏名 | 在任期間 | 在任中の主な出来事 |
|---|---|---|---|
| 75 | 宇野宗佑 | 1989年6月3日〜1989年8月10日 | 参院選で自民党が大敗、退陣。在任69日 |
| 76 | 海部俊樹(第1次) | 1989年8月10日〜1990年2月28日 | 総選挙後、第2次内閣へ |
| 77 | 海部俊樹(第2次) | 1990年2月28日〜1991年11月5日 | 湾岸戦争で多国籍軍へ資金協力、ペルシャ湾へ掃海艇派遣。1991年 政治改革関連法案が廃案 |
| 78 | 宮沢喜一 | 1991年11月5日〜1993年8月9日 | 1992年 PKO協力法成立。1993年 不信任案可決、総選挙で自民党が過半数割れ |
| 79 | 細川護熙 | 1993年8月9日〜1994年4月28日 | 非自民8党派の連立内閣。1994年 政治改革関連法成立(小選挙区比例代表並立制の導入) |
| 80 | 羽田孜 | 1994年4月28日〜1994年6月30日 | 社会党の連立離脱で少数与党。在任64日 |
| 81 | 村山富市 | 1994年6月30日〜1996年1月11日 | 自社さ連立。1995年 阪神・淡路大震災、地下鉄サリン事件、戦後50年の首相談話 |
| 82 | 橋本龍太郎(第1次) | 1996年1月11日〜1996年11月7日 | 1996年4月 日米安保共同宣言。10月 小選挙区比例代表並立制で初の総選挙 |
| 83 | 橋本龍太郎(第2次) | 1996年11月7日〜1998年7月30日 | 1997年4月 消費税5%。1998年 中央省庁等改革基本法 |
| 84 | 小渕恵三 | 1998年7月30日〜2000年4月5日 | 自由党・公明党と連立。金融再生関連法・国旗国歌法成立。2000年4月 脳梗塞で倒れ、内閣総辞職 |
| 85 | 森喜朗(第1次) | 2000年4月5日〜2000年7月4日 | 全閣僚留任で就任。総選挙後、第2次内閣へ |
| 86 | 森喜朗(第2次) | 2000年7月4日〜2001年4月26日 | 九州・沖縄サミット。2001年1月 中央省庁再編 |
| 87 | 小泉純一郎(第1次) | 2001年4月26日〜2003年11月19日 | 2002年 日朝平壌宣言、拉致被害者5人帰国 |
| 88 | 小泉純一郎(第2次) | 2003年11月19日〜2005年9月21日 | 2005年8月 郵政解散 |
| 89 | 小泉純一郎(第3次) | 2005年9月21日〜2006年9月26日 | 2005年10月 郵政民営化関連法成立 |
| 90 | 安倍晋三(第1次) | 2006年9月26日〜2007年9月26日 | 2006年 教育基本法改正。2007年 国民投票法成立、参院選敗北 |
| 91 | 福田康夫 | 2007年9月26日〜2008年9月24日 | 2008年 補給支援特措法を衆院再議決で成立。参院で首相問責決議。北海道洞爺湖サミット |
| 92 | 麻生太郎 | 2008年9月24日〜2009年9月16日 | 米国発の金融危機への景気対策。2009年 総選挙で民主党へ政権交代 |
| 93 | 鳩山由紀夫 | 2009年9月16日〜2010年6月8日 | 民主・社民・国民新党の連立内閣。2010年 普天間移設問題、社民党の連立離脱で辞任 |
| 94 | 菅直人 | 2010年6月8日〜2011年9月2日 | 2010年 尖閣沖中国漁船衝突事件。2011年3月11日 東日本大震災・福島第一原発事故 |
| 95 | 野田佳彦 | 2011年9月2日〜2012年12月26日 | 2012年 社会保障・税一体改革関連法成立。12月 総選挙で民主党大敗 |
| 96 | 安倍晋三(第2次) | 2012年12月26日〜2014年12月24日 | 2013年 特定秘密保護法。2014年 消費税8%、集団的自衛権の行使容認を閣議決定 |
| 97 | 安倍晋三(第3次) | 2014年12月24日〜2017年11月1日 | 2015年 安全保障関連法。2016年 伊勢志摩サミット |
| 98 | 安倍晋三(第4次) | 2017年11月1日〜2020年9月16日 | 2019年 令和改元、消費税10%。2020年 新型コロナウイルス対応 |
第90代から第95代までの6代は、安倍・福田・麻生・鳩山・菅・野田と、いずれも在任が1年前後でした。
一方で、第96代から第98代までの安倍晋三は2012年12月から2020年9月まで連続し、連続在職2,822日は憲政史上の最長と報じられています。この数字は官邸のページにはなく、報道にもとづきます。
参考:安倍前首相は通算在任日数3188日:トップ4は”長州閥”が独占|nippon.com
第98代の安倍内閣は平成に発足し、令和改元をまたいで2020年9月まで続きました。
小渕恵三が倒れたあとの臨時代理については、官邸の第84代のページに記載がありません。事典には官房長官が臨時代理を務めたと書かれていますが、表は官邸の記載のままです。
参考:小渕恵三内閣|コトバンク
令和の歴代総理大臣一覧(第99〜105代)と主な出来事 2026年10月21日時点
令和の内閣は第99代から第105代までの7代で、人数は4人です。現職は第105代の高市早苗で、2026年2月18日に第2次内閣が発足しました。
岸田文雄・石破茂・高市早苗の3人が、それぞれ第1次と第2次に分かれています。第2次の3代は、いずれも総選挙のあとに改めて指名されたものです。
| 代 | 氏名 | 在任期間 | 在任中の主な出来事 |
|---|---|---|---|
| 99 | 菅義偉 | 2020年9月16日〜2021年10月4日 | 新型コロナウイルス対応(緊急事態宣言)。2021年 東京オリンピック・パラリンピック開催 |
| 100 | 岸田文雄(第1次) | 2021年10月4日〜2021年11月10日 | 2021年10月 衆院選。在職38日 |
| 101 | 岸田文雄(第2次) | 2021年11月10日〜2024年10月1日 | 2022年7月 安倍元首相銃撃事件。2023年 広島で主要国首脳会議 |
| 102 | 石破茂(第1次) | 2024年10月1日〜2024年11月11日 | 2024年10月27日 衆院選で与党が過半数割れ |
| 103 | 石破茂(第2次) | 2024年11月11日〜2025年10月21日 | 少数与党で発足。2025年7月 参院選で与党が過半数割れ |
| 104 | 高市早苗(第1次) | 2025年10月21日〜2026年2月18日 | 初の女性首相。2026年2月8日 第51回衆院選(与党は自民党と日本維新の会) |
| 105 | 高市早苗(第2次) | 2026年2月18日〜現在 | 2月18日 衆院選後の特別国会で指名され、第2次内閣発足。9月17日 改造内閣 |
※2026年10月21日時点。首相が交代した場合は、この表の末尾に行を足します。
第104代の高市早苗は、2025年10月21日の国会で指名されました。ブリタニカ国際大百科事典は「憲政史上初の女性首相」と記しています。
参考:高市早苗|コトバンク
第105代の在職日数は、官邸のページでは現職のため空欄です。
第100代の岸田内閣の在職38日は、1つの代としては全105代で最も短い数字ですが、退陣ではありません。総選挙のあとに改めて指名され、第101代として続いています。第102代の石破内閣の42日も同じです。

あなたの憲法から136年たって、初めて女性が首相になりました。第104代と第105代の高市早苗さんです。

よう数えたものじゃ。明治二十二年の二月に憲法を出してから、百三十六年か。
女子が首班に、というのは、わしの世では考えの外にあった話でのう。驚いた、とだけ言うておこう。
なぜ歴代総理大臣は105代で66人なのか 代の数え方と臨時兼任
105代と66人の差は、「代」が人ではなく内閣を数えているために生まれます。官邸の一覧を上から読むと、数え方は次の3つにまとめられます。
- 代は内閣ごとに数える。同じ人物でも、国会(戦前は天皇)から改めて命を受けて新しい内閣が発足すれば、代が進む
- 内閣改造では代が進まない。官邸のページでも、改造内閣は同じ代の中に並ぶ
- 首相の辞任や死去から次の内閣が成立するまでの臨時兼任・臨時代理は、代に数えない
第100代と第101代の岸田文雄が、その例です。2021年10月4日に第1次内閣が発足し、衆院選のあと11月10日に改めて指名されて第2次内閣となりました。人は同じでも、代は1つ進んでいます。
官邸のページには、この数え方そのものを説明した文章はありません。一覧の並び方と、各内閣のページの構成から読み取れる規則です。
内閣改造を、官邸は「内閣総理大臣は代わることなく、他の国務大臣の全部又は一部が代わること」と定義しています。内閣改造は、総辞職後の新たな首相指名・任命を伴う組閣とは異なるため、代は進みません。

あなたは4代で1人と数えます。辞めてまた命を受ければ、同じ人でも新しい内閣。この数え方は、あなたが内閣制度を作ったときから決まっていたのですか。

数え方まで決めた、とは言えぬ。明治十八年に内閣職権で定めたのは、首班が何をする役か、というほうじゃ。何代目と数えよ、は、そこから先の話よ。
ただ、命が改まれば内閣も改まる。改まった内閣をひとつと数えるなら、人ではなく内閣を数えるのは、ごく自然な勘定じゃ。
大臣だけを入れ替える改造では命が改まらぬから、代も進まぬ。その規則なら、わしが見ても筋が通っておる。
臨時兼任のうち、明治の表で見た三条実美だけは「兼」、それより後の例は「臨兼」と、官邸は注記を分けています。
第2次伊藤内閣が1896年8月31日に辞任したあとは黒田清隆が、第4次伊藤内閣のあとは西園寺公望が、臨時に兼ねました。どちらも官邸の該当する代のページに「臨兼」と注記されています。
参考:歴代内閣 第2代 黑田淸隆|首相官邸
参考:歴代内閣 第5代 伊藤博文|首相官邸
参考:歴代内閣 第10代 伊藤博文|首相官邸
戦後は「臨時代理」と呼びます。内閣法第9条は、首相に事故があるとき、または首相が欠けたときは、あらかじめ指定された国務大臣が臨時に職務を行うと定めています。大平正芳の死去後の伊東正義が、この例です。
この数え方で66人を数え直すと、最も多く数えられているのは吉田茂の5代です。
伊藤博文と安倍晋三が4代、桂太郎・近衛文麿・鳩山一郎・池田勇人・佐藤栄作・中曽根康弘・小泉純一郎が3代で続きます。2代の人物は15人います。
歴代総理大臣はどう選ばれてきたか 内閣職権から日本国憲法67条まで
首相の選ばれ方は、戦前(天皇が任命。実際には元老や重臣の推薦)と戦後(国会が指名)で大きく変わりました。戦前の首相の権限も、1885年の内閣職権から1889年の内閣官制で変わっています。
- 1885年 内閣職権:首相は「行政各部ヲ統督」する。各省大臣への統制が強い
- 1889年 内閣官制:「行政各部ノ統一ヲ保持」に改められ、権限が弱まる。大日本帝国憲法に首相の規定はなく「同輩中の首席」と呼ばれた
- 明治〜昭和戦前:任免は天皇の大権。実際には元老や重臣の推薦で任命された
- 1930年代後半〜:元老の西園寺公望が推薦を辞退し、内大臣を中心とする重臣会議に諮問する形へ。1940年の西園寺の死で元老は消滅
- 1947年〜:日本国憲法第67条で国会議員のなかから国会が指名し、天皇が任命する
1885年12月22日、太政官制が廃止されて内閣制度が創設され、同じ日に内閣職権が定められました。
官邸の解説によれば、首相はこのとき「各大臣ノ首班トシテ機務ヲ奏宣シ旨ヲ承テ大政ノ方向ヲ指示シ行政各部ヲ統督」する存在でした。
参考:内閣制度の概要|首相官邸
1889年12月24日の内閣官制では、「統督」が「行政各部ノ統一ヲ保持」に改められます。
同じ年に発布された大日本帝国憲法は、国務各大臣が天皇を輔弼(ほひつ。助けること)すると定めるだけで、内閣総理大臣の規定を置いていません。首相が「同輩中の首席」と呼ばれるのは、このためです。
参考:内閣総理大臣|コトバンク

1885年の内閣職権では、首相が各省を統督する。4年後の内閣官制では、統一を保持する。言葉が1つ変わっただけに見えますが、ずいぶん違う気がします。

一語の違いが、首班の腕の長さを決めておる。統督は、各省の大臣の上に立って指図する言葉。統一を保持するは、各省がばらばらにならぬよう目を配る、という言葉じゃ。
明治十八年には前のほうを書いた。憲法は国務各大臣がそれぞれ天皇を輔弼する、と定めておる。首班だけが上に立つ形を、その文と並べて見たとき、どちらへ寄せるかで言葉が変わるのは分かるであろう。
首班の腕が短うなれば、その分、誰を首班に据えるかが重うなる。のちに次の首班を奏薦する側に回った元老の肩に、その重さが乗る。わしもその一人であった。
では、誰が首相を選んでいたのでしょう。任免は天皇の大権でしたが、実際には元老や重臣の推薦によって任命されるのがふつうでした。
元老は憲法に規定のない存在で、後継内閣の首班を推薦することを最も重要な務めとしていたと説明されています。
参考:元老|コトバンク
元老の顔ぶれと人数は、事典によって9人とも10人とも数えられます。伊藤博文・山県有朋・松方正義ら明治の首相経験者が中心でした。
西園寺公望は1937年の近衛文麿の推薦を最後に、老齢を理由に推薦を辞退しました。以後は内大臣を中心とする重臣会議に諮問する形に変わります。
1940年7月の第2次近衛内閣の成立時には意見を述べることも断り、同じ年に西園寺が亡くなって元老はいなくなります。天皇が任命するという形そのものは、日本国憲法の施行まで変わりません。
参考:元老|コトバンク
1947年5月3日に日本国憲法と内閣法が施行されると、首相は「内閣の首長」となり、国会議員のなかから国会の議決で指名されるようになりました。指名は単記記名投票で、過半数を得た者がいなければ上位2人の決選投票です。

1947年からは、国会議員のなかから国会が指名する仕組みになりました。元老が推薦する形ではありません。憲法の施行後に発足した第46代の片山内閣から先は、全員がその方法で選ばれています。

わしの知らぬ仕組みじゃ、それは。政府と議会が綱を引き合うたびに、わしは落としどころを探して、しまいには政党まで作った。その綱の片端を、はじめから議会に持たせてしまうわけか。
折り合いを探す手間が、選ぶ手続きの中に組み込まれておる。君らの時代の仕組みは、そこが面白い。
百五のうち六十が、その手続きで選ばれた首班か。それがどう動くのか、もう少し見ていたいのう。
内閣制度ができる前の明治政府を動かした人たちについても、当サイトに記事があります。大久保利通と岩倉具視は、いずれも1885年の内閣制度創設の前に亡くなっています。
初代首相としての伊藤の歩みを、思想と国家構想の面からたどった新書もあります。憲法制定と議会開設までの道のりを、伊藤の側から読みたい方に向く一冊です。
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この作品のポイント
- 英国留学、初代総理大臣への就任、憲法制定・議会開設などの歩み
- 「文明」「立憲国家」「国民政治」の三つの視角から生涯をたどる構成
- 「哲学なき政略家」「思想なき現実主義者」といった評価に対し、伊藤の思想と国家構想を明らかにしようとする著者の見方
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歴代総理大臣の記録 在職日数・就任時年齢・出身県
通算在職日数の1位は安倍晋三の3,188日、就任時年齢の最年少は伊藤博文の44歳、最高齢は鈴木貫太郎の77歳です。いずれも首相官邸の個別ページに載っている数字です。
| 記録 | 人物(代) | 数字 |
|---|---|---|
| 通算在職日数 1位 | 安倍晋三(第90・96〜98代) | 3,188日 |
| 通算在職日数 2位 | 桂太郎(第11・13・15代) | 2,886日 |
| 通算在職日数 3位 | 佐藤栄作(第61〜63代) | 2,798日 |
| 通算在職日数 4位 | 伊藤博文(第1・5・7・10代) | 2,720日 |
| 通算在職日数 5位 | 吉田茂(第45・48〜51代) | 2,616日 |
| 連続在職日数 1位 | 安倍晋三(第96〜98代) | 2,822日 |
| 1つの代として最短 | 岸田文雄(第100代。総選挙後に第101代へ続く) | 38日 |
| 退陣で終わった内閣として最短 | 東久邇宮稔彦(第43代) | 54日 |
| 就任時年齢 最年少 | 伊藤博文(第1代) | 44歳 |
| 就任時年齢 戦後の最年少 | 安倍晋三(第90代) | 52歳 |
| 就任時年齢 最高齢 | 鈴木貫太郎(第42代) | 77歳 |
| 出身地(官邸の記載)が最も多い県 | 山口県 | 8人 |
最年少の伊藤博文44歳は満年齢で、1841年10月16日生まれの伊藤が1885年12月22日に就任したときの年齢と一致します。
退陣で終わった内閣に限ると、東久邇宮稔彦の54日が最短です。第3次桂(62日)、羽田孜(64日)、石橋湛山(65日)、宇野宗佑(69日)が続きます。
出身地は山口県の8人が最も多く、4人以上の県は次のとおりです。
| 県(官邸の記載) | 人数 | 人物 |
|---|---|---|
| 山口県 | 8人 | 伊藤博文・山県有朋・桂太郎・寺内正毅・田中義一・岸信介・佐藤栄作・安倍晋三 |
| 東京都 | 6人 | 高橋是清・近衛文麿・東条英機・鳩山一郎・菅直人・岸田文雄 |
| 岩手県 | 4人 | 原敬・斎藤実・米内光政・鈴木善幸 |
| 群馬県 | 4人 | 福田赳夫・中曽根康弘・小渕恵三・福田康夫 |
ただし官邸の「出身地」が出生地か選挙区かは、ページに説明がありません。
通算在職日数は官邸の各ページの欄の数字です。連続在職日数は官邸に欄がなく、2,822日は報道の数字です。官邸の在職日数は就任日と退任日の両方を数えるため、第96〜98代を足すと境目の日が重なって2,824日になります。
参考:歴代内閣 第98代 安倍晋三|首相官邸
参考:安倍前首相は通算在任日数3188日:トップ4は”長州閥”が独占|nippon.com

44歳の記録は、まだ誰も破っていません。それと、在職日数の上位4人は全員が山口の出身でした。なぜだと思いますか。

まだ破られておらぬか、あの四十四は。それは、ちと誇らしいのう。百五代並べて、一番若いのが初代というのは、始めた者の役得じゃ。
桂は同じ長州の出で、わしのあとに内閣を組んだ。上の四人がみな山口の出と聞けば、ほう、と声は出る。
じゃが、なぜ同じ土地から続くのかは、わしには分からぬ。知らぬ二人のことを郷里が同じというだけで語るのは、酒の席でもやらぬ。代わりに一つ。四十四を破る者が出たら、そのときはわしの名を思い出してくれ。
歴代総理大臣の覚え方 「いくやまいまい」の頭文字と区切り
歴代総理大臣の覚え方として広く使われているのは、代順に氏名の頭文字をつなげた「いくやまいまい」の語呂です。作者は、今回確認した範囲では分かりません。受験生のあいだで使われてきた語呂です。
頭文字の列は複数の教材で一致しますが、どこで区切るかはサイトや教材によって違います。この記事の区切りは、時代ごとに次のとおりです。
| 時代 | 頭文字 | 対応する首相(代) |
|---|---|---|
| 明治 | いくやまいまい/おやい/かさかさ | 伊藤①黒田②山県③松方④伊藤⑤松方⑥伊藤⑦/大隈⑧山県⑨伊藤⑩/桂⑪西園寺⑫桂⑬西園寺⑭ |
| 大正 | かやおて/はたか/やきかわ | 桂⑮山本⑯大隈⑰寺内⑱/原⑲高橋⑳加藤友㉑/山本㉒清浦㉓加藤高㉔若槻㉕ |
| 昭和戦前 | たはわい/さおひは/こひあ/よこことこす | 田中㉖浜口㉗若槻㉘犬養㉙/斎藤㉚岡田㉛広田㉜林㉝/近衛㉞平沼㉟阿部㊱/米内㊲近衛㊳㊴東条㊵小磯㊶鈴木㊷ |
| 昭和戦後 | ひしよか/あよよよよ/はははいききい/いいさささ/たたみふおおす/なななた | 東久邇㊸幣原㊹吉田㊺片山㊻/芦田㊼吉田㊽〜51/鳩山52〜54 石橋55 岸56・57 池田58/池田59・60 佐藤61〜63/田中64・65 三木66 福田67 大平68・69 鈴木善70/中曽根71〜73 竹下74 |
| 平成 | う/かかみほはむはは/おももこここ/あふあはかの/あああ | 宇野75/海部76・77 宮沢78 細川79 羽田80 村山81 橋本82・83/小渕84 森85・86 小泉87〜89/安倍90 福田康91 麻生92 鳩山由93 菅直94 野田95/安倍96〜98 |
| 令和 | すききいい/たた | 菅義99 岸田100・101 石破102・103/高市104・105 |
語呂は頭文字が「代」の数だけ並びます。平成の「あああ」は安倍晋三の第96〜98代で、3人ではなく1人です。
同じ頭文字の別人も混ざります。昭和戦後の「よよよよ」は吉田茂の第48〜51代ですが、「は」は全部で7人に使われています。
原敬・浜口雄幸・林銑十郎・鳩山一郎・羽田孜・橋本龍太郎・鳩山由紀夫です。頭文字だけで名前が決まらないので、上の一覧表と往復しながら覚えるほうが確実です。
この頭文字の列を、「もしもしかめよ」や「アルプス一万尺」の節に乗せた替え歌も受験サイトで紹介されています。頭文字の列と上の表があれば、歌詞がなくてもどの節にも乗せられます。
どこまで覚えるかは、目的によります。一覧の出来事の欄に、教科書で見た法律・条約・戦争の名前がついている首相から順に押さえていくと、歴史の流れと名前が同時に入ります。

受験生のあいだでは『いくやまいまい』と頭文字で覚えます。この7文字のうち『い』が3つありますが、全部あなたです。

七つのうち三つがわし、とは愉快じゃ。残りの四文字は、黒田、山県、松方の三人か。松方は二度顔を出しておるな。あの三人がそれを知ったら、どんな顔をするか見てみたいものよ。
覚えるのは頭文字でよいが、なぜ代が進んだかまでは表で追うてくれ。
よくある質問(FAQ)
歴代総理大臣は何人いますか?
2026年10月21日時点で、初代の伊藤博文から第105代の高市早苗まで105代、人数にして66人です。代は内閣ごとに数えるため、吉田茂は5代、伊藤博文と安倍晋三は4代として数えられています。
現在の総理大臣は何代目ですか?
第105代の高市早苗です(2026年10月21日時点)。2025年10月21日に第104代として就任し、2026年2月の衆院選のあと、2月18日に改めて指名されて第105代となりました。
同じ人なのに代が複数あるのはなぜですか?
代は人ではなく内閣を数えるからです。総選挙のあとなどに改めて指名されて新しい内閣が発足すると、同じ人物でも代が進みます。内閣改造では代は進みません。
在任期間が一番長い総理大臣と一番短い総理大臣は誰ですか?
通算では安倍晋三の3,188日、連続でも安倍晋三の2,822日が最長です。1つの代として最も短いのは第100代の岸田文雄の38日(第101代へ続く)で、退陣で終わった内閣では東久邇宮稔彦の54日です。
一番若くして総理大臣になったのは誰ですか?
初代の伊藤博文で、首相官邸のページでは就任時44歳です。戦後に限ると、2006年に第90代となった安倍晋三の52歳が最年少です。最高齢は1945年の鈴木貫太郎の77歳です。
総理大臣の出身県で一番多いのはどこですか?
首相官邸のページが出身地としている県で数えると、山口県の8人が最多です。次いで東京都が6人、岩手県と群馬県が4人ずつです。官邸の「出身地」が出生地か選挙区かは、ページに説明がありません。
歴代総理大臣の覚え方はありますか?
代順に氏名の頭文字をつなげた「いくやまいまい」の語呂が広く使われています。区切り方は教材によって違うので、本文の対応表と一覧表を往復しながら覚えるのが確実です。
インタビュー後記 105代を並べて見えた「代」と「人」の違い
表を作り終えてみると、歴代総理大臣の一覧は名前を覚えるための表ではなく、「内閣」という単位を覚えるための表でした。
105代と66人の差は、その単位の違いから出ています。同じ人の第1次と第2次のあいだには、必ず総選挙か総辞職があり、国会(戦前は天皇)からの命が改まっています。代の数字は、その区切りの数なのです。
だから私は、この一覧を「人の表」として読むのをやめました。代の番号が進むところには、選挙か辞任か死去がある。そう読むと、出来事の欄に書いていない出来事まで、表の行間から見えてきます。
- 代は内閣の数。同じ人物でも、改めて指名されれば代が進む(岸田文雄 第100代→第101代)
- 総辞職した内閣の退任日は次の内閣が成立した日。事典の総辞職日と数日ずれることがある
- 出来事の欄は法律・条約・戦争・事件だけ。評価は、読む側がそれぞれの出来事を調べて考える
1909年より後の首相のことは、伊藤博文AIに評価させていません。知らない時代の人物を本人に評させると、創作が史実の顔をして残ります。
一覧型の記事としては、江戸時代の年表もあります。将軍15代と元号36の対応を表にしたもので、同じように「単位」を意識して読むと流れがつかみやすくなります。
参考資料
- 首相官邸「歴代内閣」※第1代から第105代までの代・氏名・内閣名・在任期間の出典。一覧表の全行と、現職が第105代高市早苗であることの根拠
- 首相官邸「歴代内閣 第1代 伊藤博文」※生年月日・出身地・就任時年齢44歳・在職861日の出典
- 首相官邸「歴代内閣 第2代 黑田淸隆」※辞任後に三條實美が兼任したこと(注記「兼」)の出典
- 首相官邸「歴代内閣 第5代 伊藤博文」※辞任後に黑田淸隆が臨時兼任したこと(注記「臨兼」)の出典
- 首相官邸「歴代内閣 第10代 伊藤博文」※辞任後に西園寺公望が臨時兼任したこと、通算在職日数2,720日の出典
- 首相官邸「歴代内閣 第15代 桂太郎」※通算在職日数2,886日、第3次桂内閣の在職62日の出典
- 首相官邸「歴代内閣 第19代 原敬」※大正10年11月4日の死去と、内田康哉の臨時兼任の出典
- 首相官邸「歴代内閣 第21代 加藤友三郎」※大正12年8月24日の死去と、内田康哉の臨時兼任の出典
- 首相官邸「歴代内閣 第24代 加藤高明」※大正15年1月28日の死去と、若槻禮次郎の臨時兼任の出典
- 首相官邸「歴代内閣 第29代 犬養毅」※高橋是清の臨時兼任(昭和7年5月16日〜)の出典
- 首相官邸「歴代内閣 第42代 鈴木貫太郎」※就任時年齢77歳(全105代で最高齢)の出典
- 首相官邸「歴代内閣 第43代 東久邇宮稔彦王」※在職54日(退陣で終わった内閣として最短)の出典
- 首相官邸「歴代内閣 第51代 吉田茂」※通算在職日数2,616日の出典
- 首相官邸「歴代内閣 第63代 佐藤榮作」※通算在職日数2,798日の出典
- 首相官邸「歴代内閣 第69代 大平正芳」※昭和55年6月12日の死去、伊東正義の臨時代理(注記「臨代」)の出典
- 首相官邸「歴代内閣 第84代 小渕恵三」※在職616日。臨時代理の記載がないことの確認元
- 首相官邸「歴代内閣 第90代 安倍晋三」※就任時年齢52歳(戦後の最年少)の出典
- 首相官邸「歴代内閣 第98代 安倍晋三」※通算在職日数3,188日の出典
- 首相官邸「歴代内閣 第100代 岸田文雄」※第1次岸田内閣(令和3年10月4日〜11月10日)、在職38日の出典
- 首相官邸「歴代内閣 第101代 岸田文雄」※第2次岸田内閣(令和3年11月10日〜)の出典
- 首相官邸「歴代内閣 第104代 高市早苗」※第1次高市内閣(令和7年10月21日〜令和8年2月18日)、在職121日の出典
- 首相官邸「歴代内閣 第105代 高市早苗」※第2次高市内閣(令和8年2月18日〜現在)、令和8年9月17日の改造内閣の出典
- 首相官邸「内閣制度の概要」※明治18年12月22日の内閣制度創設と内閣職権の条文、明治22年12月24日の内閣官制、「同輩中の首席」、1947年5月3日の憲法・内閣法施行の出典
- 首相官邸「内閣制度の概要 2.1 内閣の組織」※国会による指名の手順(単記記名投票・決選投票)、内閣改造の定義、内閣法第9条の臨時代理の出典
- コトバンク「内閣総理大臣」※内閣職権と内閣官制の権限の違い、明治憲法に首相の規定がないこと、元老・重臣の推薦による任命、憲法第67条の規定の出典
- コトバンク「元老」※元老の職務(後継首班の推薦)、顔ぶれが事典によって9人・10人と割れること、西園寺公望が1937年を最後に推薦を辞退し内大臣を中心とする重臣会議に諮問する形になったこと、第2次近衛内閣の成立時に西園寺が意見を断ったこと、1940年の死で元老が消滅したことの出典
- コトバンク「加藤友三郎」※没年月日を8月24日とする事典(日本大百科全書・ブリタニカ・山川日本史小辞典)と8月25日とする人名事典(20世紀日本人名事典・日本人名大辞典ほか)があることの出典
- コトバンク「加藤高明内閣」※日本大百科全書・マイペディア・旺文社日本史事典が第1次・第2次に分けて説明していることの出典
- コトバンク「鈴木貫太郎内閣」※1945年8月15日の総辞職(日本大百科全書・山川日本史小辞典)の出典
- コトバンク「鳩山一郎内閣」※第3次鳩山内閣(1955年11月22日成立)が保守合同後に総選挙を経ずに組閣されたことの出典
- コトバンク「小渕恵三内閣」※山川日本史小辞典に青木幹雄官房長官が首相臨時代理に就任したと書かれていることの出典
- コトバンク「高市早苗」※『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』の「憲政史上初の女性首相」という記述の出典
- nippon.com「安倍前首相は通算在任日数3188日:トップ4は”長州閥”が独占」※連続在任日数2,822日の出典
- nippon.com「衆院選2026」※2026年2月8日の第51回衆院選の投開票日の出典
- 琉球新報「<やさしいニュース>高市首相が『衆議院を解散』 議員の選挙が2月8日にあります」※2026年1月時点の与党が自民党と日本維新の会であることの出典
- 秋田魁新報「第2次高市内閣が発足」※令和8年2月18日の第221特別国会での指名と第2次高市内閣の発足の出典
- gorobu-studio「日本歴代内閣総理大臣一覧(頭文字でつなげて覚える!)」※頭文字の列(「いくやまいまい」)と区切り方の一例の出典
- スタディチェーン「日本史の歴代総理大臣の覚え方を6つ紹介!【大学受験】」※頭文字の列の別の区切り方と、「もしもしかめよ」「アルプス一万尺」の節に乗せた替え歌が紹介されていることの出典
- 国立国会図書館「伊藤博文|近代日本人の肖像」※伊藤博文の生年月日(1841年10月16日)の出典






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