歴史の教科書をめくっていると、伊藤博文の名前は驚くほど何度も出てきます。初代内閣総理大臣、大日本帝国憲法の起草、初代韓国統監。「初代」や制度づくりにまつわる言葉が並ぶのに、では本人がどんな人物だったかと問われると、意外なほど人物像が浮かびません。
私は、こういう「名前は誰もが知っているのに、人となりはぼやけている偉人」にこそ惹かれる、少々マニアックな歴史好きです。長州の百姓の家から総理大臣まで駆け上がった伊藤の一代記は、掘れば掘るほど面白いのに、なぜか一言では語りにくい。なぜ一言で説明しにくい人物なのかを確かめたくて、この記事を書いています。
この記事の結論
伊藤博文は、1885年の内閣制度の創設で初代内閣総理大臣となり、大日本帝国憲法の起草でも中心を担った明治の政治家です。
総理大臣は合わせて4度務めました。1905年には初代韓国統監に任命され、1909年、ハルビン駅で安重根に撃たれて亡くなりました。
ただし、内閣制度は伊藤ひとりの発案ではなく、憲法も井上毅ら複数の人の手で練り上げられたものです。韓国統監としての政策には、今も議論があります。
とはいえ、私ひとりの解説では硬くなりがちです。そこで今回は伊藤博文AI(伊藤博文をモデルにしたAI)にも登場してもらい、語り手の言葉も交えながら、結局なにをした人なのかを整理していきます。
※以下のインタビュー部分は、公開されている史料をもとに伊藤博文の人物像を再現した創作です。実際の発言をそのまま掲載したものではありません。
出典の確かめ方と、公開前に行っているチェックは編集方針にまとめています。

本や資料でしか知らなかった伊藤博文さんと、こうしてお話しできるとは……。伊藤さんの肖像は、1963年から千円札に使われていました。それでは、よろしくお願いします。

千円とな。……周防の百姓の倅が札になるとは、ずいぶん出世した勘定じゃのう。
まあ、そう固くならず、気楽に聞いてくれればよい。
まずは伊藤博文の基本プロフィールと、何をした人物なのかを2分で知ろう
伊藤博文(いとうひろぶみ)を一言でいえば、日本で初めて「内閣総理大臣」になった政治家です。身分の低いところから明治政府の中心へと駆け上がった、立志伝中の人物でもあります。
生まれたのは周防国熊毛郡束荷村、現在の山口県光市にあたる地域です。百姓身分の林家に生まれ、のちに父が伊藤家に入ったことで、一家で伊藤姓を名乗り、下級武士の身分を得ました。
伊藤家の身分をどう書くかは、資料によって分かれています。中間(ちゅうげん)とするもの、足軽とするもの、士分の最末端とするものがあります。
まずは人物の全体像を、次の表でつかんでみましょう。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 名前 | 伊藤博文(いとう ひろぶみ)※幼名は利助、のちに俊輔とも |
| 生没年 | 1841年〜1909年(満68歳で死去) |
| 出身 | 周防国(現在の山口県光市)/長州(萩)藩 |
| 活躍した時代 | 幕末〜明治 |
| 主な功績 | 内閣制度の創設と初代内閣総理大臣就任、大日本帝国憲法の起草、立憲政治の基礎づくり |
伊藤博文は、松下村塾(吉田松陰が指導した私塾)で学んだのち、若くしてイギリスへ渡り、西洋の進んだ仕組みを肌で知った人物です。維新後は憲法や議会といった制度を整えることに力を注ぎ、合わせて4度も総理大臣を務めました。この表だけでも、幕末の志士から近代国家の設計に関わる政治家へと変わっていった歩みが見えてきます。

伊藤家の身分は、中間・足軽・士分の最末端と、資料によって書き方が分かれていました。ご自身では、どれがしっくりきますか。

どれでもよい、と言うたら困るかのう。まあ、そう急ぐでない。
落としどころを言えば、周防の百姓の家に生まれ、父が伊藤の家に入って、侍の端に連なった。そこまでで足りるじゃろう。
名札の書き方より、そのあと何を仕組んだかで見てくれればよい。松下村塾で学び、イギリスへ渡り、憲法と内閣に行き着いた男じゃ。
伊藤博文の三つの重要な歩み
伊藤が近代日本の骨格づくりに関わるうえで、特に重要だったのが次の三つの歩みです。
- ① 内閣制度をつくり、初代内閣総理大臣になったこと
- ② 大日本帝国憲法の起草を主導したこと
- ③ 松下村塾とイギリス留学で学び、その知識を国づくりに生かしたこと
どれも「一人の英雄が成し遂げた」というより、多くの人と協力しながら国の仕組みを整えていった歩みです。一つ一つを詳しく見ていきましょう。
① 内閣制度の創設と初代内閣総理大臣(1885年)
1885年(明治18年)、それまでの太政官制(明治政府発足以来の中央行政制度)に代わって、内閣制度がつくられました。各省の大臣によって内閣を組織する仕組みで、現在の内閣制度の原型となりました。そして伊藤博文は、その初代内閣総理大臣に就任します。このとき満44歳でした。
内閣制度の導入は、伊藤ひとりの発案というより、近代国家として政府の仕組みを整える大きな流れの中で実現したものです。とはいえ、その中心で構想をまとめ、初代の首相として動き出したのが伊藤でした。
伊藤はこのあとも第5代・第7代・第10代と、合わせて4度にわたって総理大臣を務めています。断続的にではありますが、明治のなかばから後半にかけて、幾度も政権の舵取りを任されたことが分かります。
| 内閣 | 時期 |
|---|---|
| 第1次(第1代) | 1885〜1888年 |
| 第2次(第5代) | 1892〜1896年 |
| 第3次(第7代) | 1898年 |
| 第4次(第10代) | 1900〜1901年 |
一度きりではなく、明治期にたびたび政権を担いました。それだけ、政治の中枢に長くいた人物だといえます。

1885年、満44歳で初代の総理大臣。そのあとも第5代・第7代・第10代と、4度も務めていますね。

四度も、と言うてくれるか。裏を返せば、四度辞めたということでもある。
先に落としどころを言うとな、総理は誰がやってもよい。大臣が寄り合うて政を進める、その枠組みのほうが肝心よ。
わし一人が偉いなら、わしが辞めたら国が止まる。それでは仕組みとは呼べぬ。
② 大日本帝国憲法の起草(1889年発布)
伊藤博文の名を歴史に刻んだ、もう一つの大きな仕事が大日本帝国憲法(明治憲法)の起草です。伊藤は1882年(明治15年)、憲法調査のため欧州へ渡りました。プロイセン憲法を学ぶとともに、ウィーンで公法学者シュタインらの意見を聞いたと言われています。
帰国後、伊藤は井上毅(いのうえこわし)ら実務にあたった人々とともに草案づくりを進めました。憲法は伊藤ひとりが書いたわけではなく、複数の人の手で練り上げられたものですが、その全体をまとめる中心にいたのが伊藤です。
こうして1889年(明治22年)2月11日、大日本帝国憲法が発布されました。翌1890年には帝国議会が開かれ、成文憲法と議会を備えた立憲体制の運用が始まりました。
伊藤が憲法づくりで担った主な役割を整理すると、次のようになります。
- 自ら欧州に渡り、主にドイツ・オーストリアの憲法理論を学んだこと
- 井上毅らとともに草案づくりを進めたこと
- 憲法草案などを審議する天皇の諮問機関として設けられた枢密院で、初代議長を務めたこと
- 発布まで、全体をまとめる中心を担ったこと
こうして見ると、伊藤は「学ぶ人」であると同時に、案を練り上げ、実際の成立へ導く「調整役」でもあったことが分かります。

1882年に憲法調査で欧州へ渡り、1889年2月11日に発布。7年かかっていますね。

七年を長いと見るか、短いと見るか。わしは、急いだほうじゃと思うておる。
西洋の写しをそのまま持ち込んでも根づかぬ。じゃから井上毅ら多くの手を借りて、この国の形に合わせて練った。
人には、まあ、そう急ぐでない、と言うておきながらのう。君なら、憲法づくりに何年かけるかね。

10年はほしいと思います。

十年か。慎重でよいのう。
じゃが仕組みは、走らせながら整えるものでもある。発布の翌年には、もう議会が開かれた。
待つか、走らせてから直すか。その間のどこかで手を打つのが、政というものよ。
③ 松下村塾とイギリス留学で得た学び(1857年〜)
三つ目は、伊藤がのちの制度づくりにつながる「学び」を積み、その知識を国づくりに生かしたことです。伊藤は松下村塾で吉田松陰に学び、幕末には尊王攘夷(天皇を敬い外国を退けようとする考え)の志士として活動しました。
ところが1863年(文久3年)、井上馨(いのうえかおる)らとともにひそかにイギリスへ渡航します。のちに「長州ファイブ」と呼ばれる留学です。西洋の進んだ産業や社会を目のあたりにした伊藤は、攘夷では国を守れないと考えを転じたと言われています。
伊藤の学びは、大きく二つの場に分けられます。それぞれで得たものを整理してみましょう。
| 学びの場 | 時期 | 得たもの |
|---|---|---|
| 松下村塾 | 1857年ごろ | 尊王攘夷の志と、同志とのつながり |
| イギリス留学 | 1863年 | 西洋の実力を知り、攘夷の限界を痛感 |
一見正反対にも見える二つの経験が、のちに現実を見すえて制度を築く伊藤の土台になっていきます。維新後は、こうして得た知識を、貨幣・法律・議会といった仕組みを考えるうえで生かしました。

1863年、井上馨さんらとイギリスへ密航されました。攘夷の志士が、追い払うはずの相手の国へ行くわけですよね。

妙な話に聞こえるじゃろう。追い払うと言うておった国へ、こっそり学びに行ったのじゃからのう。
何を見て考えを変えたかと問われれば、いまなら、刀で追い払える相手ではなかった、と答えるのう。
学ばぬ者は遅れるぞ。追い払うにせよ手を結ぶにせよ、まず相手を知らねば手の打ちようがない。
伊藤博文の死因と最期
伊藤博文の最期は、突然に訪れました。1909年(明治42年)10月26日、伊藤は満州(現在の中国東北部)のハルビン駅で、韓国の独立運動家であった安重根(アン・ジュングン)に銃で撃たれ、命を落とします。満68歳でした。
死因と最期のあらましを、次の表にまとめます。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 没年月日 | 1909年(明治42年)10月26日 |
| 場所 | ハルビン駅(満州、現在の中国東北部) |
| 死因 | 銃撃による暗殺 |
| 死亡時の年齢 | 満68歳(数え年では69歳) |
| 撃った人物 | 安重根(韓国の独立運動家) |
表のとおり、伊藤は病や老衰ではなく、中国東北部のハルビンで暗殺され、生涯を終えました。

吉田松陰の影響を受けた若いころから、のちの憲法づくりまでの伊藤の歩みは、学習まんがでもたどれます。
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この本の読みどころ
- 農民という低い身分から、初代内閣総理大臣にのぼりつめるまでを描く
- 吉田松陰の思想に影響を受け、尊王攘夷派として動いた若いころもたどる
- 総理大臣になってからの憲法づくりと、ハルビンでの最期までを描いています
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このとき伊藤は、初代韓国統監(当初は韓国の外交を監督し、のちに内政にも強い影響力を持った統監府の長)を務めたのち、日露関係の調整を目的に、ロシア蔵相ココーフツォフと会談するためハルビンを訪れていました。統監としての伊藤の政策や、当時の日本と韓国の関係については、今日でもさまざまな評価や議論があります。
暗殺という最期は、初代総理大臣という立場とあいまって、後世に強い印象を残しました。なお、伊藤の肖像はかつて千円札に用いられていたこともあり、その顔を記憶している方も多いかもしれません。

1909年10月26日、ハルビン駅でした。ロシアの蔵相ココーフツォフと会うために訪れていたそうですね。統監としての政策は、今も評価が分かれています。

落としどころを探しに出かけた先で、終わったということじゃな。
評が割れておるか。それを、わしがいまここで言いくるめるつもりはない。功も過も、見る者が量ればよい。
まあ、そう湿っぽうなるでない。残したかったのは、わしがおらんでも回る仕組みのほうじゃ。
伊藤博文の生涯を年表で振り返る
伊藤博文の68年の歩みを、下積みから最期まで年表で追ってみましょう。順風満帆に見える人生も、はじまりは身分の低い一少年でした。
| 年 | 出来事 | ひとこと解説 |
|---|---|---|
| 1841年 | 周防国に生まれる | 現在の山口県光市。百姓身分の林家に生まれる。幼名は利助 |
| 1857年ごろ | 松下村塾に入る | 吉田松陰のもとで学び、志士としての一歩を踏み出す |
| 1863年 | イギリスへ密航(長州ファイブ) | 井上馨らと渡英。西洋の実力を知る |
| 1864年 | 急ぎ帰国 | 下関戦争の危機を受け、攘夷の無謀さを説くために戻ったと言われる |
| 1868年 | 明治維新 | 新政府に出仕し、外交や実務で頭角を現す |
| 1871年 | 岩倉使節団に参加 | 副使として欧米を視察し、制度を学ぶ |
| 1878年 | 内務卿に就任 | 大久保利通の死後、政府の中枢を担う立場へ |
| 1882年 | 憲法調査のため渡欧 | プロイセン憲法を学び、シュタインらの意見も聞く |
| 1885年 | 内閣制度創設、初代内閣総理大臣に就任 | 満44歳。近代日本の首相第1号となる |
| 1889年 | 大日本帝国憲法発布 | 起草の中心を担う。翌年に帝国議会が開かれる |
| 1900年 | 立憲政友会を結成 | 政党を率いる立場となり、政党政治にも関わる |
| 1905年12月 | 初代韓国統監に任命 | 第二次日韓協約にもとづく役職。政策には今も議論がある |
| 1906年2月 | 統監府が業務を開始 | 韓国の外交を監督。1907年以降は内政や人事にも権限を広げる |
| 1909年 | ハルビン駅で暗殺される | 安重根に撃たれ、満68歳で死去 |
こうして並べてみると、伊藤の人生が「学ぶ」と「仕組みをつくる」の繰り返しだったことが分かります。留学や視察で学び、その知識で制度を整える。この往復が、生涯を通して続いていました。
年表の1878年にある大久保利通の死は、伊藤が政府の中枢へ進む転機になりました。その大久保が何をした人物だったのかは、こちらの記事で紹介しています。
伊藤博文のすごさ・影響力
伊藤博文のすごさは、華々しい戦いや大逆転にあるのではありません。憲法・内閣・議会という「仕組み」を整え、それを長く支え続けた点にこそあります。伊藤は、内閣・憲法・議会などの制度整備を主導し、日本の立憲政治の基礎づくりに大きく関わりました。
合わせて4度の総理大臣を務めたことも、その存在の大きさを物語ります。もちろん、これは伊藤ひとりの力ではなく、元老をはじめとする同時代の政治家との協力や競争の中で成し得たことです。それでも、要所で構想をまとめる役割を繰り返し担った点は際立っています。
伊藤が、新設された重要な役職の初代を数多く務めたことも、その影響力の大きさを示しています。
- 初代 内閣総理大臣(1885年)
- 初代 枢密院議長(1888年)
- 初代 貴族院議長(1890年)
- 初代 韓国統監(1905年任命、1906年統監府開庁)
複数の新しい制度で、その最初の長を任されました。それだけ、伊藤が制度づくりの中心人物の一人だったことがうかがえます。
こうして整えられた立憲体制の枠組みは、伊藤の死後も日本政治の土台となりました。内閣や議会などの制度は、その後大きな変更を経ながら、現在の政治制度にもつながっています。
一方で、韓国統監としての政策など、今日から見て評価の分かれる面もあります。功績と課題の両方をあわせ持つ人物として見ていくことが、伊藤博文を理解する近道かもしれません。

内閣総理大臣、枢密院議長、貴族院議長、韓国統監。『初代』が4つも並んでいます。

初代ばかり引き受けたものよのう。新しい箱をこしらえても、最初に入る者がおらねば動かぬ。
戦で名を上げたわけではないでのう、派手さはなかろう。
ただし初代というのは、しくじりも初代の名で残るということじゃ。功も過も、まとめて見てくれればよい。
伊藤を「哲学なき政略家」「思想なき現実主義者」とみる評価に対し、思想と国家構想という面から生涯をたどり直そうとする研究者の新書があります。
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この作品のポイント
- 英国留学、初代総理大臣への就任、憲法制定・議会開設などの歩み
- 「文明」「立憲国家」「国民政治」の三つの視角から生涯をたどる構成
- 「哲学なき政略家」「思想なき現実主義者」といった評価に対し、伊藤の思想と国家構想を明らかにしようとする著者の見方
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伊藤博文の思想と現代へのメッセージ
伊藤の歩みからは、理想論だけでなく、実際に機能する制度を重視する現実主義的な姿勢がうかがえます。若き日には攘夷の志士でしたが、イギリスで西洋の実力を知ると、考えを大きく転じたと言われています。理想を掲げるだけでなく、制度を一つずつ形にしていく。そうした歩み方です。
また伊藤は、生涯を通じて学び続けた人物でもありました。留学や視察で得た知識を制度に生かす姿は、変化の速い現代を生きる私たちにも通じるものがあります。新しいものを頭ごなしに拒まず、かといって飛びつきもせず、まず学んでから取り入れる。その順序を大切にしていたようです。
伊藤の歩みから筆者が考えた、現代へのヒントを並べてみましょう。
| 伊藤の歩み | 現代へのヒント |
|---|---|
| 機能する制度を重んじた | 理想だけでなく、実際に回る仕組みを考える |
| 生涯にわたって学び続けた | 新しいものは、まず学んでから取り入れる |
| 海外の制度を調査し、日本の事情に合わせて導入した | 他者の例をそのまま真似ず、自分の状況に合わせて取り入れる |
いずれも派手ではありませんが、変化の激しい時代ほど効いてくる構えかもしれません。
もちろん、その判断のすべてが正しかったわけではありません。だからこそ、成功も課題も含めて、伊藤の生き方は「仕組みで社会をよくするとはどういうことか」を考える材料になります。

いまは新しい技術が出るたびに、『すぐ取り入れろ』と『危ないからやめろ』で意見が割れます。

まあ、そう急ぐでない。落としどころは、たいていその間にある。
頭ごなしに拒むでもなく、飛びつくでもなく、まず学ぶ。学んでから、己の形に合わせて取り入れる。憲法のときも、その順を踏んだつもりじゃ。
で、君ならどこで手を打つかね。

まずは小さく試してみる、ですかね。

それでよい。小さく試して、直して、それから広げる。
仕組みとは、そういうものじゃ。学ばぬ者は遅れるぞ。
あなたは伊藤博文の生き方から、何を学びますか?
よくある質問(FAQ)
伊藤博文は何をした人ですか?
日本で初めて内閣総理大臣になった政治家です。内閣制度をつくり、大日本帝国憲法の起草を主導するなど、近代国家の「仕組み」を整えることに力を注ぎました。
伊藤博文はなぜ暗殺されたのですか?
背景には、第二次日韓協約によって日本が韓国の外交権を奪い、統監府を通じて支配を強めたことへの反発がありました。安重根は、伊藤を日本の対韓政策の責任者の一人とみなし、襲撃したとされています。1909年、満州のハルビン駅での出来事でした。
伊藤博文はなぜ初代総理大臣になれたのですか?
維新後、内務卿など政府の要職を歴任し、内閣制度の創設や憲法制定の準備を中心となって進めていたことが背景にあります。1885年の内閣制度の創設にともない、初代の内閣総理大臣に任命されました。
伊藤博文は千円札になっていたのですか?
はい。1963年(昭和38年)11月1日に発行が始まり、1986年(昭和61年)1月4日に発行が停止されました。日本銀行は「その他有効な銀行券」に分類しており、現在も使うことのできる銀行券です。
伊藤博文はどこの出身ですか?
周防国熊毛郡束荷村(現在の山口県光市)の生まれです。百姓身分の林家に生まれ、身分の低いところから明治政府の中心へと上りつめました。
インタビュー後記|伊藤博文は「仕組みで国をつくった現実主義者」
伊藤は「英雄」というより「設計者」だった。これが、調べ終えた私の見立てです。初代総理大臣と初代枢密院議長の肩書きは、内閣や憲法の設計図を引いた人が、そのまま最初の住人まで務めた跡なのでしょう。
維新後は、刀ではなく憲法や内閣といった仕組みを一つずつ組み立てて、国を動かしていく。その地道さこそが、伊藤の本当のすごさなのだと感じました。同時に、韓国統監としての政策など、今も評価の分かれる面があることも忘れてはいけないと思います。
伊藤が生きた幕末〜明治には、ほかにも魅力的な人物が数多くいます。倒幕を進めた側と、幕府を支えた側。その双方を読むと、この時代の見え方が変わってきます。
参考資料
- 国立国会図書館「伊藤博文|近代日本人の肖像」※生没年月日(天保12年9月2日=1841年10月16日、明治42年=1909年10月26日)と経歴の根拠
- 山口県立図書館「伊藤博文|明治維新人物調べかた案内 No.39」※束荷村(現・光市)に農民・林十蔵の長男として生まれたこと、9歳で萩に移り14歳のとき一家が伊藤家を継いだこと、1863年に井上馨らとイギリスへ密航留学したことの根拠
- コトバンク「伊藤博文」※幼名が利助でのちに俊輔と称したことの根拠。伊藤家の身分については『改訂新版 世界大百科事典』が「長州藩の中間伊藤直右衛門の養子」、『日本大百科全書』が「士分の最末端」、『百科事典マイペディア』が「足軽出身」と、同じページ内でも記述が分かれます
- 光市「伊藤公資料館のご案内」※生誕地が光市大字束荷であることと、幼名が利助であることの根拠
- 国立公文書館 デジタル展示「明治宰相列伝|伊藤博文」※吉田松陰の松下村塾に学んだこと、初代内閣総理大臣(1885年)・初代枢密院議長(1888年)・初代貴族院議長(1890年)を歴任したことの根拠
- コトバンク「松下村塾」※1857年に吉田松陰が主宰者となったこと、塾生に伊藤俊輔・高杉晋作・久坂玄瑞らがいたことの根拠。伊藤の入塾年そのものを記した資料は確認できていません
- 萩市「長州ファイブジュニア英国語学研修」※1863年に伊藤博文・井上馨・山尾庸三・遠藤謹助・井上勝の5人が密航してロンドン大学に留学し、のちに長州ファイブと呼ばれたことの根拠
- 国立公文書館「明治宰相列伝|2. 国書御委任状(明治4年)」※明治4年11月に岩倉使節団の特命全権副使を命じられたことの根拠
- 国立国会図書館 リサーチ・ナビ 憲政資料室「伊藤博文関係文書(その1)」※内務卿・内閣総理大臣・枢密院議長・韓国統監などの在職期間の根拠
- 国立国会図書館「2-5 伊藤博文のヨーロッパ憲法調査|史料にみる日本の近代」※立憲制度調査のための派遣を命じた勅書、明治15年3月14日の横浜出発、滞欧1年2か月、グナイスト・モッセ・シュタインらの講義を受けたことの根拠
- 国立公文書館「明治宰相列伝|4. 参議伊藤博文憲法調査のため欧州へ派遣(明治15年)」※ウィーンで公法学者シュタインらの話を聞き、憲法制定の参考としたことの根拠
- 国立公文書館「日本のあゆみ|明治18年(1885)12月 太政官制度に代わり、内閣制度が創始される」※明治18年12月22日に太政官制度が廃止され内閣制度が創設されたこと、伊藤博文が初代内閣総理大臣に任命されたことの根拠
- 国立公文書館「明治宰相列伝|6. 初代内閣総理大臣等任命(明治18年)」※内閣制度が伊藤の構想していたものであること、明治21年4月30日に総理大臣を辞して枢密院議長に就任したことの根拠
- 首相官邸「歴代内閣 第1代 伊藤 博文」※就任時の年齢が44歳であること、第1次内閣の在職期間(明治18年12月22日〜明治21年4月30日)の根拠
- 首相官邸「歴代内閣 第5代 伊藤 博文」※第2次内閣の在職期間(明治25年8月8日〜明治29年8月31日)の根拠。第7代・第10代のページでも同じ形式で在職期間を確認しています
- 首相官邸「内閣制度の概要」※太政官制の職制と、明治18年12月22日の太政官達第69号によって内閣制度が創設された経緯の根拠
- 国立公文書館「日本のあゆみ|明治22年(1889)2月 大日本帝国憲法が発布される」※明治22年2月11日の憲法発布の根拠
- 国立公文書館「日本のあゆみ|明治23年(1890)11月 第1回帝国議会が開会する」※明治23年11月25日の召集、同月29日の憲法施行と開院式の根拠
- 国立国会図書館「2-19 立憲政友会の成立|史料にみる日本の近代」※明治33年9月15日に立憲政友会が成立したことの根拠
- コトバンク「韓国統監府」※1905年の第二次日韓協約にもとづき設置され、翌1906年2月1日に開設されたこと、初代統監が伊藤博文であること、1907年から統監府の機能が強化されたことの根拠
- 国立公文書館「明治宰相列伝|10. 国葬関係書類(明治42年)」※明治42年10月にハルビン駅頭で安重根に暗殺されたこと、同年11月に日比谷公園で国葬が行われたことの根拠。襲撃の動機について述べた公的機関の資料は確認できていません
- 日本銀行「千円券|その他有効な銀行券・貨幣」※伊藤博文の肖像の千円券が昭和38年11月1日に発行を開始し昭和61年1月4日に発行停止となったこと、現在も有効な銀行券として扱われていることの根拠







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