戊辰戦争をわかりやすく|なぜ起きたのかを海舟AI・忠順AIと検証

boshin senso df eyecatch 出来事

政権を返した側と、受け取った側が、その2か月半後に戦っている。戊辰戦争の年表を最初に読んだとき、私はここで手が止まりました。

将軍が政権を朝廷に返したのが慶応3年10月14日です。教科書ではここで「幕府が終わった」ように見えます。ところが翌年の1月3日、旧幕府の軍が京都へ向かって進み、戦いが始まります。

返したはずの政権をめぐって、なぜ戦うことになったのか。この記事は、その一点をほどくために、事典と公文書館の記述、それに当事者の日記を並べていきます。

この記事の結論

戊辰戦争は、慶応4年1月3日(1868年1月27日)の鳥羽・伏見の戦いに始まり、明治2年5月18日(1869年6月27日)の五稜郭開城で終わった内戦です。

大政奉還で政権交代が済んでいたわけではありません。徳川家に辞官納地を命じる方針は決まったものの、その範囲と実行が定まらないまま、大政奉還の約2か月半後に開戦しました。

戦死者数は資料で割れます。8,000人を超えるとする解説がある一方、今回確認したコトバンクの10項目(事典・用語集)は数字を載せていません。

  • 517日
    1868年1月27日から1869年6月27日まで
  • 2か月半
    大政奉還から鳥羽・伏見の開戦まで
  • 25〜31藩
    奥羽越列藩同盟の藩数。資料で割れます

この記事では、「戊辰」の読み方と期間から、原因、鳥羽・伏見から箱館までの流れ、結果、そしてよく言われる説明の検証まで、順にたどります。

語り手として、勝海舟AI(勝海舟をモデルにしたAI)と小栗忠順AI(小栗忠順をモデルにしたAI)に登場してもらいます。戦わずに済ませる道を探した人と、抗戦を唱えて退けられた人です。

※以下のインタビュー部分は、公開されている史料をもとに二人の人物像を再現した創作です。実際の発言ではありません。小栗忠順は1868年5月27日(慶応4年閏4月6日)に亡くなっているため、それ以降の出来事は語りません。
出典の確かめ方と、公開前に行っているチェックは編集方針にまとめています。

筆者
筆者

海舟先生、今日は戊辰戦争についてうかがいます。政権を返したあとに戦争になった、という順番が、私にはどうも腑に落ちません。まず、この戦争をひとことで言うと何だったのでしょうか

勝海舟AI
勝海舟AI

政権を返した側と受け取った側が、そのふた月半あとに刀を抜いた。おれに言わせりゃ、そういう戦さ。

幕府はもう無くなっておったが、徳川の家をどう扱うかが決まっちゃいなかった。そこが火種になったのよ。

一年半も続いたと、そなたらの世では数えておるそうだな。北の戦のことは、史料で確かめておくれ。

戊辰戦争とは?いつからいつまで、誰と誰が戦ったのか

先に、この章で確かめたことを書きます。戊辰戦争は慶応4年1月3日(1868年1月27日)に京都の南、鳥羽・伏見で始まり、明治2年5月18日(1869年6月27日)に箱館の五稜郭が開城して終わりました。

戦ったのは、王政復古で成立した新政府(薩摩・長州など)と、旧幕府側の諸勢力です。基本の事項を表にまとめます。

項目内容
読み方ぼしんせんそう。「戊辰の役(ぼしんのえき)」とも呼ばれます
「戊辰」の意味干支(十干十二支)の第5番目「つちのえたつ」。1868年がこの年にあたります
期間(和暦)慶応4年1月3日〜明治2年5月18日
期間(西暦)1868年1月27日〜1869年6月27日
長さ517日。国立公文書館は「一年半にわたる戦争」「500日以上」と表現しています
戦った勢力王政復古で成立した新政府(薩摩・長州など)と、旧幕府側の諸勢力(旧幕府軍、奥羽越列藩同盟、榎本武揚らの箱館勢力)
主な戦い鳥羽・伏見の戦い→江戸開城→上野戦争→北越戦争→会津戦争→箱館戦争
何時代か江戸時代の末(幕末)から明治の初め。戦争のさなかの慶応4年9月8日に明治へ改元
結果新政府側の勝利。日本大百科全書は「徳川幕藩体制が完全に解体」と記しています

「戊辰」は、年を表す干支です。日本大百科全書は「1868年が干支で戊辰の年にあたるので、この呼称がつけられている」と説明しています。

期間について、日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典・山川 日本史小辞典・ブリタニカは、いずれも「1868年1月の鳥羽・伏見の戦いから1869年5月の箱館戦争まで」で一致しています。

始まりと終わりの日付は、精選版 日本国語大辞典が「慶応四年一月三日の鳥羽・伏見の戦いから」「明治二年(一八六九)五月一八日の箱館戦争の終結まで」と記しています。

戦った相手は「幕府」ではなく「旧幕府側の諸勢力」です。開戦の時点で、幕府という組織はすでに王政復古の大号令で廃止されていました。戦争の途中で戦う相手も移り変わり、東北諸藩の同盟、最後は榎本武揚らの箱館勢力が相手になります。

戦争の途中で元号も変わります。慶応4年9月8日(1868年10月23日)に明治と改元され、以後は一世一元の制(天皇一代に元号一つ)になりました。この記事では、改元より前の出来事は「慶応4年」で書きます。

江戸時代全体のなかで、この戦争がどこに位置するかは、年表の記事で確かめられます。

筆者
筆者

『戊辰』というのは年の呼び名なのですね。当時の人も、干支で年を呼んでいたのでしょうか

勝海舟AI
勝海舟AI

干支で年を言うのは、おれたちにゃ当たり前の癖だったよ。年号と干支を並べて書くのが習いさ。

ただ、あの戦をひとまとめに戊辰の戦と呼んでおったかどうかは、そなたらの世の史料に当たっておくれ。

戦のさなかに名前なんぞ付けやしねえ。おれが日記に書いたのは、その日その日の出来事だけだ。

戊辰戦争はなぜ起きた?大政奉還したのに内戦になった理由

この章の結論を先に書きます。政権を返したあとの「徳川家の扱い」が定まっていなかったからです。辞官納地を命じる方針は決まりましたが、その範囲と実行は争いの種として残りました。

討幕の密勅と大政奉還が同じ時期に重なり、12月9日の王政復古で徳川家の辞官納地が決められ、12月25日の薩摩藩邸焼き討ちの報が大坂に届いて、旧幕府軍が京都へ進みました。

大政奉還から開戦までの動きを、5つの段階に分けて並べます。

大政奉還から開戦までの5段階
  • 慶応3年10月14日(1867年11月9日)|徳川慶喜が大政奉還を上表し、翌15日に朝廷が勅許。討幕の密勅は島津久光父子あてが13日付、毛利敬親父子あてが14日付
  • 12月9日(1868年1月3日)|王政復古の大号令。摂政・関白・幕府を廃し、総裁・議定・参与の三職を置く
  • 同日夜|小御所会議で慶喜の辞官納地を決定。慶喜はその後、二条城を退去して大坂城へ
  • 12月25日(1868年1月19日)|江戸で薩摩藩邸の焼き討ち
  • 慶応4年1月3日(1868年1月27日)|旧幕府軍が京都へ進み、鳥羽・伏見で衝突

大政奉還は「一段階」だった|慶喜の意図を事典はどう書くか

大政奉還は、慶応3年10月14日(1867年11月9日)に15代将軍徳川慶喜が政権の返上を上表し、翌15日に朝廷が許したものです。土佐藩の後藤象二郎が10月3日に老中板倉勝静を通して建白書を出したことが、直接のきっかけでした。

ここで押さえておきたいのは、大政奉還は政権交代の「一段階」であって、完了ではなかったということです。政権を返しても、徳川家は依然として最大の領地を持つ大名でした。その扱いは、まだ何も決まっていません。

慶喜の意図について、事典類は次のように書いています。日本大百科全書は「公議政体論に基づく慶喜中心の『大君制国家』を創出しうるとみていた」とし、山川 日本史小辞典は「政権を一本化し大名の統治権もいずれ吸収しようと考えて」と記します。

ブリタニカ国際大百科事典は「新政体のもとであらためて実権を掌握する構想を秘めていた」とします。表現は違いますが、事典類は、慶喜が新しい体制でも主導権を保つ構想を持っていたと解説しています。これは事典の解釈であり、本記事はその当否を判断しません。

大政奉還を建白した土佐藩の側から見た経緯は、坂本龍馬の記事で書いています。

もうひとつ、同じ時期の出来事があります。討幕の密勅です。10月13日付で島津久光父子あて、14日付で毛利敬親父子あてに出されたもので、日本大百科全書は、同じ10月14日に慶喜が大政を奉還したため「密勅の名分は失われた」と書いています。

なお討幕の密勅は、山川 日本史小辞典が「現在では…偽勅と解されている」、デジタル大辞泉が「偽勅とする説もある」と記すように、本物かどうかに議論があります。

王政復古の大号令と小御所会議|辞官納地とは何か

慶応3年12月9日(1868年1月3日)、王政復古の大号令が出されます。摂政・関白・幕府を廃し、総裁・議定・参与の三職を置くもので、国立公文書館「日本のあゆみ」は、神武創業への回帰を掲げた大号令の内容を紹介しています。

同じ日の夜に開かれたのが小御所会議です。ここで徳川慶喜の辞官納地、つまり内大臣の官職を辞めることと、領地を朝廷に返すことが決められました。

山川 日本史小辞典や日本大百科全書によれば、山内豊信(容堂)や松平慶永(春嶽)ら公議政体派は慶喜の参内(会議への出席)を求めて激論し、休憩の際に妥協が成立したとされます。

会議のあと、慶喜は二条城を退去して大坂城へ移ります。改訂新版 世界大百科事典とマイペディアは、この「3週間後に鳥羽・伏見で戦端」が開かれたと記しています。

小御所会議で討幕派の側に立った大久保利通については、別の記事があります。

筆者
筆者

小栗さん、いまの事典には、あなたが大政奉還そのものに反対した、と書いたものがあります。政権を返す、という判断を当時どう受け止めておられたのでしょう

小栗忠順AI
小栗忠順AI

私が政権を返すことに賛じかねた、とそなたらの世の事典は記すそうでございますな。

何をどう申し上げたか、その中身までは事典も書いておらぬと聞いております。私の口から足すことはいたしませぬ。

ただ、政権を返したその日に徳川の家の扱いまで決まったわけではございませぬ。それは日付を追えば分かることでございましょう。

きっかけは江戸の薩摩藩邸焼き討ち

直接の引き金は、江戸で起きました。慶応3年12月25日(1868年1月19日)の早朝、市中取締の庄内藩兵を中心とする幕府・諸藩の兵が、薩摩藩邸と佐土原藩邸を襲撃し、焼き討ちします。

日本大百科全書によれば、背景には、西郷隆盛の指示で浪士を集め「御用盗」の名目で江戸を攪乱する工作があったとされます。同書は「この報が大坂城中の旧幕臣、会津・桑名藩士らに伝わるや鳥羽・伏見の戦いが始まった」と記しています。

旺文社日本史事典によれば、旧幕府軍は「君側の奸を払う」名目で京都へ進撃しました。天皇のそばにいる悪臣を取り除く、という建て前です。

ここまでを並べると、焼き討ちは最後の引き金で、対立そのものは辞官納地の決定にさかのぼることが分かります。政権は返した。しかし領地と官職を返すかどうかは、まだ争いの種として残っていました。

筆者
筆者

海舟先生、政権を返したのに戦争になったのは、結局どこが決まっていなかったからなのでしょうか

勝海舟AI
勝海舟AI

徳川の家の始末さ。官を辞めて領地を差し出せと、暮れの九日に京で決められた。

政権は返した。だが領地と官職をどうするかは、まだ片づいちゃいなかったのよ。

そこへ江戸の薩摩屋敷が焼かれた報せが大坂へ届いた。あとは、おまえさんが調べたとおりの順さ。

鳥羽・伏見の戦い|錦の御旗は何を変えたのか

この章で確かめたことは2つです。戦いは慶応4年1月3日(1868年1月27日)に始まり、6日に旧幕府軍の敗北で終わりました。

そして、錦の御旗が掲げられたことと新政府軍が勝ったことは公的資料で確認できますが、旗が勝敗を決めたとは、それらの資料は書いていません。

項目内容
日付慶応4年1月3日(1868年1月27日)に衝突し、6日に終了。旧幕府軍は1月2日に大坂を出発
兵力日本大百科全書は旧幕府側1万5000人(幕兵、会津・桑名両藩兵ら)、新政府側4500人(薩摩・長州両藩兵ら)。ブリタニカは数字を挙げず「佐幕派の兵力がまさっていた」と記す
名目旧幕府軍は「君側の奸を払う」として京都へ進撃(旺文社日本史事典)
錦の御旗新政府軍が掲げた。国立公文書館には、明治21年(1888年)から絵師の浮田可成が描いた模写図『戊辰所用錦旗及軍旗真図』(17種34枚、重要文化財)が伝わる
結果旧幕府軍の敗北。日本大百科全書は「討幕派の主導権が確定」と記す。慶喜は海路で江戸へ

兵力の差は、日本大百科全書の数字ではおよそ3倍です。ただし「3倍」はこの事典の数字でのみ成り立つ言い方で、ブリタニカは兵力を数字で書いていません。

錦の御旗(錦旗)とは何か。デジタル大辞泉は、こう説明しています。

赤地の錦に、日月を金銀で刺繍したり、描いたりした旗。鎌倉時代以後、朝敵を征討する際に官軍の旗印に用いた。

出典:コトバンク「錦の御旗」(デジタル大辞泉)

承久の乱の際に後鳥羽上皇が授けたのが最初とされます。天皇の側に立つ軍であることを示す旗、という位置づけです。

国立公文書館は、戊辰戦争でこの御旗が用いられ、「御旗を掲げた新政府軍は、鳥羽・伏見の戦いに勝利し」たと説明しています。改訂新版 世界大百科事典は、鳥羽・伏見の戦後に東征大総督府が置かれ「菊章旗(錦の御旗)を得、指揮体系もととのった」と記します。

この旗で旧幕府軍の士気が崩れた、という説明を目にすることがあります。しかし、今回確認した事典と公文書館の記述にあるのは、旗が掲げられたことと、掲げた側が勝ったことまでです。

なお、旗そのものが国立公文書館に残っているわけではありません。同館が所蔵するのは、旗の劣化を見越して内閣が絵師に描かせた模写図です。実物は「陸軍省の游就館や宮内省図書寮などに保存」されていた、と同館は説明しています。

敗れた慶喜は、海路で江戸へ戻りました。勝海舟が、その顛末を初めて聞いたのは慶応4年1月11日(1868年2月4日)のことです。日記にはこうあります。

初て伏見の顛末を聞く。会津侯桑名侯ともに御供中にあり。その詳説を問はむとすれども、諸官唯青色、互に目をもってし、敢て口を開らく者なし。

出典:国立国会図書館「日記の世界」勝海舟:慶応4年1月11日の日記より

慶喜は、会津藩主の松平容保と桑名藩主の松平定敬を伴って江戸に帰っていました。詳しく聞こうとしても、誰もが青い顔で目配せをするばかりで、口を開く者がいなかった、と読めます。

詳しい顛末を聞こうとしても、誰も口を開かなかった。その沈黙が、敗戦直後の江戸城の空気を伝えているように私には思えます。

筆者
筆者

海舟先生、1月11日の日記に『敢て口を開らく者なし』とあります。あの日、江戸城の中はどんな様子だったのでしょうか

勝海舟AI
勝海舟AI

日記に書いたとおりさ。会津侯も桑名侯もお供の中におられ、伏見のことを聞こうとしても、皆青い顔で目配せをするばかりだった。

口を開く者がおらぬ、とおれは書き残しておる。それ以上のことは、日記のほかに足しようがねえのよ。

城の中の空気ってのは、書いた者にも書ききれねえものさ。あとは、おまえさんの読みに任せるよ。

小栗忠順の主戦論と罷免|「抗戦」はなぜ採られなかったのか

筆者
筆者

小栗さん、いまの事典は、あなたが新政府への抗戦を唱えた、と一致して書いています。進言の中身までは書かれていません。ご自身の口からは、どこまで話していただけますか

小栗忠順AI
小栗忠順AI

戦うべしと申し上げ、容れられずに役を解かれた。そこまでは、そなたらの世の事典の記すとおりでございます。

いかなる手立てを申し上げたかは、私の手になる書付がそなたらの世で確かめられておらぬと聞いております。ならば、ここで語るのは控えましょう。

後の世の本に伝わる話は、後の世の本の話。私の言葉として受け取られては、道理に合いませぬ。

この章で確かめたことは、次のとおりです。小栗忠順は慶応4年1月15日(1868年2月8日)に御役御免となりました。

国立国会図書館と4つの事典は、いずれも小栗が抗戦(主戦)を主張したと書いています。ただし、進言した作戦の中身は、後世の本にしか見えません。

事典が小栗の立場をどう書いているかを、そのまま並べます。

事典が書く小栗忠順の立場
  • 国立国会図書館「近代日本人の肖像」|「戊辰戦争に際し強硬な抗戦論を主張して罷免され、所領地の上州群馬郡権田村に隠棲したが、新政府軍により捕縛、処刑された」
  • 日本大百科全書|「薩長に対しては主戦論を唱えたが、幕軍が鳥羽・伏見の戦いに敗れるや上州へ隠退」
  • 改訂新版 世界大百科事典|「戊辰戦争では徳川慶喜に抗戦を進言したが入れられず」
  • ブリタニカ国際大百科事典|「倒幕諸藩と対決する最も強硬な幕府主戦派の一人」「大政奉還に反対して、慶応4(1868)年1月免官」
  • マイペディア|「抗戦論を唱えたがいれられず」

5点の記述に共通するのは、「抗戦(主戦)を主張した」ことです。罷免・免官まで記すのは国立国会図書館とブリタニカで、ブリタニカは免官を大政奉還への反対と結びつけて書いています。どの事典も、小栗がどんな作戦を進言したかは書いていません。

「箱根で新政府軍を誘い込んで包囲する」といった作戦の中身は、広く語られています。しかし本記事が確認できた範囲では、それは後世の本に見える話であり、小栗本人の作戦書は今回確認できていません。

罷免の日付は、小栗の菩提寺である東善寺の略歴が「慶応4年1月15日 御役御免、勤仕並寄合」と記しています。

3月1日(3月24日)には許可を得て上州権田村に土着し、閏4月6日(1868年5月27日)に水沼河原で斬首されました(5日とする史料もあります)。

なぜ抗戦論が採られなかったのか。事典が書いているのは、慶喜が恭順(新政府に従う姿勢)へ向かったことまでです。慶喜がどんな考えで小栗の進言を退けたのかを、直接示す史料は本記事では確認できていません。

小栗の人物と、斬首までの経緯は、それぞれ別の記事で詳しく書いています。

小栗が主導した横須賀製鉄所は、建設の途中で新政府に引き継がれました。

勝海舟は晩年、小栗についての談話を残しています。『海舟全集』に収められた談話によれば、勝は小栗を「幕末の一人物」と呼びました。

同じ談話には「度量の狭かつたのは、あの人のためには惜しかつた」という評も見えます。本記事はこれを、勝本人が書き残した文章ではなく、聞き手が記録した談話として扱います。

筆者
筆者

海舟先生、小栗さんとは幕府の中で立場が違いました。抗戦を唱えた人が退けられ、あなたが江戸に残ったことを、先生はどう見ておられますか

勝海舟AI
勝海舟AI

小栗は幕末の一人物だよ。おれが晩年そう語ったと、聞き書きに残っておるそうだな。

あの人が退けられ、おれが残った。慶喜公が恭順へ向かわれたのと同じ頃の話で、そのわけまでは、おれも決めつけねえ。

どちらが正しかったかを言うつもりもねえよ。それは、おまえさんたちが史料を並べて考えることさ。

江戸城無血開城|勝と西郷の会談で何が決まったのか

この章の結論です。慶応4年3月13日・14日(1868年4月5日・6日)に江戸の薩摩藩邸で勝海舟と西郷隆盛が会談し、3月15日に予定されていた江戸総攻撃が中止されました。

4月11日(1868年5月3日)、東征軍が江戸城に入り、城は戦わずに明け渡されました。

ただし、会談は勝ひとりで組み立てたものではありません。3月9日には山岡鉄舟が駿府で西郷と接触しています。

日付出来事
慶応4年3月9日(4月1日)山岡鉄舟が駿府で西郷隆盛と接触
3月13日(4月5日)江戸の薩摩藩邸で勝と西郷の会談(1日目)。この日は決定に至らず
3月14日(4月6日)会談2日目。同じ日に五箇条の誓文が出される
3月15日(4月7日)新政府軍の江戸総攻撃予定日。中止される
4月11日(5月3日)東征軍が江戸城に入る。慶喜は同日、水戸へ
5月家督を継いだ田安亀之助(徳川家達)に駿河・遠江・三河70万石(のちの静岡藩)

会談の1日目、勝は日記にこう書いています。

戦と不戦と興と廃とに到りて、今日述るところにあらず、乞ふ、明日をもって決せむとすと云。

出典:国立国会図書館「日記の世界」勝海舟:慶応4年3月13日の日記より

戦うか戦わないか、徳川家が立つか廃されるかは、今日は述べるところではない。明日決めよう、と言われた。そう読めます。国立国会図書館の解説によれば、この日の会談は高輪の薩摩藩邸で行われ、決定は翌日に委ねられました。

勝の役職について、国立国会図書館は、慶応4年1月に海軍奉行並・陸軍総裁となったと紹介しています。会談の時点での役職名は、本記事では確かめていません。

会談の2日目にあたる3月14日は、京都で五箇条の誓文が出された日でもあります。国立公文書館「日本のあゆみ」は、慶応4年3月14日の公布と記しています。同じ日であることは日付から言えますが、両者のあいだに因果があったかどうかは、本記事では判断しません。

国立国会図書館「近代日本人の肖像」は、勝について「戊辰戦争では西郷隆盛を説得し、江戸城の無血開城に成功」と書いています。

一方で、山岡鉄舟が先に西郷と会っていたこと、慶喜が恭順の姿勢を取っていたこと、西郷が総攻撃の中止を決めたこと、これらが重なって開城に至りました。勝の生涯の記事でも、同じ整理をしています。

江戸城明け渡しの翌月、徳川家の処遇が決まります。日本大百科全書とブリタニカによれば、慶応4年5月、家督を継いだ田安亀之助(のちの徳川家達)に駿河・遠江・三河の70万石が与えられました。のちの静岡藩です。

会談の相手だった西郷隆盛の生涯は、こちらでたどれます。

筆者
筆者

海舟先生、3月13日の日記に『明日をもって決せむとす』とあります。あの晩、何が決まっていて、何がまだ決まっていなかったのでしょうか

勝海舟AI
勝海舟AI

戦うか戦わぬか、徳川が立つか廃されるかは今日は述べぬ、明日決めよう。そう言われたと日記に書いたとおりさ。

つまりあの晩は、いちばん大事なところが何も決まっちゃいなかった。決まったのは、明日また会うということだけよ。

山岡が先に駿府で西郷に会っておった。おれひとりで組み立てた話じゃねえことは、言い添えておくぜ。

この章では、開城を勝ひとりの手柄にしない整理をしました。勝と西郷の2人に焦点を当てて会談を語った作家の講義もあります。タイトルは講師の見方で、この章の整理とは力点が違います。

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  • 西郷隆盛と勝海舟の会談を取り上げる講義
  • 2人が明治維新の舞台で果たした役割を分析する、講師の見方
  • 講師は『文藝春秋』『週刊文春』の編集長を務めた作家

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上野戦争から奥羽越列藩同盟へ|戦争はなぜ江戸で終わらなかったのか

この章で確かめたことです。江戸城が開いたあとも、戦争は終わりませんでした。

会津藩の赦免をめぐって東北諸藩が慶応4年5月3日(1868年6月22日)に同盟を結び、戦線は東北と北越へ移ります。江戸では5月15日(7月4日)に上野の彰義隊が1日で壊滅しました。

小栗忠順は、この同盟が結ばれる前の閏4月6日(5月27日)に水沼河原で斬首されています。ここから先の出来事を、小栗は知りません。以下の章では、勝海舟AIだけに話を聞きます。

まず江戸です。慶応4年5月15日(1868年7月4日)、大村益次郎の指揮する新政府軍が上野寛永寺にこもる彰義隊を攻撃し、1日で壊滅させました。

彰義隊は慶応4年2月に結成された旧幕臣らの部隊で、頭取は渋沢成一郎(喜作)、副頭取は天野八郎でした。

人数は資料で割れ、山川 日本史小辞典・ブリタニカ・改訂新版 世界大百科事典は3000人(3000余人)、日本大百科全書は「総員1500余名」としています。

一方の東北では、同盟が結ばれます。できるまでの流れを、事典の記述に沿って並べます。

奥羽越列藩同盟ができるまで
  • 会津藩の赦免を求める東北諸藩の嘆願が、新政府に却下される
  • 慶応4年5月3日(1868年6月22日)|東北諸藩が奥羽列藩同盟を結ぶ(会合の場所は、仙台とする事典と白石城とする事典がある)
  • ついで長岡・新発田など北越6藩が加わり、奥羽越列藩同盟となる
  • 9月|仙台・米沢・会津が降伏し、同盟は崩壊する

同盟に加わった藩の数は、資料によって違います。山川 日本史小辞典・日本大百科全書・国立公文書館は東北25藩とし、マイペディア・ブリタニカ・改訂新版 世界大百科事典は26藩とします。精選版 日本国語大辞典は北越を含めて31藩と記します。

25藩と26藩に分かれる理由は、今回確認した事典の記述だけでは特定できません。さらに北越6藩を含め31藩とする資料もあります。本記事はどれか一つに決めず、東北25〜26藩に北越6藩が加わったと書きます。

事典類はまた、処分強硬派と目された新政府側の参謀、世良修蔵が殺害されたことも記しています。日本大百科全書によれば、慶応4年閏4月20日、福島で仙台・福島両藩士に捕らえられ、斬られました。

江戸城の明け渡しは、戦争の終わりではなく、戦場が江戸から離れていく転換点でした。新政府は東征大総督の有栖川宮熾仁親王のもとで軍を進め、東北諸藩は同盟を組んでこれに対しました。

筆者
筆者

海舟先生、江戸城を渡したあとも戦いは続きました。上野で彰義隊が壊滅したとき、先生は江戸にいらしたはずです。どんなふうに知らされたのでしょう

勝海舟AI
勝海舟AI

その日おれが誰から何を聞いたかは、日記のほかにゃ確かめようがねえ。見てきたように語るのはよそう。

上野の山で一日のうちに片がついた、大村という男が指図した、と事典は書いておるそうだな。

城を渡せば戦が終わる、という話じゃなかった。それは日付を並べりゃ、おまえさんにも見えるだろうよ。

北越戦争と会津戦争|長岡・会津はなぜ最後まで戦ったのか

この章で確かめたことです。長岡藩は慶応4年5月2日の小千谷での談判が決裂して同盟に加わり、5月19日(7月8日)に長岡城が落城、7月24日に奪還、7月29日に再び落城しました。

会津は8月23日(10月8日)に城下へ攻め込まれ、約1か月の籠城ののち9月22日(11月6日)に降伏しました。

日付出来事
慶応4年5月2日長岡藩の河井継之助が小千谷で新政府軍と談判し、決裂
5月19日(7月8日)長岡城が落城
7月24日長岡藩が長岡城を奪還
7月29日長岡城が再び落城
8月16日河井継之助が会津塩沢で没する
8月23日(10月8日)新政府軍が若松城下に突入。白虎隊が飯盛山で自刃(事典によっては22日)
9月8日(10月23日)明治に改元
9月22日(11月6日)会津藩が降伏。仙台・米沢も9月に降伏し、列藩同盟は崩壊

「なぜ最後まで戦ったのか」について、本記事は資料が書く範囲でしか書きません。長岡については、山川 日本史小辞典が河井継之助についてこう記しています。

5月小千谷に東山道軍軍監岩村高俊を訪ね中立の趣旨を弁明するがいれられず

出典:コトバンク「河井継之助」(山川 日本史小辞典 改訂新版)

つまり長岡藩は、当初は中立を申し入れ、それが受け入れられなかったために戦いに入りました。河井は戦いのなかで負傷し、8月16日に会津塩沢で亡くなっています。

会津については、事典類が「会津藩赦免願が拒否されると」東北諸藩が同盟を結んだ、と記しています。赦免を求めて退けられた、という順番です。藩士たちがどんな思いで戦ったかは、本記事では断定しません。

会津戦争では、慶応4年8月23日(1868年10月8日)に板垣退助の指揮する新政府軍が若松城下に突入しました。

籠城の日数は、日本大百科全書と改訂新版 世界大百科事典が「1か月」としています。ブリタニカは「3ヵ月にわたる死闘」と書きますが、籠城だけを指すのか戦争全体を指すのかは、本文からは読み取れません。

筆者
筆者

海舟先生、長岡も会津も、最初は中立や赦免を申し入れています。江戸にいた先生のもとには、東北の戦況はどのように届いていたのでしょうか

勝海舟AI
勝海舟AI

北の戦のことを、おれが見てきたように語るわけにはいかねえ。そこは史料で確かめておくれ。

長岡は初めに中立を申し出て容れられず、会津は赦しを願って退けられた。そこまでは、そなたらの世の事典が記す順のとおりさ。

藩士たちが何を思って戦ったかは、おれの口から言えることじゃねえ。

白虎隊についても、数字を正確に書いておきます。16〜17歳の藩士子弟で編成された部隊のうち、飯盛山にたどり着いた20名が自刃し、19名が亡くなりました。飯沼貞吉ひとりが蘇生しています。会津若松観光ナビも「1人だけ生き残った飯沼貞吉」と説明しています。

「全員が自決した」と書く解説を見かけますが、1名が生き残っているため正確ではありません。また、白虎隊が自刃したのは、城の周辺の煙を落城と誤認したためと会津若松観光ナビは説明しています。

会津藩の戦後については、改訂新版 世界大百科事典とマイペディアによれば、容保の子・容大に陸奥斗南3万石が与えられました。

箱館戦争|榎本武揚と土方歳三、五稜郭で戦争が終わる

この章の結論です。慶応4年8月19日、榎本武揚が旧幕府の軍艦8隻を率いて品川沖を脱走し、10月下旬に箱館の五稜郭を占拠しました。

明治2年5月11日(1869年6月20日)の総攻撃で土方歳三が戦死し、5月18日(6月27日)に榎本が降伏して、戊辰戦争は終わりました。

箱館戦争の7か月
  • 慶応4年8月19日|榎本武揚が軍艦8隻を率いて品川沖を脱走(日本大百科全書は「9月19日夜半」と記す)
  • 10月20日|蝦夷地の鷲ノ木に上陸(函館市の説明による)
  • 10月下旬|箱館・五稜郭を占拠。山川 日本史小辞典と日本大百科全書は25日、函館市は26日とする
  • 12月15日|榎本を総裁とする政権が成立
  • 明治2年5月11日(1869年6月20日)|新政府軍の箱館総攻撃。土方歳三が一本木で戦死
  • 5月15日|弁天岬台場が降伏
  • 5月18日(6月27日)|榎本武揚以下が降伏し、五稜郭が開城

脱走の日付は、山川 日本史小辞典が8月19日とし、日本大百科全書は「9月19日夜半」と記します。本記事は8月19日とする資料が多いことを示すにとどめ、どちらかを誤りとは書きません。

この艦隊には咸臨丸も加わっていました。しかし途中で漂流し、9月に駿河の清水湊で新政府軍に捕獲されています。その経緯は、咸臨丸の記事で書いています。

明治元年12月15日、榎本を総裁とする政権が箱館に成立します。この政権を、山川 日本史小辞典は「蝦夷島政府」、函館市は「蝦夷地仮政権」と呼びます。

「蝦夷共和国」という呼び方が広く知られていますが、今回確認した事典と自治体の説明では、その語は確認できませんでした。ただし日本大百科全書は、人事の公選などを根拠に、この政権を「共和国」とする見方があることに触れています。

明治2年5月11日、新政府軍が箱館を総攻撃します。日本大百科全書は、土方歳三について「明治2年5月11日、箱館一本木で戦死」と記しています。

5月15日に弁天岬台場が降伏し、5月18日に榎本武揚以下が降伏しました。函館市は、これで「7ヶ月に及ぶ戦争が終結」したと説明しています。

降伏した榎本は投獄されましたが、日本大百科全書によれば、黒田清隆・福沢諭吉らの尽力で1872年に出獄しました。その後は開拓使に出仕し、ロシア公使として樺太・千島交換条約を結び、各大臣を歴任しています。

筆者
筆者

海舟先生、榎本さんが艦隊を率いて江戸を離れたのは、先生が江戸城を渡したあとのことでした。あの出航を、先生はどう聞いておられましたか

勝海舟AI
勝海舟AI

城を渡したあとの八月に、榎本が軍艦八隻を連れて品川を出た。そう伝わっておるな。九月と書く事典もあるそうだが。

あの出航をおれがどう聞いたかは、日記のほかに足すつもりはねえよ。

船は箱館まで行き、翌年の五月に降った、とそなたらの世の史料は記すそうだな。そのあと榎本がどう世に戻ったかは、事典に任せるよ。

戊辰戦争の結果|死者数はなぜ資料で割れるのか、「官軍・賊軍」と書かない理由

この章で確かめたことです。戦死者数は、今回確認したコトバンクの10項目(事典・用語集)と、国立公文書館・国立国会図書館の該当ページのいずれにも載っていません。8,000人を超えるとする解説はありますが、本記事はその原典を確認していません。

戦死者数は資料でどう違うか

戦死者数について、今回確認した資料が何を書いているかを並べます。

資料戦死者数の記載
コトバンク収録の10項目(日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典・山川 日本史小辞典ほか)記載なし
国立公文書館・国立国会図書館の該当ページ記載なし
会津若松市観光事業「戊辰戦争150周年ガイド」会津藩士約3000人が亡くなり、婦女子233人が自害(会津藩の数字)
解説サイトの一部8,000人を超えるとするものがある。井上清『日本の歴史20 明治維新』や『明治史要』の付表を根拠に挙げる例もあるが、本記事は原典を確認していない

8,000人という数字は、複数の解説がそう書いている、という以上のことは今回確認できません。全体の数字を載せる公的資料は、今回の調べでは見つかりませんでした。

会津藩の数字は、会津若松市の観光事業が運営する「戊辰戦争150周年ガイド」によるものです。戦争全体ではなく、会津藩についての数字です。

なお、新政府側に立って亡くなった人々を祀るため、明治2年6月29日に東京招魂社が創建されました。のちの靖國神社です。靖國神社の「靖國神社史」は、5月18日の「戊辰の役(戦争)終結」に続けて、この創建を記しています。

徳川家と会津藩はその後どうなったか

徳川家は、慶応4年5月に70万石の大名として存続が決まりました(のちの静岡藩)。家督を継いだのは田安亀之助、のちの徳川家達です。

慶喜自身は、鳥羽・伏見のあと江戸へ戻って上野の寛永寺で謹慎し、江戸開城の日に水戸へ移りました。のちに駿府(静岡)へ移って長く暮らします。

コトバンクの事典類によれば、慶喜は1902年(明治35年)に公爵となりました。駿府は、静岡藩の城地でもありました。

会津藩は、藩主松平容保の子・容大に陸奥斗南3万石が与えられました。

日本大百科全書は、戊辰戦争の結果を「徳川幕藩体制が完全に解体」と要約しています。大政奉還は、そのあとの王政復古と戊辰戦争へ続く流れの一段階だったことが、この要約からも読み取れます。

筆者
筆者

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「勝てば官軍」という言葉と、この記事の呼び方

「勝てば官軍」は慣用句として、デジタル大辞泉に立項されています。「官軍」とは、改訂新版 世界大百科事典によれば「朝廷側の軍隊」で、「狭義には戊辰戦争時の新政府側軍隊を指す」とされます。

同じ事典の「賊軍」の項は、「幕府側は〈賊軍〉とされた」と受け身で書いています。

本記事が「官軍」「賊軍」を地の文で使わず、新政府軍/旧幕府軍と書いているのは、そのためです。どちらの側にも立たない言い方を選びました。当時の呼び名として紹介するときだけ、括弧付きで示しています。

筆者
筆者

海舟先生、『勝てば官軍』という言葉があります。先生ご自身は、戦争のあと、旧幕府の側をどう呼んでおられたのでしょうか

勝海舟AI
勝海舟AI

勝てば官軍、という言い回しは世間の言葉さ。おれの言葉として受け取られちゃ困るぜ。

戦のあとにおれが幕府の側を何と呼んでおったかは、談話や日記を一つずつ当たってもらうほかねえ。ここで決めつけはしねえよ。

幕府側は賊軍とされた、と受け身で書いてあるそうだな。呼び名ってのは、たいてい一方の側から付くものさ。

戊辰戦争は避けられたのか|よく言われる3つの説明を検証する

「避けられたのか」という問いに、本記事は「もし」で答えません。代わりに、よく言われる3つの説明について、史料で確認できたことを並べます。

よく言われる3つの説明と、確認できたこと
  • 「大政奉還で戦争は終わるはずだった」→ 徳川家の辞官納地が決まらないまま、大政奉還の約2か月半後に鳥羽・伏見で開戦した
  • 「薩摩の挑発が原因だった」→ 日本大百科全書は薩摩藩邸焼き討ちの報を鳥羽・伏見の直接の引き金と書く。ただし対立は12月9日の辞官納地の決定にさかのぼる
  • 「錦の御旗で勝負が決まった」→ 公的資料が書くのは「御旗を掲げた新政府軍が勝利した」まで。旗が勝敗を決めたとは書いていない

1つ目の説明は、大政奉還を政権交代の完了とみなす前提に立っています。しかし前の章で見たとおり、大政奉還は一段階でした。返したあとの徳川家の扱いが未決のまま、約2か月半後に戦いが始まったことは、事典の日付から確認できます。

2つ目の説明は、半分は事典の記述と合っています。日本大百科全書は焼き討ちの報が鳥羽・伏見の始まりにつながったと書いています。ただし、それは最後の引き金であり、辞官納地をめぐる対立が先にありました。

3つ目の説明は、今回確認した公的資料にはありません。旗が士気に与えた影響を書く解説は多いのですが、国立公文書館と改訂新版 世界大百科事典が書くのは、旗が用いられたこと、指揮体系が整ったこと、掲げた側が勝ったことまでです。

「もし小栗の主戦論が通っていたら」という問いは、本記事では扱いません。その問いには、小栗忠順の「もしも」を史実から検証した記事があります。坂本龍馬についても同じ型の記事があり、「大政奉還の2か月半後に開戦」という整理はそちらと一致させています。

ここで、二人に同じ問いを投げてみます。二人が戊辰戦争について語り合った記録は、本記事では確認できていません。以下は「もし語り合えたなら」という創作として読んでください。

筆者
筆者

お二人にうかがいます。小栗さんは抗戦を唱え、海舟先生は戦わずに済ませる道を探しました。慶応4年の1月、それぞれの目に、幕府はどう見えていたのでしょうか

小栗忠順AI
小栗忠順AI

ここからは、創作としての物言いと思われよ。あの正月に私が何をどう見ておったかを伝える記録は、そなたらの世には残っておらぬそうな。

私が申したと事典が記すのは、戦うべし、ということのみでございます。中身は語らぬと、先ほど申し上げました。

横須賀製鉄所の建設は、あのときまだ続いておりました。それは記録のうえでも確かでございましょう。

勝海舟AI
勝海舟AI

ここからは、おれも創作の物言いだと思っておくれ。おれは戦わずに済む道を探した。そこまでは、そなたらの世の史料のとおりさ。

あの人の言い分が容れられなかった、と事典は書く。おれとあの人が戦のことを語り合った記録は、確かめられておらぬそうだな。

同じ城にいて、見えていたものが違った。そういうことにしておこうじゃねえか。

戊辰戦争の流れを年表で確認(和暦・西暦)

ここまでの出来事を、和暦と西暦を並べた年表にまとめます。年齢は載せません。旧暦の日付を西暦に直すと月が変わることが多いためです。

和暦西暦出来事
慶応3年10月14日1867年11月9日徳川慶喜が大政奉還を上表(15日勅許)。同時期に薩長へ討幕の密勅(島津父子あて13日付、毛利父子あて14日付)
慶応3年12月9日1868年1月3日王政復古の大号令。同夜、小御所会議で慶喜の辞官納地を決定
慶応3年12月25日1868年1月19日江戸の薩摩藩邸焼き討ち
慶応4年1月3日〜6日1868年1月27日〜30日鳥羽・伏見の戦い。慶喜は海路で江戸へ
慶応4年1月11日1868年2月4日勝海舟が伏見の顛末を初めて聞く(日記)
慶応4年1月15日1868年2月8日小栗忠順が御役御免
慶応4年3月1日1868年3月24日小栗が上州権田村に土着
慶応4年3月9日1868年4月1日山岡鉄舟が駿府で西郷隆盛と接触
慶応4年3月13日・14日1868年4月5日・6日江戸の薩摩藩邸で勝と西郷の会談。14日は五箇条の誓文と同じ日
慶応4年3月15日1868年4月7日新政府軍の江戸総攻撃予定日(中止)
慶応4年4月11日1868年5月3日江戸城明け渡し。慶喜は水戸へ
慶応4年閏4月6日1868年5月27日小栗忠順が水沼河原で斬首(5日とする史料もある)
慶応4年5月3日1868年6月22日東北諸藩が奥羽列藩同盟を結ぶ(のち北越6藩が加わり奥羽越列藩同盟に)
慶応4年5月1868年6〜7月徳川家達に駿河・遠江・三河70万石
慶応4年5月15日1868年7月4日上野戦争。彰義隊が1日で壊滅
慶応4年5月19日1868年7月8日長岡城落城(7月24日奪還、29日再落城)
慶応4年8月19日1868年10月4日榎本武揚が軍艦8隻で品川沖を脱走(日本大百科全書は9月19日)
慶応4年8月23日1868年10月8日新政府軍が若松城下へ。白虎隊が飯盛山で自刃(事典によっては22日)
慶応4年9月8日1868年10月23日明治に改元
明治元年9月22日1868年11月6日会津藩降伏。列藩同盟が崩壊
明治元年10月下旬1868年12月榎本らが箱館・五稜郭を占拠
明治元年12月15日1869年1月榎本を総裁とする政権が成立
明治2年5月11日1869年6月20日新政府軍の箱館総攻撃。土方歳三が戦死
明治2年5月18日1869年6月27日榎本武揚らが降伏、五稜郭開城。戊辰戦争終結
明治2年6月29日1869年8月6日東京招魂社(のち靖國神社)創建

日付の書き方には注意が要ります。和暦の慶応4年4月11日は、西暦では1868年5月3日です。「1868年4月11日」と書くと、西暦の日付とは1か月近くずれます。

事典やサイトによっては、和暦の日付に西暦の年だけを添えて「1868年4月11日」と表記しているものもあります。それは年どうしの対応表記であって誤りではありませんが、本記事では両方を並べて書きました。

換算の基準にしたのは、公的資料に西暦が併記されている日付です。慶応3年12月9日=1868年1月3日(デジタル大辞泉)、4月11日=5月3日(マイペディア)などから逆算し、矛盾がないことを確かめています。

よくある質問(FAQ)

戊辰戦争の読み方と「戊辰」の意味は?

「ぼしんせんそう」と読みます。「戊辰」は干支の第5番目「つちのえたつ」で、1868年がこの年にあたることから名づけられました。「戊辰の役」とも呼ばれます。

戊辰戦争はいつからいつまで?何か月続いたのですか?

慶応4年1月3日(1868年1月27日)の鳥羽・伏見の戦いから、明治2年5月18日(1869年6月27日)の五稜郭開城までです。517日、約1年半にわたりました。

戊辰戦争は誰と誰が戦ったのですか?

王政復古で成立した新政府(薩摩・長州など)と、旧幕府側の諸勢力です。旧幕府側は、旧幕府軍、東北諸藩の奥羽越列藩同盟、榎本武揚らの箱館勢力へと移り変わりました。

大政奉還したのに、なぜ戊辰戦争が起きたのですか?

政権を返したあとの徳川家の扱いが定まっていなかったからです。12月9日の小御所会議で辞官納地を命じる方針は決まりましたが、その範囲と実行は定まらず、江戸の薩摩藩邸焼き討ちの報をきっかけに、旧幕府軍が京都へ進みました。

鳥羽・伏見の戦いと戊辰戦争の違いは?

鳥羽・伏見の戦いは戊辰戦争の最初の戦いで、慶応4年1月3日から6日まで続きました。戊辰戦争はそこから箱館戦争までの一連の内戦全体を指します。

戊辰戦争と西南戦争の違いは?

戊辰戦争は1868〜69年、新政府と旧幕府側の内戦です。西南戦争は1877年、私学校の士族に擁立された西郷隆盛が新政府と戦ったもので、戦った相手も時期も異なります。

戊辰戦争の死者数はどれくらいですか?

8,000人を超えるとする解説がある一方、今回確認したコトバンクの10項目と国立公文書館・国立国会図書館の該当ページは数字を載せていません。本記事は、解説が挙げる原典を確認していません。

戊辰戦争で勝海舟は何をしたのですか?

慶応4年3月13日・14日に江戸の薩摩藩邸で西郷隆盛と会談し、3月15日に予定されていた江戸総攻撃が中止されました。山岡鉄舟が先に西郷と接触しており、勝ひとりの功績ではありません。

小栗忠順は戊辰戦争でどうなったのですか?

新政府への抗戦を主張して慶応4年1月15日に御役御免となり、上州権田村に移りました。閏4月6日(1868年5月27日)、水沼河原で斬首されています(5日とする史料もあります)。

戊辰戦争は江戸城の明け渡しから始まったのですか?

いいえ。始まりは慶応4年1月3日の鳥羽・伏見の戦いです。江戸城の明け渡しは4月11日(1868年5月3日)で、そのあとも上野・北越・会津・箱館で戦いが続きました。

インタビュー後記|口を開く者がいなかった日

この記事を書きながら、何度も戻った一文があります。慶応4年1月11日の勝海舟の日記、「敢て口を開らく者なし」です。

鳥羽・伏見で負けたことを初めて聞いた日、江戸城では誰もが青い顔で目配せをするばかりだった。負けた理由も、これからどうするかも、口にする者がいなかった。勝は、そう書き残しています。

諸官唯青色、互に目をもってし、敢て口を開らく者なし。

出典:国立国会図書館「日記の世界」勝海舟:慶応4年1月11日の日記より

政権を返した2か月半後に、返した側と受け取った側が戦った。この奇妙さは、大政奉還を「終わり」と見るから生まれます。返したあとに何を決めるのか、その最も大きな部分が決まっていなかったことを、事典の日付は淡々と示していました。

小栗は抗戦を唱えて、開戦から12日後に御役御免となり、その後、勝は江戸城を戦わずに明け渡すための交渉を担いました。そのどちらが正しかったかを、本記事は判断しません。

戦死者の数さえ、事典は載せていませんでした。8,000人を超えるという数字の原典も、本記事では確かめきれていません。分からないことを分からないまま書くのは、心細いことです。

けれど、口を開く者がいなかった日の記録が残り、そこから517日のあいだに何が起きたかを日付で追えること。それだけでも、この戦争を「幕府が負けて終わった」の一言で片づけずに済むと私は思っています。

2027年の大河ドラマ『逆賊の幕臣』では、小栗忠順の抗戦論がどう描かれるのでしょうか。放送を見てから、小栗の章を読み直すつもりです。あらすじの整理はこちらです。

参考資料

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