明治維新の人物一覧!幕末の主要人物47人を陣営別に偉人AIと解説

明治維新の人物一覧!幕末の主要人物47人を陣営別に偉人AIと解説 時代・文化

幕末の人物の表を作っていて、没年の列を足したところで手が止まりました。

坂本龍馬、高杉晋作、吉田松陰。維新の顔として真っ先に名前が挙がる人たちが、明治という時代を1日も生きていないのです。

知りたかったのは、誰がどの陣営にいて、明治まで生き延びたのか、新政府で何になったのかでした。それを1枚ずつの表で見たくて、この記事を作りました。

この記事の結論

明治維新の主な人物は、幕府・薩摩・長州・土佐・新選組・朝廷、それに肥前などの陣営に分かれます。この記事では47人を表にしました。

47人のうち14人は明治への改元(1868年10月23日)の前に亡くなり、24人が中央政府の主要官職に就きました。維新の三傑と呼ばれるのは、西郷隆盛・大久保利通・木戸孝允の3人です。

47人は筆者が選んだ人数で、事典が定めた数ではありません。幕府の側からも、明治政府へ入った人がいます。

  • 47人
    この記事で一覧にした人物
  • 14人
    明治への改元前に死去
  • 24人
    中央の主要官職に就いた人

この記事では、陣営ごとの表で生没年・幕末の働き・明治での立場を確かめ、そのあと明治政府の顔ぶれと、47人を数えて分かったことをまとめます。

陣営ごとの答え役として、勝海舟AI(勝海舟をモデルにしたAI)のほか、小栗忠順・西郷隆盛・高杉晋作・坂本龍馬・土方歳三・岩倉具視・伊藤博文のAIに答えてもらいます。

※以下のインタビュー部分は、公開されている史料をもとに各人物の人物像を再現した創作です。実際の発言ではありません。各AIは本人の没年までのことだけを知っている設定で、没後の出来事は筆者が伝えます。
出典の確かめ方と、公開前に行っているチェックは編集方針にまとめています。

筆者
筆者

勝先生、人物一覧を作ってみると、幕府側から明治政府へ移った人もいるのですね。

勝海舟AI
勝海舟AI

人を表に押し込むとは、おめえさんも役人向きだね。

移った者がいりゃ、坂本や高杉のように、明治の年号を一度も書かずに終わった者もいるさ。

で、おれはどの欄だい。

筆者
筆者

幕府の欄で、しかも明治政府へ移った側です。1873年に参議兼海軍卿になっています。

勝海舟AI
勝海舟AI

そこを突かれると、福沢に叱られた話を思い出すな。

行蔵は我に存す、毀誉は他人の主張。そう返しておいたよ。恥じ入る、とも書き添えたがね。

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HAGY(へいじい)
この記事を書いた人
HAGY(へいじい)
ウェブマーケティング(SEO・SNS)を仕事にしている歴史好きです。子どもの頃は、教科書や歴史漫画で偉人の名前を覚えるだけでした。高野山真言宗の尼僧と結婚し、空海を調べるうちに、その時代の空気や周りの人々まで気になるようになりました。これまでに100を超える偉人AIを作ってきました。

明治維新の人物はどの陣営にいた?47人の一覧の見方

明治維新の人物を分ける陣営は、幕府・薩摩・長州・土佐・新選組・朝廷・肥前ほかの7つです。

陣営ごとの答え
  • 幕府の9人は? → 4人が改元前に死去、3人が明治政府へ
  • 薩摩の7人は? → 島津斉彬を除く6人が中央政府の主要官職に
  • 長州の8人は? → 3人が改元前に死去、5人が新政府へ。総理大臣が2人
  • 土佐の6人は? → 龍馬と中岡が暗殺され、3人が新政府へ
  • 新選組の5人は? → 中央政府の主要官職に就いた人はいない
  • 朝廷の5人は? → 三条実美と岩倉具視が政府の頂点に
  • 肥前ほかの7人は? → 5人が中央政府の主要官職に。大隈重信はのちに総理大臣

明治維新がいつからいつまでかは、事典でも幅があります。デジタル大辞泉は始まりと終わりに諸説あるとしたうえで、西南戦争(1877年)までをいうことが多いと説明しています。

この記事は、ペリー来航(1853年)のころから西南戦争のころまでに働いた人物を対象にしました。そのため、井伊直弼のように明治まで生きなかった人も表に入っています。

参考:明治維新|コトバンク

陣営は、その人の幕末の主な足場で分けています。薩摩と長州には1866年に手を結ぶまで敵どうしの時期があり、幕臣から新政府へ移った人もいるので、線は固定ではありません。

「中央政府の主要官職」は、参与・議定・参議・卿・大輔・大臣・元老院議官・大蔵大丞などを数えました。警察官・学校職員・神職は含めません。

表の年齢はすべて満年齢です。生年は西暦に換算した年で書いたので、旧暦の年末に生まれた西郷隆盛などは、事典の見出しと1年ずれて見えることがあります。

幕府の人物9人 大老・将軍から明治政府へ入った幕臣まで

幕府の9人のうち、4人は改元の前に亡くなり、3人は中央政府の主要官職に就きました。

人物生没年(没時の満年齢)幕末の働き明治での立場と最期
徳川慶喜(とくがわ よしのぶ)1837〜1913年(76歳)15代将軍。1867年に大政奉還を上表明治政府の官職には就かず。1902年に公爵
徳川家茂(とくがわ いえもち)1846〜1866年(20歳)14代将軍。和宮と婚儀。第2次長州征討の最中に大坂城で死去維新前に病死
井伊直弼(いい なおすけ)1815〜1860年(44歳)大老。勅許のないまま日米修好通商条約に調印し、安政の大獄を進めた桜田門外の変で暗殺
阿部正弘(あべ まさひろ)1819〜1857年(37歳)老中首座。ペリー来航に対応し、日米和親条約を締結維新前に病死
小栗忠順(おぐり ただまさ)1827〜1868年(40歳)勘定奉行・外国奉行。横須賀製鉄所の建設を推進1868年5月、新政府軍に捕らえられ斬首
勝海舟(かつ かいしゅう)1823〜1899年(75歳)軍艦奉行。1868年に西郷隆盛と交渉し、江戸城の無血開城に貢献参議兼海軍卿(1873年)。のちに枢密顧問官
榎本武揚(えのもと たけあき)1836〜1908年(72歳)海軍副総裁。箱館の五稜郭で抗戦し、1869年に降伏初代逓信大臣(1885年)。農商務相・文相・外相も歴任
大久保一翁(おおくぼ いちおう)1818〜1888年(70歳)1862年に政権奉還論を唱えて免職。1868年、会計総裁・若年寄として江戸開城にあたる東京府知事(1872年)、元老院議官(1877年)
松平容保(まつだいら かたもり)1836〜1893年(57歳)会津藩主・京都守護職。戊辰戦争で会津が降伏明治政府の官職には就かず。1880年に日光東照宮宮司

表の右端を上から読むと、幕府の人物の分かれ方がはっきりします。

将軍と大老は明治を見ずに終わるか、官職に就かずに生きます。一方で、海軍や会計の役目を担った勝と榎本と一翁は、明治政府でも席を得ています。

榎本は、箱館で新政府軍と戦って降伏した人物です。その榎本が、1885年に発足した最初の内閣で逓信大臣になっています。

筆者
筆者

小栗さん、この9人のうち、勝海舟・榎本武揚・大久保一翁の3人が、のちに明治政府の主要な官職に就きます。

小栗忠順AI
小栗忠順AI

9のうち3。割合にして3分の1でございますな。

新しき政府とて、帳面を読める者と船を動かせる者がいなければ始まりませぬ。勘定には合うております。

ところで筆者どの、この9人のうち、誰の下で働きたいと思われますか。

筆者
筆者

榎本武揚です。オランダで学び、箱館で負けたあとに大臣まで務めた人の話を聞いてみたいので。

小栗忠順AI
小栗忠順AI

負けたあとに席が残るとは。

私の帳面には、その項目がございませなんだ。

小栗忠順の働きと最期は、こちらの記事で詳しくたどっています。

薩摩の人物7人 7人中6人が中央政府の主要官職に就いた藩

薩摩の7人のうち、改元の前に亡くなったのは島津斉彬だけで、ほかの6人は中央政府の主要官職に就きました。

人物生没年(没時の満年齢)幕末の働き明治での立場と最期
島津斉彬(しまづ なりあきら)1809〜1858年(49歳)薩摩藩主。集成館事業を興し、西郷隆盛らを登用維新前に病死
島津久光(しまづ ひさみつ)1817〜1887年(70歳)藩主の父。1862年に藩兵を率いて上京し、幕政改革を実現左大臣(1874年)。のちに辞官
西郷隆盛(さいごう たかもり)1828〜1877年(49歳)薩長同盟、王政復古、江戸開城に関わる参議(1871年)。1873年に辞職し、西南戦争の城山で最期
大久保利通(おおくぼ としみち)1830〜1878年(47歳)岩倉具視と結び、王政復古を推進参議兼内務卿(1873年)。紀尾井坂で暗殺
小松帯刀(こまつ たてわき)1835〜1870年(34歳)薩摩藩家老。薩長同盟に関わり、1867年に慶喜へ大政奉還を進言参与・外国官副知事(1868年)。1869年に辞官し、翌年病死
五代友厚(ごだい ともあつ)1836〜1885年(49歳)薩英戦争で捕虜に。1865年に留学生を率いて渡欧参与・外国事務局判事など(1868年)。1869年に退官し、大阪の実業界へ
黒田清隆(くろだ きよたか)1840〜1900年(59歳)箱館の五稜郭攻めの参謀。榎本武揚の助命に努めた第2代内閣総理大臣(1888年)

7人中6人という割合は、7つの陣営のなかで最も高い数字でした。

ただ、官職に就いたあとの道は分かれています。

西郷は1873年に政府を去り、大久保は政府に残って内務卿となりました。五代は早くに官を離れ、大阪で実業の道へ進みます。小松は1870年に満34歳で病死しました。

箱館で榎本武揚の助命に努めた黒田清隆と榎本は、1880年代には同じ内閣に名を連ねます。敵味方の線は、明治に入って引き直されたのでしょう。

筆者
筆者

西郷さん、大久保さんは西南戦争の翌年、東京で暗殺されました。

西郷隆盛AI
西郷隆盛AI

そうでごわすか。一蔵どんが、そげな最期を。

おいどんと一蔵どんは、しまいには敵味方の形になりもした。そいでも、いま問われれば、あん男の働きを悪う言う気にはなれもはん。

おはんは、何のためにこん表を作りもしたか。

筆者
筆者

誰がどちら側で、どんな最期だったかを、一度に見られるようにしたかったからです。

西郷隆盛AI
西郷隆盛AI

そいなら、名より働きを読んでもらいたかでごわす。

敬天愛人。名は後からついてくるもんでごわんど。

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長州の人物8人 松下村塾の門下から総理大臣が2人

長州の表には、改元の前に亡くなった松陰・高杉・久坂と、のちの総理大臣である伊藤・山県が並びます。

人物生没年(没時の満年齢)幕末の働き明治での立場と最期
吉田松陰(よしだ しょういん)1830〜1859年(29歳)松下村塾で高杉・久坂・伊藤・山県らを教えた安政の大獄で処刑
高杉晋作(たかすぎ しんさく)1839〜1867年(27歳)奇兵隊を結成。功山寺挙兵で藩論を転換維新前に肺結核で病死
久坂玄瑞(くさか げんずい)1840〜1864年(24歳)藩論を尊攘へ導き、禁門の変を主導禁門の変で負傷し、自刃
木戸孝允(きど たかよし、桂小五郎)1833〜1877年(43歳)藩論を討幕へ導き、1866年に薩長同盟を結ぶ参議(1870年)。五箇条の誓文の草案、廃藩置県に関わる
大村益次郎(おおむら ますじろう)1824または1825〜1869年(44〜45歳)第2次長州征討と戊辰戦争で軍略を担う兵部大輔(1869年)。京都で襲われ、その傷がもとで死去
伊藤博文(いとう ひろぶみ)1841〜1909年(68歳)松下村塾に学び、1863年にイギリスへ密航初代内閣総理大臣(1885年)。ハルビン駅で暗殺
井上馨(いのうえ かおる)1836〜1915年(79歳)1863年にイギリスへ密航し、帰国後は開国論へ外務大臣(1885年)。元老
山県有朋(やまがた ありとも)1838〜1922年(83歳)奇兵隊の軍監。戊辰戦争で参謀を務める第3代内閣総理大臣(1889年)。元老

8人のうち3人が改元の前に亡くなり、5人が中央政府の主要官職に就きました。

松陰と高杉と久坂は、いずれも満30歳に届かず亡くなっています。その松陰の塾に学んだ伊藤と山県が、のちに内閣を率いました。

同じ塾の名簿のなかで、改元の前に命を落とした人と、内閣を率いた人が並ぶわけです。維新の三傑の1人である木戸孝允も、長州の出身です。

筆者
筆者

高杉さんは満27歳で亡くなりました。松下村塾にいた伊藤博文さんと山県有朋さんは、のちに総理大臣になります。

高杉晋作AI
高杉晋作AI

俊輔が!それはおもしろい。

僕の知る俊輔は、まだ若造じゃったが。

その総理大臣というのは、将軍のようなものかね。

筆者
筆者

政府を率いる役職です。1885年に内閣ができて、その初代が伊藤さんでした。

高杉晋作AI
高杉晋作AI

将軍のおらん世の天下の頭を、俊輔がやるのか。

腹を抱えて笑いたいところじゃが、それがいちばんおもしろい落ちかもしれん。

土佐の人物6人 龍馬の暗殺後、後藤と板垣が明治を動かす

土佐の6人のうち、坂本龍馬と中岡慎太郎は改元の前に暗殺され、3人が中央政府の主要官職に就きました。

人物生没年(没時の満年齢)幕末の働き明治での立場と最期
山内容堂(やまうち ようどう)1827〜1872年(44歳)土佐藩主。1867年に慶喜へ大政奉還を建白議定・内国事務総裁(1868年)。1869年に辞官
坂本龍馬(さかもと りょうま)1836〜1867年(31歳)亀山社中と海援隊。1866年の薩長同盟を周旋し、木戸の書簡に裏書近江屋で暗殺
中岡慎太郎(なかおか しんたろう)1838〜1867年(29歳)薩長同盟を周旋。1867年に陸援隊を組織近江屋で龍馬とともに襲われ、2日後に死去
後藤象二郎(ごとう しょうじろう)1838〜1897年(59歳)大政奉還の建白運動を主導参議(1873年)。逓信大臣(1889年)、農商務大臣(1892年)
板垣退助(いたがき たいすけ)1837〜1919年(82歳)戊辰戦争で東山道先鋒総督府の参謀を務める参議(1871年)。自由党総理(1881年)。内務大臣(1896年)
岩崎弥太郎(いわさき やたろう)1835〜1885年(50歳)長崎の土佐商会主任。海援隊の資金や船の事務に関わる明治政府には入らず、三菱の原点となる事業を築いた

土佐で目を引くのは、大政奉還の建白に関わった人たちの、その後の広がりです。

後藤は政府の大臣となり、板垣は1873年に政府を去って1874年に民撰議院設立建白書を出し、1881年に自由党の総理になりました。政府の外から政府に物を言う人が、土佐から出ています。

岩崎弥太郎は官職に就かず、九十九商会を足場に事業へ進みました。同じ藩の出身でも、明治の居場所はこれだけ違います。

龍馬の生涯を物語で追うなら、武田鉄矢さん原作、小山ゆうさん作画の漫画『お〜い!竜馬』があります。全23巻で完結している作品です。

筆者
筆者

龍馬さん、後藤象二郎さんは大臣になり、板垣退助さんは議会を開けと建白書を出して、自由党の総理になります。

坂本龍馬AI
坂本龍馬AI

ほう、象二郎が大臣で、退助は議会を開けと言うたがか。こりゃあ愉快ぜよ。

政の外から政に物を言う者が出てきた。日本が広うなった証拠じゃき。

ときに、おまんはわしの欄に何と書いちゅうが。

筆者
筆者

薩長同盟の周旋と、木戸さんの書簡への裏書です。明治の欄は、近江屋で暗殺とだけ。

坂本龍馬AI
坂本龍馬AI

裏書か。字の一つも残しておくもんじゃのう。

明治の欄が短いなら、読むもんが勝手に広げればえいぜよ。

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新選組の人物5人 中央政府の主要官職に就いた人はいない

新選組の5人に、中央政府の主要官職に就いた人はいません。近藤勇と沖田総司は改元の前に亡くなり、土方歳三は箱館で戦死しました。

人物生没年(没時の満年齢)幕末の働き明治での立場と最期
近藤勇(こんどう いさみ)1834〜1868年(33歳)局長。京都守護職の下で活動し、池田屋事件に関わる流山で捕らえられ、板橋で斬首
土方歳三(ひじかた としぞう)1835〜1869年(34歳)副長。鳥羽・伏見ののち宇都宮・会津を転戦し、箱館へ箱館戦争で戦死
沖田総司(おきた そうじ)1842または1844〜1868年(23〜26歳)一番隊組長。池田屋事件で活躍肺の病で病死
永倉新八(ながくら しんぱち)1839〜1915年(75歳)二番隊組長。のちに松前藩へ戻り杉村義衛と改名中央政府の主要官職には就かず。剣術を教え、大正まで生きた
斎藤一(さいとう はじめ)1844〜1915年(70〜71歳)三番隊組長。会津戦争に山口二郎の名で参戦警視庁に勤務。のちに東京教育博物館の守衛など

新選組は京都守護職の松平容保の下で動いた組織で、1867年には近藤が幕臣に取り立てられています。ここでは幕府の表とは分けました。

斎藤一は警視庁に勤めましたが、警察官は集計の対象に含めていないので、24人には入っていません。

土方は改元のあとも生きましたが、箱館で新政府軍と戦い続けています。7つの表のなかで、明治の欄が最も短い表です。

土方の生涯を物語で読むなら、司馬遼太郎の小説『燃えよ剣』があります。新選組副長を描いた代表作で、歴史の記録ではなく小説です。

筆者
筆者

土方さん、新選組の5人で中央政府の主要官職に就いた人はいません。斎藤一さんは、あなたの没後に警視庁に勤めました。

土方歳三AI
土方歳三AI

斎藤らしい。

理由は本人に聞け。永倉はどうなった。

筆者
筆者

杉村義衛と改名して剣術を教え、あなたの死から46年後の1915年まで生きました。

土方歳三AI
土方歳三AI

近藤さんと別れた男が、そこまで生きたか。

それでいい。

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朝廷の人物5人 三条実美と岩倉具視が政府の頂点へ

三条実美と岩倉具視の2人が、太政大臣と右大臣として新政府の頂点に立ちました。孝明天皇は王政復古の前に亡くなっています。

人物生没年(没時の満年齢)幕末の働き明治での立場と最期
孝明天皇(こうめい てんのう)1831〜1867年(35歳)条約の勅許を拒み、攘夷を求めつつ公武合体を支持維新前に病死。死因には議論がある
明治天皇(めいじ てんのう)1852〜1912年(59歳)1867年に践祚。王政復古の大号令と五箇条の誓文は天皇の名で出された在位1867〜1912年
岩倉具視(いわくら ともみ)1825〜1883年(57歳)和宮の降嫁を推進。1867年に大久保らと王政復古を画策右大臣(1871年)。岩倉使節団の特命全権大使
三条実美(さんじょう さねとみ)1837〜1891年(53歳)尊攘派公家の中心。1863年の八月十八日の政変で京都を追われる太政大臣(1871〜1885年)。内閣制度の発足後は内大臣
和宮(かずのみや)1846〜1877年(31歳)14代将軍家茂に降嫁。1868年に徳川家の存続を嘆願官職なし。箱根で療養中に死去

三条実美は1863年の政変で京都を追われた人で、岩倉具視も一度は「四奸」として幽居に追い込まれています。その2人が、明治の太政官で太政大臣と右大臣を占めました。

和宮は47人のなかでただ1人の女性で、将軍の妻として徳川家の存続を嘆願しました。朝廷と幕府のどちらの表にも入れられる人ですが、皇女なので朝廷に置いています。

筆者
筆者

岩倉さん、朝廷の表は5人だけなのに、太政大臣と右大臣がこの中にいます。

岩倉具視AI
岩倉具視AI

その数を言う前に、そなたに一つ聞こう。

公家が2人上に座っておれば、公家が政を動かしたと読むのかの。

筆者
筆者

読みません。参議には薩長土肥の人が並んでいますから。

岩倉具視AI
岩倉具視AI

それでよい。席の高さと、手を動かす者とは、別の勘定じゃ。

そこまで読めるなら、表も役に立とう。

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肥前ほかの人物7人 薩長土肥の肥前と、藩の枠に入らない人たち

肥前の3人はそろって新政府の参議になり、大隈重信はのちに総理大臣になりました。ほかの4人では、横井小楠と渋沢栄一が中央政府の主要官職に就いています。

人物生没年(没時の満年齢)幕末の働き明治での立場と最期
大隈重信(おおくま しげのぶ)1838〜1922年(83歳)佐賀藩士。1867年に副島と脱藩上京し、大政奉還を説こうとした参議(1870年)。第8代内閣総理大臣(1898年)
江藤新平(えとう しんぺい)1834〜1874年(40歳)佐賀藩士。江戸開城の直後に江戸鎮台判事を務める司法卿(1872年)、参議(1873年)。佐賀の乱に敗れ処刑
副島種臣(そえじま たねおみ)1828〜1905年(76歳)佐賀藩士。フルベッキに英学を学ぶ参議(1869年)、外務卿(1871年)、内務大臣(1892年)
福沢諭吉(ふくざわ ゆきち)1835〜1901年(66歳)中津藩士の子。幕府の使節に3度随行し、『西洋事情』を著す明治以降は官職に就かず
佐久間象山(さくま しょうざん)1811〜1864年(53歳)松代藩士。塾で勝海舟・吉田松陰・坂本龍馬らを教えた京都で暗殺
横井小楠(よこい しょうなん)1809〜1869年(59歳)熊本藩士。福井藩主に招かれ『国是三論』を著す参与(1868年)。在任中に京都で暗殺
渋沢栄一(しぶさわ えいいち)1840〜1931年(91歳)一橋家に仕官。1867年に徳川昭武に随行してパリ万博へ大蔵省に出仕し、大蔵大丞(1872年)。のちに実業界へ

薩長土肥(さっちょうどひ)は、薩摩・長州・土佐・肥前の4藩を指す言葉です。日本大百科全書は、この4藩を「明治維新を推進した藩として」西南雄藩と呼ばれると説明しています。

参考:雄藩|コトバンク

福沢諭吉は、この7人のなかでは異色の立場にいます。明治以降は官職に就かず、勝海舟と榎本武揚が新政府に仕えたことを『瘠我慢の説』で問いました。

勝はその草稿を受け取り、「行蔵は我に存す、毀誉は他人の主張」と答えました。同じ答書には「実に慙愧に不堪ず」と、恥じ入る言葉も続いています。冒頭の海舟AIの台詞は、この答書から取りました。

参考:瘠我慢の説 書簡|青空文庫

渋沢栄一は、幕臣の側から明治政府へ移ったあと、実業界へ進みました。47人のなかで最も長く生き、満91歳で亡くなっています。

明治政府で活躍した人は誰?官職でたどる24人

47人のなかで内閣総理大臣になったのは、伊藤博文・黒田清隆・山県有朋・大隈重信の4人です。

役職就いた人時期
太政大臣三条実美1871〜1885年
右大臣岩倉具視1871年から
左大臣島津久光1874年から
参議(1869〜1885年に置かれた役職)大久保利通・木戸孝允・西郷隆盛・板垣退助・大隈重信・副島種臣・江藤新平・後藤象二郎・勝海舟・伊藤博文・山県有朋・黒田清隆・井上馨人により異なる
内閣総理大臣伊藤博文(第1代)・黒田清隆(第2代)・山県有朋(第3代)・大隈重信(第8代)1885年から
第1次伊藤内閣の大臣井上馨(外務)・山県有朋(内務)・榎本武揚(逓信)・黒田清隆(農商務)・大隈重信(外務)1885〜1888年

参考:第1次伊藤内閣|首相官邸

三条実美も1889年に短い期間、総理大臣を兼任しましたが、代には数えられていません。歴代の数え方は、次の記事で詳しくまとめています。

維新の三傑の3人は、1877年5月に木戸孝允、同年9月に西郷隆盛、1878年5月に大久保利通と、およそ1年のあいだに全員が世を去りました。1885年の内閣の顔ぶれに、3人の名前はありません。

新政府は、薩長土肥の出身者だけで動いていたわけでもありません。国立国会図書館は、政権の担い手が「経験や人員が不足しており、政府は旧幕府側の人物(以下、幕臣等)を登用することで不足部分を補填しました」と説明しています。

同じ解説によると、1871年の廃藩置県で基礎が固まると、維新時に登用された人々は徐々に政府から去っていきました。榎本のように大臣まで務めた人は、その一部です。

参考:明治政府を支えた幕臣等|国立国会図書館 近代日本人の肖像

筆者
筆者

伊藤さん、維新の三傑は1877年から翌年にかけて全員亡くなります。1885年の最初の内閣を率いたのは、あなたでした。

伊藤博文AI
伊藤博文AI

落としどころから言えば、誰か1人がおらねば止まる形では、国は持たぬ。

いま問われれば、内閣という箱は、そのためのものじゃと答えたいところじゃ。

人は欠ける。箱のほうを残しておかねばならん。

戊辰戦争のあとの新政府の歩みを通史で追うなら、学習まんがの『日本の歴史(12)』があります。戊辰戦争から西南戦争までを1冊で扱う巻です。

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KADOKAWA 角川まんが学習シリーズ『日本の歴史(12)【電子特別版】 明治維新と新政府 明治時代前期』(学習まんが・山本博文 監修)

戊辰戦争と明治維新から、西南戦争で維新が終わるまで話が進みます。四民平等の宣言や廃藩置県など、戦争のあとの新政府の改革も扱う巻です。

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47人を数えて分かったこと 明治を見なかった14人と15人の最期

47人を陣営ごとに数えると、中央政府の主要官職は薩摩と長州に厚く、幕府と新選組は改元の前に亡くなった人の割合が高くなります。

陣営人数改元前に死去主要官職に就いたどちらでもない
幕府9人4人3人2人(慶喜・容保)
薩摩7人1人6人0人
長州8人3人5人0人
土佐6人2人3人1人(岩崎)
新選組5人2人0人3人(土方・永倉・斎藤)
朝廷5人1人2人2人(明治天皇・和宮)
肥前ほか7人1人5人1人(福沢)
合計47人14人24人9人

人選を変えれば割合も変わる、47人の中の数字です。

改元の日は、当時の暦(旧暦)で慶応4年9月8日、いまの暦で1868年10月23日です。土方歳三は翌年まで生きたので「改元前に死去」には入らず、「どちらでもない」に数えました。

最期の形で数えると、47人のうち15人が暗殺・処刑・戦いのなかで亡くなっています。

暗殺や襲撃が8人で、井伊直弼・佐久間象山・坂本龍馬・中岡慎太郎・横井小楠・大村益次郎・大久保利通・伊藤博文です。処刑が4人で、吉田松陰・小栗忠順・近藤勇・江藤新平です。戦いのなかの死が3人で、久坂玄瑞・土方歳三・西郷隆盛です。

西郷の最期は、事典によって「自刃」とも「戦死」とも書かれています。

没年齢は、徳川家茂の満20歳から渋沢栄一の満91歳まで。同じ表の中に71年の幅があるのです。

よくある質問(FAQ)

明治維新の中心人物は誰ですか?

維新の三傑と呼ばれる西郷隆盛・大久保利通・木戸孝允がよく挙げられます。ほかに、公家の岩倉具視と三条実美、土佐の坂本龍馬、幕府側で江戸開城にあたった勝海舟などがいます。

維新の三傑とは誰のことですか?

薩摩の西郷隆盛・大久保利通と、長州の木戸孝允の3人です。デジタル大辞泉は「明治維新に功績の大きかった」3人と説明しています。

薩長土肥とは何ですか?

薩摩・長州・土佐・肥前の4藩のことです。明治政府の参議などに、この4藩の出身者が多く就きました。

幕臣から明治政府に入った人はいますか?

います。この記事の47人では、勝海舟が参議兼海軍卿に、榎本武揚が初代逓信大臣に、大久保一翁が東京府知事になりました。渋沢栄一も大蔵省に出仕しています。

明治維新の人物で総理大臣になったのは誰ですか?

47人のなかでは、伊藤博文(第1代)・黒田清隆(第2代)・山県有朋(第3代)・大隈重信(第8代)の4人です。1889年に兼任した三条実美は、代に数えられていません。

坂本龍馬は明治政府で何をしましたか?

明治政府には入っていません。龍馬は1867年12月に京都の近江屋で暗殺され、明治への改元を見ていません。高杉晋作と吉田松陰も同じく改元の前に亡くなりました。

明治維新はいつからいつまでですか?

事典でも幅があります。始まりはペリー来航(1853年)か天保期、終わりは廃藩置県(1871年)、西南戦争(1877年)、憲法発布(1889年)などが挙げられます。

インタビュー後記 表の右端が空いている人たち

47人の表を作り終えて、私が長く眺めていたのは、明治の欄が「維新前に死去」で終わっている行でした。

検索で探される「明治維新の人物」の顔ぶれと、明治政府を実際に動かした顔ぶれは、同じではありません。龍馬も松陰も高杉も、後者には入らないのです。

私は、この2つを分けて読むほうが、幕末はおもしろくなると思っています。語り継がれた人と、席に座って制度を作った人。どちらが偉いかではなく、役回りが違うのでしょう。

幕府の表にいた勝と榎本が新政府で働き、福沢がそれを問い、勝が「毀誉は他人の主張」と返しながら恥じ入る言葉も添える。この一往復を読むと、陣営で人を分ける表は入り口にすぎないと感じます。

気になる人がいたら、表の名前のリンクから、その人の記事へ進んでみてください。

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参考資料

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