豊臣秀長の子孫は現在いる?家系図で娘と養子のその後を秀長AIとたどる

hidenaga shison eyecatch 時代・文化

「豊臣秀長の子孫」を調べていくと、ある家にたどり着くことがあります。伊賀名張(いまの三重県名張市)で明治維新を迎え、その後も子孫が続く名張藤堂家です。

祖の藤堂高吉は、たしかに秀長の養子でした。ところが系譜を開くと、高吉の実の父は丹羽長秀と書かれています。秀長とは血がつながっていません。

秀長の子孫を探すときには、血のつながった子孫と、秀長と縁のある家を分けて考える必要があります。そう気づいて、秀長の家族を1人ずつ資料で確かめてみることにしました。

この記事の結論

豊臣秀長の実子から続く子孫は、今回確認した系譜と事典の範囲では見つかりません。 また、養子として家を継いだ甥の秀保も、文禄4年(1595年)に満15〜16歳で没し、秀長の家は絶えました。

娘の一人は毛利秀元に嫁ぎました。ただ、江戸幕府が編んだ系譜集『寛政重脩諸家譜』の秀元の項には、この妻を母とする子が一人も載っていません。

一方で、養子の高吉に始まる名張藤堂家は明治維新を迎え、子孫は現在も続いています。「秀長と縁のある家」と「秀長の血を引く人」は、別々の線をたどります。

  • 2代
    秀長と秀保で絶えた家
  • 0人
    系譜に載る、秀元の正室の子
  • 11代
    名張藤堂家が明治を迎えた代

この記事では、秀長の親・きょうだい・妻・子・養子を、同時代の日記と江戸時代の系譜集で1人ずつ確かめます。最後に、秀長の子孫と呼ばれやすい家が、秀長とどうつながっているのかも整理します。

今回は、秀長AI(豊臣秀長をモデルにしたAI)にも登場してもらいます。秀長は天正19年(1591年)の正月に亡くなっているので、家のその後の話は、秀長の知らない先の出来事です。

※以下のインタビュー部分は、公開されている史料をもとに豊臣秀長の人物像を再現した創作です。実際の発言をそのまま掲載したものではありません。

秀長の没後の出来事については、本人が知らない話として扱い、筆者が伝える形にしています。
出典の確かめ方と、公開前に行っているチェックは編集方針にまとめています。

筆者
筆者

秀長さん、今日はあなたの家のその後を伺いに来ました。

正直に言うと、明るい話ばかりではありません。それでも聞いていただけますか。

秀長AI
秀長AI

かまわぬよ。わしが目を閉じたのは天正19年の正月じゃ。

その先のことは、わしの知らぬ話になる。

家がどうなったか、そなたが調べてきたことを順に聞かせてもらおうかのう。

豊臣秀長の子孫は現在いる?家系図で確かめる

結論から書きます。秀長の血を引く子孫は、今回確認した資料の範囲では確認できません。 ただし、それは「子孫は一人もいない」と言い切れるという意味ではありません。

系譜に載らなかった子がいた可能性を、資料で打ち消すことはできないからです。この記事が言えるのは、今回当たった系譜と事典には見当たらないところまでです。

先に、秀長の家族を1枚の図にまとめました。血のつながり、養子、結婚によるつながりを、線の種類で分けています。

豊臣秀長の家系図。父母ときょうだい、正室・側室、娘2人と男子、養子の豊臣秀保と仙丸(藤堂高吉)を、血のつながり・養子・結婚の線で描き分け、大和豊臣家・長府毛利家・名張藤堂家のその後まで示した図

同じ内容を、人物ごとのカードでも並べておきます。カードの色は、血のつながり・養子・結婚の区別です。

豊臣秀長の家系図(血縁・養子・婚姻を分けて)

同時代の日記、江戸時代の系譜集、事典で、続柄を1人ずつ確かめたものです。秀長と血がつながる人、養子として家に入った人、結婚でつながった人を色で分けました。

血秀長と血がつながる 養養子・養女として入った 婚結婚でつながる(姻戚)
親ときょうだい
父弥右衛門、または竹阿弥
秀吉と同じ父か、別の父かは事典によって書き方が分かれる
母大政所(なか)
秀吉・秀長の母。1592年に没する
姉とも(日秀尼)
三好吉房の妻。秀次・小吉秀勝・秀保の母
兄豊臣秀吉
1537〜1598年
妹朝日姫
徳川家康に嫁ぐ。1590年に没する
本人と妻
豊臣(羽柴)秀長
1540年または1541年〜1591年
天正19年正月22日に没する。「大和大納言」と呼ばれた
婚正室慈雲院
慈雲院の法名で伝えられる。実名・出自ははっきりしない
婚側室名は特定できず
『多聞院日記』の「ソハムスメ(側室の生んだ娘)」から存在が読める。光秀尼とする紹介がある
子(血縁)
血娘秀保の妻
天正19年正月、4〜5歳ほどで秀保と祝言をあげたと『多聞院日記』が伝聞で記す。子がいたとする資料は今回確認できず
血娘(大善院)毛利秀元の妻
『寛政重脩諸家譜』の秀元の項に、この妻を母とする子は載らない
血男子いたとする記述あり
早世したとする紹介がある。成人して家を継いだ男子は今回確認できず
養子
血養豊臣秀保姉ともの子・娘婿
1579〜1595年。天正16年に養子、秀長の死後に家を継ぐ。跡を継ぐ者がなく家は断絶
養仙丸(藤堂高吉)丹羽長秀の三男
1579〜1670年。のち藤堂高虎の養子に。名張藤堂家の祖。秀長と血縁はない
娘の嫁ぎ先と、その跡継ぎ
婚毛利秀元長府毛利家の初代
1579〜1650年。後妻は家康の養女
毛利光広秀元の跡継ぎ
1616年生まれ。母は「織田氏」で、秀長の娘の子ではない。秀長と血縁はない

※秀保は秀長の養子ですが、姉ともの子なので秀長と血がつながっています。そのため「血」と「養」の両方を付けています。

※娘の人数と、2人の娘がそれぞれ誰を母とするかは、資料によって説明が分かれます。この図は、娘を2人とみる紹介に沿って並べたものです。

※『藩翰譜』の上欄の注は、森忠政に嫁いだ女性を秀長の娘とします。近年はこの女性を養女とみる紹介があり、今回は原典を確かめられていないため、図には入れていません。

秀長の子として血がつながるのは、娘たちと男子です。甥の秀保も、姉を通じて血がつながります。それぞれの行き先を、資料ごとに並べてみます。

続柄名前その後確かめた資料
娘秀保の妻天正19年正月に秀保と祝言をあげたと伝聞で記される。子がいたとする資料は今回確認できず『多聞院日記』
娘大善院(毛利秀元の妻)系譜に、この妻を母とする子は載らない『寛政重脩諸家譜』『藩翰譜』
男子与一郎とする紹介あり(原典未確認)早世したとする紹介がある。家を継いだ記録は今回確認できず男子の存在:『寛政重脩諸家譜』/与一郎の名・早世:Wikipediaの紹介(原典未確認)
養子(甥)豊臣秀保1595年に没し、家は断絶『豊太閤と其家族』
養子仙丸(藤堂高吉)名張藤堂家の祖。秀長とは血縁なし『寛政重脩諸家譜』『藩翰譜』

表を見ると、血の線はどれも途中で途切れて見えます。 続いているのは、血のつながらない養子の家だけでした。

系図研究者の菊地浩之さんも、秀長について「一男二女がいたが、長男は早世し、二人の娘には子がいなかった」と書いています。本記事で子孫を確認できなかったこととも整合します。ただし、系譜に記載がないことだけで、子がいなかったとは断定できません。

参考:愛子さまは豊臣家の子孫である…(菊地浩之)|PRESIDENT Online

筆者
筆者

今回調べた限りでは、あなたの血を引く子孫は見つかりませんでした。

秀長AI
秀長AI

見つからなんだ、か。

書きつけに残らなんだ者まで、おらぬと決めるわけにはいかぬがのう。

確かめられる者がおらぬのなら、そう書くのが筋であろうよ。

秀長の親ときょうだい 父は秀吉と同じなのか

秀長の子孫をたどる前に、上の世代を確かめておきます。母は大政所(なか)、兄は秀吉、姉はとも、妹は朝日姫です。

秀長の親ときょうだい
  • 母:大政所(なか)。秀吉と秀長の母
  • 姉:とも(日秀尼)。三好吉房の妻で、秀次・小吉秀勝・秀保の母
  • 兄:豊臣秀吉。1537〜1598年
  • 妹:朝日姫。徳川家康に嫁ぎ、1590年に没する

母が同じであることは、どの資料でも変わりません。分かれるのは父のほうです。

コトバンクに収録された事典を並べると、『デジタル大辞泉』や『日本人名大辞典+Plus』は、秀長を「秀吉の異父弟」とします。『精選版 日本国語大辞典』は、父を竹阿弥と書いています。

一方で『日本大百科全書』は秀長を尾張中村の百姓・弥右衛門の子とし、竹阿弥の子とする説には出生年から矛盾があると書き添えています。『ブリタニカ国際大百科事典』にも同じ趣旨の注記があります。

参考:羽柴秀長|コトバンク

この記事では、どちらかに決めずに「事典によって書き方が分かれる」としておきます。子孫の話には直接かかわりませんが、家系図を描くと最初に引っかかる点です。

姉ともの3人の息子は、のちに秀長の家とも深くかかわります。末の秀保が、秀長の養子になるからです。

母の大政所と妹の朝日姫については、それぞれ別の記事でくわしく書いています。

筆者
筆者

秀吉さんとは、お父さんが同じなのですか。

いまの事典は、書き方が分かれているんです。

秀長AI
秀長AI

それを問われると、いささか困るのう。

書物によって書き方が違うのなら、わしの口から一つに決めてしまうわけにはいかぬ。

母が同じであることは、どの書物も変わらぬようじゃな。それで足りるではないか。

秀長の妻と側室 正室の慈雲院と「ソハムスメ」の母

秀長の妻についても、確かなことは多くありません。正室は慈雲院の法名で伝えられ、実名や出自ははっきりしません。

大河ドラマ『豊臣兄弟!』では、秀長の幼なじみの直と、正室の慶が登場します。どちらも番組が描く役どころで、慶は番組の紹介文で「のちの慈雲院」とされています。

紹介記事によれば、正室は「大和様慈雲院殿」と呼ばれ、その父を家臣の神戸伝左衛門秀好とみる研究者の見方があります。根拠には『多聞院日記』や大徳寺大光院の過去帳が挙げられています。

参考:若い側室だらけの兄・秀吉とは大違い…仲野太賀が演じる豊臣秀長の「地味すぎる女性関係」の史実(小林明)|PRESIDENT Online

ドラマの登場人物と史実の関係は、相関図の記事で1人ずつ確かめています。

もう一人、同時代の日記に影が見える女性がいます。興福寺の僧が書いた『多聞院日記』の文禄3年(1594年)3月2日の条に、次の一節があります。

於郡山金吾殿へ祝言ノ儀式在之、大納言殿ノソハムスメ也、秋篠ノ沙弥ノ子也

出典:『多聞院日記』第4巻(辻善之助編、三教書院、1938年)国立国会図書館デジタルコレクション コマ227

郡山で祝言があり、花嫁は「大納言殿」のソハムスメ(側室の生んだ娘)で、「秋篠ノ沙弥」の子だった、という記事です。大納言殿は秀長を指します。沙弥は出家した人を指す語です。

「ソハムスメ」という語からは、正室とは別の女性が秀長の娘を生んでいたことが読み取れます。ただし、「秋篠ノ沙弥」の人物特定や続柄の詳しい解釈は、本記事では確認できていません。秀長の側室を光秀尼(興俊尼)とする紹介はあります。

秀長の妻について確かめられたこと
  • 正室:慈雲院の法名で伝えられる。実名と出自は今回確認できず
  • 側室:『多聞院日記』の「ソハムスメ(側室の生んだ娘)」から存在が読める。娘を「秋篠ノ沙弥ノ子」とも記すが、人物は特定できず
  • 「何人の妻がいたか」を数えた同時代の記録は、今回確認できず

ただし、「金吾殿」が誰を指すのかについては、研究者の間でも解釈が分かれていると紹介されています。この記事では、祝言の相手が誰かまでは確かめられていません。

筆者
筆者

奥さんの名前は、記録にほとんど残っていないそうです。

秀長AI
秀長AI

女人の名は、書きつけに残らぬことが多かったからのう。

法名が伝わっておるなら、弔うてくれる者がおったということじゃ。

名が残らぬことと、おらなんだことは、別の話であろうよ。

秀長の子どもは何人?娘と男子を日記と系譜で確かめる

秀長に娘がいたことは、同時代の日記で確かめられます。 ただし、何人いたのかは資料で割れていて、この記事では人数を言い切りません。

まず、秀長が亡くなる直前の天正19年(1591年)正月の記事です。同じ『多聞院日記』に、こう書かれています。

大納言殿ムスメ四五才歟、コレト養子侍從殿ト祝言在之云〻、煩大事ニ聞へ了

出典:『多聞院日記』第4巻(辻善之助編、三教書院、1938年)国立国会図書館デジタルコレクション コマ144

秀長の娘(4、5歳ほどか)と、養子の侍従殿の祝言があったという記事です。「云〻」は伝聞を示す語で、年齢にも「歟(か)」と推量が付いています。 侍従殿は、養子の秀保を指すとされます。

こうして日記には、天正19年と文禄3年の2か所に秀長の娘が出てきます。この2人が同じ娘か、別の娘かは、研究者の見方が分かれています。

娘を2人とみる紹介があり、先に挙げた菊地浩之さんも「一男二女」としています。この記事の図も、その見方に沿って2人を並べました。

男子については、2つの系譜集の書き方が一見すると逆に見えます。

資料書いていること
『藩翰譜』(新井白石)天正10年の春、秀長に「男子なく」、丹羽長秀の子・仙丸(数え4歳)をもらい受けて子とした
『寛政重脩諸家譜』高吉(仙丸)は、「秀長が男子生るゝの後」、秀吉の命で藤堂高虎の養子になった

参考:藩翰譜 第7上−8上(新井白石著・大槻如電校)コマ57|国立国会図書館デジタルコレクション
参考:寛政重脩諸家譜 第5輯 コマ371|国立国会図書館デジタルコレクション

『藩翰譜』は天正10年の時点で「男子がいないので養子を迎えた」とし、『寛政重脩諸家譜』はその後「男子が生まれたので養子を外した」と読めます。時点が違うので、両立しうる書き方です。

ただ、どちらも男子が成人したとは書いていません。男子がいたとする記述はありますが、成人して家を継いだ男子は今回確認できませんでした。

紹介記事には、与一郎という男子が天正10年までに早世したと書くものもあります。ただし本記事は、その原典まではたどれていません。

秀長の妻と子どもを正面から扱った研究書に、大河ドラマの時代考証を務める黒田基樹さんの本があります。目次に「第六章 秀長の妻と子供たち」という章が立っています。

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筆者
筆者

娘さんは何人いらしたのですか。

同時代の日記には、娘さんの祝言が二度出てきます。

秀長AI
秀長AI

数を申せば、そなたはそれをそのまま書くであろう。

日記に娘のことが二度出てくるのなら、まずはそれを手がかりになされよ。

一人を二人に数えても、二人を一人に数えても、娘には気の毒なことじゃからのう。

秀長の家族を描いた小説や研究書は、ほかにもあります。何から読むかは、こちらで分けて案内しています。

跡を継いだ秀保と、大和豊臣家の断絶

秀長の家を継いだのは、姉ともの子で、養子になっていた秀保です。その秀保も4年後に亡くなり、秀長の家は2代で絶えました。

参考:羽柴秀保|コトバンク

項目内容
生まれ天正7年(1579年)。三好吉房の三男で、母は日秀尼(とも)
秀長との関係天正16年(1588年)に叔父・秀長の養子となる。秀長の娘との祝言が『多聞院日記』に伝聞として記される
官位天正20年(1592年)に従三位・権中納言。「大和中納言」と呼ばれた
死去文禄4年(1595年)4月16日。満15〜16歳(事典は数え年で17歳と記す)
家のその後跡を継ぐ者がなく、秀長の家は断絶

秀保は秀長の養子ですが、姉の子なので、秀長と血がつながっています。 「養子だから血縁はない」とは言えません。ただ、秀保に子がいたとする資料は、今回確認できませんでした。

家の断絶については、1919年に出た渡辺世祐『豊太閤と其家族』がこう書いています。「是から後繼者がないので秀長の家は斷絕する事となつた」。

参考:豊太閤と其家族(渡辺世祐、1919年)コマ181|国立国会図書館デジタルコレクション

秀保の死因は、資料によって説明が違います。同じ『豊太閤と其家族』は、『多聞院日記』から病気と十津川への湯治の記事を引いたうえで、実は川で溺れて亡くなったと伝えられる、と書いています(同書は秀保を「秀俊」と表記)。

ほかに、『駒井日記』を引く資料では病死、江戸中期の『武徳編年集成』では溺死と紹介されています。本記事は、この2つの史料の原文までは確かめていません。

死の様子は分かれても、家を継ぐ人がいなくなったという点は変わりません。秀長の死から、わずか4年後のことでした。

秀長自身の最期と、病の経過については、こちらで日記をたどっています。

筆者
筆者

跡を継いだ秀保さんは、あなたの死から4年後に亡くなりました。

秀長AI
秀長AI

それは、わしの知らぬ先の話じゃ。

まだ十五、六の若さで、と聞けば、胸がふさがる思いがする。

家が続くかどうかは、跡取り一人の肩にかかっておったということじゃな。

毛利秀元に嫁いだ娘・大善院に子はいたか

秀長の血が外へ続く道があったとすれば、まず考えられるのは、毛利秀元に嫁いだ娘です。ところが系譜集をたどっても、この娘を母とする子は見つかりませんでした。

秀元の妻を秀長の娘とする記述は、明治期に刊行された『藩翰譜』(新井白石著・大槻如電校)にあります。秀元の項の上欄に、「太閤の弟大和大納言秀長卿の女を妻とす」という注が付いています。

参考:藩翰譜 第7上−8上(新井白石著・大槻如電校)コマ65|国立国会図書館デジタルコレクション

本文のほうは、朝鮮から帰ったのち、秀元が太閤の「聟君」になった、と書いています。秀吉の養女として嫁いだ形です。この上欄の注がいつ書かれたものか(白石の原文にあるものか、明治の校訂者が付けたものか)は、本記事では確かめていません。

江戸幕府が編んだ『寛政重脩諸家譜』も、秀元の妻を「太閤秀吉の養女」と書きます。父の名は書いていませんが、秀吉が「姪女」を養女にして嫁がせたという記述があります。

では、その妻に子はいたのか。同じ系譜集の秀元の項から、妻と子の欄を書き出してみます。

系譜の記載母として書かれている人
室(正室)豊臣太閤秀吉の養女
継室(後妻)東照宮(家康)の養女。実は松平康元の娘
女子(毛利就隆の妻)某氏
宮松丸(早世)家康の養女(継室)
光広(家を継ぐ)織田氏。「嫡母の養ひとなる」
そのほかの女子・元知某氏・長沼氏

参考:寛政重脩諸家譜 第4輯 コマ136|国立国会図書館デジタルコレクション

正室(秀長の娘)を母とする子は、一人も載っていません。 長府毛利家を継いだ光広は、元和2年(1616年)に長府で生まれ、母は「織田氏」と明記されています。

光広の「嫡母の養ひとなる」は、正室にあたる母に養われた、という意味です。系譜のこの箇所は、嫡母が誰かまでは書いていません。いずれにしても、毛利家に秀長の血が入ったとは、資料からは言えません。

娘の法名「大善院月澗宗照」は、1938年刊の『読史備要』の法号索引に「豊臣氏 毛利秀元室」として載っています。検索で使われる「大善院」は、この法名から来ています。

参考:読史備要(東京帝国大学文学部史料編纂所編、1938年)コマ882|国立国会図書館デジタルコレクション

筆者
筆者

毛利秀元に嫁いだ娘さんの子は、系譜に一人も載っていませんでした。

秀長AI
秀長AI

載っておらぬ、か。

毛利に嫁いだのは、わしの目の届かぬ後のことじゃ。娘がどう暮らしたかは、そなたらの世の書物に委ねるほかない。

ただ、系譜に名が残らぬからといって、嫁いだ先で粗末にされたとまで思う必要はあるまいよ。

養子の仙丸(藤堂高吉)と名張藤堂家は秀長と血縁がない

秀長の家族のなかで、家が長く続いたのは、血のつながらない養子でした。丹羽長秀の三男・仙丸、のちの藤堂高吉です。

仙丸(藤堂高吉)のたどった道
  • 天正10年(1582年)の春、数え4歳で秀長の子となる(『藩翰譜』)
  • 数え10歳のとき、秀吉の命で藤堂高虎の養子となる(『藩翰譜』)
  • のち高虎の家臣となり、伊賀名張に移る
  • 寛文10年(1670年)に没する。満91歳(事典は数え年で92歳と記す)

『寛政重脩諸家譜』は高吉を「實は丹羽越前守長秀が三男」と書き、はじめ「大和大納言秀長の養子」になったと記しています。秀長の養子だったこと自体は、系譜集で確かめられます。

秀長の家を離れたのは、まだ幼いころでした。その後は藤堂家のなかで生きることになります。『藩翰譜』は、高吉がついには家臣のようになり、「其子孫今に藤堂の家にあり」と書いています。

高吉に始まる家は、名張藤堂家と呼ばれます。高吉は2万石を領し、寛永13年(1636年)に名張に屋敷を構えました。高吉の死後、次男以下3名に5千石が分知され、名張藤堂家は1万5千石となります。

十一代の高節のときに明治維新を迎えています。 名張市の紹介では、子孫は現在、東京に住んでいるとされます。ただし、秀長の血を引く系統ではありません。

参考:名張藤堂家邸|名張市

屋敷の跡は、いまも名張市丸之内に「名張藤堂家邸跡」として残っています。

名張藤堂家は「秀長の養子が始めた家」ですが、「秀長の血を引く家」ではありません。この記事では、この2つを分けて扱います。

筆者
筆者

養子の仙丸さんは、幼いうちに藤堂高虎の養子になりました。

秀長AI
秀長AI

仙丸のことか。兄者の取り計らいで高虎のもとへ移ったのは、わしが生きておるうちのことじゃ。

わしの手を離れた子が、別の家で長く生きたのなら、それでよい。

家の名が変わっても、縁まで消えるわけではあるまいからのう。

秀長の子孫と呼ばれやすい家を血縁・養子・姻戚で分ける

ここまでをまとめると、秀長と縁のある家はいくつも続いていますが、血のつながる家は確認できません。 混ざりやすい3つの線を、表で分けておきます。

家・系統秀長とのつながり秀長と血縁があるか
名張藤堂家養子・仙丸(藤堂高吉)が祖ない(高吉は丹羽長秀の子)
長府毛利家娘が毛利秀元に嫁いだ確認できない(跡継ぎの光広の母は織田氏)
森家『藩翰譜』の上欄の注が、森忠政に嫁いだ女性を秀長の娘とする確認できない(養女だったとする紹介がある)
秀吉のきょうだいの系統姉ともの子孫など秀長本人の子孫ではない

森家の線は、少しややこしい話です。『藩翰譜』の森忠政の項は、本文で秀吉が「我姪」を忠政の妻にしたと書き、上欄の注に「大和大納言秀長の女」とあります。毛利秀元の項と同じ形です。

参考:藩翰譜 第7上−8上(新井白石著・大槻如電校)コマ58|国立国会図書館デジタルコレクション

ただし近年は、この女性を秀長の実の娘ではなく養女とみる紹介があります。本記事はその原典を確かめていませんが、少なくとも森家を「秀長の血を引く家」と言い切れる資料は、今回確認できませんでした。

秀吉の血筋が皇室や公家につながる、という記事を目にした人もいるかもしれません。それは秀吉のきょうだいの系統を扱った話で、同じ記事も、秀長については「二人の娘には子がいなかった」と書いています。

秀吉自身の生涯については、こちらにまとめています。

筆者
筆者

名張の藤堂家、毛利家、森家。あなたと縁のある家は、いくつも続いています。

秀長AI
秀長AI

縁があることと、血を分けておることは、別の話じゃ。

そなたがその二つを分けて書いてくれるなら、わしはそれで十分じゃよ。

縁で結ばれた家が続いておるのも、悪い話ではないからのう。

秀長の家族の年表

最後に、秀長の家族の動きを年表にしておきます。秀長が亡くなってからの出来事が、意外に多いことが分かります。

年出来事解説
1540年または1541年秀長が生まれる生年には天文9年説と10年説がある
1579年秀保と仙丸(藤堂高吉)が生まれる2人の養子は同じ年の生まれ
1582年仙丸が秀長の子となる『藩翰譜』は天正10年の春とする
1588年秀保が秀長の養子となる事典は天正16年と記す
1588年ごろ仙丸が藤堂高虎の養子となる『藩翰譜』は仙丸が数え10歳のときとする
1591年天正19年正月、娘と秀保が祝言。同月22日に秀長が没する『多聞院日記』に祝言の記事がある
1592年秀保が権中納言になる「大和中納言」と呼ばれる
1594年文禄3年3月、郡山で秀長の「ソハムスメ」の祝言相手が誰かは解釈が分かれる
1594〜1595年ごろ娘が毛利秀元に嫁ぐ系譜集は秀吉の養女として嫁いだと書く
1595年文禄4年4月16日、秀保が没する跡を継ぐ者がなく家は断絶
1616年毛利光広が生まれる母は織田氏。のち長府毛利家を継ぐ
1636年高吉が名張に屋敷を構える名張藤堂家の始まり
1670年藤堂高吉が没する満91歳(数え92歳)
明治維新名張藤堂家が十一代の高節で維新を迎える秀長の養子に始まる家が明治維新を迎えた

年表を並べると、秀長の家は、秀長の死から4年で絶えています。 一方、高吉に始まる名張藤堂家は、十一代の高節のときに明治維新を迎えました。

秀長が生きていたら豊臣家はどうなったのか、という問いは、IFの記事で考えています。

よくある質問(FAQ)

豊臣秀長の子孫は現在いるのですか?

秀長の血を引く子孫は、今回確認した系譜と事典の範囲では確認できませんでした。跡を継いだ秀保は1595年に没して家は断絶し、毛利秀元に嫁いだ娘を母とする子も系譜に載っていません。ただし、系譜に載らなかった子がいた可能性までは否定できません。

秀長の子どもは何人いたのですか?

人数は資料で割れています。『多聞院日記』には、天正19年と文禄3年の2か所に秀長の娘が出てきますが、同じ娘か別の娘かは見方が分かれます。娘2人と男子1人とする紹介があり、男子は早世したとされます。

大善院とはどんな人ですか?

毛利秀元に嫁いだ秀長の娘で、法名を大善院月澗宗照といいます。『藩翰譜』の注は秀元の妻を秀長の娘とし、『寛政重脩諸家譜』は秀吉の養女として嫁いだと書きます。同書の秀元の項に、この妻を母とする子は載っていません。

秀保はなぜ早く亡くなったのですか?

死因は資料によって説明が違います。1919年の『豊太閤と其家族』は、病気で十津川に入ったという日記の記事を引いたうえで、川で溺れたと伝えられると書いています。文禄4年(1595年)4月16日に満15〜16歳で没しました。

藤堂高吉は秀長の子孫ですか?

血縁上の子孫ではありません。高吉(仙丸)は丹羽長秀の実子で、幼いころ秀長の養子となった人物です。のちに藤堂高虎の養子となり、名張藤堂家は十一代の高節で明治維新を迎えました。子孫は現在、東京に住むと名張市は紹介しています。

秀長の妻は誰ですか?

正室は慈雲院の法名で伝えられ、実名や出自ははっきりしません。ほかに『多聞院日記』は、側室の生んだ娘を「ソハムスメ」と記しています。大河ドラマ『豊臣兄弟!』の直と慶は、番組が描く役どころです。

秀長の墓はどこにありますか?

奈良県大和郡山市箕山町の「大納言塚」が、秀長の墓所として知られています。大和郡山市の指定史跡で、いまの五輪塔は安永6年(1777年)に春岳院の僧らが建てたものです。

インタビュー後記 家の線と、血の線

調べ始めたとき、私は「秀長の子孫は名張藤堂家にいる」という話を、半分くらい信じていました。

ところが系譜を開くと、高吉の父は丹羽長秀と書かれています。名張藤堂家は、秀長の家を継いだ人ではなく、秀長の手を離れた養子が始めた家でした。

血の線のほうは、どこをたどっても途中で見えなくなります。秀保は若くして亡くなり、毛利家に嫁いだ娘の子は系譜に載っていません。

それでも、日記には娘の祝言が2度記され、系譜集には養子の名が残っていました。記録に残った家族の姿は、思っていたよりも多かったというのが、調べ終えたいまの感想です。

冒頭で、子孫を調べると名張藤堂家にたどり着くと書きました。あの家は、秀長の血ではなく、秀長が養子として迎えた縁の続きだったのだと思います。

あなたは、血がつながることと、家を継ぐことの、どちらに「子孫」を感じるでしょうか。

秀長が何をした人だったのかは、こちらで紹介しています。

秀長の家のその後と、豊臣政権の終わりまでは、こちらでまとめています。

参考資料

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