今回調べた範囲では、朝日姫本人が書いた手紙や、本人の言葉として残る記録は見つかりませんでした。秀吉の妹で、家康の正室になった人なのに、です。
それでも、嫁入りの道のりは細かく残っていました。家康の家臣・松平家忠が、雨の日も、輿を受け取った場所も日記に書いていたのです。
現代の解説記事では、朝日姫は「政略結婚の犠牲になった悲劇の姫」と紹介されることがあります。ただ、それは後の世の見方です。今回は、日付と場所を史料で積み上げてみました。
この記事の結論
朝日姫は、豊臣秀吉・秀長の妹で、天正14年(1586年)に徳川家康の正室となった女性です。 小牧・長久手の戦いのあと、上洛しない家康を秀吉が引き寄せようとして結んだ縁組でした。
家康の家臣の日記によれば、輿が浜松に入ったのは天正14年5月14日です。朝日姫はその後、駿府に住んで「駿河御前」と呼ばれ、天正18年正月14日(1590年)に京都で病死しました。
前の夫の名は、佐治日向守とも副田吉成とも伝わり、資料によって違います。夫が自害したという話は江戸時代の編纂物に見えるもので、同時代の記録では今回確認できませんでした。
- 5月14日
輿が浜松に入った日(『家忠日記』) - 約3年8か月
嫁いでから亡くなるまで - 2種
この記事で画像を確かめた同時代の日記
この記事では、朝日姫の前の夫、家康に嫁いだ理由と道のり、母・大政所との行き来、最期と墓所を、和暦と典拠をそろえて並べます。
そして今回は、秀長AI(豊臣秀長をモデルにしたAI)に登場してもらいます。朝日姫は秀長の妹です。秀長は朝日姫の1年後、天正19年正月に世を去りました。
秀長が妹の最期に立ち会ったことを示す記録は今回確認できなかったため、秀長AIにもその場面は語らせていません。兄として、後の世の記録を聞いてもらう形です。
※以下のインタビュー部分は、公開されている史料をもとに豊臣秀長の人物像を再現した創作です。実際の発言をそのまま掲載したものではありません。
また、秀長の没後に作られた作品や、没後に起きた出来事については、後の世のこととして伝えたうえで語ってもらう形にしています。
出典の確かめ方と、公開前に行っているチェックは編集方針にまとめています。

秀長さん、本日もよろしくお願いします。
今日は、あなたの妹の朝日姫についてうかがいます。家康に嫁いだ方です。

妹のことを問われるとは、思うておらなんだのう。
兄の口から語れば、どうしても身内びいきになる。そこで、そなたらの世に残る書きつけを先に聞かせてくれぬか。
わしは、それに相づちを打つ役でよい。
- 朝日姫は何をした人?家康の正室となり、豊臣と徳川を結んだ秀吉・秀長の妹です
- 朝日姫の前の夫は誰?佐治日向守とも副田吉成とも伝わります
- 朝日姫はなぜ家康に嫁いだのか 小牧・長久手の戦いのあとの和睦です
- 天正14年5月14日、輿が浜松に入る 嫁入りの道のりを家康の家臣の日記で追う
- 家康との仲はどうだった?母・大政所の岡崎下向と、天正16年の上洛
- 朝日姫の死因と最期 天正18年正月14日、京都で病死しました
- 朝日姫のお墓はどこ?京都の東福寺と、駿府の瑞龍寺に伝わります
- 『豊臣兄弟!』のあさひ 倉沢杏菜さんが演じる秀長の妹
- 朝日姫の生涯を年表でふり返る
- よくある質問(FAQ)
- インタビュー後記 本人の言葉はなくても、日付は残っていた
- 参考資料
朝日姫は何をした人?家康の正室となり、豊臣と徳川を結んだ秀吉・秀長の妹です
朝日姫は、上洛しない家康を秀吉が引き寄せようとした縁組で、家康の正室になった女性です。 今回確認した事典に、本人が政治や戦に関わった記述はありません。事典が記すのは、誰に嫁ぎ、どこに住み、どこで亡くなったかです。
まず、事典で確かめられることを表にまとめます。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 名前 | 朝日姫(事典の立項名)。「朝日の方」「旭姫」とも |
| 呼び名 | 駿河御前(駿河府中=駿府に住んだため) |
| 生没年 | 1543年(天文12年)〜天正18年正月14日(1590年) |
| 没年齢 | 満46〜47歳(数え年では48歳) |
| 出身 | 尾張(愛知県) |
| 家族 | 母はなか(大政所)。事典は秀吉の異父妹とし、父を竹阿弥と書く |
| 前の夫 | 佐治日向守と伝える(諸説あり。下の章で比較) |
| 夫 | 徳川家康(天正14年に再嫁) |
| 没地 | 京都(聚楽第とする事典もある) |
| 号 | 南明院(『日本人名大辞典』) |
| 墓所 | 東福寺(京都)に葬られた。駿府の瑞龍寺にも墓が伝わる |
参考:朝日姫|コトバンク(改訂新版 世界大百科事典)
参考:朝日の方|コトバンク(デジタル版 日本人名大辞典+Plus)
年齢は満年齢で書いています。事典の「48歳」は数え年で、誕生日が分からないため満年齢は46〜47歳と幅を持たせました。
「駿河御前」の呼び名には注意が要ります。『日本人名大辞典』は、この呼び名で朝日の方と、家康の最初の正室・築山殿の両方を引けるようにしています。
参考:駿河御前|コトバンク
朝日姫が何をした人かを一言でいえば、豊臣と徳川を姻戚で結んだ人です。この縁組で、家康は秀吉・秀長の義理の兄弟にあたる続柄になりました。
血のつながりではなく、婚姻でできた関係です。この記事では「姻戚」と書きます。秀長を中心にした家族の続柄は、相関図の記事で整理しています。

事典には、嫁いだ先と住んだ場所、亡くなった場所が書かれています。妹さんがどんな人だったかは、ほとんど出てきません。

人柄は書きつけに残りにくいものよ。嫁いだ日と亡うなった日のほうが、よほど確かに残る。
妹の人柄を兄がほめれば、身内びいきと笑われよう。
まずは日付から聞かせてもらおう。
朝日姫の前の夫は誰?佐治日向守とも副田吉成とも伝わります
朝日姫の前の夫の名は、資料によって違い、一人には決められません。 事典は佐治日向守と「伝えられる」と書き、別の名を挙げる書物もあります。夫が自害したという話も、出どころは江戸時代の編纂物です。
資料ごとに、前の夫の名とそのあとの話を並べます。
| 資料 | 前の夫 | 離縁のあと |
|---|---|---|
| 『改訂新版 世界大百科事典』 | 佐治日向守に嫁したと伝えられる | 記載なし |
| 『日本人名大辞典+Plus』 | 佐治日向守(諸説あり) | 天正14年、秀吉によって離婚させられたと記す |
| 渡辺世祐『豊太閤と其家族』(1919年) | 佐治日向守。副田与左衛門吉成とする伝えもあり、「確なる事は明でない」 | 500石の加増を辞退。のち自殺したとも、剃髪して隠居したとも伝える |
| 『朝野旧聞裒藁』所載「古老聞書」(『岡崎市史』の引用) | 副田甚兵衛 | 5万石を辞退し、剃髪して隠斎と号し、尾張の烏森村に閑居 |
| 『尾張志』所引「副田系図」(同) | 副田与左衛門吉成(尾張烏森城主) | 同上 |
| 『御年譜微考』『武徳編年集成』(同) | 佐治日向守 | 秀吉の命に従って妻を差し出したうえ、生きていては天下の笑いものになるとして切腹した(文面は『御年譜微考』) |
| 『豊臣兄弟!』(番組の紹介) | 甚助(のちの副田吉成) | 番組の設定 |
参考:豊太閤と其家族(渡辺世祐、1919年)|国立国会図書館デジタルコレクション
参考:岡崎市史 別巻下巻(1935年)|国立国会図書館デジタルコレクション
参考:2026年大河ドラマ「豊臣兄弟!」新キャスト! 今川義元に大鶴義丹、足利義昭に尾上右近が出演決定!|ステラnet
「夫は自害した」という話は、今回確かめた範囲では江戸時代の編纂物にしか見えません。
『岡崎市史』が引く『御年譜微考』の文面では、秀吉が佐治に命じたのは離縁です。切腹は、佐治自身が「生きていては天下の笑いものになる」として選んだ形で書かれています。
『武徳編年集成』も、1741年ごろにまとまった家康の伝記です。
一方で、「剃髪して隠居した」という話も、『朝野旧聞裒藁』(1819〜41年に幕府が編んだ史料集)に収められた聞き書きと、『尾張志』の系図によるものです。どちらも同時代の記録ではありません。
参考:武徳編年集成|コトバンク
参考:朝野旧聞裒藁|コトバンク
離縁の代わりに示された知行も、500石とする書物と5万石とする書物があります。本記事はどちらとも決めません。
なお、ドラマの甚助は「のちの副田吉成」です。副田吉成を単独で立項した事典項目は、相関図の記事を書いたときと同じく、今回も確認できませんでした。

前の旦那さんの名前は、佐治とも副田とも伝わっています。腹を切ったという話と、頭を丸めて隠居したという話もあって、どれも後の世の書物です。

名が二つも三つも出てくるとは、のう。妹の前の夫は、後の世でそれだけ語られてきたわけじゃ。
腹を切ったか、頭を丸めたか。兄のわしが言い切れば、また一つ話が増えるだけじゃ。
書物ごとに並べてくれたのは、ありがたい。
朝日姫はなぜ家康に嫁いだのか 小牧・長久手の戦いのあとの和睦です
朝日姫の縁組は、小牧・長久手の戦いのあと、上洛しない家康を秀吉が引き寄せるための策の一つでした。 事典はこれを秀吉の「懐柔策の一環」と書きます。ただし、家康はこの縁組だけでは上洛しませんでした。
- 戦いのあと:天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いののち、秀吉と家康は和睦しました(『日本大百科全書』「徳川家康」)
- 懐柔策の一環:講和のあとも上洛を拒む家康に対する秀吉の懐柔策の一環として、1586年に家康に再嫁した(『改訂新版 世界大百科事典』)
- 離婚させられて:家康の懐柔をはかる秀吉によって離婚させられ、家康の正室となった(『日本人名大辞典+Plus』)
- それでも上洛せず:家康の上洛は、秀吉の母の岡崎行きまで実現しなかった(『改訂新版 世界大百科事典』)
参考:徳川家康|コトバンク
並べてみると、事典が書いているのは秀吉の側の狙いです。嫁ぐ朝日姫がどう受け止めたかは、今回確認した事典には書かれていません。
家康の最初の正室・築山殿は、1579年に亡くなっています。渡辺世祐『豊太閤と其家族』は、家康に夫人がいなかったことを幸いとして、秀吉が朝日姫を嫁がせようとした、と説明しています。
参考:築山殿|コトバンク(デジタル大辞泉)
参考:豊太閤と其家族(渡辺世祐、1919年)|国立国会図書館デジタルコレクション
縁組の交渉は、天正14年2月22日に始まったと同書は書きます。織田信雄の家臣だった滝川雄利(羽柴下総守)と土方雄久が、三河の吉田へ遣わされました。
現代の解説記事には、朝日姫を「事実上の人質」とする紹介もあります。ただ、今回確かめた同時代の日記で「人質」と書かれていたのは、朝日姫ではなく、その5か月後に岡崎へ下った母・大政所のほうでした。この点は、あとの章で見ます。

事典は、秀吉が家康を上洛させるための策だった、と書いています。でも、それだけでは家康は来なかった、とも。

力で押し切れぬ相手とは、縁で結ぶ。それも国を治める手立ての一つじゃった。
家康殿は、それでも腰を上げなんだか。それで母上まで三河へ下ることになったわけじゃな。
嫁ぐ当人の胸の内は、そなたらの確かめた書きつけにはないと聞く。そこは空けたままにしておいてくれ。
天正14年5月14日、輿が浜松に入る 嫁入りの道のりを家康の家臣の日記で追う
朝日姫の輿は、天正14年5月14日に浜松に入りました。 家康の家臣・松平家忠が、その日の日記に「御こし濵松ニ入候」と書いています。迎えから到着までの4日間も、同じ日記で追えます。
『家忠日記』は、家忠が1577年から1594年までの身辺の出来事を書きつけた日記です。国立国会図書館が公開している1897年刊の翻刻で、該当する日の記事を画像で確かめました。
| 和暦(天正14年) | 『家忠日記』に書かれていること |
|---|---|
| 4月13日 | 上方との祝言は「来廿八日」と決まった |
| 5月11日 | 晩に雨。池鯉鮒まで迎えに出て、「西の野」で受け取る。長柄の輿12挺、釣り輿15挺。同じ日に岡崎城へ |
| 5月12日 | 吉田に着き、上方・尾張から来た者たちをもてなす |
| 5月13日 | 雨で吉田に逗留 |
| 5月14日 | 晩に雨。「御こし濵松ニ入候」。家忠は体調が悪く、深溝へ帰る |
| 5月18日条 | 「一昨日十六日」に、祝いとして浜松の座敷で能があったと聞く |
参考:家忠日記 第4(1897年刊)5月11日・12日条|国立国会図書館デジタルコレクション
参考:家忠日記 第4(1897年刊)5月13日・14日条|国立国会図書館デジタルコレクション
4月28日に予定された祝言は、いったん延びています。『岡崎市史』が引く同じ日記によれば、結納の使者に立った天野三郎兵衛を秀吉が知らない人物だと不快に思ったためで、改めて本多忠勝が大坂へ遣わされました。
参考:家忠日記 第4(1897年刊)4月13日条|国立国会図書館デジタルコレクション
参考:岡崎市史 別巻下巻(1935年)|国立国会図書館デジタルコレクション
奈良の興福寺の僧が書いた『多聞院日記』も、4月の末の条に「關白殿ヨリ三川へ祝言在之、事々敷儀也ト云々」と書き留めています。関白から三河へ祝言があり、大がかりなことだと聞いた、という伝聞です。
参考:多聞院日記 第4巻(1938年刊)天正14年4月末の条|国立国会図書館デジタルコレクション
嫁いだとき、朝日姫は数え年で44歳(満42〜43歳)でした。『豊太閤と其家族』は家康を数え45歳としています。
そして同じ年の10月、公家の山科言経は日記『言経卿記』に、大坂へ向かう家康を「殿下御妹聟也」(関白の妹の婿である)と書きました。この一文は、『岡崎市史』が引用している文面で確かめています。
参考:岡崎市史 別巻下巻(1935年)言経卿記の引用|国立国会図書館デジタルコレクション

家康の家臣の日記に、5月14日に輿が浜松に入ったと書いてありました。同じ日の記事には、晩に雨が降ったことも記されています。日記を書いた本人は体調が悪くて、途中で帰っています。

家康殿の家来が、雨の日まで書き留めておったか。ありがたいことじゃ。
輿を受け取った野の名まで残っておるなら、後の世の者も、その道をたどれよう。
体を壊して帰った家来の一行まで書いてあるのが、かえって確からしく聞こえるのう。
家康との仲はどうだった?母・大政所の岡崎下向と、天正16年の上洛
家康との夫婦仲を直接示す記録は、今回確認できませんでした。 確かめられるのは、朝日姫がいつ、どこへ動いたかです。嫁いだ年の秋、母が岡崎へ下った時期には浜松を離れ、天正16年には京と駿府を2度行き来しています。
- 天正14年10月、母が岡崎へ:大政所は「御息女」に会いたいという名目で三河へ下り、実は「御證人」(人質)の扱いだったと『宇野主水日記』は書きます(『岡崎市史』の引用)
- 同じ月、家康が上洛:『多聞院日記』は10月7日の条で大政所の三河行きを「人質ニ御越」と記し、25日の条で、家康が前日から京にいると伝えます
- 天正14年11月16日:「御前様はま松へ御帰候」(『家忠日記』、『岡崎市史』の引用)
- 天正16年:3月に上洛し、閏5月6日に京から帰国。6月22日、大政所の重い病で家康が上洛するという知らせの日に「御前様は夜通御とをり」。9月に帰国(同)
参考:岡崎市史 別巻下巻(1935年)宇野主水日記の引用|国立国会図書館デジタルコレクション
参考:多聞院日記 第4巻(1938年刊)天正14年10月7日条|国立国会図書館デジタルコレクション
参考:岡崎市史 別巻下巻(1935年)天正16年の家忠日記の引用|国立国会図書館デジタルコレクション
ここで分けておきたいのは、確かめ方の違いです。『多聞院日記』の10月7日条は翻刻の画像で読みましたが、『宇野主水日記』と天正16年の『家忠日記』は、『岡崎市史』が引用した文面で確かめたものです。
母と娘が岡崎で対面し、母が娘に抱きついて涙を流したという話も知られています。ただし、これは江戸時代中期の『落穂集』に見える話で、同時代の記録ではありません。
参考:岡崎市史 別巻下巻(1935年)落穂集の引用|国立国会図書館デジタルコレクション
「夜通御とをり」は、夜通しで通っていった、と読める言葉です。『岡崎市史』はこれを、夜を徹しての上洛と説明しています。
天正16年の上洛について、渡辺世祐『豊太閤と其家族』は、母の病気の見舞いのために上洛し、病床で看病した、と書いています。ただ、看病の様子を書いた同時代の記録は今回確認できていません。
天正14年10月に家康が大坂へ来たとき、『多聞院日記』は「宰相殿」の宿所で家康のために能が催されたと伝えています。宰相殿は秀長のことで、『岡崎市史』もこの箇所に「秀長」と注記しています。
参考:多聞院日記 第4巻(1938年刊)天正14年10月の条|国立国会図書館デジタルコレクション
参考:岡崎市史 別巻下巻(1935年)家康の上洛|国立国会図書館デジタルコレクション

天正16年、母上が重い病だという知らせのあと、朝日姫が夜通しで通っていったと家康の家臣が書いています。それから、家康が大坂へ来たとき、あなたの宿所で能があったという記録もあります。

夜通し、とな。何を思うて通ったかまでは、日記も書いておらぬのであろう。
わしの宿で能を、か。妹の嫁ぎ先の主を迎えた席じゃ。そう聞けば、悪い気はせぬ。
そう書き残されておるなら、宿を貸した甲斐もあったというものよ。
朝日姫の死因と最期 天正18年正月14日、京都で病死しました
朝日姫は天正18年正月14日(1590年)、京都で病死しました。 数え年で48歳、満46〜47歳です。病名を記した記録は、今回確認できませんでした。
亡くなった場所は、資料によって書き方が違います。
| 資料 | 亡くなった場所 |
|---|---|
| 『改訂新版 世界大百科事典』 | 京都で病死 |
| 『日本大百科全書』「徳川家康」 | 京都聚楽第で没 |
| 『家忠日記追加』(同時代の『家忠日記』とは別の、江戸時代の編纂物)『豊臣秀吉譜』『落穂集』など(『岡崎市史』による) | 聚楽で逝去 |
| 『雍州府志』(同) | 伏見で没 |
| 『駿府巡見記』(同) | 摂津の有馬で逝去、一説に南都 |
参考:岡崎市史 別巻下巻(1935年)死去の地の諸説|国立国会図書館デジタルコレクション
『改訂新版 世界大百科事典』の朝日姫の項では「京都で病死」とされ、『日本大百科全書』の家康の項では聚楽第で没したとされています。
『岡崎市史』は、有馬で療養したあと京に戻り、聚楽第で亡くなったと見るべきだとしています。ただし、これは市史の推定です。
亡くなった時期は、秀吉が小田原の北条氏を攻める直前でした。『当代記』は「家康公妻室於京都病死給」と書き、小田原への出陣を控えた時期のため死を伏せた、と続けています。この文面も『岡崎市史』の引用で確かめました。
『当代記』は著者がはっきりせず、成立した年も分かっていない書物です。家康の外孫・松平忠明の著とする説があります。
参考:当代記|コトバンク
兄の秀長は、1年後の天正19年正月に郡山で亡くなります。『多聞院日記』の天正18年正月の条には、「大納言殿」(秀長)のための祈禱の記事が2日・8日と続けて見えます。
参考:多聞院日記 第4巻(1938年刊)天正18年正月の条|国立国会図書館デジタルコレクション
秀長の最期は、こちらの記事で史料から確かめています。

朝日姫は天正18年の正月14日に、京都で亡くなりました。小田原の戦いの前だったので、死は伏せられたと書く書物があります。

妹が亡うなったころ、わしはまだ生きておった。じゃが、その場を見たとは言えぬ。
その正月は、興福寺がわしのために祈禱をしてくれておったと、日記にあるそうじゃな。
朝日姫のお墓はどこ?京都の東福寺と、駿府の瑞龍寺に伝わります
朝日姫は京都の東福寺に葬られたと事典は書きます。 号の「南明院」は、朝日姫の墓が伝わる東福寺の塔頭(境内の小さな寺)の名でもあります。静岡市葵区の瑞龍寺にも、分骨された墓が伝わっています。
- 東福寺(京都):「京都で病死し,東福寺に葬られた」(『改訂新版 世界大百科事典』)。号は南明院(『日本人名大辞典+Plus』)
- 瑞龍寺(静岡市葵区井宮町):京都に葬られたあと、分骨された墓が境内に残ると静岡新聞の記事が伝えます
- 法名:『豊太閤と其家族』は「南明院光室総旭大姉」と記します。瑞龍寺の位牌は「瑞龍院殿光室惣旭大禅尼」と『駿府巡見記』は記します(『岡崎市史』の引用)
参考:旭姫(朝日姫)ゆかりの瑞龍寺を訪ねる|静岡新聞アットエス
参考:豊太閤と其家族(渡辺世祐、1919年)|国立国会図書館デジタルコレクション
参考:東福寺周辺エリア(本町通・泉涌寺)|京都市
『豊太閤と其家族』は、1919年の時点で墓が東福寺の南明院の寺内にあると書いています。現在の公開の状況は、今回確認できていません。訪ねる前に、寺に確かめるのが確実です。
瑞龍寺については、静岡新聞の記事が、家康が寄進したと伝わる小袖や仏画、歴代将軍の朱印状が寺に受け継がれていると紹介しています。
『豊太閤と其家族』は、秀吉が小田原攻めの帰りに駿府へ立ち寄り、生前の朝日姫がたびたび瑞龍寺に参ったと聞いて、追福のために供養塔を建て、禁令を掲げさせたとも書いています。禁令の文面には「光室総旭」の名が見えます。
駿府は、朝日姫が「駿河御前」と呼ばれた土地です。亡くなった京都と、暮らした駿府の両方に、いまも名が残っていることになります。

お墓は京都の東福寺と、駿府の瑞龍寺の2か所に伝わっています。

京と駿府に一つずつ、か。嫁いだ先にも、亡うなった土地にも、手を合わせる場所があるわけじゃな。
どちらが本当の墓か、などと比べる話ではあるまい。
二つの土地の者が覚えていてくれる。兄としては、それで十分じゃ。
『豊臣兄弟!』のあさひ 倉沢杏菜さんが演じる秀長の妹
大河ドラマ『豊臣兄弟!』では、倉沢杏菜さんが「あさひ」を演じています。 番組の役どころの紹介には、秀吉によって離縁させられ、家康のもとへ嫁がされることになる、と書かれています。
- 役どころ:「豊臣兄弟の妹。天真らんまんな性格で、貧しい農家暮らしの中でもいつも前向きで笑顔をたやさない」(ステラnet、2025年2月4日)
- その先の展開:「ある日突然、秀吉によって離縁させられ徳川家康の元に嫁がされることになる」(同)
- 夫の甚助:前原瑞樹さんが演じる「豊臣兄弟の妹・あさひ(倉沢杏菜)の夫。のちの副田吉成。天真爛漫なあさひとは良き夫婦となる」(ステラnet、2025年12月10日)。事典の佐治日向守とは別の名です
- 放送の段階:10月11日の第39回「茶々の本心」から最終章「豊臣兄弟編」。番組説明には、徳川と真田の和睦を家康が拒む話が書かれています(NHK ONE、2026年10月8日時点)
参考:新たに豊臣ファミリーを発表!母役に坂井真紀、姉役に宮澤エマ、妹役に倉沢杏菜|ステラnet
参考:2026年大河ドラマ「豊臣兄弟!」新キャスト! 今川義元に大鶴義丹、足利義昭に尾上右近が出演決定!|ステラnet
参考:大河ドラマ「豊臣兄弟!」の放送予定|NHK ONE
「天真らんまん」「笑顔をたやさない」は、番組がつくった人物像です。朝日姫の人柄を伝える同時代の記録は、今回確認できませんでした。
あさひの嫁入りが何回目で描かれるかは、本記事では確かめられていません。本記事は放送の予想を書きません。史実の側の日付は、この記事の年表で確かめられます。
物語の行方と、史実の秀長の最期は、こちらの記事でまとめています。

ドラマでは、あさひさんは明るくて、いつも笑顔の妹として描かれています。

わしの死んだのちの世で作られた芝居のことは、わしには分からぬ。
じゃが、妹を笑顔の女子として描いてくれる者がいると聞けば、悪い気はせぬのう。
甚助どのとも良い夫婦に描かれておるなら、なおのことじゃ。
朝日姫の生涯を年表でふり返る
朝日姫の生涯のうち、日付まで確かめられるのは、縁組の話が動いた天正14年から亡くなるまでのおよそ4年です。 それより前は、生年と前の夫の伝えのほかに、今回確かめられた記録はありません。
| 和暦 | 西暦 | 出来事 | 典拠 |
|---|---|---|---|
| 天文12年 | 1543年 | 生まれる(月日は不明) | 事典 |
| 天正12年 | 1584年 | 小牧・長久手の戦い。のち秀吉と家康が和睦 | 『日本大百科全書』 |
| 天正14年2月22日 | 1586年 | 秀吉の使者が三河の吉田へ遣わされる | 『豊太閤と其家族』 |
| 天正14年4月13日 | 1586年 | 祝言を28日と定める(のち延期) | 『家忠日記』 |
| 天正14年5月11日 | 1586年 | 池鯉鮒で輿を受け取り、岡崎城へ | 『家忠日記』 |
| 天正14年5月14日 | 1586年 | 輿が浜松に入る | 『家忠日記』 |
| 天正14年10月 | 1586年 | 母・大政所が岡崎へ下る。家康が上洛し、大坂へ | 『多聞院日記』ほか |
| 天正14年11月16日 | 1586年 | 浜松へ帰る | 『家忠日記』(『岡崎市史』の引用) |
| 天正14年の末 | 1586年〜1587年初め | 家康が駿府城へ移る。朝日姫は駿府に住み「駿河御前」と呼ばれる | 『改訂新版 世界大百科事典』 |
| 天正16年3月〜9月 | 1588年 | 上洛と帰国。6月、母の重い病の知らせのころ再び京へ | 『家忠日記』(『岡崎市史』の引用) |
| 天正18年正月14日 | 1590年 | 京都で病死。東福寺に葬られる | 事典 |
| 天正19年正月22日 | 1591年 | 兄・秀長が郡山で病死 | 『多聞院日記』正月23日条 |
天正14年の末に家康が駿府城へ移った月日は、事典では「同年末」までしか確かめられません。和暦の年末は西暦では翌年の初めにあたることがあるため、西暦の欄は年をまたいで書きました。
日付は和暦を基本にし、西暦は年だけを添えています。月日まで西暦に換算した日付は、本記事では暦表で確かめていないため載せていません。
朝日姫の兄たちの生涯は、それぞれ次の記事で紹介しています。
よくある質問(FAQ)
朝日姫は何をした人ですか?
秀吉・秀長の妹で、天正14年(1586年)に徳川家康の正室となった女性です。小牧・長久手の戦いのあと、上洛しない家康を秀吉が引き寄せようとして結んだ縁組でした。
朝日姫の前の夫は誰ですか?自害したのですか?
事典は佐治日向守と伝え、副田甚兵衛・副田吉成とする書物もあります。妻を差し出したうえで自ら切腹したという話が『御年譜微考』など江戸時代の編纂物に見え、剃髪して隠居したとする伝えもあります。
朝日姫と家康の仲はどうでしたか?
夫婦仲を直接示す記録は、今回確認できませんでした。確かめられるのは、浜松に嫁ぎ、駿府に住み、京と行き来したという動きです。
朝日姫の死因は何ですか?
病死とされますが、病名を記した記録は今回確認できませんでした。天正18年正月14日(1590年)、京都で亡くなっています。聚楽第とする事典もあります。
朝日姫は何歳で亡くなりましたか?
数え年で48歳、満年齢では46〜47歳です。誕生日が分からないため、満年齢には幅があります。
朝日姫に子供はいましたか?
事典に子の記載はなく、今回確認した資料でも実子の記録は見当たりませんでした。長丸(のちの秀忠)を子とする儀があったと『豊太閤と其家族』『岡崎市史』は書きますが、どちらも典拠を示していません。
朝日姫は美人だったのですか?
容姿を記した同時代の記録は、今回確認できませんでした。1919年刊の『豊太閤と其家族』は、東福寺所蔵の「旭姫画像」を図版で載せています。
朝日姫のお墓はどこですか?
京都の東福寺に葬られたと事典は書き、号は南明院です。静岡市葵区の瑞龍寺にも、分骨された墓が伝わっています。
『豊臣兄弟!』であさひを演じているのは誰ですか?
倉沢杏菜さんです。夫の甚助(のちの副田吉成)は前原瑞樹さんが演じています。
インタビュー後記 本人の言葉はなくても、日付は残っていた
書き始めたときは、朝日姫について書けることは少ないだろうと思っていました。本人の手紙も、言葉も、今回は見つからなかったからです。
ところが、家康の家臣の日記を開くと、雨の日の迎えも、輿の数も、浜松に入った日のことも書いてありました。
本人の言葉はなくても、日付は残っていた。 書き終えて残ったのは、その実感でした。
一方で、現代の解説記事に見える「悲劇の姫」という見方は、今回の調べでは確かめようがありませんでした。前の夫の自害も、母との涙の対面も、江戸時代の書物に見える話です。
同時代の日記が教えてくれるのは、彼女がいつ、どこへ動いたかまでです。そこから先の気持ちを書くことは、この記事ではしないでおきます。

最後に一つ。妹さんのことを、現代に残る日記や書物から聞かされて、どう感じましたか。

妹の道のりを、よその家来の日記から聞かされる。妙なものじゃのう。
じゃが、雨の日に輿を迎えた者がおり、夜通しで通っていったと書いた者がおった。それが分かっただけでも、聞いた甲斐があった。
妹の胸の内は、そなたらが勝手に決めずにおいてくれ。それが何よりの供養であろう。
あなたは、朝日姫の生涯を、日付から読みますか。それとも、物語から読みますか。
参考資料
- コトバンク「朝日姫」(『改訂新版 世界大百科事典』)※1543〜90年、秀吉の異父妹で竹阿弥を父とすること、佐治日向守に嫁したと伝えられること、懐柔策の一環として1586年に家康へ再嫁、家康の上洛は大政所の岡崎行きまで実現しなかったこと、駿河御前、京都で病死し東福寺に葬られたこと
- コトバンク「朝日の方」(『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』)※佐治日向守(諸説あり)、天正14年に秀吉によって離婚させられ家康の正室となったこと、旭姫・駿河御前の呼び名、天正18年1月14日死去・48歳(数え)、尾張出身、号は南明院
- コトバンク「駿河御前」※『日本人名大辞典+Plus』が朝日の方と築山殿の両方に送っていること
- コトバンク「徳川家康」※『日本大百科全書』の1584年の和議、1586年に正室となって浜松へ行き1590年京都聚楽第で没した記述、『改訂新版 世界大百科事典』の同年末に駿府城へ移った記述
- コトバンク「大政所」※『世界大百科事典(旧版)』「天瑞院」項の、再嫁して秀長・朝日姫をもうけたこと、86年10月に家康を上洛させるため三河岡崎城に下った記述
- コトバンク「築山殿」(『デジタル大辞泉』)※家康の最初の正室で、1542〜1579年
- 京都市「東福寺周辺エリア(本町通・泉涌寺)」※南明院が東福寺の塔頭の一つとして挙げられていること
- コトバンク「家忠日記」※松平家忠の日記で、1577〜94年に及ぶこと
- コトバンク「言経卿記」※山科言経の日記であること
- コトバンク「当代記」※著者は松平忠明といわれるが不詳、成立年代不明
- コトバンク「朝野旧聞裒藁」※1819年着手・1841年完成の幕府官撰の史料集成
- コトバンク「武徳編年集成」※木村高敦著、1741年に近い年に完成した家康の伝記
- 国立国会図書館デジタルコレクション『家忠日記 第4』(坪井九馬三・日下寛校、吉川半七、1897年)4月の条※天正14年4月13日「上方御祝言来廿八日に相定候」。画像で確認
- 国立国会図書館デジタルコレクション『家忠日記 第4』5月11日・12日条※池鯉鮒・西の野での受け取り、長柄輿12挺・釣輿15挺、岡崎城、吉田。画像で確認
- 国立国会図書館デジタルコレクション『家忠日記 第4』5月13日・14日条※吉田逗留、14日「御こし濵松ニ入候」、18日条の16日の能。画像で確認
- 国立国会図書館デジタルコレクション『多聞院日記 第4巻』(辻善之助編、三教書院、1938年)天正14年4月末の条※「關白殿ヨリ三川へ祝言在之、事々敷儀也ト云々」。画像で確認
- 国立国会図書館デジタルコレクション『多聞院日記 第4巻』天正14年10月7日条※「近日ニ關白殿母儀大政所參川へ人質ニ御越」。画像で確認
- 国立国会図書館デジタルコレクション『多聞院日記 第4巻』天正14年10月の条※家康の在京と大坂下向、宰相殿の宿所での能(機械読み取りの本文で確認)
- 国立国会図書館デジタルコレクション『多聞院日記 第4巻』天正18年正月の条※正月2日・8日の「爲大納言殿祈禱」。画像で確認
- 国立国会図書館デジタルコレクション『岡崎市史 別巻下巻』(岡崎市、1935年)朝日姫の婚嫁※祝言の延期と本多忠勝の上洛を記す『家忠日記』の引用
- 国立国会図書館デジタルコレクション『岡崎市史 別巻下巻』前夫の諸説※『朝野旧聞裒藁』所載「古老聞書」の副田甚兵衛、『尾張志』所引「副田系図」の副田与左衛門吉成、『御年譜微考』『武徳編年集成』の佐治日向守の切腹
- 国立国会図書館デジタルコレクション『岡崎市史 別巻下巻』大政所の下向※『宇野主水日記』の「御證人之躰也。面向ハ御息女ニ逢被申度」の引用。画像で確認
- 国立国会図書館デジタルコレクション『岡崎市史 別巻下巻』落穂集の引用※岡崎での母娘の対面の逸話
- 国立国会図書館デジタルコレクション『岡崎市史 別巻下巻』家康の上洛※『言経卿記』天正14年10月26日条「殿下御妹聟也」の引用。画像で確認
- 国立国会図書館デジタルコレクション『岡崎市史 別巻下巻』京都往来※天正16年閏5月6日の帰国、6月22日の「御前様は夜通御とをり」を記す『家忠日記』の引用。画像で確認
- 国立国会図書館デジタルコレクション『岡崎市史 別巻下巻』駿府巡見記の引用※瑞龍寺の位牌「瑞龍院殿光室惣旭大禪尼」、有馬・南都で逝去とする記述。画像で確認
- 国立国会図書館デジタルコレクション『岡崎市史 別巻下巻』死去の記事※『当代記』「家康公妻室於京都病死給」の引用、死去の地の諸説(聚楽・伏見・有馬)
- 国立国会図書館デジタルコレクション『豊太閤と其家族』(渡辺世祐、日本学術普及会、1919年)南明院※旭姫画像(京都東福寺所蔵)の図版
- 国立国会図書館デジタルコレクション『豊太閤と其家族』285頁※前夫を佐治日向守とし副田与左衛門吉成とする伝えもあって「確なる事は明でない」とする記述、500石の辞退、自殺・剃髪の両説、天正14年2月22日の使者
- 国立国会図書館デジタルコレクション『豊太閤と其家族』286頁※天正16年の上洛と看病、天正18年正月14日の死去、法名、瑞龍寺への禁制
- NHK ONE 大河ドラマ「豊臣兄弟!」の放送予定※第39回「茶々の本心」(10月11日)と番組説明。2026年10月8日に確認
- ステラnet「新たに豊臣ファミリーを発表!母役に坂井真紀、姉役に宮澤エマ、妹役に倉沢杏菜」※2025年2月4日。あさひの役どころ
- ステラnet「2026年大河ドラマ『豊臣兄弟!』新キャスト! 今川義元に大鶴義丹、足利義昭に尾上右近が出演決定! 織田の宿敵・美濃勢も」※2025年12月10日。甚助(前原瑞樹さん)を「あさひ(倉沢杏菜)の夫。のちの副田吉成」と紹介
- 国立国会図書館デジタルコレクション『多聞院日記 第4巻』天正19年正月23日条※「大納言秀長卿昨日廿二日ニ死去云々」
- 静岡新聞アットエス「旭姫(朝日姫)ゆかりの瑞龍寺を訪ねる」※2023年2月12日。瑞龍寺に分骨された墓が残ること、家康の寄進と伝わる品、歴代将軍の朱印状








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