ヴェルニーは何をした人?横須賀製鉄所の首長と観音埼灯台の技師をヴェルニーAIと解説

ヴェルニーは何をした人?横須賀製鉄所の首長と観音埼灯台の技師をヴェルニーAIと解説 何をした人

横須賀駅を出てすぐの公園に、この人の名前が付いています。胸像も立っています。それなのに、どこで生まれ、日本を離れたあと何をした人なのか、私は長いあいだ説明できませんでした。

調べてみると、フランス側の一次資料を読んだ論文がありました。製紙業の家に生まれた次男が、中国で砲艦を造り、27歳で横須賀の建設案を書き、帰国後は炭鉱の所長になっていました。

この記事の結論

ヴェルニーは、横須賀製鉄所の首長として、計画の立案から建設、経営までを率いたフランスの海軍技師です。1865年1月に来日して27歳で建設原案をまとめ、翌1866年から横須賀に住んで工事を指揮しました。

製鉄所内の学校で日本人の技術者を育て、観音埼灯台の設計にも名を残しています。1876年に日本を離れたあとは、フランスで炭鉱の経営に携わりました。

ただし、製鉄所は一人の事業ではありません。幕府側の親仏派がフランス公使ロッシュに協力を求め、技師団はロッシュが手配しました。造船所の拡張は、離日のあとも続きました。

  • 27歳
    建設案を出した年齢
  • 1869年
    観音埼灯台の初点灯
  • 満70歳
    没年齢(故郷オブナで死去)

この記事では、来日前の人生、横須賀での10年、戊辰戦争のときに取った行動、帰国後の仕事と晩年までを、論文と横須賀市の資料に当たりながら見ていきます。

話し相手は、ヴェルニーAI(ヴェルニーをモデルにしたAI)です。何を聞いても、年数と人数と費用の見積もりに直してから答える人にしました。

※以下のインタビュー部分は、公開されている史料をもとにヴェルニーの人物像を再現した創作です。史料で確認できない心情や受け止め方を補った創作的な対話であり、実際の発言をそのまま掲載したものではありません。

筆者
筆者

はじめまして。横須賀の駅前に、あなたの名前の付いた公園があります。胸像も立っています。

ヴェルニーAI
ヴェルニーAI

公園と像、でございますか。それは何か年の計画で、幾人で、幾らの話ですかな。

私の建設案に載せた施設ではありませんな。

筆者
筆者

公園は21世紀になってからできました。あなたが日本を離れて125年ほどあとです。

ヴェルニーAI
ヴェルニーAI

125年後の工事でございますか。ずいぶん長い工期ですな。

私の約定は4か年でしたから、遅れの度合いでは、公園のほうが上でありましょう。

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HAGY(へいじい)
この記事を書いた人
HAGY(へいじい)
ウェブマーケティング(SEO・SNS)を仕事にしている歴史好きです。子どもの頃は、教科書や歴史漫画で偉人の名前を覚えるだけでした。高野山真言宗の尼僧と結婚し、空海を調べるうちに、その時代の空気や周りの人々まで気になるようになりました。これまでに100を超える偉人AIを作ってきました。

まずはヴェルニーの基本プロフィールと何をした人なのかを2分で知ろう

ヴェルニーは、幕府に雇われて横須賀製鉄所の首長を務め、明治政府のもとでも仕事を続けたフランス人です。

項目内容
名前フランソワ・レオンス・ヴェルニー(François Léonce Verny)。事典は「ベルニー」と表記
生没年1837年12月2日〜1908年5月2日
没年齢満70歳
出身フランス、アルデシュ県オブナ
学歴パリの理工科大学校(エコール・ポリテクニク)、海軍造船工学校
来日前の仕事ブレストの海軍工廠、中国・寧波での砲艦建造
日本での役職横須賀製鉄所(のち横須賀造船所)の首長
帰国後の仕事サンテティエンヌ近郊の炭鉱の所長、商工会議所の幹事

参考:ベルニー|コトバンク(日本大百科全書・日本人名大辞典・ブリタニカ)
参考:ヴェルニーと横須賀造船所(宮永孝)|法政大学学術機関リポジトリ

資料を探すときは「ヴェルニー」と「ベルニー」の両方で引くのが近道です。日本大百科全書も日本人名大辞典も、見出しは「ベルニー」です。横須賀市の公園や記念館は「ヴェルニー」と書きます。

「レオン・ヴェルニー」と書く紹介も見かけますが、本記事では「レオンス・ヴェルニー」と表記します。

来日前と帰国後については、法政大学の宮永孝氏が1998年に発表した論文があります。オブナの町役場の出生証明や、フランス海軍省に残る書簡を読んだもので、本記事の来日前・帰国後の記述は、おもにこの論文によっています。

筆者
筆者

事典では『ベルニー』、公園では『ヴェルニー』です。どちらでお呼びすればよいですか。

ヴェルニーAI
ヴェルニーAI

綴りは Verny、一つでございます。書き方が二通りあっても、工程に差し支えはありません。

公園と同じ『ヴェルニー』でよろしい。『ベルニー』で探す人にも届くのでしたら、両方残すのが安全な設計ですな。

ヴェルニーはどんな人だった?20代の首長に幕府の侍は不安を抱いた

ヴェルニーは、20代で大事業を任され、仕事の出来で周囲の不安を消した人として紹介されています。横須賀市自然・人文博物館の学芸員は、まだ20代の彼を見た幕府の侍のなかに不安に思う者がいたが、すぐに優秀さが褒め称えられたと書いています。

資料に残る見られ方を並べてみましょう。

時期伝わる姿資料
リセ時代(1853〜56年)冷たい教師に鍛えられ、近眼で、数学で2番の成績。冬は故郷の母から手紙と食糧が届いた宮永(リヨンの学校記録)
理工科大学校(1858年)身長1メートル738ミリ。品行は「とてもよい」宮永(陸軍省の記録)
横須賀着任のころ20代の首長に不安を抱く侍もいたが、すぐ優秀さが称えられた横須賀市自然・人文博物館
晩年のオブナタバコはパイプで1日3本まで。酒は少なめ。小説を読むと「ふうん!人生はそんなもんじゃないぞ」と叫んだ宮永

参考:横須賀市自然・人文博物館 メールマガジン2016年11月20日号|横須賀市自然・人文博物館
参考:ヴェルニーと横須賀造船所(宮永孝)|法政大学学術機関リポジトリ

数字と図面で人を納得させる型だった、と私は読んでいます。幕府に示した建設案は、4か年・年60万ドル・計240万ドルという枠を先に決め、施設を順に並べたものでした。

一方で、家族への思いも資料に残ります。1869年、海軍大臣にあてた書簡で「いま妻の健康が気がかりなので、フランスに連れ帰る必要があります」と書き、半年ほどの休暇を得て、1869年5月ごろから翌年3月まで日本を離れました。

参考:ヴェルニーと横須賀造船所(宮永孝)|法政大学学術機関リポジトリ

筆者
筆者

27歳で来日して、侍たちに不安そうな目で見られました。腹は立ちませんでしたか。

ヴェルニーAI
ヴェルニーAI

腹を立てる工数は、見積もりに入っておりません。若い者に240万ドルの話を任せるのですから、不安に思うのが当然でございます。

あなたなら、そういう目で見られたとき、どうなさいますかな。

筆者
筆者

私なら、年齢を聞かれるたびに言い訳を考えると思います。

ヴェルニーAI
ヴェルニーAI

言い訳は費用が掛かるわりに、何も建ちません。図面を出すほうが早い。

年齢は変えられませんが、図面は書き直せますからな。

ヴェルニーの三大功績

ヴェルニーの仕事は造船所の建設にとどまりませんが、主な仕事として次の3つを紹介します。

造船所・学校・灯台の3つの仕事
  • 横須賀製鉄所を首長として計画から建設まで率いた
  • 製鉄所内の学校で日本人の技術者を育てた
  • 観音埼灯台を設計した

どれも、フランスから来た技師団と日本側の役人が一緒に動いた仕事です。順に見ていきましょう。

① 横須賀製鉄所を首長として計画から建設まで率いた(1865〜1875年)

ヴェルニーは、1865年1月に横浜へ来て2月に建設原案を提出し、1866年6月から首長として横須賀に住んで工事を率いました。日本大百科全書は、計画立案から建設指導、経営まで首長として携わったと書いています。

宮永氏の論文から、着任までの流れを抜き出します。

年月できごと
1864年12月寧波にいたヴェルニーに、ジョレス提督から手紙。日本政府が江戸の近くに造船所を造りたがっている、と
1865年1月資料と見積書を持って横浜へ。2月11日付で建設原案を提出
元治2年1月29日(1865年2月24日)老中水野和泉守らと約定書。4か年・年60万ドル・計240万ドル
1865年4月ごろ雇うフランス人の人選と機械の購入のため、いったん日本を離れる
慶応元年11月15日(横須賀市の表記では1865年)くわ入れ式。ヴェルニーは不在中
1866年6月8日柴田剛中の使節とともに横浜へ再来日。6月18日から横須賀に住む

参考:ヴェルニーと横須賀造船所(宮永孝)|法政大学学術機関リポジトリ
参考:横須賀の誇り!横須賀製鉄所(造船所)|横須賀市

人選はフランス側でした。横須賀市の歴史解説は、幕府内の親仏派である栗本瀬兵衛、小栗上野介忠順、浅野美作守らがフランス公使ロッシュに協力を依頼し、首長には理工科大学校出身のヴェルニーが選ばれた、という順序で書いています。

「小栗がヴェルニーを招いた」と短くまとめる紹介もありますが、技師団を手配したのはロッシュです。

参考:横須賀とフランスの歴史〜横須賀製鉄所の建設と日仏交流|横須賀市

横須賀を選んだ理由は、約定書に書かれています。横須賀湾の地形が地中海岸の軍港ツーロンに似ているので、造船所はツーロンのものに倣う、という一文です。

首長の月給は約830ドルで、年にすれば約1万ドルでした。副首長ティボディエの600ドル、医師サヴァティエの約420ドルと比べても、首長の額は抜きん出ています。

製鉄所は1871年に第1号ドックが完成し、横須賀造船所と改称されました。ただし、これは施設全体の完成ではありません。名前の変遷と、誰が造ったのかは、こちらの記事で詳しく扱っています。

筆者
筆者

4年で240万ドル、と最初に決めたそうですね。でも4年では終わりませんでした。

ヴェルニーAI
ヴェルニーAI

その通りでございます。4か年の工程に、政権が代わる項目は書いておりませんでした。

ただ、240万ドルと書いたから、いまあなたが私を問い詰められるのです。書かない計画は、問い詰めようもありません。

起案した幕府側の事情は、小栗忠順の評伝が1章をあてて書いています。横須賀製鉄所の設立の背景から、スチームハンマーやドックの話まで読めます。

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起案に加わった小栗忠順が何をした人なのかは、こちらにまとめています。

② 製鉄所内の学校で日本人の技術者を育てた(1867年)

ヴェルニーは、製鉄所の建設案の段階から、日本人の技術者を養成する学校を計画に入れていました。国立国会図書館の解説によると、幕府に示した原案には、将来フランス人に代わって日本人が造船に当たれるよう、造船所内に学校を興すという一文があります。

アジア歴史資料センターの用語解説から、この学校「黌舎(こうしゃ)」について分かることを並べます。

黌舎について資料が書いていること
  • 1867年(慶応3年)、横須賀製鉄所内に設けられた、造船学を専門に教える技術学校
  • ヴェルニーが学んだパリの理工科大学校を参考に開設された
  • 入学は当初13歳以上20歳以下。のちに15歳以上20歳以下に改められた
  • 衣食住と教材の費用は官費
  • 約100人が卒業したのち1888年に閉校し、翌年に海軍造船工学校へ引き継がれた

参考:黌舎|アジア歴史資料センター 用語解説
参考:1. 大規模官営工場の建設|国立国会図書館「近代日本とフランス」

年については、資料で書き方が違います。アジア歴史資料センターは1867年とし、横須賀市の紹介ページは、幕臣の子弟の教育機関が明治3年(1870年)に技術学校「黌舎」になった、と書きます。

宮永氏の論文では、慶応3年5月7日に侍の子弟から伝習生を採用しています。

参考:横須賀の中の素晴らしきフランス〜学ぶ|横須賀市

横須賀市自然・人文博物館の学芸員は、ヴェルニーと副首長ティボディエが「あえて来日して横須賀製鉄所で最も力を注いだのは教育」だったと書いています。授業はフランス語で行われました。

参考:学芸員自然と歴史のたより「横須賀製鉄所で重視されたものは何か?」|横須賀市自然・人文博物館 メールマガジン2016年11月20日号
参考:1. 大規模官営工場の建設|国立国会図書館「近代日本とフランス」

筆者
筆者

第1号ドックができる前に、もう学校を始めていたそうですね。

ヴェルニーAI
ヴェルニーAI

機械は買えますが、人は買えません。機械は船で運べても、直す人は船では運べないのです。

フランス人が去るのが工程の終点でありましょう。終点から逆に引けば、学校は最初のほうに来ます。

③ 観音埼灯台を設計した(1869年)

観音埼灯台は、ヴェルニーの設計で1869年に点灯した、日本最初の洋式灯台です。世界大百科事典は、明治政府がフランス人技師ベルニーの設計によって日本最初の洋式灯台を設置した、と書いています。

項目内容
起工明治元年9月17日(1868年11月1日)
初点灯明治2年1月1日(1869年2月11日)
設計ヴェルニー
現場宮永氏の論文によると、ヴェルニーはフロランに命じて観音崎に設けさせた
現在1925年(大正14年)に建設された3代目

参考:ベルニー,F.L.(世界大百科事典「観音崎」の項)|コトバンク
参考:観音埼灯台/観音埼灯台點燈(てんとう)の碑|横須賀市
参考:観音埼灯台|国土交通省 インフラツーリズム ポータルサイト

この灯台を命じたのは、幕府ではなく明治政府でした。宮永氏の論文によると、1868年9月、新政府は灯台用の機械をフランスに注文するよう命じ、ヴェルニーは建築課長のフロランに観音崎の工事を任せました。

幕府に雇われた技師が、政権が代わった直後に新政府の命令で灯台を造った形です。製鉄所の建設も、同じように新政府へ引き継がれて続きました。

筆者
筆者

観音崎の灯台は、幕府ではなく明治政府の注文でした。雇い主が変わって、戸惑いませんでしたか。

ヴェルニーAI
ヴェルニーAI

戸惑いは見積もりに載せません。灯台の図面は、注文主の名が変わっても同じ線でございます。

数字に出る苦労でしたら、現場を任せたフロランのほうが大きかったでありましょうな。

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ヴェルニーの来日前はどんな人生だった?製紙業の家に生まれ、中国で砲艦を造った

ヴェルニーは、オブナの製紙業の家の次男として生まれ、パリで学び、中国で砲艦4隻を造ってから日本に来ました。横須賀の建設案を書く前に、寧波で造船所とドックを設けた実績がありました。

宮永氏の論文をもとに、来日前の歩みを表にします。

年出来事
1837年12月2日、アルデシュ県オブナに生まれる。父アメデーは製紙工場を営む実業家
1853〜56年リヨンの国立リセで学ぶ。寄宿生
1856年パリの理工科大学校に入学。入学者115名中64番
1858〜60年海軍造船工学校(パリ)で学ぶ
1860年8月、ブレストの海軍工廠に着任。造船・製鉄・蒸気機関などの部門を1年ほどで速修
1862年9月、海軍大臣の命で中国へ。10月19日マルセイユ発。寧波の副領事を兼ねる
1864年寧波で造った砲艦4隻が竣工。12月、ジョレス提督から日本の造船所計画の手紙
1865年1月、横浜へ。2月、幕府と約定書。6月、レジオンドヌール勲章

参考:ヴェルニーと横須賀造船所(宮永孝)|法政大学学術機関リポジトリ

中国で造ったのは、小型の砲艦4隻でした。太平天国の乱のさなかで、清国はフランスの協力を求め、海軍大臣は4隻の建造監督をヴェルニーに委ねました。寧波の町は戦火のあとで廃墟のようだった、と論文は書きます。

その寧波で、造船所とドック、倉庫を一から設け、現地の人を雇って教えた。横須賀でやることの、小さな予行のようにも見えます。

日本と約定を結んだあと、ヴェルニーはいったんフランスへ戻ります。1865年8月から12月までは、幕府の外国奉行柴田剛中の使節に同行し、ツーロンやブレストの海軍工廠を案内しました。雇う技師の契約と機械の購入は、この旅の途中で進んでいます。

製鉄所の計画で、幕府側とフランス側の仲立ちをしたのが栗本鋤雲です。栗本については、こちらの記事で紹介しています。

筆者
筆者

寧波の造船所は、廃墟のような町に建てたそうですね。横須賀とどちらが大変でしたか。

ヴェルニーAI
ヴェルニーAI

規模で申せば横須賀でございます。寧波は砲艦4隻、横須賀は4か年で240万ドルの話でした。

寧波で一度、造船所を一から設けておいた。順序があったのは幸いでしたな。

戊辰戦争のとき、ヴェルニーは横須賀を離れなかった

1868年3月、旧幕府がフランス人の横浜退去を勧告したとき、ヴェルニーは横須賀にとどまり、工事を止めませんでした。横須賀市は、幕府が崩壊の危機を迎えたときも帰国せず、使命を最後まで全うする姿勢を示した、と書いています。

宮永氏の論文が紹介する、このときの動きを並べます。

1868年春、横須賀で起きたこと
  • 新政府軍が箱根を越えたため、旧幕府はフランス人を横浜へ退去させるよう勧告した
  • ヴェルニーはフランス海軍・植民地大臣あての書簡で「政治的事件のとばっちりをうけた」と書いた
  • 仕事の手をゆるめ、日本人の職人に暇を出さざるをえない状態になった
  • フランス公使に求め、通報艇「キエン・シュ」号を横須賀港に泊めて雇フランス人を守った
  • 慶応4年閏4月1日(1868年5月22日)、新政府が製鉄所を受け取り、これまでどおり工事を続けるよう通告した

参考:ヴェルニーと横須賀造船所(宮永孝)|法政大学学術機関リポジトリ
参考:横須賀とフランスの歴史〜横須賀製鉄所の建設と日仏交流|横須賀市

「止めなかった」といっても、全速力で続けたわけではありません。このころには仕事の手をゆるめていた、と宮永氏の論文は書きます。艦を呼んで人を守り、工事は細く続け、新しい政府が引き取るのを待った。そう私には読めます。

資金の面では、新政府の大隈重信が、雇フランス人の解雇と工事中止の意見に反対し、横浜の銀行から借り入れてフランス側に支払いました。ヴェルニーが続けられた背景には、この判断があります。

筆者
筆者

幕府から『横浜へ逃げろ』と言われて、横須賀に残りました。怖くなかったのですか。

ヴェルニーAI
ヴェルニーAI

怖いかどうかより先に、横須賀に幾人おり、港に艦がいるかを数える。いま問われれば、それが私の順序だと答えたいところです。

あなたなら、どうなさいますかな。

筆者
筆者

私なら、仕事より先に荷物をまとめます。

ヴェルニーAI
ヴェルニーAI

それは正しい順序でございます。荷物の目録も工程の一つでありましょう。

ただ、造りかけのドックは荷物に入りません。置いて出れば、そこで工程が止まります。

戊辰戦争から新政府の改革までの流れは、学習まんがの通史でも追えます。

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帰国後のヴェルニーは炭鉱の所長になった

1876年に日本を離れたヴェルニーは、海軍を辞め、サンテティエンヌ近郊の炭鉱の所長になりました。日本大百科全書は、海軍を辞したあとはサンテティエンヌの鉱山経営に力を注いだ、と書いています。

宮永氏の論文から、帰国後の歩みを表にします。

年出来事
1876年3月12日、横浜から妻子と帰国。マルセイユで休暇。海軍造船工学校の教授職を望むが空きがなかった
1876年11〜12月、ロッシュ=ラ=モリエール・エ・フィルミニーの炭坑の役員会と接触。海軍を離れ、炭坑の所長に
1881年サンテティエンヌ商工会議所の会員に当選。翌年、幹事に
1890年春、坑夫の賃上げ要求を経営側が拒否してゼネストに。心労で疲れ切った
1895年炭坑の職を辞し、故郷オブナへ
1908年5月2日、オブナの自邸で死去

参考:ヴェルニーと横須賀造船所(宮永孝)|法政大学学術機関リポジトリ
参考:ベルニー|コトバンク(日本大百科全書)

日本を離れる前の数か月も、記録が残っています。1875年12月28日に明治天皇に謁見し、翌1876年1月16日には芝の延遼館で送別の宴が開かれました。三条実美ら高官が出席し、書棚と花びんが贈られています。

2月26日には、在任中の経過を6項目にまとめた報告書を日本政府に出しました。3月3日に解嘱され、3月12日に横浜を発っています。

日本大百科全書は1875年の解雇後に同所の顧問を経て1876年に帰国、日本人名大辞典は契約満了により帰国とします。1875年に首長を退き、1876年3月に離日した、と読めば3つの資料と矛盾しません。

炭鉱での仕事は、横須賀と同じ「人を雇い、設備を造る」仕事でした。ただし相手は坑夫で、1890年のゼネストでは経営側に立つことになります。

筆者
筆者

日本を離れたあと、炭鉱の所長になりました。船の人が、なぜ石炭だったのですか。

ヴェルニーAI
ヴェルニーAI

船も炭鉱も、人を雇い、設備を造り、費用を数える仕事でございます。

望んだ席に空きがなければ、空いている現場へ参るまで。蒸気の船を動かすのも石炭ですからな。

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ヴェルニーの死因と最期

ヴェルニーは1908年5月2日、故郷オブナの自邸で、肺炎のため亡くなりました。日本人名大辞典は70歳と書きます。

項目内容
没年月日1908年5月2日
場所フランス、アルデシュ県オブナの自邸
死因肺炎(宮永氏の論文)
年齢満70歳。宮永氏は享年71歳と書く
葬儀質素に行い、死亡通知は肉親と関係した会社の経営者だけに出すよう言い残した
墓オブナの共同墓地。石の刻字はほとんど読めない(宮永氏の訪問時)

参考:ヴェルニーと横須賀造船所(宮永孝)|法政大学学術機関リポジトリ
参考:ベルニー|コトバンク(日本人名大辞典)

晩年の暮らしは、1895年に炭鉱の職を辞してからの13年です。7年前に買っておいたオブナ橋の近くの家で、実業家らが意見を求めて訪ねてくる以外は、のんびりとした日々だったと論文は書きます。

教会への施しを求め、妹イザベルには年500フランを送るよう言い残した、ともあります。横須賀で年1万ドルを得た人の、晩年の金の使い方です。

筆者
筆者

研究者の宮永孝さんがオブナの旧宅を訪ねたときも、横須賀の写真が飾られていたそうです。

ヴェルニーAI
ヴェルニーAI

それは私の見届けていない話ですな。

ただ、写真を掛けておく費用は知れております。捨てずにいてくれた者がいるのなら、礼を申し上げたい。

ヴェルニーの生涯を年表で振り返る

宮永氏の論文と事典を土台にしました。日本の日付は、明治5年までは当時の暦(旧暦)なので、西暦との対応は年どうしの目安です。

生涯70年のうち、日本に関わったのは11年です。その前に中国で3年、そのあとフランスで32年の人生があります。

年出来事解説
1837年オブナに生まれる12月2日。製紙業の家の次男
1853年リヨンの国立リセに入る寄宿生
1856年理工科大学校に入学115名中64番
1858年海軍造船工学校に進むパリ
1860年ブレストの海軍工廠に着任各部門を1年で速修
1862年中国へ。寧波の副領事を兼ねる砲艦4隻の建造監督
1864年砲艦4隻が竣工。12月に日本の計画の手紙寧波で受け取る
1865年横浜で建設案を提出し、幕府と約定4月ごろ離日。8〜12月、柴田使節に同行
1866年6月、再来日。横須賀に住む慶応2年。工事を指揮
1867年上海でマリーと結婚。伝習生を採用妻は上海領事の娘
1868年戊辰戦争。横須賀にとどまる5月、新政府が製鉄所を接収
1869年観音埼灯台が点灯。妻の療養のため一時帰国翌1870年3月に戻る
1871年第1号ドック竣工。横須賀造船所に改称施設全体の完成ではない
1872年御召船「蒼竜丸」進水木製152トン
1875年軍艦「清輝」進水。首長を退く12月、明治天皇に謁見
1876年3月、妻子と帰国。炭鉱の所長に延遼館で送別の宴
1881年サンテティエンヌ商工会議所の会員に翌年、幹事
1895年炭鉱の職を辞し、オブナへ7年前に買っておいた家
1908年5月2日、オブナで死去満70歳

日本の11年のうち、横須賀に住んだのは10年弱です。建設案を出してから着任するまでに1年以上あり、そのあいだにフランスで人と機械をそろえています。

年表を眺めると、転機のたびに「造船所を一から設ける」仕事が繰り返されているのが分かります。ブレストで学び、寧波で試し、横須賀で本番。帰国後の炭鉱は、その応用のようにも読めます。

ヴェルニーのすごさと影響力

ヴェルニーのすごさは、施設を造るより先に、人を育てる仕組みを計画に書き込んだ点にあります。

人を育てる仕組みが残したもの
  • 建設案の段階で、造船所内に日本人の学校を設けると明記した
  • 1876年に離日したあとも、横須賀造船所は年ごとに拡張を続け、1903年に海軍工廠になった
  • 黌舎で学んだ技術者が、のちに2号ドックを日本人として初めて建設した

参考:1. 大規模官営工場の建設|国立国会図書館「近代日本とフランス」
参考:日本遺産認定 鎮守府 横須賀・呉・佐世保・舞鶴|横須賀市
参考:横須賀造船所|コトバンク(日本大百科全書)

日本大百科全書は、フランス本国からの技術者派遣を斡旋し、日本人への技術伝習に尽力した、と書いています。造船所そのものは1903年に横須賀海軍工廠へ改組され、第二次世界大戦まで続きました。

一方で、この「すごさ」は日本側の判断と組になっています。戊辰戦争のあとに工事を続けると決めたのは新政府で、資金を工面したのは大隈重信でした。

筆者
筆者

製鉄所の学校で学んだ技術者が、のちに日本人として初めてドックを建設しました。

ヴェルニーAI
ヴェルニーAI

その見積もりは当たりましたな。建設案に学校を書き込んだ者として、これ以上の成績表はありません。

私の図面なしで造れたのなら、私の工程はそこで終わったのでありましょう。

ヴェルニーの歩みから考える現代へのヒント

ここからは筆者の解釈です。資料に残る行動を、いまの仕事に置き換えてみました。

ヴェルニーの歩み現代へのヒント(筆者の解釈)
4か年・240万ドルの枠を先に決めてから施設を並べた期間と予算を先に置くと、何を削るかが見える
建設案に、日本人を育てる学校を書き込んだ設備より先に、引き継ぐ人の育て方を決める
政変のとき、工事の手をゆるめて人を守り、止めはしなかった全速力か中止かの二択にしない
妻の健康のために休暇を取った大きな仕事の途中でも、休む理由は家族でよい
帰国後、海軍の職を待たずに炭鉱へ移った望んだ席が空いていなければ、応用できる場所へ行く

時間と金の枠を先に言える人は、昔もいまも多くありません。27歳の技師が最初にやったのがそれでした。

ただし、4年の計画は4年では終わらず、造船所の拡張は離日後も続きました。枠を決めることと、枠どおりに終わることは別の話です。

筆者
筆者

いまの読者に、一つだけ言うなら何ですか。

ヴェルニーAI
ヴェルニーAI

何か年で、幾人で、幾らか。先にそれを書かれることです。

外れても構いません。書いて外すほうが、書かずに当てるより、後の者の役に立ちます。

ヴェルニー公園とブレスト市、いまに残るもの

横須賀には、ヴェルニーの名前を付けた公園と記念館があり、フランスのブレスト市とは姉妹都市です。いま見に行けるものを並べます。

いま見に行けるもの
  • ヴェルニー公園(横須賀市汐入町1-1):旧臨海公園。平成13年度末に完成し、園内にヴェルニーと小栗忠順の胸像がある
  • ヴェルニー記念館(横須賀市東逸見町1-1):スチームハンマー2台(国の重要文化財)を展示。2026年4月から横須賀市観光協会が運営。2026年10月26日〜11月13日は展示リニューアルのため休館(2026年11月7日時点の案内)
  • ヴェルニー・小栗祭:毎年、公園で開かれる式典
  • ブレスト市との姉妹都市:ヴェルニーが勤務した海軍工廠がブレストにあることから、1970年11月26日に提携

参考:ヴェルニー公園|横須賀市観光情報
参考:ヴェルニー記念館|横須賀市自然・人文博物館
参考:ヴェルニー記念館|横須賀市観光協会
参考:横須賀市・ブレスト市姉妹都市提携50周年記念事業|自治体国際化協会(CLAIR)

公園の対岸が製鉄所の跡地で、第1号ドックはいまも米海軍基地の中で使われています。公園から何が見えるか、ティボディエ邸や博物館に何があるかは、横須賀製鉄所の記事にまとめています。

筆者
筆者

あなたが勤めたブレストと横須賀は、1970年に姉妹都市になりました。

ヴェルニーAI
ヴェルニーAI

ブレストと横須賀が。私が勤めた工廠と、首長を務めた造船所でございますな。

1970年とは、ずいぶん長い工程です。書類はどちらの町から始まったのか、拝見したいものですな。

よくある質問(FAQ)

ヴェルニーの読み方と、正しい名前は?

フランソワ・レオンス・ヴェルニー(François Léonce Verny)です。日本大百科全書や日本人名大辞典は「ベルニー」と表記します。「レオン」と書く紹介もありますが、名はレオンスです。

ヴェルニーは何をした人ですか?

幕府に雇われ、横須賀製鉄所の首長として計画から建設、経営までを率いたフランスの海軍技師です。製鉄所内の学校で日本人の技術者を育て、1869年に点灯した観音埼灯台を設計しました。1876年に帰国しています。

ヴェルニーは小栗忠順に招かれたのですか?

横須賀市の歴史解説によると、小栗ら親仏派がフランス公使ロッシュに協力を依頼し、技師団はロッシュが手配しました。本人への最初の打診は、宮永氏の論文では1864年12月のジョレス提督の手紙です。

ヴェルニーはいつ来日しましたか?

1865年1月に横浜へ来て2月に建設原案を出し、約定を結んだあと4月ごろにいったん離日しました。くわ入れ式は不在中で、1866年6月に再来日して横須賀に住みました。事典は「1865年来日」とだけ書きますが、往復を省いた書き方です。

ヴェルニーは2027年の大河ドラマ『逆賊の幕臣』に出ますか?

2026年11月6日の第9次発表の時点で、ヴェルニー役の配役は発表されていません。公式の相関図にも名前がありません。配役の全体は、相関図の記事で追っています。

ヴェルニーの帰国後はどうなりましたか?

1876年に帰国し、海軍を辞めてサンテティエンヌ近郊の炭鉱の所長になりました。1881年に商工会議所の会員に選ばれ、1895年に職を辞して故郷オブナへ戻り、1908年に70歳で亡くなっています。

ヴェルニーはどんな人でしたか?

20代で大事業を任され、数字と工程で周囲を納得させた技師です。横須賀市の博物館は、着任時に不安を抱いた侍もいたが、すぐ優秀さが称えられたと書きます。晩年は質素に暮らし、葬儀も質素にして、死亡通知は肉親と関係会社の経営者だけに出すよう言い残しました。

インタビュー後記 公園の名前の先にあった人生

駅前の公園の名前になっている人の、帰国後を知らなかった。そこから始めた記事でした。

調べて分かったのは、横須賀の10年がこの人の人生の全部ではないことです。前に中国の3年があり、後ろにフランスの32年があります。炭鉱のストで疲れ切った50代や、小説に向かって叫ぶ晩年は、胸像からは見えません。

歴史マニアとしての意見を一つ書くなら、外国から来た技師を「招かれた人」としてだけ語るのは、もったいないと思います。27歳で見積もりを書き、政変のときに残る判断をし、帰る前に報告書を出した。本人の選択が、資料にはそれだけ残っています。

来日前と帰国後を書けたのは、1998年の論文のおかげです。オブナの町役場で出生証明を探し、墓地で刻字の読めない墓を見つけた研究者がいました。

公園の名前を見かけたら、この人がどこへ帰っていったかも、思い出してもらえたらと思います。

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参考資料

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