2026年11月6日、大河ドラマ『逆賊の幕臣』の第9次キャストが発表されました。佐野史郎さんが演じる林復斎の役紹介には、「通商は断固拒否」という離れ業をやってのけた、とあります。
ペリーと向き合った幕府側の代表が学者だった、という話は知っていました。ただ、その人が何を言い、何を書き残したのかは、私もあやふやでした。
横浜市の年表を開くと、気になる1行があります。条約の調印の1か月あまり前に、林が通商条約の締結を幕府に上申した、と書いてあるのです。
この記事の結論
林復斎は、1854年に横浜村でペリーと4度会談し、日米和親条約に筆頭で署名した幕府の大学頭です。大学頭は、幕府の学問所を代々預かった林家の当主が名のる役でした。
幕府の儒官(儒学を教える役人)として書物奉行などを務め、幕命で外交記録『通航一覧』の編纂を中心となって進めました。嘉永6年(1853年)に林家の本家を継ぎ、翌年に応接掛となります。
ただし、和親条約が自由貿易を認めなかったことを、林一人の手柄とは言い切れません。横浜市の年表は、林らが調印前に通商条約の締結を上申し、第1回会談では通商問題で対立したと記しています。
- 350巻
『通航一覧』の本編 - 4回
横浜村でのペリーとの会談 - 満58歳
没年齢(数え60歳)
この記事では、名前の表記、『通航一覧』、4回の会談の日付、条約の条文、ペリー側が書き残した人物像、林家の系譜、大河の役紹介との照合までを、資料に当たりながら見ていきます。
話し相手は、林復斎AI(林復斎をモデルにしたAI)です。何を聞いても、まず先例があるかどうかから話す人にしました。
※以下のインタビュー部分は、公開されている史料をもとに林復斎の人物像を再現した創作です。史料で確認できない心情や受け止め方を補った創作的な対話であり、実際の発言をそのまま掲載したものではありません。

はじめまして。ペリーと向き合った幕府の代表が学者だったと聞いて、意外に思いました。学者に異国との交渉を任せる先例は、あったのですか。

先例の話から入るとは、話のわかる御仁である。ただ、余の席に先例があったかどうかは、年号を添えて調べねば答えられぬ。
余に言えるのは、異国と関わった記録なら350巻ほど手元にあった、ということだけである。

それを調べるのが、あなたの仕事だったわけですね。

調べたのは余一人ではない。父の立案に、編纂の者が11人ついた。
ただ、来た船に何を言うかは、どこにも書いておらぬ。書いてあるのは、前に何を言ったかだけである。
まずは林復斎の基本プロフィールと何をした人なのかを2分で知ろう
林復斎は、幕府の儒官の家に生まれ、記録の編纂と外国使節の応接を担った人物です。
林復斎のペリー応接を、3問で予想してみませんか
答えの根拠は、この記事の章に書いてあります。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 名前 | 林復斎(はやし ふくさい)。復斎は号で、名(諱)は韑(あきら) |
| 字・通称 | 字は弼中。通称は式部。別号は梧南、藕潢 |
| 生没年 | 寛政12年12月27日(1801年2月)〜安政6年9月17日(1859年10月12日) |
| 没年齢 | 満58歳(数え60歳) |
| 出身 | 江戸 |
| 家 | 幕府の儒官、林家。父は林述斎 |
| 主な役 | 書物奉行、二丸留守居、先手鉄砲頭、西丸留守居。1853年から大学頭 |
| 主な仕事 | 『通航一覧』の編纂、日米和親条約の調印(1854年)、下田での条約附録の調印 |
参考:林復斎|コトバンク
参考:林, 復斎, 1800-1859|Web NDL Authorities(国立国会図書館)
資料を探すときは、「林復斎」「林韑」「林大学頭」の3つで引くのが近道です。事典の見出しは復斎、『通航一覧』の編者名は韑、条約の署名は林大学頭と、場面ごとに名が変わります。
生年を1800年と書く資料もあります。寛政12年の大半が西暦1800年にあたるための表記で、12月27日は当時の暦(旧暦)の日付のため、いまの暦に直すと1801年2月になります。
大学頭という役は、1691年(元禄4年)に林鳳岡が任じられてから、幕末まで林家の当主が受け継ぎました。林家が預かった昌平坂学問所は、1797年(寛政9年)に幕府の正規の学問所になっています。
参考:大学頭|コトバンク
参考:昌平坂学問所|コトバンク

復斎、韑、大学頭。どれでお呼びすればよいですか。

それには先例がある。条約には林大学頭、書物には林韑、号は復斎。場に応じて名を使い分けてきた。
貴殿の世で通りのよい名で呼ばれよ。余は返事をいたす。
林復斎はどんな人だった?ペリー側の記録が残す人物像
林復斎の人柄を具体的に書き残しているのは、日本側の事典よりも、ペリー側の『日本遠征記』です。
1856年にワシントンで刊行された公式の記録(邦訳は『ペリー艦隊日本遠征記』)で、横浜での会談と艦上の宴席の様子が細かく載っています。
同書が林について書いた場面を並べてみます。
| 場面 | 『日本遠征記』の記述(要旨) |
|---|---|
| 会談の席 | 明らかに委員の筆頭で、重要なことはすべて林に諮られた |
| 容姿 | 55歳くらい。姿がよく、重々しく、むっつりした表情。それでいて温厚な顔つきと、きわめて丁重な物腰 |
| 艦上の宴席 | 終始、重々しく威厳のある態度を保ち、料理と酒はどれも少しずつ口にした。酔わなかったのは林だけ |
| 水兵の余興 | むっつりした林の重々しさも、滑稽な芝居には勝てず、一緒に笑った |
| 調印のあと | ペリーから米国旗を贈られ、深く心を動かされた様子だった |
参考:Narrative of the Expedition of an American Squadron to the China Seas and Japan, Vol.1|Internet Archive
参考:全権(嘉永7年、横浜村のできごと)|横浜市中央図書館
原文は「a grave and rather saturnine expression of face」(重々しく、やや陰気な表情)と書き、すぐに「a benevolent look」(温厚な顔つき)と続けます。
相手を値踏みしながら、嫌いにはなれなかった書き方に見えます。
55歳くらいという見立ては、2歳ほど上に見られたことになります。会談のとき、林は満53歳でした。
横浜市中央図書館の「全権」のページも、同書の邦訳から同じ描写を引いています。4人の全権のうち、宴席で酔わなかった人として林の名が残るのは、少し可笑しい記録です。
同書によると、林はペリーに自分が著した馬の鑑定書も贈っています。2巻で、木版の挿絵が多い本でした。

ペリー側の記録では、宴会で酔わなかったのはあなた一人だったそうです。飲まなかったのですか。

異国の船の酒に先例はない。先例のないものは、少しずつ確かめるほかあるまい。
飲まなかったのではない。どれも少しずつ口にしたと相手が書いておるのであろう。ならば、それが答えである。

水兵の芝居で笑った、とも書かれています。

それは相手の帳面の話である。笑わぬ男と書いた同じ帳面に、笑ったとも書いたわけか。
一冊の中で言うことが揺れる記録は、たいてい正直に書かれておる。貴殿も記録を読むなら、そこを見られよ。
林復斎の三大功績
林復斎の仕事は記録と外交の2つにまたがりますが、後の歴史につながるのは次の3つです。
- 外交記録『通航一覧』の編纂を中心となって進めた
- 横浜村でペリーと会談し、日米和親条約に筆頭で署名した
- 下田の条約附録に署名し、安政4年には通商条約の方針を朝廷へ伝えに上京した
どれも、記録を読む人が、記録を作る側に回った仕事です。順に見ていきましょう。
① 外交記録『通航一覧』の編纂を進めた(1850年ごろ〜1853年)
『通航一覧』は、幕府が外国と関わった記録を国別・年代順に集めた史料集で、林復斎が中心となって編纂しました。父の述斎が立案し、宮崎成身ら11人の編纂員が加わっています。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 範囲 | 1566年(永禄9年)の安南船の漂着から、1825年(文政8年)の異国船打払令まで |
| 構成 | 国別の部と長崎異国通商部に大別し、付録に海防の史料 |
| 巻数 | 本編350巻、付録23巻(日本大百科全書は全巻数を不明確とし、現存の正編322巻、附録22巻とする) |
| 時期 | 1850年(嘉永3年)ごろ着手。正編は1853年(嘉永6年)に完成したと推定される |
| 続輯 | 1854年までを扱う152巻。付録26巻 |
| 刊本 | 国書刊行会本 全8冊(1912〜1913年)。国立国会図書館デジタルコレクションで公開 |
参考:通航一覧|コトバンク
参考:通航一覧 第1(国書刊行会本)|国立国会図書館デジタルコレクション
外国との260年分の先例を集めた人が、応接の席に座ったことになります。改訂新版 世界大百科事典は、この書を「諸外国応接のための資料」と説明しています。
巻数は資料によって説明が違います。本編350巻とする事典がある一方、日本大百科全書は、全巻数は不明確としたうえで、現存する正編を322巻、附録を22巻としています。
正編と続輯を合わせて523巻とする事典もあります。完成の年も、1850年とする事典から、1853年末か翌年初めとする事典まで幅があります。
国書刊行会本は、国立国会図書館デジタルコレクションでいまも読めます。編者名は「林韑」です。

350巻は、自分で全部読んだのですか。

編纂の者の手を借りたと申したであろう。余一人の仕事と書かれては、記録違いになる。
ただ、出来上がったものを開かずに応接の席へ出る者がおったら、貴殿は何と呼ぶ。
② 横浜村でペリーと会談し、日米和親条約に筆頭で署名した(1854年)
嘉永7年3月3日(1854年3月31日)、林は横浜村で日米和親条約に署名しました。署名した日本側の全権は4人で、林大学頭の名が筆頭にあります。
- 林大学頭(林復斎)
- 井戸対馬守(井戸覚弘。町奉行)
- 伊沢美作守(伊沢政義。浦賀奉行)
- 鵜殿民部少輔(鵜殿長鋭。目付)
参考:日米和親条約写|国立国会図書館「史料にみる日本の近代」
条約は全12か条です。下田と箱館の開港、薪水・食料・石炭の供給、漂流民の救助、片務的な最恵国待遇、調印後18か月以降の米国官吏の下田駐在を定めました。
日米和親条約は、自由貿易を認める条約ではありません。ただし、第7条は寄港した米国船が金銀銭や品物で必要品を調えることを認め、第8条はその取り扱いを現地の役人が担うと定めています。
山川 日本史小辞典は、物品の取引にはなお日本の役人の仲介が必要で、公の通商は1858年の日米修好通商条約を待つことになったと説明しています。
参考:日米和親条約写|国立国会図書館「史料にみる日本の近代」
参考:日米和親条約|コトバンク
条約文の起草には、林家の塾頭だった河田迪斎が当たりました。日本人名大辞典は、ペリー再来航の際に「林復斎にしたがって条約文を起草した」と記します。
参考:河田迪斎|コトバンク

署名のいちばん上に名前があります。筆頭で名を書くのは、どんな気分でしたか。

気分を書き残す欄は、条約にはない。先例がないゆえ、答えられぬ。
いま問われれば、筆頭とは、後で最初に名を引かれる場所だと答えたい。字は丁寧に書くに越したことはなかろう。
③ 下田の条約附録に署名し、通商条約の方針を朝廷に伝えた(1854〜1858年)
横浜での調印で、林の外交は終わりませんでした。嘉永7年5月(旧暦)には下田で条約の附録に署名し、安政4年末(西暦1858年初め)には、通商条約を結ぶ幕府の方針を朝廷へ伝えるために上京しています。
| 時期 | できごと |
|---|---|
| 嘉永7年5月22日(1854年) | 下田で条約の附録13か条に署名。署名者は横浜の4人に都筑駿河守、竹内清太郎、松崎満太郎を加えた7人 |
| 1855年2月21日 | 下田で批准書を交換し、条約が発効 |
| 安政4年末(西暦1858年初め) | ハリスの要求を受けて幕府が通商条約の締結方針を決めたことを奏聞するため、目付の津田正路とともに上京 |
参考:日米和親条約写|国立国会図書館「史料にみる日本の近代」
参考:第1章 開国 解説|国立国会図書館「史料にみる日本の近代」
参考:林復斎|コトバンク
参考:林韑(林復斎)|幕末幕臣動向
附録の第7条は、オランダ語の訳官が居合わせない場合のほかは、公式の文書に漢文の訳書を用いない、と定めています。漢文は補助の扱いでした。
調印のとき日本側が渡した条約文は、日本語・中国語・オランダ語の3通です。
通商条約の方針を朝廷に伝える役を、和親条約に署名した本人が担った点は見落とされがちです。和親から通商へ、幕府の外交の2つの段階に、同じ人が関わっていました。

和親条約に署名してから4年近くあとに、こんどは通商条約を結ぶと伝えに京へ行ったのですね。

和親に署名した者が、通商の話を都へ運ぶ。余の編んだ帳面に、その先例は載っておらぬ。文政8年で終わる帳面であるからな。
相手の要求も幕府の方針も変わった。変わらぬのは、文書を持って歩く役が回ってくることのようである。
そうして結ばれた通商条約の批准書を交換しに、ワシントンへ渡った正使が新見正興です。
ペリーとの会談は何回?横浜村での4回を日付で追う
林復斎は、嘉永7年2月10日から2月30日までのあいだに、横浜村の応接所でペリーと4回会談しています。横浜市中央図書館が『横浜市史』第二巻をもとに作った年表で、日付を追えます。
| 和暦(嘉永7年) | 西暦(1854年) | できごと |
|---|---|---|
| 1月16日 | 2月13日 | ペリー艦隊が小柴沖に到着。幕府が応接掛を任命(林大学頭、大目付井戸弘道、町奉行井戸覚弘、目付鵜殿長鋭、儒者松崎満太郎) |
| 1月27日 | 2月24日 | 林大学頭と井戸覚弘が、幕府に通商条約の締結を上申 |
| 2月6日 | 3月4日 | 幕府が応接掛に、米国への譲歩案を秘密に訓令 |
| 2月10日 | 3月8日 | 第1回会談。国書への回答を渡す。通商問題で意見が対立。通訳は森山栄之助 |
| 2月19日 | 3月17日 | 第2回会談。ペリーが神奈川・下田・松前の開港を要求 |
| 2月26日 | 3月24日 | 第3回会談。林が答礼の品を贈る |
| 2月30日 | 3月28日 | 第4回会談 |
| 3月3日 | 3月31日 | 日米和親条約に調印。横浜での談判が終わる |
参考:「開国」関連年表(嘉永7年、横浜村のできごと)|横浜市中央図書館
旧暦の日付をそのまま西暦の年につなげると1か月ほどずれるので、表では両方を並べました。2月30日は旧暦にはある日付です。
応接掛の任命から調印まで、わずか1か月半でした。浦賀での交渉を日本側が提案してペリーが断り、応接所の場所が横浜村に決まったのが1月28日。応接所が完成したのは2月7日で、その3日後に第1回会談が開かれています。
通訳を務めたのは森山栄之助で、交渉の場ではオランダ語が用いられたようだ、と国立公文書館は書いています。アメリカから帰国した中浜万次郎も、当時は幕府のために英文の翻訳などを行っていました。
応接掛を任命したのは、老中の阿部正弘が率いる幕府です。阿部の側から見た開国は、こちらの記事で扱っています。
応接掛を任命した正弘の生涯全体を物語で追うなら、祖父江一郎の長編歴史小説があります。
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この作品のポイント
- ペリー来航の難局に向き合った正弘を描く長編歴史小説です
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応接所ができて3日後に第1回会談です。準備の時間はありましたか。

建物は3日で間に合う。350巻は間に合わぬ。
応接の支度とは、普請が終わってから始めるものではないと心得る。

相手は軍艦を連れて来ています。

船の数にも先例はある。異国船が来れば数を記す。数えて、記して、それから答える順は変わらぬ。
大砲の前で声を大きくしても、文書の字は大きくならぬ。余は声を張らぬ。
「通商は断固拒否」は本当か?条約の条文と上申の記録
和親条約は自由貿易を認めませんでした。ただ、「断固拒否」という人物描写までは、条約の結果だけでは確かめられません。資料で確かめられることを、4つに分けます。
- 条約は自由貿易を認めていない。寄港した米国船の必要品の購入は第7条で認め、取り扱いは役人が担った(第8条)。公の通商は1858年の修好通商条約まで待つことになった(山川 日本史小辞典)
- 横浜市の年表は、第1回会談の前の1月27日に、林と井戸覚弘が幕府に通商条約の締結を上申したと記す
- 同じ年表は、2月6日に幕府が応接掛へ譲歩案を秘密に訓令したと記す。何をどこまで譲るかは、幕府の側が決めていた
- 同じ年表は、2月10日の第1回会談で通商問題をめぐって意見が対立したと記す
参考:「開国」関連年表(嘉永7年、横浜村のできごと)|横浜市中央図書館
参考:日米和親条約写|国立国会図書館「史料にみる日本の近代」
参考:日米和親条約|コトバンク
通商条約を結ぶべきだと上申した人が、自由貿易を認めない条約に署名した。幕府への提案と、交渉の席での対応は分けて見る必要があります。応接掛は、幕府の訓令の範囲で交渉する役でした。
ペリーとの問答は、日本側の記録『墨夷応接録』に残っています。国立公文書館の内閣文庫に写本6冊があり、2018年には作品社から現代語訳が出ました。
参考:墨夷応接録|国立公文書館デジタルアーカイブ
参考:現代語訳 墨夷応接録(書誌)|国立国会図書館サーチ
解説書やブログでは、人命を重んじると言うなら交易は人命と関係ないではないか、と林がペリーに返した場面がよく紹介されます。本記事は『墨夷応接録』の原文を確認していないため、この問答の字句には立ち入りません。

調印の前に、通商条約を結ぶべきだと幕府に上申していますね。ペリーに言ったことと違いませんか。

貴殿は帳面をよく読む。上申は余らの意見、応接は幕府の訓令の内。意見と役目は、別の欄に書くものである。
どちらが本心かと聞きたいのであろう。本心の欄は、帳面にない。いま問われても、年号しか添えられぬ。

では、ドラマの『断固拒否』は、どう受け取ればいいでしょう。

自由な交易を許す条がないのは確かである。そう書かれて怒る筋はない。
ただ、勇ましい男と思い込まれるのは困る。宴の酒をひと口ずつ確かめる男であるぞ。
黒船来航から幕府の終わりまでの流れは、学習まんがの通史でも追えます。
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林家の系譜。復斎は林家の何代目か
林復斎は、林羅山から数えて11代目の林家当主です。新宿区の林氏墓地の解説は、「8世の述斎から11世の復斎まで」と数えています。もともと分家の身で、甥の壮軒が1853年に数え26歳で亡くなったため、本家を継ぎました。
| 代 | 人物 | 大学頭に |
|---|---|---|
| 8世 | 林述斎(復斎の父。美濃岩村藩主松平乗蘊の子で、1793年に林家を継ぐ) | 1793年 |
| 9世 | 林檉宇(復斎の兄。述斎の3男) | 1838年(天保9年) |
| 10世 | 林壮軒(檉宇の子。復斎の甥) | 1846年(弘化3年) |
| 11世 | 林復斎 | 1853年(嘉永6年) |
参考:林氏墓地|新宿区
参考:林述斎|コトバンク
参考:林檉宇|コトバンク
参考:林壮軒|コトバンク
日本人名大辞典は四男、改訂新版 世界大百科事典は第六子と記しています。ただし、数える対象が異なるため、この表記だけで矛盾するとはいえません。大河の役紹介は四男と書いています。
兄弟には、天保の改革で知られる鳥居耀蔵がいます。耀蔵も述斎の子で、旗本鳥居家の養子に入りました。何番目の子かは、こちらも事典で二男・三男と割れています。
参考:鳥居耀蔵|コトバンク
のちに日米修好通商条約の交渉に当たる岩瀬忠震は、母が林家の娘でした。和親と通商の2つの条約に、林家ゆかりの2人が関わった形です。
岩瀬がハリスとの交渉で何を担ったのかは、こちらで追えます。

お兄さんの鳥居耀蔵は、蘭学者を取り締まった人として知られています。家の中で話は合いましたか。

家の中の話は記録に残さぬ。記録にないものは答えられぬ。
同じ父の子でも、入った家が違えば役も違う。それ以上は、貴殿の想像に任せよう。
林復斎の死因と最期
林復斎は、安政6年9月17日(1859年10月12日)に亡くなりました。事典が書くのは年月日と年齢だけで、病名や最期の場面の記録は、今回見た資料にはありません。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 没年月日 | 安政6年9月17日(1859年10月12日) |
| 年齢 | 満58歳(数え60歳) |
| 死因 | 事典に記載なし |
| 没時の役 | 大学頭 |
| 墓所 | 林氏墓地(東京都新宿区市谷山伏町16。国の史跡) |
亡くなった安政6年は、日米修好通商条約の調印の翌年で、安政の大獄が続いていた年です。和親条約の署名から5年半で、林は通商の時代の入口で世を去りました。
墓所の林氏墓地は、1698年(元禄11年)に3世の林鳳岡が拝領した屋敷地の一部に造られた墓地です。墓碑などが81基あり、儒式の葬法をとどめるのは8世の述斎から11世の復斎までの4基だと、新宿区は説明しています。

お墓は、お父さんと同じ場所に、儒教の作法で造られています。

親の墓のそばに子が並ぶのは、礼にかなった話である。儒の作法にも先例があるゆえ、それで足りる。
余の葬儀の次第を余に尋ねても、答えは出ぬ。記録を作る側ではなくなった後の話であるからな。
林復斎の生涯を年表で振り返る
事典の記述を土台に、横浜市の年表で1854年を補いました。旧暦の日付を含むため、年の欄は和暦と西暦の年どうしの対応を基本にしています。
前半生の役職は年が事典に書かれていないため、順番だけを示しました。
| 年 | 出来事 | 解説 |
|---|---|---|
| 寛政12年(1801年2月) | 江戸に生まれる | 12月27日。父は林述斎 |
| 年不詳 | 書物奉行、二丸留守居、先手鉄砲頭、西丸留守居を歴任 | 書物奉行は将軍の文庫(紅葉山文庫)を管理する役 |
| 天保9年(1838年) | 兄の檉宇が大学頭に | 林家9世 |
| 弘化3年(1846年) | 甥の壮軒が林家10代を継ぐ | 檉宇は同年12月に没 |
| 嘉永3年(1850年)ごろ | 『通航一覧』の編纂に着手 | 父述斎の立案 |
| 嘉永6年(1853年) | 甥の壮軒が数え26歳で没し、本家を継ぐ。役を辞して大学頭を名のり、復斎と号す | 『通航一覧』正編の完成もこの年と推定 |
| 嘉永6年(1853年) | 6月、ペリーが浦賀に来航 | 国書は浦賀奉行が受け取る |
| 嘉永7年(1854年) | 1月16日、応接掛に任命。1月27日、通商条約の締結を上申 | 横浜市の年表 |
| 嘉永7年(1854年) | 2月10日から4回、横浜村でペリーと会談 | 通訳は森山栄之助 |
| 嘉永7年(1854年) | 3月3日、日米和親条約に筆頭で署名 | 4人の全権 |
| 嘉永7年(1854年) | 5月22日、下田で条約の附録に署名 | 7人の署名 |
| 安政2年(1855年) | 2月、批准書の交換で条約が発効 | 下田 |
| 安政4年末(1858年初め) | 通商条約の方針を奏聞するため津田正路と上京 | ハリスの要求を受けた方針 |
| 安政6年(1859年) | 9月17日、没 | 満58歳(数え60歳) |
応接掛から和親条約の発効まで、1年あまりのあいだに外交の実務が集中しています。それ以前には、書物奉行のほか、先手鉄砲頭や留守居なども歴任していました。
記録を読む側から作る側へ、そして外国使節と向き合う側へ。年表を追うと、仕事の性質が50代で一気に変わった人だと分かります。
2027年大河『逆賊の幕臣』で林復斎を演じるのは佐野史郎さん
2026年11月6日、大河ドラマ『逆賊の幕臣』の林復斎役に、佐野史郎さんが発表されました。番組は「幕府を支える人びと」として6人を同時に発表し、林はその一人です。
役紹介の言葉を、資料と並べてみます。
| 役紹介の言葉 | 資料で確かめられること |
|---|---|
| 林述斎の四男として誕生 | 日本人名大辞典は四男。改訂新版 世界大百科事典の第六子は、数える対象が異なる |
| 『通航一覧』全350巻の編纂に携わり | 本編350巻とする事典がある。日本大百科全書は全巻数を不明確とし、現存の正編を322巻とする |
| ペリーが来航すると応接掛に | 横浜市の年表では、再来航時の嘉永7年1月16日に任命 |
| 漢文を介して交渉 | 通訳は森山栄之助で、交渉の場はオランダ語が用いられたようだと国立公文書館は書く。日本側が渡した条約文に中国語の1通があり、附録は漢文の訳書を補助の扱いにした |
| 通商は断固拒否 | 条約は自由貿易を認めていない(必要品の購入は第7条)。横浜市の年表は、第1回会談の対立と、その前の林らの上申を記す |
参考:NHK大河ドラマ「逆賊の幕臣」で山時聡真が福沢諭吉、武井壮が中浜万次郎に!古田新太も参加|映画ナタリー
「通商は断固拒否」をドラマがどう描くかが、見どころになりそうです。上申の記録まで拾うのか、学者が異国を退ける場面にするのか。制作統括の勝田夏子さんは、幕府を代表する知識人が「やられっぱなし」では終わらなかった交渉ドキュメント、と説明しています。
佐野史郎さんは『西郷どん』で井伊直弼を演じています。『おんな城主 直虎』の太原雪斎、『翔ぶが如く』の海江田信義など、大河ドラマへの出演を重ねてきました。
参考:NHK大河ドラマ「逆賊の幕臣」で山時聡真が福沢諭吉、武井壮が中浜万次郎に!古田新太も参加|映画ナタリー
第9次までの配役全体は、相関図の記事で整理しています。

テレビという箱で、あなたのペリーとの交渉が全国に流れます。井伊直弼を演じた役者さんが、こんどはあなたを演じます。

井伊殿を務めた者が余を務めるのか。大老と大学頭を同じ者が務めてよいかどうか、先例がない。
ところで、その箱は記録として残るのか。

箱のことは分かりません。ただ、放送の前に、年表の日付はこの記事に書き残しておきます。

ならば、それが先例になる。
年号を添えたものは、後で誰かの役に立つ。添えぬものは、たいてい誰かを困らせる。
林復斎のすごさと影響力
林復斎のすごさは、ペリー側の公式記録に、交渉の中心として書き残されたことにあります。
ペリー側の記録が「すべて林に諮られた」と書いた点は、もっと知られてよいでしょう。編纂事業を担った儒学者が、相手側から交渉の中心と見られていたことになります。
一方で、条約の中身は幕府の訓令で枠が決まり、通訳はオランダ語だったようです。林の「すごさ」は、一人で異国を論破した話ではなく、先例を知る人が交渉の席に置かれた、という幕府の人選のほうにあると私は読んでいます。

ペリーの記録には、重要なことはすべてあなたに諮られた、とあります。

相手の帳面がそう書くなら、相手の見立てである。こちらには全権が4人おり、後ろには幕府の訓令があった。
余のところへ話が来たのは、余が偉いからではあるまい。先例を知る者に聞くのが早かったのであろう。
林復斎の歩みから考える現代へのヒント
ここからは筆者の解釈です。資料に残る行動を、いまの仕事に置き換えてみました。
| 復斎の歩み | 現代へのヒント(筆者の解釈) |
|---|---|
| 260年分の外交記録を先に集めてから、交渉の席に着いた | 交渉の前に、過去の事例を自分で読む |
| 通商条約の締結を上申したうえで、訓令の範囲で署名した | 自分の意見と、組織の決定を分けて記録に残す |
| 宴席で料理と酒を少しずつ全部味わった | 相手の出すものを断らず、量は自分で決める |
| 附録で、公式の文書に使う言葉まで条項にした | 相手と共有する書き言葉を、先に決めておく |
| 和親条約の4年近くあとに、通商条約の方針を伝えに上京した | 一度決めた線を、状況が変われば引き直す |
事業でも組織でも、交渉の場に立つ人は目立ちます。その人が席に着く前に何を読んでいたかは、記録にしか残りません。

いまの読者に、一つだけ言うなら何ですか。

一つだけとは、先例のない注文である。ならば申す。答える前に、前はどうしたかを調べられよ。
調べて先例がなければ、それを記録しておくことである。後の者が、貴殿を先例にできる。
よくある質問(FAQ)
林復斎の読み方は?
「はやし ふくさい」と読みます。復斎は号で、名は韑(あきら)、通称は式部です。条約の署名では「林大学頭」と書かれています。
林復斎と林羅山の関係は?
同じ林家で、羅山から数えて11代目の当主です。父の述斎は美濃岩村藩主松平乗蘊の子で、1793年に血統の絶えた林家を継いだ人でした。復斎は述斎の子として林家に生まれています。
林復斎はペリーと何語で交渉したのですか?
通訳は森山栄之助で、交渉の場ではオランダ語が用いられたようだと国立公文書館は書いています。条約の附録は、オランダ語の訳官が居合わせない場合のほかは、公式の文書に漢文の訳書を用いないと定めています。
林復斎は通商を拒否したのですか?
日米和親条約は自由貿易を認めず、第1回会談では通商問題でペリーと対立しました。一方、横浜市の年表は、その前に林らが通商条約の締結を幕府に上申したと記します。提案と交渉の席での対応は、分けて見る必要があります。
『通航一覧』はいまも読めますか?
読めます。国書刊行会本(全8冊、1912〜1913年刊)が国立国会図書館デジタルコレクションでインターネット公開されています。編者名は「林韑」です。
林復斎の墓はどこですか?
東京都新宿区市谷山伏町16の林氏墓地です。国の史跡で、儒式の葬法をとどめる4基のうちの1基が復斎の墓だと新宿区は説明しています。
林復斎はどんな人でしたか?
ペリー側の記録が、重々しくむっつりした表情で、温厚な顔つきと丁重な物腰の人、と書いた人物です。艦上の宴席で酔わなかったのは林だけでした。今回参照した日本側の事典では、役職や著作が中心に紹介され、性格には触れていません。
インタビュー後記 先例を読んだ人が席に着く
幕末の外交を調べていると、黒船の側の話ばかり読むことになります。蒸気船、大砲、祝砲。林の履歴はその逆で、文庫の目録と350巻の史料集が並びます。
『日本遠征記』の林の場面を並べると、むっつりした顔、少しずつ味わう酒、水兵の芝居で崩れた表情が続きます。今回確認した資料では、相手側の記録のほうが、人柄を具体的に伝えていました。
歴史マニアとしての意見を一つ書くなら、「論破した学者」の物語より、「上申した応接掛」の記録のほうが、この人の値打ちを上げると思います。意見を出し、組織の決定に従い、署名した。その順番が記録に残っているからです。
冒頭で、横浜市の年表の1行が気になったと書きました。読み終えたいまは、あの1行が、この記事でいちばん伝えたいことになっています。2027年1月、佐野史郎さんの林復斎が通商をどう扱うのか、年表の日付を手元に置いて見るつもりです。
参考資料
- コトバンク「林復斎」※改訂新版 世界大百科事典(諱・役職・本家相続・安政4年末の上京・『通航一覧』)、デジタル版 日本人名大辞典+Plus(生没年月日・4男・字・通称・別号・甥の壮軒・享年60)、367日誕生日大事典の記述
- Web NDL Authorities「林, 復斎, 1800-1859」※別名(弼中・復斎・林韑)、生年の1800年表記
- コトバンク「通航一覧」※日本大百科全書(立案・編纂員・322巻・着手と完成の推定)、ブリタニカ国際大百科事典(350巻・続輯)、改訂新版 世界大百科事典(「諸外国応接のための資料」)、山川 日本史小辞典(523巻)の記述
- 国立国会図書館デジタルコレクション 林韑編『通航一覧』第1(国書刊行会本、1912年)※インターネット公開
- 国立国会図書館「史料にみる日本の近代」日米和親条約写(翻刻)※12か条の内容、第7条・第8条の必要品の調達、4人の署名、附録13か条と7人の署名、漢文訳の条項
- 国立国会図書館「史料にみる日本の近代」第1章 開国 解説 ※横浜村での会談、批准書交換の1855年2月21日
- コトバンク「日米和親条約」※日本大百科全書(調印日・場所・4人の全権・自由貿易は未規定)、山川 日本史小辞典(公の通商は規定せず)の記述
- 横浜市中央図書館「嘉永7年(1854)、『開国』関連年表」※応接掛の任命、1月27日の上申、2月6日の訓令、4回の会談の日付(典拠は『横浜市史』第二巻)
- 横浜市中央図書館「全権(嘉永7年、横浜村のできごと)」※『ペリー艦隊日本遠征記』邦訳による4人の描写
- Internet Archive, Narrative of the Expedition of an American Squadron to the China Seas and Japan, Vol.1(Washington, 1856)※林の人物描写、宴席、余興、米国旗の贈呈、馬の鑑定書
- 国立公文書館 デジタル展示「激動幕末」Ⅴ.語学熱と海外情報の収集 ※通訳の森山栄之助、交渉の場のオランダ語、中浜万次郎の翻訳
- 国立公文書館デジタルアーカイブ「墨夷応接録」※内閣文庫、写本6冊、嘉永7年1月〜6月
- 国立国会図書館サーチ 林復斎[著]ほか、森田健司編訳・校註・解説『現代語訳 墨夷応接録 江戸幕府とペリー艦隊の開国交渉』(作品社、2018年)書誌 ※本記事は同書の本文を確認していない
- コトバンク「河田迪斎」※日本人名大辞典(条約文の起草)の記述
- コトバンク「大学頭」※百科事典マイペディア(1691年の林信篤以来の世襲)の記述
- コトバンク「昌平坂学問所」※山川 日本史小辞典(1797年に幕府の正規の学問所)の記述
- コトバンク「林述斎」※出自と1793年の林家相続
- コトバンク「林檉宇」※日本人名大辞典(述斎の3男、天保9年大学頭、弘化3年12月没)の記述
- コトバンク「林壮軒」※日本人名大辞典(檉宇の子、弘化3年に林家10代、嘉永6年に26歳で没)の記述
- コトバンク「鳥居耀蔵」※述斎の子(二男・三男で割れる)、鳥居家の養子
- 新宿区「林氏墓地」※所在地、元禄11年の拝領地、81基、儒式の4基(8世述斎から11世復斎)
- 横浜市中央図書館「条約(嘉永7年、横浜村のできごと)」※日本側が渡した3通の条約文
- 愛知県総合教育センター「岩瀬忠震」※母が林家の娘であること
- 幕末幕臣動向「林韑(林復斎)」※安政4年12月8日(1858年1月22日)の京都派遣の日付と西暦換算
- 映画ナタリー「NHK大河ドラマ『逆賊の幕臣』で山時聡真が福沢諭吉、武井壮が中浜万次郎に!古田新太も参加」※配役、役紹介、制作統括のコメント、大河ドラマの出演歴










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