1860年の遣米使節を調べていると、名前の並び順が気になってきます。正使は新見正興、副使は村垣範正、目付は小栗忠順。役の順に書けば、こうなります。
ところが語られる量は逆です。小栗は2027年の大河ドラマの主人公になり、村垣には配役が付きました。先頭の新見だけ、私には顔が浮かびませんでした。
この記事の結論
新見正興は、1860年に日米修好通商条約の批准書を交換した遣米使節の正使を務めた幕臣です。外国奉行と神奈川奉行を兼ね、77名の使節団の首席として太平洋を渡りました。
ワシントンでは大統領ブキャナンに将軍の親書を渡し、国務省で批准書を交換しています。帰国後は将軍のそばに仕える御側衆に進みました。
ただし、見聞を外交に生かす場は長く続きません。1864年に役を免じられ、慶応2年12月(1867年初め)に隠居し、明治2年(1869年)に亡くなっています。
- 77名
使節団の人数 - 2,300石
加増後の知行 - 満47歳
没年齢(数え48歳)
この記事では、使節団の行程、ワシントンでの批准書交換、帰国後の役と最期、そして小栗や村垣と比べて見える記録の違いを、博物館の展示解説と事典で確かめていきます。
話し相手は、新見正興AI(新見正興をモデルにしたAI)です。何を聞いても、まず「上様にどう申し上げるか」から考える人にしました。
※以下のインタビュー部分は、公開されている史料をもとに新見正興の人物像を再現した創作です。史料で確認できない心情や受け止め方を補った創作的な対話であり、実際の発言をそのまま掲載したものではありません。

はじめまして。正使なのに副使や目付より知られていない人、という失礼な入り方で申し訳ありません。ワシントンまで行かれた方ですよね。

失礼も何も、席次の話から入られるのは手前の得手にございます。さて、これを上様にどう申し上げたものか。
はい、ワシントンまで参りました。ただ、三人で一つの使節にございますゆえ、手前の名が先頭なのは席の順というだけのこと。
まずは新見正興の基本プロフィールと何をした人なのかを2分で知ろう
新見正興は、徳川家康以来の旗本新見家に養子として入り、外国奉行から遣米使節の正使に選ばれた人物です。
遣米使節の正使・新見正興を、3問で予想してみませんか
答えの根拠は、この記事の章に書いてあります。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 名前 | 新見正興(しんみ まさおき)。通称は房次郎、号は閑水 |
| 官途名 | 豊前守、のち伊勢守 |
| 生没年 | 文政5年5月(1822年)〜明治2年10月18日(1869年11月21日) |
| 没年齢 | 満47歳(数え48歳) |
| 出自 | 三浦義韶の次男。文政12年(1829年)、伯父の新見正路の養子となる |
| 知行 | 2,000石。遣米使節の功で加増され2,300石 |
| 幕府での主な役 | 小姓、小姓組番頭、外国奉行(神奈川奉行を兼帯)、御側衆 |
| 著作 | 歌集『亜行詠』 |
参考:新見正興|コトバンク
参考:特別展示「19世紀の日本と亜米利加」解説|横須賀市自然・人文博物館
遣米使節の正使は、江戸幕府が初めて海外へ送った使節の首席です。日米修好通商条約は1858年に調印され、1859年7月4日に発効しました。条約で定められた批准書(条約を正式に認めた文書)の交換をおこなうため、翌1860年に使節が渡米しました。
参考:日本國米利堅合衆國修好通商條約(日米修好通商条約)|データベース「世界と日本」
養父の新見正路は、大坂西町奉行として安治川の河口を浚渫し、天保山を残した人です。正路の長男と次男が早く亡くなり、三男の正典はまだ幼かったため、1829年に養子となっていた弟の子の房次郎が、1848年に家督を継ぎました。
参考:新見正路|コトバンク
同じ使節の目付が小栗忠順、副使が村垣範正です。交換証書も事典も、正使・副使・目付の順に名を並べます。
名字の読みは「しんみ」です。横須賀市自然・人文博物館の解説によると、新見家は家康の仰せで「しんみ」と名乗るようになったと伝えています。

お名前の読み方は『しんみ』でよいですか。つい『にいみ』と読みそうになります。

『しんみ』にございます。権現様の仰せでそう名乗るようになったと、家には伝わっております。
『にいみ』と読まれても咎めはいたしませぬ。ただ、上様の御前で読み違えられますな。取り次ぐ手前が困ります。
新見正興はどんな人だった?資料に残る見られ方
新見正興は、派手さはないものの、将軍の手足として奉公を重ねた人、と博物館の解説は評しています。横須賀市自然・人文博物館が2010年に開いた特別展示の解説です。
資料に残る見られ方を並べてみます。
| 書き手 | 伝わる評 | 資料 |
|---|---|---|
| 横須賀市自然・人文博物館 | 「派手ではないものの、常に将軍の手足となって奉公を重ね」 | 特別展示「19世紀の日本と亜米利加」解説(2010年) |
| 同 | 13代将軍家定の御前給仕を務めたことから、若いころから信頼された存在と見える | 同 |
| 同 | 小栗と同じく、名誉の回復が必要だった人物 | 同 |
| 日本大百科全書 | 帰国後は攘夷の空気のなかで、見聞を生かせなかった | コトバンク「新見正興」 |
参考:特別展示「19世紀の日本と亜米利加」解説|横須賀市自然・人文博物館
参考:新見正興|コトバンク
表の評は、いずれも後の時代の整理です。
経歴を追うと、将軍のそばにいた時間の長さが目につきます。1839年に小姓となり、4年後に中奥小姓、1853年からは将軍家定の食事の給仕を務めました。
その家定の時代については、こちらの記事で扱っています。
外国奉行になったのは1859年8月6日(安政6年7月8日)です。半月後に外国船応接役、1か月後に神奈川奉行の兼帯、さらに半月後にはアメリカへの派遣が発令されました。開港した横浜を預かりながら、使節団の準備に追われた半年です。

13代将軍家定公の食事の給仕をされていたそうですね。どんな仕事ですか。

上様の御前で、お膳に関わるお役目にございます。手前の奉公は、順を誤らぬことから始まったようなもの。
上様のお膳の話を外へ申し上げぬのも作法と心得ます。そこは聞かぬ顔をしていただきとう存じます。
新見正興の主な仕事と遣米使節での功績
新見正興の仕事は、将軍のそばの役が多く、表に出るものは限られます。そのなかで記録に残るのは次の3つです。
- 遣米使節の正使として77名を率いた
- ワシントンで大統領に謁見し、批准書を交換した
- 帰国後、御側衆として将軍家茂に仕えた
順に見ていきましょう。
① 遣米使節の正使として太平洋を渡った(1860年)
1860年2月13日(安政7年1月22日)、新見は正使として、アメリカ軍艦ポーハタン号で横浜を出港しました。使節団は正使・副使・目付の三使と従者を含めて77名です。
| 日付(1860年) | できごと |
|---|---|
| 2月13日 | ポーハタン号で横浜を出港(当時の暦で1月22日) |
| 3月5日 | 荒天のためホノルルに寄港。後日ハワイ国王に謁見 |
| 3月29日 | サンフランシスコ到着 |
| 4月24日 | パナマ到着。翌日パナマ鉄道で大西洋側へ |
| 5月14日 | ワシントン到着 |
| 6月30日 | ナイアガラ号でニューヨークを出港 |
| 11月9日 | 品川沖に帰着(当時の暦で9月27日) |
参考:万延元年遣米使節|コトバンク
参考:特別展示「19世紀の日本と亜米利加」解説|横須賀市自然・人文博物館
出港は当時の暦(旧暦)で安政7年1月22日にあたります。改元で万延元年になるのは当時の暦で3月18日(1860年4月8日)で、使節の行程の大半は万延元年に入ります。
使節団の人数は、日本大百科全書の「万延元年遣米使節」の項が内訳つきで77名とし、同じ事典の「新見正興」の項は80余名と書きます。
参考:新見正興|コトバンク
使節は正使一人が率いる仕組みではありませんでした。博物館の解説は、正使と副使を同じ職務に複数人を置く「相奉行」と説明します。目付の小栗は同列の監査役で、上席の勘定奉行に拒否権を持つ勘定吟味役にたとえています。
出発前の準備も、楽ではなかったようです。幕府は用意金61,130両を持たせましたが、渡米の直前には、新見の用人が所領の村名主へ手紙を書いています。土産に持っていく小判が江戸にないので、両替して送ってほしい、という内容です。
参考:特別展示「19世紀の日本と亜米利加」解説|横須賀市自然・人文博物館
勝海舟が乗った咸臨丸は、この使節の警護を名目に、サンフランシスコまで随行しました。使節団の本隊が乗ったのはポーハタン号です。

出発の直前に、お土産用の小判が江戸で手に入らず、領地の名主さんに両替を頼んだそうですね。

よくそのような手紙が残りましたな。異国へ参るのに土産の小判が江戸で揃わぬ。これを上様にどう申し上げたものか。
いえ、申し上げませぬとも。土産の段取りは家の者の務め。手紙を書いた用人の苦労は、貴殿から労っていただきたい。
小栗の側からこの使節団を追うなら、中公新書の評伝があります。派遣の経緯から批准書交換の後まで、1章をあてて書いています。
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小栗の生涯に沿って話が進み、遣米使節では派遣の経緯から通貨問題の交渉、使節団の帰国までをたどれます。
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② ワシントンで大統領に謁見し、批准書を交換した(1860年)
1860年5月17日、新見ら使節はホワイトハウスで大統領ブキャナンに謁見し、将軍の親書を渡しました。批准書の交換は5月22日(万延元年4月3日)、国務省で国務長官カスとの間で行われています。
- 謁見の服装:新見・村垣・小栗の三使は狩衣を着て、刀を帯びた
- 謁見を許されたのは、首席から御徒目付と通詞までの5名だけ
- 和文の交換証書には、新見・村垣・小栗の3人が署名した
- 6月5日、大統領は三使に金メダルを贈り、使節は国務省で将軍への返書を受け取った
参考:特別展示「19世紀の日本と亜米利加」解説|横須賀市自然・人文博物館
参考:日米修好通商条約|文化遺産オンライン
署名の入った交換証書は、いまも残っています。外務省外交史料館が所蔵する日米修好通商条約の一群は1997年に重要文化財となり、文化遺産オンラインの解説は、和文の交換証書に全権の新見正興(豊前守)・村垣範正・小栗忠順が署名したと記します。
新見の名が公文書の上で最も大きく残っているのは、この証書でしょう。批准書の原本には、大統領ブキャナンの署名があります。
帰国の場面にも、正使らしい記録があります。11月10日に使節団は築地の操練所に上陸し、大統領の親書は新見の屋敷で一晩保管されました。翌11日、将軍家茂に拝謁して復命しています。
参考:特別展示「19世紀の日本と亜米利加」解説|横須賀市自然・人文博物館

大統領からの手紙を、帰国した晩はご自宅に置いていたそうですね。眠れましたか。

いま問われれば、眠らなかったと答えたいところにございます。
上様にお渡しするまでは預かり物。そのそばで高いびきをかく使者では、三人の顔が立ちませぬ。
③ 帰国後、御側衆として将軍家茂に仕えた(1862年)
帰国後の新見は外国奉行の専任となり、1862年(文久2年)に御側衆へ進みました。御側衆は将軍のそばで既に決まった事項を上申する役で、博物館の解説は現代の秘書官にたとえています。
| 年 | 役と出来事 |
|---|---|
| 1860年 | 帰国。功により300石を加増され、外国奉行の専任に |
| 1862年 | 御側衆。徳川斉昭の三回忌法事に、将軍家茂の代理として赴く |
| 1863年 | 将軍の上洛に供をする御側衆5名の一人。大坂城で御側役を務める |
| 1864年 | 当時の暦で9月28日(10月28日)、御役御免。菊之間縁頰詰となる |
| 慶応2年12月(1867年初め) | 隠居。隠居料500俵。養父の三男正典に家督を譲る |
参考:特別展示「19世紀の日本と亜米利加」解説|横須賀市自然・人文博物館
参考:新見正興|コトバンク
御側衆は、旗本にとって最高の出世の一つでした。博物館の解説は、御側御用取次と御側衆を旗本最高の出世と位置づけ、機密が多いため、人付き合いや言動に注意深い人物が選ばれたと書きます。
アメリカを見てきた外国奉行が、2年後には将軍の身の回りの役に移ったことになります。日本大百科全書は、帰国後は攘夷の空気のなかで見聞を生かせなかった、とまとめています。
役を免じられたあとの「菊之間縁頰詰」は、江戸城で座る場所を指す言葉です。大名の席次の脇にあたり、旗本としては格式の高い扱いだと博物館の解説は説明します。

アメリカを見てきた人が、将軍の秘書役に回るのは、もったいなくなかったですか。

もったいないかどうかは、手前の決めることではございませぬ。お役目は上から下るものと心得ます。
ただ、異国帰りの者が外で語りやすい世ではなかった、という見方はあるそうにございますな。
小栗や村垣と比べて見える記録の違い
使節での担当、帰国後の役、事典に挙げられる著作を比べてみます。ただし、これだけで知名度の差の理由を断定することはできません。資料にある事実を筆者が並べたもので、本人の能力を評価する話ではありません。
- 正使と副使は同じ職務の相奉行で、目付の小栗は同列の監査役だった。よく語られる造幣局の交渉は、小栗の名で残る
- 帰国後の御側衆は、将軍のそばで機密を扱う役で、言動に注意深い人物が選ばれた。既決事項の上申のほか、将軍への随行や名代も担った
- 事典が挙げる著作は、村垣が『航海日記』、新見が歌集『亜行詠』
参考:特別展示「19世紀の日本と亜米利加」解説|横須賀市自然・人文博物館
1つ目は、使節での担当です。フィラデルフィアの造幣局で日米の金貨を分析させた話は、目付の小栗の仕事として語られます。正使が同じ使節にいても、交渉の物語は監査役のほうに残りました。
小栗がそこで何をしたのかは、小栗の記事で詳しく書いています。
2つ目は、帰国後の役です。御側衆は既決事項の上申に加え、将軍への随行や名代も担いました。新見も家茂の代理として、徳川斉昭の三回忌法事に赴いています。
3つ目は、事典に挙げられる著作です。副使の村垣は『航海日記』を残し、事典はそれを著作として挙げます。新見について事典が挙げる著作は、歌集『亜行詠』です。
参考:村垣範正|コトバンク
参考:新見正興|コトバンク
日記は行程の物語になり、歌集はなりにくい。これは筆者の読みです。『亜行詠』は、1960年に『日本古書通信』が紹介記事を載せています。

目付の小栗さんが大河ドラマの主人公です。先頭に名前のある正使として、悔しくありませんか。

ほう、目付の小栗が。あの者は目を光らせる役にございましたゆえ、睨む者の話は芝居になりましょう。
さて、正使の手前はこれを何と申し上げればよいのか。貴殿なら、悔しいと思われますか。

私なら、悔しいです。

そのお言葉、ありがたく頂戴いたします。
悔しさは取り次がずにおきましょう。先頭に書かれた者は、後ろの者の名を読み上げる役にございますゆえ。
黒船来航から幕府の終わりまでの流れは、学習まんがの通史でも追えます。
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2027年大河『逆賊の幕臣』に新見正興は出る?配役は未発表
2026年11月6日の第9次発表までに、新見正興の配役は出ていません。同じ使節の村垣範正は古田新太さん、小栗忠順は主演の松坂桃李さんです。
| 使節での役 | 人物 | 『逆賊の幕臣』の配役(2026年11月6日時点) |
|---|---|---|
| 正使 | 新見正興 | 未発表 |
| 副使 | 村垣範正 | 古田新太さん(第9次で発表) |
| 目付 | 小栗忠順 | 松坂桃李さん(主演) |
参考:NHK大河ドラマ「逆賊の幕臣」で山時聡真が福沢諭吉、武井壮が中浜万次郎に!古田新太も参加|映画ナタリー
村垣役の紹介文は、1860年の渡米を「遣米使節の副使として、目付の小栗らとともに渡米」と書き、正使の名は出てきません。古田新太さんのコメントには「ドルと両をうまくやらねばならぬ」という一文があります。
正使の役がどう扱われるかは、今後の発表を待つところです。公式の相関図にも、2026年11月6日の時点で新見の名はありません。
第9次までの配役と相関図は、こちらの記事で整理しています。

大河ドラマというもので、副使の村垣さんには演じる俳優が決まりました。あなたの役はまだです。

村垣に決まって、手前はまだ。席次で申せば逆にございますが、芝居の席次は手前の預かりにございませぬ。
順を待つのは慣れております。決まりましたら、貴殿から皆様にお取り次ぎ願います。
新見正興の死因と最期
新見正興は明治2年10月18日(1869年11月21日)に亡くなりました。日本人名大辞典は48歳と記し、これは数え年です。同辞典は5月生まれとするので、満では47歳にあたります。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 没年月日 | 明治2年10月18日(1869年11月21日) |
| 年齢 | 満47歳(数え48歳) |
| 死因 | 具体的な病名は今回確認した資料では不明。万延元年遣米使節子孫の会は、病気療養のため東京へ出たのち、病没したと記す |
| 晩年 | 慶応2年12月(1867年初め)に隠居し、閑水と号す |
| 墓所 | 願正寺(東京都中野区上高田)。新見家代々の墓 |
参考:新見正興|コトバンク
参考:特別展示「19世紀の日本と亜米利加」解説|横須賀市自然・人文博物館
参考:新見豊前守正興|万延元年遣米使節子孫の会
参考:【中野の歴史-近代編5-】寺町江戸墓物語|中野区
没日は資料で割れます。日本人名大辞典と博物館の解説は10月18日、ブリタニカ国際大百科事典は7月18日と記します。ブリタニカが7月18日とする根拠は、項目には書かれていません。
隠居は慶応2年(1866年)で、仕えた将軍家茂が大坂城で亡くなった年です。子孫の会は12月と記し、いまの暦では1867年初めにあたります。
博物館の解説は、同じ日に隠居を許された旗本4名が元御側衆ばかりだったことから、家茂付きの小姓の御役御免と関係がありそうだ、と推測しています。
家茂の最期は、こちらの記事で扱っています。
隠居後のことは、万延元年遣米使節子孫の会が、明治元年(1868年)に武蔵国下奥富村(現在の埼玉県狭山市)へ帰農したと記しています。墓は中野区上高田の願正寺で、区の歴史民俗資料館の館長が区の観光サイトで紹介しています。

家茂公が亡くなった慶応2年の暮れに、あなたも隠居されたと伝わります。

上様が亡くなられたその年の暮れに、手前も身を退きました。お仕えする方が変われば、そばに仕えた者の席も変わるものと心得ます。
関わりがあったかどうかと問われましても、そこは申し上げかねます。
新見正興の生涯を年表で振り返る
博物館の解説と事典を土台にしました。当時の暦の日付を含むため、年の欄は和暦と西暦の年どうしの対応を基本にしています。
将軍のそばの役と、外交の役が、短い間に入れ替わる年表です。
| 年 | 出来事 | 解説 |
|---|---|---|
| 文政5年(1822年) | 三浦義韶の次男として生まれる | 通称は房次郎 |
| 文政12年(1829年) | 伯父の新見正路の養子となる | 正路は大坂西町奉行 |
| 天保10年(1839年) | 小姓となる | 4年後に中奥小姓 |
| 嘉永元年(1848年) | 家督を継ぐ | 正路の長男・次男が早世、三男は幼少 |
| 嘉永6年(1853年) | 将軍家定の御前給仕 | ペリー来航の年 |
| 安政元年〜3年(1854〜56年) | 小普請組支配、小姓組番頭 | 旗本の番方の役 |
| 安政6年(1859年) | 外国奉行。神奈川奉行を兼帯 | 7月8日(8月6日)就任。アメリカ派遣を発令 |
| 安政7年(1860年) | ポーハタン号で横浜を出港 | 1月22日(2月13日) |
| 万延元年(1860年) | ワシントンで批准書交換。品川沖に帰着 | 4月3日(5月22日)交換。9月27日(11月9日)帰着 |
| 万延元年(1860年) | 300石を加増。外国奉行の専任に | 知行2,300石 |
| 文久2年(1862年) | 御側衆 | 斉昭の三回忌に家茂の代理 |
| 文久3年(1863年) | 将軍上洛の供 | 大坂城で御側役 |
| 元治元年(1864年) | 御役御免。菊之間縁頰詰 | 9月28日(10月28日) |
| 慶応2年(1866年) | 12月(1867年初め)、隠居。隠居料500俵 | 正典に家督 |
| 明治元年(1868年) | 武蔵国下奥富村へ帰農 | 子孫の会の記述 |
| 明治2年(1869年) | 10月18日(11月21日)没 | 満47歳(数え48歳) |
1859年の外国奉行就任から、1864年の御役御免までは約5年でした。残りの20年以上は小姓から番方、そして隠居で、将軍のそばで始まり、将軍のそばで終わった経歴に見えます。
明治に入ってからの時間は1年半ほどです。幕府が終わったあとの新見が何を思ったのかを示す記録は、今回見つけられませんでした。
新見正興のすごさと影響力
新見のすごさは、幕府が初めて海外へ送った使節の顔として、相手国の最高位の前に立った点にあります。
- 幕府が初めて海外へ送った使節の首席として、大統領に将軍の親書を渡した
- 批准書交換の証書に、その署名がいまも残る(重要文化財)
- 大西洋と喜望峰を回り、結果として世界を一周して帰った
参考:特別展示「19世紀の日本と亜米利加」解説|横須賀市自然・人文博物館
参考:日米修好通商条約|文化遺産オンライン
博物館の解説は、幕末外交の流れのなかで遣米使節が果たした先駆的な役割を、大きく評価しなければならないと書きます。この使節のあと、幕府は1862年と1863年の遣欧使節をはじめ、続けてヨーロッパへ使節を送りました。
一方で同じ解説は、通り一遍の視察だったかどうか、成果が国内外にどう役立てられたかが評価の分かれ目だとも書いています。新見個人の評価も、ここに掛かってきます。
日本大百科全書には、条約批准の特使派遣を新見が提議し、ハリス総領事を驚かせた、とされる話が載ります。使節の派遣そのものに新見が関わったとすれば、正使に選ばれた理由の一つになりそうですが、事典は「とされる」と書くにとどめています。
参考:新見正興|コトバンク

使節を送ること自体を、あなたが言い出したという話があります。本当ですか。

言い出した者の名を問うのは、貴殿の世の方の癖にございますな。
手前の口から『手前が』と申すのは、順としていかがなものか。そういう話が伝わっておるのなら、伝わるままにしておきとうございます。
新見正興の歩みから考える現代へのヒント
ここからは筆者の解釈です。史料に残る行動を、いまの仕事に置き換えてみました。
| 新見の歩み | 現代へのヒント(筆者の解釈) |
|---|---|
| 相奉行の首席として、監査役とともに動いた | 代表の肩書だけでなく、合議や監査の仕組みも確かめる |
| 狩衣を着て大統領の前に立った | 相手の流儀に合わせるより、自分の正装で出る場面がある |
| 大統領の親書を一晩、自邸で預かった | 預かり物の責任は、渡し終えるまで続く |
| 帰国後は御側衆として取り次ぎに回った | 外で得た見聞が、内側の仕事で生きるとは限らない |
| 免職ののち、格式の高い席を与えられた | 役を離れることと、信用を失うことは別 |
先頭に名前を書かれる人が、いちばん語られないことがあると、この人の経歴を追って思いました。私が今回の資料で具体的に追えたのは、親書の奉呈と批准書交換、その後の復命でした。正使として担った判断の細部までは、この記事では確かめられていません。

いまの読者に、一つだけ言うなら何ですか。

順を誤られますな。それだけにございます。
誰に、何を、どの順で渡すか。手柄の話はそのあとで、できれば他人に語ってもらうのがよろしい。
よくある質問(FAQ)
新見正興の読み方は?
「しんみ まさおき」と読みます。横須賀市自然・人文博物館の解説は、新見家が家康の仰せで「しんみ」と名乗るようになったと伝えています。1860年の使節のときは「新見豊前守」と記されました。
新見正興は何をした人ですか?
幕末の旗本で、1859年に外国奉行、1860年に遣米使節の正使として渡米し、ワシントンで日米修好通商条約の批准書を交換しました。帰国後は将軍の御側衆を務め、1864年に免職、慶応2年12月(1867年初め)に隠居しています。
新見正興と小栗忠順の関係は?
同じ遣米使節の正使と目付です。博物館の解説は、正使と副使を相奉行と説明し、目付の小栗を同列の監査役と位置づけます。批准書交換の証書には、新見・村垣・小栗の3人が並んで署名しました。
新見正興と村垣範正の関係は?
正使と副使です。村垣は御庭番の家の出で、使節の『航海日記』を残しました。2027年の大河ドラマ『逆賊の幕臣』では古田新太さんが村垣を演じます。新見の配役は2026年11月6日の時点で未発表です。
新見正興は柳原白蓮の祖父ですか?
日本人名大辞典は、白蓮の実母を東京柳橋の芸者「良(りょう)」と記します。戸塚区の市民団体は新見を白蓮の祖父と紹介し、東京新聞がそれを伝えています。新見の娘と良が同じ人物であることは、本記事では系譜の資料で確かめていません。
新見正興の墓はどこですか?
東京都中野区上高田の願正寺です。中野区立歴史民俗資料館の館長が、区の観光サイトで幕府の遣米使節として渡った新見の墓所として挙げています。新見家の初代正勝の墓は、横浜市戸塚区品濃町に残ります。
新見正興はどんな人でしたか?
博物館の解説は、派手ではないものの将軍の手足として奉公を重ねた人と評しています。小姓から将軍の御前給仕、御側衆と、将軍のそばの役が長い経歴です。歌集『亜行詠』を残しました。
インタビュー後記 先頭に名前のある人
遣米使節の三人の名前は、役の順に書けば新見・村垣・小栗です。並び順が席次を表すのに、読まれる順は逆です。
歴史マニアとしての意見を一つ書くなら、先頭に名前がある人ほど、仕事の中身を一つずつ確かめないと像が結ばないのだと思います。造幣局の交渉は小栗の名で、航海の記録は村垣の日記で残りました。
親書を一晩、自邸で預かった話が、私にはこの人の仕事の一端をよく表しているように読めました。一晩を預かり、翌日の復命で役目を閉じる。その順序を記録で追えたことが、この記事を書いた収穫でした。
冒頭で、顔が浮かばなかったと書きました。いまは、狩衣で大統領の前に立つ姿が浮かびます。大河ドラマでその場面が描かれるかどうかは、これからの発表を待ちます。
参考資料
- コトバンク「新見正興」※読み、生没年、通称・号・官途名、外国奉行、正使、加増300石、側衆、1864年辞職、歌集『亜行詠』、特使派遣を提議したとされる話、見聞を生かせなかったこと(日本大百科全書・世界大百科事典・ブリタニカ国際大百科事典・日本人名大辞典ほか)
- データベース「世界と日本」「日本國米利堅合衆國修好通商條約(日米修好通商条約)」※第14条の施行日(1859年7月4日)と批准書の交換の規定
- コトバンク「万延元年遣米使節」※三使の氏名、77名の内訳、出帆・謁見・批准書交換・帰着の日付、咸臨丸は随伴艦(日本大百科全書ほか)
- コトバンク「新見正路」※養父の経歴(大坂西町奉行、天保山)
- コトバンク「村垣範正」※副使、『航海日記』(ブリタニカ国際大百科事典)、御庭番
- コトバンク「柳原白蓮」※実母を「東京柳橋の芸者良」と記す(日本人名大辞典)
- 横須賀市自然・人文博物館 特別展示「19世紀の日本と亜米利加 技術革新と近代外交の日々」解説(2010年9月18日〜12月12日)※新見家の由来と知行、経歴の月日、使節の構成と行程、謁見の服装、金メダル、親書の保管、小判の手紙、御側衆の説明、相奉行と目付の拒否権、人物評、名誉回復、隠居、没日、墓所
- 文化遺産オンライン「日米修好通商条約」※重要文化財(1997年指定)、外務省外交史料館所蔵、和文の交換証書に新見・村垣・小栗が署名、批准書原本に大統領の署名
- 中野区「【中野の歴史-近代編5-】寺町江戸墓物語-忠臣蔵と上高田」(中野区立歴史民俗資料館 館長 比田井克仁。区公式観光サイトの記事)※墓所は願正寺
- 横浜市「戸塚区史 写真情報」※「新見家の墓(品濃町)」の写真の掲載
- 一般社団法人 万延元年遣米使節子孫の会「新見豊前守正興」※明治元年の下奥富村への帰農
- 東京新聞「戸塚ゆかりのイケメン奉行 新見正興の足跡紹介 28、29日に宿場まつり」(2023年10月23日)※戸塚区の市民団体が新見を白蓮の祖父として紹介していること
- 国立国会図書館サーチ 丸山孝夫「新見正興の亜行詠」『日本古書通信』25巻6号(1960年4月)※歌集を扱う紹介記事の書誌。本記事は本文を確かめていない
- 国立国会図書館「幕末の遣外使節|近代日本人の肖像」※使節の概要(新見の肖像は収録されていない)
- 映画ナタリー「NHK大河ドラマ『逆賊の幕臣』で山時聡真が福沢諭吉、武井壮が中浜万次郎に!古田新太も参加」(2026年11月6日)※村垣範正役が古田新太さんであること、役紹介とコメント、第9次に新見の名がないこと










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