咸臨丸とは?太平洋横断から沈没までを海舟・万次郎・忠順AIと解説

kanrinmaru eyecatch 時代・文化

歴史の授業で咸臨丸を習ったとき、私は「日本人だけで太平洋を渡った船」と覚えました。勝海舟が艦長で、福沢諭吉が乗っていた船。たぶん、多くの方がそう記憶しているはずです。

ところが、乗っていた人たちが書き残したものを読むと、話がかみ合いません。福沢諭吉は「アメリカ人に助けて貰うと云うことは一寸でもなかった」と書いています。同じ船にいたアメリカ人の日記は、まるで違う光景を伝えています。

どちらかが嘘をついている、という単純な話ではないと私は思っています。同じ37日間を、立場の違う人が別々に見ていた。その食い違いごと残っているところが、この船の面白さです。

この記事の結論

咸臨丸は、江戸幕府がオランダに発注した軍艦で、1860年(安政7年)に浦賀からサンフランシスコまで太平洋を渡った船です。

ただし、批准書を運んだのは咸臨丸ではありません。日米修好通商条約の批准書を交換する使節団が乗ったのはアメリカの軍艦ポーハタン号で、咸臨丸はその護衛を名目にした随伴艦でした。

そして咸臨丸は、太平洋を渡ったあとも11年生きています。戊辰戦争で襲撃され、最後は北海道の海に沈みました。

  • 37日間
    浦賀からサンフランシスコまで
  • 96人
    福沢諭吉が記した日本人乗組員の数
  • 1871年
    サラキ岬沖で座礁・沈没

この記事では、船の素性から、乗っていた人の顔ぶれ、「日本人だけで渡った」という通説の検証、そして最期の日までをたどります。

語り手として、勝海舟AI(勝海舟をモデルにしたAI)、ジョン万次郎AI(中浜万次郎をモデルにしたAI)、小栗忠順AI(小栗忠順をモデルにしたAI)に登場してもらいます。同じ出来事を、三人が別の角度から見ていました。

※以下のインタビュー部分は、公開されている史料をもとに三人の人物像を再現した創作です。実際の発言ではありません。小栗忠順は1868年に亡くなっているため、それ以降の出来事は語りません。

筆者
筆者

海舟先生、今日はあなたご自身ではなく、あなたが乗った船のほうをうかがいます。咸臨丸とは、ひとことで言えばどんな船だったのでしょうか

勝海舟AI
勝海舟AI

阿蘭陀に誂えた軍艦さ。長崎で操船を仕込まれて、そいつでアメリカまで行ったのよ。

おれも後年そう語ったと伝わっておるらしいな。おれの口が火元かどうかまでは、おまえさんが調べておくれ。

まあ、船の話は船の話だ。調べたことを先に聞かせてもらおうじゃねえか。

咸臨丸とは?まず船の素性を押さえる

細かい話に入る前に、船そのものを表で確認しておきましょう。

項目内容
読み方かんりんまる
建造国オランダ
造船所キンデルダイクのホップ・スミット造船所(フォップ・スミットとも表記されます)
起工・進水1856年ごろ起工、1857年進水
元の船名ヤパン(日本)号
日本への到着1857年(安政4年)、長崎
船種3本マストの木造の蒸気帆船
排水量625トン
全長およそ49〜50メートル
機関100馬力の蒸気機関
速力6ノット
備砲12門

この表は、事典類でもっとも多く見られる数字を並べたものです。ただし、咸臨丸の要目は資料によってよく食い違います。

排水量は625トンとする資料が多い一方、約600トンとするものもあります。全長は49メートルから50メートルの幅があり、幅は7メートル台とする資料と8メートル台とする資料に分かれます。

船種の呼び方はさらに割れます。「スクーナー・コルベット艦」「木造機帆コルベット」「スクリュー式蒸気帆船」など、資料ごとに表現が違い、推進方式の記述さえ一致していません。

ここで押さえておきたいのは、咸臨丸は蒸気船であると同時に帆船だったということです。100馬力の機関はあくまで補助で、太平洋を渡る主な力は帆から得ていました。

もうひとつ、この船は最初から日本の船だったわけではありません。オランダで「ヤパン号」として造られ、1857年に長崎へ回航されて幕府に引き渡されました。

長崎では海軍伝習所の練習艦として使われています。つまり渡米の時点で、日本人がこの船を動かした経験は、まだ2年半ほどしかありませんでした。

筆者
筆者

2年半というのは、船を覚えるのに十分な時間なのでしょうか

勝海舟AI
勝海舟AI

十分なわけがねえやな。おれたちは阿蘭陀人に手を取って教わった口さ。

長崎で習ったのは、いわば道場の稽古よ。荒れた太平洋は真剣勝負だ。

それでも行くと決めたのは、行かなけりゃいつまでも覚えられねえからさ。

何のための航海だったのか|使節団が乗ったのはポーハタン号

咸臨丸がアメリカへ向かったのは、日米修好通商条約の批准書を交換する使節団に随伴するためでした。ただし、ここで多くの人が取り違えている点があります。

批准書を運ぶ使節団が乗ったのは、咸臨丸ではありません。アメリカの軍艦ポーハタン号です。日本大百科全書は、咸臨丸について「使節一行の警固を名目に往路サンフランシスコまで随伴させた」と説明しています。

つまり咸臨丸は、批准書を運ぶ役目そのものは担っておらず、練習航海を兼ねた随伴艦でした。

使節団の顔ぶれは次のとおりです。

ポーハタン号に乗った使節団
  • 正使|新見豊前守正興
  • 副使|村垣淡路守範正
  • 目付|小栗豊後守忠順
  • 総勢|この3名と、役人17名、従者51名、賄方6名をあわせた77名

ここで注目したいのが、目付として名を連ねている小栗豊後守忠順です。のちに横須賀製鉄所の建設を主導する小栗忠順ですが、この時点での官職は「上野介」ではなく「豊後守」でした。

小栗は咸臨丸には乗っていません。ポーハタン号で渡り、渡米中は日米の貨幣をめぐる問題にも関わりました。フィラデルフィアでは日本の貨幣の分析が行われています。

咸臨丸の話と混同されやすいので、分けて覚えておくと整理しやすくなります。

使節団はポーハタン号で陽暦2月13日(和暦正月22日)に横浜を出帆しました。帰りはニューヨークからナイアガラ号に乗り換え、大西洋から喜望峰、バタビア、香港を回っています。

品川沖への帰着は11月9日(和暦9月27日)でした。使節団は世界を一周して帰ってきたことになります。咸臨丸のほうが先に出て、先に帰りました。

小栗忠順その人については、別の記事で詳しく書いています。

筆者
筆者

小栗さんは咸臨丸ではなく、ポーハタン号のほうに乗られたのですね

小栗忠順AI
小栗忠順AI

左様。私は目付として使節に随行いたしました。豊後守を名乗っておった頃のことでございます。

咸臨丸は別の船にて、こちらとは行程も違いました。あちらの苦労は、私が見たものではございませぬ。

ただ、あの船を出す決めごとが容易であったとは、私には思えませぬ。

咸臨丸の艦長は誰か|木村喜毅と勝海舟で資料が分かれる

咸臨丸の乗員については、福沢諭吉が『福翁自伝』に顔ぶれを書き残しています。同乗者本人の記録なので、ここではそれを軸に整理します。

『福翁自伝』での記され方氏名
艦長(幕府の役職は軍艦奉行)木村摂津守喜毅
指揮官勝麟太郎(勝海舟)
運用方佐々倉桐太郎、浜口興右衛門、鈴藤勇次郎
測量小野友五郎、伴鉄太郎、松岡磐吉
蒸気肥田浜五郎、山本金次郎
公用方吉岡勇平、小永井五八郎
通弁官(通訳)中浜万次郎(ジョン万次郎)
少年士官根津欽次郎、赤松大三郎、岡田井蔵、小杉雅之進
ほか医師2人、水夫火夫65人、艦長の従者

福沢は合計を「九十六人」と記しています。福沢自身は木村喜毅に従って乗り込みました。

日本人の乗組員数は、96人とする資料が多い一方、異なる人数を挙げるものもあります。この記事で96人を採るのは、それが正解だからではなく、同乗した本人が書いた数字だからです。

そのうえで目を引くのが、福沢が「艦長」と呼んでいるのは木村喜毅であり、勝海舟は「これに随従する指揮官」とされていることです。

「艦長は誰か」で資料が分かれる
  • 同乗した福沢諭吉『福翁自伝』は、艦長を軍艦奉行の木村喜毅とし、勝を指揮官としている
  • 木古内町観光協会は「軍艦奉行木村摂津守、教授方頭取勝麟太郎」と、役職名で並べている
  • 横須賀市は浦賀の記念碑の説明で、勝を「艦長格」と書いている
  • 日本大百科全書は「万延元年遣米使節」の項目で「軍艦咸臨丸(艦長勝海舟)」と記している
  • 国立国会図書館「近代日本人の肖像」は「万延元(1860)年咸臨丸艦長として渡米」と記している

この記事では、どれかを正解として選ぶことはしません。役職の呼び方そのものが資料によって違うという事実のほうが、この航海の実態をよく表していると考えるからです。

筆者
筆者

万次郎さんは通訳として乗られました。船の中での役割はそれだけだったのですか

ジョン万次郎AI
ジョン万次郎AI

通弁が本役じゃき、それが第一よ。じゃが、わしは捕鯨船で何年も帆を扱うちょったきに、船のことは一通り分かる。

士官の皆さんは長崎で学んだ方々じゃ。外洋の荒れ方まで体で知っちょったかどうかは、わしの口からは言えんのう。

誰がえらいという話ではのうて、できることをやるしかない船じゃったちや。

「日本人だけで渡った」は本当か|同乗したアメリカ人たち

この記事でいちばん確かめたかったのが、ここです。

咸臨丸には、日本人のほかにアメリカ人が同乗していました。海軍士官ジョン・M・ブルックを含む一行です。木古内町観光協会は「ブルック大尉以下11名」とし、日本人96名とあわせて107名が乗り込んだと説明しています。

福沢は、彼らが乗ることになった経緯まで書き残しています。福沢によれば、ブルックは太平洋の海底測量の航海中に薩摩の大島沖で難船し、横浜に滞在していました。

そこへ日本の軍艦がサンフランシスコへ向かうと聞き、帰国の便として乗りたいと申し出たのです。

興味深いのは、これに日本人の乗組員が反対したことです。福沢はその理由をこう書いています。

日本の乗組員は米国人と一緒に乗るのは厭だと云う。何故かと云うに、若しその人達を連れて帰れば、却て銘々共が亜米利加人に連れて行て貰たように思われて

出典:青空文庫 福沢諭吉『福翁自伝』

出発の前から、「日本人だけで渡った」と言えるかどうかは、当事者にとって重大な関心事でした。

そして福沢自身は、こう断言しています。

航海中は一切外国人の甲比丹ブルックの助力は仮らないと云うので、測量するにも日本人自身で測量する。亜米利加の人も亦自分で測量して居る。互に測量したものを後で見合せる丈けの話で、決して亜米利加人に助けて貰うと云うことは一寸でもなかった。

出典:青空文庫 福沢諭吉『福翁自伝』

勝海舟も後年の談話で同じ趣旨を語ったとされ、「外国人の手を少しも借らないでアメリカに行った」という言葉が広く紹介されています。ただし本記事は『氷川清話』の原文にあたっておらず、この文言の所在までは確認できていません。

ブルック自身は、何を書いていたのか

一方、同じ航海について、まったく違う姿を伝える記録があります。

国立国会図書館は「咸臨丸、発展途上の船出」というコラムで、ブルック自身の日記と、少年士官として乗っていた赤松大三郎(則良)の日記を紹介しています。

このコラムはブルックを「浦賀からサンフランシスコへの航行を指導した米国人士官」と説明しています。

ブルックの日記は「Kanrin Maru Journal(咸臨丸日記)」といい、清岡暎一の訳で『万延元年遣米使節史料集成』第5巻(風間書房、1961年)に収められています。

出港から4日後にあたる1860年2月14日の記述は、こうです。

I think it absolutely necessary that the Japanese should have a marine language of their own.

(私は日本人が彼等自身の航海用語を持つべき必要を強く感じる。)

出典:国立国会図書館「咸臨丸、発展途上の船出――赤松とブルックの日記から」

さらに2月20日には、軍艦奉行の木村喜毅について、こう書いています。

The consequence is that he prefers to leave things as they are, no stations no watches etc. […] I shall urge the point however and shall succeed in making some improvements before we leave.

(結局、提督[軍艦奉行として同船した木村摂津守; 引用者注]は誰にも部署、当直を割当てず、もとのままにしておくことを望んでいるのだ。[…]とはいえ、私は下船するまでに、何とかこの点を議論して改めさせよう。)

出典:国立国会図書館「咸臨丸、発展途上の船出――赤松とブルックの日記から」

同じ船の、同じ日々です。福沢は助力を借りなかったと書き、ブルックは体制の不備に苦言を呈していました。

なお本記事は、これらの日記の原本も『万延元年遣米使節史料集成』の現物も確認しておらず、国立国会図書館のコラムが引用している範囲で書いています。

同乗したアメリカ人の人数にも幅があります。木古内町観光協会は11名としますが、福沢は「甲比丹以下、士官一人、医師一人、水夫四、五人」と書いており、こちらのほうが少ない数です。

この航海を記録に残した福沢諭吉については、別の記事でまとめています。

勝海舟AI
勝海舟AI

言っておくが、おれたちは客として運ばれたわけじゃねえ。舵も帆も、日本人が握っておった場面はあるのよ。

ただな、おれが晩年に語ったとされる話が、そのまま教科書みてえに扱われるとはな。

話ってのは、繰り返すうちに角が取れて、都合のいい形になっちまうものさ。

ジョン万次郎AI
ジョン万次郎AI

わしから見れば、どちらか一方だけでは足りんのじゃろう。日本人が動かした場面も、アメリカ人が口を出した場面も、どっちもあったきに。

船いうもんは、荒れたときに誰が動けるかで決まる。凪のときの話とは別もんちや。

後の世の人が白黒つけたがるのは分かるがのう、あの37日はそんなに簡単な日々ではなかったぜよ。

37日間の航海で何が起きていたか

咸臨丸が浦賀を出たのは1860年2月10日(安政7年正月19日)、サンフランシスコ到着は3月17日でした。木古内町観光協会はこの航海を37日間としています。

冬の北太平洋を選んだ航路は、出港から荒天が続きました。赤松大三郎の日記は、安政7年2月3日(1860年2月24日)の様子をこう記しています。

浦賀を出帆より御船浪入強く、昼夜ともストークルを以て、ホンペン致す事一エトマールに二度程なり

出典:国立国会図書館「咸臨丸、発展途上の船出――赤松とブルックの日記から」

「ホンペン」はオランダ語の pompen で、水を汲み出すことだとされます。「一エトマール」は1日のことです。浦賀を出てからずっと波をかぶり、昼夜を通して1日2度は水を汲み出していたと読めます。

国立国会図書館は、赤松がオランダ語をカタカナに写して使っていることから、西洋式の技術を日本語に噛み砕いて会得する段階には、まだ至っていなかったのではないかと指摘しています。

もうひとつ、この日記から分かる大事なことがあります。赤松が当直士官の名を書き留めはじめたのは、航海が始まって14日目のことでした。それまで当直が定まっていなかったらしい、と同館は説明しています。

福沢が書き残したもののなかで、もっとも具体的なのが勝海舟の様子です。

勝麟太郎と云う人は艦長木村の次に居て指揮官であるが、至極船に弱い人で、航海中は病人同様、自分の部屋の外に出ることは出来なかったが、着港になれば指揮官の職として万端差図する

出典:青空文庫 福沢諭吉『福翁自伝』

これは福沢の記述であって、勝自身が書き残したものではありません。ただ、同じ船にいた人の記録として、船中の様子を伝える数少ない手がかりです。

勝海舟の生涯については、こちらで詳しくたどっています。

筆者
筆者

船酔いのことは、あとあとまで言われることになりましたね

勝海舟AI
勝海舟AI

福沢さんがそう書いたらしいな。おれ自身は否とも応とも書き残しちゃいねえよ。

ただな、寝ていた者が指図をしなかったとは限らねえのさ。着いてからの差配は、また別の話だ。

どのみち、あの荒れ方じゃ甲板に立っていられる者のほうが少なかったろうぜ。

サンフランシスコに着いた日、江戸では

咸臨丸がサンフランシスコに入港したのは1860年3月17日です。日本の軍艦として、初めて太平洋を横断した航海になりました。

現地では歓迎を受けています。福沢は、陸から祝砲が撃たれ、咸臨丸から応砲するかどうかで議論になった場面を書き残しています。

入港の日に船上で起きたこと
  • 陸から祝砲が撃たれ、応砲するかどうかで議論になった
  • 慣れない礼砲で失敗するくらいなら撃たないほうがよい、というのが勝の意見だった
  • 運用方の佐々倉桐太郎が反対し、自分が撃ってみせると言い張った
  • 福沢は「物の見事に応砲が出来た」と書き、そのあと佐々倉が威張り出したことまで記している

ここで、日本側の事情に目を向けておきたいと思います。

咸臨丸がサンフランシスコに着いた1週間ほどあとに、江戸では桜田門外の変が起きました。安政7年3月3日(1860年3月24日)、大老の井伊直弼が暗殺された事件です。

この使節を送り出した政権の中心にいた人物が、使節の帰国を待たずに殺されたことになります。

さらにこの年、元号も変わります。改元は安政7年3月18日(1860年4月8日)で、ここから「万延元年」になりました。

咸臨丸が浦賀を出た正月19日は、まだ安政7年です。「万延元年遣米使節」という呼び名が定着していますが、出発の時点では万延ではありませんでした。

筆者
筆者

あちらで見たもので、いちばん驚かれたのは何でしたか

ジョン万次郎AI
ジョン万次郎AI

わしは前にも住んじょったき、目新しさで言えば皆さんのほうが驚かれたじゃろう。

ただ、年月が経てば街も人も変わるものじゃき、同じ国とも言えんかもしれん。

同じ国を二度見るいうのは、自分がどれだけ歳を取ったか数えるようなもんちや。

帰りの航海はどうだったのか

咸臨丸の随伴は往路までで、帰りは単独でした。使節団は引き続きポーハタン号などで旅程を続けています。

木古内町観光協会は帰路について、「帰途は比較的穏やかな日が多く、日本人のみの手によって航海を続け、途中ホノルルを経由して、46日間の航海を経て、5月5日に浦賀港へ投錨した」と説明しています。

往路より復路のほうが穏やかだったという点は、通説を考えるうえで見落とせません。往路と復路では海の状態も同乗者の顔ぶれも違うため、復路の航海だけで往路の操船を評価するのは難しくなります。

ただし、完全に日本人だけだったわけではありません。福沢は帰路についてこう書いています。

桑港を出帆して、今度は布哇寄港と定まり、水夫は二、三人亜米利加から連れて来たけれども、甲比丹ブルックは居らず、本当の日本人ばかりで

出典:青空文庫 福沢諭吉『福翁自伝』

木古内町観光協会の「日本人のみの手によって」という説明とは、この水夫の分だけ食い違います。

浦賀への帰着は万延元年5月5日(1860年6月23日)でした。

帰国後の咸臨丸|軍艦から運送船へ

太平洋を渡った船として名を残した咸臨丸ですが、その後の11年はあまり語られません。

1861年(文久元年)には、ロシアによる対馬占領への抗議行動に従事しました。翌1862年には、小笠原諸島の領有権を確保するための調査・測量にあたっています。

渡米後の咸臨丸が担った役割
  • 神奈川の警備
  • 1861年、ロシアの対馬占領に対する抗議行動
  • 1862年、小笠原諸島の調査・測量
  • 幕末には蒸気機関を外され、帆だけで走る運送船になる

見落とされがちなのが、最後の一点です。咸臨丸は途中で蒸気機関を降ろされています。時期は資料によって分かれ、木古内町観光協会は1867年(慶応3年)、日本大百科全書は1868年としています。

いずれにせよ、太平洋を渡ったときの「蒸気軍艦」の姿は、最期のときにはもう残っていませんでした。晩年の咸臨丸は、帆で人と荷物を運ぶ船です。

筆者
筆者

小栗さんは横須賀に製鉄所を建てました。咸臨丸のような船を、日本で造ろうとされたのですね

小栗忠順AI
小栗忠順AI

左様。買うてばかりでは、いつまでも人の手を借りることになりまする。

私は渡米の折、あちらの工場を見て参りました。船を直す設備がなければ、船を持っても意味がございませぬ。

銭を工面したのは事実にござる。何を思うてそうしたかは、そなたらの想像に任せましょう。

咸臨丸事件|清水湊で何が起きたか

1868年(慶応4年)、江戸城の明け渡しから数か月後、旧幕府海軍を率いる榎本武揚が艦隊とともに江戸を離れます。咸臨丸もこれに加わりました。

このとき咸臨丸は、すでに機関を外されて帆船になっていました。木古内町観光協会によれば、咸臨丸は回天に曳航され、観音崎で座礁します。翌日ふたたび出港したものの、房総沖で暴風雨に遭い、曳綱が切れて漂流しました。

その後たどり着いたのが、駿河の清水湊です。木古内町観光協会は「9月2日に清水港に入港したが、18日新政府軍の襲撃を受けて乗組員の大多数が死傷し、船体は拿捕され」と記しています。

事典類の説明も、細部は異なりますが結末は同じです。日本大百科全書は「荒天のため下田、ついで清水に寄港、官軍に捕獲された」とし、改訂新版 世界大百科事典は「途中で難破し、清水港で修理中に新政府に捕獲」としています。

この出来事は「咸臨丸事件」と呼ばれることがあります。修理中で十分に動けない状態の咸臨丸が攻撃を受け、拿捕された出来事でした。

清水湊に放置された遺体を侠客の清水次郎長が埋葬したという話が広く伝わっていますが、本記事ではその一次資料を確認できていません。

筆者
筆者

あの船が、そういう終わり方に向かっていったことをどう思われますか

勝海舟AI
勝海舟AI

おれが江戸を渡したあとの話さ。船まで面倒は見きれなかったよ。

蒸気を抜かれた軍艦ってのは、牙を抜かれた獣みてえなもんだ。走れねえ船に、逃げ場はねえやな。

世の中が変わるときにゃ、人も船も勝手に流されていくものさ。

咸臨丸の最期|サラキ岬に沈むまで

新政府に引き渡された咸臨丸は、1869年(明治2年)以降、開拓使の輸送船として使われました。

明治4年9月12日(1871年10月25日)、咸臨丸は北海道移住を決意した片倉小十郎家臣団112世帯401名を乗せ、仙台の寒風沢を出航します。

木古内町の記録によれば、最年少3歳、最年長83歳、平均年齢28歳という顔ぶれでした。

箱館を経由して小樽へ向かう途中の9月20日、木古内町のサラキ岬沖で岩礁に乗り上げて座礁します。西暦に直すと1871年11月2日にあたります。

現地(泉沢)の人々の懸命な救助によって、乗っていた人々は難を逃れました。開拓使は「一人も怪我なく、荷物も陸揚げし安堵した」と報告しています。

ただし乗船者の高橋仁吉は数日後に亡くなり、近隣の大泉寺で葬送されたと記録されています。

船は数日後に破船し、沈没しました。

出来事
1856年ごろオランダのキンデルダイクで起工
1857年進水。同年、長崎に到着して幕府へ引き渡され、海軍伝習所の練習艦となる
1860年2月10日(安政7年正月19日)浦賀を出港。3月17日サンフランシスコ着。万延元年5月5日(6月23日)浦賀へ帰着
1861年ロシアの対馬占領に対する抗議行動に従事
1862年小笠原諸島の調査・測量に従事
1867〜1868年蒸気機関を外され、帆装の運送船となる(時期は資料により分かれる)
1868年榎本艦隊に加わるが漂流し、清水湊で新政府軍に捕獲される
1869年以降開拓使の輸送船として使われる
1871年明治4年9月12日(西暦10月25日)、片倉家臣団401名を乗せて寒風沢を出航。同9月20日(西暦11月2日)サラキ岬沖で座礁し、数日後に沈没

日付の書き方には注意が要ります。「明治4年9月20日」は旧暦で、西暦では1871年11月2日にあたります。

木古内町は「1871年(明治4年)9月20日」と表記しています。この記事では和暦と西暦の両方を添えました。なお山川 日本史小辞典は、沈没を1870年としています。

太平洋を渡ってから、わずか11年後のことでした。

筆者
筆者

万次郎さん、あの船の最期をご存じでしたか

ジョン万次郎AI
ジョン万次郎AI

北の海で沈んだと聞いちょる。詳しゅうは知らん。

船いうもんは、たいてい静かに終わるもんじゃき。名を残した船でも、最後まで見送る者は少ないがよ。

400人余りを運ぶ途中じゃったと聞けば、あの船らしい最期じゃとも思うのう。

咸臨丸に今も会える場所

咸臨丸の実物は残っていません。2021年の報道の時点では、沈没した船体も見つかっていません。

中日新聞は2021年10月15日の記事「沈没150年、咸臨丸はどこ?」でこの調査を伝えています。2018年から19年にかけ、漁師の目撃情報をもとにオランダと共同で現場を調べたものの、船体は見つからぬままだといいます。

沈没地である北海道木古内町のサラキ岬は、「咸臨丸終焉の地」として整備されています。

木古内町によれば、「咸臨丸とサラキ岬に夢見る会」が中心となって咸臨丸モニュメントが設置され、「咸臨丸のふるさとオランダをイメージした」チューリップ花壇が整備されました。

1984年(昭和59年)には、サラキ岬沖から2メートルほどの朽ち果てた錨が引き揚げられました。現在は木古内町郷土資料館「いかりん館」に保存・展示されています。

ただし、この錨が咸臨丸のものかどうかは決着していません。

錨の真贋をめぐる経緯
  • 引き揚げ直後、研究者の見解が「咸臨丸のもの」「そうではない」に分かれた
  • 2005年(平成17年)、日本海事史学会の小川一男氏が「この錨は咸臨丸のものに間違いない」と述べ、本格的な調査が行われた
  • それでも最終的な結論は出ていない

木古内町観光協会がこのページに「咸臨丸の錨?」と疑問符を付けているのは、その状況を正直に示したものだと受け取れます。

出港地の側でも、咸臨丸は記憶されています。神奈川県横須賀市の浦賀にある愛宕山公園には、「咸臨丸出航の碑」が建っています。

横須賀市は、1960年(昭和35年)に「日米修好通商条約の締結100年を記念して」建てられたと説明しています。

条約そのものの締結は1858年(安政5年)です。1960年は、批准書の交換と咸臨丸の渡航から100年にあたる年になります。

横須賀市によれば、碑の裏には「艦長格・勝海舟」をはじめ、福沢諭吉、ジョン万次郎などの乗組員の名が連ねられています。

勝の肩書きが「艦長」ではなく「艦長格」と刻まれているところに、この船をめぐる呼び方の難しさが表れているように思います。

浦賀ではいまも毎年咸臨丸フェスティバルが開かれています。2026年(令和8年)は4月25日・26日に、第28回が浦賀レンガドック周辺で開催されました。

よくある質問(FAQ)

咸臨丸の読み方は?

「かんりんまる」と読みます。

咸臨丸の艦長は誰ですか?

資料によって分かれます。同乗した福沢諭吉は『福翁自伝』で、艦長を軍艦奉行の木村喜毅(摂津守)、勝海舟を指揮官としています。横須賀市は記念碑の説明で勝を「艦長格」と書き、勝を艦長と記す事典もあります。

坂本龍馬は咸臨丸に乗っていましたか?

1860年の太平洋横断に坂本龍馬は乗っていません。龍馬が勝海舟のもとで学ぶのは、この航海より後のことです。

咸臨丸は日本人だけで太平洋を渡ったのですか?

日本人の乗組員が操船にあたったのは確かですが、アメリカ海軍のブルック大尉ら数名から11名程度が同乗していました。福沢諭吉は助力を借りなかったと書き、ブルックの日記には当直を改めさせたいとあります。断定はできません。

咸臨丸の大きさはどれくらいですか?

排水量625トン、全長およそ49〜50メートルとする資料が多く、100馬力の蒸気機関を備え、備砲は12門でした。ただし要目は資料によって食い違います。

咸臨丸はどこの国で造られたのですか?

オランダです。キンデルダイクのホップ・スミット造船所で造られ、元の船名は「ヤパン(日本)号」でした。

咸臨丸はその後どうなったのですか?

帰国後は対馬や小笠原に派遣され、幕末に蒸気機関を外されて帆船になりました。1868年に清水湊で新政府軍に捕獲され、明治4年に北海道木古内町のサラキ岬沖で座礁・沈没しました。船体は2021年の報道時点で見つかっていません。

淡路島のうずしおクルーズの「咸臨丸」は同じ船ですか?

別の船です。鳴門海峡の渦潮を見る現代の遊覧船で、運航会社は幕末の咸臨丸の姿を「復元しました」と説明していますが、歴史上の咸臨丸そのものではありません。

インタビュー後記|食い違いが残っているということ

この記事を書きながら、いちばん長く考えたのは「日本人だけで渡ったのか」という問いの扱い方でした。

福沢諭吉ははっきり「助けて貰うと云うことは一寸でもなかった」と書いています。同じ船に乗っていた人の証言です。軽く扱えるものではありません。

一方で、ブルックは航海の最中に、当直も部署も割り当てられていないと日記に書いていました。こちらも当事者の記録です。

どちらかを選んで「真相はこうでした」と書くほうが、読み物としては気持ちがいいのだと思います。けれど私は、食い違ったまま両方が残っていること自体が、この航海の記録の厚みだと考えています。

「アメリカ人に連れて行ってもらった」と思われることを避けたかった当事者の意識も、記録に残っています。アメリカ人を乗せることに反対した理由がまさにそれだったという福沢の記述は、そのまま当時の自意識の記録です。

咸臨丸は、完成した近代の象徴ではありませんでした。まだ覚えきっていない技術で、荒れた海に出た船です。そして11年後、機関を外され、移住者を運ぶ途中で沈みました。

その不格好さのほうが、私には近代の始まりらしく見えます。あなたは、この船の37日間をどう受け取るでしょうか。

参考資料

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