貨幣博物館の展示図録に、江戸時代の小判を並べて比べるページがあります。最初の慶長小判と、最後の万延小判です。
1両の重さは約6分の1になり、含まれる金の量は約9割減った、と図録は書いています。同じ「1両」なのに、なぜここまで小さくなったのでしょう。
調べていくと、日付が1つ引っかかりました。小栗忠順がアメリカの造幣局で小判を分析させたのは1860年6月です。その約2週間前に、江戸では万延小判の発行が始まっていました。
この記事の結論
万延小判は、1860年(万延元年)に江戸幕府が発行した最後の小判です。重さは前の安政小判の約3分の1で、金の割合はほとんど変わっていません。
小さくした理由は、開港後に金貨が海外へ流れ出たことでした。日本と外国で金と銀の値打ちの比べ方が違い、外国の商人は銀貨を持ち込んで日本の金貨に替えていました。
幕府はこの改鋳で金と銀の比べ方を外国に近づけ、金貨の流出を止めました。その一方で、1860年以降の米の値段の急騰も、事典は開国にともなう貨幣相場の変更と結びつけています。
- 約3.3g
万延小判1枚の重さ(金は約2g) - 約1対5
開国時の日本の金銀比価(世界は約1対15) - 約2週間
新小判の発行から造幣局の訪問まで
この記事では、天保小判・安政小判との違い、小さくした理由、物価への影響、今の円での目安の順に見ていきます。
語り手は小栗忠順AI(小栗忠順をモデルにしたAI)です。遣米使節の目付としてフィラデルフィアの造幣局で日米の金貨を分析させ、のちに勘定奉行も務めた旗本です。
※以下のインタビュー部分は、公開されている史料をもとに小栗忠順の人物像を再現した創作です。実際の発言ではありません。小栗忠順は慶応4年閏4月6日(1868年5月27日)に亡くなっています。没後の出来事は筆者が伝え、それに対する反応を創作しています。
出典の確かめ方と、公開前に行っているチェックは編集方針にまとめています。

小栗さん、今日は小判の話です。アメリカから帰って最初に手にした1両は、出発前の1両より、ずっと軽かったはずです。

品川を出て、帰りは大西洋と喜望峰を回り、戻るまでにおよそ9か月。
9か月で財布の中身の目方が変わるとあらば、勘定方として聞き捨てなりませぬ。
まずは、いかほど軽うなったのか伺いましょう。
万延小判とは?1860年に出た江戸幕府最後の小判
万延小判は、1860年(万延元年)から発行された1両の金貨で、江戸時代を通じて10種あった小判の最後のものです。同じ年に出た大判・二分金・一分金・二朱金と合わせて、「万延金」と呼ばれます。
- 発行|1860年(万延元年)。東善寺は万延元年4月10日(1860年5月30日)ごろからの発行と紹介している
- 重さ|0.88匁(約3.3g)。前の安政小判は2.4匁だった(改訂新版 世界大百科事典)
- 金の割合|安政小判と同じ(同事典)。貨幣博物館は品位57%、金はおよそ2gとする
- 別名|小さいことから「姫小判」と呼ばれた(同事典)
- 鋳造|江戸の金座。勘定奉行の管轄にあった金貨の鋳造所で、1869年に造幣局ができて廃止された(デジタル大辞泉)
- 位置づけ|慶長小判から万延小判まで、江戸時代に発行された小判は10種(山川 日本史小辞典・旺文社日本史事典)
参考:万延金|コトバンク
参考:小栗忠順の通貨交渉|東善寺
「万延」は、安政7年3月18日(1860年4月8日)に改められた元号です。その半月前の3月3日には、大老井伊直弼が江戸城の桜田門外で襲われています。
元号が変わって2か月足らずのうちに、新しい小判が出たことになります。同じ年の秋、万延元年9月27日(1860年11月9日)に、小栗たち遣米使節は品川沖へ帰り着きました。
使節が出航したのは改元前の安政7年1月22日(1860年2月13日)なので、出発のときに持っていたのは万延小判ではありません。

出発のときと帰ってきたときで、元号も小判も変わっていたわけですね。

左様。出るときは安政、戻れば万延。大老は亡く、小判は姫になっておる。
9か月の旅で、これほど勝手の変わる国もそうはございますまい。
ところで貴殿、その姫小判、手に載せた重さはいかほどでござる。

3.3グラムです。いまの1円玉なら3枚ちょっとの重さです。

1円玉とやらは存じませぬが、3枚で釣り合うとは。
ずいぶん軽い1両でございますな。
天保小判・安政小判との違いは?金の割合はほぼ同じで、重さが約3分の1
万延小判は、金の割合を下げた小判ではありません。金の割合はほぼそのままで、重さを約3分の1にした小判です。直前の3種を並べると、違いがはっきりします。
| 小判 | 発行 | 重さ | 金の割合(品位) | 根拠 |
|---|---|---|---|---|
| 天保小判(保字小判) | 1837年(天保8年)から | 3匁(11.3g) | 1000分の567.8 | 精選版 日本国語大辞典 |
| 安政小判(正字小判) | 安政6年6月(1859年)から。3か月の鋳造のみ | 2.4匁(約9g) | 万延小判と同じ | 精選版 日本国語大辞典・改訂新版 世界大百科事典 |
| 万延小判(姫小判) | 1860年(万延元年)から | 0.88匁(約3.3g) | 安政小判と同じ。貨幣博物館は57% | 改訂新版 世界大百科事典・貨幣博物館 |
参考:天保小判|コトバンク
参考:安政小判|コトバンク
参考:万延金|コトバンク
品位は天保・安政・万延でほとんど動かず、重さだけが段階的に減りました。天保小判の11.3gから見ると、万延小判は3割ほどの重さしかありません。
重さが約3分の1になれば、1枚に含まれる金も約3分の1です。額面は同じ1両でも、金そのものの量は減りました。「金を混ぜ物で薄めた」のではなく「小さく作った」のです。
もっとも、小判は枚数で数える計数貨幣で、含まれる金の量で価値が決められていたわけではない、と貨幣博物館は説明しています。金の量と、1両という額面は別のものです。
参考:江戸時代の1両は今のいくら?―昔のお金の現在価値―|日本銀行金融研究所 貨幣博物館
小栗の菩提寺・東善寺の住職も、自著の記述を訂正しています。住職の村上泰賢氏は、『小栗上野介』(平凡社新書)にあった「品位の低い」という記述を誤りとし、「重量と形状を3分の一にした小型の」と2012年12月に訂正しました。
一方、同じ年の万延大判は、重さが44.1匁から30匁に減ったうえ、品位も67.7%から36.66%に下げられました(改訂新版 世界大百科事典)。小判と大判では、改鋳のやり方が違ったのです。

混ぜ物を増やしたのではなく、金の割合はそのままで小さくした。量を3分の1にした、ということですね。

3匁が0.88匁。割り算をすれば、およそ3割にございます。
中身の質を落とさず、量で値打ちを合わせる。混ぜ物で誤魔化すより、よほど筋の通ったやり方と存ずる。
ところで貴殿なら、目方と品位、どちらを削りますかな。

混ぜ物は見た目で分かりにくいので、私なら目方です。

いかにも。秤に載せれば誰にでも分かる。
それが小判の何よりの信用にございます。
万延小判はなぜ小さく作られた?開港で金が海外へ流れ出たから
万延小判が小さく作られたのは、1859年の開港のあと、日本の金貨が海外へ流れ出たからです。その原因は、日本と外国で金と銀の値打ちの比べ方(金銀比価)が大きく違っていたことにありました。
- 日米修好通商条約(1858年)で、外国の貨幣と日本の貨幣を、同じ種類どうし同じ重さで通用させると決めた(日本大百科全書)
- その結果、洋銀(メキシコ・ドル)1枚が一分銀3枚と交換され、国内では一分銀4枚で小判1両に引き換えられた(改訂新版 世界大百科事典)
- 開国時の日本の金銀比価は約1対5、世界は約1対15だった(百科事典マイペディア)
- 外国の商人は洋銀を持ち込んで日本の金貨に替え、海外へ持ち出した(改訂新版 世界大百科事典)
参考:日米修好通商条約|コトバンク
参考:一分銀|コトバンク
参考:金銀比価|コトバンク
洋銀4枚を一分銀12枚に替え、それを小判3両に替える。金を銀の約5倍としか見ない国で手に入れた金を、約15倍で見る国へ持ち出すわけです。
同じ重さの銀で、日本では海外のおよそ3倍の金が手に入った計算になります。これは筆者が事典の比価から単純化した計算で、実際の取引には手数料や相場の動きが加わります。

外国の商人からすれば、銀貨を持ってきて小判に替えるだけで、およそ3倍。抜け道というより、正面の大通りですね。

1ドルが一分銀3枚、一分銀4枚で1両。4ドルで3両でございます。
一分銀は目方以上の額面で通る貨幣だった、と見る者もおるそうな。そうであれば、それを目方で量り直されたのが躓きでございましょう。
条約の席に着いたのは井上殿と岩瀬殿。あの席の難しさを思えば、あとから来た私が言い立てるのは控えとうございます。
日本では、金を世界の水準の3分の1以下に評価していたことになります(日本大百科全書)。
事典はそろって、幕府が万延の改鋳で金銀比価を世界に近づけ、金貨の海外流出を止めたと説明しています。改訂新版 世界大百科事典は「阻止することに成功した」と書きます。
参考:万延金|コトバンク
流れ出た金の量で、本記事が確認できた数字は1つの系統だけです。東善寺が貨幣博物館の資料として紹介する、横浜港で約30万両、全体で約40〜50万両という数字で、元の資料までは確認できていません。
別の読み方もあります。東善寺は、日本は元禄のころから「補助通貨」を取り入れた先進的な国だったと書き、素材の値打ちだけでは決まらない貨幣の仕組みが元禄期の改鋳にさかのぼると説明しています。
1837年(天保8年)に創鋳された一分銀も、銀の重さではなく額面で通用する貨幣でした。
日本の銀が高かったのではなく、一分銀が銀の重さ以上の額面で通る貨幣だった。条約の「同じ重さで交換」は、その仕組みを無視していた、という読み方です。
小栗忠順はフィラデルフィアの造幣局で何をした?
小栗忠順は1860年6月、フィラデルフィアの造幣局で、小判とドル金貨をそれぞれ丸ごと溶かして分析するよう求めました。分析の結果、両金貨の品位の差は1割未満で、小判のほうがやや高いと分かりました。
ただし使節には通貨を交渉する権限がなく、話はそこで止まりました。
| 日付(西暦) | 和暦 | できごと |
|---|---|---|
| 1860年2月13日 | 安政7年1月22日 | 遣米使節が出航(小栗は目付) |
| 1860年4月8日 | 安政7年3月18日 | 万延に改元 |
| 1860年5月30日ごろ | 万延元年4月10日ごろ | 国内で万延小判・万延一分金の発行が始まる |
| 1860年6月13日 | 万延元年4月24日 | 使節がフィラデルフィア造幣局を訪れ、金貨の分析を申し入れる |
| 1860年6月14日 | ― | 分析に立ち会う。小栗が全量での分析を求める |
| 1860年6月16日 | ― | ニューヨーク・タイムズが、最後まで立ち会った使節の忍耐強さを伝える |
| 1860年11月9日 | 万延元年9月27日 | 品川沖に帰着 |
参考:小栗忠順の通貨交渉|東善寺
参考:遣米使節の行程・日本人初の世界一周|東善寺
東善寺によれば、アメリカ側は貨幣の小片で分析しようとしました。小栗はそれでは足りないとして、小判1枚とドル金貨1枚をそれぞれ丸ごと溶かして比べるよう求め、アメリカ側も全量分析に同意しました。
結果は、ドル金貨のほうが銀がやや少なく、差は1割未満、小判の品位がやや高いというものでした。小栗は、ほぼ同じ価値の小判をアメリカ人が3分の1の値で手に入れるのは不公平だと主張した、と東善寺は紹介しています。
使節は幕府から交渉の権限を与えられておらず、話はここで終わりました。

削った小片ではなく、丸ごと溶かせ。昼食まで現場で取って、最後まで見張っていたそうですね。

小判1枚とドル金貨1枚。比べる数が2つなら、2つとも丸ごとでなければ勘定になりませぬ。
端を削って量ったところで、中の混ぜ具合までは分かりませぬゆえ。
いま問われれば、あの日いちばん欲しかったのは数字そのものより、相手の口から出た『ほぼ同じ』の一言であった、と答えとうございます。
東善寺は、「小判がドル金貨の3倍の価値だと認めさせた」「通貨交渉で問題を解決した」という語られ方を、いずれも通説の誤りとしています。認めさせたのは、品位が「ほぼ同等」だという点で、交渉は直前で止まったのです。
小栗が造幣局で小判の値打ちを確かめていたとき、江戸ではすでに、それまでの3分の1ほどの重さの小判が出始めていました。
改鋳の話を小栗が知っていたかどうかについて、東善寺は1つの話を紹介しています。のちに三井の大番頭となる三野村利左衛門が、渡米前の小栗からこの改鋳の情報を聞き、前もって天保小判を買い集めて利益をあげた、というものです。
ただし、この話の典拠は示されていません。三野村利左衛門の記事でも、伝記に伝わる逸話として扱いました。

三野村さんが、渡米前のあなたから改鋳の話を聞いて、天保小判を買い集めたという話が伝わっています。

さてさて、三野村の商いの才を、私の口の軽さのせいにされては困りまするな。
帳面が残っておるなら、それを見てくだされ。残っておらぬなら、私が何と申しても話が一つ増えるだけ。
確かなのは、私が造幣局で量らせた小判1枚とドル金貨1枚、それだけでございます。
この分析の記録は、いま実物で見られます。東京・日本橋の貨幣博物館で、2026年10月30日から2027年12月6日まで特集展示が開かれています。題は「小栗忠順にまつわるお金の話―米国フィラデルフィア造幣局を訪れたサムライ―」です。
展示されるのは、造幣局での分析結果の記録と、同じ種類の金銀貨です。同館の展示概要は、通貨交換比率の適正さを調べて米国側と意見交換することが、使節団の重要任務の一つだったと書いています。
渡米と帰国の日付、遣米使節の顔ぶれは、小栗忠順の記事で紹介しています。
小栗の渡米から、外国奉行・勘定奉行としての財政の仕事までを1冊でたどるなら、中公新書の評伝があります。
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この作品のポイント
- 日米修好通商条約の批准書交換のための渡米から、外国奉行・勘定奉行としての行財政改革まで
- 陸海軍の洋式化と横須賀製鉄所の創設(目次に「横須賀製鉄所のスチームハンマー」「横須賀製鉄所のドック」の節があります)
- 戊辰戦争で抗戦を唱えて退けられ、上州で捕らえられて斬首されるまで
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万延小判で物価はどうなった?1860年以降の急騰
1860年(万延元年)以降、米価は急騰しました。改訂新版 世界大百科事典の「米価」の項は、その急騰を開国にともなう貨幣相場の変更によるものと説明しています。
同じ項は、文政の改鋳(1819年)以降の米価の上昇について、主な原因を天保・安政・万延と続いた貨幣の増鋳に置いています。1860年の急騰は、その流れの最後に来たものでした。
参考:米価|コトバンク
物価を押し上げた動きは、改鋳のほかにもう1つありました。開港による貿易です。
- 開港(安政6年6月、1859年7月)で、生糸などの輸出品が産地から横浜へ直接送られるようになり、江戸問屋の流通の仕組みが崩れた(日本大百科全書・旺文社日本史事典)
- 輸出品を中心に諸物価が暴騰し、幕府は万延元年閏3月19日(1860年5月9日)、雑穀・水油・蝋・呉服・生糸の5品を江戸へ回すよう命じた(五品江戸廻送令。日本大百科全書)
- 万延の改鋳で、小判の量目は2.4匁から0.88匁になった(改訂新版 世界大百科事典)。1両に含まれる金も、筆者の計算で約3分の1
2つの事典は、米価の急騰と、輸出品を中心とした物価の暴騰を、それぞれ説明しています。米価の急騰について「米価」の項が挙げる理由は、貨幣相場の変更です。
輸出品を中心とした物価の暴騰は、それより早く、万延小判が出る前の閏3月に、幕府が廻送令を出すほどになっていました。廻送令は在郷の商人や諸外国の反対を受けて、効果があがらなかったと旺文社日本史事典は書きます。
2027年の大河ドラマ『逆賊の幕臣』の紹介文(<物語>)にも、この時期の世相が出てきます。NHKの発表として、美術展ナビが掲載したものです。
更に西郷隆盛ら薩長の志士たちや島津家など大大名が幕政に干渉し、インフレや格差に苦しむ民衆は暴動を起こす。
出典:美術展ナビ(読売新聞社)「2027年の大河ドラマは『逆賊の幕臣』 主人公は天才肌の幕臣、小栗忠順 松坂桃李さん主演」に掲載された<物語>
紹介文はインフレの原因までは書いていません。ドラマで万延小判が描かれるかどうかは、2026年10月の時点で、本記事が確認した範囲では発表を見つけられませんでした。紹介文の読み方は、あらすじの記事でまとめています。

小判を小さくしたツケを払ったのは、町の人たちではないですか。

左様、しかしながら。流出を止めねば、国の金そのものが減っておりました。
止めずに物の値も守る手があったのなら、ぜひ伺いたい。聞けば私とて、帳面を抱えて駆けつけまする。
町の者が困ったこと、それを否むつもりはございませぬ。
万延小判の価値は今のお金でいくら?
日本銀行金融研究所の貨幣博物館は、江戸時代の1両が今のいくらかという問いに「簡単には言えません」と答えています。そのうえで示している目安が、次の表の数字です。
| 項目 | 内容 | 根拠 |
|---|---|---|
| 1枚に含まれる金 | およそ2g(重さ3.3g、品位57%) | 貨幣博物館 |
| 1両の目安(18世紀) | 米1石(約150kg)=1両として、2024年の米価(5kg約2,700円)で計算すると約8万1千円 | 貨幣博物館 |
| 1両の目安(幕末) | 1867年(慶応3年)ごろの1両で買えた米は約15〜30kg。2016年末の米価で計算すると約4千〜1万円 | 貨幣博物館(2018年1月修正版の資料) |
| 幕末の相場 | 公定では1両=銭6,500文(1842年〜)だが、幕末の実勢相場は1両が8,000文を上回った | 貨幣博物館 |
| 慶長小判との比較 | 重さは約6分の1、金の量は約9割減 | 貨幣博物館 常設展示図録 |
参考:江戸時代の1両は今のいくら?―昔のお金の現在価値―|日本銀行金融研究所 貨幣博物館
参考:江戸時代の1両は今のいくら?(2018年1月修正版)|日本銀行金融研究所 貨幣博物館
参考:金貨の改鋳(常設展示図録)|日本銀行金融研究所 貨幣博物館
いまの同館のページは2024年の米価で計算し直していて、円で示すのは18世紀の目安だけです。幕末の約4千〜1万円は、2018年版の資料に載っている数字です。
18世紀の1両で買えた米が約150kg、幕末は約15〜30kg。同じ1両で買える米が大きく減っています。幕末は物価が大きく動いたため、18世紀の目安はそのまま当てはまりません。
古銭としての買取価格は、また別の話です。品物の状態や種類で大きく変わります。ここで見ているのは、発行当時の1両の値打ちです。
徳川埋蔵金の記事でも、同じ貨幣博物館の物差しを使って、1両を今の円に直す難しさを確かめています。

18世紀なら約8万円、幕末なら約4千〜1万円。同じ1両なのに、ずいぶん違います。

米の値で量れば、米の値の分だけ揺れまする。同じ1両で買える米が減れば、円に直した額も減りましょう。
一つの数字にそろえぬのが、帳面の筋にございます。
それにしても、米の値で小判を量り、その米をまた円で量る。勘定が二段になれば、揺れも二段になりましょうな。
よくある質問(FAQ)
万延小判はいつ発行されましたか?
1860年(万延元年)です。東善寺は、万延元年4月10日(1860年5月30日)ごろからの発行と紹介しています。同じ年に大判・二分金・一分金・二朱金も発行され、合わせて「万延金」と呼ばれます。
万延小判と天保小判の違いは何ですか?
金の割合はほぼ同じで、重さが違います。天保小判は3匁(11.3g)、万延小判は0.88匁(約3.3g)です。万延小判は金の割合を下げたのではなく、重さを約3分の1に小さくした小判です。
万延小判を作った人は誰ですか?
鋳造したのは、勘定奉行の管轄にあった江戸の金座です。改鋳を誰が立案したのかは、今回確かめた事典には書かれていませんでした。発行が始まったころ、小栗忠順は遣米使節としてアメリカにいました。
万延小判は誰の時代の小判ですか?
14代将軍・徳川家茂の時代です。家茂は井伊直弼に推されて将軍となり、1866年に大坂城で病死しました(デジタル大辞泉)。
万延小判で金の流出は止まりましたか?
止まりました。改訂新版 世界大百科事典は、万延の改鋳で金貨の海外流出を阻止することに成功した、と書いています。流出量は、東善寺が貨幣博物館の資料として全体で約40〜50万両と紹介しています。
小栗忠順が小判の価値をドル金貨の3倍と認めさせた、というのは本当ですか?
東善寺は、この語られ方を誤りとしています。フィラデルフィア造幣局の分析で小栗が認めさせたのは、両金貨の品位が「ほぼ同等」だという結果で、交換比率の交渉には進みませんでした。使節には交渉の権限がありませんでした。
万延小判はなぜ「姫小判」と呼ばれるのですか?
小さいからです。重さは0.88匁(約3.3g)で、前の安政小判の2.4匁と比べてずっと小型になったため、姫小判と呼ばれました(改訂新版 世界大百科事典)。
インタビュー後記 小さくした小判と、大きく語られた交渉
小栗の通貨交渉が、日米の通貨の問題を解決した。東善寺が「通説の誤り」に挙げている説明の1つです。
日付を並べると、順番は逆でした。流出を止めたのは江戸で決まった改鋳で、造幣局の分析はその2週間後です。しかも分析で示されたのは品位が「ほぼ同等」ということで、交渉にも進んでいません。
それでも私は、あの分析を小さな出来事だとは思いません。相手の造幣局で、相手の職員に、丸ごと溶かして量らせた。その1点で、小栗という人の仕事のやり方がよく分かると考えています。
万延小判のほうは、小さくすることで金の流出を止めました。その一方で、同じ時期には貨幣相場の変化や開港後の貿易の広がりによって、米価をはじめとする物価が大きく動いていました。
3.3gの金貨の裏に、条約の文面と、海の向こうの造幣局と、江戸の米の値段がくっついています。
私はこの小判を、幕末でいちばん小さな史料だと思っています。
参考資料
- コトバンク「万延金」(精選版 日本国語大辞典・改訂新版 世界大百科事典)※万延金の範囲、万延の改鋳で金銀比価を改め金貨流出を阻止したこと、万延小判の量目(2.4匁から0.88匁)と品位が安政小判と同一であること、姫小判の呼び名、万延大判の量目・品位の根拠
- コトバンク「天保小判」(精選版 日本国語大辞典)※1837年の発行、重量3匁(11.3g)、品位1000分の567.8の根拠
- コトバンク「安政小判」(精選版 日本国語大辞典)※1859年6月の発行、3か月の鋳造、1874年からの新貨との交換回収の根拠
- コトバンク「小判」(山川 日本史小辞典・旺文社日本史事典ほか)※慶長小判から万延小判まで10種が発行されたことの根拠
- コトバンク「金座」(デジタル大辞泉ほか)※勘定奉行の管轄、1869年の造幣局設置に伴う廃止の根拠
- コトバンク「一分銀」(改訂新版 世界大百科事典ほか)※1837年(天保8年)12月の創鋳、同種同量方式での交換、洋銀1枚と一分銀3枚の交換、一分銀4枚で小判1両、金貨の流出の根拠
- コトバンク「金銀比価」(日本大百科全書・百科事典マイペディア)※開国時の日本の比価約1対5と世界の約1対15、金を世界の水準の3分の1以下に評価していたことの根拠
- コトバンク「日米修好通商条約」(日本大百科全書ほか)※内外貨幣の同種同量通用の規定の根拠
- コトバンク「万延元年遣米使節」(日本大百科全書ほか)※品川沖への帰着日(1860年11月9日、和暦9月27日)の根拠
- コトバンク「米価」(改訂新版 世界大百科事典)※文政改鋳以降の米価上昇の主因を貨幣増鋳とし、1860年以降の急騰を開国にともなう貨幣相場の変更によるものとする記述の根拠
- コトバンク「五品江戸廻送令」(日本大百科全書・旺文社日本史事典)※開港後の流通の変化と物価の暴騰、万延元年閏3月19日(1860年)の発令、効果があがらなかったことの根拠
- 日本銀行金融研究所 貨幣博物館「江戸時代の1両は今のいくら?―昔のお金の現在価値―」※「簡単には言えません」、18世紀の1両の目安(米価換算で約8万1千円)、三貨の公定相場と幕末の実勢相場、万延小判の重さ・品位・金の量、小判が金の含有量で価値を決められていたわけではないことの根拠
- 日本銀行金融研究所 貨幣博物館「江戸時代の1両は今のいくら?」(PDF、2018年1月修正版)※各時期に1両で買えた米の量(18世紀約150kg、幕末の1867年頃約15〜30kg)と、2016年末の米価による幕末の1両の目安(約4千〜1万円)の根拠
- 日本銀行金融研究所 貨幣博物館 常設展示図録「金貨の改鋳」※慶長小判と万延小判で重さが約6分の1、金の量が約9割減ったことの根拠
- 日本銀行金融研究所 貨幣博物館「展覧会情報」※特集展示「小栗忠順にまつわるお金の話―米国フィラデルフィア造幣局を訪れたサムライ―」の会期(2026年10月30日〜2027年12月6日)、展示品、使節団の任務についての展示概要の根拠
- 東善寺「小栗忠順の通貨交渉」※フィラデルフィア造幣局での分析の日付と経緯、全量分析を求めたこと、分析の結果、交渉権限がなかったこと、万延小判の発行日と重さ、村上泰賢『小栗上野介』(平凡社新書)の「品位の低い」を2012年12月に訂正したこと、流出額の紹介、三野村利左衛門が渡米前の小栗から改鋳の情報を聞いたとする話の根拠
- 東善寺「幕末史 通説の誤り」※「小判がドル金貨の3倍の価値と認めさせた」「通貨交渉で日米通貨の問題を解決した」を誤りとすること、元禄期から補助通貨を取り入れていたとする見方の根拠
- 東善寺「遣米使節の行程・日本人初の世界一周」※使節の行程とフィラデルフィア造幣局の訪問日の根拠
- コトバンク「徳川家茂」(デジタル大辞泉ほか)※第14代将軍で、井伊直弼に推されて将軍となり、1866年に大坂城で病死したことの根拠
- 美術展ナビ(読売新聞社)「2027年の大河ドラマは『逆賊の幕臣』 主人公は天才肌の幕臣、小栗忠順 松坂桃李さん主演」※<物語>の文面の根拠







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