「生麦事件」と検索窓に打つと、候補の上のほうに「どっちが悪い」と出てきます。それを見て、この記事を書こうと思いました。
答えを出したいからではありません。事典を並べると、きっかけを「行列を横切った」と書くものも、「行列に巻き込まれた」と書くものもあります。書き方が違うのに、答えだけ先に求められている。
この記事は、誰が悪いかを裁きません。事典と横浜市・鹿児島県の資料を日付ごとに並べて、何が起きて、なぜ翌年に戦争になり、何が変わったのかを確かめます。
この記事の結論
生麦事件は、文久2年8月21日(1862年9月14日)、武蔵国生麦村(現・横浜市鶴見区)で、江戸から京都へ戻る島津久光の行列と行き会ったイギリス人4人を、薩摩藩士が殺傷した出来事です。
なぜ起きたのかについて、資料の説明はおおむね共通しています。行列に入り込んだ4人を、薩摩藩士が無礼とみて斬りかかりました。4人が作法を知らなかった事情に触れる資料もあります。
戦争になったのは、幕府が償金を払い、薩摩藩が要求を拒んだからです。翌年、イギリス艦隊7隻が鹿児島湾で薩摩藩と交戦し(薩英戦争)、勝敗は決しないまま、10月に横浜で和議が結ばれました。
- 4人
行き会ったイギリス人。死亡1・負傷2 - 10万ポンド
幕府がイギリスに支払った償金 - 7隻
鹿児島湾に来たイギリス艦隊
この記事では、事件の基本事項から、「なぜ」をめぐる資料の書き方、イギリスの要求と幕府の対応、薩英戦争の経過と結果、そのあと何が変わったのか、現場のいま、年表まで、順にたどります。
語り手として、島津久光AI(島津久光をモデルにしたAI)と小栗忠順AI(小栗忠順をモデルにしたAI)に登場してもらいます。行列の主と、当時の幕府で勘定奉行を務めた幕臣です。
※以下のインタビュー部分は、公開されている史料をもとに二人の人物像を再現した創作です。実際の発言ではありません。久光には、事件の場面で何を見たか、何を命じたかを語らせません。小栗忠順は1868年5月27日(慶応4年閏4月6日)に亡くなっているため、それ以降の出来事は語りません。
出典の確かめ方と、公開前に行っているチェックは編集方針にまとめています。

久光公、今日は生麦事件についてうかがいます。あなたの行列で、人が命を落としました。その場で何を見たか、何を命じたかはうかがいません。まず、記録が伝える範囲で、あの日あなたはどこへ向かっていたのかを教えてください

文久2年の8月21日、わしは江戸を発って京へ戻る途中じゃった。勅使の大原重徳どのを奉じて江戸へ下り、幕府の政を改めさせた帰りでごわす。
行列が生麦の村にかかったとき、騎馬の異人4人と行き会うた。供頭の奈良原喜左衛門が最初に斬りつけた、とおはんらの世の事典は記すそうじゃ。
行列の先で何があったかを、わしの口で言い切ることはできん。じゃっどん、わしの行列じゃった。そいは動かん。
生麦事件とは?いつ・どこで・誰が・誰を 基本事項を表で確認
先に、この章で確かめたことを書きます。生麦事件は、文久2年8月21日(1862年9月14日)、東海道の生麦村で、島津久光の行列と行き会った騎馬のイギリス人4人を、薩摩藩士が殺傷した出来事です。
「いつ・どこで・誰が・誰を」を、事典と横浜市の資料で表にまとめます。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 読み方 | なまむぎじけん |
| いつ(和暦) | 文久2年8月21日(日曜日) |
| いつ(西暦) | 1862年9月14日 |
| どこで | 武蔵国橘樹郡生麦村。現在の横浜市鶴見区生麦。東海道の川崎宿と神奈川宿の間にある間宿(あいのしゅく)で、東京湾に面した漁村 |
| 誰の行列か | 薩摩藩主島津忠義の父・島津久光。江戸で幕政改革を進めたあと、京都へ戻る途中 |
| 誰が | 行列の薩摩藩士。事典は、供頭(ともがしら)の奈良原喜左衛門が最初に斬りつけたと記す |
| 誰を | 騎馬のイギリス人4人。上海在住の商人リチャードソン、横浜在留の商人マーシャル、横浜の商会に勤めるクラーク、香港の商人の妻ボラデール夫人 |
| 結果 | リチャードソンが死亡。マーシャルとクラークが負傷。ボラデール夫人は帽子と前髪の一部を斬られ、居留地へ逃げ帰った |
| 何時代か | 江戸時代の末(幕末)。横浜が開港した1859年から3年後 |
日付は、改訂新版 世界大百科事典と山川 日本史小辞典が「1862年9月14日(文久2年8月21日)」と併記しています。アジア歴史資料センターの年表も、同じ換算です。
死傷の数は、死亡1人・負傷2人です。世界大百科事典は「リチャードソンはこの襲撃で殺害され、他の2名も負傷」、日本大百科全書は「リチャードソンは絶命、2人が重傷」と記します。ネット上には「3人が死亡」と書く解説もありますが、事典の記述とは合いません。
参考:生麦事件|コトバンク
4人は、川崎大師の見物に馬で向かう途中でした。横浜市鶴見図書館は「川崎大師へ馬で向かっていた」、横浜市鶴見区は「川崎大師見物へ行くべく」と書いています。
参考:生麦事件|横浜市鶴見図書館
参考:第1回:幕末の動乱期の外国人殺傷事件・生麦事件(その2)|横浜市鶴見区
リチャードソンについて、鶴見区の解説は、馬で神奈川方面へ約600メートル走ってから落馬し、松原で命を落としたと記しています。その場所に、のちに碑が建てられます。
国立国会図書館「近代日本人の肖像」は、久光の生涯をこう要約しています。
江戸へ下り幕政改革を推進。帰途、生麦事件を起こし、薩英戦争の引金となる。
出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」島津久光
「引金」という言葉のとおり、この事件は翌年の薩英戦争につながります。その流れを、次の章から順に追います。

表では、あなたを『行列の主』と書きました。斬りつけたのは供頭の奈良原喜左衛門だと事典は記します。あなたの口で言い切れるのは、どこまでですか

わしの口で言い切れるのは、あの行列がわしの行列であったこと、そして異人が一人、命を落としたこと。そこまででごわす。
誰がどう斬ったかは、おはんらの世の事典が記すとおりじゃろう。奈良原が最初に斬りつけた、と書いてあると聞いちょる。
それより先を、わしの口で足せば、帳面にない話になる。そいは、おはんらの世の帳面に譲るこっじゃ。
生麦事件はなぜ起きた?「行列を横切った」から「巻き込まれた」まで資料の書き方を並べる
この章の結論を先に書きます。資料は、行列への接近や進入を無礼と受け取った薩摩藩士が斬りかかった、と説明しています。
世界大百科事典と横浜市鶴見区の解説は、4人が「下に下に」の意味も作法も分からないまま、狭い道で進退に窮していた事情にも触れています。
まず、事典と公的機関が、事件の「きっかけ」をどう書いているかを、帰属をつけて並べます。
- デジタル大辞泉|「騎馬のまま行列を横切った英国人4人を殺傷した事件」
- 精選版 日本国語大辞典|「騎馬のイギリス人四名が行列を乱したとして、同藩士に殺傷された事件」
- 改訂新版 世界大百科事典|「〈下に下に〉の意味もわからずせまい道路で進退きわまっている彼らに,行列に無礼を働いたとして供頭の奈良原喜左衛門が突然斬りつけ」
- 山川 日本史小辞典|「島津久光の行列に遭遇、鹿児島藩士に殺傷された事件」(理由を書かない)
- 鹿児島県「生麦事件」|「騎乗のまま行列の中に入り込みました。この行為は行列を乱すものとして、薩摩藩士の激しい怒りをかい」
- 横浜市鶴見区「生麦事件(その2)」|大名行列で「土下座するという日本の習慣を知らず、言葉も分からないまま右往左往しているうちに行列に巻き込まれ」、リチャードソンの馬首が久光の駕籠に向かったため、供頭の奈良原に斬りつけられた
参考:生麦事件|コトバンク
参考:生麦事件|鹿児島県
参考:第1回:幕末の動乱期の外国人殺傷事件・生麦事件(その2)|横浜市鶴見区
並べてみると、「横切った」「乱した」「巻き込まれた」は、同じ場面を別の言葉で書いたものです。行列に入り込んだ4人の行動と、それを無礼とみた藩士の斬りつけ、という流れは各資料で共通しています。
「どっちが悪い」を考えるなら、行列で無礼と受け取られた行動と、薩摩藩士による殺傷は、分けて考える必要があります。資料の言葉の違いだけで、どちらか一方の責任を決めることはできません。
次に、なぜ久光の行列が江戸にいたのかを確かめます。久光は藩主ではなく、藩主島津忠義の父です。1858年に兄の斉彬が亡くなり、長子の忠義が藩主になると、「国父」として実権を握りました。
文久2年(1862年)3月、久光は藩兵を率いて鹿児島を発ち、京都へ上ります。4月23日には伏見の寺田屋で藩内の急進派を鎮圧します(寺田屋事件)。その後、勅使大原重徳を奉じて江戸へ下ります。
山川 日本史小辞典は、久光と勅使が「1862年(文久2)夏」に江戸へ到着したと記します。一橋慶喜を将軍後見職に、松平慶永を政事総裁職に就け、参勤交代を緩めた、いわゆる文久の改革です。
日本大百科全書は、事件の直前の久光をこう書いています。
幕政改革を実現させた島津久光は江戸をたち帰洛の途にあった
出典:コトバンク「生麦事件」(日本大百科全書)
生麦村で4人と行き会ったのは、その帰り道でした。
久光と、その後の薩摩藩を動かした大久保利通については、別の記事があります。
この事件を子ども向けに聞くなら、Audibleに堀口茉純さんの解説があります。サブタイトルは「薩摩藩と生麦事件」で、53分の回です。
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資料は、4人が作法を知らないまま行列に入り込み、供頭がそれを無礼とみて斬りつけた、と説明します。当時の大名行列の作法は、どういうものだったのでしょうか

わしの世では、大名の行列の前を騎馬で通ることは、作法に外れておった。
異人の4人は、その作法も『下に下に』の意味も知らなんだ、とおはんらの世の事典は記すそうじゃな。
作法を当たり前とする行列と、それを知らぬ者とが、狭い道で行き会うた。わしの世の作法と、おはんらの世の物差しは、同じではなかごわんど。
イギリスの要求と幕府の対応 10万ポンドを攘夷期限の前日に支払う

小栗さん、事典はあなたが1862年に勘定奉行勝手方に就いたと記します。生麦事件のあと、イギリスは幕府に償金を求めました。あなたが何をしたかは、事典に書かれていません。記録が伝える範囲で、幕府の対応を話してください

文久2年に勘定奉行勝手方を命ぜられた、とそなたらの世の事典は記すそうでございますな。生麦のことで私が何をしたかは、その事典には見えぬとか。
私の評伝の目次に『生麦事件の処置に当たる』という節があると聞いております。何をしたかは、そちらを確かめられよ。私の口で足すことはいたしませぬ。
幕府が申せることは、翌年の2月にイギリスの代理公使が償金を求め、5月9日に幕府がそれを支払った、という日付までにて候。
この章で確かめたことです。イギリス代理公使ニールは、文久3年(1863年)2月に、幕府へ正式の謝罪と償金10万ポンド、薩摩藩へ償金2万5000ポンドと犯人の処罰を求めました。幕府は5月9日に支払い、薩摩藩は拒みました。
要求と対応を、表で並べます。
| 相手 | イギリスの要求 | 対応 |
|---|---|---|
| 幕府 | 正式の謝罪状と償金10万ポンド | 文久3年5月9日(1863年6月24日)、老中格の小笠原長行が独断で支払う |
| 薩摩藩 | 償金2万5000ポンドと犯人の処罰(世界大百科事典と鹿児島県は「死刑」「処刑」) | 拒否。解決は薩英戦争後に持ち越し |
参考:生麦事件|コトバンク
参考:生麦事件|鹿児島県
要求の中身は、日本大百科全書・世界大百科事典・鹿児島県「生麦事件」で一致しています。要求の時期は、日本大百科全書が「翌年2月」と記します。
幕府が支払ったのは、攘夷実行の期日の前日でした。世界大百科事典「小笠原長行」の項は、文久3年5月9日の老中格・小笠原長行の判断をこう書いています。
武力衝突を避けるために、独断でイギリス代理公使ニールに償金を支払った
出典:コトバンク「小笠原長行」(改訂新版 世界大百科事典)
その5月10日は、幕府が朝廷に約束した攘夷の期日です。山川 日本史小辞典によれば、幕府は4月20日にこの日付を奏聞しました。西暦では1863年6月25日にあたり、同じ日に長州藩が下関で外国船を砲撃しています。
小笠原はその後、同じ月の末に兵を率いて軍艦で大坂へ赴きましたが、朝命で入京を止められ、6月に老中格を罷免された、と世界大百科事典は記します。
支払額には、資料で書き方の違いがあります。世界大百科事典は「10万ポンド(約40万ドル)」、山川 日本史小辞典は「11万ポンド」と記します。1万ポンドの差は、前年の第2次東禅寺事件の償金です。
第2次東禅寺事件は、1862年6月26日(文久2年5月29日)にイギリス公使館で水兵2人が殺害された事件で、償金1万ポンド(約4万ドル)が翌年に支払われました。「44万ドル」と書く解説は、この分を合わせた11万ポンドの側です。
参考:東禅寺事件|コトバンク
小栗の生涯と、横須賀製鉄所などの功績は、人物の記事でたどれます。
小栗忠順がこの賠償問題でどう動いたかは、コトバンクの各事典に書かれていません。2026年9月に出た塚越俊志氏の評伝(中公新書)には、第四章に「生麦事件の処置に当たる」の節があります。本記事は本文を確認していないため、中身は書きません。
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塚越俊志『小栗上野介 「逆賊」とされた開明派幕臣』(中公新書)
作品紹介によると、渡米で西洋の知識を得た幕臣が、海軍の整備や横須賀製鉄所など近代化の要職を担い、戊辰戦争のさなかに処刑されるまでをたどる評伝です。目次の第四章に「生麦事件の処置に当たる」の節があります。
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幕府は攘夷の期日の前日に償金を払い、薩摩藩は拒みました。同じ要求に、幕府と薩摩で答えが分かれた。その事実を、記録の範囲でどう言い表しますか

幕府は払い、薩摩は払わなんだ。日付で申せば、幕府は文久3年5月9日、薩摩は同じ年の10月の和議まで持ち越し。そなたらの世の事典が記すのは、そこまででございます。
老中格の小笠原どのが独断で払った。事典は、武力衝突を避けるための支払いと説明しておるそうな。小笠原どのの胸の内までは、ここでは申せませぬ。
一つの要求に二つの答えがあった。幕府と薩摩は、同じ国のなかで別の立場におった。記録の範囲では、そう言い表しておきましょう。
薩英戦争はなぜ起きた?7隻の艦隊と鹿児島湾の交戦を日付で確かめる
この章で確かめたことです。薩摩藩が要求を拒んだため、文久3年6月にイギリス艦隊7隻が鹿児島湾に入り、交渉が成立しないまま、7月2日(1863年8月15日)に交戦が始まりました。生麦事件から、およそ11か月後です。
艦隊の到着から退去までを、日付で表にします。
| 和暦(文久3年) | 西暦(1863年) | 出来事 |
|---|---|---|
| 6月 | 1863年 | 薩摩藩は要求を拒み、藩主忠義が臨んで鹿児島湾内で模擬戦を行う(黎明館) |
| 6月27日 | 1863年 | 旗艦ユーリアラス号を含むイギリス艦隊7隻が、谷山の平川沖に錨を下ろす(黎明館・日本大百科全書・山川) |
| 6月28日 | 1863年 | 艦隊が前の浜に到着(黎明館・世界大百科事典・ブリタニカ)。薩摩藩との交渉は成立せず |
| 7月2日 | 8月15日 | イギリス艦隊が薩摩の藩船3隻を捕獲。薩摩の各台場が砲撃を始め、艦隊も応じる。荒天のなかで交戦 |
| 7月3日 | 1863年 | 小規模の交戦 |
| 7月4日 | 1863年 | イギリス艦隊が退去(日本大百科全書) |
艦隊の司令官はキューパー(クーパー)提督で、精選版 日本国語大辞典はイギリスの「東インド シナ艦隊」と記します。鹿児島県歴史・美術センター黎明館は、クーパー提督の日誌を常設展示の解説で紹介しています。
到着日として27日と28日の2つが見えますが、別々の出来事です。黎明館は、27日に谷山の平川沖に錨を下ろし、28日に前の浜に到着したと、2つの展示解説で書き分けています。
事典はどちらか一方の日付だけを記しているため、本記事は両方を並べました。
参考:クーパー提督薩英戦争日誌|鹿児島県歴史・美術センター黎明館
参考:薩英戦争関係諸達|鹿児島県歴史・美術センター黎明館
交戦の始まりについて、世界大百科事典と日本大百科全書は「7月2日藩船3隻を捕獲後交戦」と記します。黎明館の解説も、艦隊が藩船3隻を捕獲したのを受けて、薩摩の各台場が砲撃を開始したと書いています。
7月2日を西暦に換算すると1863年8月15日です。アジア歴史資料センターの年表が「1863年8月15日 文久3年7月2日 薩英戦争が起こる」と併記しています。生麦事件の1862年9月14日から、11か月後にあたります。
参考:インターネット特別展「公文書にみる明治日本のアジア関与」年表|アジア歴史資料センター
鹿児島県「薩英戦争」は、イギリス側の兵器と攻撃の対象をこう書いています。
イギリス海軍の開発されたばかりのアームストロング砲で,鹿児島城下の砲台や集成館などを攻撃し,ことごとく破壊しました。
出典:鹿児島県「薩英戦争」
集成館は、久光の兄斉彬が興した工場群です。
退去の日は、日本大百科全書が「4日にイギリス艦隊は退去」と書きます。黎明館の日誌の解説は、7月3日に戦死者を水葬にして退却したと要約しています。3日に小規模の交戦があり、4日に退去した、という日本大百科全書の順で本記事は書きます。

艦隊は6月27日に平川沖に錨を下ろし、7月2日に藩船3隻を捕獲してから交戦になった、と記録は伝えます。イギリスをどう思ったかはうかがいません。交渉から交戦までの流れを、記録の範囲で話してください

6月の末に、異国の船7隻が錦江湾に入ってきた。談判はあったが、まとまらなんだ、と黎明館の解説は記すそうじゃ。
7月2日、向こうが藩の船を3隻取った。台場が砲を撃ち、向こうも撃ち返した。荒れた海の上での撃ち合いじゃった、と事典は書いちょる。
なぜ談判がまとまらなんだかを、わしの口で語れば帳面にない話になる。日付と順は、いま申したとおりでごわす。
薩英戦争の結果 「どっちが勝った」に事典はどう答えるか
この章の結論です。勝敗は決しなかった、と事典は記します。イギリス側は戦死13人・負傷50人、薩摩側は戦死5人・負傷十数人で、鹿児島の城下町は1割を焼失しました。10月5日、横浜で和議が結ばれます。
損害の数字を、資料の帰属をつけて並べます。
- イギリス側|戦死13名・負傷50名(世界大百科事典・日本大百科全書)。黎明館は「戦死者13名と負傷者50名余り」、山川は「60余人が死傷」。旗艦の艦長も戦死した
- 薩摩側|戦死5名・負傷十数名(世界大百科事典・日本大百科全書)
- 物的損害|集成館・鋳銭所を含む城下町の1割を焼失(同上)。尚古集成館は「斉彬期の工場群は灰塵に帰した」と記す
- 勝敗の書き方|ブリタニカ「勝敗不明のまま退去」、旺文社日本史事典「勝敗は決しなかった」、デジタル大辞泉「両軍ともに大きな損害」、鹿児島県「互角に戦いました」
参考:薩英戦争|コトバンク
参考:クーパー提督薩英戦争日誌|鹿児島県歴史・美術センター黎明館
参考:尚古集成館について|島津家歴史博物館 尚古集成館
双方に損害があり、事典は「勝敗は決しなかった」と記しています。戦死者はイギリス側のほうが多く、城下の焼失は薩摩側の損害でした。「薩摩が勝った」「イギリスが勝った」のどちらも、本記事は書きません。
死傷者の数は、世界大百科事典と日本大百科全書で一致しています。山川 日本史小辞典の「60余人が死傷」は、13人と50人を合わせた数に近い書き方です。
和議は、文久3年10月5日に横浜で結ばれました。日本大百科全書は、9月28日から3回の談判を経たと記します。精選版 日本国語大辞典は西暦で「同年11月、横浜で和議成立」と書いています。
和議の中身は、資料が書く範囲で3つです。薩摩藩は償金2万5000ポンドを支払うこと、イギリスが軍艦の購入を斡旋すること、犯人の処罰です。
- 償金2万5000ポンド|山川は「幕府から借用して支払い」、日本大百科全書は「幕府の立替え払い」、鶴見区は「海岸防御」の名目で幕府から借り受けたと書く。本記事は「幕府が用立てた」とまとめる
- 軍艦の購入|イギリスによる軍艦購入の斡旋が条件に付いた(鶴見区)
- 犯人の処罰|鶴見区は、期限を定めず逮捕次第処刑するということで「うやむやのまま処理」されたと書く
参考:第1回:幕末の動乱期の外国人殺傷事件・生麦事件(その2)|横浜市鶴見区
償金について、資料では「借用」「立替え払い」と表現されますが、幕府が資金を用立てた点は共通しています。
生麦事件で薩摩藩に求められた2万5000ポンドは、こうして戦争のあとに支払われました。要求から支払いまで、およそ8か月です。

イギリス側は戦死13人、薩摩側は戦死5人。城下は1割を焼失。事典は勝敗を決めていません。あなたにも勝ち負けは聞きません。数字と和議の中身を、記録の範囲で言い表してください

向こうは13人が死に、こちらは5人が死んだ。城下の一割が焼け、兄者が起こした集成館も灰になった、と事典は記す。
勝った負けたは、わしの口では言わん。おはんらの世の事典も『勝敗は決しなかった』と書いちょると聞く。そいでよか。
10月に横浜で和議を結び、幕府が用立てた金で薩摩が2万5000ポンドを払った。軍艦を買う話も、そのときに付いたそうじゃ。
その後どう変わったのか 薩摩とイギリスの接近、留学生、集成館の再建
この章で確かめたことです。薩英戦争のあと、薩摩藩とイギリスの関係は急速に近づき、1865年には留学生19人がイギリスへ渡りました。鹿児島県は、藩論が「開国へ大きく転回」したと記します。
戦争のあとに起きたことを、年を添えて並べます。
- 1864年(元治元年)|集成館事業の再興として、機械工場の建築が始まる(尚古集成館)
- 1865年(慶応元年)|機械工場が竣工。現存し、1962年に重要文化財、2015年に世界文化遺産(同上)
- 1865年|薩摩藩が19人の使節・留学生をイギリスへ派遣(コトバンク「薩英戦争」)。九州地方整備局は、グラバーの仲介によると記す
- 1867年(慶応3年)|集成館で鹿児島紡績所が操業を開始(九州地方整備局)
鹿児島県「薩英戦争」は、この戦争の影響をこう書いています。
藩は,この戦争で攘夷の不可能を悟り,藩論を開国へ大きく転回しました。
出典:鹿児島県「薩英戦争」
コトバンク「薩英戦争」も、薩英の関係が「急速に緊密」になり、イギリス商人グラバーから艦船・兵器を斡旋されたと記します。横浜市鶴見図書館は、薩摩と長州が軍備近代化の必要を認識し、イギリスなどに接近したと書いています。
参考:薩英戦争|コトバンク
参考:生麦事件|横浜市鶴見図書館
ここから先は、慎重に書く必要があります。鶴見図書館は、この流れが「明治維新へと発展していった」と書きます。ただし、生麦事件や薩英戦争が倒幕の直接の原因だった、とまで書く事典は、今回確認した範囲にはありません。
薩英戦争と同じ文久3年の8月18日(1863年9月30日)、久光は会津藩と結んで、長州藩と尊攘派の公家を京都の朝廷から追放します(八月十八日の政変)。薩摩藩はその後、参預会議、薩長同盟、王政復古へと進みます。
その先の流れは、大政奉還と戊辰戦争の記事で書いています。
久光自身は、西郷隆盛や大久保利通が台頭すると、政局を彼らに委ねました。明治になって左大臣に迎えられますが、政府の欧化政策に反対して辞し、鹿児島に隠棲します。1884年に公爵、1887年12月6日に没しました(満70歳、数え71歳)。
ここで、二人に同じ問いを投げてみます。二人がこの件で語り合った記録は、本記事では確認できていません。

お二人にうかがいます。幕府は償金を払い、薩摩は戦争を経て払い、そのあとイギリスに近づいた。同じイギリスに、幕府と薩摩は別の道でつながった。記録の範囲で、そのことをどう言い表しますか

薩摩は戦のあとに、向こうの船と砲を買い、若い者を19人送った、と事典は記す。集成館も建て直した。
藩の考えが開国へ回った、と鹿児島県は書くそうじゃ。わしの胸の内がどうであったかは、わしの口では言わん。
小栗どん、幕府は先に払い、薩摩はあとに払った。順は違うが、どちらも同じ相手に払ったこっじゃ。

左様。幕府が払ったのは文久3年の5月、薩摩が払ったのは同じ年の10月の和議のあと、とそなたらの世の事典は記すそうでございます。
私が申せるのは、その日付までにて候。薩摩とイギリスの結びつきがその先どこまで続いたかは、私が世を去ったあとにも及ぶ話でございましょう。
同じ相手に、別の道でつながった。記録の範囲では、久光公の申されたとおりと存ずる。
生麦事件の現場はいま 碑・参考館・リチャードソンの墓
この章で確かめたことです。リチャードソンが命を落とした場所には、明治16年(1883年)に建てられた碑が今も立っています。駅前の私設資料館「生麦事件参考館」は、閉館を経て、地域の有志が再開を目指しています。
現地で確かめられることを、資料の帰属をつけて並べます。
- 生麦事件碑|リチャードソン落命の地(現・横浜市鶴見区)に明治16年(1883年)建立(黎明館)。建てたのは鶴見村出身の黒川荘三で、少年時代に事件を目撃し、私費を投じた。碑文は中村正直(鶴見区)。横浜市鶴見図書館は、キリンビアビレッジの近くに立つと案内する
- 追悼祭|1911年の50年祭は黒川荘三が独力で行い、1922年の60年祭は地域の人々と行った。現在は生麦事件顕彰会が毎年実施(鶴見区)
- リチャードソンの墓|横浜・山手の外国人墓地。荒れていたのを浅海武夫氏が自費で改修した(鶴見区)
- 生麦事件参考館|1994年、浅海武夫氏が京急生麦駅前の自宅敷地内に開いた私設資料館。錦絵・写真・文献を展示。2023年に館長の逝去で閉館(横浜市「よこむすび」)
参考館のその後を、横浜市の地域活動情報サイト「よこむすび」と、鶴見の地域メディアの記事で確かめました。
2024年、地元の歴史団体「鶴見歴史の会」と地域住民が「生麦事件参考館リユースプロジェクト」を結成し、毎月第2・4土曜と日曜の10時から14時にプレオープンしています。2027年4月の再開館を目指す、と団体の紹介にあります。
参考:生麦事件参考館リユースプロジェクト|よこむすび(横浜市)
2026年9月14日から11月13日までは、改修工事で休館です。工事のあと、11月14日と15日に新装プレオープンが予定されています(2026年9月8日付の記事)。訪ねる前に、開館日の確認をおすすめします。
参考:生麦事件参考館、改修工事で休館へ 11月14・15日に新装プレ・オープン|これつる
小説では、吉村昭『生麦事件』(新潮社、1998年)があります。荒川区の吉村昭記念文学館は、2021年の展示で、吉村がこの事件を薩英戦争から明治維新へ至る転機と考えて小説にした、と紹介しています。本記事は小説の中身には立ち入りません。
碑を建てた黒川荘三は、事件を見た少年でした。事典が記すのは事件の日付と数字ですが、その場所には、見た人が建てた石が残っています。

明治16年、リチャードソンが亡くなった場所に碑が建ちました。建てたのは、少年のころに事件を見ていた鶴見村の黒川荘三です。記録として伝わっていることを、どう受け止めますか

明治16年に、あの場所に碑が建ったそうじゃな。
建てたのが、あの日を見ておった村の子じゃった、と聞くと、わしの口で足す言葉はなか。
あの日、行列の先で一人が命を落とした。そいだけは、わしの世の帳面にも、おはんらの世の石にも、同じように残っちょる。
生麦事件から薩英の和議までを年表で確認(和暦・西暦)
ここまでの出来事を、和暦と西暦を並べた年表にまとめます。年齢は、没時の満年齢を除いて載せません。旧暦の生年月日から出来事ごとに換算する必要があり、数え年とも混同しやすいためです。
西暦の日付を検算できなかった項目は、年だけを書いています。
| 和暦 | 西暦 | 出来事 |
|---|---|---|
| 文化14年10月24日 | 1817年12月2日 | 島津久光、鹿児島に生まれる |
| 安政5年 | 1858年 | 兄斉彬が没し、長子忠義が藩主に。久光が「国父」として実権を握る |
| 安政6年 | 1859年 | 横浜開港 |
| 文久元年5月28日 | 1861年7月5日 | 第1次東禅寺事件 |
| 文久2年3月 | 1862年 | 久光、藩兵を率いて鹿児島を発つ |
| 文久2年4月16日 | 1862年5月14日 | 薩摩藩、率兵上京(アジア歴史資料センター年表) |
| 文久2年4月23日 | 1862年 | 寺田屋事件 |
| 文久2年5月29日 | 1862年6月26日 | 第2次東禅寺事件 |
| 文久2年夏 | 1862年 | 久光、勅使大原重徳を奉じて江戸へ。文久の改革 |
| 文久2年8月21日 | 1862年9月14日 | 生麦事件 |
| 文久3年2月 | 1863年 | ニール代理公使が幕府と薩摩藩に要求 |
| 文久3年4月20日 | 1863年6月6日 | 幕府、攘夷の期日を5月10日と奏聞 |
| 文久3年5月9日 | 1863年6月24日 | 小笠原長行が独断で償金を支払う |
| 文久3年5月10日 | 1863年6月25日 | 攘夷の期日。長州藩が下関で外国船を砲撃 |
| 文久3年6月 | 1863年 | 小笠原長行、老中格を罷免 |
| 文久3年6月27日 | 1863年 | イギリス艦隊7隻、谷山の平川沖に投錨 |
| 文久3年6月28日 | 1863年 | 艦隊、前の浜に到着。交渉は成立せず |
| 文久3年7月2日 | 1863年8月15日 | 薩英戦争。藩船3隻の捕獲から交戦へ |
| 文久3年7月4日 | 1863年 | イギリス艦隊が退去 |
| 文久3年8月18日 | 1863年9月30日 | 八月十八日の政変 |
| 文久3年9月28日 | 1863年 | 横浜で薩英の談判が始まる(3回) |
| 文久3年10月5日 | 1863年11月 | 横浜で和議が成立 |
| 慶応元年 | 1865年 | 薩摩藩の使節・留学生19人がイギリスへ |
| 明治16年 | 1883年 | 生麦事件碑の建立 |
| 明治20年12月6日 | 1887年12月6日 | 島津久光没(満70歳、数え71歳) |
和暦の日付は、そのまま西暦の月日にはなりません。生麦事件の「8月21日」は西暦では9月14日、薩英戦争の「7月2日」は8月15日です。
「1862年8月21日」と書く解説もありますが、和暦の日付に西暦の年を添えた対応表記であって、換算した日付とは別のものです。
換算の基準にしたのは、事典と公的機関に西暦が併記されている日付です。世界大百科事典と山川の「1862年9月14日(文久2年8月21日)」が一つです。
もう一つは、アジア歴史資料センターの年表の「1863年6月25日 文久3年5月10日」「1863年8月15日 文久3年7月2日」「1863年9月30日 文久3年8月18日」です。ここから前後を数えました。
5月9日の償金支払いを1863年6月24日としたのは、同じ年表が5月10日を6月25日と換算しているためです。和議の10月5日は、精選版 日本国語大辞典が「同年11月」と書く範囲で、日にちまでは検算していません。
江戸時代全体のなかで、この事件がどこに位置するかは、年表の記事で確かめられます。

年表の最初と最後は、あなたの生没です。生麦事件から薩英の和議まで、およそ1年2か月。記録のうえで、この間にあなたの行列の一件はどう扱われていたのでしょうか

事件が8月、異国の求めが翌年の2月、幕府が払ったのが5月、戦が7月、和議が10月。おはんらの世の帳面に並ぶ順は、そうじゃ。
その間、薩摩は払わなんだ。理由をわしの口で語れば、帳面にない話になる。払わなんだ、という事実だけを言うちょく。
一年と二月のあいだ、生麦の一件は幕府と薩摩と異国のあいだを行き来しておった。そいは、日付を並べれば分かるこっじゃ。

生麦事件の背景にある、尊王攘夷運動が盛んになっていく流れは、学習まんがの通史でも追えます。
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この本の読みどころ
- 「外国船の出現と天保の改革」から「江戸幕府の終わり」まで、江戸時代後期の4章
- 1853年のペリー来航から、尊王攘夷運動が盛んになっていく流れを扱う巻です
- 紹介文には、大老井伊直弼による反対派の弾圧と桜田門外の変も挙がっています
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よくある質問(FAQ)
生麦事件とは、簡単に言うと何ですか?
文久2年8月21日(1862年9月14日)、東海道の生麦村で、島津久光の行列と行き会った騎馬のイギリス人4人を薩摩藩士が殺傷した事件です。1人が死亡し、2人が負傷しました。翌年の薩英戦争の引き金になりました。
生麦事件はいつ起きましたか?西暦では何年ですか?
和暦では文久2年8月21日、西暦に換算すると1862年9月14日です。改訂新版 世界大百科事典と山川 日本史小辞典が、この換算を併記しています。
生麦事件はどこで起きましたか?今の場所はどこですか?
武蔵国橘樹郡生麦村で、現在の横浜市鶴見区生麦です。東海道の川崎宿と神奈川宿の間にある間宿で、東京湾に面した漁村でした。リチャードソンが亡くなった場所には碑が立っています。
なぜ「生麦」という名前なのですか?
事件が起きた村の名前です。生麦という地名の由来は、今回確認した事典(デジタル大辞泉・精選版 日本国語大辞典・ブリタニカ)には書かれていません。
生麦事件で誰が亡くなり、誰が斬ったのですか?
亡くなったのは、上海在住のイギリス商人リチャードソンです。事典は、久光の供頭・奈良原喜左衛門が最初に斬りつけ、そのあと多数で襲撃したと記します。海江田信義(有村俊斎)も「生麦村でイギリス人を殺傷」と日本人名大辞典に記されています。
生麦事件はどっちが悪いのですか?
行列で無礼と受け取られた行動と、薩摩藩士による殺傷は、分けて考える必要があります。資料は、作法を知らない4人が行列に入り込み、それを無礼とみた藩士が斬りかかったと説明しています。資料の表現の違いだけで、どちらか一方の責任を決めることはできません。
生麦事件の賠償金はいくらでしたか?
幕府に対して10万ポンド、薩摩藩に対して2万5000ポンドです。幕府分を「11万ポンド(約44万ドル)」と書く資料は、第2次東禅寺事件の1万ポンドを合わせた数字です。薩摩分は薩英戦争のあとに、幕府が用立てて支払われました。
薩英戦争はいつ起きましたか?
文久3年7月2日から、西暦では1863年8月15日からです。イギリス艦隊7隻が6月27日に谷山の平川沖に錨を下ろし、28日に前の浜へ到着して、交渉が成立しないまま交戦になりました。生麦事件のおよそ11か月後です。
薩英戦争はどっちが勝ったのですか?
事典は勝敗を決めていません。ブリタニカは「勝敗不明のまま退去」、旺文社日本史事典は「勝敗は決しなかった」と記します。イギリス側は戦死13人・負傷50人、薩摩側は戦死5人・負傷十数人で、鹿児島の城下町は1割を焼失しました。
生麦事件と薩英戦争のあと、何が変わりましたか?
薩摩藩とイギリスの関係が近づき、1865年に19人の使節・留学生がイギリスへ渡りました。鹿児島県は、藩論が「開国へ大きく転回」したと記します。集成館事業も再興され、1865年には新たな機械工場が竣工しました。
桜田門外の変の原因は生麦事件ですか?
違います。桜田門外の変は安政7年3月3日(1860年3月24日)で、生麦事件(1862年9月14日)より2年半前の出来事です。順序が逆なので、原因にはなりません。
生麦事件の語呂合わせはありますか?
本記事では、人が亡くなった事件のため語呂合わせを作っていません。1862年(文久2年)は、桜田門外の変(1860年)の2年後、薩英戦争(1863年)の前年と、前後の出来事で覚えるのが確かです。
生麦事件参考館は今も見学できますか?
2023年に閉館しましたが、地域の有志が再開を目指し、毎月第2・4土日にプレオープンしています。2026年9月14日から11月13日は改修工事で休館で、11月14日と15日に新装プレオープンの予定です。訪ねる前に開館日をご確認ください。
インタビュー後記 「どっちが悪い」の候補が並ぶ理由
検索窓に出る「どっちが悪い」は、この事件が今も裁きを求められていることの表れだと思います。私自身、書き始めるまでは、どちらかに寄った答えを頭に置いていました。
事典を並べて分かったのは、「横切った」と「巻き込まれた」が対立する説明ではなく、同じ場面を別の言葉で書いたものだったことです。言葉が違っても、事実が対立しているとは限りません。
数字のほうは、並べれば決着がつきました。死傷は1人と2人、幕府の償金は10万ポンド、艦隊は7隻、和議は10月5日。資料が割れた「11万ポンド」も、東禅寺事件の分を足せば説明がつきます。
割れているように見えて、そうではなかったものもあります。艦隊の到着日の27日と28日は、黎明館の解説を読むと、平川沖に錨を下ろした日と、前の浜に着いた日でした。償金の「借用」と「立替え払い」も、幕府が資金を用立てた点は共通しています。
碑については、鹿児島の黎明館も展示解説で、こう短く記しています。
リチャードソン落命の地(現横浜市鶴見区)に,明治16(1883)年建立されたものである。
出典:鹿児島県歴史・美術センター黎明館「生麦事件碑」
碑を建てた黒川荘三は、事件を見た少年でした。事典は日付と数字を残し、少年は石を残しました。参考館を再開しようとしている鶴見の人たちも、同じ場所で同じことを続けているのだと思います。
2027年の大河ドラマ『逆賊の幕臣』は小栗忠順が主人公です。公式の物語紹介に「生麦事件」の名が出てくることは、あらすじの記事で確かめました。小栗がこの事件にどう関わったのかは、評伝の節を確かめてから、いつか書き足したいと思っています。
参考資料
- コトバンク「生麦事件」(デジタル大辞泉・精選版 日本国語大辞典・改訂新版 世界大百科事典・日本大百科全書・百科事典マイペディア・山川 日本史小辞典・ブリタニカ国際大百科事典・旺文社日本史事典)※1862年9月14日(文久2年8月21日)の併記、生麦村の所在、死亡1・負傷2、奈良原喜左衛門が「突然斬りつけ、その後多数で襲撃」、ニールの要求と「翌年2月」、10万ポンド(約40万ドル)/11万ポンド、幕府から借用、「きっかけ」の各事典の書き方の根拠
- コトバンク「薩英戦争」(同上)※艦隊7隻、6月27日/28日、7月2日の藩船3隻捕獲、7月4日退去、戦死13・負傷50、戦死5・負傷十数名、城下町の1割焼失、「勝敗不明のまま退去」「勝敗は決しなかった」、9月28日からの談判と10月5日の和議、「同年11月」、留学生19人、グラバーの斡旋の根拠
- コトバンク「島津久光」(日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典・ブリタニカ・デジタル版 日本人名大辞典+Plus・新訂 政治家人名事典ほか)※生没、「国父」、文久2年3月の率兵上京、4月23日の寺田屋事件、八月十八日の政変、西郷・大久保への委任、左大臣、1884年公爵の根拠
- コトバンク「奈良原喜左衛門」(デジタル版 日本人名大辞典+Plus)※生没1831〜1865、薬丸自顕流、「江戸から京都にむかう途中の島津久光の行列」の根拠
- コトバンク「海江田信義」(デジタル版 日本人名大辞典+Plusほか)※「文久2年武蔵生麦村でイギリス人を殺傷」、本姓が有村で通称が俊斎であることの根拠
- コトバンク「文久の改革」(百科事典マイペディア・山川 日本史小辞典)※「1862年(文久2)夏」の到着、将軍後見職・政事総裁職、参勤交代の緩和、将軍上洛の根拠
- コトバンク「小笠原長行」(改訂新版 世界大百科事典・ブリタニカ)※文久3年5月9日の「独断で…償金を支払った」、攘夷実行期日の前日、6月の罷免の根拠
- コトバンク「東禅寺事件」(改訂新版 世界大百科事典ほか)※第1次1861年7月5日、第2次1862年6月26日、1万ポンド(約4万ドル)を翌年支払いの根拠
- コトバンク「長州藩外国船砲撃事件」(山川 日本史小辞典)※4月20日に攘夷期日を5月10日と奏聞したことの根拠
- コトバンク「生麦」(精選版 日本国語大辞典・ブリタニカ・デジタル大辞泉)※間宿・立場・漁村、地名の由来が記されていないことの根拠
- コトバンク「小栗忠順」(日本大百科全書ほか)※「1862年勘定奉行勝手方」、各事典が生麦事件に触れていないことの根拠
- 国立国会図書館「近代日本人の肖像」島津久光※生没年月日(1817年12月2日〜1887年12月6日)、「帰途、生麦事件を起こし、薩英戦争の引金となる」、左大臣辞官と隠棲の根拠
- 国立公文書館 デジタル展示「激動幕末」年表※文久2年「薩摩藩士、生麦村でイギリス人を殺傷(生麦事件)」、文久3年「幕府、5月10日を攘夷の期限と上奏」「長州藩、下関でアメリカ・フランス・オランダ船を砲撃」「薩摩藩、イギリス艦隊と交戦(薩英戦争)」の根拠
- アジア歴史資料センター インターネット特別展「公文書にみる明治日本のアジア関与」年表(PDF)※1862年5月14日(文久2年4月16日)率兵上京、1862年9月14日(文久2年8月21日)生麦事件、1863年6月6日(文久3年4月20日)攘夷期日、1863年6月25日(5月10日)下関事件、1863年8月15日(7月2日)薩英戦争、1863年9月30日(8月18日)八・一八政変の西暦換算の根拠
- 鹿児島県「生麦事件」※「騎乗のまま行列の中に入り込みました」、10万ポンドと2万5千ポンド、犯人の処刑要求、薩摩藩の拒否と薩英戦争後への持ち越しの根拠
- 鹿児島県「薩英戦争」※7隻、7月2日、アームストロング砲、砲台や集成館の攻撃、「互角に戦いました」「藩論を開国へ大きく転回」の根拠
- 鹿児島県歴史・美術センター黎明館「薩英戦争関係諸達」※6月の模擬戦、6月28日の前の浜到着、交渉不成立の根拠
- 鹿児島県歴史・美術センター黎明館「クーパー提督薩英戦争日誌」※旗艦ユーリアラス号、6月27日の谷山平川沖投錨、藩船3隻捕獲から台場の砲撃、戦死13名・負傷50名余り、7月3日の水葬と退却の根拠
- 鹿児島県歴史・美術センター黎明館「生麦事件碑」※リチャードソン落命の地に明治16年(1883年)建立の根拠
- 横浜市鶴見区「第1回:幕末の動乱期の外国人殺傷事件・生麦事件(その1)」※生麦村が漁村であったことの根拠
- 横浜市鶴見区「第1回:幕末の動乱期の外国人殺傷事件・生麦事件(その2)」(文責:鶴見歴史の会 斉藤美枝)※日曜日、被害者4人の身分、「習慣を知らず…行列に巻き込まれ」、馬首が駕籠に向かったこと、約600メートルと松原、黒川荘三と中村正直、追悼祭、外国人墓地、「海岸防御」の名目で借り受け、軍艦購入の斡旋、犯人処罰が「うやむや」、参考館の開設の根拠
- 横浜市鶴見図書館「生麦事件」※「川崎大師へ馬で向かっていた」、薩長の軍備近代化と外国への接近、「明治維新へと発展」、碑の場所、吉村昭『生麦事件』(新潮社、1998年)の根拠
- 吉村昭記念文学館「生麦事件」※2021年8月20日〜9月15日の展示、吉村が転機と考えて小説にしたことの根拠
- 島津家歴史博物館 尚古集成館「尚古集成館について」※「斉彬期の工場群は灰塵に帰した」、機械工場の1864年着工・1865年竣工、重要文化財と世界文化遺産の根拠
- 国土交通省九州地方整備局「敵に勝つには敵から学べ~薩英戦争を契機にイギリスに学ぶ~」※グラバーの仲介による19名の使節・留学生、1867年の鹿児島紡績所の根拠
- 横浜市「よこむすび」生麦事件参考館リユースプロジェクト※1994年開館、2023年閉館、2024年の結成、第2・4土日のプレオープン、2027年4月の再開館目標の根拠
- これつる「生麦事件参考館、改修工事で休館へ 11月14・15日に新装プレ・オープン」(2026年9月8日)※2026年9月14日〜11月13日の休館、11月14・15日の新装プレオープンの根拠
- BOOK☆WALKER 塚越俊志『小栗上野介 「逆賊」とされた開明派幕臣』(中公新書)※目次の第四章「生麦事件の処置に当たる」、販売中であることの根拠
- Audible 検索「生麦事件」※堀口茉純『小学生のうちに知っておきたいそれなに?日本史 Vol.20 ~薩摩藩と生麦事件~』(53分)が聴き放題対象であることの根拠








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