政権を返す、と将軍が自分から申し出た。大政奉還の説明を最初に読んだとき、私はこの一点で立ち止まりました。
返された朝廷には、すぐに政権を担当できる実力がなかったと、茨城県立歴史館は説明しています。返す手続きは2日で済んでも、その先の仕組みはまだできていませんでした。
それなら、なぜ返したのか。そして、返したあとに何が起きたのか。この記事は、事典と公文書館の記述を日付ごとに並べて、その二つをたどります。
この記事の結論
大政奉還は、慶応3年10月14日(1867年11月9日)に15代将軍徳川慶喜が政権の返上を朝廷に申し出て、翌15日に勅許された出来事です。
なぜ返したのかは、説明が一つではありません。事典類の多くは新しい体制でも主導権を保つ構想があったと解説し、研究者には薩摩藩士の暴発への不安を重くみる説明もあります。本記事は一つに決めません。
大政奉還で幕府が終わったわけではありません。将軍職の辞退は10月24日に別に申し出られ、幕府の廃止は12月9日の王政復古の大号令で決まりました。
- 11日
土佐藩の建白(10月3日)から上表(10月14日)まで - 13日付と14日付
薩摩・長州へ出された討幕の密勅の日付。上表と同じ時期に重なります - 約2か月半
大政奉還から鳥羽・伏見の開戦まで
この記事では、読み方と日付から、「なぜ」をめぐる説明、建白から勅許までの流れ、土佐藩と坂本龍馬、二条城の場面、幕府内の反対、そのあとの王政復古まで、順にたどります。
語り手として、徳川慶喜AI(徳川慶喜をモデルにしたAI)と小栗忠順AI(小栗忠順をモデルにしたAI)に登場してもらいます。政権を返した本人と、それに反対したと事典が記す幕臣です。
※以下のインタビュー部分は、公開されている史料をもとに二人の人物像を再現した創作です。実際の発言ではありません。慶喜が政権を返した理由は本人にも語らせず、事典と研究者の解釈として本文で紹介します。小栗忠順は1868年5月27日(慶応4年閏4月6日)に亡くなっているため、それ以降の出来事は語りません。
出典の確かめ方と、公開前に行っているチェックは編集方針にまとめています。

慶喜公、今日は大政奉還についてうかがいます。将軍が自分から政権を返すという手続きが、私にはまだ実感として分かりません。理由はうかがいません。まず、あの日に何をしたのかを、手続きの範囲で教えてください

慶応3年10月14日、政権を朝廷にお返し申す旨の上表を御所へ出した。予のいたしたことは、それじゃ。
予の名で出されたが、文は永井尚志の起草であった、とそなたらの世の事典は記すそうな。
翌15日に勅許が下り、小御所で御沙汰書が渡された、と歴史館は記すそうな。手続きとして申せるのは、ここまでじゃ。
大政奉還とは?いつ・どこで・誰が政権を返したのか
先に、この章で確かめたことを書きます。大政奉還は、慶応3年10月14日(1867年11月9日)に15代将軍徳川慶喜が政権の返上を朝廷に申し出、翌15日(11月10日)に朝廷が許した出来事です。
「大政」は天下の政(まつりごと)、「奉還」はお返しすること。基本の事項を表にまとめます。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 読み方 | たいせいほうかん |
| 意味 | 政権を朝廷(天皇)に返上すること。「大政」は天下の政(まつりごと)の意 |
| いつ(和暦) | 慶応3年10月14日に上表(申し出)、翌15日に勅許(朝廷の許可) |
| いつ(西暦) | 1867年11月9日に上表、11月10日に勅許 |
| 誰が誰に | 江戸幕府15代将軍の徳川慶喜が、朝廷に。慶喜は当時、満30歳 |
| どこで | 表明の場は京都の二条城(二の丸御殿の大広間)。上表の提出先は御所 |
| 上表文 | 若年寄格の永井尚志が起草。武家伝奏の日野資宗・飛鳥井雅典に提出 |
| きっかけ | 10月3日の土佐藩の建白(前藩主山内豊信の名で後藤象二郎が提出) |
| 年号の覚え方 | 「一夜(18)むな(67)しく政権返す」。和暦は慶応3年、西暦は1867年 |
定義は、デジタル大辞泉・改訂新版 世界大百科事典・日本大百科全書のいずれも、政権を朝廷(天皇)に返上することと説明しています。日付の西暦は、百科事典マイペディアが「1867年11月9日(慶応3年10月14日)」と併記しています。
ここまでの基本の事項は、小学生向けの音声番組でも確かめられます。やさしく言い切った説明もあるため、なぜ政権を返したのか、討幕の密勅をどう見るかは、次の章からの本記事の検証と書き方が違うところがあります。
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この作品の聴きどころ
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- 時代背景や歴史雑学クイズを交えて、大政奉還に至る流れを小学生向けに解説する構成
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「どこで」は2段階に分けて考えます。表明の場は二条城で、元離宮二条城の公式サイトは二の丸御殿の大広間を「大政奉還が表明された大広間」と紹介しています。一方、上表そのものの提出先は御所です。
茨城県立歴史館は、慶喜の命で高家の大沢基寿が参内し、上表を朝廷に提出したと説明しています。翌15日、朝廷は慶喜の参内を求め、小御所で勅許の御沙汰書を渡しました。
上表文は若年寄格の永井尚志が起草しました。改訂新版 世界大百科事典は、その一節を次のように引いています。本記事は上表文の原本・翻刻を直接確認しておらず、同事典が引く範囲で紹介します。
当今外国之交際日ニ盛ナルニヨリ,愈朝権一途ニ出申サズ候テハ,綱紀立チ難ク候間,従来之旧習ヲ改メ,政権ヲ朝廷ニ帰シ奉リ,広ク天下之公議ヲ尽シ,聖断ヲ仰ギ,同心協力,共ニ皇国ヲ保護仕候得バ,必ズ海外万国ト並ビ立ツ可ク候
出典:コトバンク「大政奉還」(改訂新版 世界大百科事典)が引く上表文の一節
外国との交際が日ごとに盛んになるなか、朝廷の権威が一つにまとまらなければ秩序が立たない。だから旧来の習わしを改めて政権を朝廷に返し、広く天下の公議を尽くす。そう読めます。
上表を受けた朝廷は、前年の慶応2年12月25日に孝明天皇が亡くなり、慶応3年1月に明治天皇が践祚して間もない時期にありました。孝明天皇の死をめぐる議論は、別の記事で書いています。

二条城で表明し、御所に上表した、と2段階で書きました。記録のうえで、あなたの名で出された文書は、誰の手を通ってどこへ届いたのでしょうか

予の名で出した上表は、武家伝奏の日野資宗と飛鳥井雅典のもとへ届けられた、と事典は記すそうな。
御所へ運んだのは高家の大沢基寿。予の命で参内した、と茨城の歴史館の解説にあると聞く。
城で意向を伝えたことと、御所へ上表を届けたこと。場所も手続きも別のことじゃ。それは言い添えておこう。
大政奉還はなぜ行われた?事典と研究者の説明を並べる
この章の結論を先に書きます。なぜ政権を返したのかは説明が一つではなく、本記事は一つに決めません。事典類の多くは、慶喜が新しい体制でも主導権を保つ構想を持っていたと解説し、研究者には薩摩藩士の暴発への不安を重くみる説明もあります。
まず、事典と公的機関がどう書いているかを、帰属をつけて並べます。
- 日本大百科全書|「公議政体論に基づく慶喜中心の『大君(たいくん)』制国家を創出しうるとみていた」
- 改訂新版 世界大百科事典|政権を返しても朝廷はもてあまし「ふたたび政権は徳川慶喜に委任されるだろうという見込み」があったとし、側近の西周が11月に出した「議題草案」を挙げる
- 山川 日本史小辞典|「朝幕二元体制の限界を感じていた慶喜は、政権を一本化し大名の統治権もいずれ吸収しようと考えて」
- ブリタニカ国際大百科事典|「新政体のもとであらためて実権を掌握する構想を秘めていた」
- 旺文社日本史事典|「雄藩連合政権下での徳川氏の存続や土佐藩の発言権増大をねらったもの」
- 茨城県立歴史館|幕府を廃して徳川家も一大名として大名合議制に加わる道を選び、「大名の合議制による政権体制のなかで指導力を発揮することに期待をつないだ」
表現は違いますが、事典類に共通するのは、政権を返したあとも慶喜が主導権を持つ見通しがあった、という説明です。国立国会図書館「近代日本人の肖像」も、同じ方向で要約しています。
高知藩の建白により翌年10月、大政奉還を行い、徳川家の復権を図るも、倒幕派に敗れ恭順、謹慎
出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」徳川慶喜
西周の「議題草案」は、国立国会図書館「史料にみる日本の近代」でたどれます。慶応3年11月に側近の平山敬忠に提出された、将軍が行政権を持つ三権分立の政体案で、12月の王政復古によって実現しませんでした。
研究者の説明は、事典とは力点が違います。山本博文氏はWEB歴史街道の記事で、頼れる軍勢が会津藩しかなかったことを挙げて、こう述べています。
大政奉還を申し出なければ薩摩藩士が暴発すると、慶喜が本気で考えていたのではないか
出典:WEB歴史街道「なぜ徳川慶喜は大政奉還を受け入れたのか? 見誤った薩摩藩の内情」(山本博文)
町田明広氏はJBpressの記事で、政治組織も財政基盤もない朝廷に代わって「慶喜が政治を執れる見通しがあった」とし、「議題草案」を根拠に、慶喜が新政体をかなり具体的に考えていたとします。
歴史ライターの大山格氏は和樂webの記事で、水戸学の尊王思想に加えて、日本を代表するのが天皇なのか将軍なのかを列強の公使に明確に示す、実務的な判断があったと説明しています。
山本氏と大山氏の記事は、出典に『昔夢会筆記』を挙げています(大山氏は『徳川慶喜公伝』も)。『昔夢会筆記』は渋沢栄一が晩年の慶喜から聞き取った回想の記録ですが、本記事は原文を確認していないため、そこに何が語られているかは書きません。
上表文には、返上の理由として朝廷の権威を一つにすることと、天下の公議を尽くすことが書かれています。事典や研究者が論じているのは、その文面の奥にどんな見通しがあったかです。
これらは事典と研究者の解釈であり、本記事はその当否を判断しません。慶喜AIにも、この章では胸の内を語らせません。

事典はあなたの構想をいろいろに書いています。胸の内を語ってほしいとは言いません。事典がそれぞれ何と書いているか、そして本人として言い切れるのはどこまでか、教えてください

そなたらの世の事典は、いろいろに記すそうな。予が『慶喜中心の大君制国家』を作れると見た、と書くものもある。
『新政体のもとであらためて実権を掌握する構想を秘めていた』と記すもの、『政権を一本化し』と書くものもあるとか。
いずれも、そなたらの世の学者の読みじゃ。予の口で言い切れるのは、14日の上表と15日の勅許のみ。胸の内は、言い切りませぬ。
建白から勅許、将軍職辞退まで|10月の動きを日付ごとに確かめる
この章で確かめたことです。土佐藩の建白から勅許まで12日間、そのあと10月24日に将軍職の辞退が申し出られました。討幕の密勅は、島津久光父子あてが13日付、毛利敬親父子あてが14日付で、上表と同じ時期に重なります。
| 和暦(慶応3年) | 西暦(1867年) | 出来事 |
|---|---|---|
| 10月3日 | 10月29日 | 後藤象二郎が山内豊信(容堂)の名で大政奉還の建白書を、老中板倉勝静を通して将軍に提出 |
| 10月6日 | 11月1日 | 芸州(広島)藩も建白書を提出 |
| 10月12日 | 11月7日 | 慶喜が二条城で老中以下に大政奉還の決意を伝える |
| 10月13日 | 11月8日 | 在京諸藩の重臣を二条城に集めて意見を求める。討幕の密勅(島津久光父子あて)の日付 |
| 10月14日 | 11月9日 | 大政奉還を上表。討幕の密勅(毛利敬親父子あて)の日付 |
| 10月15日 | 11月10日 | 勅許。朝廷は新政体を定めるため大諸侯の会議を招集 |
| 10月24日 | 11月19日 | 慶喜が将軍職の辞退を申し出る |
建白書の日付は、日本大百科全書・ブリタニカ・国際子ども図書館・松戸市戸定歴史館の年表が10月3日で一致しています。別紙には寺村左膳・後藤象二郎・福岡孝弟・神山左多衛が連署しました。
国際子ども図書館が掲載するのは「土佐藩大政奉還建白書写」(三条家文書)で、写しであって原本ではありません。芸州藩の建白は、日本大百科全書とブリタニカが10月6日と記しています。
討幕の密勅について、日本大百科全書はこう説明しています。正親町三条実愛から大久保利通と広沢真臣に手渡されたもので、天皇の直筆も、中山忠能ら3人の公家の花押もありません。学界に原本が公開されたのは昭和に入ってからです。
密勅を受け取った側の一人、大久保利通については別の記事があります。
山川 日本史小辞典は「偽勅と解されている」、デジタル大辞泉は「偽勅とする説もある」と記します。本物かどうかに議論がある文書です。
文書の日付と、手渡された日は分けて読む必要があります。日本大百科全書は、密勅が10月14日に手交され、文書の日付は島津父子あてが13日、毛利父子あてが14日だと書き分けています。山川 日本史小辞典は「13日と14日」に下されたと記します。
そのうえで日本大百科全書は「同じ日に慶喜は大政を奉還し、密勅の名分は失われた」、ブリタニカは「この密勅は取消しとなった」と書きます。倒幕派がそれをどう受け止めたかは、事典の表現として引くにとどめます。

大政奉還にいたるまでの慶喜の歩みを、一橋家の相続から通して読める学習まんがもあります。
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この本の読みどころ
- 水戸藩主・徳川斉昭の七男に生まれ、御三卿の一橋家を相続した慶喜を描く
- 黒船来航のあと、将軍の跡継ぎ候補として名があがっていく幕末の動きをたどる
- 作品紹介は、最後の征夷大将軍となった慶喜の激動の人生を描くとしています
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10月24日の将軍職辞退は、松戸市戸定歴史館の年表に「将軍職を辞す」とあります。
朝廷の扱いについて、佛教大学の青山忠正氏は京都市の幕末コラムで、辞表の「受理は保留された」と書いています。慶喜は、12月9日の政変で将軍辞任を認められるまで征夷大将軍だった、という説明です。
大政奉還の時点で、慶喜はまだ将軍でした。保留を決めた日付は、今回確認した資料では特定できていません。幕府の廃止が決まるのは、12月9日の王政復古の大号令です。

10月24日に将軍職の辞退を申し出た、と戸定歴史館の年表にあります。理由はうかがいません。上表の10日後に、もう一通を出した。その順番で合っているか、記録の範囲で確かめさせてください

順は、そなたの言うとおりじゃ。14日に政権を返す上表、15日に勅許。そのあと24日に、将軍の職を辞したいと申し出た。
戸定の歴史館の年表に『将軍職を辞す』とある、その日付のことであろう。なぜかは、予の口で言い切ることをいたしませぬ。
辞表の受理は保留され、12月9日の政変で辞任が認められた、と学者は記すそうな。保留を決めた日までは、確かめられておらぬと聞く。
土佐藩と坂本龍馬|船中八策は何が確かめられるか
この章で確かめたことです。建白を出したのは土佐藩で、その発想は坂本龍馬の「船中八策」に基づくと日本大百科全書は書きます。ただし船中八策はその成立や伝わり方に議論があり、現物としてたどれるのは11月の「新政府綱領八策」です。
土佐藩の建白の土台にあるのは公議政体論です。旺文社日本史事典は「幕末、衆議による政体樹立の主張」、山川 日本史小辞典は「公議輿論にもとづく会議制度による国家権力構想」と説明します。
改訂新版 世界大百科事典によれば、こうした考えは横井小楠・五代友厚・大久保一翁らにもみられ、坂本龍馬は大久保の影響を受けた「といわれている」とされます。龍馬が最初に唱えた、とは書かれていません。
- 船中八策|慶応3年6月、龍馬が長崎から上京する船中で後藤象二郎に示したとされる構想。山川 日本史小辞典は「示したといわれる」と留保し、成立や伝わり方に議論がある
- 新政府綱領八策|慶応3年11月の文書で、署名は「坂本直柔」。国立国会図書館(石田英吉関係文書)と下関市立長府博物館が所蔵し、翻刻を国立国会図書館が公開している
- 土佐藩建白書|10月3日に提出。国際子ども図書館が掲載するのは三条家文書の「写」
- 龍馬の最期|慶応3年11月15日(1867年12月10日)、近江屋で襲われ没する。大政奉還の約1か月後
土佐藩の狙いを、事典はこう書いています。ブリタニカは「幕府をも加えた雄藩連合の新政権樹立を企て」、日本大百科全書「山内豊信」の項は、武力行使を伴わず藩体制の温存に役立つと考えて支持し、自ら幕府に建白した、と記します。
改訂新版 世界大百科事典は、後藤象二郎が薩摩藩を公議政体路線に引きつけて幕府との武力決戦を回避しようとした、と説明します。6月22日に薩土盟約が結ばれ、9月20日には薩長芸3藩の挙兵協定が成立しています。
本記事は船中八策の内容を逐条では紹介しません。国立国会図書館「史料にみる日本の近代」は、新政府綱領八策のうち伏字になっている部分の人物について諸説があると説明しています。
後藤象二郎について、改訂新版 世界大百科事典は、龍馬の大政奉還策を将軍徳川慶喜によって現実化することに努めた、と記します。日本大百科全書は、建白運動を主導して家老に昇進したと書きます。
龍馬の生涯と、名言・伝承の出典検証は、それぞれ別の記事で書いています。

土佐藩の建白は、老中の板倉勝静を通してあなたのもとへ届きました。龍馬という名を当時ご存じだったかは、うかがいません。建白が届いてから城で決意を伝えるまでの9日間について、記録が伝えていることを教えてください

10月3日に土佐の建白が、老中の板倉勝静を通して届いた。6日には芸州藩からも建白があった、と事典は記す。
そのあと12日に、二条城で老中らに政権を返す意向を伝えた。そなたの当たった事典が日付で伝えるのは、この三つじゃ。
その間に予が何を考え、誰と何を話したかは、そなたらの世の史料に譲るとしよう。ここで足すことはいたしませぬ。
二条城では何があったのか|絵画「大政奉還」の場面はいつなのか
この章で確かめたことです。二条城では10月12日に老中以下の幕府の役人へ、13日に在京諸藩の重臣へ、慶喜が大政奉還の意向を伝えました。壁画「大政奉還」(邨田丹陵)はこの場面を描いたものですが、どの日のどの部屋かは断定できません。
- 10月12日|慶喜が老中以下に大政奉還の決意を伝える(ブリタニカ)。改訂新版 世界大百科事典は「12日から13日にかけて」老中以下の役人と在京諸藩の重臣が諮問を受けたと記す
- 10月13日|在京諸藩の重臣を二条城に集めて意見を求める(日本大百科全書)。茨城県立歴史館は「在京40藩の重臣」と書く
- 場所|元離宮二条城の公式サイトは、二の丸御殿の大広間を「大政奉還が表明された大広間」と紹介
- 10月14日|上表は御所へ。高家の大沢基寿が参内して提出(茨城県立歴史館)
- 10月15日|朝廷は慶喜の参内を求め、小御所で勅許の御沙汰書を渡す(茨城県立歴史館)
集まった人数について、「50名ほど」といった数字を目にすることがあります。しかし、今回確認した事典と公的機関の資料には載っていません。本記事は人数を書きません。
絵画「大政奉還」について書きます。明治神宮外苑の聖徳記念絵画館にある壁画80点の1つで、作者は日本画家の邨田丹陵(むらた・たんりょう)です。東京文化財研究所の年史によれば、壁画の完成式は1936年4月21日に行われました。
美術展ナビのレビューによれば、この壁画は慶喜の孫にあたる徳川慶光の依頼で、13年をかけて1935年10月に完成しました。丹陵は二条城で模写や撮影を重ねた、と紹介されています。
描かれているのがどの日の場面かは、断定できません。二条城の公式サイトは大広間を表明の場として紹介しています。
一方、本郷和人氏は美術展ナビの連載で、襖に桜が描かれていることなどを根拠に、10月12日に黒書院で一門・譜代を集めた場面だとしています。
本記事は、この壁画を「二条城で大政奉還を伝える場面を描いたもの」と紹介するにとどめ、日付と部屋は決めません。

12日と13日に城で意見を求めた、と記録は伝えています。その場の様子を思い出してほしいとは言いません。あなたの没後に、その場面は壁画に描かれました。まず、記録が伝える範囲で、あの2日間に城で何が行われたのかを話してください

12日に老中以下の役人へ、13日に在京諸藩の重臣へ、政権を返す意向を伝えて意見を求めた。記録が伝える順は、それじゃ。
13日に集まったのは在京40藩の重臣であった、と茨城の歴史館は記すそうな。何人が座に並んだかは、事典に見えぬと聞く。
どの部屋で誰が何を申したかを予が語れば、史料にない話になる。壁画のことは、予の知らぬ世のことじゃ。
幕府のなかの反対|小栗忠順は大政奉還にどう向き合ったのか

小栗さん、日本人名大辞典とブリタニカは、あなたが大政奉還に反対したと記しています。反対の中身は、どちらも書いていません。記録が伝える範囲で、ご自身の立場を話してください

私が政権の返上に反対した、とそなたらの世の事典は記すそうでございますな。二つの事典がそう書くと聞いております。
何をどう申し上げたかは、その二つも書いておらぬとか。ならば私の口から足すのは、道理に合わぬことにて候。
反対と慶応4年正月の免官とを結んで書く事典もあると存ずる。私が申せるのは、正月に役を解かれたという日付まででございます。
この章で確かめたことです。小栗忠順が大政奉還に反対したことは、日本人名大辞典とブリタニカが記しています。ただし、何をどう言ったのかは、どの事典も書いていません。
大政奉還への反応を、事典が書く範囲で並べます。
- 名古屋・福井・高知の各藩|支持(山川 日本史小辞典)
- 会津・桑名の両藩|強い不満(山川 日本史小辞典)
- 薩摩・長州の倒幕派|大諸侯会議より先にクーデタを行う方針(山川 日本史小辞典)
- 小栗忠順|「大政奉還に反対し」(日本人名大辞典)、「大政奉還に反対して、慶応4(1868)年1月免官」(ブリタニカ)
- 永井尚志|若年寄格として上表文を起草(山川 日本史小辞典)
小栗の態度について、日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典・百科事典マイペディアの「小栗忠順」の項は触れていません。反対を記す2点も、反対の中身までは書いていません。本記事はそこから先を足しません。
同じ幕府のなかに、上表文を起草した永井尚志と、反対したと記される小栗忠順がいました。二人がこの件で言葉を交わした記録は、本記事では確認できていません。
ブリタニカは免官を大政奉還への反対と結びつけて書き、その時期を慶応4年(1868年)1月とします。戊辰戦争での抗戦論と免官の経緯は、前作で書いています。
小栗の生涯と、横須賀製鉄所などの功績は、人物の記事でたどれます。

慶喜公、小栗さんが反対したと事典は記します。退けた理由はうかがいません。同じ幕府のなかに、上表文を書いた人と反対した人がいた。その事実を、記録の範囲でどう言い表しますか

上表の文は永井尚志が起草した。小栗が反対した、と記す事典もある。どちらも、そなたらの世の記録が伝えることじゃ。
反対したと記される者がおり、上表は14日に出された。前後も中身も、予の口で足すことはいたしませぬ。
同じ幕府のうちに、起草した者と反対したと記される者がおった。記録の範囲では、そう言い表しておく。
大政奉還で幕府は終わったのか|王政復古の大号令・版籍奉還との違い
この章の結論です。大政奉還は政権交代の一段階で、幕府の廃止が決まったのは12月9日の王政復古の大号令でした。版籍奉還はさらに後、明治2年(1869年)に各藩が土地と人民を朝廷に返した、別の出来事です。
| 項目 | 大政奉還 | 王政復古の大号令 | 版籍奉還 |
|---|---|---|---|
| いつ | 慶応3年10月14日(1867年11月9日) | 慶応3年12月9日(1868年1月3日) | 明治2年6月17日(1869年) |
| 誰が | 15代将軍徳川慶喜 | 朝廷(新政府) | 各藩の藩主 |
| 何を | 政権を朝廷に返上 | 幕府と摂政・関白を廃し、総裁・議定・参与の三職を置く | 土地(版)と人民(籍)を朝廷に返す |
| そのあと | 将軍職の辞退は10月24日に別に申し出 | 同夜の小御所会議で慶喜の辞官納地を決定 | 藩主は知藩事に任じられ、引き続き藩を治める |
事典の要約は、大政奉還で武家政治が終わったと書きます。
デジタル大辞泉は「鎌倉幕府以来約700年続いてきた武家政治は終了した」と書き、精選版 日本国語大辞典も同じ趣旨です。マイペディアは「1603年以来の江戸幕府はここに自壊した」と記します。
二条城の公式サイトも、15日の勅許で「江戸幕府の幕は降ろされました」と書きます。一方で、茨城県立歴史館はこう説明しています。
政権を返還されても、朝廷にはただちに政権を担当できる実力はなかった。
出典:茨城県立歴史館「Ⅳ徳川慶喜大政奉還する」
同館によれば、朝廷は諸侯の上京を待って新しい権力機構を築く方針を打ち出しましたが、それまでの実務は幕府に委ねざるをえませんでした。政権返上の始末を外国公使に通告したのも幕府です。
両者は、説明している対象が違います。事典は大政奉還の歴史的な意味を要約し、歴史館は返上直後の実情を書いています。本記事は両方を並べ、大政奉還を政権交代の「一段階」として扱います。
12月9日、王政復古の大号令が出されます。国立公文書館「日本のあゆみ」によれば、大号令は神武創業の始めへの復古を宣言し、幕府だけでなく摂政・関白といった朝廷の制度も廃止して、総裁・議定・参与の三職を置きました。
改訂新版 世界大百科事典によれば、大号令には慶喜の大政返上と将軍職辞退を聞き届ける文言も含まれています。10月24日の申し出は、ここで受け止められた形です。
同じ日の夜の小御所会議で、慶喜の辞官納地(内大臣の辞退と領地の返上)が決められました。山内豊信や松平慶永ら公議政体派は慶喜の参内を求め、岩倉具視と激論になった、と事典は記します。
慶喜は12月12日に二条城を出て大坂へ移り、慶応4年1月3日(1868年1月27日)に鳥羽・伏見の戦いが始まります。大政奉還から約2か月半後です。開戦までの流れと戦争の全体は、前作で書いています。
版籍奉還は、明治2年6月17日(1869年)に諸藩が土地と人民を朝廷に返した出来事で、藩主はそのまま知藩事に任じられました。将軍が政権を返した大政奉還とは、返した主体も返したものも違います。
江戸時代の終わりを大政奉還の年に取るか、王政復古の年に取るかで、時代の長さの数え方に幅が出ます。その整理は、江戸時代の記事でしています。
「大政奉還は正しかったのか」「しなかったらどうなっていたか」という問いに、本記事は「もし」で答えません。その問いには、小栗忠順と坂本龍馬の「もしも」を史実から検証した記事があります。
ここで、二人に同じ問いを投げてみます。二人がこの件で語り合った記録は、本記事では確認できていません。

お二人にうかがいます。大政奉還で幕府が終わった、と要約する事典があります。一方で、幕府の廃止が決まったのは12月9日の大号令です。上表のあと、幕府という組織はどうなっていたのでしょうか。記録の範囲でお願いします

政権は返した。じゃが、返された朝廷にすぐ政を担う力はなかった、と茨城の歴史館は記すそうな。
諸侯が上京するまで実務は幕府に委ねられ、外国の公使への通告も幕府がした、とそこには書かれておると聞く。
幕府の廃止が決まったのは12月9日の大号令じゃ。小栗、そこまではそなたも知る話。上表からおよそ二月、幕府は残っておった。

左様。上表のあとも実務は幕府に委ねられておった、と上様のおっしゃるとおりでございます。
私が御役を解かれたのは、大号令のあとの翌年正月にて候。返上と廃止と免官は、それぞれ別の日付でございます。
そのあとの戦がどう終わったかは、私の見届けられなかった先の話。そなたらの世の記録に譲るほかございませぬ。
大政奉還の流れを年表で確認(和暦・西暦)
ここまでの出来事を、和暦と西暦を並べた年表にまとめます。年齢は載せません。旧暦の生年月日から出来事ごとに満年齢を換算する必要があり、数え年とも混同しやすいためです。西暦の日付を検算できなかった項目は、年だけを書いています。
| 和暦 | 西暦 | 出来事 |
|---|---|---|
| 天保8年9月29日 | 1837年10月28日 | 徳川慶喜、江戸小石川の水戸藩邸に生まれる |
| 慶応2年12月5日 | 1867年1月10日 | 慶喜、京都で将軍宣下 |
| 慶応2年12月25日 | 1867年1月30日 | 孝明天皇没 |
| 慶応3年1月9日 | 1867年 | 明治天皇践祚 |
| 慶応3年5月24日 | 1867年 | 兵庫開港の勅許 |
| 慶応3年6月 | 1867年 | 龍馬が船中で後藤象二郎に構想を示したとされる。6月22日、薩土盟約 |
| 慶応3年9月20日 | 1867年 | 薩長芸3藩の挙兵協定 |
| 慶応3年9月21日 | 1867年 | 慶喜、内大臣に任じられ二条城に移る |
| 慶応3年10月3日 | 1867年10月29日 | 土佐藩の建白書を後藤象二郎が老中板倉勝静を通して提出 |
| 慶応3年10月6日 | 1867年11月1日 | 芸州藩も建白 |
| 慶応3年10月12日 | 1867年11月7日 | 慶喜、二条城で老中以下に決意を伝える |
| 慶応3年10月13日 | 1867年11月8日 | 在京諸藩の重臣に諮問。討幕の密勅(島津父子あて)の日付 |
| 慶応3年10月14日 | 1867年11月9日 | 大政奉還を上表。討幕の密勅(毛利父子あて)の日付 |
| 慶応3年10月15日 | 1867年11月10日 | 勅許 |
| 慶応3年10月24日 | 1867年11月19日 | 慶喜、将軍職の辞退を申し出る(受理は保留) |
| 慶応3年11月 | 1867年 | 龍馬「新政府綱領八策」。西周「議題草案」 |
| 慶応3年11月15日 | 1867年12月10日 | 近江屋事件。龍馬没 |
| 慶応3年12月9日 | 1868年1月3日 | 王政復古の大号令。同夜、小御所会議で辞官納地を決定 |
| 慶応3年12月12日 | 1868年1月6日 | 慶喜、二条城を出て大坂城へ |
| 慶応3年12月25日 | 1868年1月19日 | 江戸の薩摩藩邸焼き討ち |
| 慶応4年1月3日 | 1868年1月27日 | 鳥羽・伏見の戦い。戊辰戦争が始まる |
| 慶応4年1月6日 | 1868年1月30日 | 慶喜、大坂城を出て海路江戸へ |
| 慶応4年2月12日 | 1868年3月6日 | 慶喜、上野寛永寺で謹慎 |
| 明治2年6月17日 | 1869年 | 版籍奉還 |
| 大正2年11月22日 | 1913年11月22日 | 慶喜没(満76歳) |
日付の書き方には注意が要ります。和暦の慶応3年10月14日は、西暦では1867年11月9日です。「1867年10月14日」と書くと、西暦の日付とは1か月近くずれます。
事典やサイトによっては、和暦の日付に西暦の年だけを添えて「1867年10月14日」と表記しているものもあります。年どうしを対応させた書き方ですが、西暦(グレゴリオ暦)に換算した日付は1867年11月9日です。本記事では両方を並べて書きました。
換算の基準にしたのは、事典や公的資料に西暦が併記されている日付です。慶応3年10月14日=1867年11月9日(マイペディア)、12月9日=1868年1月3日(デジタル大辞泉)などから前後を数え、矛盾がないことを確かめています。
将軍としての在職について、『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』は「在職わずか1年」と書きます。終わりの日は事典によって書き方が違うため、本記事は日付を一つに決めず、幕府の廃止を出来事で書きました。
江戸時代全体のなかで大政奉還がどこに位置するかは、年表の記事で確かめられます。

年表の最初と最後は、あなたの生没です。将軍の在職はおよそ1年で、終わりの日を事典は一つに決めていません。10月24日の辞退の申し出と、12月9日の大号令。記録のうえで、この二つはどう並ぶのでしょうか

24日に将軍の職を辞したいと申し出た。12月9日の大号令には、返上と辞退の両方を聞き届ける文言がある、と事典は記すそうな。
つまり24日の申し出は、大号令で受け止められた形じゃ。それまで辞表の受理は保留されておった、と学者は記すそうな。
在職の終わりの日を、事典は一つに決めておらぬそうな。予も決めませぬ。言い切れぬことを、言い切らぬのが予の流儀じゃ。
よくある質問(FAQ)
大政奉還の読み方と意味は?
「たいせいほうかん」と読みます。「大政」は天下の政(まつりごと)の意味で、江戸幕府15代将軍の徳川慶喜が政権を朝廷(天皇)に返上したことを指します。
大政奉還はいつ?西暦では何年ですか?
慶応3年10月14日に上表し、翌15日に勅許されました。西暦では1867年11月9日と10日です。和暦の日付に西暦の年を添えた「1867年10月14日」という表記もありますが、換算した日付とは別のものです。
大政奉還の語呂合わせは?
「一夜(18)むな(67)しく政権返す」のように、1867年を読みかえると覚えやすくなります。和暦なら慶応3年です。
大政奉還は誰が誰に行ったのですか?
江戸幕府15代将軍の徳川慶喜が、朝廷に対して行いました。上表文は若年寄格の永井尚志が起草し、武家伝奏の日野資宗・飛鳥井雅典に提出されています。
大政奉還はどこで行われたのですか?
表明の場は京都の二条城で、二の丸御殿の大広間が「大政奉還が表明された大広間」として紹介されています。上表そのものの提出先は御所です。
徳川慶喜はなぜ大政奉還をしたのですか?
説明は一つではありません。事典類の多くは、新しい体制でも慶喜が主導権を保つ構想があったと解説し、研究者には薩摩藩士の暴発への不安を重くみる説明もあります。本記事は一つに決めていません。
大政奉還を最初に提唱したのは坂本龍馬ですか?
断定できません。改訂新版 世界大百科事典は、公議政体論が横井小楠・五代友厚・大久保一翁らにもみられ、龍馬は大久保の影響を受けた「といわれている」と記します。
大政奉還と版籍奉還の違いは?
大政奉還は1867年に将軍が政権を朝廷に返したもの、版籍奉還は1869年に各藩の藩主が土地と人民を朝廷に返したものです。返した主体も、返したものも違います。
大政奉還と王政復古の大号令の違いは?
大政奉還は10月14日の将軍からの政権返上、王政復古の大号令は12月9日に朝廷側が幕府と摂政・関白を廃し、三職を置いた宣言です。幕府の廃止が決まったのは後者です。
討幕の密勅は大政奉還と同じ日に出されたのですか?
文書の日付は、島津久光父子あてが10月13日付、毛利敬親父子あてが14日付です。手渡された日は、日本大百科全書とブリタニカが上表と同じ14日と書き、山川 日本史小辞典は「13日と14日」とします。
大政奉還したのに、なぜ戊辰戦争が起きたのですか?
原因を一つに絞ることはできませんが、徳川家の扱いが定まっていなかったことが背景にあります。12月9日に辞官納地の方針は決まったものの、実行が定まらないまま、大政奉還の約2か月半後に鳥羽・伏見で開戦しました。
絵画「大政奉還」は誰が描いたのですか?
日本画家の邨田丹陵です。明治神宮外苑の聖徳記念絵画館にある壁画80点の1つで、慶喜の孫にあたる徳川慶光の依頼により1935年に完成しました。描かれた日付と部屋には見方が分かれています。
インタビュー後記|「同じ日」と書きかけた日付
戊辰戦争の記事を書いたとき、私は年表に「大政奉還と同じ日付で討幕の密勅」と書きました。公開前に読み直して、島津久光父子あてが13日付、毛利敬親父子あてが14日付だと分け直しました。
事典を読み直すと、密勅が手渡されたのは14日で、文書の日付は13日と14日に分かれていました。手渡した日と、文書に書かれた日付は別のものです。今回の記事は、その反省から日付を1件ずつ当てることを最初に決めました。
なぜ政権を返したのかについては、事典も研究者も、それぞれ違う言葉で説明していました。本記事は、そのどれかを選びませんでした。慶喜AIにも、胸の内は語らせていません。
言い切れないことを言い切らないという、慶喜AIの決まり文句をそのまま記事の方針にした形です。
広ク天下之公議ヲ尽シ,聖断ヲ仰ギ
出典:コトバンク「大政奉還」(改訂新版 世界大百科事典)が引く上表文の一節
政権を返したあと、その「公議」がどこで行われるはずだったのか。返された朝廷にすぐ担当できる実力はなかった、と歴史館は書いています。
返す側と受け取る側のあいだに、その空白を残したまま、2か月半後に鳥羽・伏見の開戦を迎えます。
2027年の大河ドラマ『逆賊の幕臣』は小栗忠順が主人公です。公式の物語紹介に大政奉還の名は出てきませんが、小栗が反対したと事典が記すこの出来事が、どう描かれるのかを見てみたいと思っています。あらすじの整理はこちらです。
参考資料
- コトバンク「大政奉還」(デジタル大辞泉・精選版 日本国語大辞典・改訂新版 世界大百科事典・日本大百科全書・百科事典マイペディア・山川 日本史小辞典 改訂新版・ブリタニカ国際大百科事典・旺文社日本史事典)※定義、10月14日上表・15日勅許、西暦1867年11月9日、10月3日の建白(日本大百科全書・ブリタニカ)と板倉勝静、6日の芸州藩、12日・13日の諮問、永井尚志の起草、上表文の一節、武家伝奏、慶喜の意図についての各事典の解釈、西周「議題草案」、薩土盟約と3藩協定、諸藩の反応、「武家政治は終了した」の要約の根拠
- コトバンク「討幕の密勅」(日本大百科全書・山川 日本史小辞典・デジタル大辞泉・ブリタニカ)※13日付(島津父子)・14日付(毛利父子)、正親町三条実愛から大久保利通・広沢真臣へ、花押がないこと、偽勅説、「密勅の名分は失われた」「取消しとなった」の根拠
- コトバンク「王政復古」(デジタル大辞泉・改訂新版 世界大百科事典ほか)※慶応3年12月9日=1868年1月3日、大号令が大政返上と将軍職辞退を受けたこと、幕府・摂関の廃絶と三職の根拠
- コトバンク「小御所会議」※辞官納地の決定、山内豊信・松平慶永の主張の根拠
- コトバンク「徳川慶喜」(ブリタニカ・山川 日本史小辞典・日本人名大辞典+Plus・新訂 政治家人名事典 明治~昭和ほか)※生没、慶応2年12月5日の将軍宣下、在職期間の書き方が割れること、「在職わずか1年」(新訂 政治家人名事典)の根拠
- コトバンク「公議政体論」(旺文社日本史事典・山川 日本史小辞典ほか)※定義と提唱者の根拠
- コトバンク「船中八策」(山川 日本史小辞典・日本大百科全書ほか)※「示したといわれる」の留保、6月に長崎から上京する船中で示したとされることの根拠
- コトバンク「後藤象二郎」(日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)※「竜馬の大政奉還策を…現実化することにつとめた」(世界大百科事典)、建白運動の主導と家老昇進(日本大百科全書)の根拠
- コトバンク「山内豊信」(日本大百科全書・ブリタニカ)※建白の動機(武力行使を伴わず藩体制の温存)、小御所会議で岩倉と激論の根拠
- コトバンク「永井尚志」(山川 日本史小辞典)※若年寄格、上表文の起草の根拠
- コトバンク「板倉勝静」※老中として建白書を取り次いだことの根拠
- コトバンク「小栗忠順」(デジタル版 日本人名大辞典+Plus・ブリタニカほか)※「大政奉還に反対し」「大政奉還に反対して、慶応4(1868)年1月免官」の根拠と、日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典・マイペディアが態度に触れていないことの根拠
- コトバンク「版籍奉還」(改訂新版 世界大百科事典ほか)※明治2年6月17日、土地と人民の返上、藩主が知藩事になったことの根拠
- 国立国会図書館「近代日本人の肖像」徳川慶喜※生没年月日(1837年10月28日〜1913年11月22日)、「大政奉還を行い、徳川家の復権を図る」の根拠
- 国立国会図書館「史料にみる日本の近代」1-2 坂本龍馬の政体構想※船中八策から土佐藩建白、新政府綱領八策(石田英吉関係文書・長府博物館)、伏字部分に諸説があることの根拠
- 国立国会図書館「史料にみる日本の近代」[新政府綱領八策](テキスト)※翻刻と「慶応丁卯十一月 坂本直柔」の署名の根拠
- 国立国会図書館「史料にみる日本の近代」1-3 議題草案※西周の政体案が慶応3年11月に平山敬忠に提出され、王政復古で実現しなかったことの根拠
- 国立国会図書館 国際子ども図書館「大政奉還|テーマ解説|中高生のための幕末・明治の日本の歴史事典」※10月3日の建白、掲載資料「土佐藩大政奉還建白書写」(三条家文書)の根拠
- 国立国会図書館 国際子ども図書館「新政府綱領八策|史料編」※慶応3年11月、暗殺の数日前、「坂本直柔」の根拠
- 国立国会図書館 NDLサーチ『昔夢会筆記 : 徳川慶喜公回想談』(東洋文庫、平凡社)※書誌(徳川慶喜著・渋沢栄一編)の根拠。本記事は本文を確認していない
- 国立公文書館「日本のあゆみ」慶応3年12月「王政復古の大号令が発せられる」※神武創業への復古、摂政・関白の廃止、三職の設置の根拠
- 元離宮二条城「二の丸御殿・庭園」※「大政奉還が表明された大広間」の写真キャプションの根拠
- 元離宮二条城「二条城の歴史」※10月14日の申し出と15日の許可、「江戸幕府の幕は降ろされました」の根拠
- 明治神宮外苑「聖徳記念絵画館」※壁画80点、「大政奉還 作者 邨田丹陵」の根拠
- 東京文化財研究所「聖徳記念絵画館壁画完成式」(東文研アーカイブデータベース)※1936年4月21日の完成式の根拠
- 茨城県立歴史館「Ⅳ徳川慶喜大政奉還する」※「どこで=御所」、大沢基寿の参内、13日の在京40藩の重臣、15日の小御所での御沙汰書、政権一元化の3つの道、朝廷に実力がなく実務は幕府に委ねられたこと、外国公使への通告の根拠
- 茨城県立歴史館「Ⅲ徳川慶喜15代将軍となる」※9月21日の内大臣任官と二条城入り、12月12日からの大坂滞在、1月6日の大坂城脱出の根拠
- 松戸市戸定歴史館「徳川慶喜・昭武関係年表 一」※5月24日の兵庫開港勅許、10月3日、10月14日、10月24日「将軍職を辞す」、12月12日、1月6日、2月12日の寛永寺の根拠
- 京都市 大政奉還150周年記念プロジェクト「幕末コラム」第1回「大政奉還の真相」(青山忠正、佛教大学)※10月24日の将軍の辞表は受理が保留され、12月9日の政変で将軍辞任が認められたことの根拠
- 美術展ナビ「【レビュー】『大政奉還』を描いた知られざる画家『邨田丹陵-時代を描いたやまと絵師』」※徳川慶光の依頼、13年、1935年10月完成、二条城での取材の根拠
- 美術展ナビ「【本郷和人の皇室のお宝拝見】邨田丹陵《大政奉還》」※描かれた場面を10月12日・黒書院とする本郷和人氏の説と、襖の桜という根拠
- WEB歴史街道「なぜ徳川慶喜は大政奉還を受け入れたのか? 見誤った薩摩藩の内情」(山本博文)※薩摩藩士の暴発への不安という説明、出典に『昔夢会筆記』を挙げることの根拠
- JBpress「大政奉還後も実権を握ろうとした?慶喜の終焉と現代から見た評価」(町田明広)※「慶喜が政治を執れる見通しがあった」、「議題草案」を根拠とすることの根拠
- 和樂web「徳川慶喜はなぜ政権を返上したのか。『大政奉還』によって何が起きなかったかを考える」(大山格)※尊王思想と対外的な実務判断という説明、出典に『徳川慶喜公伝』『昔夢会筆記』を挙げることの根拠















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