小栗忠順が生きていたら?忠順AIが語る「もう一つの世界線」とは

oguri alive eyecatch 生きていたら

幕末の資料を読んでいると、何度も出会う一文があります。「小栗忠順が生きていたら、官軍は負けていた」という言い回しです。

どこから来た話なのか気になって、出どころをたどってみました。行き着いたのは1928年に出た一冊で、その本はさらに、大正期に出た別の伝記を典拠として挙げていました。

この記事の結論

小栗忠順が生きていたら歴史がどうなったのかは、確かめようがありません。 この問いについて史料から確認できるのは、江戸城での主張が採用されず、役を解かれたという事実までです。

一方で、小栗が建設にあたった横須賀製鉄所の工事は、幕府が倒れたあとも止まりませんでした。新政府に引き継がれ、1871年(明治4年)に1号ドックが完成しています。

引き継がれたのは事業のほうで、引き継がれなかったのが本人だった、ということになります。この記事では3つの「もしも」を、史料で確認できることと、後世の本が語っていることに分けて見ていきます。

  • 満40歳
    没年齢(数え年42歳)
  • 65日
    権田村で過ごした日数
  • 1928年
    その言葉が載る本の刊年

そして今回は、忠順AI(小栗忠順をモデルにしたAI)にも登場してもらいます。

※以下のインタビュー部分は、公開されている史料をもとに小栗忠順の人物像を再現した創作です。実際の発言をそのまま掲載したものではありません。

また、小栗の没後に起きた出来事については、後の世に残された記録として伝えたうえで語ってもらう形にしています。

筆者
筆者

小栗さん、本日はよろしくお願いします。

あなたについては「生きていたら日本は変わっていた」という語られ方をよく見かけます。まずは、そう語られることをどう受け止められますか。

忠順AI
忠順AI

さてさて、面映ゆい話にて候。

私は目の前の帳面と鉄を相手にしていたにすぎませぬ。もしもの話は、後の世の方々がふくらませたものでありましょう。

とはいえ、そのふくらんだ話の元をたどるというなら、喜んでお付き合いいたします。

小栗忠順はどんな人物だったのか|「もしも」の前に史実をそろえる

「もしも」を考える前に、小栗忠順という人物の輪郭を確認しておきます。

項目内容
名前小栗忠順(おぐり ただまさ)
生没年1827年(文政10年)〜1868年(慶応4年)。満40歳、数え年42歳
出身江戸・神田駿河台(現在の東京都千代田区)
立場旗本。目付・外国奉行・勘定奉行などを歴任
主な仕事遣米使節の目付として渡米、横須賀製鉄所の建設、幕府の財政・軍制改革
最期1868年5月27日、水沼河原(現在の群馬県高崎市倉渕町水沼の烏川の河原)で斬首

小栗は江戸の旗本の家に生まれ、1860年(万延元年)に遣米使節の目付としてアメリカへ渡りました。フィラデルフィアの造幣局で日米の金貨を分析させた交渉で知られます。

帰国後は外国奉行や勘定奉行を務め、フランスの技術を導入した横須賀製鉄所の建設にあたりました。幕府の財政と軍制の立て直しにも関わっています。

この記事が扱うのは、その小栗が処刑されなかった場合の「もしも」です。

なお処刑の日については、閏4月6日とする資料が多い一方、『日本大百科全書』のように閏4月5日と記す事典もあります。

小栗が実際に何をした人だったのかは、こちらの記事で詳しくまとめています。

小栗忠順が生きていたら?3つの「もしも」を史実から検証する

ここからが本題です。小栗忠順が慶応4年の春を生き延びていたら、何が起きていたのか。

そんな「もう一つの世界線」を、3つの「もしも」で考えます。先に、それぞれの史実を並べておきます。

この記事で考える3つの「もしも」
  • もしも①:主戦論が通っていたら内戦はどうなったか → 史実は容れられず、役を解かれた
  • もしも②:明治まで生きていたら新政府に入ったか → 史実は横須賀が本人抜きで引き継がれた
  • もしも③:郡県制と借款の構想が続いていたら → 史実は兵庫商社が幕府とともに消えた

どれも、史料でたどれる線と、後世の本がふくらませた線が入り混じっているテーマです。1つずつ分けて見ていきましょう。

主戦論は容れられず、役を解かれた|もし通っていたら

もし小栗忠順の主戦論が通っていたら、戊辰戦争はどうなっていたのでしょうか。 まず、答えから聞いてみます。

忠順AI
忠順AI

私が申したことは容れられませなんだ。それが答えにございます。

城中で主戦を唱えたと、そなたらの世の史料は伝えておるようですな。決めるのは私ではござらぬ。

そのあと役を解かれ、上州へ引きましたよ。

史料でたどれるのは、まさにここまでです。順を追って確認します。

慶応4年(1868年)1月の鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が敗れ、大坂にいた徳川慶喜は海路で江戸に戻りました。この直後の江戸城で、小栗は徹底抗戦を主張しています。

『日本大百科全書』は「薩長に対しては主戦論を唱えたが、幕軍が鳥羽・伏見の戦いに敗れるや上州へ隠退」と簡潔に記しています。主張は通らなかった、というのが事典の書き方です。

なお事典は「隠退」と書き、東善寺の略歴は「御役御免」と記します。自分から退いたのか役を解かれたのかは、資料によって書き方が分かれます。

その後の日程を並べると、時間の短さが分かります。

日付(和暦)出来事
慶応4年1月3日〜6日(1868年1月27日〜30日)鳥羽・伏見の戦い。旧幕府軍が敗れる
慶応4年1月15日(1868年2月8日)小栗が御役御免となる(東善寺の略歴)
慶応4年3月1日(1868年3月24日)許可を得て上野国権田村へ移り、帰農する
慶応4年3月15日新政府軍が江戸総攻撃の予定日としていた日
慶応4年4月11日(1868年5月3日)東征軍が江戸城に入城し、江戸が開城する
慶応4年閏4月6日(1868年5月27日)水沼河原(烏川の河原)で斬首される

役を解かれてから最期まで、およそ3か月半です。江戸城が明け渡されたとき、小栗はすでに江戸を離れていました。

高崎市の資料によれば、小栗が権田村で過ごしたのは65日でした。この間に邸宅の建設を計画し、用水の整備にも手をつけています。

つまり「主戦論が通っていたら」という問いは、通らなかったという結果のほうがはっきりしている問いです。作戦の中身がどう伝わってきたのかは、後の章でたどります。

筆者
筆者

役を解かれたあと、権田村では何をしていたのですか。

忠順AI
忠順AI

田畑と用水の算段にございます。

帳面を合わせることと、水を引くことは、案外よく似ておりましてな。

江戸で果たせなんだ分を、土の上でやってみるつもりでありました。

横須賀は本人抜きで引き継がれた|明治まで生きていたら

小栗忠順が明治まで生きていたら、新政府に登用されていたのでしょうか。 これも、答えから聞いてみます。

忠順AI
忠順AI

それは私には分かりませぬ。

ただ、横須賀の槌の音が止まらなかったと聞けば、それだけで十分にございます。

誰が鳴らしたかは、二の次のことでありましょう。

登用されたかどうかは分かりません。一方で、事業のほうが引き継がれたことは記録に残っています

横須賀市は「明治元(1868)年、江戸幕府が崩壊し、明治政府が樹立されると、横須賀製鉄所は明治政府に引き継がれました」と書いています。フランス人技師ヴェルニーも、幕府が崩れたあと帰国せずに職務を続けたと同市は書いています。

明治4年(1871年)1月に1号ドックが竣工し、同年4月に横須賀造船所へ改称されます。明治5年までは旧暦なので、西暦の1月とは重なりません。ただし『山川 日本史小辞典 改訂新版』は、設備の大半が未完成のまま明治政府へ引き継がれたと記しています。

では、旧幕臣が新政府で働いた例はあったのでしょうか。実際にありました。

新政府で職に就いた旧幕臣の例
  • 榎本武揚:函館で新政府軍に抵抗して降伏したのち、海軍卿や逓信大臣などを歴任しました
  • 勝海舟:江戸城の明け渡し交渉にあたり、明治政府では海軍卿などを務めました
  • 確認できるのはここまで:小栗がどう扱われたかを示す記録は、今回確認できませんでした

ここで気をつけたいのは、他の幕臣が登用されたことは、小栗も登用されたはずだという根拠にはならないということです。

榎本は降伏して黒田清隆の庇護を受け、勝は明け渡しの交渉にあたりました。小栗は取り調べらしい取り調べもないまま斬首されており、そもそも土俵が違います。

言えるのは、小栗が関わった事業は本人抜きで続いたという一点だけです。横須賀の1号ドックは、いまも在日米海軍横須賀基地のなかで使われており、日本遺産の構成文化財にも数えられています。

小栗自身が、その完成を見ることはありませんでした。1号ドックが竣工したのは、処刑から3年近くたった明治4年1月のことです。

少なくとも事業については、小栗の存命とは関わりなく明治政府へ引き継がれたことが確認できます。分からないのは、新政府が小栗という人をどう扱ったか、という一点です。

その権田村で捕らえられ、翌日までに斬られるまでの経緯は、史料をつき合わせると食い違いが残ります。

小栗と同じ幕臣でありながら、まったく違う道を歩いた勝海舟については、こちらの記事で紹介しています。

兵庫商社は幕府とともに消えた|郡県制と借款の構想が続いていたら

小栗が構想していた仕組みが続いていたら、日本の近代化はどう変わっていたのでしょうか。 ここでも、答えから聞いてみます。

忠順AI
忠順AI

金と仕組みがなければ、船も兵も動きませぬ。

私が手をつけたのは、そのための箱をこしらえることでございました。

箱が残ったかどうかは、そなたらの世の記録に聞くほかありませぬな。

小栗が関わった構想は、いずれも十分な定着には至りませんでした。ただし止まった理由は同じではありません。

まず3つを並べてみます。

小栗が関わった3つの構想と、その後
  • 兵庫商社(1867年):勘定奉行の小栗が設立を提案し、提案書で初めて「商社」の語を使ったとされます
  • フランスからの借款:1866年に600万ドルの契約を結びましたが、大部分は実現しませんでした
  • 郡県制の構想:封建制を廃す企てとして事典に記されますが、幕府内の反対で成功していません

順に確かめます。国立国会図書館の解説によれば、慶応3年に勘定奉行の小栗が商社の設立を提案し、その提案書で初めて「商社」という言葉が使われました。

ただし柚木学氏の論文(『社会経済史学』1969年)は、兵庫商社が合名会社として構成され、幕府の崩壊とともに消滅したと整理しています。本記事は抄録を確認したにとどまります。

借款のほうも同じです。『改訂新版 世界大百科事典』は、1866年に600万ドルの借款契約を結び、軍艦や銃砲の購入費にあてる予定だったと記します。『日本大百科全書』は、それが幕府倒壊で大部分実現しなかったとしています。

郡県制については、事典も構想と実現を分けて書いています。 『ブリタニカ国際大百科事典』は「封建制を廃止して郡県制の樹立を企画し」と書き、同じ文のなかで「幕府内の反対派に制止されて成功しなかった」とも記しています。

兵庫商社と借款は幕府の崩壊が直接影響し、郡県制は幕府内の反対で実現しなかったと記されています。止まり方を一括りにはできません。

構想があったことと、それが実行できたことも別です。小栗の構想が後の廃藩置県につながった、と言える材料は今回確認できませんでした

筆者
筆者

金と仕組みをそろえても、時間が足りなかったということでしょうか。

忠順AI
忠順AI

左様、足りませなんだ。

ただ、足りぬのは金ではなく、世の合意のほうでありました。

帳面は一人でも書けますが、国は一人では動きませぬ。

「我々は幾んど生命がなかつたであらう」という大村益次郎の言葉とされる述懐を、出どころまでたどる

冒頭に書いた「小栗が生きていたら官軍は負けていた」という語り方には、よりどころとされる言葉があります。新政府軍を指揮した大村益次郎が、上野戦争のあとに語ったとされる述懐です。

今回たどれたのは、この言葉が1928年の本に載っており、その本が大正期の伝記の該当頁を典拠に挙げている、というところまでです。

順に見ていきます。まず、多くの記事が引く形の原文はこれです。

上野戰爭後大村益次郞や江藤新平なぞと云ふ參謀軍監が集つて、いろ〳〵の話をして居ると、大村が論じて云ふには、幕府で若し小栗豐後守の献策を用ひて、實地にやつたならば、我々は幾んど生命がなかつたであらう

出典:蜷川新『維新前後の政争と小栗上野の死』(日本書院、1928年)「小栗の作戦計画に驚歎したる大村益次郎」の節

大意は「もし幕府が小栗の献策どおりに実行していたら、我々はほとんど命がなかっただろう」です。この言い換えは本記事によるもので、原文にあるわけではありません。

続く部分には、作戦の中身も書かれています。箱根の関を開いて新政府軍を江戸に入れ、そのうえで関を閉ざし、木曽路も塞いで包囲するという趣旨です。軍艦で駿河と大坂湾を突く案も添えられています。

ここで大事なのは、蜷川がこの箇所の典拠として別の伝記を挙げているという点です。同書は典拠をはっきり書いています。

たどった段階何が書かれているか
現在の記事・ブログ「大村益次郎が戦慄した」という形で紹介される
蜷川新『維新前後の政争と小栗上野の死』(1928年)大村の述懐として引用し、典拠を明記する
菴原鉚次郎・木村知治『土方伯』(1913年刊、1914年に再版)398〜402頁蜷川が典拠として挙げている伝記
大村益次郎本人1869年に襲撃され死去。本人の記録は今回確認できていない

『土方伯』は土佐出身の政治家・土方久元の伝記で、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されています。ただし、本記事は該当頁の原文を確認していません

蜷川がどちらの版を見たのかも特定できていません。国立国会図書館の書誌では1913年刊と1914年の再版が確認できます。

つまり、大村自身の記録は今回確認できておらず、蜷川が伝記の該当頁を典拠に挙げている、というところまでが今回たどれた経路です。同書にどのような形で収められているかは、本記事では確かめられていません。

同じ本には、小栗の家族についての記述もあります。序文を寄せた山川健次郎は、小栗の妻が幼い娘を連れて会津へ身を寄せた経緯を、親戚の横山家の人々から聞いた話として書いています。

筆者
筆者

ご自身の献策が、敵方の指揮官にそこまで言われたと聞いて、いかがですか。

忠順AI
忠順AI

その話は私の耳には入っておりませぬ。

後の世の書物に載っておると聞けば、悪い気はいたしませぬがな。

ただ、用いられなんだ策は策ではござらぬ。そこは違えぬようにお願い申す。

現代における「小栗忠順が生きていたら」の教訓とは

小栗忠順の「もしも」から、現代の私たちが考えられることをまとめます。ここからは筆者の解釈です。

小栗の歩みから考えられること
  • 仕組みは人より長く残る:本人が消えても、横須賀の工事は止まりませんでした
  • 主張だけでは組織は動かない:どんな構想も、組織のなかで採用されなければ実行に移りません
  • 語りは出どころで変わる:同じ逸話でも、誰が書いたかで意味が変わります

1つめは、この記事でいちばん確かめられたことです。小栗が関わった事業は新政府に引き継がれ、ドックは150年以上たったいまも現役です。

2つめは、少し苦い教訓です。小栗の主張は、少なくとも記録の上では採用されていません。構想の中身がどうであれ、組織が動かなければ実行には移らない、ということでもあります。

3つめは、調べていて痛感した点です。「大村が戦慄した」と要約されるこの話も、たどると1928年の本が別の伝記を典拠に挙げているところに行き着きます。出どころをたどるかどうかで、同じ話の重さは変わります。

忠順AI
忠順AI

ここからは創作としての物言いと思われよ。私がそう考えた証しは、どこにも残っておりませぬゆえ。

そのうえで申せば、国を動かすのは志だけではなく、金と仕組みと人でありましょう。

そなたらの世でも、そこは変わっておらぬのではありませぬかな。

小栗忠順のような人物が現代にいたとしたら、あなたはどんな問いを投げかけますか。

「小栗忠順が生きていたら」というテーマによくある質問

小栗忠順が生きていたら、明治政府で働いていたのですか?

分かりません。榎本武揚や勝海舟のように新政府で職に就いた旧幕臣はいますが、小栗がどう扱われたかを示す記録は今回確認できませんでした。

確認できるのは、横須賀製鉄所が明治政府に引き継がれ、1871年に1号ドックが完成したことです。

小栗忠順が主張した作戦とは、どんな内容だったのですか?

箱根の関を開いて新政府軍を江戸に入れ、関を閉ざして包囲するという趣旨で伝わっています。

ただし1928年の本に載る記述で、さらに大正期の伝記を典拠とします。小栗本人が書き残した作戦書は、今回確認できていません。

小栗忠順はなぜ処刑されたのですか?

高崎市の文化財情報は「何の取り調べもなく」斬首されたと記しています。「反逆の企て」があるとされた、という書き方もされています。

理由を確定できる史料は乏しく、資料によって説明が分かれます。

小栗忠順と勝海舟は、どちらの考えが正しかったのですか?

どちらが正しかったかを決められる材料はありません。小栗は抗戦を主張し、勝は江戸城の明け渡し交渉にあたりました。

結果として江戸は慶応4年4月11日(1868年5月3日)に開城し、小栗の主張は採られていません。評価は資料で分かれます。

小栗忠順の家族はその後どうなったのですか?

東善寺の略歴によれば、養嗣子の又一忠道は小栗の翌日に斬首されています。同じ略歴は21歳と記しますが、満年齢か数え年かは書かれていません。

妻の道子は幼い娘を連れて会津へ逃れたと伝えられ、明治18年(1885年)に亡くなりました。

インタビュー後記

今回は忠順AIと一緒に、「小栗忠順が生きていたら」という問いを考えてみました。

書きながら、いちばん手が止まったのは大村益次郎の言葉でした。引用を並べていくほど、本人から遠ざかっていくという感覚があったからです。

大村本人の記録は確認できず、1928年の本が伝記の頁を典拠に挙げている。そうした記述が、後世には「小栗が生きていたら官軍は負けた」という形に要約され、いまも繰り返されています。

それでも、この問いが消えないのは理由があると思います。引き継がれたものと、引き継がれなかった人の落差が、あまりにはっきりしているからです。

横須賀のドックは現役で、兵庫商社は消えました。その両方を見比べるための入口として、「もしも」は案外まっとうな問いなのかもしれません。

2027年の大河ドラマでは、この幕臣がどう描かれるのでしょうか。あなたなら、小栗にどんな「もう一つの世界線」を託しますか。

参考資料

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