テレビが赤城山を掘っていたのを覚えている方は、けっこう多いのではないでしょうか。掘った穴は直径100メートル、深さ60メートル。それでも小判は出ませんでした。
では、何を根拠に掘っていたのか。そこが気になって調べ始めたのですが、根拠とされた文書は雑誌に載った「写し」で、原物を第三者が確認した記録にはたどり着けませんでした。
この記事の結論
徳川埋蔵金が埋められたことを示す史料は、今回確認できませんでした。 語られてきた額も100万両から400万両まで資料ごとに動き、どれも出どころをたどれません。
ただし、「埋蔵金などなかった」と証明する史料も確認できていません。幕府の財政帳簿そのものが、新政府にほとんど引き継がれていないからです。
- 1928年
「信じ難き風説」と書かれた年(赤城山と小栗を結んだ記述として今回たどれた最古) - 約4千〜1万円
幕末の1両の目安(2016年の米価による試算) - 0枚
テレビ発掘で出た小判(今回確認できた範囲)
この記事では、いつこの話が生まれ、何を根拠に掘られてきたのかを、戦前の判決文や公的機関の資料からたどります。
そして今回は、忠順AI(小栗忠順をモデルにしたAI)にも登場してもらいます。今回確認できた資料では、赤城山と小栗を結びつける話は小栗の没後に現れます。本人に聞けば答えが出る、という筋の話ではありません。
分からないことは分からないと答える、慎重な語り口の対話としてお読みください。
※以下のインタビュー部分は、公開されている史料をもとに小栗忠順の人物像を再現した創作です。実際の発言をそのまま掲載したものではありません。
また、小栗の没後に広まった話については、後の世に伝わったものとして伝えたうえで語ってもらう形にしています。

小栗さん、本日はよろしくお願いします。
さっそくですが、あなたが幕府の金をどこかへ隠したという話が、いまも語られています。

はて、面妖な話にて候。
私が上州の権田村へ移りましたのは、役を解かれたあとのことでございます。その後に世で何が語られたかは、私の与り知らぬところ。
そなたらの世の書物が何を伝えておるのか、むしろ私のほうがうかがいたく存ずる。
徳川埋蔵金とは?語られている話を一覧で確認
まず、どういう話として語られているのかを並べます。大事なのは中身よりも、それぞれの出どころのほうです。
| 語られていること | 内容 | 出どころ | 今回確認できたこと |
|---|---|---|---|
| 埋めた人 | 大老・井伊直弼が計画し、勘定奉行の小栗忠順らが実行したとされる | 後世の書籍や映画の解説 | 計画を伝える同時代の史料は確認できず |
| 場所 | 群馬県の赤城山。群馬県内だけで20か所以上の説がある | 川口素生『徳川埋蔵金検証事典』(高崎市立中央図書館が紹介) | 説が多数あることは図書館の記録で確認できる |
| 金額 | 250万両・350万両・360万両・400万両 | 資料ごとに異なる | いずれも根拠をたどれず |
| 根拠の文書 | 小栗の部下・中島蔵人が遺言で伝えたとされる銅板 | 1932年11月号の『日の出』『実業之日本』に「写し」が載る | 募集に使われたのは写し。原物は確認できず |
| 発掘 | 明治期以降、断続的に行われてきた | 水野家、そしてテレビ番組 | 小判が出土したという記録は確認できず |
この5つのうち、幕末の同時代史料までたどれるものは、今回一つもありませんでした。 埋めたとされる時期の文書ではなく、後の世に書かれたものばかりが根拠になっています。
なお、家康が遺した金銀が久能山に納められたという「久能山御蔵金銀」は、歴史事典に項目のある別の話です。埋蔵金伝説と混ぜないほうがよいものです。

並べていただくと、よく分かり申す。
私が関わったとされる話が、私の死んだあとに書かれた物ばかりを根拠にしておるわけですな。
勘定を預かった者として申せば、金の出入りは帳面で確かめるもの。それができぬのであれば、話は話のままにござる。
赤城山と小栗が結びついたのはいつか|1928年の「信じ難き風説」
「明治から語り継がれてきた」と紹介されることの多い伝説ですが、活字でたどると、印象がかなり変わります。
| 年 | 記述された内容 | 資料 |
|---|---|---|
| 1877年 | 「徳川埋蔵金引上け願書」が東京府に提出される | 東京都公文書館所蔵の公文書 |
| 1898年 | 小栗が「幕府の金銀兵械を私窃した」と訴えられ、それが捕縛と斬首の口実になったと伝える | 田辺太一『幕末外交談』 |
| 1928年 | 「赤城山に三百五十万両を埋めしなぞの話は、信じ難き風説である」 | 蜷川新『維新前後の政争と小栗上野の死』 |
| 1929年 | 赤城山ではなく子持山だとする新説を新聞が報じる | 『東京二六新聞』8月14日付(判決文に転載された見出しで確認) |
| 1933年 | 発掘の資金を公募した団体が詐欺罪に問われる(1935年に刑が確定) | 『判決要録』第25巻(1935年刊) |
| 1943年 | 「荒唐無稽の流説に過ぎない」 | 神長倉真民『明治維新財政経済史考』 |
1877年の願書は、徳川家の埋蔵金の引き上げを願い出たもので、場所を赤城山とはしていません。1898年の記述も、小栗が幕府の金を持ち出したという嫌疑の話で、赤城山は出てきません。
赤城山と小栗を結びつけた記述で今回たどれた最も古いものは、1928年の刊本です。
しかもそれは、埋蔵金を紹介する文ではありません。小栗の伝記が、わざわざ一節を割いて否定している文章です。
著者の蜷川新は、小栗の妻の妹の子にあたる人物です。身内の立場から書かれた本にあたります。
その本が「権田村には二三千両の家柄上何人も所持したる金を持ち行きしに過ぎず」と書き、莫大な公金を隠したという話を風説として退けています。
少なくとも1928年には、著者がわざわざ否定に触れるほど、この説が存在していたことは分かります。
1943年の神長倉真民も同じ立場です。輸送力の面から、こう書いています。
馬の背に千兩函二ツといふ當時の輸送力からいつても、そんな大金は容易に動かせるものでない
現代語訳馬の背に千両箱二つという当時の輸送力からいっても、そんな大金は簡単に動かせるものではない
出典:国立国会図書館デジタルコレクション 神長倉真民『明治維新財政経済史考』(東邦社、1943年)コマ259
ここで一つ、はっきりさせておきます。明治期の新聞や雑誌は、今回使った全文検索の対象に入っていません。「1928年より前にはなかった」ではなく、「今回確認できた範囲では1928年が最も古い」ということです。

あなたの伝記が、埋蔵金の話をわざわざ否定していました。1928年の本です。

私の死から六十年ののちでございますか。
その頃には、そうした説がすでに語られておった、ということなのでしょうな。
人は、消えた金の話を好むものと見えます。御用金をめぐる噂は、いつの世にも立つものでございましょう。
赤城山は誰が掘ってきたのか|水野家と1933年の詐欺事件
赤城山の発掘といえば水野家です。明治期から三代にわたって掘り続けたと紹介されます。ところが、その出発点の説明が資料によって食い違います。
- 初代の名前が「水野智義」とするものと「水野友義」とするもので分かれる
- 銅板の出どころが「屋敷の井戸の底」と「近所の寺の縁の下」で分かれる
- 発掘の年数が「三代110年」と「父子二代で30余年」で分かれる
- 中島蔵人が遺したものが「遺書」なのか「臨終の遺言」なのかも分かれる
この食い違いが確認できるのは、後世の資料同士を比べただけではありません。1935年に刊行された判決集に、当時の説明がそのまま記録されているからです。
1933年、東京の神田に「埋宝発掘同志会」という団体ができました。新聞に広告を出して発掘資金を募り、2,189名から合計およそ35,370円を集めています。
判決文を読むと、広告では赤城山と書きながら、趣意書では隣の子持山を埋蔵地と特定して募集していました。前年に「透視した」という人物の話が発端だとされています。
この団体は詐欺罪に問われました。二審の判決文が『判決要録』第25巻に収められ、いまは国立国会図書館デジタルコレクションで誰でも読めます。
判決文には、募集に使われた資料の中身まで列挙されています。そこにこう書かれています。
水野氏所藏ト稱スル埋藏金額埋藏地目標並秘文ヲ刻セル銅板ノ寫
現代語訳水野氏が所蔵しているという、埋蔵金の額と埋蔵地の目印と秘密の文言を刻んだ銅板の写し
出典:国立国会図書館デジタルコレクション『判決要録』第25巻(法律新聞社、1935年)コマ904
つまり1933年の時点で、募集に使われたのは銅板そのものではなく、雑誌に載った写しでした。判決文によれば、その写しが載ったのは1932年11月号の『日の出』と『実業之日本』です。
原物は「水野氏が所蔵していると称する」ものと書かれています。第三者が原物を確かめた記録には、今回たどり着けませんでした。
広告の文面も判決文に引用されています。
上州赤城山ニ幕末軍用金二百五十萬兩(時價一億餘萬圓)ヲ埋藏セルコトハ總テノ記錄ニモ明カデアル
出典:同(コマ904)
どの記録なのかは、広告に書かれていません。 この団体は詐欺罪に問われ、1935年2月に上告が棄却されて刑が確定しています。

発掘資金の募集で根拠として示されたのは、銅板そのものではなく、雑誌に載った写しだったようです。

写しをもって金の在りかを定めるとは、危ういことにござる。
写しは、元の帳面と引き合わせて初めて用をなすものと心得ます。
引き合わせる相手がおらぬ写しは、何も申しておらぬのと同じでございましょう。
「400万両」はどこから出た数字なのか
いまの記事の多くは「400万両」と書きます。ところが戦前にさかのぼると、額は一定していません。
| 年 | 語られていた額 | 資料 |
|---|---|---|
| 1928年 | 三百五十万両 | 蜷川新『維新前後の政争と小栗上野の死』(否定の文脈) |
| 1933年 | 軍用金250万両(時価1億余万円) | 埋宝発掘同志会の新聞広告(詐欺事件の判決文に引用) |
| 1943年 | 「世に伝へられる…百万両」 | 神長倉真民『明治維新財政経済史考』(否定の文脈) |
| 1993年 | 四百万両 | 『上州路』236号「赤城埋蔵金の四百万両を追う」(高崎市立中央図書館の紹介で確認) |
| 現在 | 360万両・400万両 | 多くの記事。勝海舟の日記が根拠とされる |
今回確認した戦前の資料では、100万両から350万両のあいだで揺れていました。400万両という数字は、1993年の地方誌で確認できます。 それがいつ、どのように広まったのかは特定できませんでした。
勝海舟の日記に「360万両」はあるのか
360万両の根拠として、しばしば名前が挙がるのが勝海舟の日記です。そこで『海舟日誌』(1907年刊)の全文にあたりました。
今回確認できた範囲では、360万両という記述にたどり着けませんでした。 代わりに見つかったのは、慶応2年4月23日の条にある「三百万両」です。
又聞く、近日御藏金の大法馬金の方七ツ、銀の方十幾ツ、御出方に成ると云。跡は各一箇ヅヽ御貯 且此金銀大凡三百萬兩位に宛つと云。
現代語訳また聞いたところでは、近いうちに御蔵金の大法馬金が、金は7つ、銀は十幾つ、支出に回されるという。あとは各1つずつを残すだけになる。この金銀はおよそ300万両ほどにあたるという。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション『海舟日誌』(開国社、1907年)慶応2年4月23日条
大法馬金とは、非常用に備蓄された大型の分銅形の金塊を指します。通説とは、4つの点が違っています。
- 額は300万両で、360万両ではない
- 「軍用金」ではなく大法馬金、つまり備蓄用の分銅形の金塊を指している
- 貯め込んでいる話ではなく、放出されて各1つずつしか残らないという話
- 「又聞く」「…と云」と、海舟自身が伝聞であることを示している
1943年の神長倉真民も、同じ条を「三百万両」として引用しています。そのうえで、残った分銅は慶応4年2月末まで幕府の手にあったがその行方は分からないと書き、幕府にこの分銅以外の大きな蓄えはなかった、と述べています。
なお、今回確認したのは1907年に刊行された本の文面であり、自筆日記の原本ではありません。
現代の価値は、資料によって桁が合わない
「現在の価値で20兆円」という言い方もよく見かけます。こちらは、さらに根拠が見当たりません。
1933年の広告は、250万両を「時価1億余万円」としていました。現在は20兆円とするものや、3,000億円とする解説記事があります。
試算した人と計算の根拠を示した資料は、今回一つも確認できませんでした。 どれも「一説では」「ともいわれており」という書き方です。
なお、書名に「200兆円」「300兆円」を掲げた埋蔵金の本もありますが、これらは各地の埋蔵金伝説をまとめて扱ったもので、徳川埋蔵金だけの評価額ではありません。並べて比べられる数字ではないので、ここでは外します。
では、まじめに換算するとどうなるのか。公的機関が目安を示しているので、そちらを見ます。
幕末の1両は今のいくらなのか
換算の目安は、公的機関が示しています。日本銀行金融研究所の貨幣博物館です。
ただし同館の見出しは「答え:簡単には言えません」です。江戸時代は約260年と長く、比べる品物によっても変わるため、一つに決められないと明記しています。
そのうえで館は、米を基準にした目安を示しています。1867年(慶応3年)頃の1両で買えた米はおよそ15〜30キログラム。2016年の米価で計算すると、幕末の1両はおおよそ4千円から1万円程度になります。
この目安から単純に掛け算をすると、400万両はおよそ160億円から400億円になります。20兆円という言い方とは、500倍から1,250倍の開きがあることになります。
念のため書き添えますが、この掛け算は筆者が当てはめたもので、貨幣博物館が示した数字ではありません。年次によって換算のもとになる米価も変わります。
幕末の小判は、思われているより小さい
もう一つ、物としての小判も見ておきます。同じ貨幣博物館の展示図録に、こう書かれています。
最初につくられた慶長小判と最後の万延小判を比べると、1両の重さは約6分の1になり、含まれている金の量は約9割減った、と。
同館の別の資料は、具体的な数値も挙げています。万延小判は1枚3.3グラムで含まれる金はおよそ2グラム、慶長小判は17.9グラムで金は約15グラムです。
仮に400万両を万延小判400万枚として思い浮かべるなら、実物は想像よりかなり小型だということになります。同じ400万両でも、時期によって含まれる金の量はまったく違います。

幕末の小判が、これほど軽くなっていたとは知りませんでした。

万延の改鋳のことでございますな。小判の量目を減らし、外との金銀の釣り合いを直そうとしたものにて候。
私も渡米の折、フィラデルフィアの造幣局で日米の金貨を量り、分析を求め申した。金の含みが違えば、同じ一両でも値打ちは違う。
一両という呼び名だけを見て額を語るのは、勘定としては粗うございます。
幕末の幕府に、隠せるほどの金はあったのか
ここまでは伝説の側を見てきました。今度は、幕府の懐具合のほうを見ます。
改鋳の益金で、なんとか年を越していた
幕府の財政は、幕末に入ると年貢だけでは回らなくなっていました。頼りにしていたのは、貨幣を作り替えたときに生じる差益(出目)です。
長岡大学の研究論叢に載った論文が、飯島千秋の研究を要約してこう書いています。元治元年(1864年)の上洛と長州征討の費用90万両あまり、朝廷関係費50万両、賊徒追討費30万両が、443万両あまりの改鋳益金で賄われた、と。
年貢の収納は限界に達しており、収支は改鋳の利益で辛うじて保たれていた。同論文はそう説明しています。そして、改鋳の益金で収支の均衡を保つ枠組みが続いたのは慶応2年(1866年)頃までとみられる、とも書いています。
- 元治元年の巨額の支出は、年貢ではなく改鋳の益金で賄われた(443万両あまり)
- 慶応2年には大坂・兵庫・西宮の商人へ、御用金として最高額の700万両が課された
- 三井に課された150万両は、交渉の末に最終的に18万両の分納へ減額された
- 慶応3年の兵庫商社は、100万両の金札を発行する計画が実際には1万両にとどまった
同じ『海舟日誌』には、その4か月前にあたる慶応元年12月29日の条もあります。
或は聞く、蓮池御金藏の御金三十餘萬兩御取出と。是は全く御軍用の御豫備なりしに、御費用繼ぎ難き故と云。
現代語訳ある人が聞いたところでは、蓮池の御金蔵から30万両あまりが取り出されたという。これはまったく軍用の予備であったのに、経費が続かないためだという。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション『海舟日誌』(開国社、1907年)慶応元年12月29日条
海舟は、軍用に備えていた金が経費不足のために取り崩されたと、伝聞の形で書き留めています。 埋蔵金が語られる時期の幕府が、どういう状態だったかをうかがわせる記述です。
御用金について、少し補足します。事典によれば、本来は利子をつけて年賦で返す借上金でした。それが幕末には元金も返されなくなり、半ば強制的な献金になっていきます。
大事なのは、課した額と集まった額は別物だということです。700万両を課したことと、700万両が集まったことは、まったく違います。
「江戸城の金蔵は空だった」はどこまでたどれるのか
埋蔵金の話は、たいてい同じ場面から始まります。新政府が江戸城に入ったら金蔵が空だった、という場面です。
しかし、この話を一次史料や研究書までたどることは、今回できませんでした。
事典の「江戸開城」の項目にあたっても、御金蔵や金銀の記述は見当たりません。書かれているのは、城郭を尾張藩が、武器を熊本藩が管理したというところまでです。
「空だった」と書いているのは、買取業者のコラムや埋蔵金を扱った一般書の系統でした。そこから先へさかのぼれませんでした。
では中身はどうだったのか。ここについては、日本銀行金融研究所の研究論文に踏み込んだ記述があります。
論文は、幕府の貨幣がいったん御金蔵に納められてから市中へ払い出された仕組みを説明したうえで、こう書いています。
御金蔵の出納実態を知りうる史料の残存に限りがあるため、出納の全体像を時系列で把握することは困難である。(中略)御金蔵からの払出数量は把握できない
出典:藤井典子「幕末期の貨幣供給:万延二分金・銭貨を中心に」『金融研究』2016年4月号、日本銀行金融研究所
つまり、空だったかどうかを論じるための史料そのものが乏しい、ということです。埋蔵金がなかったと証明することも、この方向からはできません。
同じ論文には、埋蔵金の話に直接かかわる記述もあります。江戸城内に保管されていた備蓄の金塊(大分銅金)が、安政3年に始まる二分金の鋳造にあたって鋳潰された、というものです。
先に引いた『海舟日誌』の記述と合わせると、備蓄の分銅は幕末を通じて減っていったことになります。全部が失われたわけではなく、慶応2年の時点ではまだ複数あったと伝聞では書かれています。
帳簿そのものが失われている
もう一つ、この話を難しくしている事情があります。幕府の財政帳簿の原史料が、ほとんど知られていないのです。
三井文庫の論叢に、こう書かれています。幕府勘定所の史料はほとんど新政府に継承されず、わずかな引継文書も罹災したため、原史料がほとんど知られず、大名家の史料などから少しずつ発掘が進められている、と。
幕臣の人事に関する文書は「多聞櫓文書」として国立公文書館に残りました。失われたのは、財政の全体が分かる帳簿のほうです。
これがどれほどのことだったかは、明治政府自身の言葉に表れています。大蔵省は幕府財政の実態を記した本がなくて困り、勝海舟に編纂を依頼しました。こうしてできたのが『吹塵録』です。
この事実は、埋蔵金の話に両方向へ効きます。原史料が知られていないのだから「なかった」とは言い切れません。
同時に、今回確認した史料では「400万両」という数字を裏づけられませんでした。勘定所の原史料が乏しいため、幕府財政の全体像から検証することも難しい状況です。どちらか一方の根拠には使えません。

幕府の帳簿が、そもそも残っていないのですね。

それは口惜しい話にございます。
勘定所の帳面は、年ごとに積み上げてこそ意味を持つもの。失われたのであれば、後の世の者は確かめようがありますまい。
分からぬことを分からぬままにしておく。それもまた、勘定を預かる者の務めでございましょう。
テレビは何を掘り当てたのか|1990年からの発掘
赤城山の発掘を全国に広めたのは、1990年に始まったTBS系の企画です。糸井重里さんが進行役を務めました。
| 時期 | 出てきたもの |
|---|---|
| 1990年3月 | 第1回発掘を開始。透視による場所の特定から入る |
| 1990年11月 | 岩盤が崩れて中断 |
| 1991年9月 | 炭。高さ1メートル・奥行き7メートルの空洞 |
| 1991年11月 | 茶碗、木片 |
| 1992年2月 | 針金の巻かれた木、丸太、壁。雪と泥水で中断 |
| 1992年7月 | 最大の高さ5メートルのトンネル |
| 1992年11月 | 石垣。以後は何も出ず |
| 2008年・2016年・2017年 | 特番として再開。いずれも発見の報はなし |
1992年までの各回は、制作側が1999年に公開した連載の記述によります。2008年以降は放送時の番組情報で確認しました。なお、番組シリーズの開始を1990年6月とする資料もあります。
出てきたのは、穴・空洞・石垣・炭・茶碗・木片です。小判や金塊が出土したという記録は、今回一つも確認できませんでした。
番組側の総括も残っています。制作側が公開した企画書に、こう書かれています。
掘った穴は直径100メートル、深さ60メートルにまで達しました。そこには、地下を縦横無尽に走る迷路のような穴や、何かを隠すために積まれたとしか考えられない石垣などが発見されました。しかし結局、肝心の埋蔵金を探し当てることは出来ませんでした
出典:ほぼ日刊イトイ新聞「ヘルメットをかぶった経済番組をご一緒に。」掲載のTBS番組企画書
さらに企画書は、地下の穴について「この穴は、御用金を隠すためにいくつか掘られたダミーの一つではなかったのか」という結論を出し、発掘の終結を宣言したと記しています。
注意したいのは、発掘の根拠とされた物証が、番組の過程で否定されていることです。
純金とされた「黄金の家康像」について、この連載は、のちに銅製で、しかも発掘地とは別の場所で出土したものと判明したと注記しています。当時の糸井さんの発言も記録に残っています。
これまでに根拠とされてきた家康像だとか銅版だとか、地図だ記号だというものが気持ちよく否定されたことで、謎解きに頼る発掘が、惑わされるもとだということが確信できて、とてもよかったと思います
出典:ほぼ日刊イトイ新聞「ヘルメットをかぶった経済番組をご一緒に。」第14回
地下の穴の由来にも、反論があります。埋蔵金研究家の八重野充弘さんは自身のサイトで、あの穴は埋蔵当時のものではなく、昭和13年頃に埋蔵金探しのために掘られたものだと書いています。
同じ掘り方の穴が近くにもあった、という指摘です。
なお、発掘の期間と回数は資料によって説明が分かれます。「約2年半で計10回」とするものと「足かけ6年」とするものがあり、一致しません。
年数だけ挙げると誤解を生むので書き添えますが、2014年の『徳川埋蔵金伝説 大発掘プロジェクト2014 将軍家の暗号』はテレビ番組ではなく、同年8月に劇場公開されたドキュメンタリー映画です。

くり返し掘って、出てきたのは穴と石垣でした。

掘った者たちを笑う気にはなれませぬ。
ただ、根拠とした品が途中で否定されたのであれば、そこで立ち止まるのが理にかなっておりましょう。
見込みが外れたと認めるのは、勘定でも普請でも、いちばん骨の折れるところにござる。
小栗忠順はなぜ埋蔵金と結び付けられたのか
ここで、この記事を書いている当サイトの事情を少し申し上げます。小栗忠順の記事をいくつか書いてきて、埋蔵金の話は避けて通れませんでした。
小栗が結び付けられた理由の一つは、勘定奉行として幕府財政を担う立場にあったことです。しかも役を解かれたあと、上州の権田村へ移り、その近くの水沼河原で斬られています。
金を扱う役目の人物が、山あいの村で命を落としました。そこに物語が入り込む余地があった、ということでしょう。
- 1898年の刊本は、小栗が「幕府の金銀兵械を私窃した」と訴えられ、それが捕縛の口実になったと伝えている
- ただし同書の著者は「小栗上野介の家に遺財あるまじき」と、その噂を否定している
- 高崎市や群馬県の観光・文化財の解説に、埋蔵金の記述は今回確認できなかった
- 事典の「小栗忠順」の項目にも、埋蔵金や軍用金への言及は見当たらない
- 岩波書店の書籍紹介は、埋蔵金の噂を「処刑後の掠奪を招いた背景」として挙げている
最後の点は大事だと思います。この本の内容紹介は、埋蔵金を「あったかどうか」としてではなく、噂が掠奪を招き、その結果として小栗家の史料が根こそぎ失われたという文脈で扱っています。
菩提寺である東善寺の姿勢も、はっきりしています。公式サイトは「通説の誤り」というページで埋蔵金説を取り上げ、小栗が慶応4年1月15日(1868年2月8日)に勘定奉行などを免じられ、後任へ引き継がれている事実を挙げたうえで、こう書いています。
「幕府再興のため任期中に埋めた」という話は、小栗上野介の人物を知らないオハナシ。埋める金があれば、いま活かして使う人物です。
出典:東善寺「通説の誤り」
電話番号の欄にも「埋蔵金がらみの電話は一切お断りしています」と書かれています。
顕彰会の機関誌『たつなみ』も、埋蔵金を3度取り上げています。表題は「埋蔵金よもやま話し」「小栗の埋蔵金の真偽を正す」「誤伝、赤城の小栗埋蔵金」です。東善寺と顕彰会は、この話を誤伝として扱ってきました。
ただし、寺の姿勢に動きもあります。2026年6月の新着情報で、住職が前澤辰雄『上州倉賀野河岸』の記述を紹介しています。
新政府軍が倉賀野の河岸問屋まで「重いどっしりした荷物」を捜索したという記録があり、これまで根も葉もない話として触れないできたが見過ごせない、という趣旨です。
つまり「金が埋まっていた」ではなく、「金があると思って探した側がいた」という方向の話です。ここは混ぜないほうがよいところでしょう。
小栗がなぜ斬られたのかについては、別の記事で史料を並べています。

1898年の本は、あなたが金を持ち出したという訴えが、捕縛の口実になったと伝えています。

そのような疑いをかけられたと、そなたらの世の書物は伝えておるそうですな。
私が申せるのは、勘定を預かる者が疑われるのは世の常だということだけにて候。
その噂が村を騒がせ、のちに家の物まで奪われたのだとすれば、やりきれぬ話でございます。
かごめかごめと日光東照宮|暗号説の出どころ
埋蔵金の話には、童謡「かごめかごめ」が暗号だという説がついてきます。「鶴と亀がすべった」が場所を示している、というものです。
この説について調べた結果を先に書きます。誰がいつ言い出したのかは、今回特定できませんでした。
- 書籍として今回確認できた最も古い例は、山中廣稔『謎解き紀行徳川埋蔵金 上』(随想舎、2007年)
- 事典の「かごめかごめ」の項目は、暗号説に触れていない
- 公立図書館のレファレンス記録でも、暗号を扱った資料はほとんど挙がらない
- 歌の成立年代も作者も特定されていない、というのが図書館の回答
そして、この説にとって都合の悪い事実があります。「鶴と亀がすべった」という歌詞が、江戸期の文献では確認できないのです。
江戸期の文献に記録された歌詞は「つるつるつっぺぇつた」「つるつるつるつゝぱつた」といった形だとされ、鶴と亀がそろって出てくる形は、今回確認した範囲では見当たりませんでした。「うしろの正面」も、明治末期より前の文献では確認されていないとされます。
ただし、ここは本記事が原典にあたったものではありません。江戸期の文献の歌詞は、他の資料が紹介しているのを参照した段階です。
公立図書館のレファレンス記録も、歌詞の原型・成立年代・作者は特定されていないとしています。暗号だと解釈されている歌詞そのものが、後の時代に定着した形である可能性が高いことになります。

歌の詞を手がかりにするのであれば、まずその詞がいつの形かを確かめねばなりますまい。
後の世で整うた形をもって、前の世の隠し事を解こうというのは、順序が逆さまではありますまいか。
日光東照宮を埋蔵金の場所とする説も同じです。候補地を挙げている資料をたどると、旅行ガイドブックや一般向けの埋蔵金本に行き着き、誰の説なのかが示されていません。
今回確認した日光東照宮と久能山東照宮の公式サイトでは、埋蔵金についての記述を見つけられませんでした。すべてのページを見たわけではありません。

かごめかごめの『鶴と亀』は、江戸時代の記録に見当たらないそうです。

歌の詞が世につれて変わるのは、よくあることにございましょう。
確かめようのないものを手がかりにすれば、行き着く先もまた定まりませぬ。
もっとも、謎かけを楽しむ気持ちまで否むつもりはございませぬ。
徳川埋蔵金を見つけたら誰のものか|民法と文化財保護法
もし見つけたら、という話も検索されています。ここは法律で決まっているので、条文で確かめました。
| 場面 | どうなるか | 根拠 |
|---|---|---|
| 見つけた直後 | 速やかに警察署長へ提出する。拾得の日から1週間以内に提出しないと、報労金や所有権取得などの権利を失う | 遺失物法4条1項・34条2号 |
| 持ち主が現れないとき | 公告から6か月で発見者のものになる。他人の土地から出た場合は、発見者と土地所有者が等しい割合で取得する | 民法241条 |
| 持ち主が現れたとき | 返還したうえで、品物の価格の5〜20%にあたる報労金を請求できる | 遺失物法28条 |
| 文化財と鑑査されたとき | 所有者が不明なら、その都道府県のものになる。発見者と土地所有者へ価格に相当する額の報償金が支給され、両者が別なら折半 | 文化財保護法101条・102条・105条 |
| 埋蔵文化財の調査目的で発掘するとき | 着手の30日前までに文化庁長官へ届け出る | 文化財保護法92条 |
よく混同されているのが、3段目と4段目です。5〜20%の報労金は、持ち主が現れて返した場合の話で、文化財として扱われる場合の報償金とは別の制度です。
小判や古銭などの出土品が文化財らしいと認められる場合は、教育委員会による鑑査の対象になります。文化財と認められ所有者が分からなければ「価格に相当する額」の報償金が出ますが、価格を決めるのは都道府県です。
なお、他人の山を勝手に掘る行為は、そもそも別の問題になります。土地の持ち主への賠償だけでなく、刑事責任を問われる可能性もあります。
実際に大量の銭が出土した例はあります。愛知県東海市の畑間遺跡では、常滑焼の壺から4,196枚が出土しました。北海道函館市の志海苔で見つかったものは、重要文化財としての指定員数が374,435枚にのぼります。
いずれも中世の備蓄銭で、幕府の御用金ではありません。ただ、土の中から銭がまとまって出てくること自体は、実際に起きています。
よくある質問(FAQ)
徳川埋蔵金は見つかったのですか?
見つかったという記録は、今回確認できませんでした。テレビの発掘では穴・空洞・石垣・炭・茶碗などが出ていますが、小判や金塊の出土は確認できていません。
徳川埋蔵金はいくらあるといわれているのですか?
資料によって異なります。1928年の伝記は三百五十万両、1933年の広告は250万両、1943年の専門書は「世に伝えられる百万両」としています。根拠とされる勝海舟の日記にあったのは「三百万両」でした。
徳川埋蔵金はどこに埋まっているといわれているのですか?
もっとも広く知られているのは群馬県の赤城山です。『徳川埋蔵金検証事典』では、群馬県内だけで20か所以上の説が項目立てされています。ほかに日光東照宮なども挙げられますが、誰の説なのかは示されていません。
なぜ徳川埋蔵金は見つからないのですか?
理由を説明できる資料は、今回確認できませんでした。ただし、募集に使われた銅板が写しであったことや、発掘の根拠とされた家康像が別の場所の出土品と判明したことは確認できます。
小栗忠順は本当に埋蔵金を隠したのですか?
隠したことを示す史料は今回確認できませんでした。1898年の刊本は、小栗が幕府の金銀を持ち出したと訴えられたと伝えていますが、著者自身はその噂を否定しています。菩提寺の東善寺も、埋蔵金の話を長く誤伝として扱ってきました。
かごめかごめは徳川埋蔵金の暗号なのですか?
そう語られることはありますが、誰がいつ言い出したのかを今回特定できませんでした。暗号の核心とされる「鶴と亀がすべった」という歌詞は、江戸期の文献では確認できません。
徳川埋蔵金を見つけたら、もらえるのですか?
拾得の日から1週間以内に警察署長へ提出するのが前提です。持ち主が現れなければ公告から6か月で発見者のものになりますが、他人の土地から出た場合は土地所有者と等しい割合です。文化財と鑑査されれば都道府県のものになり、報償金が出ます。
インタビュー後記|消えた金より、消えた帳簿
調べ始めたときは、埋蔵金があるかないかを見極めるつもりでした。書き終えてみると、引っかかったのは別のところです。
幕府の財政帳簿の原史料が、ほとんど知られていない。 明治政府は幕府財政の実態を記した本を持っておらず、勝海舟に編纂を頼んでいます。金蔵の出納を追える史料も乏しい、と研究論文は書いています。
確かめる手段が乏しい場所に、物語が入り込みます。今回確認した資料では、戦前に100万両から350万両と幅があり、1993年には400万両、近年には20兆円という換算例が見つかりました。
ただし、その数字がどう受け継がれたのかは特定できませんでした。幕府財政の原史料から検証することも、現状では難しいままです。
そしてもう一つ。研究書の内容紹介では、埋蔵金の噂が処刑後の掠奪を招いた背景として説明されています。残らなかったものの多さのほうが、この話の本題なのかもしれません。
赤城山を掘った人たちを、笑うつもりはありません。掘った範囲から金が出なかったという記録が残ったのは、それはそれで一つの仕事だと思います。
小栗忠順が何をした人だったのかは、こちらの記事で紹介しています。
同じ幕末の金と財政を、別の立場から見ていた人物についても書いています。

消えた金より、消えた帳簿。良い見立てにござる。
数字は、確かめる手立てがあってこそ数字にて候。手立てを失えば、それはただの言い伝えでございます。
そなたらの世に、私の勘定の帳面が残っておらぬのは、返す返すも残念なことでございますな。
参考資料
- 国立国会図書館デジタルコレクション 蜷川新『維新前後の政争と小栗上野の死』日本書院、1928年 ※「赤城山に三百五十万両を埋めしなぞの話は、信じ難き風説である」の出典
- 国立国会図書館デジタルコレクション『判決要録』第25巻、法律新聞社、1935年 ※「赤城山埋蔵金発掘事件二審判決」。銅板の「写」、募集広告の250万両、発掘の代数の出典
- 国立国会図書館デジタルコレクション『海舟日誌』開国社、1907年 ※慶応2年4月23日条の「三百万両」(コマ124)と、慶応元年12月29日条の軍用予備の取り崩し(コマ117)の出典。※本記事が確認したのは1907年刊本の文面で、自筆日記の原本は確認していません
- 国立国会図書館デジタルコレクション『判決要録』第26巻、法律新聞社、1936年 ※1935年2月1日に上告が棄却され刑が確定したことの出典
- 東善寺「通説の誤り」 ※埋蔵金説を否定する立場と、小栗が免職されていた事実の指摘の出典
- 国立国会図書館サーチ 水野智之『赤城黄金追跡 : 水野家3代、執念の埋蔵金発掘110年』マガジンハウス、1994年 ※水野家の発掘についての書誌。※本記事は書誌を確認したにとどまり、本文は読んでいません
- 文化遺産オンライン(文化庁)「志海苔中世遺構出土銭」 ※重要文化財としての指定員数374,435枚の出典
- 国立国会図書館デジタルコレクション 田辺太一『幕末外交談』富山房、1898年 ※小栗が「幕府の金銀兵械を私窃」したと訴えられたことと、著者がそれを否定していることの出典
- 国立国会図書館デジタルコレクション 神長倉真民『明治維新財政経済史考』東邦社、1943年 ※「荒唐無稽の流説」と輸送力についての記述の出典
- 日本銀行金融研究所 貨幣博物館「江戸時代の1両は今のいくら?」 ※「答え:簡単には言えません」と幕末の1両の目安の出典
- 日本銀行金融研究所 貨幣博物館 常設展示図録「金貨の改鋳」 ※慶長小判と万延小判で重さが約6分の1、金の量が約9割減ったことの出典
- 藤井典子「幕末期の貨幣供給:万延二分金・銭貨を中心に」『金融研究』2016年4月号、日本銀行金融研究所 ※御金蔵の出納が把握できないこと、江戸城の備蓄金塊が鋳潰されたとみられることの出典。※同論文は日本銀行の公式見解ではない旨を明記しています
- 喬雪氷「徳川幕府の会計機構と帳簿組織からみる会計の本質」『長岡大学研究論叢』第20号、2022年 ※元治元年の改鋳益金443万両あまりの出典。飯島千秋の研究を要約した記述です
- 村和明ほか「天保期幕府財政の新史料(一)」『三井文庫論叢』47号、2013年 ※幕府勘定所の史料が新政府に継承されず失われたことの出典
- 国立公文書館「吹塵録」 ※大蔵省が幕府財政の実況を記した書がなく勝海舟に依頼したことの出典
- 三井文庫「三井と御用金」 ※慶応2年の150万両が最終的に18万両の分納へ減額されたことの出典
- コトバンク「御用金」 ※本来は利子付きの借上金であったこと、慶応2年に700万両が課されたことの出典
- 平池久義「小栗忠順と兵庫商社」山口大学学術情報リポジトリ ※兵庫商社の金札が100万両の予定に対し実際は1万両にとどまったことの出典
- レファレンス協同データベース(国立国会図書館)「群馬県における埋蔵金発掘について書かれている資料はあるか。」高崎市立中央図書館 ※群馬県内の候補地が20以上あることの出典
- 東善寺 ※「埋蔵金がらみの電話は一切お断りしています」の出典
- 東善寺「新着情報2026」 ※2026年6月20日付の記事。倉賀野河岸の捜索についての記述の出典
- 東善寺「たつなみ 総目次」 ※顕彰会の機関誌が埋蔵金を「誤伝」「真偽を正す」として扱ってきたことの出典
- 岩波書店 高橋敏『小栗上野介忠順と幕末維新 『小栗日記』を読む』2013年 ※埋蔵金の噂が処刑後の掠奪を招いたとする記述の出典。※本記事は内容紹介を確認したにとどまり、本文は読んでいません
- ほぼ日刊イトイ新聞「ヘルメットをかぶった経済番組をご一緒に。」 ※発掘の規模、終結宣言、家康像が銅製と判明した経緯の出典
- 八重野充弘「金井沢金山」 ※地下の穴が昭和13年頃の発掘によるものだとする指摘の出典
- 東洋経済オンライン「「20兆円、徳川埋蔵金」は本当に実在するのか 隠し場所は「赤城山」か「あの場所」か?」山岸良二、2017年 ※20兆円とする例。※本記事は見出しを確認したにとどまり、本文は読んでいません
- 講談社の動く図鑑MOVE「現在の価値で約3000億円!? 日本最大の財宝伝説 徳川埋蔵金のゆくえは?」 ※3,000億円とする例(「一説では現在の価値で約3000億円にもなるといわれています」)
- e-Gov法令検索 民法 ※241条の埋蔵物の発見と6か月、土地所有者との折半の出典
- e-Gov法令検索 遺失物法 ※4条の提出義務、28条の報労金、34条の権利喪失の出典
- e-Gov法令検索 文化財保護法 ※92条の届出、101条の提出・102条の鑑査・105条の帰属と報償金の出典
- 文化庁「埋蔵文化財」 ※出土品の提出と都道府県への帰属の出典
- 国立国会図書館サーチ 山中廣稔『謎解き紀行徳川埋蔵金 上』随想舎、2007年 ※かごめかごめの暗号説を扱った書籍として今回確認できた最も古い例の書誌。※本記事は書誌を確認したにとどまり、本文は読んでいません
- 映画.com「徳川埋蔵金伝説 大発掘プロジェクト2014 将軍家の暗号」 ※2014年の同名作品がテレビ番組ではなく劇場公開の映画であることの出典
- 東海市「畑間遺跡の大量出土銭」 ※常滑焼の壺から4,196枚が出土したことの出典
- コトバンク「江戸開城」(『日本大百科全書』ほかを収録) ※江戸開城の項目に御金蔵や金銀の記述が見当たらないことの出典
- コトバンク「小栗忠順」(『日本大百科全書』ほかを収録) ※事典の小栗忠順の項目に埋蔵金への言及が見当たらないことの出典
- レファレンス協同データベース(国立国会図書館)「童謡『かごめかごめ』の歴史と作者を知りたい」足立区立中央図書館 ※歌の成立年代や作者が特定されていないことの出典
- 東京都総務局「古文書解読チャレンジ講座 第18回 探索、埋蔵金」 ※明治10年の「徳川埋蔵金引上け願書」が東京都公文書館に所蔵されていることの出典






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