襲撃の3日前に、首謀者とされる人物はもう捕まっていました。
文久2年1月12日(1862年2月10日)、宇都宮藩主の侍講だった大橋訥庵が捕らえられます。計画の中心とされた人がいなくなっても、3日後の1月15日、6人は坂下門の外で老中の行列を襲いました。
この記事の結論
坂下門外の変は、文久2年1月15日(1862年2月13日)、老中の安藤信正が登城の途中、江戸城の坂下門の外で6人に襲われ、負傷した事件です。
なぜ起きたのかについて、事典は、安藤が進めた和宮降嫁への反発と、和宮を人質に天皇へ譲位を迫ろうとしているといううわさが世に広まったことを挙げます。襲った側の斬奸趣意書は、大橋訥庵が書いたとされています。
安藤は死なず、事件の3か月後に老中を退き、同じ年のうちに2万石を減らされ、永蟄居を命じられました。襲った6人は、全員がその場で斬殺されています。
- 6人
襲撃した人数(水戸藩士3人と、常陸・下野・越後の各1人) - 3日
首謀者とされる大橋訥庵の捕縛から事件まで - 26日
事件から和宮と将軍家茂の婚儀まで
語り手として、和宮AI(和宮をモデルにしたAI)と小栗忠順AI(小栗忠順をモデルにしたAI)に登場してもらいます。降嫁の当事者だった皇女と、事件の日に役のない身だった幕臣です。
※以下のインタビュー部分は、公開されている史料をもとに二人の人物像を再現した創作です。実際の発言ではありません。和宮は1877年9月2日(明治10年)に、小栗忠順は1868年5月27日(慶応4年閏4月6日)に亡くなっているため、それ以降の出来事は語りません。没後の出来事は筆者が伝え、それに答えてもらいます。
出典の確かめ方と、公開前に行っているチェックは編集方針にまとめています。

和宮さま、江戸の清水邸に入られたのが文久元年11月15日でした。その2か月後の1月15日に、降嫁を進めた老中の安藤さんが坂下門の外で襲われています。婚儀まで、あと26日という日でした。

京では、婚礼の前は家じゅうが静かに日を数えるものでございます。
その数える日のうちに、江戸では門の外で刀が抜かれたのでございますか。
降嫁を進めた方が襲われたと聞けば、わたくしの名まで門の外へ引き出されたような心地がいたします。
坂下門外の変とは?いつ・どこで・誰が誰を襲ったのか
坂下門外の変は、江戸城の坂下門の外で、登城途中の老中安藤信正が6人に襲われて負傷した事件です。安藤は死なず、襲った6人は全員が斬殺されました。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 読み方 | さかしたもんがいのへん |
| いつ | 文久2年1月15日(1862年2月13日)。和宮と将軍家茂の婚儀(2月11日)の直前 |
| どこで | 江戸城の坂下門の外。いまの皇居前広場に面した場所 |
| 誰が | 平山兵介ら6人。水戸藩士3人と、常陸・下野(栃木県)・越後(新潟県)出身の各1人 |
| 誰を | 老中の安藤信正(磐城平藩主)。登城の行列を襲った |
| 結果 | 安藤は負傷したが死なず。6人は全員が斬殺された。安藤は4月に老中を退いた |
参考:坂下門外の変|コトバンク
参考:江戸・東京事件の現場めぐり|千代田区観光協会
事件のときの安藤の名は信行で、信正と名のるのはそのあとです。改訂新版 世界大百科事典は「老中安藤信正(事件当時は信行)」と注を添えています。以下、事典の見出しにならって信正と書きます。
参考:安藤信正|コトバンク
場所の坂下門は、江戸城の内郭の門の一つで、西の丸の坂の下にあったことがその名の由来です。西の丸の裏門にあたり、大奥に近い通用門でした。
参考:坂下門|コトバンク
いまの坂下門は、事件のときと同じ姿ではありません。明治に入って橋と外側の高麗門が撤去され、残った渡櫓門だけが向きを90度変えて、現在の場所に移されました。
現在は宮内庁の出入口で、ふだんは通れません。新年一般参賀では帰り道の出口に、皇居乾通り一般公開では入口になります。乾通り一般公開は坂下門から入って乾門へ抜ける約750mの道のりです。
坂下門外の変はなぜ起きた?和宮降嫁と「廃帝」のうわさ
事件の背景にあったのは、安藤が進めた和宮降嫁と、和宮を人質にして天皇に譲位を迫ろうとしているといううわさでした。改訂新版 世界大百科事典は、このうわさが「世に流布した」と書いています。
桜田門外の変で大老井伊直弼が殺されたあと、安藤は久世広周とともに幕閣の中心に立ちました。二人が進めた公武合体は、朝廷と幕府が協力して政局の安定を図ろうとする政策で、和宮の降嫁もその一環でした。
- 安政7年3月3日(1860年3月24日)|桜田門外の変。井伊直弼の死後、安藤が久世広周とともに幕閣の中心に(改訂新版 世界大百科事典)
- 万延元年7月(1860年)|水戸・長州の激派が江戸湾の長州軍艦丙辰丸で、幕閣の改造をめざす盟約を結ぶ(日本大百科全書)
- 万延元年10月(1860年)|和宮降嫁の勅許。世界大百科事典は「孝明天皇に圧力をかけて」とする
- そのころ|和宮を人質にして条約の勅許を迫り、拒まれれば天皇に譲位を強要する、といううわさが世に流布(同)
- 文久元年5月28日(1861年7月5日)|水戸の攘夷派14人が東禅寺のイギリス仮公使館を襲う。安藤は水戸藩の責任を問い、家老を免職に(同)
- 文久元年11月下旬(1861年)|大橋訥庵と水戸藩の志士が安藤襲撃で一致し、1月15日の決行を定める(山川 日本史小辞典)
- 文久2年1月12日(1862年2月10日)|大橋訥庵が捕らえられる(日本大百科全書)
参考:坂下門外の変|コトバンク
参考:東禅寺事件|コトバンク
東禅寺事件のあと、水戸藩の攘夷派は追いつめられていきます。
日本大百科全書は、この襲撃で幕府のいっそうの弾圧を受け、藩内では保守派が勢力を得て、攘夷激派は立場を失ったと説明します。そこから、安藤を直接襲う計画へ向かいました。
「廃帝」のうわさは、水戸の側でも語られていました。茨城県立図書館のレファレンス回答は、『水戸市史 中巻(5)』に、大橋訥庵が「安藤が廃帝の故実を調べさせている」という風説を聞いた記述があると案内しています。
参考:坂下門外の変の廃帝の噂について|レファレンス協同データベース
事典も、レファレンスの回答が引く『水戸市史』も、これを「うわさ」「風説」として扱います。これらの記述は、譲位を迫るといううわさが広まっていたことを示すもので、安藤が実際にそう企てていたと断定できるものではありません。
和宮の降嫁そのものは、孝明天皇が攘夷の実行を条件に許したものでした。
ブリタニカ国際大百科事典は、この降嫁が「かえって倒幕論を高めた」とします。
参考:和宮降嫁問題|コトバンク
和宮が京を出てから江戸に着くまでと、婚儀のあとの歩みは、人物の記事でまとめています。

和宮さま、「人質」という言葉が、あなたの名前と一緒に世に流れていました。

京では、嫁ぐ者をそのようには呼びませぬ。
けれど、うわさは御所の塀も大奥の襖も越えてまいります。わたくしの手の届かぬところで、わたくしの名が刀の理由にされたのでございましょう。
そなたは、うわさと本当のことを、どうやって見分けておいでですか。

見分けるのは、いまでも難しいです。ただ、事件のあとも、婚儀は予定どおり2月11日に行われています。

日を延ばさなかったのでございますね。
延ばせば、門の外の6人の言い分のほうが通ったように見えましょう。
江戸の方々は、そういう勘定をなさったのでございましょうか。京の者には、少し寒い話でございます。
和宮降嫁の経緯を音声で追うなら、歴史作家の堀口茉純さんのオーディオブック「それなに?日本史」Vol.19があります。
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『小学生のうちに知っておきたいそれなに?日本史 Vol.19 〜皇女・和宮降嫁〜』
この作品の聴きどころ
- 作品紹介は、小学生のうちに知っておきたい内容としつつ、大人の学び直しにも向くとしています
- 和宮降嫁を主題にした巻です。坂下門外の変にどこまで触れているかは、本記事では確かめていません
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襲った6人は誰?名前・出身・最期を一人ずつ
襲ったのは6人で、全員がその場で斬殺されました。事典は「水戸浪士6名」「水戸・宇都宮浪士ら6名」とまとめ方が違いますが、人名辞典で1人ずつ当てると、水戸藩士が3人、常陸出身が1人、下野の医師の子が1人、越後出身が1人です。
| 名前 | 出身・立場 | 生没年(事典の数え年齢) | 東禅寺事件にも参加 |
|---|---|---|---|
| 平山兵介(ひらやま ひょうすけ) | 常陸・水戸藩士。一刀流の達人 | 1841〜1862年(22歳) | 記述なし |
| 小田彦三郎(おだ ひこさぶろう) | 常陸・水戸藩士 | 1833〜1862年(30歳) | 記述なし |
| 黒沢五郎(くろさわ ごろう) | 常陸・水戸藩士 | 1833〜1862年(30歳) | 参加(文久元年、有賀半弥らと) |
| 高畑房次郎(たかはた ふさじろう。通称は総次郎) | 常陸出身。人名辞典は水戸藩士とは書かない | 1828〜1862年(35歳) | 参加(文久元年、水戸藩士らと) |
| 河野顕三(こうの けんぞう) | 下野(栃木県)河内郡の医師の子 | 1838〜1862年(25歳) | 記述なし |
| 河本杜太郎(かわもと もりたろう) | 越後(新潟県)出身。芳野金陵に儒学を学ぶ | 1840〜1862年(23歳) | 記述なし |
参考:平山兵介|コトバンク
参考:黒沢五郎|コトバンク
参考:高畠総次郎|コトバンク
参考:河野顕三|コトバンク
参考:河本杜太郎|コトバンク
表の年齢は、日本人名大辞典の生没年から数えた数え年です。満年齢では1〜2歳若くなります。
6人のうち2人は、前の年の東禅寺事件にも加わっていました。黒沢五郎は有賀半弥らとイギリス公使館を襲い、高畑房次郎も水戸藩士らとともに仮公使館を襲っています。
日本大百科全書の数え方も、この内訳と合います。
平山兵介ら3名の水戸藩士を中心とする6名
出典:コトバンク「坂下門外の変」(日本大百科全書)
人名辞典で見るかぎり、6人のなかに宇都宮藩に仕えた人はいません。ブリタニカが「宇都宮藩士」と書くのは、計画の側です。
下野の河野顕三は、江戸で勤王の同志と交わり、外国奉行の堀利煕の屋敷に身を寄せていました。堀の自殺のあと、安藤襲撃の計画に加わります。越後の河本杜太郎は、久坂玄瑞らと交わりがありました。
6人のほかに、遅れて着いた人が1人いました。山川 日本史小辞典は、遅参した水戸浪士の川辺左次右衛門が萩藩に「斬奸趣意書」を届けて自刃した、と記します。今回開いた事典でこの人に触れるのは山川だけでした。
参考:坂下門外の変|コトバンク
水戸市の常磐共有墓地には、桜田門外の変や坂下門外の変に加わった人たちの墓がある、と水戸観光コンベンション協会は紹介しています。6人のうち誰の墓があるかまでは、そのページには書かれていません。
首謀者は誰?大橋訥庵と斬奸趣意書
立案の中心は宇都宮藩主の侍講だった大橋訥庵で、安藤の斬奸趣意書も大橋が執筆したとされています。日本大百科全書は、大橋を「幕府の否定を説く王政復古論者」と位置づけます。
- 大橋訥庵|1816〜1862年。江戸生まれ。佐藤一斎に学び、思誠塾を開く。日本橋の豪商大橋淡雅の婿養子で、宇都宮藩主の侍講
- 大橋の捕縛|文久2年1月12日(1862年2月10日)。山川 日本史小辞典は「3日前に別の嫌疑で」とする
- 大橋の最期|病のため出獄して宇都宮藩に預けられ、文久2年7月12日(1862年8月7日)没。数え47歳
- 菊池教中|大橋の義弟(夫人の弟)。宇都宮出身の江戸の豪商佐野屋2代目。捕らえられ、出獄まもない8月8日(9月1日)に病死
- 水戸藩側の計画者|野村彝之介、原市之進、下野隼次郎、住谷寅之介ら(日本大百科全書)
- 草莽の協力者|児島強介、下野真岡の小山春山、横田祈綱と2人の子、河野顕三ら(同)
参考:大橋訥庵|コトバンク
参考:菊池教中|コトバンク
大橋の最期については、事典のあいだで少し違いがあります。日本大百科全書・マイペディア・人名辞典は宇都宮藩に預けられたのちの死とし、ブリタニカは没地を江戸とします。マイペディアは毒殺説にも触れています。
日本大百科全書は、この事件を「宇都宮藩の尊攘派大橋訥庵ら」と水戸藩の志士の連合と説明します。宇都宮藩が藩として関わったという話ではありません。
斬奸趣意書の文面は、本記事では原文も翻刻も確認していません。言えるのは、大橋が執筆したとされること、山川が記すように川辺左次右衛門が萩藩に届けたこと、そして写しがいまも残っていることまでです。
写しの所在は、名古屋大学の目録で確かめられます。
高木家文書の「斫賊録」は内題を「壬戌正月十五日斬姦趣意書写」とし、大垣市の吉田家文書には「斬奸旨趣書(奸臣安藤対馬守罪状)」が伝わります。後者の作成者欄は「豊原邦之助」で、これは河本杜太郎の変名です。
参考:斫賊録|名古屋大学 高木家文書デジタルライブラリ
参考:斬奸旨趣書(奸臣安藤対馬守罪状)|名古屋大学 高木家文書デジタルライブラリ
どちらも目録の記載です。罪状の中身までは、ここからは分かりません。
安藤信正はどうなった?老中辞任から永蟄居、磐城平藩の落城まで
安藤は事件の3か月後に老中を退き、8月に隠居、11月に永蟄居を命じられました。処分の月日は、いわき市が市の公式Facebookで連載した「安藤信正生誕200年」の年譜で追えます。
負傷の程度は、今回開いた事典のどれにも書かれていません。
皇居外苑を管理する国民公園協会の解説は、背中に傷を負い、負傷しながら執務を続けたが「背中を負傷するなど武士の恥」と批判されたと記します。事典は「負傷」とだけ書き、退いた理由を傷に結びつけてはいません。
- 文久2年4月14日(1862年5月12日)|老中御役御免。事典は「4月」とし、「辞任」と書くものと「罷免」と書くものがある
- 文久2年のうち|2万石の減封。月日は今回確認できない
- 文久2年8月16日(1862年9月9日)|隠居・謹慎。実子の信民が家を継ぐ
- 文久2年11月20日(1863年1月9日)|永蟄居
- 文久3年8月10日(1863年9月22日)|信民が没し、10月2日(11月12日)に親戚の信勇が養子として藩主に
参考:市公式Facebook連載シリーズ「安藤信正生誕200年」|いわき市
参考:安藤信正|コトバンク
参考:磐城平藩|コトバンク
同じ時期に、もう一人の老中だった久世広周も退いています。文久2年6月に老中を辞め、8月に安藤とともに隠居と急度慎(きっとつつしみ)、11月に永蟄居でした。
参考:久世広周|コトバンク

小栗さん、襲われた側が役を退いて、隠居して、門まで閉じられる。8か月のうちにです。幕府では、これが普通だったのですか。

4月、8月、11月。役を退かせ、家を譲らせ、門を閉じさせる。一段ずつでございますな。
傷を負うたのも安藤殿、罰を受けたのも安藤殿。勘定が合わぬように見えますが、幕府の帳面はそう締めたわけでございます。
貴殿の世では、襲われた側が職を退く例はございますか。

責任を取って辞める話なら、いまもあります。ただ、領地までは削られません。安藤さんの減封は2万石で、5万石の4割でした。

5万から2万を引いて、3万石。
その3万石で、家中の扶持から城の修繕まで賄うわけでございますか。貴殿なら、まずどこを削りますか。
安藤の生まれは文政2年11月25日で、月日まで西暦に換算すると1820年1月10日です。
文政2年という年に西暦の年を対応させると1819年になり、事典の多くはこの形で書きます。デジタル大辞泉と日本人名大辞典は1820年としています。
江戸の蠣殻町に生まれ、弘化4年8月2日(1847年9月11日)に磐城平藩主となりました。寺社奉行・若年寄を経て、安政7年1月15日(1860年2月6日)に老中となっています。
老中になった日と襲われた日は、どちらも1月15日でした。
いわき市のページは、福地源一郎の『懐往事談』から、安藤を評した一節を引いています(ページの表記は『懐住事談・附新聞紙実歴』)。
其剛毅にして果断なると、其機敏にして神速なるには、各国公使も感服して畏敬を表したりき
出典:いわき市「安藤信正生誕200年」が引く福地源一郎『懐往事談』
安藤は慶応2年(1866年)に蟄居を許されました。その後、戊辰戦争で再び表に出ます。
磐城平藩は当初は恭順しましたが、慶応4年5月に奥羽越列藩同盟に加わりました。藩主の信勇は上洛ののち美濃の切通陣屋に滞在しており、隠居の信正がいわきにいました。
参考:安藤信正の死因について|レファレンス協同データベース
参考:磐城平城文献等調査報告書 第2章 領主の変遷と主な出来事|いわき市
磐城平城は慶応4年6月29日・7月1日・7月13日に攻撃を受け、7月13日(1868年8月30日)に落城しました。9月、信正の名で降伏状が出されています。
改訂新版 世界大百科事典の「磐城平藩」の項によれば、戦後に陸奥の磐井郡へ移されようとしましたが、中止されました。
参考:磐城平藩|コトバンク
落城のあと、仙台藩へ逃れる途中の雨宿りで詠んだと伝わる歌が、いわき市川前町の歌碑に刻まれています。観光サイトは、歌の出典を示していません。
志ばしとて雨宿りせむかひぞなく こころもぬるる山毛欅の下かげ
出典:いわき市観光サイト「安藤信正公歌碑」が伝える歌
安藤は明治4年10月8日(1871年11月20日)に亡くなりました。満51歳(数え年53歳)です。死因の病名は、いわき総合図書館のレファレンスでも特定できませんでした。分かるのは、亡くなる前に病に伏していたことだけです。
墓所は、磐城平藩の菩提寺だった浄土宗の良善寺(いわき市平古鍛治町107)にあるとされます。いわき市の調査報告書に載る肖像も「良善寺蔵」です。
いわき市平の松ヶ岡公園には銅像が立っています。初代は大正11年(1922年)6月に旧藩士の会の提唱で建てられ、昭和19年(1944年)1月に金属供出で失われました。
いまの像は昭和37年(1962年)7月に除幕された2代目です。作者は初代と同じ彫刻家の本多朝忠でした。
桜田門外の変との違いは?
大きな違いは、桜田門外の変では大老が殺され、坂下門外の変では老中が負傷して生きのびたことです。2年の間をおいて、同じ江戸城の門の外で、どちらも水戸の藩士・浪士を中心とする一団が、幕閣の中心にいた人物を襲いました。
| 項目 | 桜田門外の変 | 坂下門外の変 |
|---|---|---|
| 日付 | 安政7年3月3日(1860年3月24日) | 文久2年1月15日(1862年2月13日) |
| 襲われた人 | 大老の井伊直弼(彦根藩主) | 老中の安藤信正(磐城平藩主) |
| 襲った人数 | 18人(水戸脱藩17人・薩摩脱藩1人) | 6人(水戸藩士3人と常陸・下野・越後の各1人) |
| 結果 | 井伊は殺害された | 安藤は負傷したが死ななかった |
| 襲った側の最期 | 2人が生きのび、16人は闘死・自刃・刑死など | 6人全員がその場で斬殺 |
| 襲われた側の処分 | 彦根藩は文久2年に10万石を減らされた | 安藤は老中を退き、2万石減封、永蟄居 |
| 事典が書く政局への影響 | 幕府の権威の失墜、公武合体への転換 | 公武合体運動の退潮、尊王攘夷運動の高まり |
参考:坂下門外の変|コトバンク
襲った側の動機も、重なる部分と違う部分があります。桜田門外の変の斬奸趣意書は、勅許のない条約調印と安政の大獄を井伊の罪状に挙げていました。
坂下門外の変では、安藤が進めた和宮降嫁と、それに伴う「廃帝」のうわさが背景にあります。
もう一つの違いは、首謀者の捕縛です。桜田門外の変の総指揮だった関鉄之介は事件のあとに逃亡して捕らえられましたが、坂下門外の変の大橋訥庵は事件の3日前に捕らえられていました。
桜田門外の変の当日の様子と、襲った18人のその後は、別の記事で確かめています。
坂下門外の変の影響は?公武合体の退潮と尊攘運動
事件後、安藤は老中を退き、公武合体運動は退潮しました。一方で、朝廷の権威が増し、尊王攘夷運動が盛んになったと事典は説明しています。
参考:坂下門外の変|コトバンク
参考:磐城平城文献等調査報告書 第2章 領主の変遷と主な出来事|いわき市
日本大百科全書の見方は、ほかの事典と少し角度が違います。事件を水戸浪士の反発として見るだけでなく、商人や医師や学者といった「草莽」の人たちが幕府を批判した運動として位置づけているのです。
6人のなかに下野の医師の子と越後の儒学の徒がいたこと、計画の側に江戸の豪商がいたことは、この見方と重なります。
ただし、和宮の婚儀そのものは止まりませんでした。事件の26日後、文久2年2月11日(1862年3月11日)に、和宮と家茂の婚儀は江戸城で行われています。
参考:和宮|コトバンク
安藤が退いたあと、尊王攘夷の運動がどう広がり、誰が中心になっていったのかは、別の記事でたどっています。
事件の日、小栗忠順は何をしていた?大河『逆賊の幕臣』との関係
事件の日、小栗忠順は外国奉行を辞めてから半年、役のない寄合の身でした。勘定奉行になるのは、事件の約5か月後です。
小栗は万延元年に遣米使節の目付として渡米し、帰国後の11月に外国奉行となりました。
翌年はロシア軍艦ポサドニック号の対馬滞泊をめぐって現地で3回交渉しましたが退去には至らず、文久元年7月26日(1861年8月31日)に外国奉行を辞しています。
参考:小栗上野介の略歴|東善寺
次の役がつくのは、事件のあとです。文久2年3月9日(1862年4月7日)に書院番頭、6月5日(7月1日)に勘定奉行(勝手方)となりました。
事件の日に小栗がどこで何をしていたかは、今回確認できた史料にありません。
参考:小栗忠順|コトバンク

小栗さん、その日は何の役にもついていなかったのですね。

外国奉行を退いてから書院番頭の声がかかるまで、およそ7か月。暇な旗本でございました。
それでも対馬の始末の行方は気になっておったと、いま問われればお答えしとうございます。
その日のことは、お答えする数字を持ち合わせませぬ。
2027年の大河ドラマ『逆賊の幕臣』は小栗忠順が主人公で、制作発表の物語には「皇女・和宮の降嫁」が、幕府の財政を圧迫した出来事の一つとして挙げられています。
安藤信正を誰が演じるかは、2026年11月3日の時点で発表されていません。ザテレビジョンのキャスト一覧に安藤の名はなく、老中・幕閣で発表済みなのは阿部正弘役の岩田剛典さんと、井伊直弼役の岡部たかしさんです。
発表済みの配役と、人物どうしの関係はこちらにまとめています。

安藤さんは、あなたが対馬で交渉したポサドニック号の件を、老中として処理した人でもあります。

私は3度ビリレフと談判して、船を動かせなんだ。
半年のうちに、談判に出た者は役を退き、始末を引き受けた方は門の外で斬りつけられた。
外の国と向き合う役は、どちらに転んでも楽ではございませぬ。
小栗の生涯と、勘定奉行として手がけた仕事は、人物の記事で確かめています。
坂下門外の変の流れを年表で確認(和暦・西暦)
事件は、和宮の江戸到着から2か月後、婚儀の26日前に起きました。西暦の日付は、国立天文台の暦日データベースで和暦の月日を換算したものです。
| 和暦 | 西暦 | 出来事 |
|---|---|---|
| 文政2年11月25日 | 1820年1月10日 | 安藤信正、江戸に生まれる |
| 弘化4年8月2日 | 1847年9月11日 | 安藤、磐城平藩主となる |
| 安政7年1月15日 | 1860年2月6日 | 安藤、老中・外国御用に |
| 安政7年3月3日 | 1860年3月24日 | 桜田門外の変。安藤が久世広周とともに幕閣の中心に |
| 万延元年7月 | 1860年 | 水戸・長州の激派が丙辰丸で盟約 |
| 万延元年10月 | 1860年 | 和宮降嫁の勅許 |
| 万延元年12月5日 | 1861年1月15日 | ヒュースケン殺害事件 |
| 文久元年5月28日 | 1861年7月5日 | 東禅寺事件。黒沢五郎・高畑房次郎が参加 |
| 文久元年7月26日 | 1861年8月31日 | 小栗忠順、外国奉行を辞任 |
| 文久元年10月20日 | 1861年 | 和宮、京を出発 |
| 文久元年11月15日 | 1861年 | 和宮、江戸城北の丸の清水邸へ |
| 文久元年11月下旬 | 1861年 | 大橋訥庵と水戸藩の志士が安藤襲撃で一致 |
| 文久2年1月12日 | 1862年2月10日 | 大橋訥庵、捕縛 |
| 文久2年1月15日 | 1862年2月13日 | 坂下門外の変。安藤負傷、襲撃者6人は全員斬殺 |
| 文久2年2月11日 | 1862年3月11日 | 和宮と家茂の婚儀 |
| 文久2年3月9日 | 1862年4月7日 | 小栗、書院番頭 |
| 文久2年4月14日 | 1862年5月12日 | 安藤、老中御役御免 |
| 文久2年6月 | 1862年 | 久世広周、老中辞職 |
| 文久2年6月5日 | 1862年7月1日 | 小栗、勘定奉行(勝手方) |
| 文久2年7月12日 | 1862年8月7日 | 大橋訥庵没 |
| 文久2年8月8日 | 1862年9月1日 | 菊池教中没 |
| 文久2年8月16日 | 1862年9月9日 | 安藤、隠居・謹慎。信民が継ぐ |
| 文久2年11月20日 | 1863年1月9日 | 安藤、永蟄居 |
| 文久3年8月10日 | 1863年9月22日 | 信民没 |
| 慶応4年5月 | 1868年 | 磐城平藩、奥羽越列藩同盟に参加 |
| 慶応4年7月13日 | 1868年8月30日 | 磐城平城落城 |
| 慶応4年9月 | 1868年 | 信正の名で降伏状 |
| 明治4年10月8日 | 1871年11月20日 | 安藤信正没 |
| 大正11年6月 | 1922年 | 松ヶ岡公園に初代の銅像 |
| 昭和37年7月 | 1962年 | 2代目の銅像を除幕 |
和暦の年末の日付は、西暦では翌年になります。安藤の永蟄居は文久2年11月20日ですが、西暦では1863年1月9日です。
安藤の生まれも文政2年11月25日なので、日付を換算すると1820年に入ります。事典の「1819年」は年どうしを対応させた書き方で、誤りではありません。
黒船来航から幕府の終わりまでの流れは、学習まんがの通史でも追えます。桜田門外の変の記事でも紹介した巻です。
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この本の読みどころ
- 作品紹介によると、第11巻は「江戸時代後期」を扱い、【電子特別版】はまんがのみを収録した版です
- 目次の第3章「尊王攘夷」から第4章「江戸幕府の終わり」が、この記事の時期にあたります。作品紹介と目次に坂下門外の変の語はなく、事件がどう描かれるかは目次からは分かりません
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よくある質問(FAQ)
坂下門外の変とは何ですか?簡単に教えてください
文久2年1月15日(1862年2月13日)、老中の安藤信正が江戸城坂下門の外で登城の途中に6人に襲われ、負傷した事件です。安藤が進めた和宮降嫁への反発が背景にあり、安藤はその後、老中を退きました。
坂下門外の変はいつ起きましたか?何年ですか?
文久2年1月15日、西暦では1862年2月13日です。桜田門外の変(1860年)の2年後で、和宮と将軍家茂の婚儀(2月11日)の26日前にあたります。
坂下門外の変はなぜ起きたのですか?
安藤が和宮降嫁を進めたことへの反発に加え、和宮を人質に天皇へ譲位を迫ろうとしているといううわさが広まったためです。前の年の東禅寺事件のあと、水戸藩の攘夷派が追いつめられていたことも事典は挙げています。
坂下門外の変で殺されたのは誰ですか?
襲われた安藤信正は負傷しただけで、殺されてはいません。亡くなったのは襲った側で、6人全員がその場で斬殺されました。安藤はその9年後、1871年に亡くなっています。
坂下門外の変の場所はどこですか?坂下門はいまも残っていますか?
江戸城の坂下門の外で、いまの皇居前広場に面した場所です。門は明治に向きを90度変えて移築され、いまは宮内庁の出入口です。新年・天皇誕生日の一般参賀や、皇居乾通り一般公開などの際に通れます。使う門と経路は、各回の宮内庁の案内に載っています。
坂下門外の変の年号の覚え方は?
1862年です。桜田門外の変(1860年)の2年後、生麦事件と同じ年、と前後の出来事を結びつけると覚えやすくなります。襲われた安藤が老中になった日も、2年前の同じ1月15日でした。
桜田門外の変との違いは何ですか?
桜田門外の変(1860年)では大老の井伊直弼が18人に襲われて殺され、坂下門外の変(1862年)では老中の安藤信正が6人に襲われて負傷しました。安藤は生きのび、襲った6人は全員が斬殺されています。
安藤信正はその後どうなりましたか?
事件の3か月後の文久2年4月14日に老中を退き、8月に隠居、11月に永蟄居となりました。同じ年に2万石を減らされています。戊辰戦争では磐城平藩が奥羽越列藩同盟に加わって落城し、明治4年(1871年)に満51歳で亡くなっています。
安藤信正の死因は何ですか?
病名は分かっていません。いわき総合図書館のレファレンスでも特定できず、亡くなる前に病に伏していたことだけが分かる、と回答されています。墓所はいわき市の良善寺にあるとされます。
大河ドラマ『逆賊の幕臣』で安藤信正は誰が演じますか?
2026年11月3日の時点では発表されていません。老中・幕閣で発表済みなのは、阿部正弘役の岩田剛典さんと井伊直弼役の岡部たかしさんです。
インタビュー後記 一括りにしなかった6人
事典は、襲った6人を「水戸浪士6名」とも「水戸・宇都宮浪士ら6名」とも書きます。どちらも間違いではないのでしょう。
ただ、人名辞典で1人ずつ当ててみると、水戸藩士は3人で、常陸・下野・越後から1人ずつでした。
6人を「水戸浪士」と一括りにすると、医師の子と儒学の徒が見えなくなります。私はそこが惜しいと思いました。
日本大百科全書は、この事件を「草莽」の人たちの幕府批判の運動でもあったと書きます。医師の子と儒学の徒が6人のなかにいたことは、その一行を読むための手がかりになると思ったからです。
首謀者が3日前に捕まっていたのに、なぜ決行したのか。今回開いた事典は、そこを書いていませんでした。趣意書の写しは名古屋と大垣にあります。次に読むなら、まずそこからだと思っています。
参考資料
- コトバンク「坂下門外の変」(日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典・百科事典マイペディア・ブリタニカ国際大百科事典・山川 日本史小辞典 改訂新版・旺文社日本史事典)※日付、6人、計画者の名前、大橋訥庵の執筆と1月12日の捕縛、譲位強要のうわさ、東禅寺事件後の家老免職、「4月」の辞任、影響の文言、川辺左次右衛門の根拠
- コトバンク「安藤信正」(日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典・山川 日本史小辞典・デジタル版 日本人名大辞典+Plus・ブリタニカほか)※生没年、名(信睦・信行・信正)、経歴、外交、2万石減封と永蟄居、明治4年10月8日の没の根拠
- コトバンク「大橋訥庵」(日本大百科全書・百科事典マイペディア・デジタル版 日本人名大辞典+Plus・ブリタニカ)※出自、思誠塾、宇都宮藩主の侍講、捕縛、7月12日の没、毒殺説、没地の違いの根拠
- コトバンク「菊池教中」(日本大百科全書・デジタル版 日本人名大辞典+Plus)※大橋の義弟、8月8日の病死の根拠
- コトバンク「平山兵介」(デジタル版 日本人名大辞典+Plus)※生没年、水戸藩士、同志5人との襲撃の根拠
- コトバンク「小田彦三郎」(デジタル版 日本人名大辞典+Plus)※生没年、水戸藩士の根拠
- コトバンク「黒沢五郎」(デジタル版 日本人名大辞典+Plus)※生没年、東禅寺事件への参加の根拠
- コトバンク「高畠総次郎」(→高畑房次郎。デジタル版 日本人名大辞典+Plus)※生没年、常陸出身、東禅寺事件への参加の根拠
- コトバンク「河野顕三」(デジタル版 日本人名大辞典+Plus)※下野の医師の子、堀利煕邸への寄寓、襲撃の根拠
- コトバンク「河本杜太郎」(デジタル版 日本人名大辞典+Plus)※越後出身、芳野金陵に学んだこと、変名「豊原邦之助」の根拠
- コトバンク「磐城平藩」(改訂新版 世界大百科事典ほか)※安藤氏5万石、文久2年の2万石の減封、磐井郡への移封の中止の根拠
- コトバンク「東禅寺事件」※文久元年5月28日、有賀半弥ら14人の襲撃の根拠
- コトバンク「ヒュースケン殺害事件」※万延元年12月5日(1861年1月15日)の根拠
- コトバンク「坂下門」(デジタル大辞泉・精選版 日本国語大辞典)※内郭門、西の丸の裏門、宮内庁の出入口の根拠
- コトバンク「久世広周」(改訂新版 世界大百科事典)※6月の辞職、8月の隠居・急度慎、11月の永蟄居の根拠
- コトバンク「小栗忠順」(日本大百科全書・ブリタニカほか)※1861年の対馬での交渉、1862年の勘定奉行の根拠
- コトバンク「和宮」(日本大百科全書ほか)※文久2年2月11日の婚儀、1877年9月2日の没の根拠
- コトバンク「和宮降嫁問題」(ブリタニカ国際大百科事典)※安藤・久世による推進、攘夷の実行を条件とした勅許、「かえって倒幕論を高めた」の根拠
- いわき市「市公式Facebook連載シリーズ『安藤信正生誕200年』」※生年月日、蠣殻町、家督相続、老中就任日、4月14日の御役御免、8月16日の隠居、11月20日の永蟄居、信民・信勇、戊辰の日付、降伏状、福地源一郎『懐往事談』(ページの表記は『懐住事談・附新聞紙実歴』)の評の根拠
- いわき市「松ヶ岡公園(安藤信正公の銅像)」※初代の建立、金属供出、2代目の除幕、作者の根拠
- いわき市『磐城平城文献等調査報告書』(2022年)第2章 領主の変遷と主な出来事※列藩同盟と信勇の所在、失脚と公武合体路線の後退、肖像が良善寺蔵であることの根拠
- いわき市観光サイト「良善寺」※浄土宗、磐城平藩の菩提寺、所在地の根拠
- いわき市観光サイト「安藤信正公歌碑」※歌碑の歌と由来の根拠。原典の文書名は書かれていない
- レファレンス協同データベース「安藤信正の死因について」(いわき総合図書館)※慶応2年に蟄居を許されたこと、病名を特定できないことの根拠
- レファレンス協同データベース「坂下門外の変の廃帝の噂について」(茨城県立図書館)※『水戸市史 中巻(5)』に大橋が風説を聞いた記述があることの根拠
- 国民公園協会 皇居外苑「坂下門の歴史」(2023年2月27日)※名の由来、枡形、明治の撤去と90度の移築、背中の傷と「武士の恥」の批判、現在の用途の根拠
- 宮内庁「皇居乾通り一般公開について」※坂下門から入り乾門へ抜ける約750mの根拠
- 宮内庁「新年一般参賀要領」※参賀の退出のときに坂下門を通ることの根拠
- 宮内庁「天皇誕生日一般参賀要領」※午前の参賀の退出と午後の記帳の参入に坂下門を使うことの根拠
- 千代田区観光協会「江戸・東京事件の現場めぐり」(PDF)※婚礼直前、皇居前広場に面する坂下門外、6人、その場で斬殺、3か月後の罷免の根拠
- 名古屋大学 高木家文書デジタルライブラリ「斫賊録」(内題「壬戌正月十五日斬姦趣意書写」)※趣意書の写しの所在の根拠
- 名古屋大学 高木家文書デジタルライブラリ「斬奸旨趣書(奸臣安藤対馬守罪状)」(大垣市 吉田家文書)※作成者欄「豊原邦之助」の根拠。目録の記載で、本文は未確認
- 水戸観光コンベンション協会「常磐共有墓地」※坂下門外の変に加わった人たちの墓があることの根拠
- 東善寺「小栗上野介の略歴」※外国奉行の辞任(文久元年7月26日)、書院番頭(文久2年3月9日)、勘定奉行(6月5日)の根拠
- ザテレビジョン「逆賊の幕臣 出演者・キャスト一覧」※安藤信正役が未発表であること、阿部正弘・井伊直弼の配役の根拠
- 国立天文台「日本の暦日データベース」※和暦の月日を西暦に換算した根拠
- KADOKAWA「日本の歴史 11 黒船と開国 江戸時代後期【電子特別版】」※作品紹介と目次の根拠
- Audible「小学生のうちに知っておきたいそれなに?日本史 Vol.19 〜皇女・和宮降嫁〜」(堀口茉純、著者朗読)※作品紹介と聴き放題対象の確認









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