「都合十七人」。紀州の旧家に伝わった桜田門外の変の写しは、襲った人数をこう書いていました。
紀州の写しは、水戸家の侍として17人を挙げ、薩摩の有村次左衛門には触れていません。一方、埼玉の名主の家に残った書状に載る名前は、有村を含む16人でした。
この記事は、事典と博物館・文書館の資料、同時代の写しを並べて、いつ・なぜ起きたのか、襲った人たちがどうなったのかを確かめます。
この記事の結論
桜田門外の変は、安政7年3月3日(1860年3月24日)の朝、江戸城桜田門の外で、大老井伊直弼が水戸脱藩の17人と薩摩脱藩の1人に襲われ、殺害された事件です。
なぜ起きたのかについて、事典は、勅許のない条約調印と安政の大獄への反発に、水戸藩への密勅返納の命令が重なったと説明します。襲撃者が携えた「斬奸趣意書」も、違勅の調印と大獄での弾圧を井伊の罪状に挙げていました。
襲った18人のうち、生きのびて明治を迎えたのは2人です。ほかの16人は、事件の直後の闘死や自刃、自訴したあとの死や死罪、逃亡の末の処刑や自刃で命を落としました。
- 18人
襲撃した人数(水戸17人・薩摩1人) - 2人
生きのびて余命を全うした襲撃者 - 約2か月
井伊の死が公表されるまで
語り手として、井伊直弼AI(井伊直弼をモデルにしたAI)と小栗忠順AI(小栗忠順をモデルにしたAI)に登場してもらいます。襲われた大老本人と、事件の日に遣米使節として太平洋の上にいた幕臣です。
※以下のインタビュー部分は、公開されている史料をもとに二人の人物像を再現した創作です。実際の発言ではありません。井伊直弼AIは、事件の朝より先のことを自分からは語りません。没後の出来事は筆者が伝え、それに答えてもらいます。小栗忠順は1868年5月27日(慶応4年閏4月6日)に亡くなっているため、それ以降の出来事は語りません。
出典の確かめ方と、公開前に行っているチェックは編集方針にまとめています。

直弼さん、安政7年3月3日は上巳の節句で、諸大名が登城する日でした。屋敷を出る前に、襲われるかもしれないという話は耳に入っていたのですか。

入っておった、と書く者もおるそうな。そこは否みも認めもせぬ。
節句の祝儀は、大老が欠いてよい席ではなかった。客が揃う日に、亭主だけ顔を見せぬ茶会がどこにある。
屋敷を出たところまでは答えよう。その先は、そなたが記録で確かめよ。
桜田門外の変とは?いつ・どこで・誰が誰を襲ったのか
桜田門外の変は、安政7年3月3日(1860年3月24日)、大老の井伊直弼が登城の途中、江戸城の桜田門の外で水戸・薩摩の脱藩者18人に襲われ、殺害された事件です。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 読み方 | さくらだもんがいのへん |
| いつ | 安政7年3月3日(1860年3月24日)の朝。上巳(じょうし)の節句の祝儀で、諸大名が登城する日 |
| 時刻 | 紀州に伝わった写しは「辰之刻前」(午前9時前ごろ)。山川 日本史小辞典は「早朝,愛宕山に集合」と書く |
| 天気 | 雪。日本大百科全書は「雪の桜田門外」、紀州の写しは「大雪」 |
| どこで | 江戸城の外桜田門の外。屋敷から登城する途中で、杵築藩主松平家の屋敷のあたり |
| 誰が | 関鉄之介を総指揮とする水戸脱藩の17人と、薩摩脱藩の有村次左衛門の計18人 |
| 誰を | 大老の井伊直弼(彦根藩主)。登城の行列を襲った |
| 結果 | 井伊は殺害され、有村が首級をあげた。幕府はしばらく井伊の死を伏せた |
参考:桜田門外の変|コトバンク
参考:桜田門外の変 幕末の転換点を紀州に伝える資料|和歌山県立文書館
年号の書き方は、事典によって安政7年と万延元年の2通りがあります。改元は安政7年3月18日(1860年4月8日)で、事件の当日はまだ安政7年でした。
山川 日本史小辞典の「1860年(万延元)3月3日」は、改元後の年号でその年を表した書き方とみられます。月日は同じ3月3日です。
参考:万延|コトバンク
場所の「桜田門」は、正式には外桜田門といいます。いまの門は明和9年(1772年)の大火で焼けたあと、安永3年(1774年)までに再建されたものとされ、昭和36年(1961年)に重要文化財に指定されました。
参考:重要文化財「旧江戸城外桜田門」の保存修理工事の完了について|環境省
井伊家の屋敷は、門のすぐ近く、いまの憲政記念館の位置にありました。
参考:永田町(錦絵と写真でめぐる日本の名所)|国立国会図書館
井伊直弼の生涯と、大老として決めたことは、人物の記事でまとめています。
桜田門外の変はなぜ起きた?密勅の返納命令が水戸藩を割った
事件の直接のきっかけは、水戸藩に下された「戊午の密勅」を返させよという命令でした。勅許のない条約調印と安政の大獄で積もった反発が、この返納問題で一気に計画へ動いた、という流れです。
改訂新版 世界大百科事典は、水戸藩論が勅諚返上に傾くと「この計画は急速に具体化した」と書いています。
- 安政5年6月|井伊が勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印(世界大百科事典)
- 安政5年8月|朝廷が、幕府の調印を遺憾とする勅諚を水戸藩へ直接下す。戊午(ぼご)の密勅(同)
- 安政5年9月〜|井伊が尊攘派の公卿・志士や水戸藩士を処罰する安政の大獄(同)
- 安政6年12月15日(1860年1月7日)|幕府が水戸藩に、3日以内の密勅返納を命じる(茨城県立歴史館)
- 安政6年12月26日(1860年1月18日)|返納を阻もうとする激派中心の士民約100人が長岡宿(茨城町)に集まる(同)
- 安政7年1月15日(1860年2月6日)|老中安藤信正が、25日を期して返納せよ、さもなければ水戸家は滅亡のほかない、という趣旨の意向を伝える(同)
- そのころ|長岡勢から離れた関鉄之介・高橋多一郎らが江戸へ向かったとみられていた(同)
計画は、はじめはもっと大きなものでした。世界大百科事典によれば、水戸藩士50人が井伊の襲撃と横浜の外国商館の焼き打ちを行い、同時に薩摩藩士3000人が京都の警衛にあたる、という案です。
茨城県立歴史館も、襲撃に呼応して薩摩藩兵3000人が京都へ出る予定だったと書きます。ところが薩摩藩庁は動かず、襲撃は単独で実行されました。当初は2月20日前後の予定だった、という記述も同館にあります。
襲撃者が携えた「斬奸趣意書」には、条約の違勅調印と、大獄での尊攘派への弾圧が、井伊の罪状として挙げられていました。
彼らの「斬奸(ざんかん)趣意書」では、井伊一派の斬戮(ざんりく)による幕府の改革を企図したもので、倒幕を意図したものでないことがわかる。
出典:コトバンク「桜田門外の変」(日本大百科全書)
倒すつもりだったのは幕府ではなく、井伊とその周辺だった。日本大百科全書は、趣意書をそう読んでいます。
参考:桜田門外の変|コトバンク
井伊の側から見た説明もあります。彦根城博物館は、直弼が水戸藩に渡った密勅を返納させようと働きかけ、これに憤った激派の中心人物が脱藩して江戸に向かった、と説明しています。
同館は、「安政の大獄」や「桜田門外の変」が「戊午の密勅」の結果として起こったことを、十分に説明されてこなかったとも書きます。原因の重心をどこに置くかは、資料によって少しずつ違うのです。
安政の大獄で誰が処罰されたのか、密勅を誰が誰に渡したのかは、別の記事でくわしく確かめています。

3日で返せ、という期限は、きびしすぎませんでしたか。

返させよと申したのは予じゃ。そこに異は唱えぬ。
亭主を通さず客の手に渡った名物を、席を閉じる前に戻させた。予にはそれだけの話じゃ。
そなたはどう見る。水戸の側に立てば、同じ道具がまるで違うものに見えたであろうな。

水戸の人たちには、天皇から直接いただいたものを取り上げられる話に聞こえたと思います。

朝廷から水戸へ、幕府を飛び越えて渡った書き付けじゃ。
水戸にそう聞こえたのなら、どちらも手を放さぬまま、日だけが3月に近づいたのであろう。
当日の朝に何があった?雪の桜田門外を同時代の写しで確かめる
当日の朝は雪で、行列の供は合羽を着ていて刀をすぐに抜けなかった、と紀州に伝わった写しは書いています。事件の様子は、同時代に江戸から各地へ伝わった写しや書状に残っています。
和歌山県立文書館が公開している「前代未聞之珍事」は、紀の川市の旧家に伝わった桜田門外の変の風聞の写しです。
文書館の大意によると、午前9時前ごろ、大雪の中、松平親良の屋敷のあたりで道の両側に侍風の者が3人ずつひれ伏していました。駕籠が近づくと急に立ち上がり、手槍で駕籠へ突き入った、と続きます。その先を大意から引きます。
駕籠の脇にいた者たちは驚いたが、大雪のため、かっぱ等を着用していて刀等を抜けずにいたところへ、見物人の中から十人余りが刀を抜きお供の侍衆へ切り込み
出典:和歌山県立文書館「桜田門外の変 幕末の転換点を紀州に伝える資料」の大意
松平親良は豊後国杵築藩の藩主です。事件の12日後、安政7年3月15日付で村田蔵六(のちの大村益次郎)が書いた書状も、外桜田の杵築藩邸の前で行列が襲われたと伝えています。
参考:村田蔵六書状〈安政七年三月十五日/真一、丈蔵宛〉|文化遺産オンライン
日本大百科全書の参加者一覧は、何人かの当日の動きにも触れています。どれも、事典自身が「という」「とされる」を添えて伝えている動きです。
- 森五六郎|前駆して拳銃を放った
- 稲田重蔵|最初に井伊の駕籠を刺したという
- 広岡子之次郎|井伊の駕籠を突き破ったとされる
- 佐野竹之介|井伊を駕籠から路上に引きずり出したという
- 有村次左衛門|井伊の首級を太刀先に刺して掲げたとされる
彦根藩側の死傷者の数は、今回確認した事典には書かれていません。村田蔵六の書状は、井伊家の側を即死6人、その場から逃げた者4人(うち2人は翌日、親類によって切腹させられた)、深手などが15人と伝えます。
愛媛県歴史文化博物館は、この書状を、事件から日がたっていないのに「かなり正確なもの」と評価しています。それでも、事件の12日後に伝え聞いた数で、これを確定した数として扱える資料には、まだ行き当たっていません。
襲った側を描いた絵も残っています。茨城県立図書館が所蔵する「桜田門外之変図」は、襲撃者の一人の蓮田市五郎が描いたもので、預けられた細川家の家臣に求められて事件の様子を描いた、と千代田区観光協会のマップは紹介しています。
襲った18人は誰?その後どうなったのか
18人のうち、生きのびて明治を迎えたのは海後磋磯之介と増子金八の2人だけです。日本大百科全書の参加者一覧は「余命を全うしたのは増子と2人のみ」と書き、山川 日本史小辞典も「2人が存命」とまとめます。
その後は、大きく7つに分かれます。
| その後 | 人数 | 名前 |
|---|---|---|
| 現場で闘死 | 1人 | 稲田重蔵 |
| 重傷を負い、事件の直後に自刃 | 4人 | 有村次左衛門、山口辰之介、鯉淵要人、広岡子之次郎 |
| 老中脇坂安宅の屋敷に自訴し、重傷のため死亡 | 2人 | 佐野竹之介(当日)、斎藤監物(5日後) |
| 自訴し、翌年(1861年)に刑死 | 6人 | 大関和七郎、黒沢忠三郎、杉山弥一郎、蓮田市五郎、森五六郎、森山繁之介 |
| 逃亡ののち捕らえられ、処刑 | 2人 | 岡部三十郎(1861年に江戸で捕縛)、関鉄之介(越後で捕縛) |
| 逃亡ののち自刃 | 1人 | 広木松之介(1862年、鎌倉の上行寺) |
| 生きのびた | 2人 | 海後磋磯之介(1903年没)、増子金八(1881年没) |
総指揮の関鉄之介は、事件のあと常陸の豪農にかくまわれながら逃れ、越後の雲母(きら)温泉で捕らえられました。文久2年5月11日(1862年6月8日)、江戸で処刑されています。
参考:関鉄之介|コトバンク
18人のなかには、直接の斬り込みに加わらなかった人も数えられています。日本大百科全書は、岡部三十郎について、事前の探索にあたり、襲撃には直接加わらず見張り役を務めたと書いています。
生きのびた2人のうち、海後磋磯之介は奥州・越後へ逃れて名を変え、維新後は警視庁に勤めました。増子金八は各地を逃れたのち、常陸の石塚に長くとどまり、病死しています。
唯一の薩摩藩士だった有村次左衛門は、重傷を負って自刃しました。改訂新版 世界大百科事典によれば、兄の雄助は京都へ向かったのち捕らえられ、国元で自刃を命じられています。
参考:有村次左衛門|コトバンク

襲った側にも、明治まで生きた人が2人いたんですね。

18から2を引けば16。そのうち翌年に刑に処された者が6人、逃げた末に捕らえられた者が2人。
数にすると、ずいぶんと静かでございますな。
海後磋磯之介が亡くなった1903年は、小栗の死から35年後でした。
有村次左衛門の側から事件を描いた短い小説に、司馬遼太郎「桜田門外の変」があります。Audibleでは朗読で聴けます。
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オーディオブック|Audible
『桜田門外の変』
この作品の聴きどころ
- 作品紹介によると、薩摩藩からただ一人加わった有村治左衛門の立場から、上京、淡い恋、事件、そしてその後を描いた作品です
- 事件そのものより、巻き込まれた一人の人間の運命を描いた小説です。史料にもとづく記録ではありません
Audibleの聴き放題に入っています(2026年10月時点。対象は入れ替わることがあります)。30日間の無料体験があります。
※無料期間が終わると通常料金で自動更新されます。
同時代の記録に載る名前は?18人の一覧と比べる
事件の直後に各地へ伝わった記録は、記載された人物の範囲や名前の表記が異なります。紀州の写しは「都合十七人」と書き、埼玉の名主の家に残った書状は16人の名を挙げています。
人数の書き方は、記録ごとにこう違います。
| 記録 | 人数の書き方 | 名前について資料が書くこと |
|---|---|---|
| 紀州に伝わった写し「前代未聞之珍事」(和歌山県立文書館) | 水戸家の侍「都合十七人」として17人の名を並べる | 薩摩の有村の名はない。名前の記述に誤りがあり、筆写のときに生じたと考えられる(文書館) |
| 秩父郡大野村の名主に伝わった書状(森田家文書、埼玉県立文書館) | 有村を含む16人の名 | 文献と比べると名前や人数に誤りが見られ、書き写しの誤りか情報の錯綜と考えられる(文書館) |
| 村田蔵六の書状(安政7年3月15日付、愛媛県歴史文化博物館) | 襲った者として有村の名などを挙げ、双方の被害を伝える | 事件から日が浅いのに「かなり正確なもの」(博物館) |
| 事典(日本大百科全書・山川 日本史小辞典ほか) | 18人(水戸17人・薩摩1人) | 日本大百科全書は18人全員の名を挙げる |
参考:「桜田門外の変に関する文書を読む」解説|埼玉県立文書館
参考:桜田門外の変 幕末の転換点を紀州に伝える資料|和歌山県立文書館
埼玉の書状は、事典の18人と照らすと、岡部三十郎と森山繁之介の2人の名がありません。名前の字も、「有村次左衛門」が「有田治右衛門」、「関鉄之介」が「関鉄之助」です。
埼玉県立文書館の解説は、これを一覧表で照らし合わせています。
紀州の写しは、名前の字の誤りに加えて、薩摩の有村を数えていません。数え方の違いなのか、写しの誤りなのかは、文書館の解説には書かれていません。
それでも和歌山県立文書館は、この写しを、幕末の情報伝達の精度がわかる資料だと位置づけています。
江戸から遠く離れた村や旧家が、事件の数を書き留めていた。

記録によって、載っている名前や人数が違いますね。江戸から紀州や秩父まで、知らせはどう伝わったのでしょう。

三つの帳面で、三つの数。勘定所なら、合うまで洗い直させるところです。
ただ、写しが16と17で済んでいるなら、むしろ近いほうでしょう。噂は、遠くへ行くほど数が膨らむものですから。
貴殿は、どの帳面を元帳にしますか。

名前を一人ずつ挙げている事典の18人です。写しは、どこまで伝わったかを見る資料として使います。

左様。ただし元帳も、人が書いたものにて候。
合うまで洗い直すのは、どちらも同じでございます。
井伊直弼の死はなぜ伏せられた?命日が二つある理由
幕府は井伊の死をしばらく伏せ、病気として届けさせました。改訂新版 世界大百科事典は「幕府は政局の動揺をおそれ,しばらく井伊の死を秘した」と書いています。
世田谷デジタルミュージアムによれば、幕府は彦根藩に死を秘匿するよう指示しました。直弼の墓は、井伊家の江戸での菩提寺だった世田谷の豪徳寺にあり、墓石に刻まれた日付は事件の日ではありません。
- 安政7年3月3日(1860年3月24日)|桜田門外で襲われ、殺害される
- 事件のあと|幕府が彦根藩に死の秘匿を指示。直弼の病気と、嫡男愛麿(のちの直憲)を跡継ぎとする届けが出される
- 万延元年3月晦日(1860年4月20日)|大老を免じられる
- 万延元年閏3月末(1860年5月)|正式に死が発表される
- 墓石の日付|万延元年閏3月28日(1860年5月18日)
事件から公表まで、約2か月かかっています。ただ、伏せていたのは表向きだけでした。
埼玉県立文書館の解説は、幕府は井伊の死を極秘にしていたが、世間では瓦版が飛ぶように売れ、井伊の首が持ち去られたことも知っていた、と書きます。そのころ詠まれた川柳として、次の句を紹介しています。
井伊掃部(よい鴨)と雪の寒さに首をしめ
出典:埼玉県立文書館「『桜田門外の変に関する文書を読む』解説」
掃部頭(かもんのかみ)だった井伊を「よい鴨」にかけた句です。雪の中、駕籠に乗ったまま殺されたことを受けて詠まれた、と文書館は説明しています。

直弼さんの墓石には、閏3月28日と刻まれています。幕府が病気と届けさせていたあいだ、町では『よい鴨』の川柳まで出回っていました。

予の墓に、予の知らぬ日付が刻まれておるとはな。
亭主が倒れても、客の前で席は乱さぬ。始末は水屋でつける。それを二月とは、長い。
町の者が鴨と詠んでおったなら、戸など閉まっておらなんだのじゃ。
桜田門外の変の影響は?幕府の権威と、彦根藩・水戸藩のその後
事典はそろって、事件が幕府の権威を失墜させ、政治の方向を変えたと書きます。
山川 日本史小辞典は、大老の死が「幕府権威を失墜させ,幕末政情を転換させる契機となった」とします。世界大百科事典・マイペディア・旺文社は、公武合体への転換を挙げます。
事件の影響は、幕府だけでなく、彦根・紀州・水戸の各家にも及びました。
- 幕府|老中安藤信正が開国政策を引き継ぎ、和宮の降嫁を進めた。安藤は文久2年1月15日(1862年2月13日)、坂下門外で水戸脱藩の志士らに襲われ、負傷した(茨城県立歴史館、千代田区観光協会)
- 彦根藩|井伊直憲が跡を継いだ。文久2年(1862年)、事件の責任を問われて10万石を減らされ、京都守護も免じられた(コトバンク「彦根藩」)
- 紀州藩の水野忠央|井伊と協力して慶福(家茂)を将軍の跡継ぎに推した付家老。万延元年6月(1860年)に隠居を命じられた(和歌山県立文書館)
- 水戸藩|前藩主の徳川斉昭は、万延元年8月15日(1860年9月29日)に亡くなった(茨城県立歴史館「斉昭薨去」)
- 襲撃者|自訴した者のうち6人は翌年に刑死。佐野竹之介と斎藤監物は、自訴後に重傷のため死亡した。逃亡した者も多くが捕らえられた(日本大百科全書の参加者一覧)
参考:彦根藩|コトバンク
参考:桜田門外の変 幕末の転換点を紀州に伝える資料|和歌山県立文書館
彦根藩の減封について、埼玉県立文書館の解説は「30万石まで加増を受けたが、桜田門外の変の後に20万石に減封された」と説明しています。
和歌山県立文書館は、この事件を「幕府滅亡への転換点の一つ」と位置づけ、大学入学共通テストの試行調査でも、桜田門外の変と第2次長州征討を比べる問題が出たことを紹介しています。
同じ1860年代の初めには、外国人が襲われる事件も続きます。2年後に起きた生麦事件は、順序が逆で、桜田門外の変の原因ではありません。
事件のあと、幕府が井伊の時代から何を引き継ぎ、何を変えたのかは、7年後の大政奉還までの流れの中で見えてきます。
事件の日、小栗忠順はどこにいた?遣米使節と大河『逆賊の幕臣』
事件の日、小栗忠順は遣米使節の目付として、ポーハタン号で太平洋の上にいました。使節は安政7年1月22日(1860年2月13日)に横浜を出て、ハワイを経て、現地の3月29日にサンフランシスコへ着いています。
江戸で事件が起きたのが3月24日なので、その5日後の到着です。使節を送り出した政権の中心にいた大老は、一行の帰国を待たずに亡くなりました。使節が品川沖に戻ったのは、万延元年9月27日(1860年11月9日)でした。
小栗の菩提寺である東善寺は、遣米使節への起用を「井伊大老の抜擢により」と書いています。ただ、それを裏づける一次史料は、本記事では確認できていません。
参考:小栗上野介|東善寺
2027年の大河ドラマ『逆賊の幕臣』は小栗忠順が主人公で、井伊直弼は岡部たかしさんが演じます。役どころは「小栗忠順を遣米使節団に抜擢する井伊直弼役」と紹介されています。
参考:松坂桃李主演・大河ドラマ『逆賊の幕臣』追加キャスト|オリコンニュース
ドラマで桜田門外の変がどう描かれるかは、まだ発表されていません。発表済みの配役と、人物どうしの関係はこちらにまとめています。

小栗さん、使節がサンフランシスコに着いた日、江戸にはもう大老がいませんでした。

着く前に、送り出した側が倒れておったわけでございますか。
1月に江戸を発ち、9月の末に戻るまで、9か月近く。戻った江戸が、出たときと同じであったはずがございませぬ。
ところで貴殿、いまの世では海の向こうの知らせは何日で届くのでござるか。
使節に随伴した咸臨丸の航海と、同じ時期の江戸の動きは、別の記事でたどっています。
桜田門外の変の流れを年表で確認(和暦・西暦)
西暦の日付は、国立天文台の暦日データベースで和暦の月日を換算したものです。
| 和暦 | 西暦 | 出来事 |
|---|---|---|
| 安政5年4月23日 | 1858年6月4日 | 井伊直弼、大老に就任 |
| 安政5年6月19日 | 1858年7月29日 | 日米修好通商条約に勅許のないまま調印 |
| 安政5年8月8日 | 1858年9月14日 | 戊午の密勅が水戸藩に下る |
| 安政5年9月〜6年10月 | 1858年〜1859年 | 安政の大獄 |
| 安政6年12月15日 | 1860年1月7日 | 幕府が水戸藩に3日以内の密勅返納を命じる |
| 安政6年12月26日 | 1860年1月18日 | 激派中心の約100人が長岡宿に集まる |
| 安政7年1月15日 | 1860年2月6日 | 老中安藤信正が返納を強く求める |
| 安政7年1月22日 | 1860年2月13日 | 遣米使節がポーハタン号で横浜を出る。小栗忠順が目付として同行 |
| 安政7年3月3日 | 1860年3月24日 | 桜田門外の変。井伊直弼が殺害される |
| 安政7年3月15日 | 1860年4月5日 | 村田蔵六が事件を伝える書状を書く |
| 安政7年3月18日 | 1860年4月8日 | 万延に改元 |
| 万延元年3月晦日 | 1860年4月20日 | 井伊が大老を免じられる |
| 万延元年閏3月末 | 1860年5月 | 井伊の死が正式に発表される |
| 万延元年8月15日 | 1860年9月29日 | 徳川斉昭が没 |
| 万延元年9月27日 | 1860年11月9日 | 遣米使節が品川沖に帰着 |
| 万延2年・文久元年 | 1861年 | 自訴した襲撃者6人が刑死。岡部三十郎が捕縛され、斬に処される |
| 文久2年1月15日 | 1862年2月13日 | 坂下門外の変。老中安藤信正が負傷 |
| 文久2年5月11日 | 1862年6月8日 | 関鉄之介、江戸で処刑 |
| 文久2年 | 1862年 | 彦根藩が10万石を減らされる。広木松之介が鎌倉で自刃 |
| 明治14年 | 1881年 | 増子金八が没 |
| 明治36年 | 1903年 | 海後磋磯之介が没 |
和暦の日付は、そのまま西暦の月日にはなりません。桜田門外の変の3月3日は、西暦では3月24日です。事典が「1860年3月3日」と書くのは、和暦の月日に西暦の年を添えた書き方で、換算した日付とは別のものです。
岡部三十郎の処刑は、日本大百科全書が1861年の捕縛と斬罪を書くだけで、月日はそこにありません。
事件の前後、黒船来航から幕府の終わりまでの流れは、学習まんがの通史でも追えます。
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学習まんが|BOOK☆WALKER
この本の読みどころ
- 作品紹介によると、第11巻は「江戸時代後期」を扱い、【電子特別版】はまんがのみを収録した版です
- KADOKAWAの作品紹介には「大老 井伊直弼は、反対派を弾圧しますが、桜田門外の変で倒れ」とあり、第3章「尊王攘夷」から第4章「江戸幕府の終わり」がこの記事の範囲です
BOOK☆WALKERで電子書籍版を販売しています(2026年10月20日時点。販売状況は変わることがあります)。
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よくある質問(FAQ)
桜田門外の変とは何ですか?簡単に教えてください
1860年3月24日(安政7年3月3日)の朝、大老の井伊直弼が江戸城桜田門の外で、水戸脱藩の17人と薩摩脱藩の1人に襲われ、殺害された事件です。勅許のない条約調印と安政の大獄への反発が背景にありました。
桜田門外の変はいつ起きましたか?何年ですか?
安政7年3月3日、西暦では1860年3月24日です。同じ月の18日に万延と改元されており、「万延元年」と書く事典もあります。上巳の節句で、諸大名が江戸城に登城する日でした。
桜田門外の変はなぜ起きたのですか?
事典は、勅許を得ない条約調印と、安政の大獄での水戸藩や尊攘派への弾圧を原因に挙げます。直接のきっかけは、水戸藩に下った戊午の密勅を返させよという幕府の命令で、藩内の激派が反発しました。
桜田門外の変で殺されたのは誰ですか?犯人は何人ですか?
殺されたのは大老の井伊直弼です。襲ったのは、関鉄之介を総指揮とする水戸脱藩の17人と、薩摩脱藩の有村次左衛門の計18人です。同時代の写しには、17人と書いたものや、16人の名を挙げたものもあります。
桜田門外の変の場所はどこですか?跡地はいまどうなっていますか?
江戸城の外桜田門の外で、杵築藩主の屋敷のあたりです。門は現在も残り、重要文化財に指定されています。井伊家の屋敷は、いまの憲政記念館の位置にありました。
桜田門外の変の生き残りはいますか?
襲撃者18人のうち、海後磋磯之介(1903年没)と増子金八(1881年没)の2人が生きのびました。ほかの16人は、闘死・自刃・刑死などで亡くなっています。
桜田門外の変の日は本当に雪だったのですか?
紀州に伝わった同時代の写しは「大雪」と書き、供が合羽を着ていて刀を抜けなかったと伝えます。日本大百科全書も「雪の桜田門外」と書いています。
安政の大獄と桜田門外の変の関係は?
安政の大獄は1858〜59年に井伊直弼が反対派を処罰した弾圧で、桜田門外の変はその井伊が1860年に殺害された事件です。事典は、大獄での水戸藩への弾圧と密勅の返納命令が、水戸浪士の反感を招いたと説明します。
桜田門外の変の原因は生麦事件ですか?
違います。生麦事件は1862年(文久2年)で、桜田門外の変(1860年)より2年あとの出来事です。順序が逆なので、原因にはなりません。
桜田門外の変の映画はありますか?
2010年公開の『桜田門外ノ変』があります。監督は佐藤純彌さん(脚本は佐藤さんと江良至さん)、原作は吉村昭の同名の小説(1990年刊)で、実行隊長の関鉄之介を主人公にしています。
桜田門外の変の年号の覚え方は?
年号は1860年です。安政の大獄が始まった1858年の2年後、生麦事件・坂下門外の変が起きた1862年の2年前、と前後の出来事を結びつけると覚えやすくなります。
インタビュー後記 写しの数がずれていたこと
紀州の写しは17人、埼玉の書状は16人でした。最初に二つの資料を並べたとき、私はこれを誤りの一覧として読もうとしていました。
けれども、和歌山県立文書館の解説は、細部の誤りを指摘したうえで、江戸の政治情報が紀州にも広がっていたことに注目しています。読み直すと、私にはそのほうが大事に思えてきます。
紀州の写しは、字を書き違え、薩摩の一人を数えていません。それでも、雪と合羽と、襲われた屋敷の前という場所は残っていました。
本資料は、細部には誤りがありながらも江戸での政治的な情報が紀州にも広がっていることから、幕末の庶民の政治的関心の高さや、幕末の情報伝達の精度がわかります。
出典:和歌山県立文書館「桜田門外の変 幕末の転換点を紀州に伝える資料」
18人という数は、事典で確かめられます。17や16という数からは、その知らせを書き写した人たちがいたことが分かります。
私は、正しい数と、ずれた数を、一緒に残しておきたいと考えました。
雪の朝のことは、直弼AIには聞いていません。襲った側の一人が描いた絵と、遠くで書き写された写しで、たどりました。
参考資料
- コトバンク「桜田門外の変」(デジタル大辞泉・共同通信ニュース用語解説・改訂新版 世界大百科事典・日本大百科全書・百科事典マイペディア・ブリタニカ国際大百科事典・山川 日本史小辞典 改訂新版・旺文社日本史事典・デジタル大辞泉プラス)※定義、水戸17人と有村の18人、関鉄之介の総指揮、50人と薩摩3000人の当初計画、斬奸趣意書、死の秘匿、「雪の桜田門外」、愛宕山集合、「2人が存命」、幕府権威の失墜と公武合体、吉村昭の小説と2010年の映画の根拠
- コトバンク「桜田門外の変/参加者一覧」(日本大百科全書)※18人それぞれの経歴とその後、岡部三十郎が見張り役だったこと、「余命を全うしたのは増子と2人のみ」、襲撃時の動きの伝承の根拠
- コトバンク「関鉄之介」(日本大百科全書・デジタル版 日本人名大辞典+Plus)※実行隊長、逃亡と越後での捕縛、文久2年5月11日の処刑の根拠
- コトバンク「有村次左衛門」(改訂新版 世界大百科事典・デジタル版 日本人名大辞典+Plus・ブリタニカ)※首級をあげたこと、重傷による自刃、兄雄助の自刃の根拠
- コトバンク「万延」(デジタル大辞泉・精選版 日本国語大辞典・日本の元号がわかる事典)※安政7年3月18日の改元の根拠
- コトバンク「桜田門」(デジタル大辞泉・精選版 日本国語大辞典・ブリタニカ)※外桜田門の呼び名の根拠
- コトバンク「彦根藩」(改訂新版 世界大百科事典・日本大百科全書・ブリタニカほか)※文久2年の10万石削減と京都守護の罷免の根拠
- コトバンク「万延元年遣米使節」(日本大百科全書)※陽暦2月13日の横浜出帆、現地3月29日のサンフランシスコ着、11月9日(和暦9月27日)の品川沖帰着、小栗忠順が目付であったことの根拠
- 茨城県立歴史館 茨城歴史事典「桜田門外の変」(徳川斉昭の生涯)※12月15日の返納命令、長岡宿の約100人、安藤信正の1月15日の意向、関鉄之介らの江戸行き、薩摩藩兵3000人の計画、2月20日前後の当初計画、坂下門外の変の根拠
- 茨城県立歴史館 茨城歴史事典「斉昭薨去」※万延元年8月15日の没の根拠
- 彦根城博物館「井伊直弼の大老政治について」※密勅返納への働きかけ、長岡宿の激派、襲撃の情報を得ていたとも言われること、上巳の節句の登城、水戸脱藩17名と薩摩脱藩1名、戊午の密勅との因果の根拠
- 和歌山県立文書館「授業で使える和歌山の資料」桜田門外の変 幕末の転換点を紀州に伝える資料(北家文書「前代未聞之珍事」の翻刻と大意)※辰之刻前・大雪・合羽・「都合十七人」、名前の誤り、水野忠央の隠居、「幕府滅亡への転換点の一つ」、蓮田市五郎の絵図の根拠
- 埼玉県立文書館「『桜田門外の変に関する文書を読む』解説」※森田家文書の16人の名と文献との照合、瓦版と川柳、彦根藩の30万石から20万石への減封の根拠
- 文化遺産オンライン「村田蔵六書状〈安政七年三月十五日/真一、丈蔵宛〉」(愛媛県歴史文化博物館蔵)※杵築藩邸前での襲撃、双方の被害の数、「かなり正確なもの」という評価の根拠
- 世田谷デジタルミュージアム「井伊直弼」※死の秘匿、病気と嫡子の届け、3月晦日の大老免、閏3月末の公表、墓石の閏3月28日の根拠
- 文化遺産オンライン「彦根藩主井伊家墓所」※豪徳寺が井伊家の江戸表の菩提寺で、直弼が葬られていることの根拠
- 千代田区観光協会「江戸・東京事件の現場めぐり」(2021年2月発行)※蓮田市五郎作「桜田門外之変図」の由来、朝から大雪、坂下門外の変の根拠
- 環境省「重要文化財『旧江戸城外桜田門』の保存修理工事の完了について」※明和9年の焼失、安永3年までの再建、昭和36年の重要文化財指定の根拠
- 国立国会図書館「錦絵と写真でめぐる日本の名所」永田町※井伊邸が現在の憲政記念館の位置にあたることの根拠
- 国立天文台「日本の暦日データベース」※和暦の月日を西暦に換算した根拠
- 吉村昭記念文学館(荒川区)「桜田門外ノ変」※吉村昭の小説が関鉄之介を主人公に暗殺から逃亡・捕縛までを描くこと、2010年の映画化の根拠
- 東善寺「小栗上野介」※遣米使節への起用を「井伊大老の抜擢により」と書くことの根拠。一次史料は本記事では確認していない
- オリコンニュース「松坂桃李主演・大河ドラマ『逆賊の幕臣』追加キャスト」※井伊直弼役の岡部たかしさんと役どころの紹介の根拠
- KADOKAWA「日本の歴史 11 黒船と開国 江戸時代後期【電子特別版】」※作品紹介の「桜田門外の変で倒れ」と目次の根拠
- Audible「桜田門外の変」(司馬遼太郎、朗読 竹本英史)※作品紹介と聴き放題対象の確認









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