このサイトでは、井伊直弼(いい なおすけ)を何度も脇役として書いてきました。一期一会の記事では茶人、安政の大獄の記事では大老、大河の相関図では小栗忠順の上役として。本人が主役の記事は、まだありません。
彦根城博物館は、直弼の業績が「善悪両極端に評価されてきました」と書いています。弾圧した悪人と、地元の彦根で語られる開国の偉人です。
3つの顔をつなぐと、どんな一人になるのか。年と日付で確かめたくなりました。
この記事の結論
井伊直弼は、1858年に大老となり、勅許を得ないまま日米修好通商条約の調印を断行し、将軍の跡継ぎを徳川慶福(のちの家茂)に決めた彦根藩主です。反対派を処罰した安政の大獄の中心となり、1860年に桜田門外で暗殺されました。
藩主になる前は、十四男として15年間「埋木舎(うもれぎのや)」で部屋住みの暮らしを送りました。茶の湯では宗観と号し、「一期一会」の四字が見える茶書『茶湯一会集』を書いています。
ただし、大老だったのは2年足らずです。条約の調印も「独断」の一言では片づかず、彦根城博物館は、天皇への説明が済むまで調印を引き延ばす方針が一度決まっていたことを書いています。
- 満44歳
没年齢(数え年46歳) - 15年
埋木舎の部屋住み - 1858年
大老に就任
この記事では、基本プロフィールと埋木舎の15年から始めて、大老として決めた三つのこと、桜田門外の変、生涯の年表、大河ドラマでの描かれ方、『茶湯一会集』の考え方までを順にたどります。
語り手として、井伊直弼AI(井伊直弼をモデルにしたAI)にも登場してもらいます。本人がいま問われたらどう答えるかを想像する手がかりにしてください。
※以下のインタビュー部分は、公開されている史料をもとに井伊直弼の人物像を再現した創作です。実際の発言をそのまま掲載したものではありません。
出典の確かめ方と、公開前に行っているチェックは編集方針にまとめています。

直弼さん、はじめまして。横浜の掃部山(かもんやま)公園には、あなたの銅像が立っています。明治42年、横浜開港50周年の記念に建てられたものです。まず、ご自身では何をした人だと答えますか。

開いた港の見える丘に立たされておるとは、妙な巡り合わせじゃ。
何をした者かと問われれば、大老として跡継ぎを決め、条約の調印を認め、それに逆らう者を処断した、と答えるほかあるまい。
茶席の亭主は、席の段取りを一人で決めるもの。予の二年足らずもそれに似ておった。ただ、あの席は客が多すぎたがのう。
まずは井伊直弼の基本プロフィールと、何をした人物なのかを2分で知ろう
生まれは彦根城内、墓は東京の世田谷です。その間を表にまとめます。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 名前 | 井伊直弼(いい なおすけ)。茶の湯の号は宗観(そうかん)。掃部頭(かもんのかみ)を称した |
| 生没年 | 文化12年10月29日(1815年11月29日)〜安政7年3月3日(1860年3月24日)。満44歳で死去(数え年では46歳) |
| 出身 | 近江国彦根(現在の滋賀県彦根市)。彦根城内で生まれる |
| 家 | 彦根藩主・井伊直中の十四男。母は側室のお富の方 |
| 藩 | 彦根藩。領地は30万石で、幕府から預かる蔵米を加えて35万石の格式とも称した |
| 主な役職 | 彦根藩主(1850年〜)、幕府の大老(1858年〜1860年) |
| 主な仕事 | 将軍の跡継ぎを徳川慶福に決めたこと、日米修好通商条約の調印、安政の大獄 |
| 茶の湯 | 石州流を学び、みずから一派を立てた。著書に『茶湯一会集』『閑夜茶話』 |
| 墓所 | 豪徳寺(東京都世田谷区)。「彦根藩主井伊家墓所」として2008年に国の史跡 |
参考:井伊直弼|コトバンク
参考:彦根藩の歴史Q&A|彦根城博物館
事典の「46歳」は数え年で、満年齢に直すと44歳です。藩を継いだのは1850年(嘉永3年)、『日本大百科全書』の書き方では「ときに数え年36歳」でした。
何代目の藩主かは、数え方で変わります。彦根城博物館は家系図のとおり一人ずつ数えて13代当主とし、ほかの数え方があることも認めています。『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』は「井伊家15代」です。
彦根藩主井伊家では、徳川家康の重臣だった井伊直政を初代と数えます。『日本大百科全書』は直政を彦根藩の「藩祖」と呼んでいます。
参考:井伊氏|コトバンク

十四男で、兄たちのあとに藩主の座が回ってきたのは、数え年で36歳のときでした。直政から続く家を、自分が継ぐと思っていましたか。

十四番目の男子じゃぞ。家を継ぐ見込みなど、まず無いものと心得ておった。
茶会で申せば、末座に通された客が、気づけば亭主の座に座らされておったようなものじゃ。
そなたなら、末座のつもりで来た席で、急に亭主を任されたら、まず何をする。

慌てて、前の亭主のやり方を真似すると思います。

正直でよい。じゃが真似では、客にすぐ見透かされる。
いま問われれば、末座におる間にこそ亭主の稽古を済ませておけ、と申したい。
井伊直弼はどんな人?埋木舎で過ごした15年と、茶人・宗観の顔
藩主になるまでの直弼は、彦根城下の屋敷「埋木舎」で15年を過ごした部屋住みの身でした。部屋住みは、家を継がない男子が親や兄の家で暮らす立場のことです。
『日本大百科全書』によれば、1831年(天保2年)、数え17歳の直弼は藩から300俵の宛行扶持(あてがいぶち:生活のために与えられる米)を受け、彦根城中の槻(けやき)御殿を出て、第三郭・尾末町の屋敷へ移りました。
その屋敷を埋木舎と名づけ、1846年(弘化3年)に兄・直亮の養子となるまで、ここで暮らしています。同じ事典は、直弼が書いた「埋木舎の記」の一節を引いています。
これ世を厭ふにもあらず、はた世を貪るごときかよわき心しおかざれば、望み願ふこともあらず、たゞうもれ木の籠り居て、なすべき業をなさましとおもひ設け
出典:『日本大百科全書』「井伊直弼」が引く「埋木舎の記」
世を嫌って引きこもるのでも、出世を望むのでもない。埋もれ木のように籠もって、するべきことをしよう、という趣旨です。
その「なすべき業」として、直弼は禅・居合・兵学・茶道を修め、国学者の長野義言(主膳)に国学や歌道を学びました。主膳は、のちに大老となった直弼の側近として京都で動く人物です。
茶人としての評は博物館に、性格の話は子ども向けの解説書に出てきます。
| 見られ方 | 内容 |
|---|---|
| 埋木舎の時代 | 禅・居合・兵学・茶道を修め、長野主膳に国学を学ぶ(『日本大百科全書』) |
| 茶人として | 「江戸時代後期の代表的な大名茶人」(彦根城博物館) |
| 大老として | 自分の意見をはっきり言う前向きな態度が、周囲を驚かせたという(国際子ども図書館が、彦根城博物館の小学生向け解説書から紹介) |
| 後世の評価 | 「不忠の臣」とも「開国の恩人」とも。時代によって大きく振幅がある(『日本大百科全書』) |
参考:特別展「一期一会の世界 大名茶人 井伊直弼のすべて」|彦根城博物館
参考:井伊直弼(いい なおすけ)|国立国会図書館 国際子ども図書館
3行目は小学生向け解説書の紹介で、もとの史料は示されていません。彦根で語られてきた直弼像の一つです。
埋木舎の建物は、いまも彦根市尾末町1-11に残り、公開されています。公式サイトによれば、1984年の豪雪で南棟が崩れ、1990年に復元されました。休館は月曜日(祝日の場合は翌日)で、12月20日から2月末までは閉館です。

15年も暮らした家に、埋もれ木とは、ずいぶん地味な名前を付けましたね。

地味で結構。
埋もれ木と申しても、朽ちるのを待つ木ではない。土の下で、掘り出される日まで形を保っておる木よ。
掘り出されるかどうかは、予の決めることではなかった。決められたのは、そのあいだに何を身につけておくかだけじゃ。
井伊直弼は何をした?大老として決めた三つのこと
大老の直弼が決めたのは、跡継ぎ・条約・処罰の三つです。
- ① 1858年、将軍の跡継ぎを紀州藩主・徳川慶福(のちの家茂)に決めた
- ② 同じ年、勅許を得ないまま日米修好通商条約の調印を認めた
- ③ 1858年から翌年にかけて、反対した公卿・大名・幕臣・志士を処罰した(安政の大獄)
どれも、大老に就いてから半年たたないうちに始まったことです。
① 大老に就き、将軍の跡継ぎを徳川慶福に決めた(1858年)
安政5年4月23日(1858年6月4日)、直弼は大老に就き、同年6月25日(西暦8月4日)には紀州藩主・徳川慶福を将軍の跡継ぎと定めました。大老は、老中の上に置かれる幕府の最高職です。
13代将軍・徳川家定には子がなく、跡継ぎをめぐって大名が二つに割れていました。
| 派 | 推した人物 | 主な顔ぶれ | 重んじた条件 |
|---|---|---|---|
| 一橋派 | 一橋慶喜(徳川斉昭の第7子) | 徳川斉昭・松平慶永・島津斉彬ら | 「年長、英明、人望」 |
| 南紀派 | 紀州藩主・徳川慶福 | 井伊直弼ら譜代大名 | 「皇国の風儀」と「血脈」 |
参考:将軍継嗣問題|コトバンク
条件の言葉は『日本大百科全書』の「井伊直弼」の項によります。直弼は、江戸城で溜間(たまりのま)に詰める譜代大名の重鎮でした(『山川 日本史小辞典』)。
大老に選ばれた経緯について、彦根城博物館は次のように書いています。老中・堀田正睦は、一橋派の松平慶永を大老にするよう家定に進言しました。
家定はそれを退け、「家柄と申し、人物と申し、大老は掃部頭(直弼)しかいない」と言ったといいます。この言葉の原典は、博物館のページには書かれていません。
跡継ぎを決めたあと、直弼は反対した斉昭・徳川慶恕・松平慶永に謹慎を命じ、徳川慶篤と一橋慶喜を登城禁止にしました(『改訂新版 世界大百科事典』)。安政の大獄の前から、処分は始まっていたのです。

一橋派は「年長、英明、人望」を挙げていました。それでも慶福を選んだのは、なぜですか。

血筋は、人の好みで動かせぬ。それゆえ揉め事の種になりにくい。
年長で英明な御方を、という一橋の言い分もわかる。ただ、英明かどうかは、選ぶ者の目しだいで変わるのでな。
② 勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印した(1858年)
安政5年6月19日(1858年7月29日)、幕府は勅許(天皇の許し)を得ないまま日米修好通商条約に調印しました。大老として調印を認めたのが直弼です。調印の場は、神奈川沖のアメリカ軍艦ポーハタン号の上でした。
参考:20.五ヶ国条約并税則|国立公文書館 デジタル展示「激動幕末」
ここは資料によって、書き方の力点が違います。
| 資料 | 書き方 |
|---|---|
| 精選版 日本国語大辞典 | 「勅許なしで日米修好通商条約の調印を断行」 |
| ブリタニカ国際大百科事典 | 「専断をもって日米修好通商条約…の調印を断行」 |
| 改訂新版 世界大百科事典 | 同年1月、老中・堀田正睦に「調印はやむをえない」という意向を伝えていた。6月19日、「勅許を得られないままに」調印 |
| 彦根城博物館 | 6月18日の評議では、天皇への説明を優先して調印を引き延ばす方針になった。一方で、岩瀬忠震・井上清直に万一の際の調印を尋ねられた直弼は「致し方ない」と答え、条約は翌19日に調印された |
事典は「断行」「専断」と短くまとめ、博物館は評議の中身まで書いています。どちらの説明でも、最後に調印を認めたのが大老の直弼だったことは変わりません。
調印の前には、堀田正睦が京都で勅許を求めて失敗していました。彦根城博物館は、幕府の伺いを朝廷が認めないのは、それまでの両者の関係では「無かったこと」だと書いています。
アメリカ総領事ハリスは、清と戦った英仏の軍がまもなく日本へ来ると伝え、すぐの調印を迫っていました(彦根城博物館)。
直弼自身は、1853年のペリー来航の直後に、商船を海外に送って国威を示すべきだという意見書を幕府に出しています(『改訂新版 世界大百科事典』)。
参考:条約勅許問題|コトバンク

「致し方ない」の一言で、岩瀬と井上はハリスのもとへ向かい、そのまま調印しました。引き延ばすつもりではなかったのですか。

引き延ばせと申した。そのうえで、どうしてもとなれば致し方ない、とも申した。どちらも予が申したことじゃ。
そなたは、あの「致し方ない」を、許しと聞くか。逃げと聞くか。
③ 反対した人々を処罰した安政の大獄(1858〜1859年)
1858年(安政5年)9月から翌1859年にかけて、直弼は条約の調印や跡継ぎの決定に反対した公卿・大名・幕臣・志士らを処罰しました。これが安政の大獄です。処罰者は100人を超え、吉田松陰・橋本左内らが処刑されました。
きっかけは、安政5年8月8日に朝廷から水戸藩へ下された「戊午(ぼご)の密勅」です。幕府の条約調印は遺憾だという内容で、幕府を通さずに一つの藩へ下されました。
『改訂新版 世界大百科事典』は、これが前例になると幕府の存在が有名無実になると考えた直弼が、反対派に徹底した弾圧を加えることを決めた、と説明しています。
ただし、安政の大獄については、資料によって書き方が違う点があります。
- 刑死者の数… 『改訂新版 世界大百科事典』の「井伊直弼」の項は7人、『デジタル大辞泉』などは8人と書く
- 終わった時期… 「58年9月から59年10月」とする事典と、1860年の桜田門外の変で「大獄は終了」とする事典がある
- なぜ起きたか… 多くの事典は反対派への弾圧とまとめる。彦根城博物館は、密勅に関わった人を捜査するうちに「武力による政権打倒計画までも露見した」と書く
参考:安政の大獄|コトバンク
7人と8人の差がどこから来るのかは、事典の説明にはありません。
一方で直弼は、老中・間部詮勝を京都へ送り、条約調印のいきさつを孝明天皇に説明させました。安政5年12月(1859年初め)に下った天皇の沙汰書には、「心中氷解(しんちゅうひょうかい)」とあります(彦根城博物館)。
吉田松陰が処刑されたのは安政6年10月27日(1859年11月21日)です。処罰された人の一覧と、7人・8人の内訳は、こちらの記事で表にしています。

吉田松陰が処刑されたのは安政6年10月です。いまでは、松陰の名前は日本史の教科書に載っていて、東京の世田谷には松陰を祀る松陰神社もあります。

それを聞いて予が何か言えば、どう言うても言い訳か、強がりに聞こえよう。
処断は、予が決めたことじゃ。
茶会で客を席から退かせた亭主が、その理由をいくら並べても、その客はもう席には戻らぬ。
井伊直弼の死因と最期 桜田門外の変で暗殺されるまで
井伊直弼の死因は暗殺です。安政7年3月3日(1860年3月24日)、江戸城へ登城する途中の桜田門外で、水戸脱藩の17人と薩摩脱藩の1人に襲われて亡くなりました。満44歳でした。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 没年月日 | 安政7年3月3日(1860年3月24日)。この月の18日に万延と改元 |
| 場所 | 江戸城桜田門外(屋敷から登城する途中) |
| その日 | 上巳(じょうし)の節句の祝儀で、諸大名が登城する日 |
| 襲った人数 | 水戸脱藩17人と薩摩脱藩1人の18人(彦根城博物館) |
| 襲った側の言い分 | 「斬奸趣意書」に、勅許のない調印と大獄での弾圧が罪状として挙げられていた |
| 死の扱い | 幕府は死を伏せ、病気として届けさせた。3月晦日(みそか)に大老を免じ、翌閏3月末に死を公表 |
| 墓碑の日付 | 豪徳寺の墓石には「万延元年閏3月28日」と刻まれている |
| 年齢 | 満44歳(数え年では46歳) |
参考:桜田門外の変|コトバンク
参考:井伊直弼|世田谷デジタルミュージアム
襲撃までの流れを、彦根城博物館はこう説明します。直弼は、水戸藩に渡った密勅を返させようと働きかけました。これに憤った藩内の激派が長岡宿(茨城県茨城町)に集まり、中心人物が脱藩して江戸に向かいました。
その日の朝のことは、雪の中の登城として描かれてきました。『日本大百科全書』には、月岡芳年が雪の桜田門外を描いた錦絵の図版が載っています。
博物館は、直弼が「襲撃の情報を得ていたとも言われます」と書いたうえで、大老が登城しないわけにはいかなかったと続けます。
命日が二つあるように見えるのは、死を伏せたためです。世田谷デジタルミュージアムによれば、幕府は彦根藩に大老の死を伏せるよう指示し、直弼の病気と、嫡男・愛麿(のちの直憲)を跡継ぎとする届けが出されました。
事件のあとについて、『山川 日本史小辞典』は次のように書いています。
白昼におきた幕府最高実力者の暗殺は,幕府の権威を急速に失墜させた
出典:『山川 日本史小辞典』「井伊直弼」
『旺文社日本史事典』も「以後,幕府は政局の主導権を失った」と続けます。
彦根藩では二男の直憲が藩主を継ぎましたが、桜田門外の変の追罰として、文久2年(1862年)に10万石を減らされました。直弼は、江戸での菩提寺だった世田谷の豪徳寺に葬られています。
参考:彦根藩|コトバンク
参考:井伊直憲|コトバンク
参考:彦根藩主井伊家墓所|文化遺産オンライン
直弼が大老だったのは、就任から1年10か月ほどでした。

その日は上巳の節句で、諸大名が登城する日でした。屋敷を出るのを取りやめる、という手はなかったのですか。

節句の祝儀は、大老が欠いてよい席ではない。
来ると決めた客がおる限り、席は開くものじゃ。
その朝から先のことを、予がここで語るつもりはない。
この章でたどった大老の時代から桜田門外の変までは、作家の講義で通して聴くこともできます。
【PR】
オーディオブック|Audible
『幕末史09 暗殺は…みんな知っていた? 井伊直弼の独裁と暗殺』
この作品の聴きどころ
- 作品紹介によると、大老井伊直弼が幕府を掌中に収め、1年余りで桜田門外で倒されるまでの経過を解説する回です
- 慶応MCCシティキャンパスでの講義の録音で、『半藤一利 幕末史講義』の1回分です
Audibleの聴き放題に入っています(2026年10月時点。対象は入れ替わることがあります)。30日間の無料体験があります。
※無料期間が終わると通常料金で自動更新されます。
井伊直弼の生涯を年表で振り返る
年の順に並べます。和暦の年末は、西暦では翌年になります。そのため月日のある行は、和暦に西暦の換算日を添えました。年齢は、旧暦10月生まれで出来事ごとに満年齢がずれるため載せていません。
| 年(和暦) | できごと | 解説 |
|---|---|---|
| 文化12年10月29日(1815年11月29日) | 彦根城内に生まれる | 彦根藩主・井伊直中の十四男 |
| 1831年(天保2年) | 埋木舎に移る | 数え17歳。藩から300俵の宛行扶持を受ける。この年、父・直中が死去 |
| 1846年(弘化3年) | 兄・直亮の養子となる | 跡継ぎだった兄・直元が病死したため(世田谷デジタルミュージアム)。江戸に移る |
| 1850年(嘉永3年) | 彦根藩主となる | 直亮の死去による。数え年36歳。掃部頭を称す |
| 1851〜1857年(嘉永4〜安政4年) | 領内を巡見する | 記録「巡見御用留」9冊が残る。奥医師に村の難病人を診察させた(彦根城博物館) |
| 1853年(嘉永6年) | ペリー来航。幕府の諮問に意見書を出す | 商船を海外に送って国威を示すべきだと説く |
| 1857年(安政4年)ごろ | 『茶湯一会集』を完成させる | 彦根城博物館の説明。成立年は資料で割れ、1845年ごろとする辞典、1858年に完本とする事典もある |
| 安政5年4月23日(1858年6月4日) | 大老に就任 | 堀田正睦の進言を退けた将軍家定の意向による、と彦根城博物館は書く |
| 安政5年6月19日(1858年7月29日) | 日米修好通商条約に調印 | 勅許を得ないまま。前日の評議では引き延ばしの方針だった |
| 安政5年6月25日(1858年8月4日) | 徳川慶福を将軍の跡継ぎと公表 | 同じころ、徳川斉昭らが不時登城して直弼を詰問している |
| 安政5年8月(1858年) | 戊午の密勅が水戸藩へ下る | 幕府を通さずに一つの藩へ下された |
| 安政5年9月(1858年) | 安政の大獄が始まる | 処罰者は100人を超える |
| 安政5年12月(1859年初め) | 天皇の沙汰書に「心中氷解」 | 老中・間部詮勝の説明を受けて下された |
| 安政6年10月27日(1859年11月21日) | 吉田松陰が処刑される | 同じ月の7日には橋本左内らが処刑されている |
| 安政7年3月3日(1860年3月24日) | 桜田門外の変で暗殺される | 満44歳。3月18日に万延と改元 |
| 万延元年閏3月(1860年) | 死が公表される | 豪徳寺の墓碑の銘は閏3月28日 |
| 1862年(文久2年) | 彦根藩が10万石を減らされる | 桜田門外の変の追罰として |
並べてみると、埋木舎の15年に対して、大老の時代は2年に届きません。
大老に就任するまでの約8年間の藩政について、コトバンク「井伊直弼」の各項が書くのは「藩政に努めた」(『百科事典マイペディア』)の一言ほどです。領内を回った巡見の記録は、9冊残っています。
参考:巡見御用留|彦根城博物館
直弼が生きた黒船来航から開国までの流れは、学習まんがの通史でも追えます。
【PR】
学習まんが|BOOK☆WALKER
この本の読みどころ
- 作品紹介によると、第11巻は「江戸時代後期」を扱い、【電子特別版】はまんがのみを収録した版です
- BOOK☆WALKERの作品紹介に直弼の名前は出てきません。直弼が生きた時代の流れを押さえるための1冊です
BOOK☆WALKERで電子書籍版を販売しています(2026年10月20日時点。販売状況は変わることがあります)。
※BOOK☆WALKERを初めて使う場合、会員登録から30日以内の最初の購入は、税抜価格の50%分がコインで戻ります(2026年10月5日時点。Webストアでの購入が対象で、内容は予告なく変わることがあります)。
井伊直弼のすごさ・影響力 評価が「悪人」と「開国の恩人」に分かれる理由
直弼の影響は、大老として決めたことが、幕末の政局の出発点になった点にあります。『改訂新版 世界大百科事典』は、勅許を得ないままの調印を「幕末政局激動の発端」と書いています。
評価が二つに割れるのも、そこから来ています。
| 評価 | 誰が、いつ広めたか(彦根城博物館の説明) |
|---|---|
| 反対派を弾圧した「悪人」 | 直弼と対立した勢力が政権を握り、明治政府が近代国家を築くなかで、直弼の政治が批判の対象になった |
| 日本を開国に導いた偉人 | 彦根の人々が、明治42年(1909年)の開国50年祭などを機に、直弼を「開国の恩人」と評価した |
博物館はそのうえで、どちらの直弼評価も「近代社会の政治状況の中で作り出されたもの」だと書きます。
『日本大百科全書』の言い方では、「時代によって大きく振幅がある」評価です。
開国50年祭のあった明治42年は、横浜の掃部山に銅像が建った年でもあります。横浜市西区は、公園の名を「横浜の開港に貢献した大老、井伊直弼公にちなみ付けられた」と紹介しています。
この銅像は第二次世界大戦中、金属の供出でいったん無くなり、昭和29年(1954年)に2代目の銅像が建てられました。いま公園に立つのは、この2代目です。
大河ドラマで井伊直弼を演じた俳優
井伊直弼は、1963年に始まったNHK大河ドラマの第1作『花の生涯』の主人公です。そのあとも、幕末を描く大河でたびたび登場してきました。
| 作品(放送年) | 井伊直弼を演じた俳優 |
|---|---|
| 『花の生涯』(1963年) | 尾上松緑さん |
| 『篤姫』(2008年) | 中村梅雀さん |
| 『青天を衝け』(2021年) | 岸谷五朗さん |
| 『逆賊の幕臣』(2027年) | 岡部たかしさん |
参考:花の生涯 第1話|ザテレビジョン
参考:篤姫 第50話|ザテレビジョン
参考:青天を衝け 第10話|ザテレビジョン
『花の生涯』の原作は舟橋聖一の小説です。舞台でも、1920年の『井伊大老の死』(中村吉蔵作)、1953年の『井伊大老』(北条秀司作)などで、直弼は主役になってきました(『改訂新版 世界大百科事典』)。
2027年の『逆賊の幕臣』では、岡部たかしさんの役が「小栗忠順を遣米使節団に抜擢する井伊直弼役」と紹介されています。
参考:松坂桃李主演・大河ドラマ『逆賊の幕臣』追加キャスト|オリコンニュース
小栗が目付になったのは安政6年9月12日(1859年)で、直弼の大老在任中です。小栗の菩提寺の東善寺は、遣米使節への起用を「井伊大老の抜擢により」としています。
参考:小栗上野介|東善寺
発表済みの配役と、人物どうしの関係はこちらにまとめています。

『花の生涯』という題で、あなたが主役のテレビの芝居になりました。

芝居の主役が予とな。予を主役に据えるとは、物好きな一座じゃ。
善く描かれたか悪く描かれたかは問わぬ。
じゃが一つ聞く。そなたらは芝居の予と、予の書いた茶書と、どちらを先に知った。

多くの人は、ドラマや教科書のほうが先だと思います。

それなら、まだ間に合う。
芝居は他人が書いた予じゃ。茶書のほうは、少なくとも予が書いた。
『花の生涯』の原作になった舟橋聖一の小説は、上・下巻をまとめた合冊版が電子書籍で出ています。
【PR】
この作品のポイント
- 作品紹介によると、十四番目の末子だった井伊直弼が、長野主膳との親交やたか女との出会いを経て大老となり、桜田門外の変に至るまでを描く長編小説です
- 1963年の大河ドラマ第1作『花の生涯』の原作です。史料にもとづく伝記ではなく、小説です
BOOK☆WALKERで電子書籍版を販売しています(2026年10月20日時点。販売状況は変わることがあります)。
※BOOK☆WALKERを初めて使う場合、会員登録から30日以内の最初の購入は、税抜価格の50%分がコインで戻ります(2026年10月20日時点。Webストアでの購入が対象で、内容は予告なく変わることがあります)。
井伊直弼の考え方 『茶湯一会集』の一期一会と、現代へのヒント
直弼の考え方を、本人の書いた文章でたどれるのが茶書『茶湯一会集』です。その序に「一期一会」の四字が見えます。
抑、茶湯の交会は、一期一会といひて、たとへば幾度おなじ主客交会するとも、今日の会にふたたびかへらざる事を思えば、実に我一世一度の会也
出典:臨黄ネット「一期一会」が引く『茶湯一会集』の序(河野太通『床の間の禅語 続』禅文化研究所より)
何度同じ顔ぶれで会っても、今日の会は二度と戻らない。だから一生に一度の会だと思え、という意味です。
本記事は原本も翻刻も直接は確かめておらず、文面は臨済宗・黄檗宗の公式サイト「臨黄ネット」が、河野太通『床の間の禅語 続』から引くものです。
続く部分では、主人は万事に心を配り、客もまたこの会に二度と会えないことをわきまえよ、と亭主と客の両方の心得が説かれます。もてなす側だけの言葉ではありません。
「一期一会」の源流は、千利休の弟子・山上宗二の『山上宗二記』にある「一期に一度の会」だと、辞典はそろって書いています。直弼の造語とも、利休の言葉とも、言い切れません。くわしくはこちらの記事で確かめています。
政治の場の直弼の考え方は、彦根藩の記録『公用方秘録』の一節として事典に引かれています。
抑も大政は関東へ御委任,政を執る者臨機の権道なかるべからず,然りと雖も勅許を待ざる重罪は甘んじて我等壱人に受候決意
出典:デジタル版 日本人名大辞典+Plus「井伊直弼」が引く『公用方秘録』の一節
政治は朝廷から幕府に任されている。だから非常時には臨機の手を打つ。ただし勅許を待たない重罪は、自分一人が受ける覚悟だ、と読めます。
ここから先は、私の受け取り方です。
| 井伊直弼の歩み | 筆者が受け取ったヒント |
|---|---|
| 埋木舎の15年で「なすべき業」を積んだ | 出番が来ない時間も、準備の時間に変えられる |
| 一度の茶会を一生に一度と考え、亭主と客の両方に心得を説いた | 迎える側だけでなく、迎えられる側にも心得がある |
| 勅許を待たない重罪を「我等壱人」で受けると記された | 責めを引き受けると言うことと、決めたことの是非は、別々に問われる |
| 大老のときの決断が、160年以上たっても評価を割っている | 一度の決断は、決めた人がいなくなったあとも問われ続ける |
三つ目の行は、直弼を持ち上げるためではなく、自分に当てはめるために書きました。「全部自分が責任を取る」と言っても、決めたことが正しかったかどうかは別に問われます。
何かを決める立場の人ほど、この二つを混ぜたくなるのではないでしょうか。

「一期一会」はいま、人との出会いを大切にするという意味の、ふつうの言葉として使われています。茶席の外に出た言葉ですね。

予の手を離れた、ということじゃな。
序には客の心得も書いたが、もてなす側の言葉だと思うておる者が多かろう。

はい、多いと思います。

であろうな。
亭主ばかりが気を張る席は、片手で点てた茶のようなものじゃ。半分しか味がせぬ。
この章で引いた『茶湯一会集』は、全篇の現代語訳が電子書籍で出ています。訳したのは、『日本大百科全書』の「一期一会」の項を書いている筒井紘一さんです。
【PR】
この作品のポイント
- 井伊直弼の『茶湯一会集』の全篇を、平易な現代語に訳した一冊
- 「一期一会」「独座観念」など、茶事茶会での主客の心得を収める
- 大きな字で組み、要所に注釈を加えた新書サイズの現代語訳・解説集
BOOK☆WALKERで電子書籍版を販売しています(2026年9月30日時点。販売状況は変わることがあります)。
※BOOK☆WALKERを初めて使う場合、会員登録から30日以内の最初の購入は、税抜価格の50%分がコインで戻ります(2026年10月5日時点。Webストアでの購入が対象で、内容は予告なく変わることがあります)。
あなたは井伊直弼の生き方から、何を受け取りますか。
よくある質問(FAQ)
井伊直弼は何をした人ですか?簡単に教えてください。
江戸時代末期の彦根藩主で、幕府の大老です。1858年に将軍の跡継ぎを徳川慶福(家茂)に決め、勅許を得ないまま日米修好通商条約の調印を認め、反対派を処罰しました(安政の大獄)。1860年に桜田門外で暗殺されました。
井伊直弼はなぜ大老になれたのですか?
井伊家は譜代大名の家柄で、直弼は溜間詰の譜代大名の重鎮でした。彦根城博物館によれば、老中・堀田正睦が松平慶永を推したのに対し、将軍家定が「大老は掃部頭しかいない」と退けたといいます。
井伊直弼はなぜ、誰に暗殺されたのですか?
安政7年3月3日(1860年3月24日)、水戸脱藩の17人と薩摩脱藩の1人に、桜田門外で襲われました。襲撃側の「斬奸趣意書」は、勅許のない条約調印と安政の大獄での弾圧を罪状に挙げていました。
井伊直弼は良い人ですか、悪い人ですか?
評価は両極に分かれています。彦根城博物館は、反対派を弾圧した悪人という見方も、開国の恩人という見方も、直弼の死後、近代の政治状況のなかで作られたと説明しています。本記事はどちらかに決めていません。
「井伊の赤鬼」は井伊直弼のことですか?
「井伊の赤鬼」は、彦根藩祖・井伊直政を指して使われる呼び名です。高殿円の小説『主君 井伊の赤鬼・直政伝』(文藝春秋)の書名にもなっています。直弼を赤鬼と呼んだことを示す事典や公的機関の資料は、今回見つけられませんでした。
井伊直弼と井伊直政はどんな関係ですか?
直政は徳川家康の重臣で、彦根藩の藩祖です。直弼はその子孫で、彦根城博物館の数え方では13代当主にあたります。
井伊直弼の子孫は今もいますか?
二男の直憲が彦根藩主を継ぎ、のちに伯爵になりました。井伊家は今も続いており、2015年のスルガ銀行の講演レポートは、講師の井伊岳夫氏を「現在の井伊家の当主」と紹介しています。
井伊直弼の墓はどこにありますか?
東京都世田谷区の豪徳寺です。豪徳寺は江戸での井伊家の菩提寺で、彦根の清凉寺などとあわせて「彦根藩主井伊家墓所」として2008年に国の史跡になりました。墓石の日付は、死を伏せたため万延元年閏3月28日です。
埋木舎は見学できますか?
できます。所在地は滋賀県彦根市尾末町1-11です。公式サイトによれば、休館は月曜日(祝日の場合は翌日)で、12月20日から2月末までは閉館です(2026年10月時点)。
「一期一会」は井伊直弼の言葉ですか?
四字熟語の形は、直弼の『茶湯一会集』に見えます。ただし辞典はその源流を『山上宗二記』の「一期に一度の会」としており、直弼の造語とは言い切れません。
インタビュー後記 井伊直弼は「15年待って、2年で決めた人」
年表を作り終えて、行の偏りに目が留まりました。埋木舎の15年は2行で済むのに、大老の2年足らずには10行近くが要ります。
この偏りは、そのまま評価の偏りでもあると私は思います。悪人と言う人も、開国の恩人と言う人も、見ているのは2年足らずのほうです。
埋木舎の15年に何を積んだかは、茶書と和歌と、残った屋敷でしかたどれません。
それでも、「なすべき業をなさまし」と書いて籠もった人が、のちに「我等壱人に受候」と書かれる大老になった。その間をつなぐ線を、私はまだ一本に引けずにいます。
善悪を決めるのは、もう少し日付を並べてからでも遅くないでしょう。
直弼が遣米使節に送り出したとされる小栗忠順の記事は、こちらです。
調印の前日の評議で、直弼から「致し方ない」の一言を引き出した岩瀬忠震の記事もあります。
参考資料
- コトバンク「井伊直弼」※生没年(文化12年10月29日。ブリタニカ・山川・日本人名大辞典の書き方に従い、12月29日とする日本大百科全書には従わなかった。没年月日は安政7年3月3日)、十四男・母お富の方、1831年に数え17歳で300俵の宛行扶持を受け埋木舎へ移ったこと、「埋木舎の記」の一節、禅・居合・兵学・茶道・長野主膳への師事、1846年の養子、1850年の襲封と「ときに数え年36歳」、一橋派と南紀派の条件、溜間詰譜代の重鎮、1853年の意見書、1858年1月の意向、4月23日の大老就任・6月19日の調印・25日の継嗣決定、反対派への謹慎・登城禁止、戊午の密勅と弾圧の決意、処罰者100人超と「7人の刑死者」、『公用方秘録』の一節、「不忠の臣」「開国の恩人」の評価、「藩政に努めた」、山川・旺文社の暗殺後の影響、号・宗観と石州流、『茶湯一会集』『閑夜茶話』、「46歳」、「井伊家15代」、月岡芳年の錦絵の図版、舞台化された作品の出典
- コトバンク「茶湯一会集」※成立年を1845年ごろとする精選版 日本国語大辞典と、1858年に完本とする日本大百科全書の記述の出典
- コトバンク「彦根藩」※文久2年(1862年)に10万石を減らされたことの出典
- 国立国会図書館「近代日本人の肖像|橋本左内」※橋本左内の没年月日の出典
- コトバンク「井伊氏」※井伊直政を彦根藩の藩祖とすることの出典(『日本大百科全書』)
- コトバンク「井伊直憲」※直憲が直弼の二男であること、桜田門外の変の追罰による10万石の削減、伯爵となったことの出典
- コトバンク「将軍継嗣問題」※一橋派と南紀派の対立の出典
- コトバンク「条約勅許問題」※堀田正睦の勅許失敗、勅許なしの調印が「幕末政局激動の発端」となったことの出典
- コトバンク「日米修好通商条約」※調印の日付と、勅許を得ないままの調印であることの出典
- コトバンク「安政の大獄」※刑死者を8人とする辞典、大獄の期間と終わりの書き方が割れることの出典
- コトバンク「桜田門外の変」※「斬奸趣意書」の罪状、幕府が死をしばらく伏せたことの出典
- 彦根城博物館「井伊直弼の大老政治について」※「善悪両極端に評価されてきました」、ハリスが英仏軍の来航を告げて即時の調印を迫ったこと、評価が作られた経緯と開国50年祭、堀田の進言と家定の言葉、勅許保留が「無かったこと」、6月18日の評議と「致し方ない」、戊午の密勅と「武力による政権打倒計画までも露見した」、「心中氷解」、長岡宿への集結、上巳の節句と「襲撃の情報を得ていたとも言われます」、水戸脱藩17名と薩摩脱藩1名の出典
- 彦根城博物館「彦根藩の歴史Q&A」※30万石と35万石の格式、直弼を13代当主とする数え方とほかの数え方、豪徳寺が江戸での菩提寺であること、3か所の墓所が2008年に国の史跡になったことの出典
- 彦根城博物館「巡見御用留」※嘉永4年から安政4年の領内巡見の記録9冊と、奥医師に村方の難病人を診察させたことの出典
- 彦根城博物館 特別展「一期一会の世界 大名茶人 井伊直弼のすべて」※「江戸時代後期の代表的な大名茶人」の評と、安政4年に『茶湯一会集』を完成させたことの出典
- 彦根城博物館「茶湯一会集」※『茶湯一会集』が重要文化財で、所蔵館が「井伊直弼筆」と表示していることの出典
- 国立国会図書館 国際子ども図書館「井伊直弼(いい なおすけ)」※生没年月日の西暦換算、自分の意見をはっきり言う態度が周囲を驚かせたという紹介(『井伊直弼ってどんな人? 小学生用解説書』による)の出典
- 世田谷デジタルミュージアム「井伊直弼」※兄・直元の病死による養子、死を伏せた経緯(病気と直憲の届け、3月晦日の大老免職、閏3月末の公表)、墓石の「万延元年閏3月28日」の銘の出典
- 文化遺産オンライン「彦根藩主井伊家墓所」※2008年3月28日の史跡指定、豪徳寺に直弼ら6藩主が葬られていることの出典
- 埋木舎「建物紹介」※1984年の豪雪による南棟の崩壊と1990年の復元の出典
- 埋木舎「アクセス」※所在地(彦根市尾末町1-11)、開館時間、休館日と冬期閉館の出典
- 横浜市西区「掃部山公園を知ろう」※明治42年の横浜開港50周年記念の銅像建立、公園名の由来、戦時中の金属回収の出典
- 横浜市西区「温故知新!西区てくてくスケッチ 第十六回」※昭和29(1954)年に2代目の銅像が再建立されたことの出典
- 国立公文書館 デジタル展示「激動幕末」「20.五ヶ国条約并税則」※安政5年6月19日(1858年7月29日)にポーハタン号上で調印されたことの出典
- 国立国会図書館「近代日本人の肖像|吉田松陰」※吉田松陰の没年月日(1859年11月21日)の出典
- 臨黄ネット(臨済宗・黄檗宗 公式サイト)「一期一会」※河野太通『床の間の禅語 続』(禅文化研究所)から引く『茶湯一会集』の序の文面の出典。本記事は原本も翻刻も直接確認しておらず、同サイトが紹介する文面を引いています
- コトバンク「一期一会」※源流を『山上宗二記』の「一期に一度の会」とする辞典の記述、人との出会いを大切にする意味の一般語になったという語誌の出典
- ザテレビジョン「花の生涯 第1話」※大河ドラマの第1作であること、1963年の放送、尾上松緑さんが井伊直弼役であることの出典
- ザテレビジョン「篤姫 第50話」※中村梅雀さんが井伊直弼役であることの出典
- ザテレビジョン「青天を衝け 第10話」※岸谷五朗さんが井伊直弼役であることの出典
- オリコンニュース「逆賊の幕臣」追加キャスト(2026年2月24日)※岡部たかしさんが「小栗忠順を遣米使節団に抜擢する井伊直弼役」であることの出典
- 東善寺「小栗上野介」※遣米使節への起用を「井伊大老の抜擢により」と書く記述の出典
- 東善寺「小栗上野介忠順の略歴」※小栗が安政6年9月12日に目付となったことの出典
- スルガ銀行「井伊直弼の生涯」イベントレポート(2015年3月10日)※講師の井伊岳夫氏を「現在の井伊家の当主」と紹介していることの出典
- 文藝春秋『主君 井伊の赤鬼・直政伝』(高殿円 著)※「井伊の赤鬼」が井伊直政の呼び名として書名に使われていることの出典
- 松陰神社(東京都世田谷区)「ご祭神」※世田谷の松陰神社が吉田松陰を祀ることの出典
- BOOK☆WALKER『花の生涯【合冊版/全2巻】』(舟橋聖一・祥伝社文庫)※合冊版の作品紹介(直弼・長野主膳・たか女を描く小説であること)と販売状況の出典








コメント