王政復古の大号令の記事を書いたとき、別条の一つに「和宮の還京」があるのに目が留まりました。幕府を廃絶すると告げる文書が、その別条で、将軍家に嫁いだ皇女を一日も早く京へ帰せと書いている。
和宮(かずのみや)は、このサイトでは孝明天皇の妹、徳川家茂の正室として、何度も脇役で出てきました。けれど本人が何をした人なのかは、一度も書いていません。今回は本人を主役に据えて、年と日付でたどります。
この記事の結論
和宮は、公武合体(朝廷と幕府が結んで政治を立て直そうとする考え)のため、兄・孝明天皇の決定で14代将軍・徳川家茂に嫁いだ仁孝天皇の皇女です。
有栖川宮熾仁親王との婚約を解かれ、文久2年2月11日(1862年3月11日)に江戸城で婚儀を挙げました。家茂の死後は静寛院宮(せいかんいんのみや)と号し、戊辰戦争では徳川家の存続と東征軍の進撃猶予を嘆願しています。
ただし、降嫁を決めたのは本人ではなく、兄の孝明天皇と幕府です。本人は強く固辞したものの、周囲の説得に抗しきれなかったと事典は書きます。江戸開城も勝海舟と西郷隆盛の会談で決まったもので、和宮一人の働きではありません。
- 満31歳
没年齢(数え年32歳) - 約25日
京から江戸への道中 - 1862年
家茂と婚儀
この記事では、基本プロフィールから、婚約と降嫁、中山道の行列、静寛院宮としての嘆願、死因と増上寺の墓、年表、ドラマで演じた俳優、公武合体という言葉の意味までを順にたどります。
語り手として、和宮AI(和宮をモデルにしたAI)にも登場してもらいます。本人がいま問われたらどう答えるかを想像する手がかりにしてください。
※以下のインタビュー部分は、公開されている史料をもとに和宮の人物像を再現した創作です。実際の発言をそのまま掲載したものではありません。
出典の確かめ方と、公開前に行っているチェックは編集方針にまとめています。

和宮さま、はじめまして。2027年1月、板橋区立郷土資料館で「没後150年 皇女和宮、中山道をゆく」という展示が始まります。板橋は、あなたが江戸に入る前の晩を過ごした宿場です。ご自身では、何をした人だと思っておられますか。

御所では、そういう問い方はいたしませぬ。どの家の誰か、で足りるのでございます。
仁孝天皇の娘で、帝の妹で、徳川の将軍に嫁いだ者。わたくしの名は、いつも誰かとの間柄で書かれてまいりました。
それでも何かをしたと申すなら、嫁いだ先の家のために、京へ願いを届けたことでございましょう。そなたは、どこまで調べてこられました。
まずは和宮の基本プロフィールと、何をした人物なのかを2分で知ろう
生まれは京都、墓は東京の芝です。その間を表にまとめます。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 名前 | 和宮(かずのみや)。名は親子(ちかこ)。出家後は静寛院宮(せいかんいんのみや) |
| 生没年 | 弘化3年閏5月10日(1846年7月3日)〜明治10年(1877年)9月2日。満31歳で死去(数え年では32歳) |
| 出身 | 京都。仁孝天皇の皇女で、孝明天皇の妹。母は橋本経子(観行院) |
| 婚約 | 嘉永4年(1851年)、有栖川宮熾仁親王と婚約。のち降嫁のため解かれる |
| 結婚 | 文久2年2月11日(1862年3月11日)、江戸城で14代将軍・徳川家茂と婚儀 |
| 主な出来事 | 公武合体のための降嫁、家茂の死後の落飾、戊辰戦争での徳川家存続の嘆願 |
| 死没地 | 箱根・塔之沢(神奈川県) |
| 墓所 | 増上寺(東京都港区)。徳川将軍家墓所に家茂と並んで葬られている |
参考:和宮|コトバンク
参考:徳川将軍家墓所|大本山 増上寺
和宮を一言でいえば、公武合体の象徴として将軍家に嫁いだ皇女です。事典の「享年32」は数え年で、満年齢に直すと31歳になります。
夫になった徳川家茂は、弘化3年閏5月24日(1846年7月17日)の生まれです。和宮と同い年で、生まれは2週間違いでした。慶応2年(1866年)に大坂城で亡くなった家茂の死因の諸説は、こちらの記事で史料から確かめています。
和宮は仁孝天皇の皇女ですが、仁孝天皇は和宮が生まれる前の弘化3年1月に亡くなっています。兄の孝明天皇が位を継いだ年に、妹が生まれたことになります。
参考:徳川家茂|コトバンク
参考:仁孝天皇|コトバンク

家茂さんとは同い年で、生まれは14日違いです。将軍と皇女というより、同じ年の二人が江戸城で顔を合わせたのですね。

京では、縁組は家と家の話。年が同じかどうかを数える者はおりませぬ。
婚儀のとき、わたくしも将軍も満で十五と申すのでございますか。数えで申せば、どちらも十七でございました。
十五で嫁ぐのが早いか遅いか、そなたはどう思われます。
和宮はどんな人?事典が書くことと、ドラマが描くこと
事典が和宮について書くのは、おもに降嫁を受け入れた事実と、徳川家の存続を嘆願した事実です。
一方で、ドラマや雑誌の記事は、和宮を「悲運の皇女」として描き、家茂との夫婦仲のよさを語ります。どちらが本当か、ではなく、どこまでが史料で確かめられるかを分けておきます。
| 見られ方 | 内容 |
|---|---|
| 事典の書き方 | 降嫁を「強く固辞したが、周囲の説得に抗しきれず、これを受けいれ」(『改訂新版 世界大百科事典』)。戊辰戦争では「和解の斡旋をした」(『ブリタニカ国際大百科事典』)、「江戸開城の陰の力となった」(『デジタル大辞泉』) |
| 菩提寺の書き方 | 江戸城開城など新旧体制の移行を円滑にすることと、江戸市中の治安維持に努め、旧幕臣の救済にも尽力した(増上寺) |
| ドラマでの描き方 | 「悲運の人物として描かれることが多い」。家茂との夫婦仲は「良好だったとされる」(デイリースポーツ、2018年) |
| 雑誌の書き方 | 政略結婚だったが「仲睦まじい夫婦だった」と言われている(サライ.jp、2023年) |
| 博物館の展示解説 | 二人は和歌やかんざしなどを贈りあい、家茂の上洛中も夫婦間で手紙のやり取りを欠かさなかった(江戸東京博物館) |
参考:和宮|コトバンク
参考:静寛院宮奉讃法要のご案内|大本山 増上寺
参考:西郷どん 皇女和宮役に注目集まる|デイリースポーツ
参考:和宮 江戸へ ―ふれた品物 みた世界―|江戸東京博物館
江戸東京博物館の展示解説によれば、二人は和歌やかんざしを贈り合い、家茂の上洛中も手紙を交わしていました。こうした交流から、仲のよい夫婦として紹介されています。
事典と菩提寺の書き方には、1つ共通点があります。嫁ぐときは兄と幕府が決めたことを受け入れ、幕府が終わるときは、嫁いだ家の存続を嘆願した。この2つを並べて書いている点です。

和歌やかんざしを贈り合って、上洛中も手紙を欠かさなかったそうですね。

そこまで知られておりますとは。京では、夫婦の文を外の者に見せることはいたしませぬ。
何を書き送ったかは、わたくしと将軍だけが知っていればよいこと。中身までは申しませぬ。
和宮は何をした?婚約・降嫁・嘆願の三つの節目
和宮の生涯は、三つの節目で区切ると見通しがよくなります。
- ① 有栖川宮との婚約を解かれ、徳川家茂への降嫁が決まる(1851〜1860年)
- ② 中山道を下り、江戸城で家茂と結婚する(1861〜1862年)
- ③ 夫の死後に静寛院宮となり、徳川家の存続を嘆願する(1866〜1868年)
降嫁は兄と幕府が進めた縁談でした。その後、夫を失い、幕府が崩れていくなかで、和宮がどう動いたのかを見ていきましょう。
① 有栖川宮との婚約を解かれ、降嫁が決まる(1851〜1860年)
降嫁を決めたのは、和宮本人ではなく、兄の孝明天皇と幕府です。和宮には嘉永4年(1851年)から有栖川宮熾仁親王との婚約がありましたが、万延元年10月(1860年)に家茂への降嫁が勅許されました。
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 嘉永4年(1851年) | 有栖川宮熾仁親王と婚約 |
| 安政5年6月19日(1858年7月29日) | 幕府が勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印 |
| 安政7年3月3日(1860年3月24日) | 桜田門外の変。大老・井伊直弼が暗殺される |
| 万延元年10月(1860年) | 和宮の降嫁が勅許される |
参考:和宮降嫁問題|コトバンク
降嫁を進めたのは、井伊直弼の死後に幕府の中心にいた老中・安藤信正と久世広周です。『ブリタニカ国際大百科事典』は、尊王攘夷運動を鎮めて幕府の力を安定させるため、二人が和宮の降嫁を朝廷に申し入れたと書いています。
朝廷側の条件が、攘夷(外国を追い払うこと)の実行でした。『改訂新版 世界大百科事典』の「孝明天皇」の項は、幕府が「将来の攘夷の実行を約して」婚姻を求めたため、天皇が同意したと説明します。
『日本大百科全書』は、孝明天皇が「攘夷の維持のためには公武の合体による国内一致が急務であると判断」したと書きます。妹の縁談が、外国船を追い払う約束と引き換えになったわけです。
参考:孝明天皇|コトバンク

勅許が下りた万延元年10月、あなたは満14歳でした。兄の孝明天皇は、幕府に攘夷の実行を約束させています。妹の縁談と、外国船を追い払う約束が、引き換えになったのですね。

引き換え、とはずいぶん商人のような言い方をなさる。御所では、そうは申しませぬ。
されど、兄上が攘夷の約束を条件になさったのは確かなこと。わたくしの縁談が、国の大事の秤に載ったのでございます。
十四の娘が秤から降りられたかと問われれば、いまのわたくしは、降りられなかったと答えるほかございませぬ。
和宮本人の態度について事典が書くのは、「強く固辞したが、周囲の説得に抗しきれず、これを受けいれ」(『改訂新版 世界大百科事典』)の一文です。何を思って受け入れたのかは、事典からは分かりません。
婚約者だった有栖川宮熾仁親王は、のちに王政復古で新政府の総裁となり、戊辰戦争では東征大総督として江戸へ向かいます。元の婚約者が、嫁ぎ先の家を討つ軍の総督になったことになります。
降嫁を決めた兄・孝明天皇は、慶応2年12月25日(1867年1月30日)に急死し、毒殺説がいまも語られています。その経緯はこちらの記事で確かめています。

婚約者だった熾仁親王は、慶応4年(1868年)に東征大総督として江戸へ向かいます。京で決まった縁談の相手と、江戸で敵味方に分かれたのですね。

縁とは妙なものでございます。京で決まった縁談のお相手が、江戸へ兵を連れて来られるのでございますから。
あのお方を恨むとか恨まぬとか、そういう話にはいたしたくございませぬ。どちらも、京の決めたことに従ったまででございましょう。
② 中山道を下り、江戸城で徳川家茂と結婚する(1861〜1862年)
文久元年10月20日(1861年)、和宮は京都を出て中山道を下り、11月15日に江戸城北の丸の清水邸に入りました。翌年2月11日が婚儀です。
| 日付 | 出来事 |
|---|---|
| 文久元年10月20日(1861年) | 京都を出発。東海道ではなく中山道を通る |
| 文久元年11月14日(1861年) | 夕刻、板橋宿に到着。中宿の飯田宇兵衛家で江戸入り前の最後の夜を過ごす |
| 文久元年11月15日(1861年) | 江戸城北の丸の清水邸に入る |
| 文久2年1月15日(1862年2月13日) | 坂下門外の変。降嫁を進めた老中・安藤信正が襲われ負傷 |
| 文久2年2月11日(1862年3月11日) | 江戸城で家茂と婚儀 |
参考:没後150年 皇女和宮、中山道をゆく|板橋区立郷土資料館
参考:坂下門外の変|コトバンク
行列の規模は、板橋区立郷土資料館の展示案内で「総勢3万人とされる」と書かれています。幕府の役人が事前に各宿場を検分し、人足の手配や建物の修復・新築が行われました。京都から江戸まで約25日の旅でした。
同じ案内は、徳川将軍に嫁ぐ姫君の通行に中山道がよく使われ、和宮の輿入れがそのなかで最大規模だったと説明しています。なぜ東海道でなかったのかは、資料館の案内にも事典にも出てきません。
婚儀のひと月前、降嫁を進めた老中が江戸城の門外で襲われました。坂下門外の変です。安藤信正は負傷し、同年4月に老中を退きます。『山川 日本史小辞典』は、この事件を機に公武合体運動が退潮したと書きます。
参考:安藤信正|コトバンク
2027年の大河ドラマ『逆賊の幕臣』の制作発表では、物語の紹介文に「皇女・和宮の降嫁」が、将軍の上洛や長州征討とともに幕府の財政を圧迫した出来事の一つとして挙げられています。
3万人とされる行列は、幕府の帳簿の側から見れば、支出の一行でもあったはずです。
参考:2027年の大河ドラマは『逆賊の幕臣』 主人公は天才肌の幕臣、小栗忠順 松坂桃李さん主演|美術展ナビ
和宮の降嫁に攘夷の実行が条件とされた経緯と、その約束が長州の外国船砲撃につながる流れは、こちらの記事でたどっています。

行列は総勢3万人とされ、京から江戸まで25日ほどかかりました。東海道でなく中山道だったのは、どなたの決めごとでしたか。

道を決めたのは、わたくしではございませぬ。京では、宮が自分で道筋を選ぶことなどいたしませぬもの。
理由が書いておらぬなら、書いておらぬままにしておくのがよろしゅうございます。後から思いついた理由ほど、もっともらしく聞こえるものでございますから。
それより三万人とは。輿に乗る者に、そのような数は分かりようがございませぬ。数えるのは、お役人の仕事でございましょう。
歴史作家の堀口茉純さんが、和宮の降嫁を題に小学生向けに語るオーディオブック(57分)もあります。
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③ 静寛院宮として、徳川家の存続を嘆願する(1866〜1868年)
慶応2年7月20日(1866年8月29日)、家茂が第2次長州征討の最中に大坂城で病死しました。和宮は同年12月(1867年1月)に髪を下ろし、静寛院宮と号します。
その直後の慶応2年12月25日(1867年1月30日)、兄の孝明天皇も亡くなりました。夫と兄を、5か月のうちに続けて失ったことになります。
翌慶応3年12月9日(1868年1月3日)に王政復古の大号令が出ると、別条の一つに、和宮を一日も早く京へ帰すよう促す、という項目が入りました。幕府を廃絶する文書が、同時に、嫁いだ皇女を京へ呼び戻そうとしていたのです。
けれど和宮は開城まで江戸に残り、徳川家の存続を嘆願しました。事典・国立国会図書館・菩提寺の書き方は、次のとおりです。
- 東征軍が江戸へ向かうにあたり、徳川慶喜の懇願を受けて侍女を京都へ送り、家名の存続を嘆願した(『日本大百科全書』)
- 徳川家の救済と、征東軍の進撃猶予を嘆願した(『改訂新版 世界大百科事典』)
- 13代将軍家定の正室・天璋院(篤姫)と協力して、徳川家の存続を働きかけた(国立国会図書館 国際子ども図書館)
- 江戸城開城など新旧体制の移行を円滑にし、江戸市中の治安維持に努めた(増上寺)
参考:和宮|コトバンク
参考:戊辰戦争|国立国会図書館 国際子ども図書館
参考:静寛院宮奉讃法要のご案内|大本山 増上寺
ただし、江戸開城そのものを決めたのは、慶応4年3月13日・14日の勝海舟と西郷隆盛の会談です。
『日本大百科全書』の「江戸開城」の項は、その経緯のなかで「静寛院宮(和宮)の嘆願」に触れています。嘆願は、開城に至る動きの一つでした。
参考:江戸開城|コトバンク
慶応4年4月11日(1868年5月3日)、江戸城は開城され、和宮は清水邸に移ります。1869年(明治2年)に京都へ戻り、1874年(明治7年)6月まで滞在したのち、ふたたび東京へ戻りました。
江戸開城を含む戊辰戦争の1年半の流れは、こちらの記事で年表にしています。

大号令の別条には、あなたを一日も早く京へ帰すように、とあります。けれど、あなたは江戸に残って嘆願を続けました。

新しいお役所が、京の生まれの者を京へ戻そうとするのは、筋としては分かります。けれど、わたくしはもう徳川の家の者でございました。
嫁いだ家が朝敵とされたときに、自分だけ京へ帰るのは、御所のしきたりから見ても見苦しいことと、いまのわたくしは思うております。

天璋院さんと協力した、と国立国会図書館の子ども向け解説にあります。薩摩から来た姑と、京から来た嫁が、同じ家のために動いたのですね。

姑と嫁、と申されると身構えてしまいます。京と薩摩では、育ちがまるで違いますもの。
違いを数えだせばきりがございませぬ。それでも、徳川の家を残したいという一点では、同じ方を向いておりました。
和宮の死因と最期 箱根・塔之沢で満31歳
和宮は明治10年(1877年)9月2日、箱根の塔之沢で亡くなりました。事典は、脚気の治療中の病死と記しています。満31歳でした。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 没年月日 | 明治10年(1877年)9月2日 |
| 場所 | 箱根・塔之沢(神奈川県足柄下郡箱根町) |
| 死因 | 脚気(かっけ)の治療中の病死と事典は記す。観光庁の解説文も「塔ノ沢の温泉地に滞在中、脚気で亡くなりました」 |
| 年齢 | 満31歳(事典の「享年32」は数え年。増上寺は「31歳」) |
| 墓所 | 増上寺(東京都港区芝公園)の徳川将軍家墓所。家茂の墓の隣 |
| 宝塔 | 家茂の石製に対し、和宮の宝塔は青銅製。明治期に造られた |
参考:和宮|コトバンク
参考:阿弥陀寺|観光庁 地域観光資源の多言語解説文データベース
参考:徳川将軍家墓所|大本山 増上寺
脚気は当時からある病名ですが、原因がビタミンB1の不足と分かってくるのは、和宮の死後のことです。
増上寺によれば、明治政府は遺体を京都へ戻すよう指示しました。しかし本人の遺言により、増上寺にあった家茂の墓所の隣に葬られました。塔之沢の阿弥陀寺には、和宮に捧げられた小さなお堂があります。

箱根の湯治場に、あなたのお堂があるのをご存じですか。

箱根の山の中に、わたくしのお堂が……。京の寺ならいくらでも思い浮かびますが、箱根とは思いもよりませぬ。
湯に入りに来た方が、ついでに手を合わせてくださるのでございますか。それくらいの気安さが、ちょうどよろしゅうございます。
そなたも箱根へ行かれたら、湯のついでに寄ってくださいませ。
増上寺の旧霊廟は戦災で焼失し、昭和33年(1958年)夏、文化財保護委員会が中心となって発掘調査が行われました。遺体は桐ヶ谷で荼毘にふされ、現在の墓所に改葬されています。
調査の報告書は、鈴木尚編『増上寺徳川将軍墓とその遺品・遺体』(東京大学出版会、1967年)です。
参考:増上寺徳川将軍墓とその遺品・遺体|国立国会図書館サーチ
ウェブ上で紹介される、和宮の写真や左手にまつわる話は、この調査に由来するとされます。発掘調査に関する逸話は、報告書の該当箇所を未確認のため、本記事では扱いません。
墓所は拝観できます。増上寺の案内では、受付は平日11時〜15時、土日祝10時〜16時、拝観料は大人500円で、火曜日が定休です。ただし2026年10月27日から12月1日までは、チケット販売所の工事のため休所です。

増上寺の墓所では、いまもあなたの宝塔が家茂さんの隣に並んでいます。あなたの塔だけ青銅で、明治になってから造られたものです。

石の隣に銅とは。明治になってから造ったのなら、世が変わったあとの品でございましょう。
並べば、少しちぐはぐかもしれませぬ。それでも、隣に並べていただけたのなら、色の違いなどどうでもよいこと。
和宮の生涯を年表で振り返る
年の順に並べます。和暦の年末は、西暦では翌年になります。慶応2年12月は1867年1月なので、落飾と孝明天皇の死は西暦では1867年の出来事です。
| 年(和暦) | できごと | 解説 |
|---|---|---|
| 弘化3年閏5月10日(1846年7月3日) | 生まれる | 仁孝天皇の皇女。母は橋本経子。同じ年の閏5月24日に家茂が生まれる |
| 嘉永4年(1851年) | 有栖川宮熾仁親王と婚約 | 日本人名大辞典は「6歳で」と書く(数え年) |
| 安政5年6月19日(1858年7月29日) | 日米修好通商条約の調印 | 幕府が勅許を得ないまま調印。朝廷と幕府の関係が悪化する |
| 安政7年3月3日(1860年3月24日) | 桜田門外の変 | 大老・井伊直弼が暗殺される。幕府は朝廷との結びつきで立て直しを図る |
| 万延元年10月(1860年) | 降嫁が勅許される | 老中・安藤信正と久世広周が推進。条件は攘夷の実行 |
| 文久元年(1861年) | 内親王宣下 | 『山川 日本史小辞典』の記述 |
| 文久元年10月20日(1861年) | 京都を出発 | 中山道を下る。行列は総勢3万人とされる |
| 文久元年11月15日(1861年) | 江戸城北の丸の清水邸に入る | 前夜は板橋宿に宿泊 |
| 文久2年1月15日(1862年2月13日) | 坂下門外の変 | 安藤信正が負傷。4月に老中を退く |
| 文久2年2月11日(1862年3月11日) | 家茂と婚儀 | 江戸城で。和宮・家茂とも満15歳 |
| 文久3年(1863年) | 家茂、将軍として上洛 | 以後、元治元年・慶応元年にも上洛する |
| 慶応2年7月20日(1866年8月29日) | 家茂が大坂城で病死 | 第2次長州征討の最中。発喪は8月20日 |
| 慶応2年12月(1867年1月) | 落飾し、静寛院宮と号す | 事典は「同年12月」まで |
| 慶応2年12月25日(1867年1月30日) | 兄・孝明天皇が死去 | 慶応3年1月9日(1867年2月13日)、明治天皇が践祚 |
| 慶応3年12月9日(1868年1月3日) | 王政復古の大号令 | 別条に、和宮を早く京へ帰すよう促す項目 |
| 慶応4年4月11日(1868年5月3日) | 江戸城開城 | 和宮は清水邸へ移る |
| 明治2年(1869年) | 京都へ戻る | 1874年6月まで滞在 |
| 明治7年(1874年) | 東京へ戻る | 以後、東京で暮らす |
| 明治10年(1877年)9月2日 | 箱根・塔之沢で死去 | 満31歳。増上寺の家茂の隣に葬られる |
| 昭和33年(1958年) | 増上寺旧霊廟の発掘調査 | 戦災で焼失した霊廟から現在の墓所へ改葬 |
並べてみると、和宮が江戸城で暮らしたのは、1861年の冬から1868年の春までの6年半ほどです。家茂との婚姻期間は、1862年3月から1866年8月までの約4年半です。ただし家茂はたびたび上洛し、離れて過ごす時間もありました。
降嫁が決まる前後から江戸開城までに、幕府の側では大老の暗殺、老中の負傷、将軍の病死、大政奉還、王政復古が続きます。和宮の年表は、幕府が終わる手順をそのまま映しています。
王政復古の大号令が別条で和宮の還京を促していたことは、原文の翻刻を確かめたこちらの記事で紹介しています。

年表にすると、1866年の夏から翌年の1月までに、夫と兄を続けて失っています。そのあと江戸に残るか京へ帰るかを、誰かに相談できましたか。

誰に相談したかを、ここで名を挙げて申せば、そなたはそれを本当のことにしてしまいましょう。それは申しませぬ。
ただ、御所でも大奥でも、宮という立場の者が、一人きりで物を決めることはまずございませぬ。
ただ、決めたあとの重さは、いつも一人で負うもの。いまのわたくしなら、そう申します。
和宮のすごさ・影響力 公武合体の象徴は何を残したのか
和宮は、公武合体の象徴として将軍家に嫁ぎ、家茂の死後は徳川家の存続を求めて朝廷に働きかけました。
公武合体の「公」は朝廷、「武」は幕府を指します。『精選版 日本国語大辞典』は、幕府が幕藩体制を立て直すために朝廷の伝統的な権威と結びつこうとした政治構想・思想と説明しています。和宮の降嫁は、その構想の象徴でした。
ただし、降嫁の政治的な結果について、事典の書き方は厳しいものです。
| 資料 | 書き方 |
|---|---|
| 『ブリタニカ国際大百科事典』「和宮降嫁問題」 | この措置は「かえって倒幕論を高めた」 |
| 『山川 日本史小辞典』「坂下門外の変」 | 「公武合体運動は退潮し、朝廷の権威が増大した」 |
| 『精選版 日本国語大辞典』「公武合体」 | 最終的には戊辰戦争で薩長の討幕派に圧倒された |
| 『日本大百科全書』「江戸開城」 | 開城に至る経緯のなかで「静寛院宮(和宮)の嘆願」に触れる |
参考:和宮降嫁問題|コトバンク
参考:公武合体|コトバンク
参考:坂下門外の変|コトバンク
降嫁の政治的な目的は、事典の書き方では果たされませんでした。公武合体は退潮し、幕府は倒れます。それでも、事典の「江戸開城」の項には、静寛院宮の嘆願が書き込まれています。
大河ドラマ・テレビドラマで和宮を演じた俳優
和宮は、幕末を描く大河ドラマやテレビドラマに、少なくとも1990年の『翔ぶが如く』からたびたび登場しています。
| 作品(放送年) | 和宮を演じた俳優 |
|---|---|
| 大河ドラマ『翔ぶが如く』(1990年) | 鈴木京香さん |
| フジテレビ『大奥』(2003年) | 安達祐実さん |
| 大河ドラマ『篤姫』(2008年) | 堀北真希さん。家茂は松田翔太さん |
| 大河ドラマ『青天を衝け』(2021年) | 深川麻衣さん。家茂は磯村勇斗さん |
| NHK『大奥』Season2(2023年) | 岸井ゆきのさん。家茂は志田彩良さん |
| 大河ドラマ『逆賊の幕臣』(2027年) | 配役は2026年11月3日時点で未発表 |
参考:西郷どん 皇女和宮役に注目集まる|デイリースポーツ
参考:篤姫 第33話「皇女和宮」|ザテレビジョン
参考:磯村勇斗が徳川家茂、深川麻衣が和宮に 大河ドラマ『青天を衝け』第3弾キャスト発表|リアルサウンド
参考:『大奥』福士蒼汰が天璋院役で再登場 岸井ゆきのが和宮、志田彩良が徳川家茂に|リアルサウンド
『篤姫』の第33話は「皇女和宮」という題で、2008年8月17日に放送されました。主人公の天璋院(篤姫)は家茂の養母にあたるため、その正室の和宮とは姑と嫁の関係になります。
参考:NHK大河ドラマ特別展「天璋院篤姫展」|大阪歴史博物館
2023年のNHK『大奥』は、男女の立場が入れ替わった設定の作品です。史実の和宮をそのまま描いたものではありません。
2027年の『逆賊の幕臣』は小栗忠順が主人公で、制作発表の物語紹介に「皇女・和宮の降嫁」が出てきます。和宮の配役はまだ発表されていません。発表ずみの配役と人物の関係は、こちらの記事にまとめています。

あなたを演じた俳優は、確かめられた範囲で5人います。2027年の大河では、幕府の勘定方の目から、あなたの行列が支出として描かれるかもしれません。

五人も、わたくしを。御所の者が聞いたら、目を回しましょう。
勘定方から見れば、わたくしの行列は帳面の一行でございますか。三万人の草鞋代まで数えられては、たまりませぬ。
されど、そういう見方をされるのも、徳川に嫁いだ者の務めのうち。そなたは、その帳面を書いた側のお話を追っておられるのですね。
和宮の歩みから考える現代へのヒント
ここからは、確認できた経歴をもとにした筆者の考察です。
| 和宮の歩み | 筆者が受け取ったヒント |
|---|---|
| 婚約を解かれ、兄と幕府が決めた縁談を、強く固辞しながらも受け入れた | 自分で決められないことが、人生には確かにある |
| 夫と兄を5か月のうちに失ったあとも、開城まで江戸に残った | 立場が失われても、居る場所を選べることがある |
| 京へ帰れという文書が出ても、嫁ぎ先のために嘆願した | 約束の目的が崩れても、約束で結ばれた人への責任は残る |
| 遺言で、京ではなく夫の隣に葬られた | 最後にどこへ帰るかは、生まれた場所と同じでなくてよい |
降嫁を固辞したこと、徳川家の存続を嘆願したこと、夫の隣への埋葬を望んだことが伝わっています。ただし、江戸に残った判断の経緯までは、今回確認した資料からは分かりません。

いまの日本では、結婚相手を親や兄が決めることは、ほとんどなくなりました。代わりに、自分で決めなさいと言われることが増えています。

自分で決めなさい、とは、なかなか酷なことを申す世でございますね。京では、決めるのは家でございました。
決めてもらえば、恨む相手がおります。自分で決めれば、恨む相手がおりませぬ。どちらが楽かは、わたくしにも分かりませぬ。
そなたは、どちらの世のほうが生きやすいと思われます。

それでは、自分で決めてよいと言われたら、何を決めたかったですか。

何を決めたかったか、でございますか。並べると欲張りに聞こえますので、一つだけ。
どこで暮らすかを、自分で決めてみとうございました。京か、江戸か。どちらを選ぶかは、そなたの想像にお任せいたします。
京ではこういうとき、はっきり申さぬのが品というものでございますから。
よくある質問(FAQ)
和宮は何をした人ですか?簡単に教えてください。
仁孝天皇の皇女で、孝明天皇の妹です。公武合体のため1862年に14代将軍・徳川家茂に嫁ぎ、家茂の死後は静寛院宮と号しました。戊辰戦争では徳川家の存続を嘆願しています。1877年に満31歳で亡くなりました。
和宮は誰と結婚しましたか?
14代将軍・徳川家茂です。文久2年2月11日(1862年3月11日)に江戸城で婚儀を挙げました。二人は同い年で、生まれは2週間違いでした。
和宮はなぜ徳川家茂に嫁いだのですか?
大老・井伊直弼の暗殺後、老中の安藤信正と久世広周が、朝廷と結んで幕府を立て直すために降嫁を申し入れました。孝明天皇は攘夷の実行を条件に許し、万延元年10月(1860年)に勅許が下りました。
有栖川宮との婚約はどうなったのですか?
嘉永4年(1851年)に有栖川宮熾仁親王と婚約していましたが、家茂への降嫁のため解かれました。熾仁親王はのちに新政府の総裁となり、戊辰戦争では東征大総督として江戸へ向かいました。
和宮と家茂の夫婦仲はよかったのですか?
江戸東京博物館の展示解説によれば、二人は和歌やかんざしなどを贈り合い、家茂の上洛中も手紙のやり取りを欠かしませんでした。こうした交流から、仲のよい夫婦として紹介されています。
和宮の死因は何ですか?
事典は、脚気の治療中の病死と記しています。明治10年(1877年)9月2日、療養先の箱根・塔之沢で亡くなりました。満31歳(数え年32歳)でした。
和宮の墓はどこにありますか?
東京都港区の増上寺、徳川将軍家墓所です。明治政府は遺体を京都へ戻すよう指示しましたが、本人の遺言により家茂の墓の隣に葬られました。拝観は大人500円で火曜定休。2026年10月27日から12月1日までは休所です。
和宮と篤姫(天璋院)はどんな関係ですか?
篤姫は13代将軍・家定の正室で、家茂の養母にあたります。そのため、家茂の正室の和宮とは姑と嫁の関係になります。国立国会図書館 国際子ども図書館は、戊辰戦争で天璋院が和宮と協力して徳川家の存続を働きかけた、と書いています。
和宮を演じた俳優は誰ですか?
大河では『翔ぶが如く』の鈴木京香さん、『篤姫』の堀北真希さん、『青天を衝け』の深川麻衣さんです。ドラマ『大奥』では安達祐実さん(2003年)と岸井ゆきのさん(2023年)。2027年の大河は未発表です。
インタビュー後記 和宮は「京へ帰れと言われても、開城まで江戸に残った人」
書き終えて残ったのは、大号令の別条と、増上寺が紹介する和宮の遺言の二つです。片方は、新政府が和宮を一日も早く京へ帰そうとした文書。もう片方は、本人が京ではなく夫の隣を選んだ遺言。
この二つの間に、嘆願があります。和宮本人の意思として伝わっているのは、徳川家の存続の嘆願と、夫の隣への埋葬です。降嫁のほうは、本人が強く固辞したものでした。
降嫁の目的だった公武合体は、事典の書き方では果たされていません。それでも事典の「江戸開城」の項に和宮の名が残っているのを見ると、目的が崩れたあとの動き方のほうが、この人の生涯を決めたのだと私は思います。
2027年1月からの板橋区の展示では、徳川宗家に伝わる和宮所用の衣装や道具が、初公開を含めて並ぶそうです。和宮の没後150年に、かつて行列が通った板橋で、本人ゆかりの品々が展示されます。
和宮が嫁いだ徳川家茂を含む、15人の将軍の一覧はこちらです。
江戸開城を西郷隆盛と話し合った勝海舟の記事もあります。
参考資料
- コトバンク「和宮」※名(親子)、生没年月日(弘化3年閏5月10日〜明治10年9月2日)、母・橋本経子、嘉永4年の有栖川宮熾仁親王との婚約、「攘夷鎖国の実行を条件に降嫁を勅許」「強く固辞したが、周囲の説得に抗しきれず、これを受けいれ」(改訂新版 世界大百科事典)、1861年の内親王宣下(山川)、文久2年2月11日の婚儀、慶応2年12月の薙髪と静寛院宮の号、侍女を京都へ送った嘆願(日本大百科全書)、徳川家救済と征東軍の進撃猶予の嘆願(改訂新版 世界大百科事典)、「江戸開城の陰の力となった」(デジタル大辞泉)、清水邸への移転、1869年の京都帰還と1874年6月までの滞在、塔之沢での病死と脚気、享年32(数え年)、増上寺の墓所の出典
- コトバンク「和宮降嫁問題」※老中・安藤信正と久世広周が降嫁を申し入れたこと、攘夷の実行を条件に許可されたこと、万延元年10月の勅許、「かえって倒幕論を高めた」、「和解の斡旋をした」(ブリタニカ国際大百科事典)の出典
- コトバンク「公武合体」※公武合体の定義(精選版 日本国語大辞典・ブリタニカ国際大百科事典)、安藤信正らの推進、戊辰戦争で討幕派に圧倒されたことの出典
- コトバンク「孝明天皇」※「将来の攘夷の実行を約して」(改訂新版 世界大百科事典)、「攘夷の維持のためには公武の合体による国内一致が急務であると判断」(日本大百科全書)、慶応2年12月25日の死去の出典
- コトバンク「有栖川宮熾仁親王」※嘉永4年の婚約が降嫁のため「沙汰止み」となったこと(ブリタニカ国際大百科事典)、王政復古で総裁、戊辰戦争で東征大総督となったことの出典
- コトバンク「徳川家茂」※生年月日(弘化3年閏5月24日)、1858年の将軍就任、文久2年2月11日の婚儀、1863年以降の上洛、慶応2年7月20日の大坂城での病死と8月20日の発喪、事典が死因を「病死」「病没」までしか書かないことの出典
- コトバンク「天璋院」※家定の正室であること、家茂の死の際に田安亀之助の宗家相続を図ったこと(改訂新版 世界大百科事典)、幕府消滅の際に「静寛院宮(和宮)らとともに」徳川本家の廃絶と江戸城の武力攻略の回避に尽力したこと(日本大百科全書)の出典
- コトバンク「仁孝天皇」※弘化3年1月26日の死去(ブリタニカ国際大百科事典・山川 日本史小辞典・日本人名大辞典)の出典
- コトバンク「徳川家達」※幼名が亀之助であること、1868年(慶応4年)に田安家から入って徳川宗家を継いだことの出典
- コトバンク「安藤信正」※和宮降嫁の推進、坂下門外の変での負傷、同年4月の老中辞任の出典
- コトバンク「坂下門外の変」※文久2年1月15日の日付、「公武合体運動は退潮し、朝廷の権威が増大した」(山川 日本史小辞典)の出典
- コトバンク「江戸開城」※3月13・14日の勝海舟と西郷隆盛の会談、慶応4年4月11日(1868年5月3日)の開城、「静寛院宮(和宮)の嘆願」(日本大百科全書)の出典
- 大本山 増上寺「徳川将軍家墓所」※将軍6人と正室5人を含む埋葬者、仁孝天皇の第八皇女であること、6歳での婚約(数え年)、31歳での死去、遺体を京都へ戻す指示と遺言により家茂の隣に葬られたこと、青銅製の宝塔、昭和33年夏の発掘調査と桐ヶ谷での荼毘・改葬、拝観時間・拝観料・火曜定休、令和8年10月27日〜12月1日の休所の出典
- 大本山 増上寺「静寛院宮奉讃法要のご案内」※江戸城開城など新旧体制の移行を円滑にし、江戸市中の治安維持に努め、旧幕臣の救済に尽力したという説明、明治政府の指示と遺言の出典
- 板橋区立郷土資料館「没後150年 皇女和宮、中山道をゆく―旅路に残したおくりもの―」※会期(令和9年1月16日〜3月14日)、文久元年10月20日の京都出立、11月14日夕刻の板橋宿到着と飯田宇兵衛家での宿泊、11月15日の清水邸到着、「総勢3万人とされる」、約25日間の旅、宿場の検分と人足の手配、和宮所用の衣装や道具の初公開の出典
- 国立国会図書館 国際子ども図書館「戊辰戦争」※天璋院が和宮と「協力して、徳川家の存続を働きかける」こと、勝海舟と西郷隆盛の話合いで総攻撃が中止されたことの出典
- 観光庁 地域観光資源の多言語解説文データベース「阿弥陀寺」※「塔ノ沢の温泉地に滞在中、脚気で亡くなりました」、31歳、和宮に捧げられた小さなお堂があることの出典
- 国立国会図書館サーチ『増上寺徳川将軍墓とその遺品・遺体』※発掘調査の報告書の書誌(鈴木尚編、東京大学出版会、1967年)の出典。本記事は本文の該当箇所を確認していません
- 国立国会図書館サーチ『静寛院宮御日記』※和宮の日記が皇朝秘笈刊行会から1927年に刊行されたことの書誌の出典。本記事は本文を読んでいません
- 美術展ナビ(読売新聞社)「2027年の大河ドラマは『逆賊の幕臣』 主人公は天才肌の幕臣、小栗忠順 松坂桃李さん主演」※制作発表の<物語>に「皇女・和宮の降嫁、将軍の上洛、長州征討などが、財政の逼迫に拍車をかける」とあることの出典
- 江戸東京博物館「和宮 江戸へ ―ふれた品物 みた世界―」(2021年)※和宮と家茂の結婚生活が4年あまりで、家茂の3度の上洛がそれをさらに短くしたこと、「和歌やかんざしなどを贈りあった」、夫婦間で手紙のやり取りを欠かさなかったことの出典
- 大阪歴史博物館「NHK大河ドラマ特別展『天璋院篤姫展』」※天璋院が「若き将軍家茂の養母」として大奥を担ったこと、家茂の上洛中に和宮とともに江戸城を預かったことの出典
- デイリースポーツ「西郷どん 皇女和宮役に注目集まる…悲劇のヒロイン、過去に安達祐実、堀北真希さん」(2018年3月29日)※『翔ぶが如く』の鈴木京香さん、フジテレビ『大奥』(2003年)の安達祐実さん、『篤姫』の堀北真希さん、「悲運の人物として描かれることが多い」、夫婦仲が「良好だったとされる」の出典
- ザテレビジョン「篤姫 第33話「皇女和宮」」※2008年8月17日の放送、堀北真希さんが和宮役、松田翔太さんが徳川家茂役であることの出典
- リアルサウンド「『大奥』福士蒼汰が天璋院役で再登場 岸井ゆきのが和宮、志田彩良が徳川家茂に」(2023年6月19日)※NHK『大奥』Season2(2023年)で岸井ゆきのさんが和宮役、志田彩良さんが徳川家茂役であること、男女の立場が入れ替わった設定であることの出典
- サライ.jp「和宮の生涯|徳川家存続に尽力した皇女【日本史人物伝】」(2023年11月28日)※「仲睦まじい夫婦だった」と言われているという雑誌の記述の出典。もとの史料は示されていません











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