新選組の隊士が亡くなった順番を調べはじめて、最初につまずいたのは日付でした。芹沢鴨の没日が16日の表と18日の表があり、どの表もそれを一つに決めて並べています。
そこで、事典・壬生寺・自治体・博物館のページで日付を確かめられた隊士と、確かめられずに推定で並べた隊士を、見分けられる表を作ることにしました。
この記事の結論
この記事の表で最初に亡くなったのは阿比原栄三郎、箱館戦争までの最後は土方歳三です。文久3年(1863年)から明治2年(1869年)までの6年間です。明治以降では、没年月日を確かめた元隊士のうち大正4年(1915年)の斎藤一が最後です。
箱館戦争までの21人のうち、戦いで亡くなった隊士は8人。隊の内部の暗殺・切腹・処刑と、油小路で亡くなった人も8人で、同じ数でした。ただし戦いの8人のうち3人は、日付を確かめられていません。
ただし、没年月日を公的な資料で確かめられなかった隊士がいます。原田左之助・山崎烝のように月まで伝わる者は、一般に紹介される日付で位置を決め、順位に「(推定)」と付けました。松原忠司・武田観柳斎は表の外に置きました。
- 26人
順番に並べた隊士(明治以降の5人を含む) - 8人
戦いで亡くなった人数 - 110名
板橋の供養塔に刻まれた名
この記事では、21人の一覧表、4つの時期(壬生・幹部の処断と油小路・戊辰戦争・箱館)、明治以降の元隊士、日付を確かめられなかった隊士、死に方の内訳の順にたどります。
本文の表記は「新選組」です。事典や資料によって「新撰組」とも書かれ、永倉新八の談話をまとめた本の書名は『新撰組顛末記』です。タイトルには、検索で多く使われる「新撰組」を入れました。
語り手として、土方歳三AI(土方歳三をモデルにしたAI)に登場してもらいます。表の最後の行にいる人です。
※以下のインタビュー部分は、公開されている史料をもとに土方歳三の人物像を再現した創作です。実際の発言をそのまま掲載したものではありません。土方歳三AIには、戦死した明治2年5月11日(1869年)より後の出来事を自分の記憶として語らせず、筆者が語るか、筆者が伝えた事実に短く反応するだけにしています。
出典の確かめ方と、公開前に行っているチェックは編集方針にまとめています。

土方さん、はじめまして。今日は、あなたの隊の人たちが亡くなった順番を表にして持ってきました。最初の行は、壬生寺の墓碑にある文久3年4月6日、阿比原栄三郎さんです。この名前から始めていいですか。

始めてくれ。名前の知れねえ者から順に並ぶなら、それでいい。
局長も平隊士も、死ねば同じ名前一つだ。順番に上も下もねえ。
- 新選組の死んだ順番の一覧表 阿比原栄三郎から土方歳三まで21人
- 壬生の時代に亡くなった隊士 阿比原栄三郎・芹沢鴨・野口健司ほか計9人(文久3年〜元治元年)
- 山南敬助の切腹から油小路まで 元治2年〜慶応3年に亡くなった5人
- 戊辰戦争で亡くなった隊士 井上源三郎・近藤勇・沖田総司(慶応4年)
- 箱館で亡くなった隊士 野村利三郎と土方歳三(明治2年)
- 明治以降に亡くなった元隊士 相馬主計・島田魁・永倉新八・斎藤一(筆者が語る)
- 没年月日を公的な資料で確かめられなかった隊士 松原忠司・武田観柳斎ほか
- 死に方の内訳 箱館戦争までの21人のうち粛清は何人か
- よくある質問(FAQ)
- インタビュー後記 推定の順位にも、確かめた範囲の印を残した
- 参考資料
新選組の死んだ順番の一覧表 阿比原栄三郎から土方歳三まで21人
21人を亡くなった順に並べると、18の順位になります。
順に、阿比原、田中、芹沢・平山、野口、奥沢、安藤・新田、葛山、山南、河合、谷(推定)、伊東・藤堂、井上、山崎(推定)、近藤、原田(推定)、沖田、野村(推定)、土方です。
このうち谷・山崎・原田・野村の4つは、没年月日を公的な資料で確かめられず、推定で置いた順位です。
日付は和暦を主にし、西暦は年だけを添えました。和暦の月日を西暦の年に付けた日付(「1868年4月25日」のような書き方)は使っていません。順位に「(推定)」と付けた人は、没年月日を公的な資料で確かめられなかった隊士です。
推定の4人は、一般の紹介記事に多い日付で位置を決めました。谷は慶応2年4月1日、山崎は慶応4年1月13日、原田は同年5月17日、野村は明治2年3月25日の宮古湾海戦です。表の日付の欄には、資料で確かめられた範囲だけを書いています。
| 順 | 没年月日(和暦) | 西暦 | 名前(役職) | 場所 | 死に方 | 根拠 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 1 | 文久3年4月6日 | 1863年 | 阿比原栄三郎(副長助勤) | ― | 病死とも暗殺ともいわれる | 壬生寺 |
| 2 | 文久3年9月13日 | 1863年 | 田中伊織(新見錦の変名という説がある) | ― | 詳細不明 | 壬生寺 |
| 3 | 文久3年9月18日 | 1863年 | 芹沢鴨(局長)・平山五郎(副長助勤) | 壬生・八木邸 | 暗殺 | 事典、壬生寺。ブリタニカは16日 |
| 4 | 文久3年12月28日 | 1864年 | 野口健司(副長助勤) | 壬生・前川邸 | 切腹(隊規違反) | 壬生寺 |
| 5 | 元治元年6月5日 | 1864年 | 奥沢栄助(伍長) | 池田屋 | 討死といわれる | 壬生寺 |
| 6 | 元治元年7月22日 | 1864年 | 安藤早太郎(副長助勤)・新田革左衛門(平隊士) | ― | 池田屋の深手で死去といわれる | 壬生寺 |
| 7 | 元治元年9月6日 | 1864年 | 葛山武八郎(伍長) | ― | 隊規違反で切腹といわれる | 壬生寺 |
| 8 | 元治2年2月23日(沖田総司の書簡では26日) | 1865年 | 山南敬助(総長) | 屯所 | 切腹 | 京都市観光協会、多摩デジタル新選組資料館 |
| 9 | 慶応2年2月12日 | 1866年 | 河合耆三郎(勘定方) | ― | 帳簿の不始末で処刑といわれる | 壬生寺 |
| 10(推定) | 慶応2年とされる | 1866年 | 谷三十郎(隊士) | 京都 | 病死説・暗殺説で割れる | 国立国会図書館の回答が文献を特定 |
| 11 | 慶応3年11月18日 | 1867年 | 伊東甲子太郎(参謀、のち御陵衛士)・藤堂平助(八番隊組長、のち御陵衛士) | 京都 | 謀殺/新選組と戦い討ち死に | 事典 |
| 12 | 慶応4年1月5日(1月4日とする資料もある) | 1868年 | 井上源三郎(六番隊組長) | 鳥羽・伏見 | 撃たれて戦死 | 日野市、日野市観光協会 |
| 13(推定) | 慶応4年1月とされる | 1868年 | 山崎烝(監察方) | 江戸へ向かう船中とされる | 鳥羽・伏見の負傷死と伝えられる | 公的資料で今回確認できず |
| 14 | 慶応4年4月25日 | 1868年 | 近藤勇(局長) | 板橋 | 斬首 | 事典、板橋区、会津若松市 |
| 15(推定) | 慶応4年5月とされる | 1868年 | 原田左之助(隊士) | 江戸とされる | 上野戦争の負傷死とされる | 公的資料で今回確認できず |
| 16 | 慶応4年5月30日 | 1868年 | 沖田総司(一番隊組長) | 江戸・千駄ヶ谷とされる | 病死(肺の病) | 事典 |
| 17(推定) | 明治2年3月25日の宮古湾海戦で戦死したとされる | 1869年 | 野村利三郎(隊士) | 宮古湾 | 戦死とされる | 海戦の日付は宮古市。野村の名は公的資料で今回確認できず |
| 18 | 明治2年5月11日 | 1869年 | 土方歳三(副長) | 箱館・一本木関門から異国橋のあたり | 戦死(銃弾) | 事典、函館市 |
参考:壬生寺と新選組|壬生寺
参考:芹沢鴨|コトバンク
参考:近藤勇|コトバンク
参考:土方歳三|コトバンク
一覧表の順位は、同じ日に亡くなった隊士を1行にまとめ、1つの順位として数えています。芹沢と平山、安藤と新田、伊東と藤堂は、壬生寺や事典が同じ日付を記しているので、順位を一つにしました。
役職は京都時代の最終的なものを書き、一番隊組長のような呼び方は、事典の「組長」にそろえました。世界大百科事典は沖田を「一番隊長」とするなど、事典のあいだでも呼び方は揺れます。
表の「とされる」「といわれる」は、資料の確からしさをそのまま残した言葉です。壬生寺のページは、池田屋の死者や切腹した隊士の多くに「〜といわれている」を付けて記しています。表でも寺の言い回しを残しました。

3番目の行、芹沢さんの日付が二つあります。多くの事典は9月18日、一つだけ16日。壬生寺は、近藤さんとあなたの名前を書いています。日付の話だけ、聞かせてもらえますか。

日付だけなら答えは短い。紙に残った数の多いほうを取れ。
それ以上を聞きたそうな顔だな。聞かれねえことには答えねえよ。
壬生の時代に亡くなった隊士 阿比原栄三郎・芹沢鴨・野口健司ほか計9人(文久3年〜元治元年)
文久3年から元治元年にかけて亡くなった9人のうち、4人は隊の内側で命を落としています。暗殺が芹沢鴨と平山五郎、切腹が野口健司と葛山武八郎です。残る5人は、池田屋の3人と、死因のはっきりしない阿比原栄三郎・田中伊織です。
この時期の日付と死因は、ほぼすべて壬生寺のページに拠っています。境内の壬生塚に隊士の墓碑があり、寺のページが没年月日と死因を1人ずつ記しているので、ここでは寺の記述をそのまま追いました。
- 阿比原栄三郎:文久3年4月6日。「病死したとも暗殺されたとも言われている。」寺のページに並ぶなかで最も早い日付
- 田中伊織:文久3年9月13日。「詳細は不明の人物。」とし、「局長であった新見錦の変名であるという説もある。」と添える
- 芹沢鴨・平山五郎:文久3年9月18日。「八木邸において近藤勇、土方蔵三らによって暗殺された。」(寺の表記は「蔵三」)
- 野口健司:文久3年12月28日。前川邸で、隊規違反による切腹
- 奥沢栄助:元治元年6月5日。「池田屋騒動で討死したといわれている。」
- 安藤早太郎・新田革左衛門:元治元年7月22日。「池田屋騒動で深手を負い、死去したといわれている。」
- 葛山武八郎:元治元年9月6日。「新選組の隊規違反の罪で切腹死したといわれている。」
参考:壬生寺と新選組|壬生寺
芹沢鴨の没日は、資料で割れています。日本大百科全書は「9月18日夜」、日本人名大辞典と壬生寺も18日ですが、ブリタニカ国際大百科事典は9月16日です。
表では多数の18日を採り、16日を備考に残しました。同じ事柄について資料が両立しない日付を書いている、という意味での「割れ」です。
参考:芹沢鴨|コトバンク
新見錦については、競合する記事の多くが「文久3年9月13日に切腹」と書いています。しかし今回確かめた事典に、その日付と死因は出てきません。壬生寺のページにあるのは、田中伊織という名と「新見錦の変名という説」までです。
日本大百科全書によると、新選組の局長は当初、芹沢・近藤・新見の3人でした。新見がいつ隊を離れたかは、今回確かめた事典に出てきません。
阿比原栄三郎は病死とも暗殺ともいわれる人で、どちらにも数えませんでした。

壬生の時代の9人のうち、4人が隊の内側で亡くなっています。野口さんと葛山さんは切腹でした。

四人。数にすりゃ、たったそれだけの字だな。
規律あってこその隊だと、いま聞かれても俺はそう答える。そう答えるのが一番楽じゃねえことも、わかってるさ。
山南敬助の切腹から油小路まで 元治2年〜慶応3年に亡くなった5人
元治2年から慶応3年にかけて亡くなったのは5人です。総長の山南敬助、勘定方の河合耆三郎、谷三十郎、参謀だった伊東甲子太郎、八番隊組長だった藤堂平助です。
このうち日付と死因を公的な資料で確かめられたのは、山南・河合・伊東・藤堂の4人です。
| 名前 | 公的な資料で確かめられたこと | 今回確認できなかったこと |
|---|---|---|
| 山南敬助 | 屯所で切腹し、光縁寺に葬られた(京都市観光協会)。沖田総司が佐藤彦五郎に切腹を報告した書簡が残り、資料館の解説は切腹を「先月23日(手紙では26日)」とする(多摩デジタル新選組資料館) | 23日と26日のどちらが正しいか |
| 河合耆三郎 | 慶応2年2月12日。「帳簿で不始末を起こし、処刑されたといわれている。」(壬生寺) | 処刑の経緯の詳細 |
| 谷三十郎 | 備中松山藩の出身。森愛子「谷三兄弟」(『新選組研究・最前線 下』新人物往来社、1998年)に没時の情報が載る(国立国会図書館の回答) | 没年月日と死因。病死とする資料と暗殺とする資料があり、一つに決められない |
| 伊東甲子太郎 | 慶応3年11月18日。「近藤勇に謀殺された」(日本人名大辞典)。天保6年生まれで、数え33歳(満31〜32歳) | 事典は亡くなった場所を書いていない |
| 藤堂平助 | 慶応3年11月18日。伊東が謀殺された現場へかけつけ、「新選組とたたかい討ち死に」(日本人名大辞典)。弘化元年生まれで、数え24歳(満22〜23歳) | ― |
参考:光縁寺|京都市観光協会(京都観光Navi)
参考:新選組関連資料:資料解説|多摩デジタル新選組資料館(ADEAC)
参考:備中松山藩出身の谷三兄弟についての記載がある資料を探している。(国立国会図書館)|レファレンス協同データベース
参考:伊東甲子太郎|コトバンク
参考:藤堂平助|コトバンク
山南敬助の切腹は、京都市観光協会の光縁寺のページが「屯所で切腹」と記し、沖田総司が日野の佐藤彦五郎へ知らせた書簡が多摩デジタル新選組資料館で公開されています。
資料館はこの書簡を慶応元年3月21日付とし、解説に「先月23日(手紙では26日)に切腹した山南敬助の死を知らせている」と書いています。改元前なので、切腹は元治2年2月です。
参考:沖田総司書簡(慶応元年3月21日)目録|多摩デジタル新選組資料館(ADEAC)
資料館の解説と書簡で日付が3日ずれるため、一覧表には23日を書き、書簡の26日を括弧で添えました。

山南さんの切腹を、沖田さんが日野の佐藤彦五郎さんに手紙で知らせています。その手紙はいまも残っていて、読めます。書いたのは、あなたではなく沖田さんでした。

あいつの字のほうが角が立たねえ。
俺が書けば、知らせじゃなく報告書になる。日野の佐藤さんには、それじゃあんまりだろう。
谷三十郎と伊東甲子太郎の死は、史料の残り方がまったく違います。谷の没時の情報は、国立国会図書館が専門書の論文を特定して回答していますが、回答そのものに日付と死因は書かれていません。一方、伊東と藤堂は事典が日付を記します。
伊東甲子太郎が亡くなった事件は、一般に油小路事件と呼ばれています。ただし今回確かめた事典は、亡くなった場所を書いていません。日本人名大辞典の文言は「近藤勇に謀殺された」で、新選組の側に寄らない語として、表でもそのまま使いました。
藤堂平助は、新選組の八番隊組長を務めたのち、伊東とともに御陵衛士に移った人です。事典によれば、伊東が謀殺された現場へかけつけ、新選組と戦って討ち死にしました。同じ日、もと同じ隊の者が刃を交えました。

伊東さんと藤堂さんは、慶応3年11月18日、同じ日です。藤堂さんは、もとは八番隊の組長でした。あなたは、平助、と呼んでいましたか。

呼び方なんざ、どうだっていい。
あいつは隊を出て、向こう側で死んだ。俺に言えるのはそれだけだ。
おまえは、出ていった仲間をどう呼ぶ。
戊辰戦争で亡くなった隊士 井上源三郎・近藤勇・沖田総司(慶応4年)
慶応4年の1年間に、六番隊組長の井上源三郎、局長の近藤勇、一番隊組長の沖田総司が、鳥羽・伏見、板橋、江戸(千駄ヶ谷とされる)で相次いで亡くなりました。同じ年に亡くなったとされる山崎烝と原田左之助は、没年月日を公的な資料で確かめられていません。
- 井上源三郎:慶応4年1月5日、鳥羽・伏見の戦いで撃たれて戦死。文政12年(1829年)に日野本町で生まれ、日野市は「当時はまだ39歳」と記す(数え年。満38歳)
- 近藤勇:慶応4年4月25日、板橋で斬首。流山で新政府軍に捕らえられ、板橋宿へ送られた。首は京都の三条河原に晒された。数え35歳(満33歳)
- 沖田総司:慶応4年5月30日、江戸で肺の病のため死去。千駄ヶ谷で没したとされ、今戸(台東区)にも碑がある。墓は港区元麻布の専称寺
参考:井上源三郎資料館と没後150年の特別展|日野市
参考:近藤勇|コトバンク
参考:会津と新選組~幕末の会津と新選組の歴史を紐解く~|会津若松市
参考:沖田総司|コトバンク
日野市のページは井上の没日を「1868年1月5日」と記しています。日野市観光協会は140回忌の記事で「慶応4年1月5日(1868年1月29日)」と旧暦と新暦を並べており、市の「1月5日」も旧暦の月日です。本記事は旧暦で書きました。
参考:天然理心流演武も披露、井上源三郎140回忌法要|日野市観光協会
ただし、同じ観光協会の145回忌の案内は「慶応4年(1868)1月4日」としています。本記事は、日野市のページと140回忌の記事に合わせて1月5日を採り、一覧表に4日とする資料があることを添えました。
参考:新選組 井上源三郎 「145回忌法要式典」のご案内|日野市観光協会
鳥羽・伏見の戦いは慶応4年1月3日に始まった、戊辰戦争の最初の戦いです。井上源三郎は、その戦いで撃たれて戦死しました。戦いの経過と、幕府軍が敗れた理由は、こちらの記事で日付ごとにたどっています。
近藤勇の没年齢は、事典が「年35」「35歳」と記します。数え年なので、満年齢では33歳です。生月日は日本人名大辞典が天保5年10月5日、367日誕生日大事典が1834年10月9日と、事典のあいだで書き方が違います。
近藤が処刑された板橋には、明治9年(1876年)に建てられた「近藤勇と新選組隊士供養塔」があります。発起人は永倉新八、協力したのは旧幕府の典医・松本順で、側面に110名の名が刻まれています。
所在地は北区滝野川の寿徳寺境外墓地で、2003年12月に北区の指定文化財になりました。駅の名は板橋ですが、所在は板橋区ではなく北区です。
この110名に、日付を確かめられなかった原田や山崎の名が入っているかどうかは、今回確かめていません。

井上さんが1月5日、近藤さんが4月25日の板橋。そして沖田さんが5月30日。一年に三人です。

井上さん、近藤さん、沖田。
並べられると、こうも短え。……次の行に進んでくれ。
沖田総司の生年は、事典が1842年と1844年に割れています。没年齢は、1842年生まれなら満25歳前後(数え27歳)、1844年生まれなら満23歳前後(数え25歳)です。
事典の病名は「肺患」「肺病」「結核」と表記が分かれるので、本記事は「肺の病」と書きました。
山崎烝は監察方の隊士で、日野市ふるさと博物館が2005年に『新選組隊士山崎丞取調日記』を刊行しています。鳥羽・伏見で負傷し、江戸へ向かう船のなかで亡くなったと伝えられますが、水葬された話を含め、一次史料では見つけられませんでした。
参考:『新選組隊士山崎丞取調日記』書誌|国立国会図書館サーチ
原田左之助(佐之助とも)は松山藩の出身で、上野戦争の負傷がもとで慶応4年5月に亡くなったとされています。没年月日は公的な資料で確かめられませんでした。
一方で原田には、大陸に渡ったという伝承もあります。大正12年(1923年)の愛媛新報に「阪本龍馬を刺した松山藩士原田佐之助」という記事があったことを、愛媛県立図書館が回答しています。幕末から半世紀を過ぎても、松山で話が語られていたことがうかがえます。
参考:「愛媛新報」大正12年6月8日夕刊に、原田佐之助に関する記事があるか。(愛媛県立図書館)|レファレンス協同データベース
箱館で亡くなった隊士 野村利三郎と土方歳三(明治2年)
明治2年、この記事の表で最後に戦死したのは土方歳三で、5月11日の箱館総攻撃の日でした。その1か月半ほど前の3月25日、宮古湾の海戦で野村利三郎が戦死したとされています。
函館市のページによると、5月11日は新政府軍が箱館を総攻撃した日で、土方は「一本木関門を入り、異国橋(…現在の十字街電停付近)あたりで銃弾に撃たれて戦死」しました。戦死の場所には諸説あり、1点には決まっていません。
- 野村利三郎:宮古湾海戦は明治2年3月25日。宮古市の藤原観音堂にある「幕軍勇士墓碑」の銘文も同じ日付で、漂着した士官らしき服装の遺体を地元の人が葬ったもの。ただし俗名は刻まれておらず、野村の名は宮古市のページに出てこない
- 土方歳三:明治2年5月11日、箱館の一本木関門から異国橋のあたりで銃弾に撃たれて戦死(函館市)。世界大百科事典は「流れ弾に当たり戦死」。事典の「年35」は数え年で、満34歳。碑は函館市若松町33にある
- 箱館の降伏:土方の戦死から7日後の5月18日、榎本武揚らが降伏して箱館戦争が終わった(函館市)
参考:官軍勇士の墓・幕軍勇士墓碑|岩手県宮古市
参考:土方歳三最期の地碑|北海道観光機構(HOKKAIDO LOVE!)
宮古湾の海戦に旧幕府軍の回天・蟠龍・高雄の3隻が向かったことは、宮古市のページが記しています。野村利三郎が「戦死した」と名指しで書く公的な資料は、今回確かめられませんでした。
野村の名は、市立函館博物館が所蔵する『戦友姿絵』に見えます。これは隊士の中島登が、降伏後に弁天岬台場で幽閉されていたあいだに、ともに戦った31名を描いたものです。2022年に博物館が人気投票の候補にした7名のなかに、野村利三郎の名が入っています。
参考:『戦友姿絵』人気投票の開催に係る報道依頼について|市立函館博物館
箱館で降伏したときの隊長は相馬主計で、その後のことは次の章で筆者が語ります。
鳥羽・伏見から箱館までの戊辰戦争の流れは、こちらの記事で全体を追っています。

宮古湾の海戦は3月25日でした。宮古の墓碑には、葬られた人の名前が刻まれていません。野村利三郎さんは戻らなかった、と伝わっています。

宮古の石には名がねえのか。
戻らなかった者の名前ほど、誰かが書き残してやらなきゃならねえ。生きてる側の仕事だ。
土方歳三を主人公にした小説に、司馬遼太郎の『燃えよ剣』があります。小説なので、表の日付とは別のものとして読むことになります。

土方さんを主人公にした『燃えよ剣』という小説があります。
あなたが亡くなって百年近くあとに書かれた本です。
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司馬遼太郎『燃えよ剣』(文春文庫)
作品紹介によると、新選組副長・土方歳三を描いた司馬遼太郎の代表作です。小説であって、記録ではありません。
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明治以降に亡くなった元隊士 相馬主計・島田魁・永倉新八・斎藤一(筆者が語る)
明治以降まで生きた元隊士で、今回公的な資料で没年を確かめられたのは3人です。島田魁(1900年)、永倉新八(大正4年1月5日)、斎藤一(大正4年9月28日)です。相馬主計と市村鉄之助は、没年が確かめられないか二説に割れるため、推定の順位を付けました。
ここからは土方歳三AIの知らない時代なので、筆者が語ります。順位の数字は、幕末の表から続けて付けました。幕末の21人と明治以降の5人を合わせて26人、23の順位です。
| 順 | 名前(隊での役職) | 没年月日 | 明治以降の歩み | 根拠 |
|---|---|---|---|---|
| 19(推定) | 市村鉄之助(隊士) | 明治6年病死説と明治10年の西南戦争戦死説で割れる | 土方の形見を日野の佐藤家へ届けたのち、故郷の大垣へ戻ったとされる。市村家の墓は大垣市船町の全昌寺 | 大垣市立図書館の回答 |
| 20(推定) | 相馬主計(箱館での隊長) | 明治の前期。年は今回確認できず | 箱館で降伏した際の隊長。明治3年に新島へ終身の流罪。島で寺子屋を開き、流刑制度の廃止で赦免された | 新島村、笠間市、日野市 |
| 21 | 島田魁(二番隊伍長) | 1900年(明治33年) | 維新後は西本願寺に勤めた。箱館で降伏したあとに記した日記を残す | 霊山歴史館 |
| 22 | 永倉新八(二番隊組長) | 大正4年1月5日(1915年) | 松前藩に戻って杉村義衛と改名。明治9年に板橋の供養塔を発起。晩年を小樽で過ごした。数え77歳(満75歳) | 日本人名大辞典、北海道博物館、小樽観光協会 |
| 23 | 斎藤一(三番隊組長) | 大正4年9月28日(1915年) | 山口二郎、のち藤田五郎と改名。会津藩士の娘・時尾と結婚し、警視庁、東京教育博物館に勤めた。東京・本郷真砂町の自宅で没したとされ、墓は会津若松の阿弥陀寺。数え72歳(満71歳) | 会津若松市、会津若松観光ナビ、南アルプス市立図書館の回答 |
市村は明治6年説で先に置き、相馬は年が分からないため島田の前に置きました。
参考:史跡・名勝|東京都新島村
参考:美濃大垣出身の新選組隊士であった市村辰之助・鉄之助兄弟について知りたい。(大垣市立図書館)|レファレンス協同データベース
参考:新選組と戊辰戦争(2020年夏)|霊山歴史館
参考:永倉新八|コトバンク
参考:司馬遼太郎の小説に登場する斎藤一の墓の場所を知りたい。(南アルプス市立図書館)|レファレンス協同データベース
相馬主計は、新島村のページでは「相馬主殿」とも書かれます。流罪の理由について、同じ村のサイトのなかでも、常設展示の紹介は「降伏の際に責任を取り」、史跡の案内は坂本龍馬殺害への関与の嫌疑と、書き分けがあります。
東京で自ら命を絶ったと書く記事もありますが、公的な資料では確かめられませんでした。
島田魁の没年は、霊山歴史館が2020年の展示に「没後120年」の章を立てていることから、1900年と数えました。月日は公的な資料で確かめていません。
永倉新八と斎藤一は、同じ大正4年に亡くなっています。ただし月日は1月5日と9月28日で、8か月あいています。「永倉と斎藤は同年没」という書き方は年としては正しく、順番としては永倉が先です。
斎藤一の没年を、会津若松市の「会津と新選組」のページは「1844~1916」と表記しています。同じ市の観光ビューロー、事典、人名事典はいずれも大正4年(1915年)なので、本記事は1915年で書きました。
市に確かめたわけではないので、表記の違いとしてだけ残しておきます。
没年月日を公的な資料で確かめられなかった隊士 松原忠司・武田観柳斎ほか
松原忠司、武田観柳斎、大石鍬次郎、吉村貫一郎、池田七三郎の5人は、没年月日を事典・自治体・図書館の回答のいずれでも確かめられなかったため、一覧表に入れていません。競合する記事に載る日付も、表には転記していません。
名前を挙げたのは、5人とも新選組の名簿や研究で名の知られた隊士だからです。日付を知りたい方は、専門書に当たることになります。
「八重と人々」のサイトは斎藤一を「新選組最後の生き残りとして死去」と書きます。永倉より8か月あとに亡くなったことを指すと読めますが、「最後」の基準は書かれていません。
隊士録には、昭和まで生きたとされる池田七三郎の名もあります。子母沢寛『新選組物語』の聞き書きに応じた人物とされますが、生没年を確かめられなかったため、この章の5人に入れました。
参考:「八重と人々」斎藤一|会津若松市「八重の桜」プロジェクト協議会
- 松原忠司:名前のほかは確かめられず
- 武田観柳斎:元治元年6月5日に桝屋喜右衛門を捕縛した隊士として霊山歴史館のページに登場する。藤田英昭「新選組隊士 武田観柳斎について」(『幕末史研究』42号、2007年)がある
- 大石鍬次郎(隊士):名前のほかは確かめられず
- 吉村貫一郎(隊士):岩手県立図書館の回答によれば、子母沢寛『新選組始末記』の「隊士絶命銘々録」に名があり実在した人物。盛岡藩の資料には「嘉村権太郎」の名で見える可能性が指摘されている。最期は確認できず
- 池田七三郎(旧名・稗田利八):昭和まで生きたとされる元隊士。隊士録に項目がある
参考:結成160年 新選組奮戦録(2023年夏)|霊山歴史館
参考:日野市在住著者・団体による新選組関係著作リスト|日野市立図書館
参考:吉村貫一郎は実在の人物か。(岩手県立図書館)|レファレンス協同データベース
隊士録として国立国会図書館サーチで確かめられたのは4点です。『新選組大人名事典 上』(新人物往来社、2001年)と『新選組全隊士徹底ガイド』(前田政記、河出文庫、2004年)。
それに『「新撰組」全隊士録』(古賀茂作・鈴木亨編著、講談社、2003年)と、『新選組隊士録』(相川司、新紀元社、2011年)です。
吉村貫一郎は、浅田次郎の小説『壬生義士伝』の主人公として知られる人です。小説に描かれる最期の場面は創作で、史料で確かめられる範囲は、名簿に名があることまででした。
競合する記事には、松原忠司を「慶応元年9月1日」、武田観柳斎を「慶応3年6月22日」とするものが多くあります。その日付を裏づける公的な資料に行き着けなかったので、表に入れていません。

松原忠司さんと武田観柳斎さんの没日は、公的な資料では確かめられませんでした。日付は聞きません。二人とも、あなたの隊にいた人です。

日付を聞かねえってのは、気が利くじゃねえか。
武田は桝屋の捕り物で名の出た男だ。日付がなくても、それは消えねえ。
死に方の内訳 箱館戦争までの21人のうち粛清は何人か
一覧表の21人を死に方で分けると、一番多いのは戦いで亡くなった8人です。ほかは、隊の内部の暗殺・切腹・処刑が6人、油小路で新選組に殺された元隊士が2人、新政府による処刑が1人、病死が1人、死因が割れるか詳細不明が3人です。
新選組全体の隊士数や粛清された人数は資料で割れるので、ここでは箱館戦争までに亡くなった幕末の表の21人だけを分母にし、明治以降の表の5人は含めていません。
日本大百科全書は隊の規模を「最盛期には総勢約200人」としか書いておらず、全体の粛清数を公的な資料で確かめることはできませんでした。
| 区分 | 人数 | 該当する隊士 |
|---|---|---|
| 戦いで亡くなった | 8人 | 奥沢栄助、安藤早太郎、新田革左衛門(池田屋)、井上源三郎、山崎烝(鳥羽・伏見)、原田左之助(上野戦争とされる)、野村利三郎(宮古湾とされる)、土方歳三(箱館) |
| 隊の内部の暗殺・切腹・処刑 | 6人 | 芹沢鴨、平山五郎(暗殺)、野口健司、葛山武八郎、山南敬助(切腹)、河合耆三郎(処刑といわれる) |
| 油小路で新選組に殺された元隊士 | 2人 | 伊東甲子太郎(謀殺)、藤堂平助(新選組と戦い討ち死に) |
| 新政府による処刑 | 1人 | 近藤勇(板橋で斬首) |
| 病死 | 1人 | 沖田総司(肺の病) |
| 死因が割れる・詳細不明 | 3人 | 阿比原栄三郎(病死とも暗殺とも)、田中伊織(詳細不明)、谷三十郎(病死説・暗殺説) |
参考:新選組|コトバンク
内部の6人と油小路の2人を合わせると8人で、戦いで亡くなった8人と同じ数になります。つまり、この表の範囲では、敵との戦いで亡くなった人と、隊の内側の処断や新選組との争いで亡くなった人が、同じ数です。
この数え方には、いくつか断りがあります。戦いの8人には、日付を確かめられなかった山崎・原田・野村の3人が入っています。壬生寺が「〜といわれる」と記す葛山と河合も、寺の文言どおりの区分に入れました。
阿比原を暗殺に数えれば内部は7人になりますが、本記事では割れたままにしています。
見出しには検索で使われる「粛清」を入れましたが、表と本文では使っていません。資料の文言が「暗殺」「切腹」「処刑」「謀殺」と分かれていて、一つの言葉でくくると、それぞれの資料が書いた違いが消えてしまうからです。

戦いで亡くなった人と、新選組の側に殺された人が、同じ8人でした。どちらが重いですか。

重さを量れってのか。
帳面の上じゃ同じ一行だ。だが、隊を預かる者にとっちゃ、内側で死んだ者のほうが重い。そう答えるしかねえだろう。
よくある質問(FAQ)
新選組で最初に死んだのは誰ですか?
この記事の表の範囲では、文久3年4月6日(1863年)に亡くなった阿比原栄三郎です。壬生寺のページは「病死したとも暗殺されたとも言われている。」と解説しています。局長では、同年9月18日に暗殺された芹沢鴨が最初です。
新選組で最後に亡くなったのは誰ですか?
箱館戦争までの隊士では、明治2年5月11日(1869年)に戦死した土方歳三です。明治以降では、没年月日を確かめた元隊士のうち大正4年9月28日(1915年)の斎藤一が最後です。昭和まで生きたとされる池田七三郎の生没年は確かめられませんでした。
新選組の隊士で一番多い死に方は何ですか?
箱館戦争までの21人では、戦死が8人(うち3人は日付を確かめられていません)、隊の内部の暗殺・切腹・処刑と油小路の2人を合わせた8人が同数でした。病死は沖田総司1人、新政府による処刑は近藤勇1人です。
新選組の切腹と暗殺はどう違うのですか?
この記事では壬生寺や事典の文言に従い、隊規違反などの処断として本人が腹を切る形を「切腹」(野口健司・葛山武八郎・山南敬助)、不意を突いて殺された場合を「暗殺」(芹沢鴨・平山五郎)と書き分けました。河合耆三郎は寺が「処刑」としています。
沖田総司は何歳で亡くなりましたか?
生年が事典で1842年と1844年に割れているため、1842年生まれなら満25歳前後(数え27歳)、1844年生まれなら満23歳前後(数え25歳)です。没日は慶応4年5月30日(1868年)で、江戸の千駄ヶ谷で亡くなったとされています。
土方歳三はどこで死んだのですか?
明治2年5月11日(1869年)、箱館で新政府軍の総攻撃を受けた日に、函館市のページによれば一本木関門を入って異国橋のあたりで銃弾に撃たれて戦死しました。戦死の場所には諸説あり、碑は函館市若松町33にあります。
近藤勇の死因は何ですか?
慶応4年4月25日(1868年)、板橋で斬首されました。流山で新政府軍に捕らえられたあと板橋宿へ送られ、首は京都の三条河原に晒されたと会津若松市のページにあります。没年齢は満33歳(数え35歳)です。
インタビュー後記 推定の順位にも、確かめた範囲の印を残した
表を作りはじめたとき、私は表の全員に番号を付けるつもりでした。途中で、公的な資料で日付を確かめられない隊士が6人いると分かり、一度は番号を外しています。
けれど、番号のない行が並ぶ表では、「誰が先に亡くなったのか」という問いに答えきれません。そこで6人にも一般に紹介される日付で順位を付け、「(推定)」と書き添えました。
「(推定)」の印は、知らないことの印ではなく、どこまで確かめたかの印です。専門書に載っているかもしれない日付を、事典と自治体と図書館の回答の範囲では引けなかった、という記録として残しています。
もう一つ、表を作って変わった見方があります。戦いで亡くなった8人と、新選組の側に殺された8人が同じ数だったことです。この数は21人という分母の中での話で、隊の全体には広げられません。
沖田総司の病の描かれ方を史料と照らした記事も、あわせて読んでいただけるとつながります。
参考資料
- 壬生寺「壬生寺と新選組」※阿比原栄三郎・田中伊織・芹沢鴨・平山五郎・野口健司・奥沢栄助・安藤早太郎・新田革左衛門・葛山武八郎・河合耆三郎の没年月日と死因の文言、新見錦の変名説の出典
- コトバンク「芹沢鴨」※文久3年9月18日夜(ブリタニカは9月16日)、近藤派による暗殺、当初の局長が芹沢・近藤・新見の3人だったことの出典
- コトバンク「近藤勇」※慶応4年4月25日、板橋での斬首、「年35」、生月日が事典で割れることの出典
- コトバンク「土方歳三」※明治2年5月11日、箱館一本木、戦死、「年35」、世界大百科事典の「流れ弾に当たり戦死」の出典
- コトバンク「沖田総司」※慶応4年5月30日、肺の病、生年が1842年と1844年に割れること、一番隊組長と一番隊長の呼び方の揺れ、専称寺の出典
- コトバンク「伊東甲子太郎」※天保6年生、慶応3年11月18日、「近藤勇に謀殺された」、33歳(数え)の出典
- コトバンク「藤堂平助」※弘化元年生、慶応3年11月18日、「現場へかけつけ」「新選組とたたかい討ち死に」、24歳(数え)の出典
- コトバンク「永倉新八」※大正4年1月5日、77歳(数え)、杉村義衛への改名の出典
- コトバンク「斎藤一」※1844〜1915年、斗南への移住の出典
- コトバンク「新選組」※「新撰組とも書く」、最盛期の総勢約200人、芹沢暗殺と土方戦死の日付の出典
- 京都市観光協会(京都観光Navi)「光縁寺」※山南敬助が屯所で切腹し光縁寺に葬られたことの出典(ページの表記は「山南敬介」「新撰組副隊長」)
- 多摩デジタル新選組資料館(ADEAC)「新選組関連資料:資料解説」※沖田総司が佐藤彦五郎に山南敬助の切腹を報告した書簡(慶応元年3月21日付)の出典
- 多摩デジタル新選組資料館(ADEAC)「沖田総司書簡」目録※書簡の解説「先月23日(手紙では26日)に切腹した山南敬助」の出典
- 日野市「井上源三郎資料館と没後150年の特別展」※井上源三郎の没日(市の表記は1868年1月5日)、鳥羽・伏見で撃たれて戦死、「当時はまだ39歳」の出典
- 日野市 特別展「没後150年 新選組 井上源三郎」プレスリリース※文政12年(1829年)日野本町生まれの出典
- 日野市観光協会「天然理心流演武も披露、井上源三郎140回忌法要」※井上源三郎の没日「慶応4年1月5日(1868年1月29日)」の出典
- 日野市観光協会「新選組 井上源三郎 「145回忌法要式典」のご案内」※井上源三郎の没日を「慶応4年(1868)1月4日」とする記述の出典
- 東京都北区観光ホームページ「近藤勇と新選組隊士の墓」※供養塔の建立年(明治9年)、発起人永倉新八、松本順の協力、110名の刻名、2003年12月10日の北区指定文化財、滝野川7-8-10の寿徳寺境外墓地の出典
- 板橋区「板橋散策コース」※流山で捕縛され板橋宿へ送られたことの出典
- 会津若松市「会津と新選組~幕末の会津と新選組の歴史を紐解く~」※近藤の首が三条河原に晒されたこと、斎藤一の山口二郎・藤田五郎への改名、時尾との結婚、警視庁・東京教育博物館の勤務、72歳、阿弥陀寺、没年の「1916」表記の出典
- 会津若松観光ナビ「新選組の足跡をたどる」※斎藤一の没日「大正4年(1915)9月28日」と「71歳」の出典
- 会津若松市「八重の桜」プロジェクト協議会「八重と人々」斎藤一※「新選組最後の生き残りとして死去」の文言の出典
- レファレンス協同データベース「司馬遼太郎の小説に登場する斎藤一の墓の場所を知りたい。」(南アルプス市立図書館)※『新選組大人名事典 上』を引いた回答による、没日9月28日と没地・本郷真砂町の自宅の出典
- 函館市「五稜郭の歴史(箱館戦争から現在)」※5月11日の総攻撃、一本木関門から異国橋あたりでの戦死、5月18日の降伏の出典
- 北海道観光機構(HOKKAIDO LOVE!)「土方歳三最期の地碑」※碑の所在(函館市若松町33)と戦死地に諸説あることの出典
- 市立函館博物館「『戦友姿絵』人気投票の開催に係る報道依頼について」(PDF)※中島登が弁天岬台場で31名を描いたこと、人気投票の候補7名に野村利三郎が入ることの出典
- 岩手県宮古市「官軍勇士の墓・幕軍勇士墓碑」※墓碑銘「明治二年三月二十五日」、漂着した遺体を地元の人が葬ったこと、俗名が記されていないことの出典
- 岩手県宮古市「戊辰戦争・宮古港海戦」※回天・蟠龍・高雄の3隻の出典。野村利三郎の名がないことの確認にも使いました
- 東京都新島村「常設展示」※相馬主計(主殿)が「降伏の際に責任を取り新島へ流刑」とされること、肖像画の寄託展示の出典
- 東京都新島村「史跡・名勝」※流罪終身、明治3年、坂本龍馬殺害への関与の嫌疑、寺子屋、流刑制度廃止による赦免、相馬主計の碑の出典
- 笠間市 市長コラム「新撰組最後の隊長」(平成30年1月)※相馬主殿が笠間藩士で、「明治の前期まで生存したことは史実」とされることの出典
- 国立国会図書館サーチ『相馬主殿回想録』書誌※日野市立新選組のふるさと歴史館叢書 第5輯(2009年)として回想録が刊行されていることの出典
- レファレンス協同データベース「美濃大垣出身の新選組隊士であった市村辰之助・鉄之助兄弟について知りたい。」(大垣市立図書館)※市村鉄之助が土方の形見を日野の佐藤家へ届けたこと、没年の二説(明治6年病死・明治10年西南戦争戦死)、全昌寺の出典
- レファレンス協同データベース「備中松山藩出身の谷三兄弟についての記載がある資料を探している。」(国立国会図書館)※谷三十郎の出身と、森愛子「谷三兄弟」(『新選組研究・最前線 下』)に没時の情報が載ることの出典
- レファレンス協同データベース「吉村貫一郎は実在の人物か。」(岩手県立図書館)※『新選組始末記』の「隊士絶命銘々録」に名があること、嘉村権太郎との同一人物説の出典
- レファレンス協同データベース「「愛媛新報」大正12年6月8日夕刊に、原田佐之助に関する記事があるか。」(愛媛県立図書館)※「阪本龍馬を刺した松山藩士原田佐之助」という記事の存在と、「佐之助」表記の出典
- 霊山歴史館「結成160年 新選組奮戦録」(2023年夏)※監察方の山﨑丞、武田観柳斎による桝屋喜右衛門の捕縛(元治元年6月5日)の出典
- 霊山歴史館「新選組隊士名簿 英名録」※島田魁が二番隊伍長を務めたことの出典
- 霊山歴史館「新選組と戊辰戦争」(2020年夏)※「没後120年」の章立てから島田魁の没年を1900年と数えたこと、西本願寺の辞令が遺品にあることの出典
- 霊山歴史館「~初心者向け古文書教室~ 新選組の史料を読もう」(2024年6月1日)※島田魁が「維新後は西本願寺に勤め」たことの出典
- 国立国会図書館サーチ『新選組隊士山崎丞取調日記』書誌※日野市ふるさと博物館が2005年に刊行したことの出典
- 日野市立図書館「日野市在住著者・団体による新選組関係著作リスト」※藤田英昭「新選組隊士 武田観柳斎について」(『幕末史研究』42号、2007年)の出典
- 国立国会図書館サーチ『新選組物語』ほかの書誌検索※子母澤寛『新選組物語』の初版(春陽堂、昭和6年12月25日)の出典。隊士録4点(『新選組大人名事典 上』『新選組全隊士徹底ガイド』『「新撰組」全隊士録』『新選組隊士録』)は同サーチの「稗田利八」件名検索で確認しました
- 北海道博物館 第11回特別展「新選組永倉新八と会津藩士栗田鉄馬」※永倉新八(1839〜1915)が杉村家の婿養子となり、晩年を小樽で過ごしたことの出典
- 小樽観光協会「月刊 小樽自身 2021年5月号」※永倉新八が晩年を小樽で過ごし、菩提寺が量徳寺であることの出典
- KADOKAWA『新撰組顛末記』(角川新書)商品ページ※永倉新八の談話が大正2年に小樽新聞で連載されたものをまとめた本であること、書名が「新撰組」表記であることの出典





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