幕府の老中が治める藩が、負けて戻ってきた幕府軍を城に入れなかった。鳥羽伏見の戦いを調べていて、私がいちばん驚いたのはこの一行です。
淀藩の藩主・稲葉正邦は、将軍徳川慶喜を補佐する老中でした。その藩の城門が、慶応4年1月5日、敗れた幕府軍の前で閉じられています。事典の言葉は「寝返り」と「中立」に割れていました。
1万5000人の幕府軍は、なぜ数で劣る相手に敗れたのか。事典と京都市の史跡の記録を出典ごとに並べて、その問いをほどきます。
この記事の結論
鳥羽伏見の戦いは、慶応4年1月3日(1868年1月27日)、大坂から京都へ向かった旧幕府軍と、薩摩・長州を中心とする新政府軍が、京都南郊の鳥羽と伏見で衝突した戦いです。戊辰戦争の最初の戦いにあたります。
幕府軍が負けた理由として、事典がそろって挙げるのは装備の差です。改訂新版 世界大百科事典と山川 日本史小辞典は、淀藩・津藩の寝返りも書き、山川は4日に新政府軍が錦旗を受けたことも挙げます。
戦いは6日に終わり、慶喜は同じ6日に大坂城を出て、海路で江戸へ向かいました。松戸市戸定歴史館の年表は、この日に「敗報を聞き、大阪城を脱出して海路江戸に向かう」と記しています。
- 1月3日
開戦。1868年1月27日 - 1万5000人
旧幕府側の兵力(事典) - 4000〜6000人
新政府側。資料で割れます
この記事では、基本の事項から、開戦までの流れ、戦場の場所と今の史跡、日ごとの経過、負けた理由、淀藩・津藩、錦の御旗、新選組、慶喜が江戸へ戻ったこと、戊辰戦争との違いまで、順にたどります。
語り手として、徳川慶喜AI(徳川慶喜をモデルにしたAI)と小栗忠順AI(小栗忠順をモデルにしたAI)に登場してもらいます。大坂城から軍を送り出した前将軍と、この戦いのあと抗戦を唱えて職を解かれた幕臣です。
※以下のインタビュー部分は、公開されている史料をもとに二人の人物像を再現した創作です。実際の発言ではありません。小栗忠順は慶応4年閏4月6日(1868年5月27日)に亡くなっているため、それ以降の出来事は語りません。徳川慶喜が大坂城を離れた理由や胸の内は、本人には語らせません。
出典の確かめ方と、公開前に行っているチェックは編集方針にまとめています。

慶喜さん、今日は鳥羽伏見の戦いについてお聞きします。大坂城から軍が京都へ向かい、4日ほどで勝負がつきました。まず、この戦いを短く言い表すと、どうなりますか

正月2日に兵が大坂を発ち、3日に鳥羽と伏見で薩長の兵と撃ち合いになった。数で勝る我が方が敗れ、予は海路で江戸へ戻った。
短く言えば、それだけのことじゃ。
なぜ予が大坂を離れたかは、予の口で言い切ることはいたしませぬ。それは、そなたらの世の記録に譲るとしよう。
- 鳥羽伏見の戦いとは?いつ・どこで・誰と誰が戦ったのか
- 鳥羽伏見の戦いはなぜ起きた?大政奉還から開戦までの流れ
- 鳥羽伏見の戦いの場所はどこ?小枝橋・御香宮・伏見奉行所の今
- 鳥羽伏見の戦いの経過は?1月3日の開戦から6日の終結まで
- 鳥羽伏見の戦いで幕府軍はなぜ負けた?事典が挙げる理由
- 淀藩・津藩の「寝返り」とは?事典の書き方を比べる
- 錦の御旗はいつ授けられた?鳥羽伏見の戦いと「官軍」
- 新選組は鳥羽伏見の戦いで何をした?近藤勇ではなく土方歳三が指揮した理由
- 徳川慶喜はいつ江戸へ戻った?大坂城を出たあとの動き
- 鳥羽伏見の戦いと戊辰戦争の違いは?戦いのあとどうなったか
- 鳥羽伏見の戦いの流れを年表で確認(和暦・西暦)
- よくある質問(FAQ)
- インタビュー後記 閉じた城門と、割れた言葉
- 参考資料
鳥羽伏見の戦いとは?いつ・どこで・誰と誰が戦ったのか
先に、この章で確かめたことを書きます。鳥羽伏見の戦いは、慶応4年1月3日(1868年1月27日)に京都郊外の鳥羽と伏見で始まった、旧幕府軍と新政府軍の戦いです。
基本の事項を表にまとめます。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 読み方 | とば・ふしみのたたかい。「鳥羽・伏見の戦」とも書く |
| いつ | 慶応4年1月3日(1868年1月27日)に衝突し、6日(1月30日)に終結 |
| どこで | 京都南郊の鳥羽と伏見。山川 日本史小辞典は「現,京都市伏見区」と書く |
| 鳥羽とは | 京都市南区上鳥羽・伏見区下鳥羽の地域(デジタル大辞泉)。三重県の鳥羽市とは別の場所 |
| 誰と誰が | 旧幕府軍(幕府の兵と会津・桑名両藩兵ら)と、新政府軍(薩摩・長州両藩兵ら) |
| 旧幕府軍の指揮 | 老中格の大河内正質(日本人名大辞典+Plus「幕軍を指揮」) |
| 兵力 | 旧幕府側1万5000人、新政府側4000〜4500人(事典)。京都市の史跡解説は新政府側を6000人とする |
| 結果 | 旧幕府軍の敗北。慶喜は海路で江戸へ |
| 位置づけ | 戊辰戦争の最初の戦い |
定義は、事典の書き方がほぼそろっています。精選版 日本国語大辞典は、王政復古の大号令のあと、慶喜を擁する大坂城の幕兵と会津・桑名の藩兵が「薩摩藩討伐のため入京しようとし」て、鳥羽・伏見で薩長軍と戦った、と説明します。
参考:鳥羽伏見の戦(精選版 日本国語大辞典・山川 日本史小辞典ほか)|コトバンク
兵力は、旧幕府側の1万5000人で事典がそろい、新政府側の数が割れます。日本大百科全書は4500人、改訂新版 世界大百科事典と山川は4000人、マイペディアは4000余です。ブリタニカは数を挙げず「佐幕派の兵力がまさっていた」と書きます。
京都市の史跡解説(いしぶみデータベース)は、小枝橋の碑について「幕府軍1万5千人と官軍6千人」と書いています。本記事は数字を一つに決めず、新政府側を4000〜6000人と幅で示します。
参考:鳥羽伏見の戦勃発の地小枝橋(HU059)|京都市 いしぶみデータベース
日本大百科全書は「数では3分の1に満たないものの、装備と士気に勝る新政府軍が幕府軍を1日で退却させ」たと書きます。「3分の1」は、この事典の4500人という数字で成り立つ言い方です。

小栗さん、あなたは前の年の暮れ、12月28日に陸軍奉行並を兼ねたと、東善寺の略歴にあります。この戦いのとき、どんな立場だったのですか

陸軍奉行並を兼ねよと仰せつかったばかりでございました。年の瀬の28日のことにて候。
伏見の戦場の様子は、私の口から語れることではございませぬ。
戦いが止んで9日後、正月15日に御役御免となりました。抗戦を申し上げた末のことでございます。
鳥羽伏見の戦いはなぜ起きた?大政奉還から開戦までの流れ
この章の結論です。新政府は慶喜に辞官納地を命じましたが、慶喜は受け入れず大坂城に退いていました。そこへ江戸の薩摩藩邸焼き討ちの報が届き、旧幕府軍が京都へ向かいます。日本大百科全書の「鳥羽伏見の戦い」の項は、この順で書いています。
開戦までの流れを、日付順に並べます。
- 慶応3年10月14日(1867年11月9日)|徳川慶喜が大政奉還を上表。翌15日に勅許
- 慶応3年12月9日(1868年1月3日)|王政復古の大号令。同日夜の小御所会議で、慶喜の辞官納地(内大臣を辞め、領地を返すこと)を決める
- そのあと|慶喜は二条城を出て大坂城へ移る
- 慶応3年12月25日(1868年1月19日)|江戸で庄内藩兵らが薩摩藩邸を焼き討ち
- 慶応4年1月1日(1868年1月25日)|慶喜が「討薩の表」を草する(山川 日本史小辞典)
- 慶応4年1月2日(1868年1月26日)|旧幕府軍が大坂から京都へ進軍を始める
日本大百科全書は、慶喜は大坂に退いて主導権の回復を図ったが、討幕派の関東での挑発と攪乱工作にのって江戸の薩摩藩邸を焼き討ちし、1月2日に兵を北上させた、と書きます。
焼き討ちの事件の項で、同じ事典は「この報が大坂城中の旧幕臣、会津・桑名藩士らに伝わるや鳥羽(とば)・伏見(ふしみ)の戦いが始まった」と書いています。背景には、西郷隆盛の指示で浪士を集め、江戸を攪乱した工作があったとされます。
進軍の名目は、事典によって言葉が違います。旺文社日本史事典は「君側の奸を払う」との名目、精選版 日本国語大辞典は「薩摩藩討伐のため」と書きます。
天皇のそばの悪臣を除くという建て前と、薩摩を討つという目的は、同じ動きを別の角度から書いたものと読めます。
山川 日本史小辞典は、慶喜が元旦に「討薩の表」を草したと書きます。薩摩を討つ理由を朝廷に訴える文書です。本記事は表の文面そのものは確認できていないため、中身は書きません。
大政奉還と王政復古の大号令については、それぞれ別の記事で詳しく書いています。

慶喜さん、元旦に『討薩の表』を草し、翌2日に兵が大坂を発ちました。その前の暮れには、江戸の薩摩藩邸が焼かれています。この順番で合っていますか

合っておる。暮れに江戸の薩摩屋敷が焼かれた報せが大坂に届き、元旦に討薩の表を草し、2日に兵が京へ動いた。
その報せに会津・桑名の兵が憤った、と事典は書くそうな。
日付を並べれば、順は見えるであろう。
鳥羽伏見の戦いの場所はどこ?小枝橋・御香宮・伏見奉行所の今
この章で確かめたことです。戦場は、今の京都市伏見区と南区にまたがる一帯です。鳥羽の戦いは城南宮に近い小枝橋のあたりで、伏見の戦いは御香宮と伏見奉行所のあいだで始まりました。
京都市の「いしぶみデータベース」に載る石碑から、主な場所を表にします。
| 場所 | 当時のできごと | 今の所在地 |
|---|---|---|
| 小枝橋(鳥羽) | 鳥羽街道を北上する幕府軍と、竹田・城南宮周辺に布陣した新政府軍が衝突。戦いの始まりの地 | 伏見区中島御所ノ内町(鳥羽離宮跡公園)。石標は小枝橋東詰 |
| 城南宮 | 新政府軍の布陣した一帯。精選版 日本国語大辞典は「鳥羽伏見の戦いの主戦地」と書く | 伏見区中島宮ノ後町 |
| 御香宮 | 薩摩藩将兵800人が陣を構えた | 伏見区御香宮門前町 |
| 伏見奉行所 | 会津藩を主とする幕府軍1500人が入り、戦いで焼けた | 伏見区西奉行町(桃陵団地内) |
| 伏見京橋 | 1月2日夕方、会津藩の先鋒隊約200名が船で上陸 | 伏見区南浜町 |
| 妙教寺(淀) | 4日に本堂へ砲弾が飛び込む。今も砲弾を保存 | 伏見区納所北城堀町 |
| 淀城 | 5日、敗走した幕府軍の入城を拒む | 伏見区淀本町(淀城跡公園) |
参考:鳥羽伏見戦跡(HU025)|京都市 いしぶみデータベース
参考:明治維新伏見の戦跡(HU007)|京都市 いしぶみデータベース
参考:伏見奉行所跡(HU038)|京都市 いしぶみデータベース
「鳥羽」は、三重県の鳥羽市ではありません。デジタル大辞泉は「鳥羽」を京都市の南区上鳥羽・伏見区下鳥羽の地域と説明し、院政期に鳥羽山荘が置かれた地で、幕末の鳥羽伏見の戦いの地だと書いています。
京都市の解説によれば、慶喜は幕府軍の本隊を鳥羽街道と伏見街道に分けて京都へ進ませました。鳥羽と伏見は一つの戦場ではなく、二つの街道で同時に始まった戦いでした。
伏見の戦いの始まりを、伏見観光協会などが2009年に建てた碑の副碑は、こう書いています。3日、薩摩藩と小競り合いをしていた午後4時ごろ、鳥羽の方角から一発の砲声が聞こえ、それに触発されて御香宮の東の高台の大砲が伏見奉行所を撃った。
参考:会津藩駐屯地跡(HU158)|京都市 いしぶみデータベース
奉行所は焼け、跡地は今は団地になっています。京橋のあたりについて、同じ協会の碑は、幕府軍や新選組が民家に火を放ちながら淀方面へ敗走したため、多くの民家が焼かれたと書いています。
参考:伏見口の戦い激戦地跡(HU156)|京都市 いしぶみデータベース
戦死者の埋骨地も伏見に残ります。悟真寺(伏見区榎町)の石標について、京都市は、東軍(幕府軍)の戦死者の埋骨地が寺内に2か所あり、将兵64人を葬ると説明しています。
参考:戊辰戦役東軍戦死者埋骨所(HU001)|京都市 いしぶみデータベース

慶喜さん、京都市の解説は、あなたが軍を鳥羽街道と伏見街道の二手に分けて進ませた、と書いています。二つの戦場は、どのあたりだったのでしょう

鳥羽は城南宮に近い小枝橋、伏見は奉行所と御香宮のあいだじゃ。二つの街道から、京へ上ろうとした。
奉行所の跡は、今は人の住まいになっておるとか。予の知らぬ世の話じゃが、時は流れるものよのう。
細かな布陣を知りたければ、石碑を一つずつ訪ねるがよい。そのほうが確かであろう。
鳥羽伏見の戦いの経過は?1月3日の開戦から6日の終結まで
この章の結論です。戦いは3日夕方に鳥羽と伏見で始まり、4日以降は戦場が南の淀へ移り、5日に淀で激しい戦いがあり、幕府軍は八幡方面へ退きました。戦いは6日に終わります。
日ごとの動きを、事典と京都市の史跡解説から並べます。
- 1月2日(1月26日)|旧幕府軍が大坂を出発。淀城からも京都へ進軍。夕方、会津藩の先鋒隊約200名が伏見京橋に上陸
- 1月3日(1月27日)|夕方、鳥羽の小枝橋で衝突。伏見でも砲撃が始まり、伏見奉行所が焼ける
- 1月4日(1月28日)|主戦場が淀方面へ移り、妙教寺の本堂に砲弾が飛び込む。新政府軍が錦旗を受ける(山川)
- 1月5日(1月29日)|淀で激戦。淀藩が敗走した幕府軍の入城を拒む。幕府軍は八幡方面へ敗走
- 1月6日(1月30日)|戦いが終了。慶喜が大坂城を出て、海路で江戸へ向かう(戸定歴史館の年表)
開戦の時刻は資料で表現が違います。山川 日本史小辞典は「3日夜」、京都市の史跡解説は「正月3日夕方」、伏見観光協会の副碑は伏見の砲撃を「午後4時頃」と書きます。
小枝橋でのやりとりはよく知られています。京都伏見ライオンズクラブが1998年に建てた碑の碑文には、こう刻まれています。
「将軍様が勅命で京に上がるのだから通せ」という幕府軍と、「勅命ありとは聞いていない、通せない」という新政府軍の押し問答が続き、
出典:京都市 いしぶみデータベース「鳥羽伏見の戦勃発の地小枝橋」(HU059)の碑文
碑文はこのあと、幕府軍が強行突破しようとすると薩摩藩がアームストロング砲を発射し、その砲声を合図に戦いが始まった、と続けます。
ただし、この押し問答とアームストロング砲は、今回確認した事典には書かれていませんでした。本記事は、民間団体の碑文に刻まれた説明として紹介します。
戦いは1月3日に始まり、6日に終結しました。日本大百科全書は「6日に戦いが終了」、改訂新版 世界大百科事典は「30日には戦闘が終了」(慶応4年1月6日)と書きます。
百科事典マイペディアは、開戦当日に「その日のうちに旧幕軍は敗退」したと書いています。日本大百科全書の「1日で退却させ」と同じく、3日の戦況を記したものです。
4日から5日にかけての淀の戦いについて、京都市は納所(のうそ)の石標の解説で、5日にこの付近が幕府軍砲兵の陣地となり、新政府軍の総攻撃に応戦して多数の戦死者を出し、幕府軍は納所から敗走したと書いています。
参考:戊辰役戦場址(HU034)|京都市 いしぶみデータベース
参考:淀古城址・戊辰戦争砲弾跡(HU131)|京都市 いしぶみデータベース

小栗さん、戦いは3日に始まり、6日に終わったと多くの事典が書きます。あなたの御役御免は15日です。この間に何があったのですか

戦いが止み、上様は海路で江戸へ戻られました。そののち私は抗戦を申し上げ、容れられずに15日、役を解かれました。
容れられなかった、という一事だけで十分にございましょう。
本記事では、小栗本人が記した献策の文書を確認できていないため、献策の具体的な内容は扱いません。
鳥羽伏見の戦いで幕府軍はなぜ負けた?事典が挙げる理由
この章で確かめたことです。事典がそろって挙げる敗因は、装備の差です。そこに、世界大百科事典と山川は淀藩・津藩の寝返りを加え、山川は錦旗も書いています。
事典ごとに、挙げている理由を並べます。
| 出典 | 挙げている理由 |
|---|---|
| 日本大百科全書 | 「装備と士気に勝る新政府軍が幕府軍を1日で退却させ」た |
| ブリタニカ国際大百科事典 | 「佐幕派の兵力がまさっていたが,装備力で劣勢だったために敗れ」た |
| 改訂新版 世界大百科事典 | 「装備にまさる新政府軍が幕府軍を1日で退却させ,淀藩や津藩の寝返りによって」戦闘が終了 |
| 山川 日本史小辞典 | 「装備でまさる薩長軍は幕府軍を圧倒し,翌日には朝廷から錦旗をうけて官軍が成立,淀・津両藩の寝返りもあって」敗走 |
| 改訂新版 世界大百科事典「戊辰戦争」 | 「3日で装備や指揮系統に欠陥をもつ旧幕府軍を撃破した」 |
| 国際子ども図書館 | 慶喜が「大阪城を抜け、軍艦で江戸に向かったことで、旧幕府軍は総崩れとなった」(戊辰戦争全体の解説) |
参考:鳥羽伏見の戦い(日本大百科全書・ブリタニカほか)|コトバンク
参考:鳥羽伏見の戦(改訂新版 世界大百科事典・山川 日本史小辞典ほか)|コトバンク
参考:戊辰戦争|テーマ解説|中高生のための幕末・明治の日本の歴史事典|国立国会図書館 国際子ども図書館
4つの事典すべてに共通するのは、装備です。世界大百科事典は「戊辰戦争」の項で、装備に加えて指揮系統の欠陥も挙げています。数では旧幕府側がまさっていた、という点は各事典で一致しています。
「士気」を書くのは日本大百科全書で、それも新政府軍の士気が勝っていた、という書き方です。幕府軍の士気が崩れた、と書く事典は、今回確認した範囲にはありませんでした。
では、装備の差とは具体的に何だったのか。銃や大砲の種類を、事典の「鳥羽伏見の戦い」の項は書いていません。小枝橋の碑文には「ア-ムストロング砲」の名が出ますが、これも民間団体の碑文で、事典では確かめられませんでした。本記事は砲の名を足しません。
もう一つ、事典が書く順番にも目を向けておきます。世界大百科事典と山川はどちらも、装備の差で幕府軍が退いたことを先に書き、そのあとに寝返りを置いています。ただし、この順番だけで、それぞれの要因の重さまでは判断できません。

慶喜さん、事典は敗因として、まず装備の差を挙げています。数ではまさっていたのに負けた。総大将として、どう受け止めていますか

数は我が方が多く、装備は薩長がまさっていた。そなたらの世の事典は、そろってそう書くそうな。
予は大坂城におった。どの筒がどれほど届いたかを、予が語るのは筋違いであろう。
負けたのは我が方じゃ。その一事は、言い切ってよいことと申しておこう。
淀藩・津藩の「寝返り」とは?事典の書き方を比べる

小栗さん、淀藩の藩主・稲葉正邦は老中でした。その藩が、5日に敗れた幕府軍を城に入れなかったと事典は書きます。同じ幕府の中にいた立場から、どう見えますか

稲葉殿は上様を補佐する老中でございました。その御家の城門が、味方の前で閉じられた。重い話にて候。
城を守った者たちが何を考えたかは、私には分かりかねます。
寝返りと呼ぶか、中立と呼ぶか。言葉が割れておるなら、割れたままに置くのがよいと存じます。
この章で確かめたことです。淀藩は5日、敗れた幕府軍の入城を拒み、津藩ははじめ徳川方につくと決めたあと、新政府軍の側に加わりました。ただし、淀藩を「寝返り」と書くか「中立」と書くかは、事典によって違います。
事典と史跡の解説が、二つの藩をどう書いているかを並べます。
- 淀藩(日本大百科全書)|「敗走する旧幕軍を城内に入れず、中立的立場をとった」
- 淀藩(改訂新版 世界大百科事典)|「城門を開かず敗走させたことは著名である」
- 淀藩主 稲葉正邦(日本人名大辞典+Plus)|「鳥羽・伏見の戦いでは中立を宣言し,新政府軍勝利の一因となった」
- 津藩(改訂新版 世界大百科事典)|「はじめ徳川方に味方することを決めたが,朝廷からの働きかけもあって薩長側の戦列に入った」
- 鳥羽伏見の項(世界大百科事典・山川)|「淀藩や津藩の寝返りによって」「淀・津両藩の寝返りもあって」
参考:淀藩(日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典ほか)|コトバンク
参考:津藩(改訂新版 世界大百科事典ほか)|コトバンク
参考:稲葉正邦(日本人名大辞典+Plus)|コトバンク
淀藩の藩主・稲葉正邦は、老中として慶喜を補佐していました。日本人名大辞典+Plusは「老中にすすみ,国内事務総裁をかね,将軍徳川慶喜(よしのぶ)を補佐」と書いています。
淀城跡には、1937年に建てられた「田辺治之助君記念碑」があります。碑文は、戦いのとき藩主稲葉正邦は老中として江戸にいて、藩士は城門を固く閉ざして守っていた、と記しています。
京都市の解説によれば、5日に敗軍が淀城の開門を迫り、藩士は入城を拒みました。大手門の守りを指揮した物頭役の田辺治之助は、守りを破って侵入した者があったため、藩主が朝敵の名を受けないよう責任をとって自決したと書かれています。
参考:田辺治之助君記念碑(HU165)|京都市 いしぶみデータベース
同じ淀藩の動きを、日本大百科全書と日本人名大辞典+Plusは「中立」、世界大百科事典と山川は「寝返り」と書いています。城門を閉じたことは、淀藩の項と京都市の解説が一致して書いています。どの言葉で呼ぶかが割れている、と本記事は整理します。
津藩については、解説記事でよく見る「山崎や橋本の砲台から幕府軍を撃った」という話は、今回確認した事典と京都市の解説には書かれていませんでした。本記事は、事典が書く「薩長側の戦列に入った」までにとどめます。
錦の御旗はいつ授けられた?鳥羽伏見の戦いと「官軍」
この章で確かめたことです。山川 日本史小辞典は、開戦の翌日にあたる1月4日に、新政府軍が朝廷から錦旗を受けて「官軍が成立」したと書きます。立命館大学の資料は、同じ4日に仁和寺宮嘉彰親王が征討大将軍に任じられたと書きます。
錦の御旗(錦旗)は、赤地の錦に日と月を金銀で刺繍したり描いたりした旗で、朝敵を征討する際に官軍の旗印に用いたものだと、デジタル大辞泉は説明します。資料が書く時期を並べます。
| 出典 | 書いていること |
|---|---|
| 山川 日本史小辞典 | 3日の衝突の「翌日には朝廷から錦旗をうけて官軍が成立」 |
| 立命館大学 史資料センター | 1月3日に戦闘が始まり「翌4日、新政府は仁和寺宮嘉彰親王を征討大将軍に」任命 |
| 改訂新版 世界大百科事典「官軍」 | 鳥羽・伏見の「戦後」に嘉彰親王が征討大将軍に。2月に東征大総督府が置かれ「官軍は菊章旗(錦の御旗)を得,指揮体系もととのった」(東征軍の体制についての説明) |
参考:<懐かしの立命館>山陰道鎮撫の道を辿る 第1部|立命館大学 史資料センター
参考:官軍(改訂新版 世界大百科事典)|コトバンク
仁和寺宮嘉彰親王は、1月4日に征討大将軍に任じられました。のちの小松宮彰仁親王です。世界大百科事典の「官軍」の項は「戦後」とまとめて書いていますが、本記事は日付を明記した立命館大学の資料に従います。
世界大百科事典の「官軍」の項にある2月の記述は、東征大総督府が置かれ、東へ向かう軍の体制が整ったことの説明です。錦旗を受けた日の別の説ではありません。錦旗を受けたのは、山川が書くとおり開戦翌日の1月4日です。
錦旗が出たことで幕府軍の士気が一気に崩れた、という説明を目にすることがあります。事典が書くのは、錦旗を受けて「官軍が成立」したこと、そして新政府軍が勝ったことまでで、旗が勝敗を決めたとは書いていません。
慶喜と会津・桑名藩主が「朝敵」とされたのは、戦いのあとのことです。日本大百科全書の「会津戦争」の項は、鳥羽伏見の戦いののち、維新政府が徳川慶喜・松平容保・松平定敬らを朝敵として追討令を下したと書きます。山川は、追討令を7日としています。

慶喜さん、7日に追討令が出て、あなたは朝敵とされました。錦旗が戦いを決めたとよく言われますが、事典はそこまで書いていません。この旗をどう見ていますか

4日に錦旗を受けた、と山川の辞典は書くそうな。予が朝敵とされたのは、7日の追討令によってじゃ。
旗一つで戦が決まったかどうかは、言い切れぬことよ。
ここからは創作としての物言いと思われよ。水戸の学風で育った身に、朝敵の二字は軽くはなかったやもしれぬ。
新選組は鳥羽伏見の戦いで何をした?近藤勇ではなく土方歳三が指揮した理由
この章の結論です。鳥羽伏見の戦いで新選組を指揮したのは、副長の土方歳三でした。近藤勇は、前の年の12月18日に伏見で狙撃されて負傷し、治療のため大坂にいて、戦いに出られませんでした。
事典と碑が書く新選組の動きを並べます。
- 日本大百科全書|「1868年1月3日の鳥羽(とば)・伏見(ふしみ)の戦いでは副長土方が指揮をとったが、幕軍とともに新選組も敗れた」
- 改訂新版 世界大百科事典(土方歳三の項)|「病気の近藤に代わって隊を指揮するが,敗れて江戸に逃れる」
- 伏見観光協会の副碑(2009年)|慶応3年12月18日、伏見奉行所に陣を移していた近藤が墨染通り付近で狙撃され、治療のため大坂に退いたため、土方が指揮を執った
- 京都市の解説|伏見奉行所等に入った幕府軍は「会津藩を主とした1500人」。新選組が奉行所に陣を置いていたことは、伏見観光協会の副碑が書く
参考:新選組(日本大百科全書)|コトバンク
参考:土方歳三(改訂新版 世界大百科事典)|コトバンク
参考:近藤勇遭難の地(HU153)|京都市 いしぶみデータベース
新選組は伏見奉行所を拠点にしていました。伏見の戦いは、その奉行所と、北の御香宮に陣を構えた薩摩藩とのあいだで始まっています。奉行所は戦いで焼け、新選組を含む幕府軍は淀方面へ退きました。
近藤が出られなかった事情を具体的に書くのは、伏見観光協会の副碑です。副碑は、狙ったのは御陵衛士の生き残りの阿部十郎らで、弾は左肩に当たり、近藤は治療のため大坂に退いたと記しています。世界大百科事典は、その状態を「病気」と短く書いています。
井上源三郎ら隊士の戦死の場所や日付は、今回確認した事典と京都市の解説では確かめられませんでした。日野市の広報は、日野市出身の井上源三郎が鳥羽・伏見の戦いで戦死した、と書いています。
日本大百科全書によれば、残った隊士は江戸へ戻り、3月1日に甲陽鎮撫隊を結成して甲州勝沼で戦います。新選組と土方歳三のその後は、小説でもよく描かれています。

土方歳三が鳥羽・伏見から箱館まで戦い続けた道のりは、司馬遼太郎の小説で読んだ方も多いと思います。
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司馬遼太郎『燃えよ剣』(文春文庫・上下巻)
作品紹介によると、新選組副長・土方歳三の生涯を描いた長編小説です。下巻の紹介には、新選組が幕府軍の一角として加わり、薩長と激突した鳥羽・伏見の戦いが挙がっています。
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徳川慶喜はいつ江戸へ戻った?大坂城を出たあとの動き
この章で確かめたことです。慶喜は戦いが終わった1月6日に大坂城を出て、軍艦の開陽丸で江戸へ戻りました。2月12日には江戸城を出て上野の寛永寺に移り、謹慎しています。
事典と公的機関が、慶喜のこのときの動きをどう書いているかを並べます。
| 出典 | 書いていること |
|---|---|
| 日本大百科全書「鳥羽伏見の戦い」 | 「慶喜は海路、江戸へ逃れた」 |
| ブリタニカ国際大百科事典 | 「慶喜は江戸へ敗走した」 |
| 日本大百科全書「開陽丸」 | 鳥羽・伏見の戦いののち「前将軍徳川慶喜(よしのぶ)を乗せて大坂から江戸に帰港」 |
| 国際子ども図書館 | 「大阪城を抜け、軍艦で江戸に向かったことで、旧幕府軍は総崩れとなった」 |
| 改訂新版 世界大百科事典「戊辰戦争」 | 江戸へ帰った慶喜は「当初,反攻を計画したが」、失地回復の手がかりがないのを見て「恭順に踏み切った」 |
| 日本大百科全書「徳川慶喜」 | 「フランス公使ロッシュらの再挙の勧めを拒否して上野寛永寺(かんえいじ)に移り、謹慎の意を表した」 |
参考:開陽丸(日本大百科全書)|コトバンク
参考:戊辰戦争(改訂新版 世界大百科事典ほか)|コトバンク
参考:徳川慶喜(日本大百科全書ほか)|コトバンク
日付は、松戸市戸定歴史館の年表が書いています。1月6日に「敗報を聞き、大阪城を脱出して海路江戸に向かう」、7日に「慶喜追討の勅命下る」、2月12日に「江戸城を出て上野寛永寺に移り謹慎」です。
事典が書くのは、海路で江戸へ戻ったこと、そのあと反攻を考えたが恭順へ向かったこと、までです。大坂を出た理由そのものは、事典には書かれていません。
「逃げた」という言い方についても、触れておきます。日本大百科全書は「逃れた」、ブリタニカは「敗走した」、デジタル大辞泉は「江戸に帰った」と書きます。言葉の強さは事典ごとに違います。
江戸では、勝海舟が1月11日(2月4日)に、初めて伏見の顛末を聞いたと日記に書いています。
初て伏見の顛末を聞く。会津侯桑名侯ともに御供中にあり。その詳説を問はむとすれども、諸官唯青色、互に目をもってし、敢て口を開らく者なし。
出典:国立国会図書館「日記の世界」勝海舟:慶応4年1月11日の日記より
慶喜は、会津藩主の松平容保と桑名藩主の松平定敬を伴って江戸に戻っていました。詳しく聞こうとしても、皆が青い顔で目配せするばかりで、口を開く者がいなかった、と読めます。

慶喜さん、大坂城を出て江戸へ戻ったことを『逃げた』と書く人もいれば、そう書かない人もいます。ご自身では、どう言いますか

大坂を離れ、船で江戸へ戻った。それは事実じゃ。そのあと寛永寺に入り、恭順の意を示した。それも事実じゃ。
江戸に戻って、はじめは反攻を考えた、ロッシュの勧めを退けた、と書く事典もあると聞く。
なぜ大坂を離れたかは、予の口で言い切ることはいたしませぬ。逃げたと呼ぶか否かは、予の決めることではないのう。

上様が江戸へ戻られたのち、私は抗戦を申し上げ、容れられませなんだ。そして15日に御役御免。
上様が恭順へ向かわれたことと、私が退けられたこと。並べて置けるのは、そこまでにて候。
小栗忠順が抗戦を唱えて退けられた経緯と、その後の斬首については、別の記事で書いています。
鳥羽伏見の戦いと戊辰戦争の違いは?戦いのあとどうなったか
この章の結論です。鳥羽伏見の戦いは、戊辰戦争の最初の戦いです。戊辰戦争は、ここから明治2年5月18日(1869年6月27日)の五稜郭開城まで続いた一連の内戦全体を指します。
二つの違いを表にします。
| 項目 | 鳥羽伏見の戦い | 戊辰戦争 |
|---|---|---|
| 期間 | 慶応4年1月3日〜6日(1868年1月27日〜30日) | 慶応4年1月3日〜明治2年5月18日(1868年1月27日〜1869年6月27日) |
| 場所 | 京都南郊の鳥羽・伏見、淀 | 京都から江戸、北越、会津、箱館まで |
| 主な出来事 | 小枝橋・伏見での衝突、淀藩の入城拒否 | 鳥羽伏見、江戸開城、上野戦争、会津戦争、箱館戦争 |
| 関係 | 戊辰戦争の発端 | 鳥羽伏見の戦いから始まる内戦の総称 |
この戦いの結果について、事典はそろって、新政府の内部で討幕派の主導権が固まったと書きます。日本大百科全書は「確定」、世界大百科事典・マイペディア・山川は「確立」という言葉を使っています。
世界大百科事典はさらに、「西国の大名や大坂の豪商らが新政府支持に踏み切った」と書きます。戦いのあと、新政府の側へ動く勢力が出てきたことが分かります。
その後の流れは、山川が「7日には慶喜追討令がでて東征が開始された」、日本大百科全書が「2月9日、慶喜追討軍が東征に向かうこととなった」と書きます。追討令が出た日と、東征軍が向かった日を、それぞれの事典が書いていると読めます。
外国の動きもありました。日本大百科全書の「局外中立」の項によれば、1月25日(2月18日)、欧米の各国は旧幕府軍と新政府軍をともに交戦団体とみなし、内乱が終わるまで武器援助などをしない態度を宣言しました。
戊辰戦争の全体の流れ、江戸開城から箱館戦争までは、別の記事でたどっています。

小栗さん、事典は、この戦いで新政府の中の討幕派の主導権が固まったと書きます。戦いのあと、幕府の側では何が変わりましたか

上様は恭順へ向かわれ、抗戦を申し上げた私は役を解かれました。私の身で申せば、それが変わったことでございます。
3月1日には、許しを得て上州の権田村に移りました。
戦は京で始まり、それで終わりではなかった。そのことは、日付を追えば分かると存じます。
鳥羽伏見の戦いの流れを年表で確認(和暦・西暦)
ここまでの出来事を、和暦と西暦を並べた年表にまとめます。西暦の日付は、事典や公的機関が西暦を併記している日付を基準に換算しました。西暦を検算できなかった項目は、年または月だけを書いています。
| 和暦 | 西暦 | 出来事 |
|---|---|---|
| 慶応3年10月14日 | 1867年11月9日 | 徳川慶喜が大政奉還を上表。翌15日に勅許 |
| 慶応3年12月9日 | 1868年1月3日 | 王政復古の大号令。同夜の小御所会議で辞官納地を決める |
| 慶応3年12月 | 1868年1月 | 慶喜が二条城を出て大坂城へ移る |
| 慶応3年12月18日 | 1868年1月12日 | 近藤勇が伏見街道の墨染付近で狙撃される(伏見観光協会の副碑) |
| 慶応3年12月25日 | 1868年1月19日 | 江戸の薩摩藩邸焼き討ち |
| 慶応3年12月28日 | 1868年1月22日 | 小栗忠順が陸軍奉行並を兼ねる(東善寺の略歴) |
| 慶応4年1月1日 | 1868年1月25日 | 慶喜が討薩の表を草する(山川) |
| 慶応4年1月2日 | 1868年1月26日 | 旧幕府軍が大坂を出発。会津藩の先鋒隊が伏見京橋に上陸 |
| 慶応4年1月3日 | 1868年1月27日 | 鳥羽の小枝橋と伏見で開戦。伏見奉行所が焼ける |
| 慶応4年1月4日 | 1868年1月28日 | 仁和寺宮嘉彰親王が征討大将軍に(立命館大学)。新政府軍が錦旗を受ける(山川) |
| 慶応4年1月5日 | 1868年1月29日 | 淀で激戦。淀藩が幕府軍の入城を拒む。幕府軍は八幡方面へ |
| 慶応4年1月6日 | 1868年1月30日 | 戦いが終了。慶喜が大坂城を出て、開陽丸で江戸へ向かう(戸定歴史館の年表) |
| 慶応4年1月7日 | 1868年1月31日 | 慶喜追討令(山川) |
| 慶応4年1月11日 | 1868年2月4日 | 勝海舟が伏見の顛末を初めて聞く(日記) |
| 慶応4年1月15日 | 1868年2月8日 | 小栗忠順が御役御免 |
| 慶応4年1月25日 | 1868年2月18日 | 欧米各国が局外中立を宣言 |
| 慶応4年2月9日 | 1868年3月3日 | 慶喜追討軍が東征に向かう(日本大百科全書) |
| 慶応4年2月12日 | 1868年3月6日 | 慶喜が江戸城を出て上野寛永寺に移り謹慎(戸定歴史館の年表) |
| 慶応4年4月11日 | 1868年5月3日 | 江戸城の明け渡し |
| 明治2年5月18日 | 1869年6月27日 | 五稜郭開城。戊辰戦争が終わる |
和暦の慶応4年1月3日は、西暦では1868年1月27日です。事典には、西暦の年と旧暦の月日を組み合わせた表記もあります。本記事は旧暦と新暦を区別して併記しており、新暦では戦いは1月の終わりにあたります。
換算の基準にしたのは、慶応3年12月9日=1868年1月3日(デジタル大辞泉)、慶応4年1月3日=1868年1月27日(百科事典マイペディア)、慶応4年1月15日=1868年2月8日(東善寺の略歴)などです。
年表を見ると、開戦の4日後に追討令が出て、8日後に勝海舟が顛末を聞き、12日後に小栗が罷免されています。京都での4日間の戦いのあと、江戸の側で物事が動いたのは、その翌週でした。
ここで、二人に同じ問いを投げてみます。二人がこの件で語り合った記録は、本記事では確認できていません。

お二人にうかがいます。年表では、1月6日の戦いの終わりと、15日の小栗さんの罷免が並んでいます。この9日間を、今どう振り返りますか

小栗、そなたの抗戦の献策を、予は容れなんだ。それは記録のとおりじゃ。
戦いが止んで9日のうちに、そなたは役を解かれる身となった。静岡の三十年で、急ぐことは忘れ申したが、あの正月は短かったのう。

上様、私が申せるのは15日という日付だけにて候。
献策が容れられなかったことを、恨みとして語るつもりはございませぬ。
私は横須賀の槌の音のほうを、後の世に残したく存じます。

戦いのあと、明治維新と新政府の時代へどう移っていったかは、学習まんがの通史でも追えます。
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よくある質問(FAQ)
鳥羽伏見の戦いとは何ですか?簡単に教えてください
慶応4年1月3日(1868年1月27日)、大坂から京都へ向かった旧幕府軍と、薩摩・長州を中心とする新政府軍が、京都南郊の鳥羽と伏見で戦った戦いです。旧幕府軍が敗れ、戊辰戦争の始まりとなりました。
鳥羽伏見の戦いはいつ起きましたか?何年ですか?
慶応4年1月3日に始まり、6日に終わりました。西暦では1868年1月27日から30日にあたります。明治改元は同じ年の9月なので、明治元年と同じ年です。
鳥羽伏見の戦いの場所はどこですか?
今の京都市伏見区と南区にまたがる一帯です。鳥羽の戦いは城南宮に近い小枝橋のあたり(伏見区中島)、伏見の戦いは御香宮と伏見奉行所のあたり(伏見区御香宮門前町・西奉行町)で始まりました。三重県の鳥羽市ではありません。
鳥羽伏見の戦いは誰と誰が戦い、どっちが勝ちましたか?
旧幕府軍(幕府の兵と会津・桑名両藩兵ら)と、新政府軍(薩摩・長州両藩兵ら)が戦い、新政府軍が勝ちました。旧幕府軍を率いたのは老中格の大河内正質で、慶喜は大坂城にいました。
幕府軍はなぜ負けたのですか?
事典がそろって挙げるのは装備の差です。旧幕府側は1万5000人と数でまさっていましたが、装備で劣りました。改訂新版 世界大百科事典と山川 日本史小辞典は、淀藩・津藩の寝返りも挙げています。
淀藩と津藩の「裏切り」とは何ですか?
淀藩は5日、敗れた幕府軍の入城を拒みました。津藩は、はじめ徳川方につくと決めたあと、新政府軍の側に加わりました。淀藩を「寝返り」と書く事典と、「中立」と書く事典があります。
錦の御旗はいつ授けられましたか?
開戦翌日の1月4日です。山川 日本史小辞典は、この日に新政府軍が朝廷から錦旗を受けて「官軍が成立」したと書きます。同じ4日には、仁和寺宮嘉彰親王が征討大将軍に任じられました。
鳥羽伏見の戦いに新選組は参加しましたか?
参加しました。伏見奉行所を拠点にしていた新選組は、副長の土方歳三が指揮を執りました。近藤勇は前の年の12月に伏見で狙撃されて負傷し、治療のため大坂にいたので、戦いに出られませんでした。
徳川慶喜はいつ、どうやって江戸へ戻ったのですか?
戦いが終わった1月6日に大坂城を出て、軍艦の開陽丸で江戸へ向かいました(戸定歴史館の年表)。江戸では反攻を計画したものの恭順に踏み切り、2月12日に上野の寛永寺に移って謹慎しました。
鳥羽伏見の戦いの戦死者は何人ですか?
今回確認した事典は、戦死者の総数を書いていませんでした。京都市の史跡解説によれば、伏見区の悟真寺には幕府軍の戦死者64人を葬った埋骨地があります。
鳥羽伏見の戦いと戊辰戦争の違いは?
鳥羽伏見の戦いは、戊辰戦争の最初の戦いで、慶応4年1月3日から6日まで続きました。戊辰戦争は、そこから明治2年5月18日の五稜郭開城まで続いた一連の内戦全体を指します。
インタビュー後記 閉じた城門と、割れた言葉
淀城の城門のことを調べはじめたとき、私は「淀藩の寝返り」という一語で片づくと思っていました。世界大百科事典も山川も、そう書いていたからです。
ところが淀藩の項を開くと、日本大百科全書は「中立的立場をとった」と書いていました。藩主の稲葉正邦について、日本人名大辞典+Plusは「中立を宣言し」と書きます。同じ城門の出来事に、二つの言葉が当てられていました。
淀城跡の碑は、そのとき藩主は老中として江戸にいた、と刻んでいます。城を預かっていたのは藩士たちで、門を守った物頭が自決したことも記されていました。寝返りか中立かを、本記事は決めませんでした。決める根拠を、私は持っていないからです。
慶喜が大坂を離れた日は、戸定歴史館の年表で1月6日と確かめられました。ただ、事典は「逃れた」「敗走した」「帰った」と言葉を変えながら、理由は書いていません。慶喜AIにも、理由は語らせていません。
諸官唯青色、互に目をもってし、敢て口を開らく者なし。
出典:国立国会図書館「日記の世界」勝海舟:慶応4年1月11日の日記より
勝海舟が見たのは、口を開く者のいない場でした。鳥羽伏見の戦いは、事典の言葉の上でも、まだ割れたままのところが残っています。
2027年の大河ドラマ『逆賊の幕臣』は、この戦いのあと抗戦を唱えて退けられた小栗忠順が主人公です。物語の整理はこちらにまとめています。
参考資料
- コトバンク「鳥羽伏見の戦い」(デジタル大辞泉・日本大百科全書・ブリタニカ国際大百科事典・旺文社日本史事典 三訂版・防府市歴史用語集)※1月2日の進軍、1万5000人と4500人、「装備と士気に勝る新政府軍」、6日の終了、「装備力で劣勢だったために敗れ」、「君側の奸を払う」、海路で江戸へ、2月9日の東征の根拠
- コトバンク「鳥羽伏見の戦」(精選版 日本国語大辞典・百科事典マイペディア・改訂新版 世界大百科事典・山川 日本史小辞典 改訂新版)※「薩摩藩討伐のため」、4000人・4000余、1868年1月27日、「淀藩や津藩の寝返りによって,30日には戦闘が終了」、「西国の大名や大坂の豪商ら」、元旦の討薩の表、「3日夜」、4日の錦旗、7日の追討令の根拠
- コトバンク「淀藩」(日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典・百科事典マイペディアほか)※「敗走する旧幕軍を城内に入れず、中立的立場をとった」「城門を開かず敗走させたことは著名」の根拠
- コトバンク「稲葉正邦」(デジタル版 日本人名大辞典+Plus)※老中として慶喜を補佐、「中立を宣言し」の根拠
- コトバンク「津藩」(改訂新版 世界大百科事典・藩名・旧国名がわかる事典)※「はじめ徳川方に味方することを決めたが…薩長側の戦列に入った」の根拠
- コトバンク「大河内正質」(デジタル版 日本人名大辞典+Plus)※老中格、「鳥羽・伏見の戦いでは幕軍を指揮し」の根拠
- コトバンク「官軍」(改訂新版 世界大百科事典)※「戦後」に嘉彰親王が征討大将軍、2月の東征大総督府と菊章旗(東征軍の体制の説明)の根拠
- コトバンク「錦の御旗」(デジタル大辞泉・精選版 日本国語大辞典)※錦旗の定義の根拠
- コトバンク「会津戦争」(日本大百科全書)※鳥羽伏見ののち慶喜・松平容保・松平定敬らを朝敵として追討令の根拠
- コトバンク「開陽丸」(日本大百科全書)※慶喜を乗せて大坂から江戸に帰港の根拠
- コトバンク「徳川慶喜」(日本大百科全書ほか)※ロッシュの再挙の勧めを拒否、寛永寺での謹慎の根拠
- コトバンク「戊辰戦争」(改訂新版 世界大百科事典・日本大百科全書ほか)※江戸に帰った慶喜の反攻計画と恭順、「装備や指揮系統に欠陥をもつ旧幕府軍」、戊辰戦争の期間の根拠
- コトバンク「薩摩藩邸焼打ち事件」(日本大百科全書)※12月25日の焼き討ち、「この報が…伝わるや鳥羽・伏見の戦いが始まった」の根拠
- コトバンク「王政復古」(デジタル大辞泉ほか)※慶応3年12月9日=1868年1月3日の根拠
- コトバンク「大政奉還」(改訂新版 世界大百科事典・百科事典マイペディアほか)※10月14日上表・15日勅許、1867年11月9日の根拠
- コトバンク「小御所会議」(山川 日本史小辞典ほか)※辞官納地の決定、慶喜の大坂退去の根拠
- コトバンク「新選組」(日本大百科全書)※「副長土方が指揮をとった」、甲陽鎮撫隊の根拠
- コトバンク「土方歳三」(改訂新版 世界大百科事典)※「病気の近藤に代わって隊を指揮」の根拠
- コトバンク「局外中立」(日本大百科全書)※1月25日の各国の宣言の根拠
- コトバンク「鳥羽」(デジタル大辞泉)※京都市南区上鳥羽・伏見区下鳥羽の地域の根拠
- コトバンク「城南宮」(精選版 日本国語大辞典・日本大百科全書)※「鳥羽伏見の戦いの主戦地」、所在地の根拠
- 京都市 いしぶみデータベース「鳥羽伏見の戦勃発の地小枝橋」(HU059)※小枝橋での衝突、6千人、ライオンズクラブ碑文の押し問答の根拠
- 京都市 いしぶみデータベース「鳥羽伏見戦跡」(HU025)※二つの街道に分けた進軍、小枝橋東詰の石標の根拠
- 京都市 いしぶみデータベース「明治維新伏見の戦跡」(HU007)※御香宮の薩摩藩将兵800人、伏見奉行所の1500人の根拠
- 京都市 いしぶみデータベース「伏見奉行所跡」(HU038)※奉行所の焼失、桃陵団地の所在地の根拠
- 京都市 いしぶみデータベース「会津藩駐屯地跡」(HU158)※1月2日の会津藩先鋒隊、3日午後4時頃の砲撃の根拠
- 京都市 いしぶみデータベース「伏見口の戦い激戦地跡」(HU156)※伏見京橋への上陸、民家の焼失の根拠
- 京都市 いしぶみデータベース「淀古城址・戊辰戦争砲弾跡」(HU131)※3日夕方の勃発、4日の妙教寺への砲弾、5日の淀の戦いの根拠
- 京都市 いしぶみデータベース「戊辰役戦場址」(HU034)※5日の納所の戦いの根拠
- 京都市 いしぶみデータベース「淀城址」(HU048)※1月2日の淀城からの進軍、5日の入城拒否の根拠
- 京都市 いしぶみデータベース「田辺治之助君記念碑」(HU165)※藩主が老中として江戸にいたこと(碑文)、田辺治之助の自決の根拠
- 京都市 いしぶみデータベース「近藤勇遭難の地」(HU153)※12月18日の狙撃と土方の指揮の根拠
- 京都市 いしぶみデータベース「戊辰戦役東軍戦死者埋骨所」(HU001)※悟真寺の将兵64人の根拠
- コトバンク「小松宮彰仁親王」(精選版 日本国語大辞典・デジタル版 日本人名大辞典+Plus)※嘉彰親王がのちの小松宮彰仁親王であることの根拠
- 立命館大学 史資料センター「<懐かしの立命館>山陰道鎮撫の道を辿る 第1部(京都御所~村岡)」※1月4日に仁和寺宮嘉彰親王を征討大将軍に任命の根拠
- 国立国会図書館 国際子ども図書館「戊辰戦争|テーマ解説|中高生のための幕末・明治の日本の歴史事典」※慶喜が軍艦で江戸に向かい旧幕府軍が総崩れの根拠
- 国立国会図書館 憲政資料室「日記の世界」勝海舟:慶応4年1月11日(1868年2月4日)の日記より※「初て伏見の顛末を聞く…敢て口を開らく者なし」の原文の根拠
- 松戸市 戸定歴史館「徳川慶喜・昭武関係年表 一」※1月6日に「敗報を聞き、大阪城を脱出して海路江戸に向かう」、1月7日の追討の勅命、2月12日の寛永寺での謹慎の根拠
- 東善寺「小栗上野介忠順の略歴」※慶応3年12月28日の陸軍奉行並兼帯、慶応4年1月15日の御役御免、3月1日の権田村への土着の根拠
- 日野市「広報ひの」第1412号(2017年12月1日)※井上源三郎が鳥羽・伏見の戦いで戦死したことの根拠






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