大河『逆賊の幕臣』の番組紹介は、勝海舟を小栗忠順の「ライバルでかつ理解者」と呼んでいます。私はこの言葉に引っかかりました。
二人の仲が悪かった、という話は幕末好きには半ば常識です。根拠をたどると、出てくるのはほとんど勝の側の日記と談話で、小栗が勝について書き残したものは今回見つかりませんでした。
勝の側に偏った記録で、二人の関係をどう読むか。私の答えは「まず日付を並べる」です。
この記事の結論
勝の回想では、二人の関係は初め好意的で、1866年のフランス借款をきっかけに悪化したとされています。
勝は明治の談話で、小栗が「初めは大相わしをひいきに仕た」が、借款の一件から「讎敵の様に扱つた」と語りました。1868年の日記でも、主戦論を唱える者として小栗を名指ししています。
二人は1860年にサンフランシスコで同じ宴席に着いた幕臣どうしで、勝が4歳上、どちらも江戸生まれの旗本でした。1868年1月、小栗が抗戦を唱えて役目を外された2日後に、勝は海軍奉行並に任じられています。
ただし、関係が悪化した経緯を直接語っているのは、勝の側の言葉です。小栗が勝をどう見ていたかを示す小栗自身の文書は、今回確認できませんでした。
- 4歳
勝が年上 - 1860年
サンフランシスコで同じ宴席に - 2日
小栗の御役御免から勝の海軍奉行並まで
この記事では、二人の経歴の比較から、サンフランシスコでの同席、勝の談話と日記、1868年1月の日付の並び、小栗の最期を勝がどう語ったかまでをたどります。
語り手として、小栗忠順AI(小栗忠順をモデルにしたAI)と勝海舟AI(勝海舟をモデルにしたAI)に登場してもらいます。
※以下のインタビュー部分は、公開されている史料をもとに二人の人物像を再現した創作です。実際の発言ではありません。小栗忠順AIは1868年閏4月まで、勝海舟AIは1899年までの出来事を知っている設定で、二人が同じ席で話しています。
出典の確かめ方と、公開前に行っているチェックは編集方針にまとめています。

海舟先生、小栗さん、お二人そろっての席は初めてです。よろしくお願いします。1860年、太平洋を別々の船で渡られました。先に着いたのは海舟先生の咸臨丸でしたね

先に着いたのは船のほうさ。おれは道中ほとんど寝込んでたと、向こうの新聞に書かれたそうだがね。
37日かけて着いて、上野介殿の船が入ってきたのは、それから12日あとだったよ。
で、おまえさん、仲の悪い二人の話を聞きに来たって顔だな。

左様、ポーハタン号は2月13日に横浜を出て、ハワイを回り、3月29日に着きました。
勝殿より12日遅れ、そのかわり港には10日おりました。
仲の良し悪しを先に決めてかかるのは、合わぬ帳面を読むようなものでございますよ。
小栗忠順と勝海舟を比較すると?4歳差の二人の旗本
小栗忠順と勝海舟は、どちらも江戸生まれの旗本で、勝が4歳年上です。家の格と役職の歩みは大きく違い、1868年1月に一方は役目を外され、もう一方は登用されました。
表に並べると、二人の歩みが重なる年と、離れていく年が見えてきます。
| 項目 | 小栗忠順 | 勝海舟 |
|---|---|---|
| 生まれ | 文政10年6月23日(1827年7月16日)、江戸・神田駿河台 | 文政6年1月30日(1823年3月12日)、江戸・本所亀沢町 |
| 没 | 慶応4年閏4月6日(1868年5月27日)、水沼河原で斬首(5日とする史料も)。満40歳 | 1899年1月19日、赤坂氷川の自邸で没。満75歳 |
| 年齢差 | ― | 勝が4歳上 |
| 家 | 三河以来の譜代旗本。知行2,500石(国立国会図書館「小栗上野介関係文書」) | 小普請の旗本。石高41石余(日本大百科全書) |
| 主な役職 | 目付(1859年)、遣米使節の目付(1860年)、外国奉行、勘定奉行、軍艦奉行など | 軍艦奉行並(1862年)、軍艦奉行(1864年。同年罷免、1866年に再任) |
| 主な仕事 | 横須賀製鉄所の建議と建設、フランス借款、軍制改革、兵庫商社 | 咸臨丸の指揮(1860年)、神戸海軍操練所(1864年)、江戸開城の交渉(1868年) |
| 1860年 | ポーハタン号で渡米。フィラデルフィア造幣局での貨幣分析に関わる | 咸臨丸でサンフランシスコへ |
| 1866年 | フランス借款600万ドルの契約。勝に計画を打ち明けた(勝の記録による) | 5月に大坂へ召され、8月に宮島で長州と休戦の談判 |
| 1868年1月 | 抗戦を進言。1月15日(2月8日)に御役御免 | 1月17日(2月10日)海軍奉行並、1月23日(2月16日)陸軍総裁 |
| 1868年3〜5月 | 3月1日(3月24日)権田村へ。閏4月5日に捕縛、6日(5月27日)斬首 | 3月13・14日(4月5・6日)西郷と会談。4月11日(5月3日)江戸開城 |
| その後 | 養子の又一も翌日斬首。妻の道子は会津へ逃れ、遺児の国子を生む | 明治政府で海軍大輔、参議兼海軍卿、元老院議官、枢密顧問官。伯爵 |
| 相手への言及 | 勝に触れた小栗自身の文書は、今回確認できない | 日記(1868年)、『開国起原』(1893年)、『氷川清話』(1897〜1898年刊)、『海舟座談』に小栗評がある |
小栗の2,500石は、国立国会図書館の憲政資料室の解説に「安政2(1855).10小栗家(2500石)を継ぐ」とあります。
勝の家は日本大百科全書が「石高41石余の貧乏旗本」とし、大河の制作統括は「禄高41俵」と単位の違う言い方をしています。
参考:小栗上野介関係文書(MF:個人蔵)|国立国会図書館 リサーチ・ナビ
参考:勝海舟|コトバンク
参考:2027年大河ドラマ『逆賊の幕臣』 勝海舟役に大沢たかお!|ステラnet
1860年の春、サンフランシスコにいたときの小栗は32歳、勝は37歳でした(満年齢)。1868年1月の免職のときは40歳と44歳。小栗が斬首されたとき、勝は45歳です。
勝はそのあと31年生きて、75歳で没しました。二人の関係を語る言葉が勝の側に偏るのは、生きた長さの差でもあります。
役職の表で目を引くのは、1868年1月の2行でしょう。小栗の免職と勝の登用は、2日しか離れていません。この日付は、あとの章で原文つきで確かめます。

小栗さんのお家は三河以来の譜代、海舟先生のお家は小普請の旗本と聞きます。同じ旗本でも、ずいぶん違いますね

三河以来の家に生まれたのは、私の手柄ではございませぬ。
目付、外国奉行、勘定奉行と、役は家ではなく仕事で量られるもの。
勝殿の家の石高を引き合いに出して、勝殿の才を量る気はございませぬ。
二人は会っていた?1860年、サンフランシスコで同じ宴席に着いた
小栗忠順と勝海舟は、1860年の春、サンフランシスコで同じ宴席に着いています。別の船で太平洋を渡った二人は、10日間だけ同じ港にいました。
咸臨丸は1860年2月10日に浦賀を出て、3月17日にサンフランシスコに着きました。小栗の乗ったポーハタン号は2月13日に横浜を出帆し、ハワイを経て3月29日に同じ港へ入り、4月7日に出帆しています。
3月29日から4月7日までの10日間、二つの船は同じ港にいたことになります。
参考:万延元年遣米使節|コトバンク
参考:万延元年遣米使節年表 主なる史実|万延元年遣米使節子孫の会
この10日間に二人が顔を合わせた記録は、昭和の編著である文倉平次郎編『幕末軍艦咸臨丸』(1938年)が引く、木村喜毅の紀行、村垣範正の日記、現地のアルタ・カリフォルニア紙の記事に出てきます。日付は陽暦です。
- 3月30日|新見・村垣・小栗らが咸臨丸を訪ねる。木村の紀行は、夜に小栗らが木村の旅舎に来て「小栗・森田二君は一泊し」たと伝える
- 4月初め|市主催の歓迎会で「カッブ将官は小栗監察を、ヘーヴン少将は勝咸臨丸艦長を」同伴し、演壇の椅子に着いた(アルタ・カリフォルニア紙の記事を文倉が訳出)
- 同じ宴席|村垣の日記は、統領主催の宴に「正興おのれ・忠順」と「勝麟太郎」が並び、およそ150人が一つの食卓に着いたと伝える
参考:幕末軍艦咸臨丸(文倉平次郎編、1938年)|国立国会図書館デジタルコレクション
歓迎会の日付は、文倉が4月1日、万延元年遣米使節子孫の会の年表が4月2日としていて、1日の幅があります。
アルタ紙の記事は、会の終わりに馬車へ乗る順番も伝えています。3番目が小栗とポーハタン号のテーロル大佐、4番目が勝とブルックでした。隣り合わせだったわけではありませんが、同じ壇上に並び、同じ宴席にいたところまでは確かです。
一方で、二人が言葉を交わした記録は、今回見た範囲にはありません。小栗が咸臨丸を訪ねた3月30日に勝が艦にいたかどうかも、文倉の記述からは分かりません。文倉の訳では、アルタ紙は勝を「航海中殆ど病臥された」と報じています。
「会って語り合った」とは書けず、「同じ席にいた」まで。それでも、別の船で渡った二人が同じ港の同じ食卓に着いていた。それだけは残ります。
咸臨丸の航海そのものと、乗っていた人の顔ぶれは、別の記事でまとめています。

3月30日、小栗さんは咸臨丸を訪ねて、その夜は木村さんの宿に泊まったと、木村さんの紀行にあります。覚えていらっしゃいますか

木村殿の宿で、貯えの洋酒を振る舞われたことは覚えておりまする。
ただ、勝殿があのとき艦におられたかどうかは、私からは申し上げられませぬ。
病で臥せっておられたと聞くなら、なおさらでございましょう。
仲が悪かったのは本当?根拠は勝の側の言葉
「仲が悪かった」という見方のいちばん直接の根拠は、勝が晩年に語った談話です。明治29年から32年にかけて巌本善治が聞き書きした『海舟座談』に、次の一節があります。
小栗は、初めは大相わしをひいきに仕たものだつた。然し、此の借金事件から、アレも、栗本も、其一味と云ふものは、非道く讎敵の様に扱つた。
出典:『海舟座談』(巌本善治編、岩波書店、1930年)
「借金事件」は、1866年(慶応2年)のフランス借款を指します。勝の語りでは、小栗は最初は勝に好意的で、借款の一件を境に敵のように扱うようになった、という順序です。
同じ談話で勝は、小栗の同志だった栗本鋤雲についても「其後来たこともない」と語っています。勝から見た関係の冷え方は、小栗一人ではなく、栗本を含めたフランス派との距離として語られています。
誰の言葉かで分けると、三つになります。
- 番組の見立て|「ライバルでかつ理解者」は大河『逆賊の幕臣』の作品紹介の言葉。制作統括は「互いを最もよく理解している関係」と述べる。史料の評価ではない
- 勝の談話と日記|「初めはひいき、借款から讎敵」は『海舟座談』。1868年の日記は主戦論を唱える者として小栗を名指しする。どちらも勝の側の言葉
- 小栗の側の文書|勝について書いた小栗自身の文書は、今回確認できない
三つ目の層が空いていることが、この関係のいちばんの特徴です。勝が小栗をどう見ていたかは、日記と談話で追えます。小栗が勝をどう見ていたかは、今回確認した文書からは追えません。
勝の同時代の記録にも、小栗への批判はあります。1868年2月の日記は、「漫に干戈を動かさむとす」る説の唱え手として、水野癡雲に続けて小栗の名を挙げました。
なお『海舟座談』で勝は、フランスからの借金を「己は一生懸命になつて、とう/\防いで仕舞つた」とも語っています。ただし、これは勝の自己申告です。事典は借款の大部分が幕府の倒壊で実現しなかったとしており、勝が止めたとは書けません。
参考:小栗忠順|コトバンク

海舟先生は晩年に、小栗さんが『初めは大相わしをひいきに仕た』けれど、借金の一件から『讎敵の様に扱つた』と語っています。小栗さん、どう聞こえますか

初めて聞く話にて候。ひいきにしたか、仇とみなしたか、それは勝殿の受け取り方でございましょう。
私が数えられるのは、フランスとの借款の約定、600万ドルという数字のほうでございます。
勝殿、仇のように扱われたと仰せなら、その日付を伺いたい。

日付なんぞ覚えちゃいねえよ、上野介殿。おれが覚えてるのは、あれから栗本がぱったり来なくなったことさ。
借金の話は、おれが一生懸命止めたつもりでいた。もっとも、金が来なかったのは向こうの事情もあったろうがね。
仲が悪いかどうかは、おまえさん方が好きに決めな。
二人の構想はどこで分かれた?
勝の記録によれば、1866年(慶応2年)5月の時点で、小栗は幕府の下での郡県制を、勝は徳川がまず政権を返上することを考えていました。分かれ目は、二つの場面に残っています。
- 1866年、小栗が勝に打ち明けた「秘密の議」
- 横須賀製鉄所を勝はどう見ていたか
どちらも、勝が書き残したものです。
1866年、小栗が勝に打ち明けた「秘密の議」
勝は、1866年5月に大坂へ発つ前、小栗から幕府の計画を打ち明けられたと自分で書いています。勝が1893年に出した『開国起原』巻下に、その場面があります。引用はカタカナと旧字を適宜改めました。
小栗上野介其他二名予を引て別室に至り窃に議し云く…政府仏郎西に托して金幣若干軍艦幾隻を求む。到着次第一時に長を追討すべく薩もまた其時宜に応じ是を討たん。
然して後邦内にまた口を容るる大諸侯なし。更に其勢に乗じ悉く諸侯を削小して郡県の制に改めんとす。是最秘密の議既に大凡決定せり。
出典:『開国起原』巻下(勝安芳著、1893年)
勝はその場では「口を開かず唯是をきくのみ」だったと記し、大坂で老中の板倉伊賀守に会ったときに、こう答えたと書いています。
先自から倒れ自ら削小して顧みず賢を選み能を挙げ誠心誠意天下に愧なき位置に立ち然後成すべき也
出典:『開国起原』巻下(勝安芳著、1893年)
二つの構想を並べると、次のようになります。どちらも勝の記録に拠ります。
| 項目 | 小栗の構想(勝の記録による) | 勝の答え(勝の記録による) |
|---|---|---|
| 外からの力 | フランスに托して金と軍艦を求める | ― |
| 薩長 | 到着しだい長州を討ち、薩摩もその時宜に応じて討つ | ― |
| 諸侯と幕府 | 諸侯を削って郡県の制に改める | 郡県は「万国交際起るに当て当然の議」。ただし徳川が諸侯を削って天下に号令するのは「大に不可」 |
| 順序 | 幕府が政権を持ったまま進める | 徳川が「先自から倒れ自ら削小して」から成すべき |
この表は、勝が1893年の『開国起原』に書いた回想と、1897〜1898年刊の『氷川清話』に収められた談話に拠ります。小栗の側の文書で裏づけたものではなく、勝が1866年の時点で政権返上を口にしたことも、同時代の文書では確かめていません。
『氷川清話』は同じ話を口語で語り、フランス公使の言葉として「小栗さん程の人物が、僅か六百万両位の金の破談で、腰を抜かすとは」を伝えます。そして「小栗は、僅か六百万両の為めに、徳川の天下を賭けうとしたのだ」と結びます。
参考:海舟先生氷川清話 正編24〜25頁(勝安芳述・吉本襄撰)|国立国会図書館デジタルコレクション
数字にも幅があります。事典が記す借款は600万ドルで、勝の談話の「六百万両」とは単位が違います。

別室で打ち明けられた、と海舟先生は書いています。小栗さん、あれはあなたの考えでしたか

諸侯の上に一つの政を立てる、郡県の考えは私の考えにございます。
されど、別室で安房殿に何を申したかは、安房殿の書き物にお任せいたしましょう。
一つだけ申せば、金と軍艦の手当てなしに国を一つにまとめる勘定は、どう組んでも合いませぬ。

おれは板倉さんに、徳川がまず自分から倒れて身を削れ、それからやれと言ったのさ。
上野介殿の読みは、いつも徳川から始まる。おれのは、その先を見たつもりだった。
もっとも、どっちの読みが正しかったかなんて、あとから言うのは楽なもんだぜ。
横須賀製鉄所を勝はどう見ていた?
勝は談話で、横須賀の造船所を「仏蘭西人のお世辞」と呼びました。一方で、勝が編んだ『海軍歴史』は、製鉄所の創設に3巻を充てています。
『海舟座談』で勝は、「横須賀の造船所は、仏蘭西人のお世辞さ。其金を借りて貰ふと云ふときのお世辞さ」と語っています。借款とひとつながりのものとして製鉄所を見る、という見方です。
参考:海舟座談(巌本善治編、1930年)|国立国会図書館デジタルコレクション
同じ方向の批判は、日記にもあります。1868年2月の日記で勝は、フランス公使と宣教師カションが「能く官吏之情態に熟せり」、だから「栗本安芸の徒尊信して其説に酔ふ」、そして「英吉利人是を知て窃に其党を悪む」と書いています。
参考:勝海舟先生戊辰日記(清明会編、1935年)|国立国会図書館デジタルコレクション
ただし、勝が横須賀製鉄所に反対した、とは言えません。確認できるのは、談話で「お世辞」と呼んだことと、日記でフランス派を批判したことまでです。
そのうえで、勝が1889年に編んだ『海軍歴史』は、巻20〜22の上・中・下で「横浜及横須賀製鉄所創設」を扱います。そのうち巻21・22の目次には、ロッシュへの諮詢や約定書が並んでいます。
目次で確かめた範囲ですが、批判と記録の保存が、どちらも勝の手元から出ていることになります。
横須賀製鉄所そのものについては、こちらにまとめています。

横須賀の造船所を『仏蘭西人のお世辞』と呼びましたね。その一方で、『海軍歴史』には3巻分の記録を残しておられます

お世辞はお世辞さ。金を借りてもらいてえ相手は、愛想よく造船所の一つも建ててくれるもんよ。
だがな、建てたもんは建てたもんだ。記録を残しておかなきゃ、後の連中が何も分からねえだろう。
悪口と記録は、別の仕事さ。
1868年1月、小栗の御役御免と勝の登用は何日?
小栗の御役御免は慶応4年1月15日(1868年2月8日)、勝の海軍奉行並は同月17日(2月10日)の夜です。間は2日しかありません。
鳥羽・伏見の戦いは1月3日(1月27日)に始まりました。慶喜は1月6日(1月30日)に大坂城を出て、12日(2月5日)に江戸城へ戻ります。そこからの日付です。
参考:徳川慶喜・昭武関係年表 一(1837-1869)|松戸市 戸定歴史館
参考:Ⅴ 徳川慶喜と戊辰戦争(徳川慶喜事典)|茨城県立歴史館
| 和暦(慶応4年) | 西暦(1868年) | 出来事 | 根拠 |
|---|---|---|---|
| 1月11日 | 2月4日 | 開陽丸が品川沖に着き、勝は「初て伏見之顛末を聞く」 | 勝の日記 |
| 1月15日 | 2月8日 | 小栗、御役御免(勤仕並寄合) | 東善寺の略歴(川路聖謨の書簡は免職の事実の証言) |
| 1月17日 夜 | 2月10日 | 勝、海軍奉行並 | 勝の日記 |
| 1月23日 夜中 | 2月16日 | 勝、陸軍総裁・若年寄 | 勝の日記 |
| 2月11日 | 3月5日 | 勝、慶喜から寛永寺で謹慎する意向を聞く | 勝の日記 |
| 2月25日 | 3月19日 | 勝、陸軍総裁を免じられ軍事取扱 | 勝の日記 |
小栗の免職については、同じ月に川路聖謨が書いた手紙「東洋金鴻」が残っています。
小栗上野介勤仕並、跡役は菊池伊予守の由。上野介御役御免は御前にて被仰付候由、不審也。
出典:『川路聖謨文書』(1934年)「東洋金鴻」慶応4年正月
後任は菊池伊予守、免職は「御前にて」申し渡された。川路はそれを「不審也」と書き留めました。同時代の証言です。ただし手紙に日付はなく、15日は東善寺の略歴に拠ります。14日とする記述も見かけますが、出典は示されていません。
勝の日記は、1月11日から「日々空議と激論と唯日を空敷くする而已、敢て定論を聞かず」と、議論ばかりが続いたことを伝えます。
1月17日の条には「夜俄に海軍奉行並被命」とあり、同じ日に「東府之諸士は軍を率ひて箱根笛吹に待たむといふ者あり」と、主戦の声も並びます。
参考:日記の世界 勝海舟:慶応4年1月11日|国立国会図書館
そのなかで勝は、主戦論を唱える者として小栗を名指ししました。2月朔日の条に続く回顧の部分です。
過激時之勢を察せずして漫に干戈を動かさむとす。其説を成す者は水野癡雲、小栗上野、糟屋筑後、大小監察、陸軍の士官等大言して算なく空議因循亦如何せむ哉
出典:『勝海舟先生戊辰日記』(清明会編、1935年)
同じ条には「時の権威あるは司農にて小栗上野介、小野友五郎、此党数人皆是等に雷同」ともあります。司農は勘定奉行のことで、免職前の小栗の立場をふり返った部分です。
ただし、勝が小栗の免職の場にいたかどうかは、この日記からは分かりません。日記の1〜2月に「小栗」の名は3か所あり、いずれもこの回顧の部分です。免職の場面そのものは書かれていません。
この1月の「主戦か恭順か」の流れを、小栗の側から通して読みたい方には、中公新書の評伝があります。目次に、この章と重なる節が並んでいます。
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この作品のポイント
- 第六章:「主戦か恭順か」「小栗、幕府から離れる」の節
- 第五章:横須賀製鉄所設立の背景と、フランスへの使節派遣
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川路聖謨さんは手紙に『不審也』と書き添えています。何が不審だったんでしょう

不審と申されても、御前で申し渡された。それだけのことにございます。
1月15日、勤仕並寄合。数えれば、伏見で戦が始まってから12日後でありました。
戦うべしと申し上げたことを、いま取り消すつもりはございませぬ。

その2日後の夜、海舟先生は海軍奉行並になります。日記には『俄に』とありますね

本当に俄にだったのさ。17日の夜に海軍、23日の夜中には陸軍総裁だ。陸軍なんざ望んじゃいねえから断ったが、許されなかった。
その前の日々は、空っぽの議論と激論ばかりでね。決まらねえ評定ほど、くたびれるもんはねえよ。
慶喜の袖をつかんだ話は本当?後世に伝わる話の出どころ
小栗が慶喜の袖をつかんで抗戦を迫ったという話は、今回確認した同時代の記録には見当たらず、1928年の本に伝聞として載ったのが、今回たどれる出どころです。
その本は蜷川新『維新前後の政争と小栗上野の死』です。蜷川は小栗の妻の妹の子、つまり義理の甥にあたります。蜷川はこの場面を「当時の信用ある旧幕の人々より聞けるに(斯かる記述も世上にある)」と断ってから書いています。
小栗は進み出で、慶喜の袖を捉へ『我等に反逆の名を附せらるる理なし、非は総て彼等に在り』『何故に速かに正義の一戦を決し給はざるや』…
徳川慶喜は、之れを聴き、驚いて其の袖を全力を籠めて振り払はれ、奥を差して逃げ去られ、大会議は之れにて終つたとの事である。
出典:蜷川新『維新前後の政争と小栗上野の死』(1928年)
蜷川自身は「誤りなき事実也と信ずる」と添えていますが、先行する記述が何かは示していません。日付も書いていません。
蜷川の本に由来する話をまとめて、最初に見える本と確度を並べます。
| 話 | 最初に見える本(今回たどれた範囲) | 確度 |
|---|---|---|
| 小栗が慶喜の袖をつかんだ | 蜷川新(1928年)。伝聞と明記 | 低い。今回確認した同時代の史料にはない |
| 慶喜が「汝が職今之を免ず」と言った | 牧野謙次郎『維新伝疑史話』(1938年)、服部之総『絶対主義論』(1948年) | 低い。蜷川の本にもない |
| 「勝は有害な人間である」 | 蜷川新(1928年)。発言者は旗本の「大久保某」 | 小栗の言葉ではない。蜷川の又聞き |
| 箱根で誘い込み、駿河湾を軍艦で衝く作戦 | 蜷川新(1928年)。蜷川は『土方伯』(1913年刊、1914年再版)398〜402頁を典拠に挙げる(本記事は未確認)。勝の日記にも同種の案が並ぶ | 幕臣のあいだで語られた案の一つ |
三つ目は、小栗の言葉として広まっています。蜷川の原文では、「勝は有害な人間である、我は彼を除かんと欲す」は大久保某という旗本が小栗に向かって言った言葉です。小栗は何も言わず、その人の刀を抜いて「貴殿の刀は好く切れさうだ」と言ったとされます。
参考:維新前後の政争と小栗上野の死(蜷川新、1928年)|国立国会図書館デジタルコレクション
これは蜷川が「余の親しめる人」から後年聞いた話で、小栗の発言にはなりません。
四つ目の作戦には、よく似た案が勝の日記にも記されています。2月11日(3月5日)の条には、「箱根之険に因て官兵を禦止し」「軍艦に乗して摂海に航せむ」という諸官の案が並び、勝自身も、軍艦で駿河の海浜へ出て敵を横から攻める案を書いています。
ただし、それぞれの案を誰が言い出したのか、互いに影響し合ったのかまでは、この日記からは分かりません。
参考:勝海舟先生戊辰日記(清明会編、1935年)|国立国会図書館デジタルコレクション
勝はそのうえで、それをしても天下は瓦解に至る、という筋道で恭順を選んだと記します。
免職は1月15日。袖の話は後世の伝聞。この二つは、日付でつなぎません。
鳥羽・伏見の戦いの経過と、幕府側の兵力の数字については、こちらで整理しています。

箱根で迎え撃つ、軍艦で駿河湾を衝く。この案は小栗さんの独創として語られますが、海舟先生の日記にも、よく似た案が書いてあります

箱根で止める、軍艦で摂海へ回る、長州と薩摩を討つ。あのころは、誰もかれもが似たような絵を描いてたのさ。
おれだって、軍艦を連れて駿河の浜から横っ腹を突く案を書いたよ。
ただ、それをやっても天下はばらばらになる。だから引っ込めたのさ。
小栗の最期を勝はどう語った?
小栗は慶応4年閏4月6日(1868年5月27日)、上州の水沼河原で斬首されました。勝がそのころ小栗について書いたものは、今回確認した『勝海舟先生戊辰日記』(1935年刊)には見当たりません。
小栗は3月1日(3月24日)に知行地の権田村へ移り、閏4月5日に捕らえられ、翌6日に斬首されました。処刑の日を閏4月5日とする史料もあります。養子の又一も、翌日に斬首されています。
同じ時期の勝は、3月13・14日(4月5・6日)に西郷と会談し、4月11日(5月3日)に江戸城が開かれました。閏4月の日記には、新政府側とのやり取りが続きます。
- ある|閏4月2日に田安殿・大久保一翁とともに大総督から登城を命じられた記事。5日の建言。13日・19日・27日・28日の建言と参謀あての書簡
- ある|閏4月に入る直前の条の「上州辺小ぜり合…旗本浮説紛々」という記事
- ない|小栗の捕縛と斬首への言及(全文テキスト検索で「小栗」3件・「上州」1件。OCRの読み落としの可能性は残る)
参考:勝海舟先生戊辰日記(清明会編、1935年)|国立国会図書館デジタルコレクション
勝が小栗の死を語ったのは、明治になってからの談話です。
1897〜1898年に刊行された談話集『氷川清話』で勝は、小栗をかねて憎んでいた土地の博徒や、小栗の財産を奪おうと考えた者たちが官軍へ訴えたために、小栗は「無惨の最後」を遂げたと語り、こう続けます。
然しあの男は、案外清貧であつたといふことだヨ
出典:『海舟先生氷川清話』正編25頁(勝安芳述・吉本襄撰)
これは勝の見方です。追捕令に記された嫌疑は、陣屋を厳重に構え、砲台を築いたという内容です。
この公式の嫌疑と、勝が語る告発の背景は、分けて読む必要があります。追捕令の文言だけでは、勝の説明が正しいかどうかは判断できません。「案外清貧であつた」も「といふことだヨ」と伝聞の形です。博徒の訴えは、勝の見方として引くにとどめます。
追捕令の文言と藩側の記録は、こちらで突き合わせました。

小栗さんは閏4月6日、上州の水沼河原で斬首されました。海舟先生の日記には、そのことが出てきません

日記にねえと言われてもな、今さら言い訳はしねえよ。
あとで、土地の博徒どもが官軍に訴えたせいだと聞いた。案外清貧だったとも聞いたな。
金を持ってると踏んで訴えた連中がいたんなら、筋の通らねえ話じゃねえか。
勝は小栗をどう評した?「幕末の一人物だヨ」
談話集『氷川清話』(1897〜1898年刊)で、勝は小栗を「幕末の一人物」と呼び、長所を四つ並べたあとに「度量の狭かつた」と一つ落としています。
小栗上野介は、幕末の一人物だヨ。あの人は、精力が人にすぐれて、心計に富み、世界の大勢にも略ぼ通じて、而かも誠忠無二の徳川武士で、先祖の小栗又一によく似て居たよ。
一口にいふと、あれは、三河武士の長所と短所とを両方具へて居つたのヨ。然し度量の狭かつたのは、あの人のためには惜しかつた
出典:『海舟先生氷川清話』正編23〜24頁(勝安芳述・吉本襄撰)
明治期の刊本は「心計に富み」ですが、1929年の『海舟全集』は「計略に富み」と語を変えています。上の引用は、『海舟先生氷川清話』正編23〜24頁の表記です。
参考:海舟全集 第10巻(1929年)|国立国会図書館デジタルコレクション
- 長所|精力が人にすぐれる。心計に富む。世界の大勢に通じる。誠忠無二の徳川武士
- 型|「三河武士の長所と短所とを両方具へて居つた」。先祖の小栗又一に似る
- 短所|「度量の狭かつた」。それを「あの人のためには惜しかつた」と結ぶ
褒め言葉を四つ重ねて、最後に短所を一つ置く。この談話の組み立てが、「ライバルでかつ理解者」という番組の見立てと矛盾しない理由だと私は思います。
この評は、のちに1929年の『海舟全集』にも収められました。小栗の死後、明治期に刊行された談話集の言葉で、本人に届くことはなかったのです。

先祖の又一によく似ていた、と海舟先生は言っています。小栗さん、うれしいですか

先祖の又一に似ていると言われるなら、悪い気はいたしませぬ。
長所を四つ、短所を一つ。勝殿にしては、ずいぶん甘い勘定でございますな。
度量が狭いとのお見立ては、勘定方には褒め言葉と受け取っておきましょう。
もし小栗の主戦論が通っていたら?
小栗の主戦論が通った場合に何が起きたかは、確かめようがありません。残っているのは、慶喜が抗戦を退けたときの言葉です。勝の日記にあります。
勝の日記の2月11日(3月5日)の条は、慶喜の言葉として「敢て暴動するなかれ、若聞かずして軽挙を為さむ者は我が臣にあらず」と伝えます。同じ条には、箱根で官軍を止める案、軍艦で摂海へ向かう案、長州・薩摩を討つ案が「大同小異」と並びます。
参考:勝海舟先生戊辰日記(清明会編、1935年)|国立国会図書館デジタルコレクション
慶喜はそのどれも採らず、「ひとへに天裁を仰ぎて」と述べたと、勝は書き残しました。小栗の免職から、およそ1か月後の記事です。
小栗が処刑されなかった場合の三つの筋は、こちらに書きました。

『敢て暴動するなかれ』。慶喜公のこの言葉を、海舟先生は日記に書き留めました

上様のあの一言で、おれの仕事は決まったようなもんさ。
上野介殿の策が通ってたらどうなったか?そいつは誰にも分からねえし、分かったような顔をする奴は信用しちゃいけねえ。
おれに言えるのは、あの日からおれは恭順の段取りをする側に回ったってことだけだぜ。
大河『逆賊の幕臣』では二人はどう描かれる?
2027年の大河ドラマ『逆賊の幕臣』では、小栗忠順を松坂桃李さん、勝海舟を大沢たかおさんが演じます。番組は二人を「ライバルでかつ理解者」と紹介しています。
配役の発表は、小栗が2025年3月3日、勝が2025年10月23日でした。勝の妻たみの役は瀧内公美さんで、2026年8月28日に発表されています。
- 作品紹介|勝海舟は小栗の「ライバルでかつ理解者」
- 勝の役紹介(NHK発表)|「『幕臣』とは名ばかりな無役の貧乏旗本出身」。咸臨丸艦長としての太平洋横断は「小栗たちが率いる幕府初の遣米使節団に随行してのこと」。「エリートの小栗とは圧倒的な身分の差があったが、開明派同士で時に手を組み」「やがてその道は大きく分かれていく」
- 制作統括・勝田夏子氏|小栗は2500石の知行地を持つ「持てる者」、勝は禄高41俵の「持たざる者」。「時に同志となり、時に対立しながらも互いを最もよく理解している関係」
- 松坂桃李さん|「小栗にとって、同志でありライバル的な存在でもある勝海舟」
参考:2027年大河ドラマ『逆賊の幕臣』 勝海舟役に大沢たかお!|ステラnet
参考:27年大河ドラマ『逆賊の幕臣』、勝海舟役は大沢たかお 大河出演は3回目、主演・松坂桃李のライバル役【コメントあり】|ORICON NEWS
これらは番組の見立てであって、史料の評価ではありません。ここまで見てきたとおり、今回確かめられた、二人の関係を直接語る記録は、勝の側に偏っています。「理解者」という言葉が小栗の側からも成り立つかどうかは、今回確認した史料では確かめられません。
制作統括は「司馬遼太郎も、二人を『明治の父』と並び称しています」とも述べています。その原典は、今回確認していません。
発表ずみの配役を相関図で整理した記事はこちらです。

2027年、お二人がドラマになります。松坂桃李さんと大沢たかおさんです。番組はお二人を『ライバルでかつ理解者』と呼びます

おれが芝居になるのかい。しかも上野介殿と抱き合わせとは、粋な趣向を考える連中がいたもんだ。
ライバルで理解者ねえ。理解してたかは知らねえが、あの人の頭の回り方だけは、おれも買ってたよ。
上野介殿、あんたはどうだい。

芝居の筋までは存じませぬ。されど、いま問われれば、勝殿は私と違う勘定を立てる方、と答えとうございます。
同じ数字を見て違う答えを出す相手がいなければ、帳面の誤りには気づけませぬ。
理解者という言葉を使うかどうかは、そちらの世で決めればよいことでございます。
よくある質問(FAQ)
小栗忠順と勝海舟は仲が悪かったのですか?
根拠は勝の側の談話と日記です。『海舟座談』で勝は、小栗が「初めは大相わしをひいきに仕た」が、借款の一件から「讎敵の様に扱つた」と語りました。小栗の側の文書は今回確認できていません。
小栗忠順と勝海舟の年齢差は?
勝が4歳上です。小栗は1827年7月16日、勝は1823年3月12日の生まれで、1860年の春にサンフランシスコにいたとき、小栗は32歳、勝は37歳でした(満年齢)。
勝海舟は幕府側と新政府側のどちら側ですか?
幕府の人間です。1868年1月に海軍奉行並と陸軍総裁、2月に軍事取扱となり、3月に西郷隆盛と会談して江戸城の開城にあたりました。抗戦を唱えた小栗と違い、恭順の側に立ちました。
二人は同じ船でアメリカへ行ったのですか?
別の船です。小栗は使節団の目付としてアメリカの軍艦ポーハタン号に、勝は随伴艦の咸臨丸に乗りました。1860年3月末から4月初めにサンフランシスコに両方の船がいて、市主催の歓迎会では同じ壇上に着いています。
勝海舟は小栗の死をどう語りましたか?
談話集『氷川清話』(1897〜1898年刊)で、小栗を憎んでいた土地の博徒や財産を奪おうとする者が官軍に訴えたためだと語り、「案外清貧であつたといふことだヨ」と添えました。勝の見方であり、追捕令に記された嫌疑とは分けて読む必要があります。
大河『逆賊の幕臣』で二人を演じるのは誰ですか?
小栗忠順を松坂桃李さん、勝海舟を大沢たかおさんが演じます。勝の妻たみの役は瀧内公美さんです。
インタビュー後記 勝の側に偏った記録で関係を語れるのか
書きながら、ずっと考えていました。残った側の言葉が、関係のすべてになってしまう。
勝は75歳まで生きて、日記も談話も残しました。小栗は40歳で斬首され、勝について書いた小栗の文書は今回見つかっていません。だから「仲が悪かった」は、正確には「勝は後年、そう語った」なのだと思います。
私がこの記事で決めたのは、言葉より先に日付を並べることでした。小栗の免職が1月15日、勝の海軍奉行並が17日。
その2日のあいだに何があったのか、今回見た史料は語りません。語らないところを埋めずに残すのが、片方の声に偏った関係への、いまの私の向き合い方です。
それでも、1860年のサンフランシスコで、二人が同じ食卓に着いていたことは記録に残っています。
会話の記録はなくても、そこに二人がいた。その事実のほうが、私には「ライバル」という言葉より重く感じられます。勝の談話より先に、この食卓の記録を置いておきたいと思います。
二人それぞれの生涯と、大河で勝海舟がどう描かれてきたかは、次の3本に分けています。
参考資料
- 国立国会図書館デジタルコレクション 清明会編『勝海舟先生戊辰日記』(1935年)※1868年1月11日・17日・23日・2月25日の役職の日付(コマ8〜13)、主戦論を唱える者として小栗を名指しした条の根拠
- 国立国会図書館デジタルコレクション 同『勝海舟先生戊辰日記』2月11日の条※諸官の上言(箱根・摂海・駿河の海浜の案)と慶喜の「敢て暴動するなかれ」の根拠
- 国立国会図書館デジタルコレクション 同『勝海舟先生戊辰日記』閏4月の条※閏4月2日・5日以降の登城命令と建言の根拠。小栗の捕縛・斬首への言及が見当たらないことの確認範囲
- 国立国会図書館「日記の世界 勝海舟:慶応4年1月11日」※1月11日=1868年2月4日の換算と「初て伏見之顛末を聞く」の原文の根拠
- 国立国会図書館デジタルコレクション 勝安芳『開国起原』巻下(1893年)※1866年5月の「秘密の議」と、板倉伊賀守への「先自から倒れ自ら削小して」の根拠
- CiNii Books 勝安芳述・吉本襄編『海舟先生氷川清話』(正・続・続々、鉄華書院、1897年11月〜1898年11月刊)※正・続・続々の刊行期間の根拠
- 国立国会図書館デジタルコレクション 勝安芳述・吉本襄撰『海舟先生氷川清話』正編※23〜24頁(コマ14〜15)が「幕末の一人物」「心計に富み」の小栗評、24〜25頁(コマ15)が「六百万両」の借款の顛末と小栗の最期についての勝の見方の根拠。国立国会図書館の書誌は明治30〜31年とし、本記事では奥付で版を確認できていない
- 国立国会図書館 リサーチ・ナビ「小栗上野介関係文書(MF:個人蔵)」※小栗家の知行2,500石の根拠
- 国立国会図書館デジタルコレクション『海舟全集』第10巻(1929年)※同じ小栗評が「計略に富み」と語を変えていることの根拠
- 国立国会図書館デジタルコレクション 巌本善治編『海舟座談』(岩波書店、1930年)※「初めは大相わしをひいきに仕た」「讎敵の様に扱つた」「横須賀の造船所は、仏蘭西人のお世辞さ」「防いで仕舞つた」、栗本鋤雲「其後来たこともない」の根拠
- 国立国会図書館デジタルコレクション 勝海舟編『海軍歴史』(1889年)※巻20〜22が「横浜及横須賀製鉄所創設」の上・中・下にあたること(巻21巻頭の題「創設之中」)と、巻21・22の目次の確認範囲
- 国立国会図書館デジタルコレクション 文倉平次郎編『幕末軍艦咸臨丸』(巌松堂書店、1938年)※3月30日の咸臨丸訪問と木村の旅舎への一泊、市主催の歓迎会の入場順と馬車の順番(アルタ・カリフォルニア紙の訳出)、村垣範正の日記の宴席の記述、勝の「航海中殆ど病臥」の根拠。本記事は木村の紀行・村垣の日記の原典を確認していない
- 国立国会図書館デジタルコレクション 蜷川新『維新前後の政争と小栗上野の死』(1928年)※慶喜の袖をつかんだ逸話を「当時の信用ある旧幕の人々より聞けるに」と伝聞で紹介していることの根拠。著者は小栗の妻・道子の妹の子にあたり、身内の立場から書かれた本です。蜷川が箱根・駿河湾の作戦の典拠に『土方伯』を挙げることも同書による
- 国立国会図書館デジタルコレクション 同 蜷川新(1928年)138〜139頁※「勝は有害な人間である」の発言者が旗本の大久保某であることの根拠
- 国立国会図書館デジタルコレクション 牧野謙次郎『維新伝疑史話』(1938年)※「汝が職今之を免ず」の台詞がこの本以降に見えることの根拠
- 国立国会図書館デジタルコレクション 服部之総『絶対主義論』(1948年)※同
- 国立国会図書館デジタルコレクション 大塚武松・藤井甚太郎編『川路聖謨文書』(1934年)「東洋金鴻」慶応4年正月※小栗の御役御免が「御前にて」申し渡されたこと、後任が菊池伊予守であることの同時代証言の根拠
- 国立国会図書館「日記の世界 勝海舟(人物ページ)」※年譜「慶応4(1868).1 海軍奉行並、陸軍総裁」の根拠
- 国立国会図書館「近代日本人の肖像」勝海舟※生没年月日と明治政府での経歴の根拠
- 国立国会図書館「近代日本人の肖像」小栗忠順※生没年月日、「強硬な抗戦論を主張して罷免」の根拠
- コトバンク「勝海舟」(日本大百科全書ほか)※「石高41石余の貧乏旗本勝家」、1868年の役職、フランス派からの孤立の根拠
- コトバンク「小栗忠順」(日本大百科全書ほか)※免官、郡県制の構想、フランス借款が幕府の倒壊で大部分実現しなかったことの根拠
- コトバンク「万延元年遣米使節」(日本大百科全書ほか)※ポーハタン号の3月29日サンフランシスコ着・4月7日出帆、咸臨丸が往路のみ随伴したことの根拠
- 万延元年遣米使節子孫の会「万延元年遣米使節年表 主なる史実」※2月13日横浜出帆、3月29日着、4月2日市主催歓迎宴、4月7日出帆の根拠
- 松戸市 戸定歴史館「徳川慶喜・昭武関係年表 一(1837-1869)」※慶喜が1868年1月6日に大坂城を出たことの根拠
- 茨城県立歴史館「Ⅴ 徳川慶喜と戊辰戦争(徳川慶喜事典)」※慶喜が1月12日に江戸へ戻ったことの根拠
- 東善寺「小栗上野介忠順の略歴」※1868年1月15日の御役御免、権田村への移住、捕縛と斬首の日付の根拠
- ステラnet「2027年大河ドラマ『逆賊の幕臣』 勝海舟役に大沢たかお!」(2025年10月23日)※勝の役紹介、制作統括・勝田夏子氏の「2500石」「41俵」「互いを最もよく理解している関係」「司馬遼太郎も」のコメントの根拠
- ORICON NEWS「27年大河ドラマ『逆賊の幕臣』、勝海舟役は大沢たかお 大河出演は3回目、主演・松坂桃李のライバル役【コメントあり】」(2025年10月23日)※NHKの役紹介文の全文と松坂桃李さんのコメントの根拠












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