阿部正弘の死因を検索すると、解説記事に「肝臓がん」の文字が並びます。ところがコトバンクの事典を順に読んでも、病名は出てきません。死因に触れるのは旺文社の日本史事典の「中途で病死」くらいです。
では、肝臓がんはどこから来たのか。もう一つ気になったのが、複数の解説記事に見られる「急死」の二文字でした。
この記事の結論
阿部正弘の死因は、確定していません。安政4年6月17日(1857年8月6日)、老中在職のまま江戸で亡くなりました。満37歳(数え39歳)でした。
不参の届の病名は「疝積(せんしゃく)」で、胸や腹の急な痛みを指す昔の呼び名です。『阿部正弘事蹟』(1910年)は、どの医師も病名を断定できなかったと記します。今回読んだ当時の書状と報告に、肝臓がんという診断は出てきません。
森鷗外は史伝『伊沢蘭軒』で「癌であつたらしい」と見ました。酒色説と毒殺説は、鷗外が流言として退けています。公用人の報告には、死の4か月ほど前から衰えていく経過が残っていました。
- 満37歳
数え年では39歳(事典の「39歳」は数え) - 約4か月
安政4年3月ごろの血色の変化から死去まで(閏5月をはさむ) - 10日
6月17日の死去から、27日の発喪(公表)まで
この記事では、4つの説を一覧にしたうえで、それぞれの出どころを確かめます。発病から発喪までの経過、蘭方を受けなかった話、死後の福山藩と幕府、墓所、ドラマの描写まで順にたどります。
2027年の大河ドラマ『逆賊の幕臣』では、岩田剛典さんが阿部正弘を演じます。
参考:岩田剛典ら出演決定!2027年大河ドラマ『逆賊の幕臣』新出演者発表第5弾|THE FIRST TIMES
語り手として、阿部正弘AI(阿部正弘をモデルにしたAI)にも登場してもらいます。
※以下のインタビュー部分は、公開されている史料をもとに阿部正弘の人物像を再現した創作です。史料で確認できない心情や受け止め方を補った創作的な対話であり、実際の発言をそのまま掲載したものではありません。
出典の確かめ方と、公開前に行っているチェックは編集方針にまとめています。

はじめまして。あなたの死因を調べると、肝臓がん、過労、酒、毒と4つも出てきます。
ご本人としては、どれがいちばん心外ですか。

4つとは賑やかでござるな。まず、そなたの見立てを聞かせていただきたい。
私は評定でも、人の話を聞いてから申す癖がござった。
ただ、病の名だけは私の口からは申せませぬ。医者が名を決めかねたものを、患者が決めるわけにも参りますまい。
阿部正弘の死因は?4つの説を一覧で確認
語られてきた説は4つで、いずれも当時の診断として確定したものではありません。がん説は後世の推定、過労説は同時代の見方、酒色説と毒殺説は流言として伝わる話です。
| 説 | 内容 | 主な出どころ | 確かめられた範囲 |
|---|---|---|---|
| ① がん説 | 腹の病が進み、やせ衰えて亡くなった。解説記事では肝臓がんとされることが多い | 森鷗外『伊沢蘭軒』(1916〜17年連載)。肝臓がんは現代の解説記事 | 鷗外の推定は記録の読み取り。肝臓がんと診断した当時の記録は未確認 |
| ② 過労・心労説 | 外交の難局に向き合い続けた負担が体を壊した | 徳川斉昭の書状、公用人の報告、渡辺修二郎『阿部正弘事蹟』 | 同時代の人々の見方として残る。ただし病名ではない |
| ③ 酒色説 | 酒と女色におぼれて命を縮めた | 御城坊主の噂、のちの書物 | 斉昭は「人の悪口」と書き、渡辺と鷗外が否定 |
| ④ 暗殺・毒殺説 | 反対派に毒を盛られた | 鷗外に届いた「朽木三助」名義の手紙(井伏鱒二の偽名)、現代の解説記事 | 読んだ記録に裏づけはなく、鷗外が否定。手紙も当時からの伝承の裏づけにはならない |
①と②は両立します。がんと見る立場でも、心労を背景に挙げることはできるからです。
斉昭の書状も、福井の記録も、公用人の報告も、病名より先に「やせた」「顔色が悪い」という見た目の変化を書き留めています。確定できないのは、診断の記録が揃わないうえに、現代の病名を症状の記述に当てはめるしかないためです。

医者が決められなかった病名を、160年以上たってから決めようとしているわけです。無理な話でしょうか。

無理かどうかは、残された書き付け次第でござろう。
ただ、脈も取らずに名をつけるのは、顔も見ずに薬を出すようなもの。
書き付けに何とあるかを並べるところまでなら、私も喜んでお付き合いいたす。
阿部正弘の死因を史料から検証する
死の前後に書かれた手紙と記録は、渡辺修二郎『阿部正弘事蹟』の附録にまとまっています。徳川斉昭の書状、福井藩の中根靱負(雪江)の記録、阿部家の公用人の報告です。
- 届の病名は「疝積」:閏5月13日から、不参の病名は「時候相障疝積」に替わった
- 医師は断定できず:渡辺は、医師たちに病症を断定する見識がなかったと記す
- 症状の記録はある:やせ、顔色の悪さ、右の腹のこり、吐き気、下痢、動悸
- 現代の病名は推定:診察も検査もできず、記録の語句から読み取るしかない
「疝積」は、世界大百科事典が「癪(しゃく)」の別名に挙げる「疝癪」と同じ読みの語です。同事典は、痛みを伴う内科の病気を一括した俗称の一つと説明しています。
参考:癪|コトバンク
つまり、届の病名が分かっても、どの臓器の何という病気かは分かりません。
① がん説 鷗外は「癌であつたらしい」と見た
森鷗外は史伝『伊沢蘭軒』で、正弘の病を癌と推定しました。鷗外は陸軍の軍医でもありました。この史伝は1916年から翌年にかけて新聞に連載されたもので、死から約60年後の見立てです。
正弘の病は癌であつたらしい。
出典:森鷗外『伊沢蘭軒』(青空文庫)
鷗外が挙げた根拠は2つです。中根靱負の記録にある「痞」の字で始まる病名(次の字はやまいだれに「鬲」)と、発病から間もなく全身がやせて相貌が変わったという伝えでした。
ただし、この括弧書きの病名は、『阿部正弘事蹟』に載る文面にはありますが、1896年と1921年の『昨夢紀事』の刊本の同じ箇所には見当たりません。
参考:『阿部正弘事蹟』下 附録第三|国立国会図書館デジタルコレクション
参考:『昨夢紀事』第2|国立国会図書館デジタルコレクション
同時代の報告には、腹のしこりをうかがわせる記述もあります。公用人の渡辺総兵衛は、医師の伊沢磐安(柏軒)と森養竹の見込みとして、長年の心配が腹の中に積もり、右の方に「御コリ」ができたと書き送りました。
世界大百科事典は、江戸時代に癪・積聚(しゃくじゅ)と呼ばれた病気に、胃癌のような悪性腫瘍が含まれていたと思われると解説します。「疝積」の名は、がんを否定する材料にはなりません。
参考:癪|コトバンク
では、肝臓はどこから来たのでしょうか。渡辺は『阿部正弘事蹟』の本文で、次のような伝聞を添えています。
或ハ肝臓焮炎症ト診断シタリト云フ
出典:渡辺修二郎『阿部正弘事蹟』下 第三十四章
「肝臓癌」という病名がどの資料から出たのかは、たどれませんでした。解説記事の一部が挙げる黄疸と腹水も、今回読んだ書状と報告には出てきません。鷗外も「癌」と書くだけで、臓器までは挙げていません。

森鷗外という軍医で文学者が、あなたの没後60年ほどして『癌であつたらしい』と書きました。診察もせずに書かれて、どう思われますか。

脈も取らずに見立てるとは、大胆な御仁でござるな。
して、そなたはその見立てをどう読まれた。

書き残された症状には合うと思います。ただ、確定はできません。

それでよろしかろう。合うと言えるところまでを合うと申し、その先は申さぬ。
評定の結論も、そのくらいの慎みがあれば揉めずに済んだかもしれませぬな。
② 過労・心労説 同時代の手紙に並ぶのは「心配」の二文字
死の前後の手紙に繰り返し出てくるのは、病名より「心配」です。当時も、外交上の心配や政務の負担を、衰弱の原因と見る人がいました。
徳川斉昭は閏5月3日の書状で、衰えの原因を「畢竟はアメリカを初諸夷の儀」についての心配だろうと書きました。公用人の報告でも、医師の見込みは「数年の御心配」が腹に積もったというものです。
参考:『阿部正弘事蹟』下 附録第三|国立国会図書館デジタルコレクション
鷗外が聞き取った門人の松田道夫の話でも、伊沢柏軒の病因書の大要は「公の病は此鬱懐の致す所である」でした。ただし、これは約60年後の回想です。
渡辺修二郎も、老中になってから年中一日の休みもなく、外国船の来航後は寝食も安んじなかったことを、短命の原由と見ています。
ただ、心配や疲れは背景の説明で、病名ではありません。
正弘は安政2年(1855年)に首座を堀田正睦に譲っていますが、老中の職には死去までありました。
もっとも、4月の時点ではまだ元気に見えていました。4月20日には多摩川上流の羽村まで遠乗りし、鮎の塩焼きを12尾ほど食べたと、公用人の報告にあります。その同じ報告に、血色の青さを近習たちが案じていたとも書かれています。

鮎を12尾。過労の人の食べっぷりには思えませんが。

鮎に罪はござらぬ。羽村の鮎と聞けば、箸も進もうというもの。
それにしても、そなたは鮎の数を数え、家来は私の顔色を見ておったわけでござるか。
老中の食事まで書き残されるとは、油断のならぬ世でござるな。
③ 酒色説 水戸の斉昭も「人の悪口」と書いた噂
酒色で命を縮めたという話は、死の直前からあった噂で、斉昭自身が「人の悪口」と書き留めています。
斉昭の書状によれば、御城坊主のあいだでは15歳の新しい妾ができた、登城前から酒を2升ほど飲むと語られていました。斉昭はこれを受けて、次のように書いています。
全右等ハ人ノ悪口ト存候ヘ共衰ヘ候儀ハ無相違相聞エ申候
出典:徳川斉昭の書状(『阿部正弘事蹟』下 附録第三)
悪口は悪口、衰えは衰えと分けて書いています。この話はのちの書物にも残り、渡辺は『続愛国偉績』などの名を挙げて「甚シキ謬説」と反論しました。
渡辺によれば、晩酌はしても相手は侍臣で、女性が同席することはありませんでした。ただし渡辺は旧福山藩士で、主君の側に立って書いている点は読み手として差し引く必要があります。
参考:『阿部正弘事蹟』下 第三十四章|国立国会図書館デジタルコレクション
参考:嘉永六年露国使節プーチャチン長崎渡来阿部閣老との折衝|国立国会図書館デジタルコレクション
酒そのものを飲まなかったわけではありません。大久保忠寛は過飲を諫め、のちに短命の一因に飲酒があったのではないかと語っています。同じ渡辺の本が、この話も載せています。
鷗外も酒色の話は流言とし、「癌はエクスセスに因するものではない」と書きました。過度の飲酒とがんの関係は、今日の知識では別の議論になりますが、鷗外がここで退けたのは酒色におぼれたという噂のほうです。

登城前に酒を2升飲む、という噂があったそうです。

2升飲んで登城できたなら、かえって見事な話でござろう。御城坊主の口は早うござるな。
ただ、大久保に飲みすぎを諫められたと書き残されておるそうな。
これだけ忙しいのだから酒くらいは見逃してくれ、と返したとも。そこは言い訳のしようがござらぬ。
④ 暗殺・毒殺説 鷗外のもとに届いた手紙の伝説
暗殺を裏づける記述は、今回読んだ同時代の書状と報告にはありません。解説記事には譜代大名の恨みや攘夷派の毒殺を挙げるものがありますが、史料名は示されていません。
形のある話としては、手紙が1通、鷗外の『伊沢蘭軒』に全文で載っています。「朽木三助」という名義で届き、井伊直弼が侍医の伊沢良安に毒を盛らせたという伝説を伝えていました。
ただし、東京大学附属図書館の資料解説によると、朽木三助は、当時旧制中学に通っていた井伏鱒二の偽名でした。井伏はのちに本名で、実在しない朽木の死を知らせる手紙も送っています。
井伏は1931年の「森鴎外氏に詫びる件」で、この経緯を説明しました。
手紙の中で、書き手自身が次のように断っています。
右の伝説は真偽不明に候へ共、私の聞及候儘を記載候者に有之候。
出典:森鷗外『伊沢蘭軒』(青空文庫)
鷗外は、蘭軒も榛軒もすでに亡く、治療したのは柏軒で、父子三人とも彦根に住んだことはないと答えました。
参考:伊沢蘭軒|青空文庫
鷗外は、幕末の流言が地方に残ったものと解釈しました。ただし、差出人が偽名を用いていた経緯を踏まえると、この手紙だけで当時からの伝承を裏づけることはできません。
同じ種類の流言には、葬送の日に雷が落ちて西福寺が焼けたという話もありました。渡辺は、雷雨は事実でも寺の焼失は誤りだと正しています。
記録を読むと、数か月かけて衰えていく経過が見えます。一方で、毒物を調べた記録があるわけではなく、毒殺を完全に打ち消すこともできません。根拠として示された話は、流言の域を出ません。
死を10日伏せたことを根拠に挙げるなら、それも弱い材料です。あとで見るように、この間には養子の手続きが進んでいました。

毒を盛らせたのは井伊直弼、手を下したのは侍医。そういう手紙です。

ほう、そのような筋書きに仕立てられましたか。毒と申せば、人は耳を貸しますからな。
その書き手は、どこから聞いたと申しておる。

真偽不明の伝説だと、書き手自身が断っています。

ならば、それ以上は申しますまい。
気の毒なのは、名を挙げられた伊沢の家でござる。そこだけは、そなたの筆で晴らしてやってくだされ。
阿部正弘の最期 発病から発喪までの経緯
解説記事で「急死」と表現されることのある最期ですが、公用人の報告では血色の変化から約4か月の経過があります。ただし、6月16日の朝からの悪化は急でした。
次の表は、『阿部正弘事蹟』の附録に載る書状と報告、『昨夢紀事』をもとに並べたものです。安政4年には閏5月があるため、5月のあとにもう一度5月が来ます。
| 年月日(安政4年) | 出来事 | 記録の言葉・補足 |
|---|---|---|
| 3月ごろ | 血色がよくない様子が見える | 公用人は「折々御血色不宜」と記す。元気はよかった |
| 4月20日 | 羽村へ遠乗り | 馬に乗っても赤くならず、青く見えたと近習が案じる |
| 5月8日 | 風邪で不参。18日に出勤 | 帰邸するとすぐ床の上で用向きを聞くようになる |
| 閏5月1日 | 松平慶永が城中で顔を見る | 「昔日の容貌に非ず」。この夏の暑さに堪えられないのではと嘆く |
| 閏5月3日 | 慶永と対面。斉昭が書状を書く | 慶永との最後の対面。斉昭の書状は、慶篤から聞いた話として「絵にかける幽霊の如く」と記す |
| 閏5月8〜9日 | 吐き気、腹痛、下痢 | 9日から不参 |
| 閏5月13日 | 「疝積」の名目で不参を続ける | 数日後、将軍から療養に専念するよう内意が伝えられる |
| 閏5月24日 | 福井藩の医師半井仲庵が診察 | 重症と判断。慶永が蘭方を勧めるが受けず |
| 6月7日 | 岡良允に薬を替える | 公用人の報告による。斉昭の薬法も3〜4服用いる |
| 6月10日 | 夜に茄子と刺身を食べて吐く | 11日から14日は小康 |
| 6月16日 | 朝に廊下で倒れる | 動悸、発熱、手足の冷え、しゃっくり。脈も絶えそうになる |
| 6月17日 | 青木春岱が診察。昼すぎに死去 | 薬は飲まずに終わる(公用人の報告)。午後1時ごろまでに呼吸が切迫 |
死亡時刻は記録によって書き方が違います。『昨夢紀事』は「午過る比」、渡辺の本文は「午時半」、鷗外は「午下刻」です。いずれも昼を少し過ぎたころを指しており、大きな食い違いではありません。
慶永の「昔日の容貌に非ず」は、4月のころの正弘を知る人にとって衝撃だったのでしょう。
渡辺が引く家臣の記によれば、もとの正弘は「中脊ニシテ肥満」の体つきでした。面会のあとの席に汗の跡が残ったという話も、渡辺の本に載っています。

茄子と刺身で吐いた晩のことまで、国元に報告されています。お嫌ではないですか。

茄子まで書くとは律儀な男でござるな。国元の者が案じておれば、書かずにはおれなんだのであろう。
老中の体は、もはや私一人のものではない、ということでもありましょうか。
ただ、最後の一行は書かずともよかったのでござるが。
阿部正弘が蘭方を受けなかった理由
松平慶永らが蘭方の薬を勧めても、正弘は最後まで受けませんでした。この話は同時代の『昨夢紀事』に残っています。ただし、理由は「後に聞けば」と添えた伝聞です。
- 半井仲庵の診察:閏5月24日に診て、ひどく重いと報告した
- 慶永の働きかけ:阿部家の用人藤田与一兵衛や老中の久世広周らを通して蘭方を勧めた
- 正弘の返答:「とやかくと云ひのがれ給ひて」、受けなかった
- 後に聞いた理由:自分が用いれば天下が蘭方に傾き、弊害が出ると案じた
中根靱負は、正弘が蘭方の長所は分かったうえで、次のように言ったと伝えています。
余はよしあしにはよらず、天下のために蘭家の薬は服し難しとのたまひけるとなん。
出典:森鷗外『伊沢蘭軒』が引く中根靱負の記(青空文庫)
背景には、嘉永2年(1849年)の布令で幕府の医師の内科に蘭方を禁じたことがあります。渡辺は『昨夢紀事』の要約として、現に法令があるから用いがたいと拒んだと書きます。
鷗外は、蘭方でも治せなかったらしいと見ています。蘭方を受けていれば助かったかどうかは、記録からは分かりません。
治療にあたった医師についても、資料に差があります。鷗外が聞き取った門人の話では、柏軒が一人で治療しました。一方、公用人の報告には岡良允への転薬と青木春岱の診察が出てきます。
6月17日に薬を青木春岱へ替えた話は、『昨夢紀事』にもあります。同時代の記録を軸にすれば、最後の段階で治療した医師は柏軒一人ではありません。約60年後の門人の回想は、当時の熱量を伝える話として読むのがよいでしょう。
斉昭からの見舞いも記録に残ります。マンボウがよいと聞いて領内の漁師に捕らせて贈り、牛乳も勧めました。

新しい学問を次々に取り入れた方が、ご自分の薬では蘭方を受けませんでした。矛盾には見えませんか。

そなたはどう見る。矛盾と言い切るなら、それも一つの見立てでござる。
老中が飛びつけば、医者の世が一息に傾く。そう案じた者の言い分も、分からぬではござらぬ。
もっとも、水戸のご老公のマンボウには、どの流派の医者も困ったのではござらぬか。
阿部正弘の遺言はある?死を伏せた10日間
斉昭の書状にも公用人の報告にも、遺言の文面は出てきません。死の直前に親族と対面した記述はありますが、「相応の挨拶」とあるだけで、言葉は記されていません。残っているのは、死を伏せたまま進んだ手続きです。
- 6月17日:昼前に兄の正寧、甥の賢之助らと対面。その後に死去
- 6月18日:水戸藩の安島弥次郎は書状で、まだ「御容体」として扱う
- 6月18日夜:沐浴を済ませ、直垂に烏帽子の姿で家臣が目見えする
- 6月21日:将軍の上使が鮮鯛などを届ける。公用人は「右様の御例」はないと記す
- 発喪の前:正弘の名で賢之助を養子とする願いが出され、許される
- 6月27日夜:発喪
公用人の報告は、「御急養子」の手続きにならずに済み、都合がよかったと書いています。男子4人がいずれも早世していたため、正弘には跡継ぎがいませんでした。
参考:『阿部正弘事蹟』下 附録第三|国立国会図書館デジタルコレクション
没日の異説も、ここにつながります。日本人名大辞典は「安政4年6月17日(「続徳川実紀」では27日)死去」と記します。27日は発喪の日と同じ日付です。
『続徳川実紀』の本文は確認していないため、なぜ27日となっているかまでは言い切れません。公用人の報告と『昨夢紀事』に従えば、亡くなったのは17日です。
参考:阿部正弘|コトバンク
公用人の報告には、書類の始末も出てきます。寝間の用箱や状箱は堀田正睦へ差し出し、箪笥の中は生前に焼却を命じてありました。残りの秘物も、のちに散逸しないよう焼く予定だとあります。
死後のことを見通していたのかどうかは、記録からは分かりません。それでも「誠に奇麗に片付居」という公用人の一言は、最期の日々の一面を伝えています。

亡くなったあとに届いた鯛は、お家の人も受け取るしかなかったのでしょうね。

亡き者が鯛を賜るとは、上様に申し訳のないことでござる。
それは私の見届けられぬ話。ただ、家を残すために家中が走り回ったのであれば、責める気にはなれませぬ。
鯛は無駄にせず、皆で分けてくれておればよいのでござるが。
正弘の生涯全体を物語で追うなら、祖父江一郎の長編歴史小説があります。
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この作品のポイント
- 作品紹介によると、ペリー来航の難局に向き合った正弘を描く長編歴史小説です
- 最期や病気をどう描いているかは、作品紹介からは分かりません
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阿部正弘の死後、福山藩と幕府はどうなったのか
福山藩は甥の阿部正教が継ぎ、幕政では堀田正睦が中心となりました。死の3か月ほどあとには、阿部家の転封の風説まで流れています。
| 項目 | 内容 | 出どころ |
|---|---|---|
| 福山藩 | 賢之助(正教)が8月13日に家督を継ぐ | 鷗外『伊沢蘭軒』、『阿部正弘事蹟』 |
| 幕閣 | すでに首座だった堀田正睦が権を握る | 『昨夢紀事』 |
| 老中の人事 | 正弘と合わなかった松平忠固が9月13日に再任 | 『阿部正弘事蹟』の注と斉昭の密書 |
| 転封の風説 | 阿部家を淀へ移すという話が斉昭に届く | 斉昭の9月19日の密書。渡辺は実否を詳らかにしないと記す |
| 世間の評 | 生前は批判した人々も惜しむようになったという風聞 | 公用人の報告 |
松平慶永は、病状を知って「彼人の命は天下の命」と述べたと『昨夢紀事』にあります。この記事で扱った手紙の多くが、正弘の体を案じると同時に政局を案じていました。
その後、1858年に井伊直弼が大老となり、安政の大獄へ進みます。日本大百科全書は、安政の大獄の説明のなかで、安政4年6月の阿部の死去に触れています。
ただし、正弘が生きていれば大獄は起きなかったとまでは、記録からは言えません。後世の評価としては、勝海舟の「開国首唱の功も亦此人に帰せざるを得ず」が鷗外に引かれています。
安政の大獄と井伊直弼の話は、こちらの記事でたどっています。

あなたの死の翌年に井伊直弼が大老になり、安政の大獄が起きます。生きていれば防げた、という声もあります。

その先は、私の見ておらぬ話でござる。
もしも、で人を持ち上げるのは、いちばん信用ならぬ物言いと心得ており申す。
阿部正弘の墓所はどこにある?
墓は東京都台東区の谷中霊園にあると、福山誠之館同窓会の資料が記しています。ただし、最初に葬られたのは谷中ではなく、浅草新堀端の西福寺でした。
- 葬送:安政4年7月3日、龍の口の官邸を出て西福寺へ。行列は在世の格式どおり
- 法名:良徳院高誉信義節道大居士(福山誠之館同窓会の資料)
- 葬られた寺:浅草新堀端の西福寺(『阿部正弘事蹟』、鷗外『伊沢蘭軒』)
- いまの墓所:東京都台東区の谷中霊園内、福山藩阿部家の墓所
西福寺から谷中へ移した時期は、読んだ資料には出てきませんでした。養子の正教について、西福寺から谷中墓地へ改葬したという紹介はありますが、正弘本人の記述ではありません。
一般向けの紹介記事は、渋沢栄一の墓の左側にある石塀の門を入った阿部家墓所の奥としています。お参りの際は、霊園の管理所で確かめると確実でしょう。
ドラマで描かれる阿部正弘の最期
検索語に「大奥」が並ぶのは、NHKのドラマ10『大奥』Season2(2023年)で阿部正弘が描かれたためと考えられます。男女逆転の物語なので、正弘も女性で、瀧内公美さんが演じました。
- 『大奥』Season2:瀧内公美さんが演じ、第18回の紹介に「腹心の正弘の死」とある
- 病名の扱い:紹介記事と出演者インタビューに病名はない
- 『逆賊の幕臣』:岩田剛典さんが演じる。どんな最期になるかは放送を待つ話
瀧内さんはインタビューで、若くして亡くなる人物として役を捉え、第17回では体が限界にある正弘を演じたと語っています。ドラマの描写は創作であり、史実の死因の根拠にはなりません。
参考:『大奥』阿部正弘役の瀧内公美、家定が馬に乗る姿を見て「涙が止まらなくなった」|マイナビニュース
参考:男女逆転『大奥』Season2 第18回|クランクイン!(エキサイトニュース)
一方で、体調の悪化を隠して働き続ける姿は、公用人の報告に重なります。報告は、見舞いをひどく嫌がり、容体がよいと言うと喜んだと記しているからです。
配役の全体は、相関図の記事で一覧にしました。

あるドラマで、あなたは女性の老中として描かれました。

女子の老中とな。それは初耳でござる。
人の話を聞いておったなら、男でも女でも文句はござらぬ。
阿部正弘は何をした人だったのか 生涯のふり返り
阿部正弘は、ペリー来航に老中首座として向き合い、1854年に日米和親条約を結んだ備後福山藩主です。大名や幕臣に広く意見を求め、人材を登用したことでも知られます。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 名前 | 阿部正弘(官途名は伊勢守) |
| 生没年 | 1819年〜1857年(満37歳没・数え39歳) |
| 出身 | 江戸 |
| 主な役職 | 備後福山藩主、老中、老中首座 |
| 主な功績 | ペリー来航への対応、日米和親条約、講武所や海軍伝習の創設、藩校誠之館 |
天保7年12月(1837年1月)に福山藩主となり、1843年に老中、1845年に老中首座に就きました。ペリー来航の前後に諸大名の意見を聞いたやり方は、徳川斉昭、松平慶永、島津斉彬らとの連携につながります。
ただ、その手法は譜代大名との対立も招きました。世界大百科事典は、1855年に首座を堀田正睦に譲った背景として、譜代との対立に触れています。
参考:阿部正弘|コトバンク
黒船来航から幕府の終わりまでの流れは、学習まんがの通史でも追えます。
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学習まんが|BOOK☆WALKER
この本の読みどころ
- 作品紹介によると、第11巻は「江戸時代後期」を扱い、【電子特別版】はまんがのみを収録した版です
- 目次は第4章「江戸幕府の終わり」まで続きます。阿部正弘がどう描かれるかは、作品紹介からは分かりません
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よくある質問(FAQ)
阿部正弘の死因は何ですか?
確定していません。不参の届の病名は「疝積(胸や腹の急な痛みを指す昔の呼び名)」で、医師も病症を断定できなかったとされます。森鷗外は癌と推定しました。
阿部正弘の死因は肝臓がんですか?
今回読んだ資料には、そう診断した記録はありません。渡辺修二郎は「肝臓焮炎症」と診たという伝聞を記し、鷗外は「癌」と推定しましたが、臓器までは挙げていません。
阿部正弘は何歳で亡くなりましたか?
満37歳(数え39歳)です。文政2年10月16日(1819年12月3日)に生まれ、安政4年6月17日(1857年8月6日)に亡くなりました。事典の「39歳」は数え年です。
阿部正弘はどこで亡くなりましたか?
江戸の辰の口の邸です。『昨夢紀事』では慶永の使いが辰の口の邸へ様子を聞きに行き、『阿部正弘事蹟』では葬送が龍の口の官邸から出ています。
阿部正弘は暗殺されたのですか?
今回読んだ書状と報告に、裏づけはありません。井伊直弼が毒を盛らせたという手紙は書き手も真偽不明と断り、鷗外も流言として退けました。この「朽木三助」は、のちに井伏鱒二の偽名と分かっています。
阿部正弘は老中首座のまま亡くなったのですか?
老中のまま亡くなりましたが、首座は安政2年(1855年)に堀田正睦へ譲っていました。
『続徳川実紀』の没日が27日なのはなぜですか?
27日は発喪の日と同じ日付です。ただし『続徳川実紀』の本文は確認しておらず、理由は言い切れません。公用人の報告と『昨夢紀事』では、亡くなったのは6月17日です。
阿部正弘の墓はどこにありますか?
東京都台東区の谷中霊園です。最初は浅草新堀端の西福寺に葬られました。谷中へ移った時期は、今回の資料では確かめられませんでした。
インタビュー後記 阿部正弘の最期から見えてくるもの
阿部正弘の最期は、解説記事で「急死」と表現されることがあります。公用人の報告を読むと、私にはこの言葉が江戸城の外から見た日付の話に思えてきました。
家臣のそばでは、3月から顔色を案じる声があり、4月の鮎も5月の風邪も、そのあとの出来事として書き留められていました。
本人は見舞いを嫌がり、周りは口に出せず、医師が落ち着いているのでそれほどでもないのかと思っていた。そんな空気が文面から伝わります。
肝臓がんかどうかは、結局のところ確かめられません。
それよりも、「この人に倒れられては困る」という言葉が、水戸の書状にも福井の記録にも残っていることのほうが、この人の立場を語っているのではないでしょうか。
正弘の死の翌年に大老となった井伊直弼の時代は、もう一つの幕末の入口でした。話は安政の大獄の記事に続きます。
参考資料
- 国立国会図書館デジタルコレクション 渡辺修二郎『阿部正弘事蹟 : 日本開国起原史』下(1910年)第三十四章 ※病状、「肝臓焮炎症」の伝聞、蘭方の拒否、葬送、雷火の謬説、酒色説への反論、大久保忠寛の過飲の諫言の根拠
- 国立国会図書館デジタルコレクション 同書 下 附録第三(己)阿部正弘病歿ニ関スル件 ※徳川斉昭の閏5月3日の書状、中根靱負の記、渡辺総兵衛の7月26日の報告の根拠
- 国立国会図書館デジタルコレクション 中根雪江『昨夢紀事』第2(日本史籍協会、1921年)※閏5月24日の半井仲庵の診察、蘭方の勧め、6月16日の容体の急変、6月17日の死去の根拠
- 国立国会図書館デジタルコレクション 中根雪江『昨夢紀事』上(八尾書店、1896年)※同じ箇所の刊本の照合に使用
- 国立国会図書館デジタルコレクション 大熊浅次郎『嘉永六年露国使節プーチャチン長崎渡来阿部閣老との折衝,福岡藩の警備,礼物贈進の遺聞』(1941年)※渡辺修二郎が旧福山藩士であることの根拠
- 青空文庫 森鷗外『伊沢蘭軒』※「癌であつたらしい」の推定、柏軒の治療に関する門人の談、酒色の流言、朽木三助の手紙、喪を27日に発したこと、斉昭の書状の文面の根拠
- 青空文庫 図書カード「伊沢蘭軒」※初出が1916年6月から1917年9月の新聞連載であることの根拠
- 東京大学附属図書館「鴎外の書斎から:資料解説2」※朽木三助が井伏鱒二の偽名であること、本名の2通目、1931年の「森鴎外氏に詫びる件」の根拠
- 福山誠之館同窓会 鐘尾光世「阿部正弘」※老中首座の在任期間、藩医に看取られたこと、諡、谷中墓地の墓の根拠
- コトバンク「阿部正弘」※日本人名大辞典の「続徳川実紀」では27日、旺文社 日本史事典の「中途で病死」、世界大百科事典の堀田への首座の移譲の根拠
- まなれきドットコム「阿部正弘とは?業績・安政の改革・死因をわかりやすく解説」※解説記事が黄疸・腹水、攘夷派の毒殺を挙げていることの確認元
- レキシル「阿部正弘の生涯と謎の最期!評価が低いのはペリー来航で失敗したから」※解説記事が肝臓がんと暗殺を挙げていることの確認元
- コトバンク「癪」※世界大百科事典の疝癪の説明と、癪・積聚に胃癌のような悪性腫瘍が含まれていたとする解説の根拠
- コトバンク「森鴎外」※鷗外が軍医であることの根拠
- コトバンク「安政の大獄」※日本大百科全書の阿部の死去への言及の根拠
- マイナビニュース「『大奥』阿部正弘役の瀧内公美、家定が馬に乗る姿を見て「涙が止まらなくなった」」(2023年11月14日)※第17回の役作りと、若くして亡くなる人物と捉えていた話の根拠
- クランクイン!(エキサイトニュース)「男女逆転『大奥』Season2 第18回」(2023年11月21日)※第18回の紹介の「腹心の正弘の死」の根拠
- THE FIRST TIMES「岩田剛典ら出演決定!2027年大河ドラマ『逆賊の幕臣』新出演者発表第5弾」※岩田剛典さんの配役の根拠
- KADOKAWA「日本の歴史 11 黒船と開国 江戸時代後期【電子特別版】」※枠で紹介した巻の作品紹介と目次の根拠
- BOOK☆WALKER「阿部正弘 日本を救った幕末の大政治家」※枠で紹介した小説の作品紹介の根拠
- はじめての三国志「阿部正弘の墓はどこにある?イケメン老中の眠る谷中墓地を紹介」※谷中霊園の墓の位置の紹介の根拠
- Wikipedia「阿部正教」※養子の正教の墓所を西福寺から谷中墓地へ改葬とする紹介の根拠








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