ジョン万次郎について調べ始めて、最初につまずいたのは「日本初」の多さでした。日本で初めてネクタイを締めた、ABCの歌を伝えた、アメリカ本土を踏んだ。紹介記事には、そんな話がいくつも並んでいます。
ところが出典をたどると、裏づけを確認できた話は限られていました。現在のアメリカ本土にあたる地域に流れ着いた日本人には、万次郎より前の例もあります。
それでも、万次郎の歩みは「初」を外しても十分に面白い、と私は感じました。そこで、確かめられた事実だけで、この人の一生を組み立て直すことにしました。
この記事の結論
ジョン万次郎(中浜万次郎)は、漂流をきっかけにアメリカで英語と航海術を学び、帰国後は幕府や諸藩で通訳・翻訳・英語教育を担った人物です。
土佐の漁師の家に生まれ、1841年に14歳で漂流しました。鳥島で143日を過ごしたのち、アメリカの捕鯨船に救われ、1851年に帰国するまで約10年を海外で過ごしています。
1860年には咸臨丸に通訳として乗り組み、太平洋を渡りました。ただし、日米和親条約の交渉の場で通訳を務めたのは森山栄之助でした。
- 143日
鳥島での無人島生活 - 約10年
漂流から帰国まで - 1860年
咸臨丸で通訳として渡米
この記事では、2028年の大河ドラマの話から入り、基本プロフィール、三大功績、坂本龍馬とのつながり、「日本初」の検証、最期、年表、後の時代への影響の順にたどります。
そして今回は、万次郎AI(ジョン万次郎をモデルにしたAI)にも登場してもらいます。土佐の浜言葉で、自分の歩みを語ってもらいました。
※以下のインタビュー部分は、公開されている史料をもとにジョン万次郎の人物像を再現した創作です。実際の発言をそのまま掲載したものではありません。
出典の確かめ方と、公開前に行っているチェックは編集方針にまとめています。

万次郎さん、はじめまして。『何をした人?』と聞かれて、すぐに答えられる人は意外と少ないんです。
まずはご自分の口から、どんな一生だったのかを教えてください。

おう、よう来てくれたのう。わしは土佐の中ノ浜の漁師の子じゃ。
14の年に漁に出て流され、アメリカの捕鯨船に拾われた。向こうで読み書きと船の動かし方を覚えて、10年ばかりして帰ってきたがよ。
帰ってからは、覚えた言葉と海の知恵で、お上の仕事を手伝うた。ざっと言えば、そういう一生ちや。
2028年大河ドラマ『ジョン万』の主人公に
ジョン万次郎は、2028年のNHK大河ドラマ『ジョン万』の主人公です。NHKが2026年4月9日に発表しました。発表の内容を表にまとめます。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| タイトル | 『ジョン万』 |
| 主人公 | 中濱万次郎(ジョン万次郎) |
| 主演 | 山﨑賢人さん |
| 作 | 藤本有紀さん |
| 発表 | 2026年4月9日(NHK) |
主人公の名前は「中濱万次郎」と表記されています。 「ジョン万次郎」は通り名で、本人が名乗った姓は中浜(中濱)でした。名前の由来は、次の章で説明します。
ドラマが史実のどこまでを描くのかは、放送を待つしかありません。この記事では、ドラマの前に知っておきたい史実の側をたどります。

2028年、あなたの一生が大河ドラマになります。

わしの一生が芝居になるがか。漁師の子が主役とは、世の中も変わったもんじゃのう。
どう描かれるかは、わしの知らん先の話じゃき、口は挟まんとこう。
海の上の場面が多うなるじゃろうが、見る人が船酔いせんとええがのう。
ジョン万次郎は何をした人?基本プロフィールを2分で知ろう
ジョン万次郎を一言でいえば、アメリカで学んだ知識を、幕末の日本で通訳・翻訳・教育に生かした人です。まずは基本の情報を表にまとめます。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 名前 | 中浜万次郎(中濱とも)。アメリカではジョン・マンと呼ばれた |
| 生没年 | 1827年1月27日〜1898年11月12日(満71歳)。生年を1828年とする事典もある |
| 出身 | 土佐国幡多郡中浜村(現在の高知県土佐清水市中浜) |
| 家 | 漁師の家の次男 |
| 活躍した時代 | 幕末から明治のはじめ |
| 身分 | 土佐藩の士分を経て、1853年に幕府の普請役格(幕府の役職の格の一つ) |
| 主な仕事 | 英文の翻訳と通訳、英語と航海術の教授、捕鯨、咸臨丸での渡米 |
まず押さえておきたいのは、「ジョン万次郎」は本名ではないことです。漁師の家に生まれた万次郎には、もともと公に名乗る名字がありませんでした。のちに故郷の地名から「中浜」を名乗ります。
名乗った時期は、資料によって書き方が分かれます。幕府に登用された1853年とする資料と、土佐藩で士分に取り立てられたときとする資料があります。
「ジョン・マン」という呼び名の由来も、一つではありません。土佐清水市とジョン万次郎資料館は、救われた捕鯨船ジョン・ハウランド号の名にちなむ愛称と紹介しています。
一方、アメリカ側の交流財団の英語の紹介は、船長が「万次郎」を縮めて呼び、ジョンを付けたと書いています。この記事では、どちらか一方には決めません。

アメリカでは『ジョン・マン』と呼ばれていたそうですね。

向こうの者には、万次郎という名は呼びにくかったんじゃろう。
名の由来は、船の名から取ったとも、わしの名を縮めたとも伝わっちょるそうな。どっちが本当かは、わしの口からは言い切らんとこう。
中浜いう名字は、生まれた浦の名ちや。漁師の子には、もとは公に名乗る名字などなかったきのう。
ジョン万次郎の三大功績|アメリカで学び、英語を伝え、太平洋を渡る
ジョン万次郎の仕事は多岐にわたりますが、柱になるのは次の3つです。
- ① 漂流の末にアメリカへ渡り、英語と航海術を学んだ
- ② 英語と西洋の知識を、翻訳と教育で日本に伝えた
- ③ 咸臨丸に通訳として乗り、太平洋を渡った
どれも、漂流という偶然から始まった仕事です。1つずつ見ていきましょう。
① 漂流からアメリカへ|英語と航海術を学ぶ(1841〜1851年)
万次郎は、漂流して救われた先のアメリカで学校に通い、英語・数学・測量・航海術を身につけました。 漂流から帰国までの流れを、表で追います。
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1841年1〜2月 | 宇佐から漁に出た5人の船が流され、鳥島に漂着する |
| 1841年6月 | 143日後に、アメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号に救われる |
| 1841年11月 | 仲間4人はホノルルで船を降り、万次郎だけが船長と航海を続ける |
| 1843年5月 | アメリカ東部のニューベッドフォードに入港。隣町フェアヘーブンで、船長の知人宅に下宿したのち、船長の農場で暮らす |
| 1843年〜 | 学校に通い、英語・数学・測量・航海術を学ぶ |
| 1846年 | 捕鯨船フランクリン号に乗り組み、ふたたび海へ出る |
| 1849年 | 帰国の資金を得るため、カリフォルニアへ向かう |
| 1850年 | 金鉱で働いて資金をつくり、ホノルルからサラ・ボイド号で帰国の途につく |
| 1851年 | 琉球(現在の沖縄県糸満市)に上陸する |
船に乗っていたのは、船頭の筆之丞(のち伝蔵)、その弟の重助と五右衛門、寅右衛門、そして炊(かしぎ。飯炊き役)の万次郎の5人でした。万次郎は満14歳です。
漂流した日数は、資料館が7日間、土佐清水市が10日間と、資料によって分かれます。たどり着いた鳥島は無人島で、5人はそこで143日を過ごしました。
救ったのは、ウィリアム・H・ホイットフィールド船長の捕鯨船です。船長は万次郎をアメリカへ連れて帰り、自分の住むフェアヘーブンで学校に通わせました。
国立公文書館は、万次郎が3年余りのあいだに航海術・測量学・造船・英語・数学などを学んだと紹介しています。言葉も分からない土地で、一から学び直したことになります。
なお、捕鯨船フランクリン号での役職は、資料で分かれます。乗り込んだときの役を資料館は給仕係(スチュワード)とし、航海中に就いた地位は、土佐清水市が一等航海士・副船長、捕鯨博物館の元学芸員が二等航海士としています。
帰国の資金は、カリフォルニアの金鉱で稼ぎました。土佐清水市とアメリカ側の財団は、その額を600ドルと紹介しています。

14歳で漂流して、見知らぬ国の学校に通う。怖くはありませんでしたか。

その時の胸の内は、記録で確かめられちょらん。ここからは創作としての物言いと思うてくれ。
言葉も分からん所で生きていくには、覚えるほかなかったじゃろうのう。
船長が学校へ通わせてくれたことは、記録からも確かめられる。それがわしの一生の土台になった、と言うのは創作の物言いじゃがのう。
② 英語と西洋の知識を伝える|翻訳と教育(1853〜1869年)
帰国後の万次郎は、幕府や諸藩に召し出され、英文の翻訳や、航海術と英語の教授に携わりました。 主な仕事を並べます。
- 1853年、幕府に召し出され、普請役格として韮山代官・江川英龍の手付(配下)となる
- 外国の使節が持ってきた書翰の翻訳、軍艦の操練、英語の教授、捕鯨の御用を務める
- 1857年、軍艦教授所(のち軍艦操練所)の教授となる
- 1859年、英会話の手引き書『英米対話捷径』を刊行する
- 1869年、明治政府のもとで開成学校(東京大学の前身の一つ)の二等教授となる
『英米対話捷径』は、知彼堂版の書誌では『英米對話捷徑』と表記されています。国立国会図書館サーチでは、安政6年(1859年)刊で版元の違う2種類の書誌を確認できます。
玉川大学教育博物館によれば、アルファベットに続いて「ABCの歌」が載り、あいさつや日常会話の例文が並びます。発音は片仮名で示されています。同館はこの本を、日本最初の英会話書と紹介しています。
アメリカの航海書(ボーディッチの航海術の本)の翻訳にも取り組みました。フェアヘーブンの観光局は、万次郎がのちにこの本を日本語に訳したと書いています。
ここで一つ補っておきます。1854年の日米和親条約の交渉で通訳を務めたのは森山栄之助で、交渉の場ではオランダ語が用いられたようだと、国立公文書館は書いています。
万次郎がペリーの通訳に加わったかどうかは、資料で書き方が分かれます。土佐清水市と資料館は、スパイと疑われて通訳から外されたと紹介し、ブリタニカ国際大百科事典は、ペリー来航のとき通訳に従事したと記しています。

条約交渉の通訳から外されたという話は、本当ですか。

そこは、おまんらの世の資料でも書き方が分かれちょるそうな。
外されたと書くものもあれば、通訳に加わったと書くものもある。わしの口から、どっちと言い切るのはやめちょこう。
異国の言葉を覚えた者が疑われるのは、どこの国でもありそうな話じゃがのう。
③ 咸臨丸で太平洋を渡る|通訳として(1860年)
1860年(万延元年)、万次郎は咸臨丸に通訳として乗り組み、サンフランシスコへ向かいました。 満33歳のときです。同じ船に乗っていた福沢諭吉は、乗組員の顔ぶれを並べたなかで「通弁官は中浜万次郎」と書いています。
福沢はもう一つ、万次郎と一緒にしたことを書き残しています。アメリカで英語の辞書を買ったことです。
(前略)私と通弁の中浜万次郎と云う人と両人がウエブストルの字引を一冊ずつ買て来た。是れが日本にウエブストルと云う字引の輸入の第一番(後略)
出典:福沢諭吉『福翁自伝』(青空文庫)
ウエブストルは、アメリカのウェブスターの英語辞書のことです。「輸入の第一番」は、福沢自身の回想である点は押さえておきましょう。
咸臨丸には、日本人のほかに、アメリカ海軍のブルック大尉らも乗っていました。乗組員の顔ぶれや、航海の実際については、こちらの記事で詳しくたどっています。

咸臨丸では、福沢諭吉と一緒に辞書を買ったそうですね。

福沢さんが自伝にそう書き残しちょるそうな。ウェブスター(英語の字引のことじゃ)を1冊ずつ、と。
船の上のことを、わしがどう見ちょったかは、確かめられる記録が見当たらん。
ただ、字引が1冊あれば、覚えられる言葉はぐんと増える。そこは間違いのない話じゃき。
ジョン万次郎と坂本龍馬は会った?|河田小龍の『漂巽紀略』を通したつながり
ジョン万次郎と坂本龍馬が直接会ったかどうかは、資料の説明が一致していません。 確実にたどれるのは、土佐の絵師・河田小龍(小竜とも)を通したつながりです。帰国から龍馬へ話が伝わるまでを、表で見てみましょう。
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1851〜52年 | 琉球に上陸。薩摩を経て長崎奉行所で取り調べを受ける |
| 1852年 | 土佐藩に引き渡され、故郷へ帰る |
| 1852年 | 河田小龍が藩の命で万次郎から話を聞き、『漂巽紀略』にまとめる |
| 1854年または1855年 | 坂本龍馬が河田小龍を訪ね、海外の話を聞く |
『漂巽紀略』は、万次郎の見聞を小龍が聞き書きし、挿絵を添えてまとめた本です。国立国会図書館サーチに収録された高知県立図書館の書誌では『漂巽紀畧』と表記されており、2つの表記が使われています。
龍馬が小龍を訪ねた年は、資料館が1854年、高知市の広報の郷土史記事が1855年としています。高知市の記事は、その様子を小龍が明治期に書いた回顧談『藤陰略話』から紹介しています。
つまり、龍馬への影響は、小龍の本と話を通したものとして語られています。高知県立坂本龍馬記念館も「とも言えるでしょう」と推量の形で書いており、この記事でも影響を断定はしません。

坂本龍馬とは、会ったことがありますか。

わしが龍馬らに英学を教えたと書く資料もあれば、会うた記録は残っちょらんと言う人もおるそうな。どっちとも、わしの口からは言い切らんとこう。
小龍さんがわしの話を聞き書きして、本にまとめたことは記録に残っちょる。
その本を誰が読んで、どう受け取ったかまでは、わしには分からんちや。
ただし、直接のつながりを書く資料もあります。早稲田大学図書館の企画展「漂流 ― 異界を見た人たち ―」の解説は、万次郎が「坂本竜馬ら藩士に英学を教授」したと記しています。
一方、土佐清水市姉妹都市友好協会の会報(2005年)は、二人が直接会ったという資料は「未だ見つかっていない」とする文章を紹介しています。
2026年7月の高知さんさんテレビの取材でも、土佐清水市の文化財専門員・田村公利さんが「直接会った記録は残ってない」と話しています。この記事では直接の面会を断定せず、確実にたどれる小龍を通したつながりを中心に扱います。
龍馬への影響をどう見るかは資料で分かれますが、小龍が万次郎から聞き書きした『漂巽紀略』そのものは、現代語訳で読めます。講談社学術文庫では『漂巽紀畧』の表記です。
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『漂巽紀畧 全現代語訳』
この作品のポイント
- 1841年の漂流から、捕鯨船に救われてアメリカ本土で暮らし、帰国するまでの約10年を、万次郎がどう語ったか
- 大統領の選び方など、アメリカ社会のありようや、鉄道などの文物についての証言
- 信頼性が高いとされる写本をもとにした、文庫のための訳し下ろし(作品紹介による)
BOOK☆WALKERで電子書籍版を販売しています(2026年9月30日時点。販売状況は変わることがあります)。
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坂本龍馬その人の歩みについては、こちらでまとめています。
「日本初」と言われる話を確かめる|ネクタイ・ABCの歌・アメリカ上陸
ジョン万次郎について語られる「日本初」のうち、今回の資料で裏づけを確認できたものは限られていました。 よく聞く話と、確認できたことを並べます。
| よく聞く話 | 今回確認できたこと |
|---|---|
| 日本人で初めてアメリカ本土を踏んだ | 万次郎より前の1834年に、音吉らが、現在の米国ワシントン州にあたるフラッタリー岬に漂着している。フェアヘーブン側は「アメリカに住んだ最初の日本人」と紹介している |
| 日本で初めてネクタイを締めた | アメリカの観光局が「〜とされる」と伝聞で書く程度で、今回は確認できなかった |
| ABCの歌を初めて日本に伝えた | 『英米対話捷径』にABCの歌が載っていることは確認できた。「初めて」の裏づけは今回確認できなかった |
| 日本最初の英会話書を書いた | 玉川大学教育博物館などが、そう紹介している |
| ウェブスターの辞書を初めて輸入した | 福沢諭吉が『福翁自伝』で「輸入の第一番」と回想している |
| 咸臨丸の「事実上の船長」だった | 土佐清水市の紹介にある表現。事典は通弁(通訳)としての乗船と書く |
表から分かるように、「初」とされる話の多くは、出典をたどると伝聞や回想、紹介者の評価に行き着きます。 確かめられないことは、確かめられないと書くのがこの記事の方針です。
現在のアメリカ本土にあたる地域については、万次郎が本土に着く9年前の例があります。コトバンク収録の事典によれば、尾張の音吉らが天保5年(1834年)に北アメリカのフラッタリー岬に漂着しています。
アメリカ側の交流財団も、万次郎以前に来た日本人はいたが一時的な滞在だった、と書いたうえで、万次郎を「アメリカに住んだ」日本人として紹介しています。

あなたについての『日本初』の話は、確かめられないものも多いようです。

初めてかどうかは、わしが決めることやないき、気にしちょらん。これは創作としての物言いと思うてくれ。
確かめられん話は、確かめられんと書いてもろうたほうがええ。
残っちょる記録だけで十分と言うてもらえるなら、それで本望じゃ。
ジョン万次郎の死因と最期|1898年、長男・東一郎の家で
ジョン万次郎は1898年(明治31年)11月12日、東京の長男・中浜東一郎の家で亡くなりました。満71歳でした。 土佐清水市は、その家を京橋弓町と記しています。 最期について分かっていることを整理します。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 没年月日 | 1898年(明治31年)11月12日 |
| 場所 | 東京・京橋弓町の長男・中浜東一郎の家(土佐清水市の紹介) |
| 年齢 | 満71歳(数え年では72歳) |
| 死因 | 事典は触れていない。ジョン万次郎資料館の年表は脳溢血と記す |
| 墓所 | 都立雑司ケ谷霊園(東京都豊島区) |
表舞台を離れたのは、亡くなるよりずっと前でした。1870年(明治3年)、万次郎は普仏戦争の視察のため、品川弥二郎・大山巌らとともにヨーロッパへ向かうよう命じられます。
その途中でアメリカに立ち寄り、フェアヘーブンでホイットフィールド船長と再会しました。事典によれば、翌1871年に病を得て帰国し、以後は公の仕事から退いています。
晩年は長男・東一郎の家族と暮らしました。万次郎資料調査団は、亡くなるまでの17年間を東一郎の家族と過ごしたと紹介しています。
万次郎の子孫は、いまも続いています。妻や子、直系5代目までの家系図は、こちらの記事でまとめています。

晩年は、どのように過ごされたのですか。

ヨーロッパへ向かう途中、フェアヘーブンに寄って船長に会えたことは、記録に残っちょるそうな。
そのあと病を得て、表の仕事からは退いた。晩年は東一郎の家族と暮らしちょったと、調べた人らは書いちょる。
わしが死んだあとのことは、あの世まで便りは届かんちや。
ジョン万次郎の生涯を年表で振り返る|中ノ浜から東京まで
ここまでの流れを、年表にまとめます。年は西暦で示し、和暦の年末が西暦で翌年にかかる出来事は解説欄で補いました。
| 年 | 出来事 | 解説 |
|---|---|---|
| 1827年 | 土佐国中浜村の漁師の家に生まれる | 生年を1828年とする事典もある |
| 1841年 | 宇佐から漁に出て遭難し、鳥島に漂着する | 143日後、捕鯨船ジョン・ハウランド号に救われる |
| 1843年 | フェアヘーブンで暮らし始める | 学校で英語・数学・測量・航海術を学ぶ |
| 1846年 | 捕鯨船フランクリン号に乗り組む | 役職名は資料によって異なる |
| 1849年 | カリフォルニアへ向かう | 翌1850年に金鉱で働き、帰国の資金をつくる |
| 1851年 | 琉球に上陸する | 薩摩と長崎で取り調べを受ける |
| 1852年 | 土佐に帰る | 河田小龍が聞き書き『漂巽紀略』をまとめる |
| 1853年 | 幕府に召し出される | 普請役格。江川英龍の手付となる |
| 1854年 | 剣術師範・団野源之進の娘、鉄と結婚する | 縁談は江川英龍がまとめたと資料館は紹介する |
| 1857年 | 軍艦教授所(のち軍艦操練所)の教授となる | 航海術や英語を教える |
| 1859年 | 『英米対話捷径』を刊行する | 版元の違う2種類がある |
| 1860年 | 咸臨丸に通訳として乗り、渡米する | 福沢諭吉とウェブスターの辞書を買う |
| 1862年 | 小笠原へ向かう幕府の船に通訳として乗る | 出航は文久元年12月(1862年1月) |
| 1864年 | 薩摩藩に招かれ、航海術や英語を教える | 事典の記述による |
| 1869年 | 開成学校の二等教授となる | 東京大学の前身の一つ |
| 1870年 | 普仏戦争の視察でヨーロッパへ。途中、フェアヘーブンで船長と再会 | 翌1871年、病を得て帰国 |
| 1898年 | 東京で亡くなる | 満71歳 |
年表を並べると、帰国してから病で退くまでの約20年に、仕事がぎっしり詰まっていることが分かります。幕府、薩摩藩、明治政府と、仕える先が変わっても、求められたのは英語と海の知識でした。
小笠原の派遣は、事典や資料館が「1861年(文久元年)」と書くことがあります。出航は文久元年12月4日で、西暦では1862年1月4日にあたります。どちらも誤りではなく、和暦の年と西暦の日付のずれです。

万次郎が帰国してから幕府が終わるまでの流れは、学習まんがの通史でも追えます。
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ジョン万次郎のすごさ・影響力|学んだ側から教える側へ
万次郎のすごさは、漂流という偶然から身につけた英語と航海術を、帰国後の日本で「教える側」に回って生かしたことにある、と私は考えます。 影響が見える場面を3つ挙げます。
- 英語:英会話の手引き書をまとめ、幕府の教授所や開成学校で教えた
- 航海と捕鯨:アメリカの航海書を訳し、船の操練や捕鯨の御用も担った
- 日米のつながり:ホイットフィールド家との交流が、子孫の代にも受け継がれている
玉川大学教育博物館は、万次郎から英語を学んだ人として、西周や中村敬宇、大鳥圭介、榎本武揚らの名を挙げています。個々の人物が何をどこまで学んだかは、今回の資料では確かめきれていません。
アメリカ側でも、万次郎は忘れられていません。フェアヘーブンの観光局は、万次郎を「アメリカに住んだ最初の日本人」として紹介しています。
1918年には長男の東一郎がフェアヘーブンへ太刀を贈り、1987年には土佐清水市とフェアヘーブン、ニューベッドフォードが姉妹都市になりました。一人の漂流者から始まった縁が、町どうしの付き合いにまで広がったことになります。

あなたが残したものは、日本とアメリカの両方に続いています。

町どうしが付き合うようになったとは、わしの知らん先の話じゃ。
わしがしたことは、覚えたことを人に伝えただけのこと。
それが長う続いたのなら、船長に拾うてもろうた命を、少しは返せたかのう。これは創作としての物言いと思うてくれ。
ジョン万次郎の歩みから考える現代へのヒント
万次郎の歩みから、今の私たちが受け取れるヒントを、筆者の解釈として表にしてみました。
| 万次郎の歩み | 現代へのヒント(筆者の解釈) |
|---|---|
| 言葉の分からない国で、学校に通って学び直した | 環境が大きく変わったときほど、学ぶことが足場になる |
| 覚えた英語を、手引き書と教室で人に伝えた | 身につけた知識は、人に渡すことで生きてくる |
| 救ってくれた船長の一族との交流が、子孫の代にも受け継がれた | 一度の恩が、長い関係の始まりになることがある |
本記事が確認した範囲では、万次郎の本心や考えを伝える記録は多くありません。そのため、この表は万次郎の思想ではなく、歩みを見て私が受け取ったこととして書いています。
私がいちばん心に残ったのは、万次郎が学んだ側で終わらず、教える側に回ったことでした。環境が変わって身につけたものを、次の人へ渡す。その順番は、今でも通用するように思います。

今の時代を生きる人に、何か伝えたいことはありますか。

わしの心の内を伝える記録は少ないき、ここからは創作としての物言いと思うてくれ。
知らん言葉も、使うてみんことには覚えられん。間違えて笑われて、それでやっと通じるようになるもんじゃ。
覚えたら、それを次の者に渡してやってくれ。わしは、そうしてきたつもりじゃき。
あなたは、万次郎の生き方から何を読み取りますか。
よくある質問(FAQ)
ジョン万次郎は何をした人ですか?簡単に教えてください。
土佐の漁師の家に生まれ、14歳で漂流してアメリカで英語と航海術を学んだ人です。帰国後は幕府や諸藩で英文の翻訳や通訳、英語と航海術の教授を担い、1860年には咸臨丸に通訳として乗りました。
ジョン万次郎の本名は?なぜ「ジョン」なのですか?
本名は万次郎で、のちに故郷の地名から中浜(中濱)の姓を名乗りました。アメリカでは「ジョン・マン」と呼ばれました。捕鯨船ジョン・ハウランド号の名にちなむとする紹介と、船長が名前を縮めたとする紹介があります。
ジョン万次郎は何時代の人ですか?
江戸時代の終わり(幕末)から明治にかけての人です。1827年に生まれ、1898年に亡くなりました。生年を1828年とする事典もあります。
一緒に漂流した4人は誰ですか?
船頭の筆之丞(のち伝蔵)、その弟の重助と五右衛門、寅右衛門の4人です。ジョン万次郎資料館の紹介によります。1851年に万次郎と一緒に帰国したのは、伝蔵と五右衛門でした。
ジョン万次郎は英語をどうやって覚えたのですか?
捕鯨船の上での暮らしに加え、アメリカ東部のフェアヘーブンで学校に通って学びました。国立公文書館は、3年余りのあいだに英語や数学、航海術、測量学などを学んだと紹介しています。
ジョン万次郎と坂本龍馬は会ったことがありますか?
資料の説明が分かれています。早稲田大学図書館の展示解説は万次郎が龍馬ら藩士に英学を教えたと記し、土佐清水市の文化財専門員は直接会った記録は残っていないと話しています。確実にたどれるのは、河田小龍を通したつながりです。
大河ドラマ『ジョン万』はいつ放送されますか?
2028年のNHK大河ドラマとして、2026年4月9日に発表されました。主演は山﨑賢人さん、作は藤本有紀さんです。
インタビュー後記|「初」を外して見えたもの
「日本初」を一つずつ外していくと、何も残らないのではないか。調べ始めたとき、私は少しそう心配していました。
ところが実際には、外したあとに残ったもののほうが、ずっと具体的でした。143日の無人島生活、フェアヘーブンの学校、英会話の手引き書、福沢諭吉が自伝に書き残した乗組員の顔ぶれの「通弁官」の文字。どれも資料で確かめられます。
万次郎は、偶然に放り込まれた場所で学び、帰ってきてからはそれを人に渡し続けた人でした。そう書くほうが、「初」を並べるより、この人の一生に近いように思います。
咸臨丸で万次郎と同じ船に乗った勝海舟については、こちらでまとめています。
同じ船で、ウェブスターの辞書を一緒に買った福沢諭吉の歩みは、こちらです。
参考資料
- 国立国会図書館「中浜万次郎|近代日本人の肖像」 ※生没年月日、1851年の琉球上陸、1853年に幕府に召し出されたこと、咸臨丸での渡米の出典
- コトバンク「中浜万次郎」 ※『日本大百科全書』『改訂新版 世界大百科事典』『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』『山川 日本史小辞典 改訂新版』『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』などを収録。出生地、宇佐からの出漁と鳥島漂着、普請役格・江川英龍の手付、幕府での仕事、軍艦操練所、咸臨丸での「通弁主務」、1864年の薩摩藩での教授、1869年の開成学校二等教授、1870年の渡欧と翌年の帰国、ペリー来航時の通訳に関するブリタニカの記述、生年を1828年とする事典があることの出典
- コトバンク「河田小竜」 ※河田小龍が嘉永5年に藩命で万次郎から話を聞き、『漂巽紀略』をまとめたことの出典
- コトバンク「音吉」 ※音吉らが天保5年(1834年)に北アメリカのフラッタリー岬に漂着したことの出典
- コトバンク「軍艦操練所」 ※『百科事典マイペディア』が「初め軍艦教授所といった」、『精選版 日本国語大辞典』が軍艦教授所を拡張したものと記すことの出典
- コトバンク「フラッタリー岬」 ※フラッタリー岬が米国ワシントン州北西部にあることの出典
- 国立公文書館 デジタル展示「漂流ものがたり」ジョン万次郎漂流記 ※アメリカで3年余り航海術・測量学・造船・英語・数学などを学んだこと、嘉永5年6月に土佐藩に引き渡されたことの出典
- 国立公文書館 デジタル展示「激動幕末」Ⅴ.語学熱と海外情報の収集 ※日米和親条約の交渉で通訳を務めたのが森山栄之助で、交渉の場ではオランダ語が用いられたようだとする記述の出典
- 国立公文書館 デジタル展示「激動幕末」Ⅳ.小笠原回収 ※文久元年12月4日(1862年1月4日)に咸臨丸が品川沖を出航し、通訳が中浜万次郎だったことの出典
- 土佐清水市「ジョン万次郎の生涯」 ※「ジョン・マン」が船名にちなむ愛称であること、土佐藩で士分に取り立てられた際に中浜を名乗ったとする記述、ペリーの通訳から外されたとする紹介、金鉱で600ドルを稼いだこと、咸臨丸での「事実上の船長」という表現の出典
- 土佐清水市「ジョン万次郎の歴史」 ※漂流日数を10日間とする記述、143日の無人島生活、フランクリン号で一等航海士・副船長となったとする記述、1853年に中浜を名乗ったこと、軍艦教授所教授、京橋弓町の東一郎宅で没したことの出典
- ジョン万次郎資料館「ジョン万次郎の生涯」 ※「ジョン・マン」が船名にちなむとする記述、船長が学校に通わせたこと、ペリーの通訳から外されたとする紹介の出典
- ジョン万次郎資料館「年表」 ※漂流日数を7日間とする記述、1987年の姉妹都市調印、フランクリン号での役職を給仕係(スチュワード)とする記述、1854年の鉄との結婚、龍馬が河田小龍を訪ねた年を1854年とする記述、没時の脳溢血の記述の出典
- ジョン万次郎資料館「ジョン万次郎相関図」 ※漂流した5人の名前と続柄、妻・鉄の縁談を江川英龍がまとめたことの出典
- 公益財団法人ジョン万次郎ホイットフィールド記念国際草の根交流センター “Manjiro story” ※船長が「万次郎」を縮めて呼んだとする記述、1841年6月27日の救助、1843年5月6日のニューベッドフォード入港、1846年のフランクリン号出港、金鉱での600ドル、万次郎以前の日本人は一時的な滞在だったとする記述の出典
- Discover Fairhaven “Manjiro Nakahama”(フェアヘーブン町の観光部署のページ。2026年7月に部署は廃止され、ページは閲覧のみ可能) ※フェアヘーブンでの学校、ボーディッチの航海書を日本語に訳したこと、船長の知人宅に下宿したのち船長の農場で暮らしたこと、1870年の再訪、ネクタイについての「〜とされる」という記述、「アメリカに住んだ最初の日本人」という紹介の出典
- Stuart M. Frank “Selected Japanese Prints in the Kendall Collection of the New Bedford Whaling Museum”(2012年) ※フランクリン号での役職を二等航海士(second mate)とする記述の出典
- 糸満市「ジョン万次郎 上陸の地 – いとまん観光なび」 ※琉球での上陸地が現在の糸満市大度浜海岸であることの出典
- 玉川大学教育博物館「ジョン万次郎と『英米対話捷径』」 ※『英米対話捷径』の内容(アルファベット、ABCの歌、会話例文、片仮名の発音表記)、日本最初の英会話書とする紹介、万次郎から英語を学んだ人物の紹介の出典
- 高知市「308 ジョン万・小龍・龍馬」(高知市広報『あかるいまち』2010年6月号) ※龍馬が安政2年に河田小龍を訪ねたこと、その様子を小龍が回顧談『藤陰略話』に記したことの出典
- 高知県立坂本龍馬記念館「3館連携特別展 生誕200年 河田小龍 -龍馬に世界を教えた男-」 ※万次郎の海外体験が小龍を通じて龍馬に影響を与えた「とも言えるでしょう」という記述の出典
- 早稲田大学図書館 企画展「漂流 ― 異界を見た人たち ―」ジョン万次郎、アメリカへ ※万次郎が「坂本竜馬ら藩士に英学を教授」したとする解説の出典
- 土佐清水市姉妹都市友好協会 会報第4号(2005年2月18日発行、土佐清水市公開のPDF) ※万次郎と龍馬が直接会ったという資料は「未だ見つかっていない」とする文章を紹介していることの出典
- 高知さんさんテレビ「死罪覚悟で11年ぶりに母のもとへ 漁師から幕臣に出世したジョン万次郎の『諦めない』人生」(2026年7月) ※土佐清水市の文化財専門員・田村公利さんの「万次郎が坂本龍馬と直接会った記録は残ってない」という発言の出典
- 東京大学「沿革略図」 ※開成学校が東京大学の前身の一つであることの出典
- 国立国会図書館サーチ「英米對話捷徑」(知彼堂) ※安政6年(1859年)刊の書誌の出典
- 国立国会図書館サーチ「英米對話捷徑」(設楽氏) ※版元の異なるもう1種の書誌の出典
- 国立国会図書館サーチ「漂巽紀畧 巻之1~4」 ※高知県立図書館の所蔵資料(複写作成資料)の書誌で、書名が『漂巽紀畧』と表記されていることの出典
- 青空文庫 福沢諭吉『福翁自伝』 ※咸臨丸の「通弁官は中浜万次郎」の記述、ブルックら米国人の同乗、ウェブスターの辞書を一冊ずつ買ったという回想の出典
- 東京都公園協会「雑司ケ谷霊園」園内マップ ※墓所が雑司ケ谷霊園にあることの出典
- 万次郎資料調査団「ジョン万次郎の資料調査・保存プロジェクト|日米交流の原点を後世へ」(READYFOR) ※万次郎が亡くなるまでの17年間を長男・東一郎の家族と過ごしたことの出典
- 土佐清水市「姉妹都市の紹介」 ※フェアヘーブン・ニューベッドフォードとの姉妹都市関係の出典
- The Millicent Library “Nakahama Manjiro” ※1918年に長男・東一郎の贈る太刀がフェアヘーブンで贈呈されたことの出典
- NHK「2028年大河ドラマ『ジョン万』 主演・山﨑賢人さん」 ※2026年4月9日の発表、主演・作者、主人公の表記の出典








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