幕府の正史の続編『続徳川実紀』を開くと、13代将軍徳川家定は安政5年8月8日の巳の上刻に亡くなったことになっています。ところが事典を引くと、没日は7月6日です。
同じ人の死が、ひと月ずれて記録されている。この差がどこから来るのかを確かめたくて、将軍の死の前後の記事を一日ずつ読んでみました。
この記事の結論
徳川家定の死因は、確定していません。安政5年7月6日(1858年8月14日)、江戸で亡くなりました。満34歳(数え35歳)でした。
今回引いた事典に死因の病名を挙げるものはなく、死に触れる事典も「病死」「病没」「没した」までです。
脚気、コレラ、毒。語られてきたのはこの3つです。脚気説は医師で作家の篠田達明が2005年の著書で示した後世の診断で、残る2つは一般向け記事に見られる話にとどまり、根拠の史料は示されていません。
- 満34歳
数え年では35歳(事典の「35歳」は数え) - 31日
安政5年7月6日の死去から、8月8日の発喪(公表)まで - 1858年8月14日
安政5年7月6日。江戸で死去
幕府が死を公表したのは、31日後の8月8日でした。『続徳川実紀』はその間、将軍が出御(公の場に出ること)しない理由を「御疝積気(ごせんしゃくき)」と記し続けています。
説の出どころに加えて、死をひと月伏せた記録、「御遺言」、「病弱」の中身、墓所まで順に読みます。
2027年の大河ドラマ『逆賊の幕臣』では、徳川家定をふかわりょうさんが演じます。役紹介の冒頭は「暗愚と呼ばれた孤独な将軍」です。放送の前に、その「暗愚」が史料でどこまで追えるのかを見ておきたいと思いました。
参考:2027年大河ドラマ「逆賊の幕臣」新キャスト発表!宅麻伸、ふかわりょう、神尾楓珠、岩田剛典、北村一輝、柄本明、江戸城で出会う人々を演じる|ステラnet
語り手として、徳川家定AI(徳川家定をモデルにしたAI)にも登場してもらいます。口数の少ない設定で話します。
※以下のインタビュー部分は、公開されている史料をもとに徳川家定の人物像を再現した創作です。史料で確認できない心情や受け止め方を補った創作的な対話であり、実際の発言をそのまま掲載したものではありません。
出典の確かめ方と、公開前に行っているチェックは編集方針にまとめています。

はじめまして。幕府の帳面では、あなたはひと月あとに亡くなっています。ご本人としては、どちらの日付を取りますか。

ひと月とは長いな。
余の知らぬところで、余はひと月も生きておったわけじゃ。
それで、その間の余は何をしておった。

帳面のうえでは、ずっと奥で休んでおられます。お見舞いまで断っています。

余のことながら、よう休む男じゃ。
見舞いまで断るとは、念の入ったことよ。
徳川家定の死因は?3つの説を一覧で確認
事典が書く死因は「病死」までで、病名を挙げるものは今回確認した範囲にありません。日本大百科全書は「7月、政局紛糾のなかに病死した」、旺文社日本史事典は「通商条約勅許問題の最中に病没」です。
山川 日本史小辞典は、井伊直弼が慶福を継嗣と決定した「直後に没した」と記します。
参考:徳川家定|コトバンク
死因として語られてきたのは、脚気、コレラ、そして毒殺の噂の3つです。
| 説 | 内容 | 主な出どころ | 確かめられた範囲 |
|---|---|---|---|
| ① 脚気説 | 脚気が進み、急性の心不全(脚気衝心)で亡くなった | 篠田達明『徳川将軍家十五代のカルテ』(新潮新書、2005年)の目次「死因は脚気衝心(脳性麻痺)」 | 後世の医師による診断。日本人名大辞典は脚気医の遠田澄庵が家定の脚気を診察したと書くが、死因とは書いていない |
| ② コレラ説 | 安政5年に流行したコレラに感染して亡くなった | 一般向けの解説記事 | 典拠は示されていない。江戸に流行が達したのは7月で、時期は重なる |
| ③ 毒殺の噂 | 一橋派が処分された翌日の死だったため、毒を盛られたのではないかとする話 | 一般向けの解説記事 | 『続徳川実紀』『維新史料綱要』の7〜8月の条に裏づけはない。噂があったとする記事も、史料名は挙げていない |
①には後世の医師の見立てがあります。②には流行時期との重なり、③には処分翌日の死という連想があります。ただし、②と③がいつ、何を根拠に唱えられ始めたのかは確認できていません。
当時の医師が何と見立てたかを示す記録には、本記事はたどり着けていません。空白はそこにあります。

脚気には後世のお医者さんの見立てがあります。コレラと毒は、根拠までたどれませんでした。

病の名は、医者に聞くものじゃ。
余に聞いても出ては来ぬ。
そなた、どれが面白いと思うて調べた。

どの説でもなく、日付です。没日がひと月ずれている理由を知りたくて、調べ始めました。

病より帳面か。
そなたも物好きじゃな。
徳川家定の死因を史料から検証する
死の前後の幕府側の記録は、『続徳川実紀』の「温恭院殿御実紀」と、『維新史料綱要』巻3にまとまっています。前者は幕府の正史『徳川実紀』の続編で、1906年に活字で刊行されました。
日本大百科全書によれば、家定の巻は史料を配列して綱文を付けた段階にとどまります。後者は、日付ごとに出来事と典拠の史料名を列挙した年表です。
参考:徳川実紀|コトバンク
- 没日は7月6日:『維新史料綱要』は「六日 征夷大将軍徳川家定薨ズ。喪ヲ秘ス」と記し、典拠に朝比奈昌寿日記などの史料名を挙げる
- 正史の薨御は8月8日:『続徳川実紀』は8月8日条に「御養生不被為叶。今巳上刻薨御被遊候」と記す。発喪の日が、公式の没日になっている
- 出御しない理由は「御疝積気」:7月8日以降、「御疝積気に付御前江召出無之」の注記が繰り返される
- 症状の記録は見当たらない:どちらの史料にも、病状そのものの記述は今回確認できなかった
参考:『維新史料綱要』巻3 安政五年七月六日|国立国会図書館デジタルコレクション
参考:『続徳川実紀』第3篇 温恭院殿御実紀 安政五年八月八日|国立国会図書館デジタルコレクション
「疝積」は、世界大百科事典が「癪(しゃく)」の別名に挙げる「疝癪」と同じ読みの語で、痛みを伴う内科の病気を一括した俗称の一つです。
阿部正弘の不参の届にも同じ語が使われていました。病名というより、不参の届の文言として使われていたように見えます。
参考:癪|コトバンク
① 脚気説 後世の医師の診断と、脚気医の奥医師登用
篠田達明『徳川将軍家十五代のカルテ』(新潮新書、2005年)は、版元の紹介では、増上寺の霊廟から発掘された遺体と文献をもとに歴代将軍を現代医学で診断した本です。
目次の家定の項に「死因は脚気衝心(脳性麻痺)」とあります。
ただし家定の墓は寛永寺で、増上寺の発掘の対象ではありません。同書が家定について何を根拠にしたかは、本文を読んでいない本記事では確かめられません。
脚気は、ビタミンB1の欠乏で起こる病気です。世界大百科事典によれば、循環器の症状が進むと急性の心力衰弱、つまり脚気衝心で死亡することがあります。不足していた成分(のちのビタミンB1)が取り出されたのは1910年です。
参考:脚気|コトバンク
同時代の記録で脚気に近づけるのは、医師の人事です。『続徳川実紀』の7月3日条は、戸塚静海、遠田澄庵、伊東玄朴ら4人の医師を奥医師に召し出したと記します。
活字本では遠田の名は「長庵」と刷られていますが、『維新史料綱要』と事典は「澄庵」です。
参考:『続徳川実紀』第3篇 温恭院殿御実紀 安政五年七月三日|国立国会図書館デジタルコレクション
このうち遠田澄庵は、日本人名大辞典に「脚気治療にすぐれる」とある漢方医です。同辞典は、安政5年の奥医師就任のあとをこう続けます。
13代将軍徳川家定や,静寛院宮の脚気を診察した
出典:デジタル版 日本人名大辞典+Plus「遠田澄庵」(コトバンク)
伊東玄朴は、山川 日本史小辞典が「将軍徳川家定の重病のとき」奥医師に抜擢されたと記す蘭方医です。ブリタニカは、蘭方医として初めて幕府の奥医師になったとします。
戸塚静海も、日本大百科全書に「将軍徳川家定の治療にあたる」とあります。
参考:伊東玄朴|コトバンク
参考:戸塚静海|コトバンク
今回引いた事典の項目のなかで、家定の病名が出てくるのは「遠田澄庵」の項だけでした。ただし、診察したと書くだけで、死因とは書いていません。
脚気の医者が呼ばれたことは記録にあります。脚気で亡くなったかどうかは、診断の記録が見つからないまま残っています。

亡くなる3日前に、医者が4人も増えています。そんなに悪かったのですか。

悪いから呼ぶ。医者とはそういうものであろう。
どこがどう悪かったかは言わぬ。
蘭方の者が奥に入った。そこだけで、ただ事でないと読む者はおろうな。
篠田の診断の根拠は、本記事では確かめられませんでした。気になる方は、本文に当たるのが近道です。
【PR】
篠田達明『徳川将軍家十五代のカルテ』(新潮新書)
増上寺の徳川家霊廟で発掘された遺体や文献をもとに、歴代将軍を医学の目で診断した本です。養生法や死因、世継ぎの苦心にも触れています。
※電子書籍版はBOOK☆WALKERで試し読みができます(2026年11月時点)。
② コレラ説 流行の時期は重なるが、記録はつながらない
安政5年のコレラは、5月に長崎へ入港した米国船から広がり、7月には江戸に達しました。国立国会図書館の資料紹介は、長崎から広島、大坂を経て江戸へ、と整理しています。
参考:虎狼痢/コレラ 労咳/肺結核|本の万華鏡 第11回 はやり病あれこれ|国立国会図書館
家定の死は7月6日です。江戸での流行の始まりと時期は確かに重なります。ただ、『続徳川実紀』と『維新史料綱要』に、将軍の病をコレラと結びつける記述は見つかりませんでした。
コレラ説を書く解説記事も、根拠となる史料は挙げていません。
参考:徳川家定の死因とは?うつけのふりをしてた説や暗殺説と篤姫との夫婦仲を解説|レキシル
コレラは死に至るまでの早さから「虎狼痢(コロリ)」と呼ばれ、恐れられました。ただし、医師を呼んだ時期や死を公表した時期だけでは、コレラだったかどうかは判断できません。
同じ月の7月16日には、島津斉彬が鹿児島で急逝しています。斉彬の死因にはコレラ説も赤痢説もあり、侍医の容体書が残っていました。家定の側に、それにあたる記録は今回見つかっていません。

江戸はその月、コレラで大騒ぎだったはずです。お城の中はどうだったのですか。

城の奥におる者に、江戸の騒ぎを聞くのか。
将軍は町の辻には立たぬ。
そなたらの世では、殿様も己の足で歩くのか。

殿様はもういません。国の代表は、選挙で選ばれた議員のなかから決まり、街頭に立って話もします。

長を皆で選ぶのか。
余の跡継ぎ一人で、あれだけ揉めたというのに。
③ 毒殺の噂 処分の翌日の死と、ひと月の秘匿は根拠になるか
『続徳川実紀』と『維新史料綱要』の安政5年7月から8月の条に、毒を疑わせる記述は出てきません。噂を書く一般向けの記事は史料名を挙げておらず、当時の噂か後世の推測かも、いつ語られ始めたのかも確認できていません。
疑う材料になりそうな事実は2つです。1つは日付です。7月5日に徳川斉昭、徳川慶恕、松平慶永ら一橋派が隠居や謹慎を命じられ、その翌日に家定は亡くなりました。
もう1つは、死をひと月伏せたことです。ただ、将軍の死をしばらく伏せるのは家定に限りません。10代家治、11代家斉、12代家慶、14代家茂にも、死去日とは別に発喪日があります。
死を伏せたことだけで毒殺を疑うなら、同じ理由で4人の将軍も疑うことになります。
『続徳川実紀』と『維新史料綱要』の7月6日の条には、若年寄の本郷泰固と側衆の石河政平が役を免じられ、奥医師の岡櫟仙院が奉公を召し放たれて隠居を命じられたとあります。
参考:『維新史料綱要』巻3 安政五年七月六日|国立国会図書館デジタルコレクション
医師の罷免と聞くと、何かを想像したくなります。しかし、若年寄らの免職の理由は「思召に不応」とあるだけで、医師のほうは理由そのものが記されていません。
歴代将軍の没日と発喪日のずれは、15人をまとめた記事で一覧にしています。

亡くなった日に、奥医師が一人、お役御免になっています。どう読めばいいでしょう。

その日の人事を、余に問うのか。
理由が書いてないなら、書いてないと書いておけ。
読み物としてはつまらぬがな。
徳川家定の最期 継嗣の公表から発喪までの経緯
『続徳川実紀』を日付順に読むと、死の2日後から「御疝積気」の注記が始まり、8月2日に「少々御勝不被遊」として翌日の御機嫌伺いが命じられ、3日に「御不例」の見舞いで諸大名が登城しています。その間、将軍は記録のうえで生き続けていました。
| 和暦(西暦) | 出来事 | 記録の言葉・補足 |
|---|---|---|
| 安政5年4月23日(1858年6月4日) | 井伊直弼が大老に就任 | 彦根城博物館は、家定が「大老は掃部頭しかいない」と述べたと紹介する。原典は示されていない |
| 6月19日(7月29日) | 日米修好通商条約に調印 | 勅許を得ないままの調印 |
| 6月25日(8月4日) | 慶福(のちの家茂)を継嗣と公表 | 世界大百科事典・日本大百科全書 |
| 7月3日(8月11日) | 戸塚静海・遠田澄庵・伊東玄朴ら4人の医師を奥医師に召し出す | 同じ日の条に、医師の蘭方兼学を許す達しと「御養君」の祝儀が載る |
| 7月5日(8月13日) | 斉昭・慶恕・慶永らに隠居・謹慎など | 一橋派の処分 |
| 7月6日(8月14日) | 家定、死去。喪を秘す | 『維新史料綱要』。同日、若年寄・側衆の罷免、奥医師岡櫟仙院の隠居。蘭方兼修の布告(『続徳川実紀』は3日条に達しを載せる) |
| 7月8日(8月16日)〜 | 「御疝積気に付御前江召出無之」の注記が続く | 13日のロシア使節の御目見は慶福が名代 |
| 7月16日(8月24日) | 島津斉彬が鹿児島で急逝 | 斉彬の死因の記事を参照 |
| 7月28日(9月5日) | 出御なし。見舞いは不要と達する | 8月1日も「御疝積気」で出御なし、見舞い不要 |
| 8月2日(9月8日) | 「少々御勝不被遊」として、翌3日の御機嫌伺いを命じる | 達しの文言が「御疝積気」から変わる |
| 8月3日(9月9日) | 「御不例」で諸大名が登城 | 『維新史料綱要』「諸侯・有司、登営シテ大将軍徳川家定ノ疾ヲ候ス」 |
| 8月5日(9月11日) | 「御同様に而御勝不被遊」。6日に再び出仕 | 彦根藩の宇津木六之丞は京の長野主膳に「発喪近キニ至ル」と報じる |
| 8月8日(9月14日) | 「今巳上刻薨御」。発喪 | 遺言の布告、普請・鳴物の停止、寛永寺への葬送の達し |
| 10月25日(11月30日) | 家茂、将軍宣下 | 満12歳(数え13歳) |
※西暦は換算した日付。出典は『続徳川実紀』の温恭院殿御実紀、『維新史料綱要』巻3と事典。
参考:『続徳川実紀』第3篇 温恭院殿御実紀 安政五年七月三日|国立国会図書館デジタルコレクション
参考:『維新史料綱要』巻3 安政五年八月五日|国立国会図書館デジタルコレクション
参考:井伊直弼の大老政治について|彦根城博物館
表を読むと、7月28日から8月7日にかけて、「出御なし」「少々御勝れず」「御不例」「惣出仕」と段階を踏んで知らせが出されています。死んだ人の容体が、発喪の前の10日ほどで悪化していく形で書かれていました。
この間に進んだのは、継嗣の側の手続きです。7月13日のロシア使節の御目見は、将軍の「御疝積気」を理由に慶福が名代を務めました。
『維新史料綱要』の8月5日の条(発喪の3日前)には、彦根藩の宇津木六之丞が京都にいる長野主膳へ、将軍の発喪が近いので世子家茂の将軍宣下に尽力するよう促したとあります。典拠は「公用方秘録」です。
幕府の中枢にとって、7月6日から8月8日までは、将軍の空白を埋めるための時間だったのでしょう。

ひと月のあいだ、あなたは腹が痛いことにされていました。

死んだあとも腹を痛めておったか。難儀な役目じゃな。
将軍とは、おらずとも役に立つものらしい。
いや、笑うところぞ。
徳川家定の遺言はある?田安慶頼を後見にという「御遺言」
『続徳川実紀』の8月8日条には、「御遺言」として伝えられた一件が載っています。宰相様(慶福)が若年なので、政事向きは当分のあいだ田安中納言(慶頼)が後見するように、という趣旨です。
宰相様御若年被成御座候間。御政事向之儀。当分之内田安中納言殿御後見相成候様にとの御遺言に候。
出典:『続徳川実紀』第3篇 温恭院殿御実紀 安政五年八月八日
- 分かる:幕府は「御遺言」として、田安慶頼を世子家茂の後見にすると布告した。『維新史料綱要』も「故大将軍徳川家定ノ遺命ニ依リ」と記す
- 分かる:田安慶頼は日本人名大辞典に「将軍徳川家茂の後見職となり」とある
- 分からない:家定自身がいつ、誰に、どんな言葉で言い残したか。遺言書の有無も、今回の史料からは確かめられない
- 分からない:死の前後に親族や篤姫と対面したかどうか。今回読んだ条に場面の描写はない
参考:『維新史料綱要』巻3 安政五年八月八日|国立国会図書館デジタルコレクション
参考:田安慶頼|コトバンク
死の日から発喪まで31日あるため、この「御遺言」が本人の言葉そのままなのか、幕閣が整えた形なのかは、文面だけでは決められません。
同じ日の布告には、慶福がすでに本丸にいるので、そのまま本丸に住まわせるという一文もあります。将軍の死を知らせる布告に、次の将軍の居場所の確認が続いていました。
8年後に家茂が大坂城で亡くなったときも、田安家の亀之助を跡継ぎにという話が、天璋院の伝えた家茂の言い置きとして大奥側の日記に記されています。家茂の死因と、その話の出どころは別の記事で確かめました。

後見を慶頼どのに、の一件だけが遺言として布告されました。短いですね。

そう布告されたのなら、そう読むがよい。
あれを言うた、言わぬは、余は申さぬ。
事務の文は、誰が書いても短いものじゃ。
徳川家定の「病弱」はどこまで史料で確かめられるのか
事典に共通するのは「病弱」「生来虚弱」で、具体的な病名や症状は書かれていません。ドラマの役紹介にある「暗愚」も、事典の語ではありません。
| 資料 | 何と書いているか | 性格 |
|---|---|---|
| コトバンクの各事典 | 「生来病弱のため、政治は老中に一任」(大辞泉)、「生来虚弱」(精選版 日本国語大辞典・ブリタニカ) | 同時代の症状の記述ではなく、評価の要約 |
| ハリス『日本滞在記』 | 引見の場で、短い沈黙ののち頭を左肩の後ろへ反らし、右足を踏み鳴らす動作を3、4回した | 1857年の引見に立ち会った当人の日記。英文の抜粋で確認 |
| 篠田達明『徳川将軍家十五代のカルテ』 | 乳幼児期の高熱の後遺症の痙性麻痺ではないかと診断。目次は「脳性麻痺」 | 2005年の医師による推定。本文は未読 |
| 『逆賊の幕臣』の役紹介 | 「暗愚と呼ばれた孤独な将軍、その秘めたる本音は……」 | ドラマの人物設定 |
参考:Modern History Sourcebook: Townsend Harris: Audience with the Tycoon, 1857|Fordham University
参考:徳川将軍家十五代のカルテ(篠田達明)|新潮社
ハリスの引見は、安政4年10月(1857年)に江戸城で行われました。日本大百科全書は、この場面が『日本滞在記』で広く紹介されたと記します。
ハリスの日記によれば、家定は動作のあとに、遠い国から送られた書簡と使節の口上に満足している、交際は末永く続くだろう、という趣旨の言葉を述べました。動作の記述だけが切り取られて広まった、と言えなくもありません。
篠田の診断は、版元の紹介によれば「〜ではないか」という形の推定で、紹介文はハリスの日記にも典型的な症状が描かれていると添えています。同時代の診断記録を使っているかどうかは、紹介文からは分かりません。
ハリスの記述を信じるなら、人前で体が動いてしまう人だった可能性はあります。体がそう動くことと、政務ができるかどうかは、つながるとも限りません。

アメリカの総領事が、あなたが頭を反らして足を踏み鳴らしたと日記に書いています。覚えはありますか。

異国の者は、よう見ておるな。
足のことより、そのあとの口上は書いてあったのか。
余はそちらのほうが気になる。

書いてあります。遠い国からの書簡と使節の口上に満足している、交際は末永く続くだろう、と。

ならばよい。
足だけ書かれては、かなわぬ。
徳川家定の死後、幕府と篤姫はどうなったのか
家定の死から3か月半後(発喪からは2か月半後)に家茂が将軍となり、翌年にかけて安政の大獄が進みました。篤姫は落飾して天璋院と号し、家定より25年長く生きます。
- 安政5年9月以降(1858年):安政の大獄。処罰された人は100人を超え、吉田松陰らが刑死
- 10月25日(1858年11月30日):家茂、将軍宣下。満12歳
- 安政7年3月3日(1860年3月24日):桜田門外の変で井伊直弼が暗殺される
- 慶応2年7月20日(1866年8月29日):家茂が大坂城で死去。天璋院は田安亀之助の宗家相続を図る
- 慶応4年(1868年):天璋院は和宮らとともに徳川本家の廃絶と江戸城の武力攻略の回避に尽力
- 明治16年11月(1883年):天璋院、死去。上野の家定の墓域に葬られる
参考:天璋院|コトバンク
参考:徳川家茂|コトバンク
篤姫は島津斉彬の養女として、近衛家の養女を経て、安政3年(1856年)に家定の御台所になりました。共同通信の用語解説は「約1年半で家定が病没」と記し、子はいませんでした。
家定と篤姫の仲については、一般向けの記事にさまざまな推測がありますが、事典で確かめられるのは、婚儀の年と、死後に落飾したこと、家定の墓域に葬られたことまでです。
井伊直弼の大老就任と安政の大獄は、次の2本へ続きます。

篤姫さんは25年あとに亡くなり、あなたの墓域に葬られました。

余が将軍でおった年の五倍じゃな。
長かったであろう。
墓は同じ寺か。

はい。上野の寛永寺です。

それならよい。
余はもう、どこへも出ぬからな。
徳川家定の墓所はどこにある?寛永寺の徳川将軍御霊廟
家定の墓は、東京都台東区の寛永寺にある徳川将軍御霊廟です。寛永寺の公式サイトによれば、4代家綱、5代綱吉、8代吉宗、10代家治、11代家斉、13代家定の6人の将軍が葬られています。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 所在 | 寛永寺 徳川将軍御霊廟(東京都台東区上野) |
| 葬られている将軍 | 家綱・綱吉・吉宗・家治・家斉・家定の6人 |
| 法号 | 温恭院 |
| 現在の状態 | 第二次大戦でほとんどが焼失。勅額門と水盤舎が現存し、宝塔も難を逃れた。位牌所は昭和38年(1963年)に再建 |
| 参拝 | 参拝条件や公開日は、寛永寺の最新の案内をご確認ください |
『続徳川実紀』の8月8日条は、将軍の遺体を東叡山(寛永寺)へ葬送する旨を記し、宝塔の普請や葬送の担当者を命じています。葬送が行われた日付は、今回の史料では確かめられませんでした。
天璋院も、日本大百科全書によれば「上野の家定の墓域に埋葬」されています。増上寺の家茂と和宮と同じように、夫婦が同じ墓域にいる形です。
ドラマで描かれる徳川家定
家定を正面から描いた作品として広く知られるのは、2008年の大河ドラマ『篤姫』です。堺雅人さんが家定を、宮崎あおいさんが篤姫を演じました。家定といえば堺雅人さん、という印象は、この作品から来ているのでしょう。
- 『篤姫』(2008年):堺雅人さんが家定役。夫婦の関係の描き方は創作で、事典で確かめられるのは婚儀の年と死後の落飾まで
- 『逆賊の幕臣』(2027年):ふかわりょうさんが家定役。役紹介は「暗愚と呼ばれた孤独な将軍」。最期をどう描くかは放送を待つ話
- 死因の扱い:どちらの作品も、史実の死因を確定させる根拠にはならない
参考:篤姫 第33話「皇女和宮」|ザテレビジョン
参考:2027年大河ドラマ「逆賊の幕臣」新キャスト発表!宅麻伸、ふかわりょう、神尾楓珠、岩田剛典、北村一輝、柄本明、江戸城で出会う人々を演じる|ステラnet
『逆賊の幕臣』の役紹介は、父の急死で将軍となった家定が、病弱で内向的なため「将軍の器にあらず」と噂され、お飾りとして扱われ続けたと説明しています。その孤独に寄り添ったのが井伊直弼だった、という筋立てです。
「お飾り」は、事典の「政務を老中に一任」を人物の側から言い直したものと読めます。一方、「孤独」は史料ではなく、ドラマが選んだ言葉です。
ふかわりょうさんのコメントには「不審死を遂げた悲劇の将軍」という一節があります。不審に見えるのは死因より、死をひと月伏せた記録のほうだと、私は思います。
配役はこちらに一覧があります。

来年の大河では、あなたは『暗愚と呼ばれた孤独な将軍』として登場します。

暗愚か。呼ぶほうは楽でよいな。
孤独のほうは、いま問われても答えぬでおく。
演じる者には、台詞の少ない役で済ませてやるがよい。
徳川家定は何をした人だったのか 生涯のふり返り
徳川家定は、ペリー来航の年に13代将軍となり、日米和親条約と日米修好通商条約の両方を在職中に迎え、跡継ぎを決めた直後に亡くなった人物です。在職は5年に届きませんでした。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 名前 | 徳川家定(いえさだ)。幼名政之助、初名家祥(いえさき) |
| 生没年 | 文政7年4月8日(1824年5月6日)〜安政5年7月6日(1858年8月14日)。満34歳没(数え35歳) |
| 父母 | 12代将軍徳川家慶の四男。母は側室の本寿院(お美津の方) |
| 将軍宣下 | 嘉永6年10月23日(1853年11月23日)。家督は同年7月(家慶の死去は6月22日) |
| 正室 | 鷹司家の有姫、一条家の寿明姫(ともに早世)、篤姫(天璋院) |
| 在職中の出来事 | 日米和親条約(1854年)、ハリスの引見(1857年)、井伊直弼の大老就任と日米修好通商条約(1858年)、将軍継嗣問題 |
| 法号・墓所 | 温恭院。東京都台東区・寛永寺 |
参考:徳川家定|コトバンク
参考:お美津の方|コトバンク
ブリタニカは、阿部正弘を老中とし、水戸の徳川斉昭を顧問格として外交問題にあたろうとしたと記します。
同じ項目は、安政4年(1857年)の阿部の死後に朝廷や西南雄藩との協調が破れ、継嗣問題で一橋派と南紀派が対立したと続けます。
本記事で取り上げた政治上の判断は、大老の人事と継嗣の決定です。ただし山川は継嗣の決定を直弼の判断として書き、年表の冒頭に挙げた「大老は掃部頭しかいない」の言葉も、原典は示されていません。

今回調べた範囲では、あなたの判断として目立つのは、大老の人事と跡継ぎの2つでした。少ないと思いますか。

そう書く書物があるなら、そうしておけ。
掃部頭が決めたと書く書物もあろう。
どちらにせよ、余の名で出た話じゃ。
黒船来航から幕府の終わりまでの流れは、学習まんがの通史でも追えます。
【PR】
学習まんが|BOOK☆WALKER
この本の読みどころ
- 第11巻は「江戸時代後期」を扱い、【電子特別版】はまんがのみを収録した版です
- 黒船の来航から、江戸幕府の終わりまで話が進みます
BOOK☆WALKERで電子書籍版を販売しています(2026年11月時点。販売状況は変わることがあります)。
※BOOK☆WALKERを初めて使う場合、会員登録から30日以内の最初の購入は、税抜価格の50%分がコインで戻ります(2026年10月5日時点。Webストアでの購入が対象で、内容は予告なく変わることがあります)。
よくある質問(FAQ)
徳川家定の死因は何ですか?
確定していません。今回確認した事典は病名を挙げていません。脚気衝心とする見方は篠田達明『徳川将軍家十五代のカルテ』(2005年)による後世の診断で、コレラ説と毒殺の噂には根拠となる史料が示されていません。
徳川家定はいつ、何歳で亡くなりましたか?
安政5年7月6日(1858年8月14日)、江戸で亡くなりました。満34歳(数え35歳)でした。事典の「35歳」は数え年です。文政7年4月8日(1824年5月6日)の生まれです。
徳川家定の命日が8月8日と書かれているのはなぜですか?
8月8日は幕府が死を公表した発喪の日で、『続徳川実紀』はこの日の巳の上刻に薨御したと記します。実際の死去は7月6日で、『維新史料綱要』は「六日 征夷大将軍徳川家定薨ズ。喪ヲ秘ス」と記しています。
徳川家定は毒殺されたのですか?
今回読んだ『続徳川実紀』と『維新史料綱要』に、毒殺を裏づける記述はありません。処分翌日の死とひと月の秘匿は疑う材料になりそうですが、将軍の死を伏せるのは家治・家斉・家慶・家茂にも見られます。噂がいつ語られ始めたかは確認できていません。
徳川家定は脳性麻痺だったのですか?
篠田達明『徳川将軍家十五代のカルテ』が、乳幼児期の高熱の後遺症の痙性麻痺ではないかと推定しています。後世の推定で、版元の紹介文は、ハリスの日記にも典型的な症状が描かれていると添えています。
徳川家定と篤姫は仲が良かったのですか?
事典で確かめられるのは、安政3年(1856年)の婚儀、約1年半後の家定の死(共同通信の用語解説)、篤姫の落飾と天璋院の号、家定の墓域への埋葬までです。夫婦の仲を伝える記録は、本記事では確認できていません。
徳川家定の遺言はありますか?
『続徳川実紀』の8月8日条に、慶福が若年なので当分は田安慶頼が政事を後見するように、という「御遺言」が布告として載っています。家定自身がいつ、どんな言葉で言い残したかは、今回の史料からは分かりません。
徳川家定の墓はどこにありますか?
東京都台東区の寛永寺、徳川将軍御霊廟です。法号は温恭院。家綱・綱吉・吉宗・家治・家斉・家定の6人の将軍が葬られています。参拝条件や公開日は、寛永寺の最新の案内をご確認ください。
大河ドラマ『逆賊の幕臣』で徳川家定を演じるのは誰ですか?
ふかわりょうさんです。2026年6月23日に発表されました。2008年の『篤姫』では堺雅人さんが演じています。
インタビュー後記 徳川家定の最期から見えてくるもの
7月6日と8月8日。ひと月ずれた2つの日付から、この記事を始めました。
『続徳川実紀』を日付順に読むと、死んだはずの将軍が「御疝積気」を理由に出御しないまま、ロシア使節の御目見を慶福に任せ、8月に入ってから少しずつ具合が悪くなっていきます。
正史に残っているのは、病状ではなく、死を伏せるための段取りでした。
脚気か、コレラか、毒か。その答えは、当時の医師の見立てが見つからない限り出ないのだと思います。
ただ、亡くなる3日前に4人の医師が奥医師に呼ばれ、死の前後に幕府の医師へ蘭方の兼修が許されたことは記録に残っています。幕府の医学が蘭方へ開いたきっかけの一つに、この将軍の病があったのかもしれません。
同じ月に亡くなった島津斉彬については、侍医の容体書を確認できました。家定については、それにあたる記録を今回見つけられませんでした。
家定の跡を継いだ家茂も、8年後に大坂城で亡くなり、死はひと月伏せられました。その話は家茂の記事に続きます。
参考資料
- 国立国会図書館デジタルコレクション 成島司直等編『続徳川実紀』第3篇(経済雑誌社、1906年)温恭院殿御実紀 安政五年七月三日条 ※戸塚静海・遠田(活字は「長庵」)・伊東玄朴ら4人の奥医師召出、和蘭医術兼学の達し、御養君の祝儀の根拠
- 国立国会図書館デジタルコレクション 同書 安政五年七月六日〜八月七日条 ※若年寄・側衆の罷免と岡櫟仙院の隠居、「御疝積気に付御前江召出無之」の注記、ロシア使節御目見の名代、「御痛積気」「少々御勝不被遊」「御不例」「惣出仕」の達しの根拠
- 国立国会図書館デジタルコレクション 同書 安政五年八月八日条 ※「今巳上刻薨御」、田安慶頼の後見の御遺言、普請鳴物停止、東叡山への葬送の達しの根拠
- 国立国会図書館デジタルコレクション 維新史料編纂事務局『維新史料綱要』巻3(1940年)安政五年七月五日〜六日 ※「六日 征夷大将軍徳川家定薨ズ。喪ヲ秘ス」、一橋派の処分、若年寄・側衆・奥医師の処分、和蘭医術兼修の布告の根拠。典拠史料名もここから
- 国立国会図書館デジタルコレクション 同書 安政五年八月三日〜六日 ※「諸侯・有司、登営シテ大将軍徳川家定ノ疾ヲ候ス」、宇津木六之丞の「発喪近キニ至ル」の書状、島津斉彬の急逝の根拠
- 国立国会図書館デジタルコレクション 同書 安政五年八月八日 ※「幕府、征夷大将軍徳川家定ノ喪ヲ発ス」、「故大将軍徳川家定ノ遺命ニ依リ」田安慶頼を後見とする布告の根拠
- 国立国会図書館「虎狼痢/コレラ 労咳/肺結核|本の万華鏡 第11回 はやり病あれこれ」※安政5年のコレラが5月に長崎へ入り、7月に江戸へ達したことの根拠
- Fordham University, Modern History Sourcebook「Townsend Harris: Audience with the Tycoon, 1857」※ハリスの日記の引見の場面(頭を反らし右足を踏み鳴らした動作、将軍の言葉)の英文抜粋の根拠。Eva March Tappan 編『The World’s Story』(1914年)からの抜粋
- 寛永寺「徳川将軍御霊廟(境内案内)」※葬られている6人の将軍、戦災による焼失、勅額門・水盤舎・宝塔の現存、位牌所の再建年の根拠
- 彦根城博物館「井伊直弼の大老政治について」※堀田正睦の進言と家定の「大老は掃部頭しかいない」の紹介の根拠
- 茨城県立歴史館 茨城歴史事典「日米修好通商条約調印」※4月23日の大老就任、6月19日の調印、7月5日の処分の根拠
- 松戸市戸定歴史館「徳川慶喜・昭武関係年表 一」※慶応2年7月20日の家茂の死去の根拠
- コトバンク「徳川家定」※生没年月日、家慶の四男、幼名・初名・法号、「病死」「病没」「没した」の記述、発喪8月8日、在職の終わり、7月の家督、有姫・寿明姫、ハリス引見の時期、ブリタニカの阿部正弘・徳川斉昭・一橋派と紀伊派(本記事は南紀派と表記)の記述の根拠
- コトバンク「徳川実紀」※日本大百科全書の『続徳川実紀』の説明(家斉・家慶の2代だけが整備され、他の3代は史料を配列し綱文をつけたにすぎない)の根拠
- コトバンク「癪」※世界大百科事典の疝癪の説明の根拠
- コトバンク「天璋院」※島津斉彬の養女・近衛家の養女、安政3年の婚儀、共同通信ニュース用語解説「約1年半で家定が病没」、落飾、徳川本家の廃絶回避への尽力、1883年11月の死去、「上野の家定の墓域に埋葬」の根拠
- コトバンク「お美津の方」※本寿院が家定の母で、1807〜1885年であることの根拠
- コトバンク「遠田澄庵」※日本人名大辞典「脚気治療にすぐれる」「安政5年幕府奥医師となり、13代将軍徳川家定や、静寛院宮の脚気を診察した」の根拠
- コトバンク「伊東玄朴」※山川「将軍徳川家定の重病のとき」の奥医師抜擢、ブリタニカの蘭方医として初めての奥医師の根拠
- コトバンク「戸塚静海」※日本大百科全書「将軍徳川家定の治療にあたる」の根拠
- コトバンク「脚気」※世界大百科事典の脚気衝心の説明、日本大百科全書の1910年の根拠
- コトバンク「田安慶頼」※日本人名大辞典「将軍徳川家茂の後見職となり」の根拠
- コトバンク「徳川家茂」※10月25日の将軍宣下、慶福が継嗣と決まった時期の根拠
- コトバンク「将軍継嗣問題」※6月25日の継嗣公表、7月5日の処分の根拠
- コトバンク「日米修好通商条約」※安政5年6月19日(1858年7月29日)の調印の根拠
- 新潮社「徳川将軍家十五代のカルテ」(篠田達明、新潮新書、2005年5月16日)※目次の家定の項「死因は脚気衝心(脳性麻痺)」、増上寺の霊廟から発掘された遺体と文献をもとに診断した本であること、蘊蓄倉庫の痙性麻痺の推定の根拠。本記事は本文を確認していません
- ステラnet「2027年大河ドラマ「逆賊の幕臣」新キャスト発表!宅麻伸、ふかわりょう、神尾楓珠、岩田剛典、北村一輝、柄本明、江戸城で出会う人々を演じる」(2026年6月23日)※ふかわりょうさんの配役と役紹介の文言の根拠
- ザテレビジョン「篤姫 第33話「皇女和宮」」※2008年の『篤姫』で堺雅人さんが家定役、宮崎あおいさんが篤姫役であることの根拠
- レキシル「徳川家定の死因とは?うつけのふりをしてた説や暗殺説と篤姫との夫婦仲を解説」※一般向け記事が脚気説・コレラ説・暗殺説を挙げ、史料名を示していないことの確認元
- まなれき「徳川家定とは?病弱な13代将軍の素顔・篤姫との夫婦仲・将軍継嗣問題をわかりやすく解説」※一般向け記事が脚気説・コレラ説・毒殺説を挙げ、「史料的な裏付けに乏しい」としていることの確認元
- BOOK☆WALKER「徳川将軍家十五代のカルテ」※枠で紹介した本の作品紹介と販売状況の確認元
- KADOKAWA「日本の歴史 11 黒船と開国 江戸時代後期【電子特別版】」※枠で紹介した巻の作品紹介と目次の根拠
- BOOK☆WALKER「日本の歴史(11)【電子特別版】 黒船と開国 江戸時代後期」※枠で紹介した巻の販売状況の確認元












コメント