名言を集めるのが趣味なので、戦国武将の言葉はひと通り手帳に写してきました。それでも武田信玄だけは、ずっと引っかかっていました。
引っかかりの正体は、名言のページを何十と見比べても、どこにも出典が書かれていないことです。「人は城、人は石垣、人は堀」も「一生懸命だと知恵が出る」も、言葉だけが宙に浮いたまま並んでいます。
そこで今回は、腹をくくって元をたどってみました。『甲陽軍鑑』の本文にあたり、国立国会図書館のレファレンス事例を読み、山梨の自治体が公開している資料を開く。地味な作業でしたが、結果ははっきり分かれました。
この記事の結論
先に結論を書いておきます。35件のうち、信玄の治世に制定された法令として条文内容を確認できたのは1件でした。17件は出典そのものを特定できません。
さらに『甲陽軍鑑』に載る文章にも、信玄の発言や歌として紹介されているものと、編者の大将論や中国古典からの引用が混ざっています。「『甲陽軍鑑』に書いてある」は「信玄がそう言った」とイコールではないのです。
- 1件
分国法で条文を確認 - 3件
信玄の言葉として紹介 - 17件
出典を特定できず
この記事では、信玄の言葉として伝わるものを35件集め、一つずつ「出典・解釈・現代へのヒント」を表にまとめました。
さらに信玄AI(武田信玄をモデルにしたAI)にも登場してもらいます。ただし信玄への帰属を確認できない項目では、信玄AIも自分の発言としては扱いません。
※以下の信玄AIの発言部分は、公開されている史料をもとに武田信玄の人物像を再現した創作です。信玄本人の発言を記録したものではありません。掲載する項目は、出典をたどれたものに史料名と該当箇所を示し、たどれないものは区分C・Dとして明記しています。信玄AIが語る背景や意味の説明にも創作を含みます。
出典の確かめ方と、公開前に行っているチェックは編集方針にまとめています。

信玄さん、よろしくお願いします。今日は、あなたの名言とされる35件を一つずつ持ってきました。

35もか。儂が一生で口にした言葉より、後の世が儂に預けた言葉のほうが多そうじゃのう。
どれが儂のもので、どれが預かり物か。分からぬものは分からぬと申す。
堅うならず、茶でも飲む調子で一つずつ片づけてまいろう。
- 武田信玄の名言を読み解く前に|どんな人物だったか
- 武田信玄の名言・伝承35選
- 名言①「人は城、人は石垣、人は堀、情は味方、仇は敵なり」
- 名言②「疾きこと風の如く、徐かなること林の如く、侵掠すること火の如く、動かざること山の如し」
- 名言③「晴信が定めや法度以下において、違反しているようなことがあったなれば、身分の高い低いを問わず、目安をもって申すべし」(現代語訳)
- 名言④「十の物六ツ七ツの勝は十分也。十分にかてばけがありて、後は一分もかちはならぬ」
- 名言⑤「戦いは五分の勝利をもって上となし、七分を中となし、十分をもって下となる」
- 名言⑥「強過たる大将は、我働きばかり搆へ、何のせんさくもなき物也」
- 名言⑦「諸侍を思ふ事、人間のただ喉のかはくに食物を好むごとくに存る事肝要なり」
- 名言⑧「大将一人の覚悟をもつて諸人にかたせ、諸人の勝ちを大将の勝ちといふ」
- 名言⑨「能き大将は、道理を能く別けらるゝを以て名大将とは申し奉つる」
- 名言⑩「善悪同ずれば、則ち功臣倦む」
- 名言⑪「四民用虚ればすなわち国の儲けなし、四民用足ればすなわち国の安楽」
- 名言⑫「家に久しき侍の心やすくつかふ者共は、諸人我に忠節仕る者をば、日比傍輩中わろく共懇にいたし」
- 名言⑬「合戦と城取りは、車の両輪の軍法なり」
- 名言⑭「三年の間、我死たるを隠して国をしづめ候へ」
- 名言⑮「諏訪の海へ具足をきせて、今より三年目の亥の四月十二日に沈め候へ」
- 名言⑯「源四郎、明日は瀬田に旗を立てよ」
- 名言⑰「自分が死した後は、上杉謙信を頼れ」
- 名言⑱「大底還他肌骨好、不塗紅粉自風流」(辞世とされる漢詩)
- 名言⑲「我、人を使うにあらず。その業を使うにあり」
- 名言⑳「渋柿は渋柿として使え。継木をして甘くすることなど小細工である」
- 名言㉑「百人のうち九十九人に誉めらるるは、善き者にあらず」
- 名言㉒「一日ひとつずつの教訓を聞いていったとしても、ひと月で三十か条になるのだ」
- 名言㉓「自分のしたいことより、嫌なことを先にせよ」
- 名言㉔「もう一押しこそ慎重になれ」
- 名言㉕「人間にとって学問は、木の枝に繁る葉と同じだ」
- 名言㉖「戦いは四十歳以前は勝つように、四十歳からは負けないようにすることだ」
- 名言㉗「老人には経験という宝物があるのだ」
- 名言㉘「いくら厳しい規則を作って、家臣に強制しても、大将がわがままな振る舞いをしていたのでは、規則などあってなきがごとしである」
- 名言㉙「大将たる者は、家臣に慈悲の心をもって接することが、最も重要である」
- 名言㉚「信頼してこそ人は尽くしてくれるものだ」
- 名言㉛「今後は、一人働きは無用である」
- 名言㉜「三度ものをいって三度言葉の変わる人間は、嘘をつく人間である」
- 名言㉝「武将が陥りやすい三大失観。分別あるものを悪人と見ること、遠慮あるものを臆病と見ること、軽躁なるものを勇剛と見ること」
- 名言㉞「負けまじき軍に負け、亡ぶまじき家の亡ぶるを、人みな天命と言う。それがしに於いては天命とは思はず、みな仕様の悪しきが故と思うなり」
- 名言㉟「為せば成る、為さねば成らぬ、成る業を、成らぬと捨つる人のはかなさ」
- 【番外編】「一生懸命だと知恵が出る」は武田信玄の言葉?出典をたどる
- 「風林火山」の続きを知っていますか|孫子の原文と武田軍の旗
- 武田信玄の名言・伝承から見えてくる考え方
- よくある質問(FAQ)
- インタビュー後記|武田信玄の言葉が今も響く理由
- 参考資料
武田信玄の名言を読み解く前に|どんな人物だったか
言葉の背景を味わうために、まずは信玄がどんな人物だったのかを確認しておきましょう。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 名前 | 武田信玄(たけだ しんげん)。出家前の名は武田晴信 |
| 生没年 | 1521年〜1573年 |
| 出身 | 甲斐国(現在の山梨県) |
| 活躍した時代 | 戦国時代 |
| 主な事績 | 分国法「甲州法度之次第」の制定/治水/金山の開発/信濃の大部分へ勢力を広げる |
| 一言でいうと | 甲斐を基盤に、領国経営と周辺地域への進出を進めた戦国大名 |
信玄は甲斐国の守護大名の家に生まれ、父・信虎を退けて家督を継いだ人物です。信濃の大部分へ勢力を広げ、駿河へ兵を進め、晩年には西へ向かう途中で病み、信濃の駒場で没したと伝わります。
戦いだけの人ではありません。分国法を定め、堤を築き、金山を掘る。領国をどう保つかという視点は、この記事で扱う大将論や、後世に信玄と結びつけられた伝承の多くにも見いだせます。
信玄の最期については、こちらの記事でくわしく検証しています。

分国法、堤、金山。戦の話より先に、国の中の仕事が並ぶのが意外でした。

戦は、負ければ国を失う。じゃが国の内が痩せておれば、勝っても保てぬ。
堤を築くのも金山を掘るのも、負けぬための支度と思えば、戦と地続きの話よ。
肩書きだけで人が従うてくれる世ではなかった、ということじゃ。
武田信玄の名言・伝承35選
ここからは、信玄の言葉として伝わるものを35件紹介します。選ぶときに大切にしたのは、次の3点です。
- まず分国法や『甲陽軍鑑』で内容を確認できるものを紹介すること
- 広く流布するものも、出典区分を付けて取り上げること
- たどり着けなかったものは、区分Dとして正直に示すこと
各項目の「出典」欄では、資料の種類と確認状況を次の6区分で示しています。
| 区分 | 定義(本記事での件数) |
|---|---|
| A | 信玄の治世に制定された法令(分国法)として、条文内容を確認できた(1件) |
| B1 | 『甲陽軍鑑』本文が、信玄の発言・歌・遺言として紹介している(3件) |
| B2 | 『甲陽軍鑑』本文にあるが、信玄への帰属を本記事では確認できない(8件) |
| 原典 | 中国古典に同文・同趣旨の記述があり、信玄自身の言葉ではない(2件) |
| C | 出典の候補は伝わるが、本記事では該当箇所を確認できていない(4件) |
| D | 出典そのものを特定できていない(17件) |
ここでいちばん注意したいのが、B1とB2の違いです。『甲陽軍鑑』は信玄の発言を記した部分だけでできているわけではありません。編者による「よい大将とは何か」という論や、中国の兵書からの引用も同じ本文に並んでいます。
そのため、B2・原典・C・Dの項目では、信玄AIも自分の発言としては扱いません。意味の読み方だけを語ってもらいます。
『甲陽軍鑑』は、武田家の老臣・高坂弾正昌信(春日虎綱)の遺記をもとに書き継がれたと伝えられる軍学書です。コトバンクの説明では、軍学者の小幡景憲が集大成し、元和7年(1621年)までに成立したと考えられています。
ただし、成立の過程や小幡景憲がどこまで関わったかについては研究上の議論があります。年代や事実の錯誤も早くから指摘されてきました。
明治以降は史料としての価値を否定された時期もありましたが、酒井憲二らの研究によって見直され、戦国期の武士の思想や合戦の作法を伝えるものとして再評価されています。それでも武田氏の実録ではない、という前提は変わりません。
各項目の区分と、確認できた出典の要点を一覧にしました。詳しい解説と信玄AIとの対話は、このあと一つずつ続きます。
| 項目(冒頭) | 区分と出典の要点 |
|---|---|
| ①人は城人は石垣人は堀 | B1:『甲陽軍鑑』品第卅九「或人の云ふ信玄公御歌に」 |
| ②疾きこと風の如く(風林火山) | 原典:『孫子』軍争篇。武田軍の軍旗として伝わる |
| ③晴信が定めや法度以下において | A:『甲州法度之次第』末尾条文(現代語訳で紹介) |
| ④十の物六ツ七ツの勝は十分也 | B2:『甲陽軍鑑』品第十四(大将論の章) |
| ⑤戦いは五分の勝利をもって上となし | C:数字の異なる伝承。該当箇所未確認 |
| ⑥強過たる大将は我働きばかり搆へ | B2:『甲陽軍鑑』品第十四(大将論の章) |
| ⑦諸侍を思ふ事、喉のかはくに食物を好むごとく | B2:『甲陽軍鑑』品第十七 |
| ⑧大将一人の覚悟をもつて諸人にかたせ | B2:『甲陽軍鑑』品第十七 |
| ⑨能き大将は道理を能く別けらるゝ | B2:『甲陽軍鑑』品第十三(大将論の章) |
| ⑩善悪同ずれば則ち功臣倦む | B2:『甲陽軍鑑』品第十三 |
| ⑪四民用足ればすなわち国の安楽 | 原典:『三略』下略。『甲陽軍鑑』品第十四にも見える |
| ⑫家に久しき侍を懇にいたし | B2:『甲陽軍鑑』品第十四 |
| ⑬合戦と城取りは車の両輪の軍法なり | B2:『甲陽軍鑑』品第十七 |
| ⑭三年の間我死たるを隠して国をしづめ候へ | B1:『甲陽軍鑑』品第卅九(レファ協で確認) |
| ⑮諏訪の海へ具足をきせて沈め候へ | B1:『甲陽軍鑑』品第卅九 |
| ⑯源四郎、明日は瀬田に旗を立てよ | C:遺言として流布。該当箇所未確認 |
| ⑰自分が死した後は上杉謙信を頼れ | C:遺言として流布。該当箇所未確認 |
| ⑱大底還他肌骨好、不塗紅粉自風流 | C:辞世として流布。該当箇所未確認 |
| ⑲我、人を使うにあらず。その業を使うにあり | D:出典未特定 |
| ⑳渋柿は渋柿として使え | D:出典未特定 |
| ㉑百人のうち九十九人に誉めらるるは | D:出典未特定 |
| ㉒一日ひとつずつの教訓を聞いていったとしても | D:出典未特定 |
| ㉓自分のしたいことより、嫌なことを先にせよ | D:出典未特定 |
| ㉔もう一押しこそ慎重になれ | D:出典未特定 |
| ㉕人間にとって学問は、木の枝に繁る葉と同じだ | D:出典未特定 |
| ㉖戦いは四十歳以前は勝つように | D:出典未特定 |
| ㉗老人には経験という宝物があるのだ | D:出典未特定 |
| ㉘いくら厳しい規則を作って、家臣に強制しても | D:出典未特定(③と趣旨が重なる) |
| ㉙大将たる者は、家臣に慈悲の心をもって接する | D:出典未特定 |
| ㉚信頼してこそ人は尽くしてくれるものだ | D:出典未特定 |
| ㉛今後は、一人働きは無用である | D:出典未特定 |
| ㉜三度ものをいって三度言葉の変わる人間は | D:出典未特定 |
| ㉝武将が陥りやすい三大失観 | D:出典未特定 |
| ㉞負けまじき軍に負け、亡ぶまじき家の亡ぶるを | D:出典未特定 |
| ㉟為せば成る為さねば成らぬ成る業を | D:出典未特定(上杉鷹山の歌との関係が語られる) |
それでは一つずつ見ていきましょう。
名言①「人は城、人は石垣、人は堀、情は味方、仇は敵なり」
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 出典 | B1:『甲陽軍鑑』品第卅九。「或人の云ふ信玄公御歌に」と、伝え聞いた歌の形で記されている |
| 解釈 | 国を守るのは石垣や堀ではなく、人である |
| 現代へのヒント | 設備や仕組みより先に、人との関係に投資する |
信玄の名言として最も広く知られる歌です。人こそが城であり石垣であり堀である、情けをかければ味方になり、恨みを買えば敵になる、という意味に読まれています。
本文を開くと、興味深いことに気づきます。『甲陽軍鑑』品第卅九は、この歌を「或人の云ふ信玄公御歌に」と書き出しているのです。つまり本文自体が、伝え聞いた歌として紹介しています。
甲府市の資料では、信玄の家訓に「人は城、人は石垣、人は堀、人は塀、心は城、心は石垣」という形も伝わるとしています。言い回しには幅があるようです。

『或人の云ふ信玄公御歌に』。この書き出しだと、詠んだのが信玄さんかどうかは分かりませんね。

その書きようなら、誰かが儂の歌と言うておった、というところまでじゃな。詠み手を儂と決めるわけにはいかぬ。
ただ、歌の中身に異は唱えぬ。石垣は崩れても積み直せるが、背いた者の心は積み直せぬ。
城を固めるより先に、背かれぬ算段をする。負けぬ戦はそこから始まる。
①の歌を載せる『甲陽軍鑑』は、原文に現代語訳を付けた文庫でも読めます。ただし全59品から14品を選んだ抄録で、この歌のある品第卅九が収められているかは、今回確認できていません。
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この作品のポイント
- 武田信玄・勝頼の二代にわたる甲州武士の事績・心構え・軍法・合戦を記した書
- 全二十巻五十九品から、山本勘助の物語・信玄一代記・甲州法度など14品を収める
- 原文に現代語訳を付した一冊
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名言②「疾きこと風の如く、徐かなること林の如く、侵掠すること火の如く、動かざること山の如し」
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 出典 | 原典は中国の兵法書『孫子』軍争篇。信玄自身の言葉ではなく、軍旗の文言 |
| 解釈 | 動くときは風、待つときは林、攻めるときは火、守るときは山のように |
| 現代へのヒント | 場面ごとに速度と構えを切り替える |
「風林火山」として知られる四句です。ただし信玄が考えた言葉ではありません。原典は中国の兵法書『孫子』の軍争篇で、この文句を記した旗が武田軍の軍旗として伝わっています。
旗は今も残っています。山梨市指定有形文化財の「孫子の旗」は、金泥で「疾如風 徐如林 侵掠如火 不動如山」と記されたものです。恵林寺の住職・快川紹喜が書いたと伝えられていますが、これは伝承として紹介されているものです。
甲州市の雲峰寺の宝物殿にも、武田家の軍旗が伝わります。なおこの四句には続きがあり、記事の後半でくわしく見ていきます。

山梨市に残る『孫子の旗』は、金泥で14文字。兵法書の一節そのままです。

孫子は儂の考えた言葉ではない。じゃから旗に向く。誰かの思いつきではのうて、古くからの理と示せるからのう。
旗はまず味方に読ませるもの。陣中で覚えられる長さでなければ役に立たぬ。
筆を執った者については言い伝えがあるそうな。そこは言い伝えのままにしておこう。
名言③「晴信が定めや法度以下において、違反しているようなことがあったなれば、身分の高い低いを問わず、目安をもって申すべし」(現代語訳)
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 出典 | A:信玄の治世に制定された法令として、条文内容を確認できた(分国法『甲州法度之次第』の末尾条文)。本記事が掲げているのは現代語訳 |
| 翻刻の所在 | 『中世法制史料集 第三巻 武家家法I』(岩波書店、1965年)所収。本記事で確認できたのは現存写本の書誌と条文の内容までで、翻刻本文の直接照合はしていない |
| 解釈 | 定めた本人が法を破ったら、身分を問わず訴え出てよい |
| 現代へのヒント | ルールを作る側こそ、そのルールに縛られる |
信玄が定めた分国法の末尾に置かれた条文です。晴信自身が法度に反したときは、身分の上下を問わず「目安」(訴状)をもって申し出てよい、という趣旨が記されています。
見出しに掲げたのは原文ではなく現代語訳です。 翻刻は『中世法制史料集 第三巻 武家家法I』に収められています。本記事で確認できたのは現存写本の書誌と条文の内容までで、翻刻本文の直接照合はしていません。
35件のうち、信玄の治世に制定された法令として、同時代に近い写本で内容を確認できるのはこの条文です。『甲州法度之次第』は天文16年(1547年)に定められ、のちに条文が追加されました。
東京大学法学部研究室図書室法制史資料室が所蔵する写しは、末尾に「天正八庚辰年二月十七日書之」とあります。信玄の没後、勝頼の時代に書写されたものですが、当時通用した法度を伝える標準的なテクストとされています。

分国法の末尾に、晴信自身が法度に反したら、身分を問わず目安で申し出よ、という条がありますね。

ある。法度は下を縛る道具と見られがちじゃが、上が破り放題では誰も本気で守らぬ。
守られぬ法度を抱えた国は、外から攻められる前に内から崩れる。
なぜ末尾に置いたか。いま答えるなら、己によう効く場所じゃから、とでも申そうか。
名言④「十の物六ツ七ツの勝は十分也。十分にかてばけがありて、後は一分もかちはならぬ」
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 出典 | B2:『甲陽軍鑑』品第十四。大将論を述べた章にあり、信玄の発言としては記されていない |
| 解釈 | 十のうち六つか七つ勝てば十分。完全に勝つと、かえって損失を伴う |
| 現代へのヒント | 勝ちすぎない着地点を、あらかじめ決めておく |
「勝敗は六分か七分勝てば良い」として広まっている言葉の、もとにあたる記述です。『甲陽軍鑑』品第十四に、この趣旨の文が確認できます。
十のうち六つ七つの勝ちで十分であり、完全に勝つと損失を伴い、その後は一分の勝ちも得られなくなる、という意味に読まれています。
品第十四は「強すぎる大将」の害を論じた章です。勝ちすぎを戒める発想が、章全体の主題とつながっています。ただし、この一節を信玄の発言として記した箇所は確認できていません。

十のうち六つ七つの勝ちで十分。『甲陽軍鑑』の大将論の章にある一節です。

六つ七つで引き上げる。負けぬ側から見れば、よう分かる話じゃ。
十を取りに行けば、追い詰められた敵は死に物狂いになり、味方は勝ち癖で備えを怠る。
儂の言として記されておらぬのなら、書物の大将論として聞くがよい。中身には頷いておく。
名言⑤「戦いは五分の勝利をもって上となし、七分を中となし、十分をもって下となる」
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 出典 | C:広く流布するが、本記事では該当箇所を確認できず。④とは数字が異なる |
| 解釈 | 五分の勝ちが最上。五分は励みを生み、七分は怠りを、十分はおごりを生む |
| 現代へのヒント | 圧勝より、次への意欲が残る勝ち方を選ぶ |
こちらも勝敗の程度を説いた言葉ですが、④とは数字が違います。五分を上、七分を中、十分を下とし、それぞれが励み・怠り・おごりを生む、と続きます。
同じ人物の言葉として紹介されながら、「六分七分でよい」と「五分が最上」の二種類が並び立っているわけです。本記事では、この五分説の該当箇所を確認できませんでした。
どちらが正しいと断じるより、勝ちすぎを避ける考え方が複数の形で伝えられてきた、と受け取るのがよさそうです。

こちらは五分が上、七分が中、十分が下。④とは数字が合いません。

合わぬなら、合わぬままでよかろう。どの数が正しいかを決める手立ても無いのであろう。
五分でも六分七分でも、言うておることは一つ。勝ちすぎるな、よ。
兵も兵糧も、次の年の分を残して勝つ。数より、そちらを覚えておいてくれ。
名言⑥「強過たる大将は、我働きばかり搆へ、何のせんさくもなき物也」
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 出典 | B2:『甲陽軍鑑』品第十四。編者による大将論の一節 |
| 解釈 | 強すぎる大将は自分の働きばかりを考え、何の詮索もしない |
| 現代へのヒント | 有能な人ほど、自分で抱え込んでいないか点検する |
強すぎる大将は自分の働きにばかり気を取られ、周囲を調べたり考えたりしなくなる、という意味に読まれています。品第十四の中心的な主張です。
同じ章では、強すぎる指導者のもとでは家臣が遠慮して優れた者が去り、無能な者ばかりが残る、とも述べられています。武田勝頼が長篠で敗れたことを、この教訓を生かせなかった結果として解釈する記述も続きます。
「強い大将は良い大将ではない」という視点は、戦国の軍記物としては踏み込んだものです。ただしこれは編者の大将論であり、信玄の発言として記されているわけではありません。

同じ章は、長篠で敗れた勝頼さんを、この教訓を生かせなかった例として書いています。

勝頼が、とな。……長篠で何があったかは、儂には見届けられなんだ話じゃ。
ただ、強すぎる大将は人に問わぬようになる、という論なら分かる。問わねば、地形も敵の備えも耳に入らぬ。
書いた者がそう読んだのなら、その読まれ方に、儂が口を挟む筋はあるまい。
名言⑦「諸侍を思ふ事、人間のただ喉のかはくに食物を好むごとくに存る事肝要なり」
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 出典 | B2:『甲陽軍鑑』品第十七。信玄の発言としては記されていない |
| 解釈 | 家臣を思う気持ちは、渇いた者が求めるほど自然であれ |
| 現代へのヒント | 部下を思うことを、義務ではなく習性にする |
家臣を思う気持ちは、渇いたときに何かを求めるのと同じくらい自然で切実であるべきだ、という意味に読まれています。
本記事で参照した本文では「喉のかはくに食物を好む」となっています。現代の感覚では渇きに求めるのは水ですが、ここでは掲載本文の字句をそのまま示しました。
字句や当時の語義については、底本・翻刻・注釈書による追加確認が必要です。
品第十七は、親族衆から足軽までの人員配置と統治の原則を記した章です。人事の細目を並べたあとにこの一文が置かれている構成が、なかなか効いています。

渇いたときに求めるのが『食物』になっています。今なら水と書きそうです。

字句のことは、書物を校べる者に任せよう。
中身は分かる。渇いた者に、求めよと命じる要はあるまい。家臣を思うのも、そのくらい当たり前でなければ、忙しい折に真っ先に忘れる。
忘れられた家臣は、退き際で踏みとどまってはくれぬ。
名言⑧「大将一人の覚悟をもつて諸人にかたせ、諸人の勝ちを大将の勝ちといふ」
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 出典 | B2:『甲陽軍鑑』品第十七。信玄の発言としては記されていない |
| 解釈 | 大将の覚悟で人々に勝たせ、その勝ちを大将の勝ちと呼ぶ |
| 現代へのヒント | 自分が勝つのではなく、周囲を勝たせる |
大将ひとりの覚悟によって多くの人に勝たせ、その人々の勝ちをもって大将の勝ちと呼ぶ、という意味に読まれています。
⑥の「強すぎる大将」への戒めと、きれいに対をなす一文です。自分が働いて勝つのではなく、覚悟だけを引き受けて、勝ちは配る。
品第十七には「合戦と城取りは車の両輪の軍法なり」という一文も並びます。役割を分けて回す発想が、この章には通底しています。

覚悟は大将ひとりが持ち、勝ちは人々に配る。上司と呼ばれる立場の人に、聞かせたい一文です。

その上司とやらが、手柄も覚悟も両方抱えておるなら、下は動くまい。
手柄は配れるが、科は配れぬ。退けと決めて負けを引き受けるのは、上の役目よ。
書物の大将論じゃが、その上司とやらには効くやもしれぬな。
名言⑨「能き大将は、道理を能く別けらるゝを以て名大将とは申し奉つる」
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 出典 | B2:『甲陽軍鑑』品第十三。編者による大将論の一節 |
| 解釈 | よい大将とは、道理をよく見分けられる者である |
| 現代へのヒント | 強さや勢いより、筋を見分ける力を評価軸にする |
よい大将とは、道理をよく見分けられるからこそ名大将と呼ばれるのだ、という意味に読まれています。品第十三は「弱き大将」の害を論じた章です。
品第十三と品第十四は、弱すぎる大将と強すぎる大将を並べて論じる対の構成になっています。その両方で軸に置かれているのが、この「道理を分ける」力です。
勇猛さでも決断の速さでもなく、筋を見分けられるかどうか。評価の基準そのものが示された一文です。

品第十三と十四は、弱すぎる大将と強すぎる大将を対にして論じています。

弱くても強くてもならぬとは、書いた者は欲張りじゃのう。
勇ましさは若い者にもある。じゃが道理を分けるのは、育てねば身につかぬ。目の前の一戦では正しく、国の十年では誤っておる、ということは幾らでもある。
どの物差しで測るかを違えぬ者が名大将、という論じゃな。
名言⑩「善悪同ずれば、則ち功臣倦む」
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 出典 | B2:『甲陽軍鑑』品第十三。漢文調の一節で、信玄の発言としては記されていない |
| 解釈 | よい者も悪い者も同じ扱いにすれば、功のある家臣は嫌気がさす |
| 現代へのヒント | 評価をならしすぎると、頑張った人から離れていく |
よい働きをした者と、そうでない者を同じように扱えば、忠義を尽くした家臣ほど嫌気がさす、という意味に読まれています。
品第十三では、給与体系を明確にすること(「老若には切符なり」)や、人事評価と法度の設定が重要だと繰り返し述べられています。上杉家の内部分裂と北条家の台頭を対比した例も挙げられます。
なお、この一節は漢文の形をとっています。⑪と同じく中国の古典に由来する可能性がありますが、本記事では出所を特定できませんでした。

『老若には切符なり』と、給与の決め方まで書いてあります。みな同じに扱うほうが揉めない気もしますが。

揉めぬのは、働いた者が黙っておるうちだけよ。
働いた者と働かなんだ者を同じに扱えば、損をするのは働いた者だけ。次の年、その者は同じようには励むまい。
角の立たぬ扱いというのは、たいてい一番励んだ者に角を向けておる。
名言⑪「四民用虚ればすなわち国の儲けなし、四民用足ればすなわち国の安楽」
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 出典 | 原典は中国の兵書『三略』下略「四民用虚、国乃無儲。四民用足、国乃安楽」。『甲陽軍鑑』品第十四にも同趣旨の一節が見える |
| 解釈 | 民が困窮すれば国は成り立たず、民が足りていれば国は安らかである |
| 現代へのヒント | 現場が疲弊していないかを、成果より先に見る |
民の暮らしが立ちゆかなければ国に蓄えはなく、民が足りていれば国は安楽である、という意味に読まれています。
この一節は信玄の言葉ではありません。 原典は中国の兵書『三略』の下略で、「四民用虚、国乃無儲。四民用足、国乃安楽」とあります。『甲陽軍鑑』にも同趣旨の記述がありますが、それは古典を引いたものと考えられます。
信玄の名言として紹介されることの多い一節ですが、出所は中国古典です。名言集で読むときは、この点を分けて受け取る必要があります。

『四民用足、国乃安楽』。これは中国の兵書『三略』の一節でした。

唐土の兵書なら、儂の言葉として並べるのは筋が違う。外しておいてくれ。
中身には文句がない。民の蓄えが尽きれば、兵糧も出ぬ。兵糧の出ぬ国は、戦う前から負けておる。
古い書を学んだ者が書き留めた、というところであろう。
名言⑫「家に久しき侍の心やすくつかふ者共は、諸人我に忠節仕る者をば、日比傍輩中わろく共懇にいたし」
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 出典 | B2:『甲陽軍鑑』品第十四。信玄の発言としては記されていない |
| 解釈 | 長く仕えた家臣と忠節を尽くす者は、同僚受けが悪くても手厚く遇せよ |
| 現代へのヒント | 社内の評判だけで人を判断しない |
長年仕えた家臣や忠節を尽くす者は、日ごろ同僚受けが悪くても手厚く遇するべきだ、という意味に読まれています。
注目したいのは「傍輩中わろく共」という但し書きです。周囲の評判が良くない者であっても、忠節が確かなら大切にせよ、と言っています。
⑩の「善悪同ずれば功臣倦む」と合わせて読むと、評価の基準を人気に置かないという一貫した姿勢が見えてきます。

『傍輩中わろく共』。同僚に嫌われていても、忠節があれば厚く遇せよ、と。

人望のある者を取り立てるのは誰にでもできる。難しいのは、皆に嫌われておる働き者よ。
厳しく言う者は煙たがられる。じゃが、そういう者がおらぬ組は、崩れかけたときに誰も止められまい。
退き際で殿(しんがり)を任せられるのは、案外そういう者じゃ。
名言⑬「合戦と城取りは、車の両輪の軍法なり」
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 出典 | B2:『甲陽軍鑑』品第十七。信玄の発言としては記されていない |
| 解釈 | 野戦と城攻めは、車の両輪のように切り離せない |
| 現代へのヒント | 攻めと守り、どちらか一方だけの体制にしない |
合戦(野戦)と城取り(城攻め)は、車の両輪のように一体の軍法である、という意味に読まれています。
信玄というと川中島の野戦の印象が強い一方、実際には城をめぐる攻防も多く重ねています。この一文は、その両方を一つの技術として捉えた記述です。
品第十七の人員配置の記述と合わせて読むと、役割を分けて同時に回す、という発想が浮かび上がります。

川中島の野戦の印象が強いのですが、城をめぐる攻防も多く重ねていますね。

川中島ばかり語られるのは、派手じゃからであろう。
野で勝っても、城を残せばそこから兵が湧く。城を取っても、野で叩かれれば囲みは解ける。片方だけ磨いた軍は、どこかで止まる。
両輪と申すのはそのため。輪が一つの車は、前へ出ずにその場を回るだけよ。
名言⑭「三年の間、我死たるを隠して国をしづめ候へ」
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 出典 | B1:『甲陽軍鑑』品第卅九(巻十三)。信玄の遺言として記されている。国立国会図書館レファレンス協同データベースに山梨県立図書館の調査事例あり |
| 解釈 | 自分の死を三年間伏せて、国を静めよ |
| 現代へのヒント | 動揺が広がる局面では、情報の出し方まで設計する |
信玄の遺言として最も有名な一節です。自分が生きていると思われているうちは甲斐を攻める国もないだろうから、三年は死を隠して国を守れ、という趣旨とされています。
出典は特定されています。山梨県立図書館の調査によれば、この逸話は『甲陽軍鑑』巻十三(三十九品)にあり、『甲陽軍鑑大成』第1巻本文篇の449ページに該当記述があります。
同じ箇所には、自分の判と花押を記した白紙を800枚あまり用意したので、死後に届く書状にはこれを使えという指示も含まれています。

判と花押を記した白紙を800枚あまり用意した、とまで書かれています。

800枚とは、また念入りな。儂がそう申したかどうかは、確かめようもない話じゃ。
ただ、道理は分かる。大将の死が知れれば、周りが一斉に動く。書状が途切れぬことが、何よりの守りになる。
死んでなお負けぬ算段をする大将か。書いた者は、儂をよほど用心深い男と見ておったらしい。
名言⑮「諏訪の海へ具足をきせて、今より三年目の亥の四月十二日に沈め候へ」
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 出典 | B1:『甲陽軍鑑』品第卅九。信玄の遺言として記されている |
| 解釈 | 三年後の四月十二日に、鎧を着せて諏訪湖へ沈めよ |
| 現代へのヒント | 伝説として語られる話ほど、元の文をたどってみる |
遺骸を諏訪湖に沈めよ、という有名な遺言です。『甲陽軍鑑』品第卅九に、この趣旨の記述が確認できます。
ただし、実際にそのとおりに行われたと確認できるわけではありません。信玄の墓は恵林寺にあり、その後の埋葬や葬儀については別の記録が残っています。
記されていることと、そのとおりに行われたことは別です。この遺言は、軍記物に載る記述として受け取るのが正確でしょう。

諏訪湖に沈めよ、と記されていますが、お墓は恵林寺にあります。

骸がどう扱われたかは、儂には見届けられなんだ話じゃ。
記されておることと、行われたことは別。墓がそこにあるというなら、それも一つの手がかりであろう。
鎧を着て湖の底、というのは語り草としては派手じゃな。派手な話ほど、後で形が整うと聞く。
名言⑯「源四郎、明日は瀬田に旗を立てよ」
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 出典 | C:遺言として広く流布するが、本記事では該当箇所を確認できず |
| 解釈 | 瀬田(近江)に武田の旗を立てよ、という最期の言葉とされる |
| 現代へのヒント | 語り継がれる言葉ほど、どこから来たのかを確かめる |
信玄の最期の言葉として、たびたび紹介される一句です。源四郎(山県昌景の初名とされることが多い)に向けて、瀬田に旗を立てよと命じたとされます。
本記事では、この文言の該当箇所にたどり着けませんでした。⑭や⑮のように出典を特定できた遺言がある一方で、この言葉は確認できていません。
なお信玄の西上作戦については、その目的に諸説があります。上洛が目的だったと断定できる史料は乏しく、この言葉を上洛の意思の根拠として扱うことはできません。

『源四郎、明日は瀬田に旗を立てよ』。最期の言葉として有名ですが、出典の箇所にはたどり着けませんでした。

たどり着けぬなら、儂も己の言葉とは認められぬ。
それに、西へ兵を進めた目当てを、都に旗を立てることと決めてかかるのは早い。兵を出す前に考えるのは、まず兵糧の続く道と、退く道じゃ。
道の先に何を見ておったかは、いま聞かれても、一つに決めて申すつもりはない。
名言⑰「自分が死した後は、上杉謙信を頼れ」
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 出典 | C:遺言として流布するが、本記事では該当箇所を確認できず |
| 解釈 | 自分の死後は、宿敵だった上杉謙信を頼れ |
| 現代へのヒント | 競い合った相手ほど、こちらの筋を知っている |
長年戦った相手である上杉謙信を、死後は頼れと遺した、という逸話です。宿敵同士の信頼を象徴する話として、繰り返し紹介されてきました。
頼れと遺されたとされるその謙信自身も信玄の5年後には世を去っており、死因には5つの説が残っています。
こちらも本記事では該当箇所を確認できませんでした。両者が長年対立したことは確認できますが、この遺言の出典は特定できていません。
物語として魅力的な言葉ほど、後世に形を整えられている可能性があります。

宿敵の謙信を頼れ。物語としては出来すぎな気もします。

出来すぎじゃな。儂もそう思う。
輝虎とは長う競うた。じゃが、死に際に何と申したかは確かめられぬのであろう。ならば認めるわけにはいかぬ。
敵を頼れという話は、聞くほうには気持ちがよい。気持ちのよい話ほど、後の世で丸く整えられるものよ。
名言⑱「大底還他肌骨好、不塗紅粉自風流」(辞世とされる漢詩)
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 出典 | C:辞世として流布。『甲陽軍鑑』に漢詩として記されるとする紹介があるが、本記事では該当箇所を確認できず |
| 読み下し | 「大ていは地に任せて肌骨好し、紅粉を塗らず自ずから風流」として広まっているが、読み下しと訳には解釈の幅がある |
| 解釈 | 飾らないありのままの姿がよい、という意味に読まれている |
| 現代へのヒント | 取り繕うより、素のままを整える |
信玄の辞世として紹介される句です。おおむね自然に任せて、ありのままの姿がよい、白粉を塗らずともそれが風流である、という意味に読まれています。
注意したいのは読み下しです。広く紹介される「大ていは地に任せて肌骨好し」は、漢文の「還他」を訳したものとされますが、その根拠は示されていません。読み下しと訳には解釈の幅があります。
『甲陽軍鑑』には漢詩の形で記されている、とする紹介がありますが、本記事ではその該当箇所を確認できませんでした。信玄の辞世には諸説があり、この句だけが辞世と確定しているわけでもありません。

『大底還他肌骨好』。『地に任せて』と読み下されていますが、『還他』をそう読む根拠は示されていません。

読み下しに幅があるなら、訳にも幅が出よう。
飾らぬがよい、という句には禅の言い回しに近いものを感じる。じゃが、これが儂の辞世かどうかは定まっておらぬのであろう。
定まらぬものを、死に際の一句として飾ってくれるな。
ここから㉟までの17件は、いずれも本記事で出典そのものを特定できませんでした。信玄AIも、これらを自分の言葉としては扱いません。各項目では、その断りを繰り返さずに意味の読み方だけを見ていきます。
名言⑲「我、人を使うにあらず。その業を使うにあり」
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 出典 | D:出典未特定 |
| 解釈 | 人そのものではなく、その人の技を使う |
| 現代へのヒント | 人柄で選ばず、発揮できる力で配置する |
自分は人を使っているのではなく、その人の技(業)を使っているのだ、という意味に読まれています。人材登用の考え方を示した言葉として、よく引かれます。
⑫の「同僚受けが悪くても忠節があれば手厚く」という記述と重ねると、後世がこの方向で信玄像を整理してきたことが分かります。

人ではなく、その人の『業』を使う。人事の本に載っていそうな言葉です。

人を丸ごと好き嫌いで選んでおっては、使える者はすぐ尽きる。
槍の者、算用の者、伝令の者と、得手で分ければ大概の者に置き場所がある。
後の世がそういう理屈を儂に重ねたのなら悪い気はせぬが、儂の言葉と並べるのは待ってくれ。
名言⑳「渋柿は渋柿として使え。継木をして甘くすることなど小細工である」
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 出典 | D:出典未特定 |
| 解釈 | 渋いものは渋いまま活かせ。無理に変えようとするな |
| 現代へのヒント | 短所を直させるより、その特性が活きる場所を探す |
渋柿を甘くしようと接ぎ木をするのは小細工であり、渋柿は渋柿のまま使えばよい、という意味に読まれています。人の個性をそのまま活かす考え方として紹介されます。
信玄の人材観を語るときによく引かれる言葉ですが、出典を特定できませんでした。

渋柿は渋柿のまま。接ぎ木して甘くするのは小細工だ、と。

甘うしようとして木を弱らせては、元も子もない。
直らぬところを直すより、渋いまま置き場所を探すほうが早かろう。そう読める言葉じゃ。
名言㉑「百人のうち九十九人に誉めらるるは、善き者にあらず」
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 出典 | D:出典未特定 |
| 解釈 | ほぼ全員に誉められる者は、かえって良い者ではない |
| 現代へのヒント | 全方位に好かれることを目標にしない |
百人のうち九十九人に誉められるような者は、かえって良い者とは言えない、という意味に読まれています。八方美人への戒めとして受け取られてきました。
⑫の本文にある「傍輩中わろく共」という一節と、発想の方向はよく似ています。

百人のうち九十九人に誉められる人は、善い者ではない。ずいぶん厳しい物差しです。

皆に誉められる者は、誰にも逆らわなんだ者でもある。まずいと思うても、まずいと言わぬ。
傍輩受けの悪い忠義者を大事にせよ、という話と同じ向きじゃ。
名言㉒「一日ひとつずつの教訓を聞いていったとしても、ひと月で三十か条になるのだ」
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 出典 | D:出典未特定 |
| 解釈 | 一日一つでも、一年で三百六十になる |
| 現代へのヒント | 「一日一つだけ学ぶ」を積み上げる |
一日に一つずつ教訓を聞いていけば、ひと月で三十か条、一年で三百六十か条になるではないか、と続く言葉です。地道な積み重ねを説いたものとして紹介されます。
数字の具体性が印象的な言葉ですが、出典を特定できませんでした。

1日1つでも、ひと月で30か条、1年で360になる計算です。

数を並べて見せるのは、うまいやり方じゃ。人は目に見える数でなければ本気にせぬ。
兵糧も同じよ。1日分の不足は見逃しても、ひと月分と言われれば誰でも青うなる。
名言㉓「自分のしたいことより、嫌なことを先にせよ」
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 出典 | D:出典未特定 |
| 解釈 | やりたいことより、気の進まないことを先に片づける |
| 現代へのヒント | 一日の最初に、避けていた用件を置く |
したいことより先に嫌なことを片づけよ、この心構えがあれば途中で挫折することはない、と続く言葉です。
仕事術の文脈で引かれることが多く、現代のビジネス書とも相性のよい言葉です。

嫌なことを先に。耳が痛い人は多そうです。

気の進まぬ用は、後に回すほど重うなる。重うなれば、いよいよ手がつかぬ。
戦でも、嫌な知らせほど先に聞いた者が負けを小さくする。今の世の仕事の心得としても、そう読めよう。
名言㉔「もう一押しこそ慎重になれ」
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 出典 | D:出典未特定 |
| 解釈 | あと一歩というときこそ、慎重に |
| 現代へのヒント | 勝ちが見えた場面で、いったん手を止める |
あと一押しで決まる、という場面でこそ慎重になれ、という意味に読まれています。勝ちが見えたときの油断を戒めた言葉です。
④の「十分にかてばけがありて」という記述と、警戒の向きは一致しています。

あと一押しこそ慎重に。④の『十分にかてばけがありて』と向きが同じです。

もう一押しと思うとき、人は敵ではのうて己の勢いを見ておる。
足元はどうか、退き道は残っておるか。勝ちが見えたときこそ手を止めよ、というなら、六つ七つで引き上げよという記述と同じ向きじゃ。
して、そなたの退き際はどこじゃ。何で決めておる。

決めておくべきだとは思います。ただ、引き際は始める前より、途中のほうが見えやすい気がします。

途中で見えたときには、たいてい引けぬようになっておる。勢いがついておるからのう。
始める前に、ここまで来たら退く、と一つ決めておけ。外れても、決めておいた者のほうが損は小さい。
名言㉕「人間にとって学問は、木の枝に繁る葉と同じだ」
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 出典 | D:出典未特定 |
| 解釈 | 学問は、木にとっての葉のようなもの |
| 現代へのヒント | 学びを飾りではなく、生きるための機能として持つ |
人にとっての学問は、木の枝に繁る葉と同じだ、という意味に読まれています。葉がなければ木は育たない、という比喩として紹介されます。
信玄が学問や仏道を好んだことは伝わっていますが、この言い回しの出典は特定できませんでした。

学問を木の葉にたとえています。信玄さんは学問や仏道を好んだと伝わっていますね。

葉のない木は、枯れはせぬが太らぬ。学問もそれに似ておる、という読み方であろう。
もっとも、学問を好んだと伝わることと、この言い回しが儂のものかどうかは別の話。こちらは預かり物として置いておく。
名言㉖「戦いは四十歳以前は勝つように、四十歳からは負けないようにすることだ」
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 出典 | D:出典未特定 |
| 解釈 | 若いうちは勝ちにいき、年を重ねたら負けない戦い方に切り替える |
| 現代へのヒント | 年齢や立場に応じて、攻めと守りの比率を変える |
四十歳より前は勝つように、四十歳からは負けないようにせよ、という意味に読まれています。二十歳前後は勝ちすぎるな、と続く形でも紹介されます。
年齢で戦い方を変えるという発想は、④の勝ちすぎを戒める考え方とつながって語られます。

40歳までは勝つように、40歳からは負けないように。年齢で区切るのが面白いです。

負けぬ側から申せば、年を取るほど、負けたときに失うものが増える。同じ戦い方は続けられぬ。
若いうちは勝ちを取りに行き、年を重ねたら損を避ける。そう読める言葉じゃな。
年で区切る考えは面白いが、儂の言葉と決めるのは早い。
名言㉗「老人には経験という宝物があるのだ」
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 出典 | D:出典未特定 |
| 解釈 | 年長者の経験は、それ自体が財産である |
| 現代へのヒント | 現役の速さで測らず、経験の蓄積を評価する |
年長者には経験という宝物がある、という意味に読まれています。年齢を理由に人を外さず、経験の蓄積を評価する言葉として紹介されます。

老人には経験という宝物がある。若い人のほうが重宝される場面も多いのですが。

足の速いのは若い者じゃ。じゃが、昔その谷で何が起きたかを知るのは、年寄りのほかにおらぬ。
地形を知る者を外して兵を出すのは、目をつぶって山道を行くようなもの。使い道が違うだけよ。
名言㉘「いくら厳しい規則を作って、家臣に強制しても、大将がわがままな振る舞いをしていたのでは、規則などあってなきがごとしである」
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 出典 | D:出典未特定(③の分国法の条文と趣旨が重なる) |
| 解釈 | 上が守らない規則は、規則として機能しない |
| 現代へのヒント | ルールの実効性は、決めた人の振る舞いで決まる |
厳しい規則を作っても、大将自身が勝手をしていては規則は無いに等しい、という意味に読まれています。まず自分の言動を省みよ、と続きます。
③で見た『甲州法度之次第』の末尾条文と、趣旨はほぼ重なります。確認できる条文と、流布する言葉が響き合っている例です。

これは③の分国法の末尾条文と、言っていることがほぼ同じです。

残った条文と、後の世に広まった言葉が、同じ向きを指しておる。そういうこともあるのじゃな。
上が守らぬ法度は、初めから無いのと同じ。言葉の出どころは分からずとも、考え方のほうは条文が証人になってくれよう。
名言㉙「大将たる者は、家臣に慈悲の心をもって接することが、最も重要である」
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 出典 | D:出典未特定 |
| 解釈 | 大将にとって第一は、家臣への慈悲である |
| 現代へのヒント | 成果より先に、相手の事情を聞く |
大将にとって最も大切なのは、家臣に慈悲の心で接することだ、という意味に読まれています。
⑦の「喉のかはくに食物を好むごとく」という記述を、より分かりやすく言い換えた形として広まった可能性があります。

家臣に慈悲を。⑦の『喉のかはくに食物を好むごとく』を、分かりやすく言い換えたようにも読めます。

慈悲とは、僧の説法で聞く言葉じゃな。大将が口にすると、どうも据わりが悪い。
言うておることは、渇きのごとく家臣を思えという記述に近い。後の世が分かりやすう言い換えたのかもしれぬのう。
名言㉚「信頼してこそ人は尽くしてくれるものだ」
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 出典 | D:出典未特定 |
| 解釈 | 先に信頼するから、人は尽くしてくれる |
| 現代へのヒント | 信頼を成果への報酬ではなく、前払いにする |
こちらから信頼するからこそ、人は力を尽くしてくれる、という意味に読まれています。信頼を先に渡す、という順番が語られる言葉です。
①の「人は城」と並べて紹介されることが多い一句です。

信頼を先に渡す。①の『人は城』と並べて紹介されることが多い一句です。

働きを見てから信じるのでは遅いことがある。危うい場へ人を出すなら、こちらが先に腹を見せねばなるまい。
外れたときの備えまで含めて、上に立つ者の器量。信じるにも退き道は要る、ということじゃ。
名言㉛「今後は、一人働きは無用である」
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 出典 | D:出典未特定 |
| 解釈 | 手柄を求めた単独行動は、味方の勝ちを失わせる |
| 現代へのヒント | 個人の成果より、チームの勝ち筋を優先する |
足軽を預かる立場でありながら独りよがりに動けば、組の者は指揮を失い、味方の勝利も失われる、と続く言葉です。
品第十七に見られる、役割を分けて組織で動くという発想とはよく合っています。

組を預かる者が独りで手柄を狙えば、組は指揮を失う、と続きます。

一人で駆け出せば、その者は首を一つ取るやもしれぬ。じゃが、組は頭を失う。
組が崩れれば隣も崩れる。一人の手柄が味方の勝ちを削る、という道理じゃ。
名言㉜「三度ものをいって三度言葉の変わる人間は、嘘をつく人間である」
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 出典 | D:出典未特定 |
| 解釈 | 話すたび内容が変わる者は、信用できない |
| 現代へのヒント | 一度の発言ではなく、繰り返しの一貫性で見る |
三度話して三度とも言うことが変わる人間は、嘘をつく人間だ、という意味に読まれています。人を見抜く基準を示した言葉です。
一度の印象ではなく、繰り返しの一貫性で判断するという視点が語られています。

三度話して三度変わる人は嘘つき。一度目では決めない、という基準です。

一度なら言い違いもあろう。二度なら事情が変わったのやもしれぬ。
三度とも変わるなら、それは事情ではのうて性分よ。物差しとしては分かりやすい。
名言㉝「武将が陥りやすい三大失観。分別あるものを悪人と見ること、遠慮あるものを臆病と見ること、軽躁なるものを勇剛と見ること」
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 出典 | D:出典未特定 |
| 解釈 | 思慮深い者を悪人、控えめな者を臆病、軽率な者を勇敢と見誤る |
| 現代へのヒント | 目立つ人を有能、慎重な人を消極的と決めつけない |
武将が陥りやすい三つの見誤りを挙げた言葉です。思慮のある者を悪人、控えめな者を臆病、軽はずみな者を勇敢と取り違える、と説きます。
⑨の「道理を能く別けらるゝ」という記述と、人を見誤ることへの警戒は一致しています。

分別ある者を悪人、遠慮ある者を臆病、軽はずみな者を勇敢と見誤る。三つにきれいに分かれています。

整いすぎておるのう。三つに数えて並べるのは、後の世の書きようにも見える。
もっとも、慎重な者を臆病と見るのは、よくある見誤りよ。退き際の早い者は、たいてい臆病と陰口を叩かれる。
名言㉞「負けまじき軍に負け、亡ぶまじき家の亡ぶるを、人みな天命と言う。それがしに於いては天命とは思はず、みな仕様の悪しきが故と思うなり」
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 出典 | D:出典未特定 |
| 解釈 | 負けるはずのない戦に負けるのは天命ではなく、やり方が悪いからだ |
| 現代へのヒント | 失敗を運のせいにせず、手順を点検する |
負けるはずのない戦に負け、滅ぶはずのない家が滅ぶのを人は天命と言うが、自分は天命とは思わない、すべてやり方が悪いからだ、という意味に読まれています。
運や天命に責任を預けない姿勢を示した言葉として、経営の文脈でもよく引かれます。

負けるはずのない戦に負けるのは、天命ではなく、やり方が悪いから。経営の話でもよく引かれる言葉です。

天命と申せば、誰も責めを負わずに済む。じゃからこそ危うい。
負けるはずのない戦に負けたなら、兵糧か、下知か、退き際か、どこかに穴があった。それを探さねば、次も同じところで転ぶ。
名言㉟「為せば成る、為さねば成らぬ、成る業を、成らぬと捨つる人のはかなさ」
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 出典 | D:出典未特定。上杉鷹山の歌との関係が語られるが、前後関係を確認できる資料は見つからず |
| 解釈 | できることを、できないと諦めてしまう人のはかなさ |
| 現代へのヒント | 「できない」と判断する前に、試した回数を数える |
やればできる、やらなければできない、できるはずのことを「できない」と投げ出してしまう人のはかなさよ、という意味に読まれています。
よく知られているのは、米沢藩主・上杉鷹山の歌のほうです。米沢市の説明によれば、天明5年(1785年)、鷹山は世子となった顕孝に仕える家臣へ14ヵ条の壁書を示し、その最後に「なせば成るなさねば成らぬ何事も成らぬは人のなさぬなりけり」の歌を添えました。
信玄の歌がその元になったとする紹介もあります。
ただし本記事では、信玄の歌の出典も、二つの歌の前後関係も確認できませんでした。出典の確認できる鷹山の歌と、信玄の歌として流布する出典未特定の句が、よく似ていることまでが確かめられる範囲です。

米沢の殿様だった上杉鷹山が、1785年に『なせば成る』の歌を家臣に示しています。信玄さんの歌として流布する句と、よく似ています。

上杉の名が、ここでも出てくるとはのう。歌でまで並べられるとは思わなんだ。
どちらが先かは、確かめられぬのであろう。ならば決めずにおけばよい。
似た歌が二つ残ったのは、それだけ多くの者が口ずさんだから、とも考えられよう。
【番外編】「一生懸命だと知恵が出る」は武田信玄の言葉?出典をたどる
35件の外に、どうしても触れておきたい一句があります。「一生懸命だと知恵が出る。中途半端だと愚痴が出る。いい加減だと言い訳が出る」。結論から言うと、信玄の言葉と確認できる資料は見つかっていません。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| フレーズ | 一生懸命だと知恵が出る。中途半端だと愚痴が出る。いい加減だと言い訳が出る |
| 信玄の言葉か | 信玄の言葉と確認できる資料は見つかっていない |
| 出典として挙げられるもの | 『正範語録』。ただし『国書総目録』に書名が確認できない |
| 指摘されている由来 | 後藤静香の詩「本気」との関連 |
| 語彙の問題 | 一緒に掲載される長文版に含まれる「人格」「情報」は、確認できる用例が明治期以降 |
出典をたどる調査は行われています。本記事が参照した調査記事では、慶応3年(1867年)までの日本の書籍を収録する『国書総目録』に、出典とされる『正範語録』の書名を確認できなかったとしています。
この三句と一緒に信玄の言葉として掲載される長文版には、「人格」「情報」という語も含まれています。いずれも現在確認できる用例は明治期以降で、長文版全体を戦国時代の文章とみなすことは困難です。
この一句は、プロ野球選手の大谷翔平選手が高校時代から掲げていたという紹介が広まり、さらに知られるようになりました。ただし本記事では、報道記事のほかに一次資料を確認できていません。
なお、これは「信玄が絶対に言っていない」ことを証明するものではありません。信玄の言葉と確認できる資料が見つかっていない、というのが正確な言い方です。言葉そのものの力は、出どころとは別に受け取ることができます。

野球の大谷翔平選手が高校時代から掲げていた、と紹介されて広まった言葉です。ただ、信玄さんの言葉と確かめられる資料は見つかりませんでした。

その言葉、儂は知らぬ。『人格』『情報』という言葉も、儂の耳には馴染まぬ。
誰の言葉かということと、誰かの支えになるかということは、別の話よ。その若者の支えになったのなら、言葉のほうは本望であろう。
ただ、出どころは出どころとして正しておいてくれ。
「風林火山」の続きを知っていますか|孫子の原文と武田軍の旗
名言②で触れた「風林火山」を、もう少し掘り下げます。実はこの四句には続きがあります。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 原典 | 『孫子』軍争篇 |
| 旗の文言 | 疾如風 徐如林 侵掠如火 不動如山(14文字) |
| 続きの句 | 難知如陰 動如雷霆(知りがたきこと陰の如く、動くこと雷霆の如し) |
| 旗の伝来 | 山梨市指定有形文化財「孫子の旗」ほか。快川紹喜が書いたと伝えられる |
| 四句だけにした理由 | 断定できる資料は確認できていない |
甲府市の資料によれば、武田軍の旗には「其」を略した14文字が記されていました。『孫子』軍争篇の原文では、この四句のあとに「難知如陰、動如雷霆」が続きます。
書き下すと「知りがたきこと陰の如く、動くこと雷霆の如し」。味方の動きは闇のように敵に知られず、動くときは雷のように激しくあれ、という意味に読まれています。
なぜ二句が旗に入っていないのかは、断定できる資料が確認できていません。文字数の都合とする見方も、あえて伏せたとする見方も紹介されていますが、いずれも推測にとどまります。
『孫子』の一節を記した軍旗として、広く知られています。兵法書の文句を掲げること自体が、周囲へのメッセージになっていたのかもしれません。

原文では四句のあとに『難知如陰、動如雷霆』が続きますが、旗には入っていません。

なぜ外したかと聞かれても、いまそれらしい理屈をつけるのは筋が違う。
ただ、旗は味方だけでなく敵も見るもの。こちらの動きは闇のように知れぬ、と、わざわざ敵に書いて見せる大将がおるかのう。
……と申せば、もっともらしく聞こえるであろう。そういう理屈がいくつも立つから、決められぬのじゃ。
武田信玄の名言・伝承から見えてくる考え方
35件を並べてみると、いくつかの共通点が浮かび上がってきます。
- 人を城とみなす(設備より人、評判より忠節)
- 勝ちすぎを避ける(六分七分でよい、あと一押しこそ慎重に)
- 決めた者が先に縛られる(法度の末尾に自分を置く)
とくに面白いのは、『甲陽軍鑑』で確認できた大将論に、上に立つ者を戒める記述が目立つことです。強すぎる大将は詮索をしなくなる、善悪を同じに扱えば功臣は倦む、勝ちすぎれば後で損をする。
もっとも、これらは「言葉から浮かび上がる信玄像」であって、本人の内面を史料で断定できるわけではありません。B2に区分した8件は、そもそも信玄の発言として記されたものではないためです。
それでも、分国法の末尾に自分を置いた条文は残っています。人こそが城であるという歌も、伝聞の形ながら記されています。史実と後世のイメージを分けたうえで、その考え方から何を受け取るか。そんな読み方が、この記事の狙いです。

35件のうち、分国法で条文を確認できたのが1件、『甲陽軍鑑』が信玄さんの言葉として紹介するのが3件でした。

条文が1つ、軍鑑が儂の言として載せるのが3つか。載っておることと、儂が申したことは、また別の話じゃがな。
出どころはまちまちでも、並べると向きは揃うておる。勝ちすぎるな、民が足りねば国は立たぬ、上が先に縛られよ。突き詰めれば、長う保たせる、の一つよ。
あまり立派に飾ってくれるな。考え方だけ持って帰ってもらえれば足りる。
よくある質問(FAQ)
武田信玄の一番有名な名言は何ですか?
もっとも広く知られているものの一つが「人は城、人は石垣、人は堀、情は味方、仇は敵なり」です。『甲陽軍鑑』品第卅九に記されていますが、そこでは「或人の云ふ信玄公御歌に」と、伝え聞いた歌の形で紹介されています。
「人は城、人は石垣、人は堀」はどういう意味ですか?
国を守るのは堅固な城や石垣ではなく人である、情けをかければ味方になり、恨みを買えば敵になる、という意味に読まれています。甲府市の資料では「人は城、人は石垣、人は堀、人は塀、心は城、心は石垣」という形も伝わるとされています。
「風林火山」は武田信玄が考えた言葉ですか?
いいえ。原典は中国の兵法書『孫子』の軍争篇です。この文句を記した旗が武田軍の軍旗として伝わっています。原文にはさらに「難知如陰、動如雷霆」(知りがたきこと陰の如く、動くこと雷霆の如し)が続きます。
「一生懸命だと知恵が出る」は本当に武田信玄の言葉ですか?
信玄の言葉と確認できる資料は見つかっていません。出典とされる『正範語録』は『国書総目録』に書名が確認できず、後藤静香の詩「本気」との関連も指摘されています。この記事では35選の外に、番外編として扱っています。
『甲陽軍鑑』に載っていれば、信玄の言葉と考えてよいのですか?
いいえ。『甲陽軍鑑』には、信玄の発言や歌として紹介された部分のほかに、編者による大将論や中国古典からの引用も含まれます。本記事では前者をB1(3件)、後者をB2(8件)として区分しました。
インタビュー後記|武田信玄の言葉が今も響く理由
35件をたどり終えてみると、分国法で条文を確認できたのは1件、『甲陽軍鑑』が信玄の言葉として紹介するのは3件でした。残りの多くは、信玄の言葉かどうかを確かめられないままです。
調べていて一番おもしろかったのは、『甲陽軍鑑』で確認できた大将論に、上に立つ者を戒める記述が目立ったことです。勝ちすぎるな、強すぎる大将は考えなくなる。
さらに分国法には、法度を定めた本人もその下に置く条文がありました。名言集で目にする勇ましい信玄像とは、少し違う顔が見えてきます。
同時に、思い知らされたこともあります。「『甲陽軍鑑』にある」と書けば出典を示したように見えますが、そこには編者の議論も中国の古典も混ざっていました。出典を示すことと、本人に帰属させることは別なのです。
言葉を「本人が言ったか」だけで切り分けるのではなく、どこまでが史料で、どこからが後世のイメージなのかを見分けたうえで受け取る。そんな読み方ができると、信玄はぐっと身近になります。あなたは信玄の生き方から、何を受け取りますか。
同じ手法で坂本龍馬の名言も検証しています。あわせてどうぞ。
信玄と同じ時代を生きた織田信長についても、通説の検証を交えてまとめています。
参考資料
- ウィキソース「甲陽軍鑑/品第卅九」※①・⑭・⑮の本文。「或人の云ふ信玄公御歌に」の書き出しを含む
- ウィキソース「甲陽軍鑑/品第十四」※④・⑥・⑪・⑫の本文
- ウィキソース「甲陽軍鑑/品第十七」※⑦・⑧・⑬の本文
- ウィキソース「甲陽軍鑑/品第十三」※⑨・⑩の本文
- 国立国会図書館 レファレンス協同データベース「武田信玄が臨終の時に自分の死を3年間伏せるように言ったという逸話の出典を知りたい。」※⑭の出典特定(山梨県立図書館の調査事例。『甲陽軍鑑大成』第1巻本文篇p449)
- 甲府市「信玄公のまち 古府を歩く|「人は城」の国づくり 軍旗「風林火山」の戦略」※①の異なる伝わり方の根拠
- 甲府市「「風林火山」には続きがある!?」※②と風林火山の章の根拠(旗は「其」を略した14文字/続きの二句)
- 山梨市「孫子の旗 – 山梨市の文化財」※②の旗の文言・文化財指定・快川紹喜の伝承の根拠
- 甲州市公式観光サイト「雲峰寺」※武田家の軍旗が伝わることの根拠
- コトバンク「甲陽軍鑑」※成立・小幡景憲の関与・史料としての位置づけの根拠
- 東京大学学術資産等アーカイブズ「甲州法度之次第」(東京大学法学部研究室図書室法制史資料室所蔵)※③の写本の年代と、標準的テクストとされることの根拠
- 佐藤進一・池内義資・百瀬今朝雄 編『中世法制史料集 第三巻 武家家法I』岩波書店、1965年 ※③の原文(翻刻)の所在。本記事では該当箇所を直接確認していない
- 中國哲學書電子化計劃「孫子兵法 軍爭」※②と風林火山の章の原文
- 中國哲學書電子化計劃「三略直解 卷下」(明・劉寅)※⑪の原典「四民用虛國乃無儲;四民用足國乃安樂」の根拠
- 東京スポーツ「大谷翔平 座右の銘は武田信玄の深すぎる言葉…ファン共感「結果を出す男は違う」」(2024年9月25日)※番外編の紹介の広まりに関する報道
- 草の実堂「武田信玄の格言?ネット上に出回る「中途半端だと愚痴が出る」の真相は」※『正範語録』が『国書総目録』にないこと・後藤静香の詩との関連・語彙の指摘の根拠
- 米沢市「餐霞館遺跡」※㉟の上杉鷹山の歌の年・経緯(天明5年、顕孝に仕える家臣へ示した壁書に添えられたこと)の根拠
※項目の収集には、名言サイト(武田 信玄 – Proverb(ことわざ)・格言(名言)(東進)、武田信玄の名言・格言集(癒しツアー)、武田信玄の名言・格言23選(metalife)、武田信玄 珠玉の名言・格言21選(心を輝かせる名言集)、武田信玄の名言22選(manabo-yo)ほか)も参照しました。史実判定には使用していません。







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