大政所(おおまんどころ)は、人の名前ではありません。息子が関白になったことで呼ばれるようになった、いわば肩書きです。
では、本当の名前は何だったのか。事典を開くと「なか」とあります。ところが、その「なか」さえ、江戸時代後期の読み物に出てくる名とされる、と紹介する研究者がいます。
天下人の母でありながら、名前すら資料で書き方が分かれる。歴史好きとして、こういう人物ほど、どこまでが記録でどこからが物語なのかを分けて読みたくなります。
この記事の結論
大政所は、摂政・関白の母を指す呼び名で、狭い意味では豊臣秀吉・秀長の母のことです。 事典は名を「なか」とし、永正10年(1513年)に生まれ、天正20年7月22日(1592年)に京都の聚楽第で亡くなったと記します。
1513年生まれとする事典に従えば、享年は数え80、満年齢では78〜79歳です。天正14年(1586年)には、徳川家康の上洛をうながすため三河の岡崎へ下りました。
一方で、秀長の父が秀吉と同じかどうかは、事典によって書き方が分かれます。同じ事典の項目どうしでも割れているほどです。
- 80歳
事典が記す享年(数え年。1513年生まれとする事典に従えば満78〜79歳) - 1か月足らず
岡崎に滞在した期間(『日本大百科全書』) - 2人
大政所より先に亡くなった子(朝日・秀長)
なお、京都の「大政所御旅所」に見える大政所は、祇園祭(八坂神社の祭礼)の神輿にかかわる言葉で、この記事の人物とは別のものです。
『精選版 日本国語大辞典』は、大政所の2つ目の意味として「御旅所をいう」を挙げ、応永8年(1401年)の『康富記』の祇園祭の記事を用例にしています。
今日祇園祭也。大政所参詣、拝神輿
現代語訳今日は祇園祭である。大政所に参詣し、神輿を拝んだ(筆者訳)
出典:『精選版 日本国語大辞典』「大政所」が引く『康富記』応永8年6月7日
御旅所の現在の姿は、本記事では扱いません。
この記事では、「大政所」という言葉の意味、名前、秀長の父の問題、岡崎行き、最期、ゆかりの寺を、事典と公的な資料で確かめていきます。
お相手には、秀長AI(豊臣秀長をモデルにしたAI)に来てもらいました。秀長は母より1年半ほど早く世を去っているので、母の最期は本人の知らない後の世の話として扱います。
母の思い出や心の内を、秀長AIに回想として語らせることはしていません。分からないことは分からないと答える対話としてお読みください。
※以下のインタビュー部分は、公開されている史料をもとに豊臣秀長の人物像を再現した創作です。実際の発言をそのまま掲載したものではありません。
また、秀長の没後に起きた出来事や、没後に作られた作品については、後の世のこととして伝えたうえで語ってもらう形にしています。
出典の確かめ方と、公開前に行っているチェックは編集方針にまとめています。

秀長さん、本日もよろしくお願いします。
今日はお母上、大政所のことをうかがいます。お母上が亡くなったのはあなたの没後なので、そこは後の世の記録としてお伝えしますね。

母のことを、とな。己の母を人に語るのは、戦の話よりよほど気恥ずかしいものじゃ。
わしが逝ったのちのことは、わしの知らぬ話。そこは、そなたらの書きつけに任せよう。
問われたことには、分かる範囲で答えるとしようかのう。
大政所とは?関白の母を指す呼び名で、秀吉の母のことです
大政所とは、摂政・関白の母を敬って呼ぶ言葉です。 秀吉が天正13年(1585年)に関白になったことで、その母がこう呼ばれるようになりました。
- 読み方:おおまんどころ(『デジタル大辞泉』『日本大百科全書』)
- もとの形:「大北政所(おおきたのまんどころ)」の略(『デジタル大辞泉』『精選版 日本国語大辞典』『日本大百科全書』)
- 北政所との対:摂政・関白の妻が北政所、母が大政所。秀吉の正室おねの北政所に対する呼び名です(『日本大百科全書』)
- 秀吉の母だけの言葉ではない:『日本大百科全書』は「狭義には」秀吉の母を指すと書き、本来は摂政・関白の母一般の呼び名とします
- もう一つの意味:祭礼の御旅所(神輿をとどめる所)を指す用法もあります(『精選版 日本国語大辞典』)
参考:大政所|コトバンク
『日本大百科全書』の「大政所」項は、『秀吉任官記』という書物から次の一節を引いています。本記事はこの書物の原文を確認しておらず、事典の引用によっています。
其後大坂立勅使、以御臺任北政所、以母儀任大政所
現代語訳その後、大坂に勅使が立ち、御台(妻)を北政所に、母を大政所にした(筆者訳)
出典:『日本大百科全書』「大政所」が引く『秀吉任官記』
つまり、北政所と大政所は対になった呼び名で、秀吉の関白任官とともに妻と母に与えられたものだ、というのが事典の説明です。
『精選版 日本国語大辞典』は、①の意味の初出として『多聞院日記』の天正5年(1577年)の記事を挙げています。秀吉が関白になる8年前の用例で、ここでいう大政所が誰を指すのかは、辞典の引用だけでは分かりません。
ドラマ『豊臣兄弟!』では、坂井真紀さんが「なか」の名でこの人物を演じています。ステラnetの配役紹介では、関白就任後に「大政所」と称されるようになる役どころです。
参考:新たに豊臣ファミリーを発表!母役に坂井真紀、姉役に宮澤エマ、妹役に倉沢杏菜|ステラnet

大政所というのは、お名前ではなく、関白の母を指す呼び名なのだそうですね。

そうじゃ。兄者が関白になれば、その母はそう呼ばれる。人の名というより、座る場所の名に近い。
尾張の村から出た者の母が、公家の母と同じ呼び名を負うことになった。並の巡り合わせではないのう。
もっとも、呼び名がいくら大きゅうなっても、子にとって母は母じゃ。
大政所の基本プロフィール
事典で確かめられる範囲を、まず表にまとめます。生年や出身のように、事典によって書き方が違う項目は、そのまま並べています。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 呼び名 | 大政所(関白の母としての呼び名)、天瑞院(てんずいいん。法名) |
| 名 | なか(仲)と事典は記す。実名は分からないとする研究者もいる(次の章) |
| 生年 | 永正10年(1513年)(『日本大百科全書』『日本人名大辞典』)。『改訂新版 世界大百科事典』は不詳とする |
| 没年月日 | 天正20年7月22日(1592年)(『日本人名大辞典』) |
| 享年 | 数え80(1513年生まれとする事典に従えば満78〜79歳) |
| 出身 | 尾張国愛知郡の生まれという(『日本大百科全書』「天瑞院」)。同じ事典の「豊臣秀吉」項は御器所村(名古屋市昭和区)と村の名まで記す |
| 夫 | 木下弥右衛門、のち筑(竹)阿弥と再婚(事典により書き方が違う) |
| 子 | とも(日秀尼)、秀吉、秀長、朝日(朝日姫) |
| 位 | 天正13年(1585年)に従一位。没後に准三后(じゅさんごう)を追贈 |
| 没した場所 | 京都の聚楽第(じゅらくだい) |
| ドラマ | 『豊臣兄弟!』では坂井真紀さんが「なか」として演じる |
参考:天瑞院|コトバンク
1513年生まれとする事典に従うと、享年の80は数え年で、生まれた月日が分からないため、満年齢は78〜79歳と幅を持たせて書いています。
准三后(准三宮)は、太皇太后・皇太后・皇后の三宮に準じる待遇を与えられた人のことです(『改訂新版 世界大百科事典』)。大政所への没後の追贈は、『日本大百科全書』の「天瑞院」項が記しています。
参考:准三宮|コトバンク
子のうち、姉のともは寛永2年(1625年)まで生き、数え93歳で没したと『日本人名大辞典』は記します。母が亡くなったあとも、30年以上生きたことになります。
秀吉・秀長兄弟が生まれた地は、名古屋市が「豊臣秀吉・秀長兄弟生誕の地である中村区」としています。大政所自身の生まれは、上の表のとおり、事典は尾張国愛知郡、または御器所村と記します。
参考:大河ドラマ「豊臣兄弟!」の放送を契機とした豊臣ミュージアムについて|名古屋市
家族それぞれの配役と、秀長との関係の根拠は、相関図の記事でまとめています。
本名は「なか」?事典はそう書きますが、実名は分からないとする見方もあります
事典は名を「なか」と書きますが、歴史研究者の濱田浩一郎さんは、実名は分かっていないとしています。 どちらの資料が何と書いているかを並べます。
| 資料 | 名前についての書き方 |
|---|---|
| 『日本大百科全書』「天瑞院」 | 「名は、なか(仲)」 |
| 『改訂新版 世界大百科事典』「天瑞院」 | 「名はなか」 |
| 『日本人名大辞典』「天瑞院」 | 「名はなか」 |
| 濱田浩一郎さん(プレジデントオンライン) | 実名は分かっていない。小瀬甫庵の『太閤記』にも、土屋知貞の『太閤素生記』にも「なか」は確認できない |
| 同じ記事の紹介 | 「なか(仲)」の名は、寛政9年(1797年)に初編が出た『絵本太閤記』に登場するとされる |
参考:いくら何でも盛りすぎだわ…豊臣秀吉の母が天皇の子を宿したという「創作」が生まれた切実な背景|プレジデントオンライン
『絵本太閤記』は、寛政9年から享和2年(1797〜1802年)に刊行された読本(よみほん。江戸時代後期の小説の一種)です。
『デジタル大辞泉』によれば、7編84冊の秀吉の一代記に精細な挿絵を入れたもので、のちに絶版を命じられています。
参考:絵本太閤記|コトバンク
濱田さんの記事は、『太閤素生記』を秀吉の家族を伝える「基本史料」とされるものとして紹介し、母は尾張国御器所村の生まれで、中々村の木下弥右衛門に嫁いだと同書に書かれている、と述べています。
本記事は、『太閤記』『太閤素生記』『絵本太閤記』のいずれも原文を確認していません。ここに書いたのは、事典と濱田さんの記事が紹介する範囲です。
そのうえで本記事は、事典にならって「なか」の名を使い、実名かどうかを疑う見方がある、と添えておきます。
出自をめぐっては、もっと大きな物語もありました。『改訂新版 世界大百科事典』の「豊臣秀吉」項は、母が萩中納言という貴族の娘で、秀吉は天皇の落胤(らくいん。身分の高い人の隠し子)だとほのめかす話が作られたと記します。
秀吉の出生はなぞにつつまれており,自己宣伝的要素と重なって忠実を無視した物語が作られた。
出典:『改訂新版 世界大百科事典』「豊臣秀吉」(三鬼清一郎)
同じ項目は、その話が大村由己の『関白任官記』にも記されて広く流布したとし、「まったく虚妄の物語」と書いています。
参考:豊臣秀吉|コトバンク

事典はお母上の名を「なか」としていますが、実名は分からないとする研究者もいます。

母の名が、そなたらの世では定まっておらぬのか。それを、わしの口から言い立てるのは控えておこう。
名を書かずとも、母と呼べば足りた世じゃ。女子の名が書きつけに残りにくいのは、母に限った話ではあるまい。
その名が実名かどうか定まらぬとしても、それで親しまれておるのなら、悪い気はせぬよ。
秀吉と秀長は異父兄弟?父の書き方は事典によって割れています
大政所が秀吉と秀長の母であることは事典で一致しますが、秀長の父が秀吉と同じかどうかは、事典によって書き方が分かれます。 同じ『日本大百科全書』の中でも、項目によって違います。
| 資料 | 秀長の父についての書き方 |
|---|---|
| 『日本大百科全書』「天瑞院」 | 弥右衛門の没後、筑(竹)阿弥と再婚して秀長・朝日を生む。ただし「父子関係には異論も」 |
| 『日本大百科全書』「羽柴秀長」 | 弥右衛門の子。竹阿弥の子という説は「出生年から矛盾がある」 |
| 『ブリタニカ国際大百科事典』「羽柴秀長」 | 竹阿弥の子という説もあるが、出生年から考えると矛盾が生じる |
| 『改訂新版 世界大百科事典』「天瑞院」 | 秀吉と姉を生み、のち再嫁して秀長・朝日姫をもうけた |
| 『改訂新版 世界大百科事典』「豊臣秀長」 | 秀吉の異父弟。筑阿弥の子 |
| 『精選版 日本国語大辞典』「羽柴秀長」 | 秀吉の異父弟。父は竹阿彌 |
| 『デジタル大辞泉』『日本人名大辞典』「羽柴秀長」 | 秀吉の異父弟 |
参考:天瑞院|コトバンク
参考:羽柴秀長|コトバンク
参考:豊臣秀長|コトバンク
『日本大百科全書』は、「天瑞院」項では秀長を再婚後の子とし、「羽柴秀長」項では弥右衛門の子としています。どちらの項目も、反対の説があることに触れています。
二人目の夫の名も、「竹阿弥」と「筑阿弥」の2つの表記が事典に出てきます。『日本大百科全書』は織田家の同朋衆(どうぼうしゅう。茶や芸能で仕えた者)と書き、「豊臣秀吉」項では織田信秀の茶同朋とします。
秀吉の父・弥右衛門については、『日本大百科全書』の「豊臣秀吉」項が、秀吉7歳のときに病死したと記します。この「7歳」は、事典の書き方からは数え年か満年齢かは分かりません。
本記事は、どちらの説にも寄りません。秀長の父については、事典の書き方が割れている、とだけ書いておきます。
この点は、相関図の記事でも同じ結論にしています。秀長その人の生涯は、こちらの記事でたどっています。

あなたと兄上のお父上が同じかどうか、同じ事典のなかでも書き方が分かれていました。

同じ書物の中でも割れておるとは、念の入ったことじゃ。
どちらと決めるのは、わしの役ではない。決め手のない話に後から筋を通そうとすれば、どこかに無理が出る。
割れておると書いておくのが、いちばん正直な書き方であろうかのう。
岡崎へ下ったのはいつ・なぜ?天正14年、家康の上洛をうながすためです
大政所は、天正14年10月(1586年)、徳川家康の上洛をうながすため三河の岡崎へ下りました。 家康が大坂城で秀吉に会って帰国すると、1か月足らずで大坂へ戻されています。
- 背景:天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いの講和が成立したあとも、家康は上洛を拒んでいた(『改訂新版 世界大百科事典』「朝日姫」)
- 妹の嫁入り:天正14年(1586年)、妹の朝日が家康の正室になる。それでも上洛は「秀吉の母の岡崎行きまで実現しなかった」(『改訂新版 世界大百科事典』「朝日姫」)
- 時期:天正14年10月(1586年)。事典の表記は「86年10月」(『改訂新版 世界大百科事典』「天瑞院」)
- 結果:家康は上洛し、大坂城で秀吉に臣従の礼をとった(『日本大百科全書』「天瑞院」)
- 滞在:家康の帰国を機に、岡崎滞在1か月足らずで大坂へ帰された(『日本大百科全書』「徳川家康」)
参考:朝日姫|コトバンク
参考:徳川家康|コトバンク
小牧・長久手の戦いから家康の臣従までの流れは、兄・秀吉の記事でも扱っています。
大政所の岡崎行きは、家康の上洛をうながすための人質として説明されています。『日本大百科全書』は「人質として岡崎に行く」、『日本人名大辞典』は「岡崎城に人質となった」と書きます。
『改訂新版 世界大百科事典』の「天瑞院」項は、「三河岡崎城に下った」と下向した事実を簡潔に記しています。同じ事典の「徳川家康」項は、朝日と母を「2人の実質上の人質」と書きます。
行き先にも揺れがあります。『改訂新版 世界大百科事典』の「徳川家康」項は、母を「浜松に行かせた」と書きます。同じ事典の「天瑞院」項と「朝日姫」項は岡崎なので、ここでは岡崎としておきます。
参考:天瑞院|コトバンク
岡崎へ着いた日や戻った日は、事典が「10月」「1月足らず」と書く以上には確かめられていません。
なお、『豊臣兄弟!』第39回「茶々の本心」(10月11日放送予定)の番組説明には、秀吉が命じた徳川と真田の和睦を家康が拒み、戦の支度を始めると書かれています。
この回から最終章「豊臣兄弟編」に入ると、NHKの放送予定は案内しています。

天正14年、お母上は家康の上洛をうながすための人質として、岡崎へ下ったと説明されています。

母を三河へ、というのは、兄者の打った手のなかでも重い一手じゃ。
先方の城に身を置く以上、命を預けることになる。人質とは、そういうものじゃ。
家康どのが上ってきて、ひと月足らずで戻されたと書きつけにあるのなら、それで役目は果たせたのであろう。
大政所はいつ・どこで亡くなった?天正20年7月22日、聚楽第で
大政所は、天正20年7月22日(1592年)に京都の聚楽第で亡くなりました。 朝鮮出兵(文禄の役)のさなかで、秀吉は肥前名護屋(佐賀県唐津市)に出ていた時期です。
最期について、事典が書いていることを表にします。
| 事項 | 事典の書き方 | 根拠 |
|---|---|---|
| 没年月日 | 天正20年7月22日 | 『日本人名大辞典』(『日本大百科全書』は「7月」まで) |
| 場所 | 京都聚楽第で没。晩年は聚楽第で過ごした | 『日本大百科全書』『日本人名大辞典』 |
| 年齢 | 80歳(数え年。1513年生まれとする事典に従えば満78〜79歳) | 『日本人名大辞典』 |
| 病 | 朝鮮出兵の時期に重病となった | 『日本大百科全書』 |
| 秀吉の渡海 | 「肥前名護屋にまで至った秀吉は、渡海を止まる」 | 『日本大百科全書』 |
| 同じく | 「文禄の役に秀吉の朝鮮渡海を止めたことは著名である」 | 『改訂新版 世界大百科事典』 |
| 没後 | 准三后が追贈された | 『日本大百科全書』 |
参考:天瑞院|コトバンク
天正20年7月は、まだ文禄に改元される前です。文禄への改元は天正20年12月8日で、西暦では年が改まった1593年に入ってからです。
事典が「1592年(文禄1)」と書くのは年どうしの対応表記で、誤りではありません。
参考:文禄|コトバンク
渡海とのかかわりは、2つの事典で書き方が違います。『日本大百科全書』は母の重病と秀吉が渡海しなかったことを一続きに書いていますが、理由とは明記していません。
『改訂新版 世界大百科事典』は、大政所が秀吉の朝鮮渡海を止めたことを「著名である」と書きます。どう止めたのかは、事典の記述からは分かりません。
秀吉が名護屋で母の重病を知って上方へ向かったものの、死に目に会えなかった、という話を紹介する記事もあります。ただし本記事は、秀吉の出発や到着の日付を同時代の史料で確かめられていません。
大政所が亡くなる前に、子のうち2人が先に世を去っています。朝日は天正18年(1590年)に京都で、秀長は天正19年正月22日(1591年)に大和郡山で亡くなりました。
秀長の最期と、そのあとの豊臣家のことは、こちらの記事でまとめています。

後の世の記録では、お母上は天正20年7月に聚楽第で亡くなっています。妹の朝日さんとあなたは、それより先に亡くなりました。

母より先に逝った、ということになるのか。母上の最期は、わしの知らぬ後の世の話じゃ。
子が親より先に逝くのは、どの世でも順が逆であろう。それを二度も重ねたとなると、申し訳の立たぬことじゃ。
最期の様子は、そなたらの世の書物に任せよう。わしが勝手に思い描いてよいものではないからのう。
大政所の墓とゆかりの寺 高野山奥之院の五輪塔と、天瑞寺・青巌寺
本記事が事典と公的な資料で確かめられた、秀吉が母のために整えた寺は、京都・大徳寺の天瑞寺と、高野山の青巌寺(いまの金剛峯寺)です。 ただし、天瑞寺はいまは残っていません。
- 天瑞寺(京都・大徳寺の中):天正16年(1588年)に狩野永徳が障壁画を手がけた(『改訂新版 世界大百科事典』『ブリタニカ国際大百科事典』「狩野永徳」)。明治時代のはじめに廃寺となり、現在は存在しない(三溪園)
- 寿塔(じゅとう):天正19年(1591年)、病から快復した母の長寿を祈って秀吉が建てた生前墓(三溪園)
- 旧天瑞寺寿塔覆堂:その寿塔を覆っていた建物。1905年(明治38年)に横浜の三溪園へ移築され、重要文化財(三溪園)
- 青巌寺(高野山):1593年に秀吉が母を弔うための廟とし、青巌寺と改名。1869年に隣の寺と合わさって金剛峯寺となった(観光庁の多言語解説文)
参考:旧天瑞寺寿塔覆堂|横浜 三溪園
参考:金剛峯寺|観光庁 地域観光資源の多言語解説文データベース
参考:狩野永徳|コトバンク
三溪園の解説によれば、寿塔の覆堂は、原三溪が内苑に移した最初の古建築です。母の長寿を祈る建物が、いまは横浜で見られることになります。
高野山奥之院の豊臣家墓所には、大政所の五輪塔があります。高野山大学の調査論文では、天正15年(1587年)の逆修塔、つまり生前供養のための塔とされています。
参考:高野山奥之院の豊臣家墓所の石塔群(木下浩良)|高野山大学密教文化研究所紀要 第35号
- 場所:高野山奥之院の豊臣家墓所
- 年代:天正15年(1587年)の逆修塔とされる。大政所が亡くなる5年ほど前の造立
- 位置づけ:豊臣家墓所の在銘の石塔のなかで最も古く、墓所が成り立つきっかけになったと論文は推察している
この五輪塔は、京都・大徳寺の寿塔(1591年)とは別のものです。三溪園に移ったのは、大徳寺の寿塔を覆っていた建物のほうです。
大徳寺の寿塔そのものの現在の所在は、本記事では寺院や公的機関のページで確かめられていません。
天瑞寺の名は、大政所の法名「天瑞院」と重なります。『世界大百科事典(旧版)』の「安土桃山時代美術」項は、天瑞寺を秀吉が母のために建てた大徳寺内の寺とし、禅宗の方丈としてはそれまでにない規模と内部装飾だったと記します。
参考:天瑞寺|コトバンク
高野山の青巌寺は、母の死の翌年に秀吉が建て直し、母を弔う廟としたものです。なお、金剛峯寺本坊の山門は、文化庁の文化財データベースでは江戸中期の1680年の建築とされています。
秀吉が母のために寺や塔を建てたことは、こうして確かめられます。ただ、そこに込めた気持ちを伝える秀吉自身の書状は、本記事では確かめていないので、心の内までは書きません。

兄上は、病から治ったお母上の長寿を祈って寿塔を建て、亡くなった翌年には高野山の寺を母の廟にしています。寿塔を覆っていた建物は、いまは横浜の庭園に移されています。

寿塔とな。生きておるうちに墓を建てて長寿を願うとは、ずいぶん大がかりな願い方じゃのう。
高野の寺のことは、わしの知らぬ後の話じゃ。それでも建物が今に残っておるのなら、何よりの供養かもしれん。
覆いの堂が、遠い東国の庭に移っておるとは。世の移ろいとは、まことに分からぬものよ。
大政所の生涯を年表で振り返る
生涯の出来事を、和暦と西暦をそろえて並べます。月日まで西暦に換算した日付は、本記事では暦表で確かめていないので、西暦は年だけにしています。
| 和暦 | 西暦 | 出来事 | 典拠・補足 |
|---|---|---|---|
| 永正10年 | 1513年 | 生まれる | 『日本大百科全書』『日本人名大辞典』。『改訂新版 世界大百科事典』は生年不詳 |
| 天文2年 | 1533年 | 長女とも(のちの日秀尼)が生まれる | 『日本人名大辞典』「日秀尼」 |
| 天文6年 | 1537年 | 秀吉が生まれる | 天文5年(1536年)説もある(『日本大百科全書』「豊臣秀吉」) |
| 天文9年または10年 | 1540年または1541年 | 秀長が生まれる | 生年は事典で割れる |
| 天文12年 | 1543年 | 朝日が生まれる | 『改訂新版 世界大百科事典』「朝日姫」 |
| (年不詳) | (年不詳) | 夫の弥右衛門が病死。筑(竹)阿弥と再婚 | 秀吉7歳のとき(『日本大百科全書』「豊臣秀吉」) |
| 天正11年以降 | 1583年以降 | 秀吉の大坂築城後、城内に住む | 『改訂新版 世界大百科事典』「天瑞院」 |
| 天正13年 | 1585年 | 秀吉が関白に。大政所と呼ばれ、従一位に | 『日本大百科全書』『日本人名大辞典』 |
| 天正14年 | 1586年 | 朝日が家康の正室となる | 『改訂新版 世界大百科事典』「朝日姫」 |
| 天正14年10月 | 1586年 | 岡崎へ下る。1か月足らずで大坂へ戻る | 『改訂新版 世界大百科事典』「天瑞院」、『日本大百科全書』「徳川家康」 |
| 天正16年 | 1588年 | 大徳寺内の天瑞寺の障壁画を狩野永徳が手がける | 『改訂新版 世界大百科事典』『ブリタニカ国際大百科事典』「狩野永徳」 |
| 天正18年 | 1590年 | 朝日が京都で没する | 『改訂新版 世界大百科事典』「朝日姫」 |
| 天正19年正月22日 | 1591年 | 秀長が大和で没する | 『ブリタニカ国際大百科事典』「羽柴秀長」 |
| 天正19年 | 1591年 | 病から快復し、秀吉が長寿を祈る寿塔を建てる | 三溪園 |
| 天正20年7月22日 | 1592年 | 京都の聚楽第で没する。数え80歳 | 『日本人名大辞典』『日本大百科全書』 |
| (和暦は未確認) | 1593年 | 秀吉が高野山の寺を母を弔う廟とし、青巌寺と改名 | 観光庁の多言語解説文 |
| 明治38年 | 1905年 | 天瑞寺の寿塔覆堂が横浜の三溪園へ移築される | 三溪園 |
子のうち2人を先に見送り、亡くなったのは文禄に改元される前の天正20年でした。
年表で寿塔を天正19年に置いたのは、三溪園の解説によります。秀長の死と同じ年ですが、どちらが先かは確かめていません。
天正14年(1586年)は、娘の朝日の嫁入りと、母自身の岡崎行きが重なった年です。翌々年の天正16年(1588年)には、天瑞寺の障壁画が描かれています。
大政所はどんな人だったのか 事典で言えることと、後世の人物像
大政所について本記事が事典と公的な資料で確かめられたのは、関白の母として位を受け、家康の上洛のため岡崎へ下り、聚楽第で亡くなったという経歴までです。 性格や心の内を伝える記録は、今回確かめられませんでした。
今回確認した範囲では、濱田浩一郎さんの記事が「4人の子を育て上げたたくましい女性」と紹介し、『豊臣兄弟!』の役どころも「夫を早くに亡くし、女手一つで二男二女を育てる」とされています。
参考:いくら何でも盛りすぎだわ…豊臣秀吉の母が天皇の子を宿したという「創作」が生まれた切実な背景|プレジデントオンライン
参考:新たに豊臣ファミリーを発表!母役に坂井真紀、姉役に宮澤エマ、妹役に倉沢杏菜|ステラnet
- 事典で確かめられる経歴:従一位、大坂城と聚楽第での暮らし、岡崎への下向、没後の准三后
- 建物で確かめられること:秀吉が母の長寿を祈る寿塔を建て、没後に高野山の寺を母を弔う廟とした
- 事典どうしで割れること:生年(不詳とする事典もある)、秀長の父
- 研究者が疑問を示すこと:「なか」という名が実名かどうか
- 後世の人物像:夫を早くに亡くし子を育てたたくましい母、という描き方
並べてみると、大政所の人物像は、本人の言葉ではなく、息子たちの経歴と周りの記録から形づくられていることが分かります。
そのため本記事では、「孝行息子の秀吉」「気丈な母」のような評価を、史実としては書きません。寺や塔を建てたという事実と、後世の描き方を分けて置いておきます。
この章で触れた後世の人物像は、それ自体が間違いだという意味ではありません。どの資料から来た見方なのかを、読む側で分けられるようにしておきたいのです。

お母上は、後の世の記事やドラマで「たくましい母」として紹介されています。ただ、ご本人の言葉や心の内を伝える記録は、今回あまり確かめられませんでした。

母の心の内を、わしが代わりに語るわけにはいかぬ。それは、母だけのものじゃ。
尾張の村から大坂の城、そして聚楽の屋敷まで。暮らす場所がこれほど移った女子も、そう多くはなかったかもしれん。
物語が母を強う描くのなら、それもまた一つの見方として受け取っておこう。
よくある質問(FAQ)
大政所とはどういう意味ですか?
摂政・関白の母を敬って呼ぶ言葉です。「大北政所」の略で、妻の北政所と対になります。狭い意味では、関白になった豊臣秀吉の母を指します。
大政所の読み方は?
「おおまんどころ」です。『デジタル大辞泉』『日本大百科全書』がこの読みを載せています。
大政所の本名は何ですか?
事典は「なか(仲)」と書きます。ただし、実名は分かっておらず、「なか」は江戸時代後期の『絵本太閤記』に出てくる名とされる、と紹介する研究者もいます。
秀吉と秀長は異父兄弟ですか?
事典によって書き方が分かれます。異父弟とする事典がある一方、『日本大百科全書』の「羽柴秀長」項は弥右衛門の子とし、竹阿弥の子とする説には出生年から矛盾があると記します。
大政所が岡崎へ行ったのはいつ、なぜですか?
天正14年10月(1586年)、徳川家康の上洛をうながすためです。家康が大坂城で秀吉に会って帰国すると、1か月足らずで大坂へ戻されました。
大政所は人質だったのですか?
家康の上洛をうながすための人質として説明されています。『日本大百科全書』『日本人名大辞典』は人質と書き、『改訂新版 世界大百科事典』の「天瑞院」項は下向した事実を簡潔に記しています。
大政所はいつ、どこで亡くなりましたか?
天正20年7月22日(1592年)、京都の聚楽第です。文禄への改元はその年の12月なので、亡くなった時点ではまだ天正20年でした。
大政所は何歳まで生きましたか?
事典の享年は80歳で、これは数え年です。1513年生まれとする事典に従えば、生まれた月日が分からないため、満年齢では78〜79歳になります。
大政所の墓はどこですか?
高野山奥之院の豊臣家墓所に、大政所の五輪塔があります。高野山大学の調査論文は、天正15年(1587年)の逆修塔(生前供養の塔)とします。ゆかりの寺には大徳寺の天瑞寺(廃寺)と高野山の青巌寺があります。
大政所と北政所の違いは?
北政所は摂政・関白の妻、大政所は母の呼び名です。秀吉の時代には、妻のおねが北政所、母が大政所と呼ばれました。
京都の「大政所御旅所」は秀吉の母と関係がありますか?
別のものです。御旅所に見える大政所は、祇園祭の神輿にかかわる言葉です。『精選版 日本国語大辞典』も、大政所の2つ目の意味に「御旅所をいう」を挙げています。
『豊臣兄弟!』で大政所(なか)を演じるのは誰ですか?
坂井真紀さんです。役名は「なか」で、関白就任後に「大政所」と称されるようになる役どころと紹介されています。
インタビュー後記 天下人の母は、名前さえ資料で書き方が分かれていた
書き始める前は、大政所は「秀吉の母・なか」で済む人物だと思っていました。ところが、その「なか」の名から、すでに資料が分かれていました。
秀長の父の書き方は、同じ事典の項目どうしでも違います。岡崎行きも、行き先を浜松と書く項目があるなど、事典の記述に揺れがありました。
天下人の母は、名前さえ資料で書き方が分かれていた。 それでも、関白の母として位を受け、家康の上洛のために岡崎へ下り、聚楽第で世を去った経歴は、事典の上ではっきりたどれます。
確かめきれなかった点は、各章に書いたとおりです。
ドラマの「なか」を見るときは、名前の由来や父の問題にこうした揺れがあることを、頭の片隅に置いておくと面白いと思います。

最後に一つ。お母上のことを、後の世の人間からこうして聞かされて、どう感じましたか。

名も、父のことも、そなたらの世では割れておるそうな。聞いていて、少し不思議な心持ちがした。
じゃが、確かめたことと、確かめられなんだことを分けて話してくれた。母の話を作り話で飾らずに済んだのは、ありがたい。
母の名を調べてくれる者が、後の世におる。子としては、それだけで十分じゃ。
あなたは、名前の確かでない天下人の母を、どんな人だったと思いますか。
参考資料
- コトバンク「大政所」(『デジタル大辞泉』『精選版 日本国語大辞典』『日本大百科全書』『ブリタニカ国際大百科事典』ほか)※読み「おおまんどころ」、「大北政所」の略、摂政・関白の母の称、狭義には秀吉の母、『秀吉任官記』の一節、②御旅所の意味と『康富記』の用例、『多聞院日記』天正5年の用例
- コトバンク「天瑞院」(『日本大百科全書』『改訂新版 世界大百科事典』『日本人名大辞典』)※名はなか、生年1513年と不詳、尾張国愛知郡、弥右衛門と筑(竹)阿弥、「父子関係には異論も」、従一位、岡崎への下向(人質/下った)、1586年10月、聚楽第での死去、天正20年7月22日、80歳、准三后、朝鮮渡海を止めた件
- コトバンク「豊臣秀吉」(『日本大百科全書』『改訂新版 世界大百科事典』ほか)※母は御器所村の生まれ、秀吉7歳のときの弥右衛門の病死と筑阿弥への再嫁、生年の2説、1585年7月の関白任官(『日本大百科全書』)、萩中納言の娘とする落胤の物語と『関白任官記』、「まったく虚妄の物語」(『改訂新版 世界大百科事典』)
- コトバンク「羽柴秀長」(『日本大百科全書』『精選版 日本国語大辞典』『デジタル大辞泉』『ブリタニカ国際大百科事典』『日本人名大辞典』)※弥右衛門の子とする記述と竹阿弥説への「矛盾」の注記、異父弟・父は竹阿彌とする記述、生年1540年と1541年
- コトバンク「豊臣秀長」(『改訂新版 世界大百科事典』)※異父弟、筑阿弥の子
- コトバンク「朝日姫」(『改訂新版 世界大百科事典』)※1543-90、1586年に家康へ再嫁、家康の上洛は秀吉の母の岡崎行きまで実現しなかった、京都で病死
- コトバンク「日秀尼」(『日本人名大辞典』)※1533年生まれ、俗名とも、寛永2年4月24日死去、93歳、号は瑞竜院
- コトバンク「徳川家康」(『日本大百科全書』『改訂新版 世界大百科事典』)※大政所が人質として岡崎に下向、岡崎滞在1月足らずで大坂へ、「母を浜松に行かせた」「2人の実質上の人質」の記述
- コトバンク「准三宮」(『改訂新版 世界大百科事典』ほか)※太皇太后・皇太后・皇后の三宮に准ずる待遇、近世の准三宮追贈
- コトバンク「文禄」※天正20年12月8日の改元(事典の表記は「1592年(天正20)12月8日」。西暦では1593年に入ってから)
- コトバンク「狩野永徳」(『改訂新版 世界大百科事典』『ブリタニカ国際大百科事典』)※天正16年(1588年)の天瑞寺の障壁画
- コトバンク「天瑞寺」(『世界大百科事典(旧版)』「安土桃山時代美術」項の言及)※秀吉が母の大政所のために建てた大徳寺内の天瑞寺、方丈の規模と内部装飾
- コトバンク「絵本太閤記」(『デジタル大辞泉』)※寛政9~享和2年(1797~1802)刊の読本、7編84冊、文化元年に絶版
- 横浜 三溪園「旧天瑞寺寿塔覆堂」※1591年(天正19年)に病から快復した母・大政所の長寿を祈って建てた寿塔の覆堂、1905年の移築、重要文化財、天瑞寺は明治時代のはじめに廃寺
- 観光庁 地域観光資源の多言語解説文データベース「金剛峯寺」※1593年に秀吉が建て直して母を弔う廟とし青巌寺と改名、1869年に金剛峯寺
- 文化遺産オンライン「金剛峯寺本坊 山門」※江戸中期/1680年の建築、重要文化財(2024年1月19日指定)
- 木下浩良「高野山奥之院の豊臣家墓所の石塔群」『高野山大学密教文化研究所紀要』第35号、2022年3月、5〜32頁※「⑦秀吉母の大政所五輪塔」、天正15年(1587年)の逆修塔、豊臣家墓所の在銘の石塔で最も古いこと
- プレジデントオンライン 濱田浩一郎「いくら何でも盛りすぎだわ…豊臣秀吉の母が天皇の子を宿したという『創作』が生まれた切実な背景」(2026年1月11日)※実名は分かっていない、『太閤記』『太閤素生記』に「なか」は確認できない、『絵本太閤記』に登場するとされる、『太閤素生記』の御器所村・木下弥右衛門の記述(1ページ目と2ページ目の前半を確認。2ページ目の途中から先は会員限定で未確認)
- ステラnet「新たに豊臣ファミリーを発表!母役に坂井真紀、姉役に宮澤エマ、妹役に倉沢杏菜」(2025年2月4日)※なか役の坂井真紀さん、役どころの紹介
- NHK ONE 大河ドラマ「豊臣兄弟!」の放送予定※第39回「茶々の本心」(10月11日)、「最終章『豊臣兄弟編』ついに開幕!!」の番組説明(2026年10月8日確認)
- 名古屋市「大河ドラマ『豊臣兄弟!』の放送を契機とした豊臣ミュージアムについて」※「豊臣秀吉・秀長兄弟生誕の地である中村区」の記述






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