「三菱グループの原点をつくった人」と紹介される岩崎弥太郎。ところが「では具体的に何をしたのか」と聞かれると、うまく説明できずにいました。
今回あらためて三菱の社史や自治体の資料を開き直して、いちばん腑に落ちたのはここです。日本郵船が生まれたのは、弥太郎が亡くなった約7か月あとのことでした。
三菱と共同運輸の合併という一代記の山場を、本人は見ていません。
この記事の結論
岩崎弥太郎は、三菱の原点となる海運会社を育て、のちの三菱の事業基盤をつくった実業家です。 土佐国安芸郡井ノ口村(現在の高知県安芸市)に生まれ、土佐藩の商務を担ったのち、海運の道に進みました。
1870年に発足した九十九商会が出発点です。社名を三川商会、三菱商会と改めながら事業を広げ、政府の輸送を担って急成長しました。
一方で、政府との近さは当時から強く批判されています。天保5年12月11日(1835年1月9日)に生まれ、1885年(明治18年)2月7日に世を去りました。満50歳、数え年では52歳でした。
- 1870年
三菱が起源とする九十九商会の発足 - 13隻
台湾出兵で運航を委託された外国船 - 73%
西南戦争後、三菱が占めた汽船総トン数の割合
この記事では、基本プロフィールを押さえたうえで、三大功績、坂本龍馬との関係、死因と最期、年表、後の時代への影響の順にたどっていきます。
そして今回は、弥太郎AI(岩崎弥太郎をモデルにしたAI)にも登場してもらいます。土佐の地下浪人の家から身を起こした男が何を成したのか、一緒に見ていきましょう。
※以下のインタビュー部分は、公開されている史料をもとに岩崎弥太郎の人物像を再現した創作です。史料で確認できない心情を補った創作的な対話であり、実際の発言をそのまま掲載したものではありません。
出典の確かめ方と、公開前に行っているチェックは編集方針にまとめています。

弥太郎さん、本日はよろしくお願いします。
あなたは『三菱をつくった人』として名前が出てきますが、その中身となると意外に知られていません。まずは、どこからどこまでがご自身の仕事だったのかを聞かせてください。

おう、よう来たのう。岩崎弥太郎じゃ。
わしの生まれた家は、郷士の資格を手放したあとの地下浪人という立場でのう。若い頃は身分の壁にずいぶん難儀したがやき。
それでも時代がひっくり返る幕末から明治にかけて、わしは海の商いで勝負すると腹を決めた。その先のことは、順に話していこうかの。
岩崎弥太郎は何をした人?基本プロフィールを2分で解説
こまかい話に入る前に、弥太郎がいつの時代の、どんな立場の人だったのかを表でつかんでおきましょう。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 名前 | 岩崎弥太郎(いわさき やたろう) |
| 生没年 | 天保5年12月11日(1835年1月9日)〜1885年2月7日 |
| 享年 | 満50歳(数え年では52歳) |
| 出身 | 土佐国安芸郡井ノ口村(現在の高知県安芸市) |
| 活躍した時代 | 幕末〜明治 |
| 主な功績 | 三菱の原点となる海運事業を育てた、政府の輸送を担った、鉱山・造船へ多角化した |
生年の書き方には、少し説明が要ります。国立国会図書館は「天保5年12月11日=1835年1月9日」と、和暦と西暦の両方を示しています。
一方、旧暦の年次に対応させて「1834―1885」とする事典もあります。旧暦の12月は、日付まで西暦に直すと翌年になるためです。
この記事では、国立国会図書館の換算に合わせて1835年1月9日とします。
弥太郎が生まれた岩崎家は、曽祖父の代に郷士の資格を売った「地下浪人(じげろうにん)」の立場にありました。父は弥次郎、母は美和です。
19歳のとき江戸へ遊学しますが、1年ほどで父の急病により帰郷します。その後、父が村の争いで負傷した件を訴え出た末に投獄され、家名削除と居村追放を受けました。
赦免後は村へ戻らず、吉田東洋の少林塾に入ります。ここでのちに弥太郎を引き立てる後藤象二郎と知り合いました。1862年に東洋が暗殺されると、弥太郎は実家に戻って不遇の時期を過ごします。
転機は慶応3年(1867年)でした。藩の重役・福岡孝弟の推薦で、開成館貨殖局の土佐商会長崎出張所へ下役として赴任します。
ここからが早い。5月26日には主任となり、6月7日には長崎での全指揮権を委任されました。数か月での昇進です。

投獄された人が、数年で藩の商務を任される立場になっています。

牢に入った男が藩の金を扱うたのじゃから、世の中というのは分からんもんよ。
もっとも、そのとき何を考えておったかを書き残してはおらんき、ここから先は創作としての物言いと思うて聞いてもらいたい。
藩には人が足らんかった。学があって算盤も弾ける者なら、来歴は問わん。そういう時代じゃったのではないかのう。
岩崎弥太郎の三大功績|九十九商会・政府の輸送・多角化
弥太郎の功績は数多くあります。この記事では、後の三菱につながる大きな3つを取り上げます。
- 海運を育てた:九十九商会から郵便汽船三菱会社まで、社名を変えながら船の事業を広げた
- 政府の輸送を担った:台湾出兵と西南戦争で大量の輸送を引き受けた
- 陸へ広げた:鉱山・造船・金融へ手を伸ばし、後の三菱の土台をつくった
1つずつ詳しく見ていきましょう。
① 三菱の源流となる海運事業を育てた(1870年〜)
三菱が起源とするのは、1870年(明治3年)10月に発足した九十九商会です。土佐藩の海運事業を引き継ぐ形で設けられ、藩船3隻で東京・大阪・神戸・高知の間を結びました。
この船の扱いは、実は三菱の公式サイトのなかでも書き方が分かれます。「沿革」は「藩船三隻を借り受け」とし、人物伝は「払い下げられた」と書きます。
実際には二段階だったようです。『日本大百科全書』によれば、1870年の発足時は3隻を用い、廃藩置県後の1871年7月に「夕顔」「鶴」の2隻を4万両で払い下げられています。
この記事では、どちらかに寄せず「引き継がれた」と書きます。
このころの弥太郎の立場も、資料によって説明が違います。三菱の人物伝は、発足時は「藩の立場から事業を監督するのが彌太郎だった」とし、廃藩置県後の1871年に実業家として経営を引き受けたと整理しています。
社名はその後、続けて変わりました。
| 年 | 社名 | 出来事 |
|---|---|---|
| 1870年 | 九十九商会 | 土佐藩の海運事業を引き継いで発足 |
| 1872年 | 三川商会 | 廃藩置県を経て民営に |
| 1873年3月 | 三菱商会 | 弥太郎が「社主」に就任 |
| 1874年春 | 三菱蒸汽船会社 | 本店を東京へ移し、初めて「社長」を名乗る |
| 1875年 | 郵便汽船三菱会社 | 日本国郵便蒸気船会社を吸収 |
これは一貫した改称であって、5回の創業ではありません。社名の「三菱」は、船旗に掲げた3つの菱形にちなむとされます。

藩の事業を、私企業に切り替えていったわけですね。

藩がのうなれば、船も人も宙に浮く。誰かが引き受けねばならんかったき。
名を変えるたびに中身も変わっておったことは、そこの表のとおりじゃ。藩の船を預かる立場と、己の名で借金をする立場とでは、背負うものがまるで違うぜよ。
② 政府の輸送を担い、日本資本の海運を広げた(1874〜1877年)
大きな転機は1874年(明治7年)の台湾出兵でした。英米の船会社が局外中立を理由に輸送を断ったため、政府は自ら外国船を買い集めます。
三菱の記録によれば、政府は計10隻の外国船を購入してその運航を三菱に委託し、のちに大型船3隻が追加されました。弥太郎が船をもらったわけではなく、この時点では運航の委託です。
船が三菱のものになるのは翌年です。1875年(明治8年)9月15日の第一命令書で、政府は東京丸など13隻の汽船を無償で下付し、運航助成金として年25万円を15年にわたり給付すると定めました。
ただし、これは一方的な優遇ではありませんでした。
- 毎月、会計報告を提出して監査を受けること
- 郵便物を一定の量目まで無賃で輸送すること
- 政府に必要が生じたときは船舶を提供すること
- 商船学校を設立して海員を養成すること
これに先立つ1875年2月3日、三菱は横浜〜上海航路を開いていました。日本の企業が開いた国際定期航路です。
先行していたアメリカの太平洋郵船(PM社)と運賃競争になり、交渉の末にその営業権を買い取りました。続いて参入したイギリスのP&O社も、やがて撤退しています。
1877年(明治10年)の西南戦争では、定期航路を休止して社船38隻を軍事輸送に投じました。
戦後、三菱は政府から無償で受け取っていた船30隻の代金として、120万円を上納しています。第一命令書の13隻に、翌年の第二命令書で下付された分を加えた数です。
この時期、三菱は日本の汽船総トン数の73%を占めるにいたりました。
一方で、政府との近さへの批判も強まります。「三菱は政府から莫大な助成金を受け取りながら高い運賃を国民に押しつけている」という論調が広がりました。
自由党の機関紙は「三菱は帝国の領海を私有する海上政府」と書いています。この批判の言葉を伝えているのは、三菱自身の社史連載です。

船を無償で受け取ったことは、当時から批判されていました。

受け取った側が申しても言い訳にしか聞こえんじゃろうが、あれには条件が付いておった。帳面を毎月出して調べられ、郵便はただで運び、いざとなれば船を差し出す。学校まで建てよという話じゃき。
それに、後には代金も納めておる。もっとも、国の力を借りて大きゅうなったのは、そのとおりよ。そこを咎める声があったことは、書き残されておるとおりじゃ。
③ 海運から多角化し、三菱の事業基盤を築いた(1873年〜)
弥太郎の仕事は、船だけではありませんでした。海で得た資金を、陸の事業へ回していきます。
1873年(明治6年)には岡山県の吉岡鉱山を買収しました。三菱の記録によれば、松山藩主・板倉家との交渉にあたったのは川田小一郎です。
三菱が手がけた最初の金属鉱山で、のちの各地の鉱山開発の先例になったと説明されています。
1880年(明治13年)には三菱為換店を設けました。輸送する貨物を担保にお金を貸す、荷為替金融の仕組みです。同じ年に千川水道会社の認可を得て、翌年営業を開始しました。
1881年(明治14年)3月には、後藤象二郎から高島炭坑を97万円で買収します。福沢諭吉が仲介したと、世界遺産の公式サイトは記しています。
ただし、この買収を主導したのは弥太郎ではありませんでした。三菱の人物伝によれば、経営分析にもとづいて「これは買収すべし」と弥太郎を粘り強く説得したのは、弟の彌之助です。
1884年(明治17年)7月には、工部省の長崎造船所を政府から借り受けました。ここで注意したいのは、借受と払下げが別の出来事だという点です。
払下げが実現するのは1887年(明治20年)6月、弥太郎の死後で、申請したのは彌之助でした。
なお、1879年の東京海上保険会社と1881年の明治生命保険会社について、三菱の年表はいずれも「設立援助」と記しています。
明治生命の創立者は福沢諭吉門下の阿部泰蔵で、三菱との関係が深まるのは1890年代以降です。弥太郎が創業した会社ではありません。
ここで名前の出た福沢諭吉は、高島炭坑の売買を仲介し、門下生を三菱に送り込んだ人物でもあります。同じ時代を別の立場から動かした人として、あわせてどうぞ。

高島炭坑の買収は、弟の彌之助さんが押したそうですね。

弟に説き伏せられた話が残っておるのは、正直むずがゆいのう。
じゃが、そう書き残されておるのなら、そのとおりなのじゃろう。わし一人で決めた事業ばかりではない。そこは、はっきりしておいたほうがええ。
岩崎弥太郎と坂本龍馬の関係|海援隊の実務を支えた土佐商会
弥太郎と坂本龍馬は、しばしば「盟友」として語られます。ただ、資料をたどると、その距離はもう少し複雑です。
慶応3年(1867年)、弥太郎は長崎の土佐商会で主任を務めていました。長崎出張所は、龍馬が率いた海援隊の運用資金の調達や、船の出入りの事務に関わっていました。つまり弥太郎は、資金と事務を扱う側でした。
同年4月23日夜、龍馬らが乗るいろは丸が紀州藩船・明光丸と衝突して沈没します。弥太郎は、この事後処理にもあたりました。
弥太郎の日記には龍馬がたびたび登場します。慶応3年6月2日には「与坂本良馬密話」とあり、酒を酌み交わして意見を交わした記述も残ります。
同月9日、後藤象二郎と龍馬が大政奉還のために京都へ発つ際には、「余不覚流涕数行」と涙して見送ったと記しました。
- 慶応3年6月2日:「与坂本良馬密話」(龍馬と密談した)
- 慶応3年9月12日夜:「過日来海援隊ノ引合、商会ノ盛衰ヲ深思発シ、何分心気不快」(海援隊とのやりとりと商会の先行きを思い、気分がすぐれない)
高知市の資料は、後者について弥太郎が海援隊に対立的な感情を持つまでになったと説明しています。これらが重なり、弥太郎は主任を辞して長崎を一時離れました。
なお、龍馬の家との関係でよく混同されるのが才谷屋です。才谷屋は坂本家の本家で、龍馬の家はそこから分かれた分家にあたります。龍馬の家が才谷屋を営んでいたわけではありません。

龍馬さんとは、実際のところどういう間柄だったのでしょうか。

金の話をする相手と、心を許す相手は、必ずしも同じではないぜよ。
わしの日記に、あの男と酒を飲んだ日のことも、頭を抱えた夜のことも、どちらも書いてあるそうじゃな。
後の世が『盟友』と呼びたくなる気持ちも分かるが、そう言い切れるほど単純ではなかった。そう読んでもろうたほうが、わしとしては据わりがええ。
岩崎弥太郎の死因と最期|共同運輸との競争のさなかに
弥太郎の最期は、事業の正念場と重なりました。
1882年(明治15年)7月、政府の後押しを受けて共同運輸会社が認可されます。三井を中心とした反三菱の連合で、資本金600万円のうち260万円は政府の出資でした。翌1883年1月に営業を開始します。
両社は運賃の値下げ合戦に入りました。旅客運賃は2〜3割引き、貨物は3〜4割引きが当たり前という状態で、三菱は不採算路線の廃止や人員削減を迫られます。
この競争のさなか、弥太郎は病に倒れました。
- 1884年(明治17年)夏:食事をまともにとれなくなり、伊豆で静養する
- 同年10月末:東京・茅町の本邸で床に伏す
- 1885年(明治18年)2月7日:死去。満50歳(数え年では52歳)
- 同年9月29日:日本郵船会社が設立される
死因については、書き方を分ける必要があります。三菱の社史連載は「胃癌」と記していますが、国立国会図書館は「病死」とだけ書いています。
三菱の記録によれば、東大病院のドイツ人教授を含む医師団が治療にあたりました。ただし当時の診断と現代の病理診断は前提が異なり、現代の病名をそのまま当てはめられるものではありません。
享年の書き方も資料で分かれます。三菱と日本郵船の公式は50歳、安芸市の公式は52歳。これは満年齢と数え年の違いで、どちらも正しい数字です。

亡くなる直前まで、共同運輸との競争が続いていました。

病のことは、わしの口から診立てを申すわけにはいかんき。書き残されておるものを読んでもらうほかない。
ただ、勝負の最中に床に就くというのは、こたえたぜよ。運賃を下げ合うて、どちらが先に倒れるかという商いじゃった。
その先がどうなったかは、わしには見届けられんかった。
岩崎弥太郎の生涯を年表で振り返る|土佐の地下浪人から三菱へ
弥太郎の歩みを年表で振り返ってみましょう。
| 年 | 出来事 | ひとこと解説 |
|---|---|---|
| 1835年 | 土佐国安芸郡井ノ口村に生まれる | 天保5年12月11日。西暦に直すと1835年1月9日です |
| 1854年 | 江戸へ遊学する | 1年ほどで父の急病により帰郷します |
| 1856年ごろ | 投獄され、家名削除・居村追放となる | 父の負傷をめぐる訴えがきっかけでした |
| 1858年 | 吉田東洋の少林塾に入る | ここで後藤象二郎と知り合います |
| 1859年 | 長崎へ出張する | 半年ほどで帰国し、職を離れます |
| 1867年 | 長崎の土佐商会へ赴任し、主任となる | 海援隊の資金や船の事務に関わりました |
| 1869年 | 大阪の土佐商会へ移る | 藩の財務を任される立場になります |
| 1870年 | 九十九商会が発足する | 三菱が起源とする年です |
| 1872年 | 三川商会に改称 | 廃藩置県を経て民営になりました |
| 1873年 | 三菱商会に改称し、社主となる | 同年、吉岡鉱山を買収します |
| 1874年 | 三菱蒸汽船会社に改称。台湾出兵の輸送を担う | 政府が購入した13隻の運航を委託されました |
| 1875年 | 郵便汽船三菱会社に改称。上海航路を開く | 9月15日の第一命令書で13隻が無償下付されます |
| 1877年 | 西南戦争の輸送にあたる | 社船38隻を投じました |
| 1881年 | 高島炭坑を買収する | 弟・彌之助の説得により決断しました |
| 1882年 | 共同運輸会社が認可される | 翌年から運賃の値下げ合戦になります |
| 1884年 | 長崎造船所を借り受ける | 払下げは死後の1887年です |
| 1885年 | 2月7日に死去 | 日本郵船の設立は、その約7か月後でした |
年表では、日付まで西暦に換算できるものは換算後の西暦で記しています。旧暦の年次だけを西暦年に対応させた資料とは、年の表記が異なる場合があります。
岩崎弥太郎の功績が後世に与えた影響|日本郵船と三菱グループへ
弥太郎が亡くなったあと、事業は弟の彌之助、長男の久彌へと引き継がれていきます。ここで押さえておきたいのは、弥太郎の代までの仕事と、その後の仕事の境目です。
- 弥太郎の代:九十九商会から郵便汽船三菱会社まで、吉岡鉱山、三菱為換店、高島炭坑、長崎造船所の借受
- 死後、彌之助の代:日本郵船の設立、三菱社への改称、長崎造船所の払下げ
- 久彌の代:三菱合資会社としての経営
日本郵船会社の設立は1885年9月29日、創業は10月1日です。弥太郎が亡くなったのは同じ年の2月7日ですから、その約7か月後にあたります。
日本郵船歴史博物館は、弥太郎が「新会社の誕生を見ることはありませんでした」と書いています。
合併の交渉を担ったのは、彌之助と管事の川田小一郎でした。出資比率は三菱5対共同6で、三菱は過半を持っていません。初代社長には共同運輸側の森岡昌純が就いています。
ここで、前の章と食い違って見える点を補っておきます。禁じられていたのは、郵便汽船三菱会社という会社が海運以外の事業を営むことでした。
第一・第二命令書がその条件だったため、吉岡鉱山や高島炭坑、長崎造船所などは「岩崎家の事業」という扱いになっていた、と三菱の記録は説明しています。
海運を日本郵船へ譲った三菱は、1886年(明治19年)3月に社名を「三菱社」と改めました。この転換で、鉱業と造船を会社の事業として本格的に進められるようになります。
鉱山・造船・銀行を主軸とする三菱合資会社ができるのは1893年(明治26年)で、弥太郎の死から8年後です。「弥太郎が一代で三菱を築いた」とは言えません。彼が残したのは、その原点となる事業基盤でした。
弥太郎の評価は、生前から割れていました。渋沢栄一は後年、弥太郎を「専権邁進の人」と評し、事業は自分ひとりで進めるものだという主義だったと回想しています(『実験論語処世談』、初出は1917年)。
渋沢自身は、多くの人の資本を集める合本組織を主張していました。
いっぽう安芸市の公式サイトは、弥太郎が諸外国の汽船会社との競争を制して「東洋の海上王」と呼ばれるようになった、と紹介しています。ただしこの異名の出どころは示されていません。
ゆかりの地も残っています。安芸市の生家は、2010年に「岩崎家住宅」7棟が国の登録有形文化財になりました。
東京の清澄庭園は、1878年(明治11年)に弥太郎が邸地を買い取って造成したもので、1979年に東京都の名勝に指定されています。ただし造成は弥太郎の死後も続いており、その代で完成したものではありません。
なお、上野の旧岩崎邸庭園は長男・久彌の本邸で、竣工は1896年です。弥太郎の没後11年に建てられたもので、弥太郎の邸宅ではありません。
坂本龍馬については、こちらの記事でくわしく紹介しています。

日本郵船の誕生を、ご自身は見ていないのですね。

そう聞くと、なんとも間の悪い話じゃのう。
競うた相手と一つになったと聞けば、悔しさもあろうし、ほっとする気持ちもあったかもしれん。もっとも、それはわしには分からんことじゃ。
弟や川田がまとめたのなら、それでええ。船が海に浮いておれば、旗の色はどちらでも構わんき。
岩崎弥太郎の仕事から考える現代へのヒント
弥太郎が何を考えていたかを、内心のレベルで確かめることはできません。ただ、残された仕事の形からは、その進め方を読み取れます。
一つは、制度が変わる瞬間に手を挙げていることです。藩がなくなる、政府が船を買う、官営の造船所が民間に開かれる。いずれも制度の変わり目で、そこへ早い段階で入っていきました。
もう一つは、条件付きの支援を引き受けていることです。第一命令書の助成には、会計監査も郵便の無賃輸送も商船学校の設立もついていました。楽な話ではありません。
- 変わり目に入る:藩の解体、政府の輸送、官営工場の開放という節目をとらえた
- 条件ごと引き受ける:助成に付いた義務を含めて受け、後に代金も納めた
- 稼いだ場所と違う場所へ回す:海で得た資金を鉱山・造船・金融へ向けた
もっとも、この読み方には限りがあります。政府との近さは当時から批判され、運賃をめぐっては利用者から不満も出ました。高島炭坑の買収は弟の説得によるもので、彼ひとりの判断ではありません。
150年近く前の仕事ですから、そのまま現代に当てはめられるものではありません。それでも、制度が動くときに動くこと、支援には条件がついていること。この2点は、考える材料になりそうです。

制度が変わる場所に、何度も立ち会ってこられました。いまを生きる人に言えることはありますか。

ここから先は、そなたらの世に合わせた物言いと思うて聞いてもらいたい。わしの書き残したものに、こういう言葉はないきに。
世の仕組みが変わるときは、誰にとっても足元が揺れる。その揺れを厄介と見るか、入り口と見るか。そこで道が分かれるのではないかのう。
それと、うまい話には必ず紐が付いておる。紐ごと引き受ける覚悟があるかどうかじゃ。
あなたは岩崎弥太郎の生き方から、何を学びますか。
よくある質問(FAQ)
岩崎弥太郎は何をした人ですか?
三菱の原点となる海運会社を育てた実業家です。土佐藩の商務を担ったのち、1870年発足の九十九商会を引き継ぎ、社名を改めながら事業を広げました。鉱山や造船へも手を伸ばし、後の三菱の事業基盤をつくっています。
岩崎弥太郎と坂本龍馬はどんな関係でしたか?
弥太郎は長崎の土佐商会で、海援隊の資金や船の事務を扱う立場にありました。日記には龍馬と密談し涙して見送った記述がある一方、海援隊とのやりとりに「何分心気不快」と書いた夜もあります。単純な間柄ではありません。
岩崎弥太郎の死因は何ですか?
三菱の社史連載は胃癌と記していますが、国立国会図書館は「病死」とだけ書いています。1884年夏から食事がとれなくなり、翌1885年2月7日に亡くなりました。当時の診断と現代の病名は前提が異なります。
岩崎弥太郎は何歳で亡くなりましたか?
満50歳です(数え年では52歳)。三菱と日本郵船の公式は50歳、安芸市の公式は52歳としており、これは満年齢と数え年の違いです。天保5年12月11日(1835年1月9日)に生まれ、1885年2月7日に亡くなりました。
「政商」とはどういう意味ですか?
政府と密接な関係を持ちながら事業を拡大した実業家を指す言葉です。ただし『改訂新版 世界大百科事典』自身が「かなりあいまい」と断っており、批判を込めて使われることも多い語です。
岩崎弥太郎が日本郵船をつくったのですか?
いいえ。日本郵船会社の設立は1885年9月29日で、弥太郎が亡くなった同年2月7日の約7か月後です。合併交渉を担ったのは弟の彌之助と管事の川田小一郎で、初代社長には共同運輸側の森岡昌純が就きました。
三菱の社名やスリーダイヤの由来は?
社名は、船旗に掲げた3つの菱形にちなむとされます。安芸市の公式サイトは、岩崎家の家紋「三階菱」と土佐藩主・山内家の家紋「三ツ柏」をもとに現在のスリーダイヤができたと説明しています。
岩崎弥太郎の生家は見学できますか?
高知県安芸市井ノ口に現存し、見学できます。1795年ごろに曽祖父が建てたとされる建物で、2010年に「岩崎家住宅」7棟が国の登録有形文化財になりました。土蔵の鬼瓦には家紋の三階菱が残っています。
上野の旧岩崎邸庭園は弥太郎の家ですか?
いいえ。旧岩崎邸庭園は長男・久彌の本邸で、1896年の竣工です。設計はジョサイア・コンドル。弥太郎が亡くなって11年後に建てられたもので、弥太郎自身が住んだ家ではありません。
インタビュー後記|「もらった」の中身を見に行く
今回は弥太郎AIに登場してもらい、その生涯をたどりました。
書きながらいちばん引っかかったのは、「政府から船をもらった」という一行の中身でした。調べてみると、1874年の台湾出兵の時点では運航の委託にすぎず、船が三菱のものになるのは翌年の命令書からです。
しかもその命令書には、会計監査も、郵便の無賃輸送も、商船学校の設立も義務としてついていました。批判されるだけの近さはたしかにあったのですが、「タダでもらったまま」ではありませんでした。
もう一つは、一代記として読むと、どうしても一人の手柄に見えてくることです。高島炭坑の買収は弟に説得されたものでしたし、長崎造船所の払下げも死後でした。実際には、引き受けた人と、続けた人がいます。
船をもらったのか、預かったのか。始めたのか、引き継いだのか。ひとつずつ年で切り分けていくと、一人の英雄譚だったものが、引き受けた人と続けた人の話に変わっていきます。
参考資料
- 国立国会図書館「岩崎弥太郎|近代日本人の肖像」※生没年を「天保5年12月11日〜明治18年2月7日(1835年1月9日〜1885年2月7日)」と和暦・西暦で併記していること、死について「病死」とのみ記していること
- コトバンク「岩崎弥太郎」(『日本大百科全書』『改訂新版 世界大百科事典』『ブリタニカ国際大百科事典』ほかを収録)※事典が生没年を「1834―1885」と年の対応で表記していること、台湾出兵・西南戦争の軍需輸送と政府の保護、「政商」「海運王」という評価語
- 三菱グループサイト「岩崎彌太郎年表」※誕生を0歳とする満年齢基準の年表、江戸遊学(19歳)、東京海上保険会社と明治生命保険会社を「設立援助」と記していること
- 三菱オフィシャルサイト「沿革」※九十九商会から郵便汽船三菱会社までの社名の変遷、藩船三隻を「借り受け」とする表記、彌之助の第二代社長就任、1886年の三菱社改称、1893年の三菱合資会社
- 三菱オフィシャルサイト「三菱の歴史」※三菱の起源を1870年の九十九商会とし、彌太郎・彌之助・久彌・小彌太の岩崎四代が社長を務めたとしていること
- 三菱グループサイト「三菱広報委員会 会員会社年表」※吉岡鉱山の買収(1873年)、三菱為換店と千川水道会社(1880年)、長崎造船所の借受(1884年)と払下げ(1887年)の各年次
- 三菱人物伝「vol.01 土佐の岩崎家」※父・彌次郎と母・美和、曽祖父の代に郷士の資格を売って地下浪人の立場にあったこと
- 三菱人物伝「vol.03 彌太郎、江戸へ」※安政元年の江戸遊学と、父の急病による1年ほどでの帰郷
- 三菱人物伝「vol.04 投獄、居村追放」※父の負傷をめぐる訴えと投獄、家名削除・居村追放、赦免後の少林塾入門
- 三菱人物伝「vol.06 経済官僚、奮戦す」※長崎の土佐商会で藩の物産を売り、艦船や武器を買い付けたこと
- 三菱人物伝「vol.08 九十九商会の発足」※藩船を「払い下げ」と記していること、発足時の彌太郎が藩の立場から事業を監督していたとする整理
- 三菱人物伝「vol.10 『三菱』を名乗る」※1873年3月の三菱商会改称と社主就任、1874年春の三菱蒸汽船会社改称・東京移転・「社長」を名乗った時期、社名が船旗の三つの菱形にちなむこと
- 三菱人物伝「vol.12 台湾出兵と三菱」※政府が購入した外国船10隻に3隻を加えた計13隻について「運航を三菱に委託した」と記していること
- 三菱人物伝「vol.13 上海航路の攻防」※1875年2月3日の上海航路第一便、太平洋郵船の営業権買収、P&O社の撤退、社名に「郵便」を入れた理由
- 三菱人物伝「vol.16 西南戦争」※社船38隻を軍事輸送に投じたこと、無償供与された30隻の代金120万円を上納したこと、汽船総トン数の73%を占めるにいたったこと
- 三菱人物伝「vol.18 ベンチャーの旗手」※千川水道会社が明治13年に認可を得て翌年営業を開始したこと
- 三菱人物伝「vol.21 三菱の独占ゆるすまじ」※「三菱は政府から莫大な助成金を受け取りながら高い運賃を国民に押付け」という非難や、自由党機関紙の「帝国の領海を私有する海上政府」という表現
- 三菱人物伝「vol.22 渋沢栄一と彌太郎」※渋沢栄一の合本主義と彌太郎の社長独裁という経営観の対立、渋沢が共同運輸の設立に関与したこと
- 三菱人物伝「vol.23 共同運輸との消耗戦と日本郵船の誕生」※共同運輸との値下げ合戦(旅客2〜3割引、貨物3〜4割引)、明治17年夏からの闘病と伊豆での静養、10月末に茅町本邸で床に伏したこと、東大病院のドイツ人教授を含む医師団が治療にあたったこと、「胃癌」と記していること
- 三菱人物伝「vol.24 彌太郎の遺産(最終回)」※明治18年2月7日に50歳で死去したとする記述
- 三菱人物伝「岩崎彌之助 vol.03 彌太郎を支えて 副社長時代」※高島炭坑の買収(明治14年3月・97万円)を彌之助が彌太郎に説いて実現させたこと
- 三菱人物伝「岩崎彌之助 vol.04 日本郵船の誕生」※合併交渉を彌之助と管事の川田小一郎が担ったこと、出資比率が三菱5対共同6であったこと
- 三菱人物伝「岩崎彌之助 vol.05 事業の多角化と人材登用」※明治19年3月の「三菱社」への改称と、海運を譲ったことで海運以外の事業が可能になった経緯
- 三菱人物伝「岩崎彌之助 vol.08 造船日本の船出 長崎造船所」※長崎造船所の借受(明治17年)と買収(明治20年)が別の出来事であること
- 三菱オフィシャルサイト「ゆかりの名所・史跡・文化施設」※清澄庭園を1878年に彌太郎が購入して造成したこと、旧岩崎邸庭園が1896年に長男・久彌の本邸として建てられたこと
- 国立国会図書館 レファレンス協同データベース「明治時代、三菱汽船が政府から受けた『命令書』について」※第一命令書(明治8年9月15日)が東京丸など13隻を無償で下付し、運航助成金として年25万円を15年給付したこと、毎月の会計報告と監査・郵便物の無賃輸送・船舶の提供・商船学校の設立という義務が課されたこと
- 日本郵船「沿革」※日本郵船会社の設立が1885年9月29日、創業が10月1日であること
- 日本郵船歴史博物館 航跡「日本郵船会社の誕生」※彌太郎が合併交渉中に他界し「新会社の誕生を見ることはありませんでした」と記していること、初代社長が森岡昌純であること
- 三菱重工「長崎造船所 史料館」※1884年7月に政府から長崎造船所の貸与を受け、1887年6月に彌之助が払下げを申請して代金45万9千円で許可されたこと
- 明治日本の産業革命遺産 公式サイト「高島炭坑」※1881年に福沢諭吉の仲介で後藤象二郎から岩崎彌太郎へ譲渡されたこと
- 日本遺産ポータルサイト「『ジャパンレッド』発祥の地 みどころ」※明治6年に岩崎弥太郎(三菱商会)が吉岡銅山を買収し、三菱が手がけた最初の金属鉱山となったこと
- アジア歴史資料センター「定期航路を見る|公文書にみる明治日本のアジア関与」※郵便汽船三菱会社が1875年2月3日に上海〜横浜航路を開設したこと
- コトバンク「九十九商会」(『日本大百科全書』ほかを収録)※1870年10月18日の設立、藩船3隻での運航開始、1871年7月に「夕顔」「鶴」の2隻を4万両で払い下げられたこと、三川商会の社名由来
- コトバンク「共同運輸会社」(『日本大百科全書』『改訂新版 世界大百科事典』を収録)※1882年7月の認可と翌年1月の開業、資本金600万円のうち政府出資が260万円であったこと、品川弥二郎の指導により3社を合併して設立され「三井中心であった」とされること
- コトバンク「三菱財閥」(『改訂新版 世界大百科事典』『日本大百科全書』を収録)※汽船30隻の無償下付、彌太郎の死後に彌之助が「海から陸へ」の転換を行ったこと
- コトバンク「三菱会社」(『山川 日本史小辞典』を収録)※1893年に鉱山・造船・銀行を主軸とする三菱合資会社となったこと
- コトバンク「政商」(『改訂新版 世界大百科事典』『日本大百科全書』ほかを収録)※「政商」の語義に幅があり、世界大百科事典自身が「かなりあいまい」と断っていること
- コトバンク「台湾出兵」(『日本大百科全書』ほかを収録)※1874年の台湾出兵の経過
- コトバンク「明治生命保険」(『日本大百科全書』『百科事典マイペディア』を収録)※1881年に福沢諭吉門下の阿部泰蔵が創立し、三菱色が強まるのは1890年代以降であること
- コトバンク「開成館」(『旺文社日本史事典』を収録)※慶応2年の開成館設置と、長崎に貨殖局の出張所を置いたこと
- 高知市「高知市歴史散歩 303 開成館と弥太郎」※安政6年の長崎出発、文久2年の吉田東洋暗殺と失意の生活、開成館貨殖局を短期で辞したこと
- 高知市「高知市歴史散歩 304 坂本龍馬と弥太郎」※慶応3年3月に福岡孝弟の推薦で長崎へ下役として赴任し、5月26日に主任、6月7日に全指揮権を委任されたこと、日記の「与坂本良馬密話」「余不覚流涕数行」、長崎出張所が海援隊の資金調達と船舶事務に関わったこと、4月23日夜のいろは丸沈没事件
- 高知市「高知市歴史散歩 305 弥太郎、九十九商会へ」※慶応3年9月12日夜の日記「何分心気不快」と、弥太郎が海援隊に対立的な感情を持つに至ったとする説明、大阪の土佐商会への赴任と九十九商会の発足
- 高知県立坂本龍馬記念館「才谷屋跡」※才谷屋が坂本家の本家であり、龍馬の家が明和7年に分かれた分家であること
- 安芸市「岩崎弥太郎」※享年を52歳(数え年)とすること、「東洋の海上王」という異名を紹介していること
- 安芸市「岩崎彌太郎生家」※家紋の三階菱と土佐藩主・山内家の三ツ柏をもとに現在のスリーダイヤができたとする説明
- 安芸市観光協会「岩崎彌太郎生家」※生家が1795年ごろに曽祖父によって建てられたこと、土蔵の鬼瓦に三階菱が残ること、見学できること
- 高知県「国登録有形文化財<建造物>」※「岩崎家住宅」7棟が2010年4月28日に国の登録有形文化財となったこと
- 東京観光デジタルパンフレットギャラリー「清澄庭園 ご案内パンフレット」※明治11年に岩崎彌太郎が邸地を買い取ったこと、昭和54年3月31日に東京都の名勝に指定されたこと
- 東京都公園協会「旧岩崎邸庭園」※旧岩崎邸が岩崎久彌の本邸として1896年に竣工し、設計がジョサイア・コンドルであること
- 渋沢栄一記念財団 デジタル版「実験論語処世談」/岩崎は専権邁進の人※渋沢栄一が彌太郎を「専権邁進の人」と評したこと(初出は『実業之世界』第14巻第11号、1917年)





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