香川県の丸亀城を訪ねた日、城の近くの町なかも歩きました。丸亀高校の正門の前も通っています。
江戸から来た幕臣がそこに23年も預けられていたと、私はずっとあとで知りました。
その幕臣が鳥居耀蔵(とりい ようぞう)です。蛮社の獄と天保の改革の記事を書いたとき、どちらにもこの人がいたのに、本人の記事はまだありません。
名前を出すと、たいてい「妖怪」というあだ名が先に返ってきます。けれど、何をした人かまで答えられる人は多くありません。
あだ名が本人を隠している。私はそう感じています。
この記事の結論
鳥居耀蔵は、目付として蛮社の獄で渡辺崋山らを告発し、天保の改革では南町奉行として江戸の市中取締りを担った幕臣です。洋学に反対する立場から、砲術家の高島秋帆の投獄にもかかわったと事典は記します。
厳しい取締りから「妖怪(耀甲斐)」と恐れられましたが、1844年に罷免されます。翌1845年から明治元年(1868年)まで、讃岐の丸亀藩に預けられて23年を過ごしました。
ただし、上知令で老中・水野忠邦と対立した経緯や、罷免の理由は、事典によって書き方が違います。
- 1839年
蛮社の獄で告発 - 23年
丸亀藩に預けられた年数 - 1842年
南町奉行に就任
ここからは、「妖怪」の由来、鳥居がしたこと、失脚の理由、丸亀での最期、後世の評価の順にたどります。
語り手として、鳥居耀蔵AI(鳥居耀蔵をモデルにしたAI)にも登場してもらいます。2027年の大河ドラマ『逆賊の幕臣』では北村一輝さんが演じる人物です。
※以下のインタビュー部分は、公開されている史料をもとに鳥居耀蔵の人物像を再現した創作です。実際の発言をそのまま掲載したものではありません。
出典の確かめ方と、公開前に行っているチェックは編集方針にまとめています。

はじめまして。丸亀の町で、あなたが預けられていた屋敷の跡の前を、素通りしていた者です。まず、ご自身では何をした人だと答えますか。

何をしたか、と問うなら、役目を答えるほかない。
目付、町奉行、勘定奉行。役目には決まりがあり、わしはそれを執り行った。それだけである。
して、そなたは丸亀で何を見に行った。わしの跡を見に来たのでないことは、もう聞いたがのう。
まずは鳥居耀蔵の基本プロフィールと、何をした人物なのかを2分で知ろう
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 名前 | 鳥居耀蔵(とりい ようぞう)。名は忠耀(ただてる)、号は胖庵 |
| 生没年 | 寛政8年11月24日(1796年12月22日)〜明治6年(1873年)10月3日。※没年を1874年とする事典もある |
| 没年齢 | 数え78歳(『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』)。1873年に没したとすれば満76歳 |
| 生まれ | 幕府の儒官・林述斎(はやし じゅっさい)の子。次男とする事典と三男とする事典がある |
| 家 | 旗本・鳥居一学の養子となる |
| 官途名 | 甲斐守(かいのかみ)。南町奉行になったときに名乗る |
| 主な役職 | 目付(大名や旗本を監察する役)→ 南町奉行 → 勘定奉行を兼任(1843年) |
| 主にしたこと | 蛮社の獄の告発、天保の改革での江戸の市中取締り、高島秋帆の投獄 |
| 晩年 | 1845年から明治元年(1868年)まで、丸亀藩主・京極高朗に預けられる |
| 大河ドラマ | 2027年『逆賊の幕臣』で北村一輝さんが演じる |
参考:鳥居耀蔵|コトバンク
鳥居の人生は、目付、町奉行、預けの身の三つに分かれます。町奉行として表舞台にいたのは、天保12年12月(1842年初め)から1844年までの3年足らずです。
いっぽう、丸亀での暮らしは23年に及びます。「妖怪」と呼ばれた時期より、そのあとの人生のほうがずっと長い人でした。
生まれた寛政8年11月24日は、西暦では1796年12月22日です。
参考:日本の暦日データベース(1796年)|国立天文台 暦計算室

お父上は、幕府の学問を取り仕切る林家の当主でした。儒学者の家に生まれて、監察役の目付になったのですね。

林の家に生まれ、鳥居の家を継いだ。学問の家から、役目の家へ移ったわけである。
目付は、決まりが守られておるかを見る役。学問で決まりの理屈を知り、役目でそれを守らせた。わしの中では、筋は一本である。
そなたの世では、見張る役と裁く役は、分けておるのか。

分けています。警察と裁判所は別の役所です。

ほう、分けておるか。
それなら、見張る者の筆が少々走っても、裁く者が止められる、ということでござるな。

鳥居の生涯を1冊で追いたい方には、私も読んだ松岡英夫さんの『鳥居耀蔵』があります。中公新書の評伝です。
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この作品のポイント
- 作品紹介は、前半生を「妖怪」と恐れられ、後半生の23年を幽囚の身で過ごした鳥居の生涯を描く本としています
- 1991年に出た新書の電子版です
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鳥居耀蔵はなぜ「妖怪」と呼ばれた? 甲斐守忠耀をもじったあだ名
「妖怪」は、名の忠耀の「耀(よう)」と、官途名の甲斐守の「甲斐(かい)」を続けたあだ名です。厳しい取締りへの恐れが込められていた、と事典は説明します。
| 事典 | 「妖怪」の書き方 |
|---|---|
| 『改訂新版 世界大百科事典』 | 江戸町人から甲斐守忠耀をもじって妖怪(耀甲斐)と恐れられ、かつ反感の的となった |
| 『日本大百科全書』 | 江戸庶民には「妖怪」(耀甲斐)と恐れられるほどの強権政治を行った |
| 『ブリタニカ国際大百科事典』 | 「妖怪 (耀甲斐) 」と呼ばれて世人に恐れられた |
| 『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』 | きびしい取り締まりで「妖怪(耀甲斐)」とおそれられた |
参考:鳥居耀蔵|コトバンク
四つの事典はそろって「耀甲斐」を添え、恐れられた理由を取締りの厳しさに置いています。「もじって」と説明するのは『改訂新版 世界大百科事典』です。誰が言い出したのか、いつから広まったのかは、どの事典にも出てきません。
見落としやすいのは、甲斐守を名乗った時期です。『日本大百科全書』によれば、鳥居は南町奉行に就いたときに甲斐守となりました。
つまり、1839年の蛮社の獄のころの鳥居は、まだ「耀甲斐」ではありません。
使われ始めた時期を直接示す記述はありませんが、「耀甲斐」というもじりから考えると、「妖怪」は、町奉行になってから生まれたあだ名である可能性が高いでしょう。
『日本大百科全書』は、強権の背景について一つの見方も添えています。目付として大塩平八郎の乱(1837年)の事後処理にあたった経験が「そうさせたともいわれる」というものです。言い切ってはいません。

蛮社の獄のころは、まだそう呼ばれていなかったわけですね。呼ばれたのは、町奉行になってからです。

甲斐守を賜ったのは、町奉行の役についたときである。
ゆえに、そのあだ名も町奉行のときのものであろう。
わしをどう呼ぶかは、呼ぶ側の決めることでござろう。
鳥居耀蔵がしたこと 蛮社の獄・天保の改革・高島秋帆の投獄
鳥居の名前が事典に出てくる出来事は、次のとおりです。
- ① 目付として、渡辺崋山・高野長英らの蛮社の獄を引き起こしたこと(1839年)
- ② 南町奉行として、天保の改革で江戸の市中取締りを担ったこと(1842年〜)
- ③ 西洋砲術を唱えた高島秋帆の投獄にかかわったこと(1842年)
三つのうち、蛮社の獄と高島秋帆の投獄は、洋学や西洋の技術をめぐる対立にかかわっています。天保の改革の取締りで相手にしたのは、髪結いや寄席など、町の人の暮らしと楽しみでした。
① 目付として蛮社の獄を引き起こした(1839年)
1839年(天保10年)、目付の鳥居は、蘭学者の渡辺崋山・高野長英らを告発し、処罰に追い込みました。これが蛮社の獄です。告発のしかたを、事典はそれぞれ次の言葉で書いています。
| 事典 | 鳥居の告発の書き方 |
|---|---|
| 『日本大百科全書』 | 崋山が無人島渡航計画に関係し、幕政批判を行ったなどと「罪状を捏造」して逮捕 |
| 『改訂新版 世界大百科事典』 | 配下の小人目付・小笠原貢蔵の報告書に「潤色を加えて」告発状を作り、老中水野忠邦に上申 |
| 『山川 日本史小辞典』 | 小笠原の報告に「脚色を加え」老中水野忠邦に上申 |
| 『百科事典マイペディア』 | 目付鳥居耀蔵ら反洋学派が、小笠原密航を企てているとの理由で崋山ら26人を逮捕 |
参考:蛮社の獄|コトバンク
捏造、潤色、脚色と言葉は違いますが、部下の報告に手を加えて告発したという流れは同じです。対立する説ではありません。
取調べで無人島渡航の容疑は晴れましたが、幕政を批判した罪が重く見られます。
同じ天保10年の12月(西暦では1840年初め)、崋山は国元での蟄居(ちっきょ:家に閉じこもる刑)、長英は永牢(えいろう:終身の入牢)を言い渡されました。
鳥居がなぜそこまでしたのかは、事典で説明が分かれます。『日本大百科全書』は、儒教思想による守旧的な立場から蘭学者を「憎悪していた」とします。
『改訂新版 世界大百科事典』と『山川 日本史小辞典』は、代官・江川英龍が崋山に頼んだ西洋事情の書が幕府に出されるのを、止めようとしたと説明します。
蛮社の獄の経緯は、崋山AIと耀蔵AIに語ってもらった記事で詳しくたどっています。

告発状は、ご自身で書き直したのですか。

報告に手を加えた、と伝わっておるそうな。
目付の役目は、見て、上げること。上げたものの重さは、上げた者が負う。
そなたの世では、報告を書く者と、それを確かめる者は、別の人が務めておるのか。

別の人が務めることが多いと思います。それでも、確かめる側が見落とすことはあります。

見落とすか。
ならば、書く者の筆が、いつの世もいちばん重い。そういうことである。
② 南町奉行として天保の改革の市中取締りを担った(1842年〜)
天保12年12月(1842年初め)、鳥居は矢部定謙のあとを継いで江戸の南町奉行となり、老中・水野忠邦の天保の改革を市中取締りの面で実行しました。町奉行時代の動きです。
| 年 | できごと |
|---|---|
| 1841年(天保12年) | 目付のまま、御勝手取締掛(財政の引き締めを担う掛)を兼ねる |
| 天保12年12月(1842年初め) | 南町奉行の矢部定謙が罷免され、その後任となる。甲斐守を名乗る |
| 1842年〜 | 市中に隠密を放って違反者を摘発し、禁を犯した者に厳罰で臨む |
| 天保14年2月(1843年) | 対立していた北町奉行・遠山景元が、大目付に転じる |
| 1843年(天保14年) | 勘定奉行を兼任する |
参考:鳥居耀蔵|コトバンク
参考:天保改革|コトバンク
天保の改革では、女髪結の禁止や高価な櫛・きせるの売買禁止、芝居小屋の郊外への移転、寄席の閉鎖などが進められました。鳥居は、それを町で守らせる側にいました。
『改訂新版 世界大百科事典』の「天保改革」の項は、鳥居の取締りで「市中は火の消えたようになった」と書いています。
鳥居は、渋川六蔵・後藤三右衛門とともに「水野の三羽烏」と呼ばれました(後藤を「三左衛門」とする事典もあります)。
参考:鳥居耀蔵|コトバンク
前任の矢部定謙については、『改訂新版 世界大百科事典』が「目付鳥居耀蔵の暗躍により同年末失脚」と記しています。矢部は桑名藩に預けられ、翌1842年に亡くなりました。
参考:矢部定謙|コトバンク
北町奉行の遠山景元とは、株仲間の解散などをめぐって「とかく対立」したと『日本大百科全書』にあります。遠山は天保14年2月(1843年)に大目付へ移り、鳥居の失脚後の弘化2年3月(1845年)に、南町奉行として戻りました。
参考:遠山景元|コトバンク
人情本の為永春水や、『偐紫田舎源氏』の柳亭種彦も、天保の改革で処罰されました。ただ、コトバンクの二人の項に、鳥居の名は出てきません。
改革全体の流れと、なぜ失敗に終わったのかは、水野忠邦AIと耀蔵AIの記事にまとめています。

髪結いを禁じ、寄席を閉め、隠密を町に放った。町の人からすれば、楽しみをまとめて取り上げられたように見えたはずです。

御老中の御改革を、町で守らせたのがわしの役目である。
守らせる者が手を抜けば、触れは紙切れになる。手を抜かなかったから、町が火の消えたようになった、と言われるのであろう。
見張る側には、見張られる側の顔は見えぬものである。
鳥居が町奉行だった天保の改革から、黒船の来航までの流れは、学習まんがの通史でも追えます。
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学習まんが|BOOK☆WALKER
この本の読みどころ
- 作品紹介によると、「外国船の出現と天保の改革」から「江戸幕府の終わり」までの、江戸時代後期を扱う巻です
- 作品紹介に鳥居耀蔵の名前は出てきません。鳥居が生きた時代の流れを押さえるための1冊です
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③ 高島秋帆の投獄にかかわった(1842年)
1842年(天保13年)、西洋砲術を唱えた長崎の砲術家・高島秋帆が投獄されます。鳥居がどうかかわったかは、事典によって書き方の強さが違います。
| 事典(項目) | 書き方 |
|---|---|
| 『百科事典マイペディア』(高島秋帆) | 鳥居耀蔵の讒(ざん:事実をゆがめた告げ口)にあい下獄 |
| 『山川 日本史小辞典』(高島秋帆) | 鳥居耀蔵らに嫌疑をかけられて翌年逮捕され |
| 『改訂新版 世界大百科事典』(鳥居耀蔵) | 秋帆の西洋砲術採用策を批判し、高島秋帆疑獄事件を引き起こして捕らえる |
| 『ブリタニカ国際大百科事典』(鳥居耀蔵) | 天保13年に高島秋帆投獄事件を引き起こす |
| 『改訂新版 世界大百科事典』(高島秋帆) | 幕府の守旧派勢力の忌むところとなり、42年10月投獄。鳥居の名は出さない |
参考:高島秋帆|コトバンク
参考:鳥居耀蔵|コトバンク
鳥居の項では関与を明記し、秋帆の項では名前を出さない事典もある、という並び方です。投獄の年も、多くは1842年ですが、『日本大百科全書』の鳥居の項は1843年としています。
秋帆は1841年、武蔵国の徳丸ヶ原で洋式の銃陣を幕府に披露し、洋式砲が採用されるきっかけを作った人です。その翌年に捕らえられました。
秋帆が赦されたのは、1853年のペリー来航のあとでした。江川英龍の尽力で赦免され、のちに幕府の講武所で砲術を教えます(『山川 日本史小辞典』)。鳥居が批判した秋帆本人を、幕府はペリー来航のあとに呼び戻したことになります。

秋帆さんは黒船のあとで赦され、講武所で砲術を教えました。そう聞いたら、どう思いますか。

ほう、秋帆が講武所で。
幕府が秋帆を呼び戻したのなら、それは幕府の決めたこと。わしが異を唱える筋はない。
ただ、あのころの御定法で裁かれた者が、のちの御定法で呼び戻される。法とは、そうして変わるのであろうな。
鳥居耀蔵はなぜ失脚した? 上知令での対立と1844年の罷免
鳥居は1844年(天保15年)に罷免されました。理由は、事典ごとにこう書かれています。
- 上知令で最後に反対派に回り、水野と対立した(『日本大百科全書』)
- 上知令・印旛沼の工事などで水野と対立し、さらに老中・阿部正弘らとオランダ国書の問題で対立したといわれる(『改訂新版 世界大百科事典』)
- 開国を勧めるオランダ国書をめぐる評議で阿部正弘と対立し、在任中の不正が発覚して免職改易された(『山川 日本史小辞典』)
参考:鳥居耀蔵|コトバンク
上知令は、江戸・大坂周辺の大名や旗本の領地を幕府の直轄地にしようとした命令です。反対が大きく、1843年に撤回され、水野忠邦は老中を退きました。その水野が1844年に老中へ戻ると、鳥居は罷免されます。
水野の再登場で罷免された、というのが『日本大百科全書』の説明です。
翌1845年(弘化2年)に水野が再び辞めて処罰されると、その翌日に鳥居は丸亀藩主の預けとなりました。同じ年の10月には、禁固の処罰が下されます。『ブリタニカ国際大百科事典』は「旧悪を問われて」と書いています。
上知令で反対に回ったことを、「水野を裏切った」と書く記事もあります。けれど、今回確認した事典は「反対派に回り」「対立」までです。
なぜ反対に回ったのかという胸の内は、事典からは分かりません。三つの書き方を並べると、上知令、オランダ国書、在任中の不正と、罷免に至る理由そのものが一つに絞られていないことが見えてきます。

上知令で水野さんの反対側に回った。それを裏切りと呼ぶ人もいます。ご本人は、その呼び方をどう聞きますか。

上知令で反対に回った。それは認めよう。
裏切りかどうかは、そなたらが付ける名である。妖怪と同じでござる。わしは、付けられた名に答える役目を持っておらぬ。
一つだけ申せば、異を唱えることと罪とは、別の帳面である。
鳥居耀蔵の最期と死因 丸亀での23年と明治の世
鳥居は1845年から明治元年(1868年)までの23年間、讃岐丸亀藩に預けられ、明治維新で放免されました。亡くなったのは明治6年(1873年)10月3日ですが、1874年とする事典もあります。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 預け先 | 讃岐国丸亀藩主・京極高朗(きょうごく たかあきら) |
| 期間 | 弘化2年(1845年)から明治元年(1868年)までの23年間 |
| 幽閉の場所 | 丸亀藩の御用屋敷。現在の香川県立丸亀高校の正門前の一画(六番丁25番地付近) |
| 放免 | 明治維新で放免 |
| 没年月日 | 明治6年(1873年)10月3日。1874年とする事典もある |
| 没した場所 | 『ブリタニカ国際大百科事典』だけが「静岡」と記す |
| 没年齢 | 数え78歳(『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』) |
| 死因 | 今回確認した事典には書かれていない |
参考:丸亀藩における鳥居耀蔵の幽閉先を知りたい|レファレンス協同データベース(香川県立図書館)
参考:鳥居耀蔵|コトバンク
幽閉先の場所は、香川県立図書館のレファレンス事例が『新編丸亀市史』などをもとに答えています。冒頭に書いた、私が歩いた丸亀高校の正門前は、この一画にあたります。
没年は事典で割れています。1873年とするのは『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』『山川 日本史小辞典』『デジタル大辞泉』と、国立国会図書館の典拠データです。
1874年とするのは『精選版 日本国語大辞典』『改訂新版 世界大百科事典』『ブリタニカ国際大百科事典』『日本大百科全書』です。
参考:鳥居, 耀蔵, 1796-1873|国立国会図書館 典拠データ
月日まで示す事典と国立国会図書館の典拠に合わせ、この記事では1873年とします。満年齢は、1873年に没したとすれば76歳、1874年なら77歳になります。
丸亀での暮らしについては、本人の晩年の日記が『鳥居甲斐晩年日録』(鳥居正博 訓注、桜楓社、1983年)として活字になっています。日記の中身は、まだ読めていません。

丸亀に預けられたのは、50歳を前にしたころです。明治元年に放免されたときには、70歳を過ぎていました。

丸亀の二十三年は、わしの口から語ることではない。
預けられ、明治の御一新で解かれた。決まりの上で言えるのは、ここまでじゃ。
解かれてから五年ほど、新しい世を見た。して、そなたが歩いた丸亀の屋敷の跡には、いま何が建っておる。

高校です。正門の前を、何も知らずに通りました。

学問の場か。
林の家に生まれた者の預け先の跡としては、悪くない落ち着き先であるな。
鳥居耀蔵の生涯を年表で振り返る
年齢は載せていません(旧暦11月生まれのため、出来事ごとに満年齢がずれます)。
和暦の年末は、西暦では翌年になります。南町奉行に就いた天保12年12月は、国立天文台の暦で換算すると1842年1月から2月にあたります。
参考:日本の暦日データベース(1841年)|国立天文台 暦計算室
| 年(和暦) | できごと | 解説 |
|---|---|---|
| 1796年(寛政8年) | 林述斎の子として生まれる | 寛政8年11月24日(1796年12月22日)。のち旗本鳥居一学の養子 |
| 1837年(天保8年) | 目付となる | 『改訂新版 世界大百科事典』による。ほかの事典は就任年を書かず、天保9年・10年に目付として動いたことを記す |
| 1837年以降 | 大塩平八郎の乱の事後処理にあたる | 目付として(『日本大百科全書』『ブリタニカ国際大百科事典』) |
| 天保10年1〜3月(1839年) | 代官・江川英龍とともに江戸湾の防備を巡視 | 改革案で江川と対立したと『山川 日本史小辞典』は記す |
| 天保10年5月(1839年) | 渡辺崋山・高野長英らを逮捕させる | 蛮社の獄 |
| 天保10年12月(1840年初め) | 崋山に国元蟄居、長英に永牢の判決 | 崋山はのちに自害、長英はのちに脱獄(『ブリタニカ国際大百科事典』) |
| 1841年(天保12年) | 御勝手取締掛を兼任 | 目付のまま |
| 天保12年12月(1842年初め) | 南町奉行となり、甲斐守を名乗る | 前任の矢部定謙は罷免 |
| 1842年(天保13年) | 高島秋帆の投獄 | 『日本大百科全書』の鳥居の項は1843年とする |
| 天保14年2月(1843年) | 北町奉行・遠山景元が大目付に転じる | 鳥居と対立していた |
| 1843年(天保14年) | 勘定奉行を兼任。上知令をめぐり水野と対立 | 上知令は撤回され、水野は老中を退く |
| 1844年(天保15年) | 罷免される | 水野の老中再任のあと。事典は弘化元年と表記するものが多い(弘化への改元は同年12月) |
| 1845年(弘化2年) | 丸亀藩主・京極高朗の預けとなる | 同年10月に禁固の処罰 |
| 1868年(明治元年) | 放免される | 丸亀での23年が終わる |
| 1873年(明治6年) | 10月3日に死去 | 1874年とする事典もある |
参考:鳥居耀蔵|コトバンク
年表を見ると、1839年から1845年までの7年に、ほとんどの出来事が集まっています。目付として告発し、町奉行として取り締まり、罷免されて丸亀へ送られるまでが、わずか7年です。
そのあとの23年は、表では2行にしかなりません。
丸亀での23年は、事典に書かれていることが少ない時間です。それでも、表舞台にいた3年足らずより、ずっと長い時間でした。
鳥居耀蔵の影響と評価 なぜ悪役として語られるのか
鳥居の評価は、事典の言葉にすでに表れています。
- 「一貫して洋学を敵視した」(『改訂新版 世界大百科事典』)
- 「開明派を弾圧し」「守旧派の立場から推し進めようとした」(『日本大百科全書』)
- 「水野忠邦の片腕として天保の改革を推進」(『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』)
- 「市中は火の消えたようになった」(『改訂新版 世界大百科事典』「天保改革」)
参考:鳥居耀蔵|コトバンク
どれも人柄ではなく、立場とやり方の言葉です。悪役の像は、ここから組み上がっています。
悪役として語られるとき、比べられるのが北町奉行の遠山景元です。遠山は「遠山の金さん」として講談・テレビ・芝居で取り上げられた、と『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』にあります。
参考:遠山景元|コトバンク
鳥居のほうが講談やドラマでどう描かれてきたかは、事典は書いていません。史実として確かめられるのは、二人が対立し、遠山が一度町奉行を離れ、鳥居の失脚後に戻ったところまでです。
2027年の大河ドラマ『逆賊の幕臣』では、北村一輝さんが鳥居を演じます。役紹介の見出しは「すべては徳川のため。『妖怪』と呼ばれた町奉行」です。
参考:2027年大河ドラマ「逆賊の幕臣」新キャスト発表!|ステラnet
事典が「守旧派」と書く人物を、ドラマは「徳川のため」に動く人として紹介しています。どちらも一面で、両方を並べると、鳥居が何を守ろうとしたのかを考える手がかりになります。
ドラマの登場人物と、小栗忠順との関係は、こちらの記事で史実と照らし合わせています。

大河では「すべては徳川のため」と紹介されています。この看板、受け取りますか。

徳川のため、とな。芝居の口上にしては、筋の通った言い方である。
守旧と呼ぶか、徳川のためと呼ぶか。旧きを守ることが徳川のためであった世に、わしは役目を持っておった。どちらの言葉も、外れてはおらぬのやもしれぬ。
いま問われれば、わしは「徳川のため」のほうを名乗りたい。して、その芝居で、わしは最後にどうなる。
鳥居耀蔵の歩みから考える現代へのヒント
本人の書いたものには、この記事では当たっていません。事典が記す歩みから、私が考えたことを表にしました。
| 鳥居の歩み | 現代へのヒント(筆者の解釈) |
|---|---|
| 目付として、部下の報告に手を加えて告発した | 調べる人と、話を組み立てる人が同じだと、確かめる仕組みが働きにくい |
| 町奉行として、市中に隠密を放って取り締まった | 取り締まりの厳しさは、あだ名になって当人より長く残る |
| 高島秋帆の西洋砲術を批判し、投獄にかかわった | 批判して退けた人が、十数年後に必要とされることがある |
| 罷免のあと、丸亀で23年を過ごした | 表舞台にいた時間より、そのあとの時間のほうが長い人生もある |
決まりを守らせることと、決まりが正しいかを問うことは、別の仕事です。
鳥居は守らせる側の役目にありながら、蛮社の獄では告発そのものにも深くかかわりました。決まりが正しいかを誰が問うのかは、いまの組織にもそのまま残る問いだと私は思います。
秋帆の件も、同じ問いにつながります。1842年に捕らえられた秋帆は、1853年のペリー来航のあと、幕府に呼び戻されました。正しいかどうかは、その場では決まらないことがあるのです。

いまの日本では、町のあちこちに防犯カメラがあります。駅にも、商店街にも。隠密を町に放ったと伝わるあなたは、これをどう見ますか。

人を使わずに町を見張る仕掛け、とな。わしの世にそれがあれば、隠密は要らなんだ。
じゃが、見る目が増えても、何を罪とするかを決めるのは人である。仕掛けは掟を選ばぬ。
見たものを誰が改めるか。わしの世で欠けておったのは、そこである。

いまは警察や自治体が管理して、使い方にも決まりがあります。ただ、その決まりが十分かどうかは、いまも議論が続いています。

議論が続いておるなら、まだ健やかであろう。
議論が止んだときが、いちばん危うい。
あなたは鳥居耀蔵の生き方から、何を受け取りますか。
よくある質問(FAQ)
鳥居耀蔵は何をした人ですか?
江戸時代後期の幕臣です。目付として1839年に蛮社の獄で渡辺崋山らを告発し、1842年初めから南町奉行として天保の改革の市中取締りを担いました。1844年に罷免され、丸亀藩に23年間預けられました。
鳥居耀蔵はなぜ「妖怪」と呼ばれたのですか?
名の忠耀の「耀」と、官途名の甲斐守の「甲斐」を続けると「ようかい」になるためです。町奉行としての厳しい取締りから、江戸の町人に恐れられたあだ名だと事典は説明しています。
鳥居耀蔵と遠山の金さんは、どんな関係ですか?
北町奉行の遠山景元(金四郎)とは、同じ時期の町奉行として対立しました。遠山は天保14年2月(1843年)に大目付へ移り、鳥居の失脚後の弘化2年3月(1845年)に南町奉行として戻っています。
鳥居耀蔵は水野忠邦を裏切ったのですか?
事典が書いているのは、上知令で「最後に反対派に回り」水野と対立した、というところまでです。反対に回った理由や経緯は、今回確認した事典には書かれていません。
鳥居耀蔵はなぜ失脚したのですか?
事典によって理由の書き方が違います。上知令での水野との対立、オランダ国書をめぐる阿部正弘との対立、在任中の不正の発覚が挙げられています。1844年に罷免され、翌年に丸亀藩預けとなりました。
鳥居耀蔵の最期はどこで、何歳でしたか?
明治6年(1873年)10月3日に、数え78歳で亡くなりました。没年を1874年とする事典もあります。没した場所は『ブリタニカ国際大百科事典』だけが静岡と記しています。死因は、今回確認した事典には書かれていません。
鳥居耀蔵が預けられた丸亀の場所はどこですか?
丸亀藩の御用屋敷で、現在の香川県立丸亀高校の正門前の一画(六番丁25番地付近)にあたります。香川県立図書館のレファレンス事例が、『新編丸亀市史』などをもとに答えています。
鳥居耀蔵の子孫はいますか?
今回確認した事典と国立国会図書館の典拠データには、子孫についての記述がありませんでした。
大河ドラマで鳥居耀蔵を演じるのは誰ですか?
2027年の大河ドラマ『逆賊の幕臣』で、北村一輝さんが演じます。役紹介の見出しは「すべては徳川のため。『妖怪』と呼ばれた町奉行」です(2026年6月23日の配役発表)。
鳥居耀蔵の本名と読み方を教えてください。
「とりい ようぞう」と読みます。名は忠耀(ただてる)、号は胖庵、官途名は甲斐守です。
インタビュー後記 鳥居耀蔵は「妖怪の名に隠れた23年の人」
丸亀城を見に行った日、私はあの一画を、ただの通り道として歩いていました。23年分の時間がそこにあったことになります。
松岡英夫『鳥居耀蔵』も読みました。中公新書から出た評伝で、副題は「天保の改革の弾圧者」です。
本の中身ではなく、事典の日付と役職を並べ直してみると、「妖怪」と呼ばれた3年足らずの裏に、丸亀での23年があったことが、いちばん大きく見えてきます。
あだ名は、取り締まられた側が残した記憶で、消すべきものではないと思っています。ただ、あだ名だけ覚えていると、その人がどう終わったのかを、私のように知らずに通り過ぎます。
2027年の大河で、北村一輝さんの鳥居がどこまで描かれるのかは、まだ分かりません。放送が始まる前に、事典で確かめられる範囲を手元に置いておくと、ドラマの見え方も変わるはずです。
大河の主人公・小栗忠順は、鳥居が丸亀にいた間に、幕府の財政と軍備を担う側へ進んでいった人です。
参考資料
- コトバンク「鳥居耀蔵」※生没年(1873年と1874年の割れ)、林述斎の子(次男・三男の割れ)、鳥居一学の養子、名・号・官途名、目付就任年(1837年)と天保9年・10年に目付として動いたこと、大塩平八郎の乱の事後処理、江戸湾の巡視と江川との対立、蛮社の獄、御勝手取締掛、南町奉行就任と甲斐守、三羽烏、「妖怪(耀甲斐)」の各事典の書き方、高島秋帆の件、勘定奉行兼任、上知令とオランダ国書と在任中の不正、罷免、丸亀藩預けと禁固、放免、没地「静岡」、数え78歳の出典(『デジタル大辞泉』『精選版 日本国語大辞典』『日本大百科全書』『改訂新版 世界大百科事典』『百科事典マイペディア』『ブリタニカ国際大百科事典』『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』『山川 日本史小辞典』、『世界大百科事典(旧版)』「蛮社の獄」からの言及)
- コトバンク「蛮社の獄」※「罪状を捏造」「潤色を加えて」「脚色を加え」の各事典の書き方、小人目付・小笠原貢蔵、26人の逮捕、崋山の国元蟄居と長英の永牢、鳥居の動機についての各事典の説明の出典
- コトバンク「天保改革」※女髪結の禁止、櫛・きせるの売買禁止、芝居小屋の移転と寄席の閉鎖、鳥居が市中に隠密を放ち「市中は火の消えたようになった」ことの出典(『改訂新版 世界大百科事典』)
- コトバンク「上知令」※江戸・大坂近隣の大名・旗本の領地を幕領に編入しようとしたこと、反対を受けて撤回されたことの出典
- コトバンク「水野忠邦」※1843年の上知令撤回後の失脚と、1844年の老中再任の出典(『山川 日本史小辞典』)
- コトバンク「為永春水」※天保の改革での処罰と、項目に鳥居の名が出てこないことの確認
- コトバンク「柳亭種彦」※天保の改革での処罰と、項目に鳥居の名が出てこないことの確認
- コトバンク「高島秋帆」※「鳥居耀蔵の讒にあい下獄」(『百科事典マイペディア』)、「鳥居耀蔵らに嫌疑をかけられて翌年逮捕され」(『山川 日本史小辞典』)、1842年10月の投獄(『改訂新版 世界大百科事典』)、1841年の徳丸ヶ原での演練、ペリー来航後の赦免と講武所の出典
- コトバンク「矢部定謙」※1841年の南町奉行就任、「目付鳥居耀蔵の暗躍により同年末失脚」、桑名藩預けと1842年の死去の出典(『改訂新版 世界大百科事典』)
- コトバンク「遠山景元」※北町奉行、株仲間解散への反対、鳥居と「とかく対立」し天保14年2月(1843年)に大目付へ、弘化2年3月(1845年)の南町奉行就任、「遠山の金さん」として講談・テレビ・芝居で取り上げられたことの出典(『日本大百科全書』『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』)
- レファレンス協同データベース(香川県立図書館)「丸亀藩における鳥居耀蔵の幽閉先を知りたい」※幽閉先が丸亀藩の御用屋敷で、現在の丸亀高校正門前の一画(六番丁25番地付近)にあたること、弘化2年から明治元年までの23年間であることの出典(『新編丸亀市史』などによる回答)
- 国立国会図書館 典拠データ「鳥居, 耀蔵, 1796-1873」※生没年を1796-1873とすること、別名「忠耀」「胖庵」の出典
- 国立国会図書館サーチ「鳥居甲斐晩年日録」※鳥居正博 訓注、桜楓社、1983年刊であることの出典
- 国立国会図書館サーチ「鳥居耀蔵:天保の改革の弾圧者」(中公新書)※松岡英夫著、中央公論社、中公新書、1991年刊であることの出典
- 国立天文台 暦計算室「日本の暦日データベース」(1796年)※寛政8年11月24日が1796年12月22日にあたることの確認
- 国立天文台 暦計算室「日本の暦日データベース」(1841年)※天保12年12月が1842年1月から2月にあたることの確認
- ステラnet「2027年大河ドラマ「逆賊の幕臣」新キャスト発表!宅麻伸、ふかわりょう、神尾楓珠、岩田剛典、北村一輝、柄本明、江戸城で出会う人々を演じる」(2026年6月23日)※鳥居耀蔵役が北村一輝さんであること、役紹介の見出し「すべては徳川のため。『妖怪』と呼ばれた町奉行」の出典







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