徳川家茂の死因を調べると、ネットの記事はたいてい「脚気」の一語で済ませています。ところが事典を5つ引いても、病名はどこにも出てきません。あるのは「大坂城で病死」の一行だけです。
その差が気になって、脚気という答えがどこから来たのかをたどってみました。
この記事の結論
徳川家茂の死因には、脚気による急性の心不全「脚気衝心(かっけしょうしん)」とする見方があります。慶応2年7月20日(1866年8月29日)、第2次長州征討の本営を置いた大坂城で亡くなりました。満20歳(数え21歳)でした。
医師で作家の篠田達明『徳川将軍家十五代のカルテ』(2005年)も、この病名を挙げています。一方、今回確認した5つの事典は、病名を示さず「病死」「病没」と記しています。
死去から公表までは30日あり、その間に慶喜が休戦に向けて朝廷へ奏請しました。虫歯30本の話は、1958年の増上寺の発掘調査にもとづくものとして紹介されています。
- 満20歳
数え年では21歳(事典・増上寺の「21歳」は数え) - 30日
慶応2年7月20日の死去から、8月20日の発喪(公表)まで - 1866年8月29日
慶応2年7月20日。大坂城で死去
この記事では、事典の書き方と、語られてきた3つの話(脚気衝心説・虫歯の話・毒殺の噂)を一覧にし、それぞれの出どころを確かめます。発病から発喪までの経過、後継をめぐる話、和宮と幕府のその後、増上寺の墓所まで順にたどります。
2027年の大河ドラマ『逆賊の幕臣』では、徳川家茂を神尾楓珠さんが演じることが発表されています。放送の前に、若い将軍の死について確かめられることと、確かめられないことの境目を引いておきたいと思いました。
参考:ふかわりょう、神尾楓珠、岩田剛典、大河ドラマ初出演 27年『逆賊の幕臣』新キャスト発表|クランクイン!
語り手として、徳川家茂AI(徳川家茂をモデルにしたAI)にも登場してもらいます。
※以下のインタビュー部分は、公開されている史料をもとに徳川家茂の人物像を再現した創作です。史料で確認できない心情や受け止め方を補った創作的な対話であり、実際の発言をそのまま掲載したものではありません。
出典の確かめ方と、公開前に行っているチェックは編集方針にまとめています。

はじめまして。あなたの死因を事典で引くと、どれも『病死』の二文字で終わります。
二文字で片づけられるのは、どんな気分ですか。

二文字か。江戸から京まで何日もかけて上った身としては、ずいぶん短くまとめられたものじゃ。
もっとも、余にも病の名は言えぬ。医者が何と見立てたかを、余の口で決めるわけにはいかぬ。
二文字で済むなら、それで構わぬ。余の病の名で人が言い争うより、よほどよい。
徳川家茂の死因は?事典の書き方と語られてきた説を一覧で確認
事典は「病死」と書くだけで、病名を挙げるものは今回確認した範囲にありません。日本大百科全書は「7月20日、21歳で城中に病死した」、日本人名大辞典は「大坂城で病没」です。
ブリタニカは「失意のうちに大坂城で病死」と、心情まで添えています。
参考:徳川家茂|コトバンク
病名として語られてきたのは、ほぼ脚気衝心の一つです。それに、虫歯が病を重くしたという背景の話と、毒殺の噂が付いてまわります。3つを並べると、根拠の性格がまったく違うことが見えてきます。
| 話 | 内容 | 主な出どころ | 評価(本記事が確認した範囲) |
|---|---|---|---|
| ① 脚気衝心説 | 脚気が進み、急性の心不全で亡くなった | 篠田達明『徳川将軍家十五代のカルテ』(新潮新書、2005年) | 医師による後世の診断。事典は病名を書かない |
| ② 虫歯の話 | 残っていた31本中30本が虫歯だったと紹介され、病状への影響も語られている | 1958年の増上寺の発掘調査にもとづくとして、一般向け記事が紹介 | 調査報告書の刊行は確認できるが、「31本中30本」の掲載箇所は本記事では確認していない |
| (参考)③ 毒殺・暗殺の噂 | 若い将軍の急死は仕組まれたものだった | 死去がすぐ公表されなかったことを根拠に挙げる一般向け記事 | 今回確認した事典と公開資料の範囲では、裏づける記録はない。発喪を遅らせたのは家茂だけではない |
①は死因の見解、②は歯の状態と病状への影響をめぐる話で、対立する説ではありません。ネットの記事では一つに溶け合って「脚気で早死にした虫歯だらけの将軍」になりがちですが、出どころは別です。
③は噂の域を出ないため、参考の扱いです。

脚気、虫歯、毒。三つ並べましたが、ご本人の前で言いにくいのはどれですか。

言いにくいのは毒じゃな。脚気も虫歯も、余の体の話で済む。
毒となれば、大坂の城にいた誰かを疑う話になる。余に従って江戸から下ってきた者が、あの城には大勢おった。
名もない誰かに罪をかぶせる話は、余は好かぬ。
徳川家茂の死因を史料から検証する
2005年刊行の『徳川将軍家十五代のカルテ』は、家茂の死因を脚気衝心としています。ただし、同書の本文や、この見解がいつから示されていたかまでは確認できていません。前提は3つです。
- 事典に病名はない:今回引いた事典はいずれも「病死」「病没」まで。発病の日付もない
- 脚気の原因が分かったのは明治以降:脚気という病名は江戸時代からあったが、原因となる成分が取り出されたのは1910年
- 遺体の調査は1958年:増上寺の墓所を発掘したときの調査で、報告書は1967年に刊行された
同じ「脚気」という語でも、現代の医師の診断と、当時の医師の見立ては分けて読む必要があります。3つの話を順に見ていきます。
① 脚気衝心説 事典は病名を書かず、後世の医師が診断した
篠田達明『徳川将軍家十五代のカルテ』(新潮新書、2005年)は、版元の紹介によれば、発掘された遺体と文献をもとに歴代将軍を現代の医学で診断した本です。
目次の家茂の項に、死因は脚気衝心(心不全)とあります。一方、事典の書き方は次の一文に尽きます。
7月20日、21歳で城中に病死した
出典:日本大百科全書「徳川家茂」(コトバンク)
脚気は、ビタミンB1の欠乏で起こる病気です。世界大百科事典によれば、しびれや運動麻痺などの神経症状と、動悸やむくみなどの循環器症状が出ます。
循環器症状が進むと、急性の心力衰弱、つまり脚気衝心で死亡することがあります。
参考:脚気|コトバンク
江戸で大流行したことから、「江戸わずらい」とも呼ばれました。
ただし、原因となる成分を鈴木梅太郎が取り出したのは1910年です。1866年の大坂城の医師たちが何と見立てたかを示す記録には、たどり着けていません。
家茂の診療には、漢方医の浅田宗伯や蘭方医の松本良順が関わっていました。日本大百科全書によれば、浅田宗伯は1861年に幕府の侍医となり、和宮、天璋院、家茂などの診療にあたっています。
松本良順も、世界大百科事典に「将軍家茂・慶喜の侍医を歴任」とあります。
参考:浅田宗伯|コトバンク
参考:松本良順|コトバンク
良順の自伝には、家茂の最期に側に侍し、左手で脈を、右手で心臓の動きを確かめたという回想があります。明治35年(1902年)に配られた、約40年後の回想です。
参考:館長メッセージ 令和5年度 その2|千葉市立郷土博物館

漢方と蘭方、両方の医者に診てもらっていたそうですね。どちらの言うことを聞いていましたか。

どちらか一方とは決めぬ。将軍の脈を取る者が一人では心もとない。漢方の者と蘭方の者、両方の言い分を聞けるならそのほうがよい。
余は若い。だから聞く。医者についても同じじゃ。
二人が何と言い合うたかは、いま問われても答えようがない。そなたが確かめられておらぬのなら、なおさらじゃ。
二人がそれぞれ何と見立てたかは、今回引いた事典には出てきません。漢方医は脚気、蘭方医はリウマチと診断したという紹介もありますが、本記事はそのもとになった記録を確認していません。
② 虫歯の話 残っていた歯31本のうち30本という数字の出どころ
虫歯の数字は、1958年の増上寺の発掘調査にもとづくものとして紹介されてきました。増上寺の公式サイトによれば、昭和33年(1958年)の夏、文化財保護委員会が中心となって将軍家墓所を発掘しました。
土葬だった遺体は綿密に調査されたあと、東京の桐ヶ谷で荼毘にふされ、現在の墓所に改葬されています。
この調査の報告書が、鈴木尚・矢島恭介・山辺知行編『増上寺徳川将軍墓とその遺品・遺体』(東京大学出版会、1967年)です。国立国会図書館の書誌で、刊行は1967年12月、第2刷が1997年11月と確認できます。
参考:増上寺徳川将軍墓とその遺品・遺体|国立国会図書館サーチ
「残っていた31本の歯のうち30本が虫歯だった」という数字は、ITmediaの記事(小日向えり、2016年)などの一般向け記事で紹介されています。
同じ記事は、甘いものを好んだという話も一緒に書いています。
参考:虫歯だらけで早死にした徳川「スイーツ将軍」とは?|ITmedia ビジネスオンライン

31本のうち30本が虫歯だったそうです。甘いもの、お好きでしたか。

余の好き嫌いまで、誰かが書き残しておるのか。それは余にも分からぬ。
ただ、まことに三十一本のうち三十本なら、言い逃れのしようがないのう。そなたらの世では、歯の数まで数えるのか。
江戸から大坂まで、歯の痛みと連れ立って旅をしておったのやもしれぬ。そう思うと、少し可笑しい。
ただし、調査報告書の刊行は確認できますが、「31本中30本」という数字の掲載箇所は、本記事では確認していません。
虫歯が多かったという調査結果の紹介と、死因を脚気衝心とする見解は、分けて検討する必要があります。
虫歯が病を重くしたという説明は、二つをつなぐ解釈です。報告書がそう結論づけたかどうかまでは、分かりませんでした。
③ 毒殺・暗殺の噂 死去から公表までの30日は根拠になるか
今回確認した事典と公開資料の範囲では、毒殺・暗殺を裏づける記録は確認できませんでした。医師の倉田大輔がサライ.jpに書いた記事(2019年)は、暗殺の疑惑が語られる背景として、政情の激しさと、死去がすぐに公表されなかったことを挙げています。
参考:3代将軍徳川家光、14代将軍徳川家茂も罹った恐怖の病気|セレブ病だった『脚気(江戸煩い)』|サライ.jp
死去から発喪まで30日あったのは事実です。日本人名大辞典は「大坂城で病没(発喪は8月20日)」、山川 日本史小辞典も「8月20日発喪」と記します。
ただ、発喪を遅らせたのは家茂だけではありません。コトバンクの各事典で歴代将軍の没日と発喪日を見ていくと、10代家治、11代家斉、12代家慶、13代家定にも、死去日と別に発喪日があります。
将軍の死をしばらく伏せるのは、家茂に限らず見られたことです。
30日という間を根拠に毒殺を疑うなら、同じ理由で4人の将軍も疑うことになります。公表までの間だけでは、毒殺の根拠になりません。
倉田の記事自身も、暗殺を主張しているわけではなく、症状と経過から脚気が死因と考えられるとしています。暗殺を裏づける記録は、この記事にも示されていません。

亡くなってから公表まで30日。これを暗殺の根拠に挙げる人がいます。

余が死んでから、三十日も伏せておったと。それは初めて聞いた。
されど、戦の最中に将軍が死んだと知れれば、大坂がどうなるか。江戸まで知らせが届くにも日数がかかる。伏せる理由なら、毒のほかにいくらでも思いつくぞ。
隠したから殺された、とつなげるのは、道のりを一つ飛ばした考えではないか。
歴代将軍の没日と発喪日のずれは、15人をまとめた記事で一覧にしています。
徳川家茂の最期 長州征討の開戦から発喪までの経緯
家茂は、第2次長州征討の開戦から42日後に大坂城で亡くなり、その30日後に死が公表されました。事典に発病の日付はありません。
一般向け記事には4月ごろ、5月ごろとする記述がありますが、典拠は示されていません。
山川 日本史小辞典「長州戦争」と、松戸市戸定歴史館の年表(徳川慶喜・昭武関係年表)を軸に並べます。
| 年月日 | 出来事 | 解説 |
|---|---|---|
| 慶応2年3月6日(1866年) | 慶喜の弟・徳川昭武が大坂城へ家茂の御機嫌伺いに行く | 戸定歴史館の年表。病状との関係は記されていない |
| 6月7日(7月18日) | 幕府が長州への攻撃を開始 | 第2次長州征討の開戦(山川) |
| 7月20日(8月29日) | 家茂、大坂城で死去。昭徳院と諡される | 満20歳(数え21歳) |
| 7月29日(9月7日) | 徳川慶喜に、将軍に代わって征長に赴くべしとの勅許 | 慶喜が名代となる |
| 8月4日(9月12日) | 大坂から「大切の御用物」が下ることを記した書状 | 西高木家文書。目録は遺骸の江戸送付に関する記述と推測する |
| 8月16日(9月24日) | 慶喜が兵を解き、諸大名を集めて方針を決めることを奏請 | 戸定歴史館の年表 |
| 8月20日(9月28日) | 家茂の死を公表(発喪)。同日、慶喜が徳川宗家を相続 | 相続日は7月とする紹介もある |
| 8月21日(9月29日) | 休戦の勅命が下る | 戸定歴史館の年表 |
| 9月19日(10月27日) | 幕府が撤兵を命じる | 山川「長州戦争」 |
| 12月5日(1867年1月10日) | 慶喜が征夷大将軍に任じられる | 家茂の死から4か月半後 |
参考:長州戦争|コトバンク(山川 日本史小辞典)
参考:徳川慶喜・昭武関係年表 一|松戸市戸定歴史館
参考:御内々(今般大坂表より大切の御用物御下りの件、御他界の趣相違なき件などにつき書状)|名古屋大学 旗本高木家文書
表を見ると、家茂の死が公表される前に、名代の決定と休戦の奏請が進んでいたことが分かります。死は伏せられたまま、戦の幕引きだけが先に動いていました。
8月4日の書状は、岐阜県大垣市に伝わった旗本・西高木家の文書です。「大坂表より大切の御用物御下り」「御他界の趣相違なき」と、将軍の死を伏せたままの言い回しで書かれています。
名古屋大学の目録は、遺骸の江戸送付に関する記述と推測しています。
遺骸は江戸へ運ばれ、増上寺に葬られました。どの船で、いつ江戸に着いたかは、事典にも増上寺の説明にもありません。

あなたの死は、ひと月伏せられていました。将軍の死を隠すのは、決まりごとでしたか。

余の前の家定公のときも、亡くなったと公にされたのは少し後であった。決まりとまで言えるかは分からぬが、珍しいことではない。
戦が始まってから余が死ぬまで、四十日あまりか。そのあと三十日伏せて、その間に戦を畳む段取りが進んだと聞けば、なるほどと思う。
いま問われれば、あとを任された者には、その三十日が要ったのであろう、と答えたい。
徳川家茂の遺言は?田安亀之助を後継にという話はどこまで本当か
家茂が田安亀之助(のちの徳川家達)を後継に望んだという話は、大奥側の史料を扱った研究でも取り上げられています。ただし、家茂自身の遺言書の有無や、意向がどう伝えられたかは、分けて確認する必要があります。
北上真生の博士論文(神戸大学、2009年)によると、和宮に付き従った宰相典侍・庭田嗣子の日記の慶応2年7月24日条には、天璋院が、前年の進発時の家茂の言い置きに従って亀之助を継嗣にするよう伝えた、という趣旨の記事があります。
同じ論文によれば、和宮は幼い亀之助では難局を担えないと再考を求めましたが、天璋院は譲らず、最後は和宮が折れる形で大奥の意向が老中に伝えられました。
参考:近世期における宮廷記録とその周辺(北上真生、博士論文)|神戸大学学術成果リポジトリ
- 分かった:亀之助は文久3年7月11日生まれ。田安慶頼の三男で、1865年に田安家の当主になった(日本人名大辞典)。家茂の死の時点で満3歳(数え4歳)
- 分かった:田安慶頼は「将軍徳川家茂の後見職となり」と記される(日本人名大辞典)
- 分かった:亀之助は慶応4年(1868年)、慶喜のあとに徳川宗家を継ぎ、駿河府中70万石へ移った(ブリタニカ・山川)
- 分かった:天璋院が、家茂の言い置きとして亀之助を継嗣に推したことが、庭田嗣子の日記に記されている(北上真生の博士論文による)
- 分からなかった:家茂自身が書いた遺言書があるかどうか。今回引いた事典(家茂・家達・田安慶頼の項)には、遺言の記述がない
参考:徳川家達|コトバンク
参考:田安慶頼|コトバンク
亀之助が宗家を継いだのは事実です。ただしそれは家茂の死の2年後で、戊辰戦争で慶喜が謹慎したあと、新政府の命によるものでした。
国立公文書館の解説も、田安慶頼の三男で幼名を亀之助といい、明治元年に徳川宗家を相続した、と記しています。
参考:公文書に学ぶ 大人の美文字講座(徳川家達)|国立公文書館
結果として慶喜が宗家を継ぎ、12月5日に将軍となりました。日本大百科全書は「家茂が死去したため、12月、第15代将軍職を継いだ」とします。
参考:徳川慶喜|コトバンク

天璋院さまは、あなたが亀之助を跡継ぎにと言い置いた、と伝えていたそうです。当時、数えで4つの子です。

四つの子では、江戸から京まで輿に乗せて連れていくだけでも大ごとじゃ。
天璋院さまがそう伝えたのなら、そう伝わったのであろう。余がそこに付け足すことはせぬ。
余は十三で将軍になった。それでも周りは骨を折ったはずじゃ。四つではどうなるか、言わずとも分かろう。
徳川家茂の死後、幕府と和宮はどうなったのか
家茂の死から1年2か月後に大政奉還、2年後には和宮が徳川家の存続を朝廷に嘆願しています。同じ慶応2年の12月には、孝明天皇も崩御しました。
| 和暦(西暦) | 出来事 |
|---|---|
| 慶応2年12月5日(1867年1月10日) | 徳川慶喜が征夷大将軍となる |
| 慶応2年12月(1867年1月) | 和宮が髪を下ろし、静寛院宮と称する |
| 慶応2年12月25日(1867年1月30日) | 孝明天皇が崩御 |
| 慶応3年10月14日(1867年11月9日) | 慶喜が大政奉還を申し出る |
| 慶応4年(1868年) | 和宮が徳川家の存続を朝廷に嘆願。亀之助(家達)が徳川宗家を継ぐ |
| 明治10年9月2日(1877年) | 和宮、箱根塔ノ沢で死去。満31歳 |
参考:和宮|コトバンク
和宮は、日本大百科全書によれば家茂の病死後、同年12月に髪を下ろして静寛院宮と称しました。1868年に徳川家が朝敵とされると、家名の存続を朝廷に嘆願しています。
山川 日本史小辞典も「朝敵となった徳川家の存続を朝廷に嘆願」と記します。
家茂より和宮が長く生きたのは11年です。明治10年(1877年)9月2日、箱根塔ノ沢の温泉で亡くなりました。年齢を記す事典は「32歳」で、これは数え年です。満年齢では31歳でした。
増上寺の公式サイトによれば、和宮の遺体は京都へ戻す命令もありましたが、本人の遺言により、家茂と並んで増上寺に祀られています。
幕府の側は、慶喜の将軍就任から大政奉還まで10か月でした。慶喜がどう判断していったかは、別の記事でたどっています。

和宮さまは11年後に箱根で亡くなり、遺言であなたの隣を選びました。

余よりずっと長く生きてくれたのか。それは何よりじゃ。京の生まれの宮が、箱根で亡くなったと。
京へ戻す話もあったのに、増上寺を選んだとはな。余には過ぎた話じゃ。
そなたは増上寺に参ったことがあるか。余の隣が、寂しくない場所であればよいのだが。
同じ慶応2年に崩御した孝明天皇の死因と毒殺説は、こちらの記事で史料から検証しています。
徳川家茂の墓所はどこにある?増上寺の徳川将軍家墓所
家茂の墓は、東京都港区の増上寺にある徳川将軍家墓所です。法号は昭徳院。増上寺の公式サイトによれば、2代秀忠、6代家宣、7代家継、9代家重、12代家慶、14代家茂の6人の将軍が葬られています。
正室5人、側室5人、子女を含めると計38人です。
- 所在地:東京都港区芝公園4-7-35(増上寺境内、本堂の裏手)
- 葬られている将軍:秀忠・家宣・家継・家重・家慶・家茂の6人。家茂の隣に和宮(静寛院)
- 拝観:大人500円、高校生以下無料。宝物展示室とのセット券1,000円。毎週火曜休み(祝日は公開)
- 休所:券売所の建て替え工事のため、令和8年10月27日から12月1日まで休所(2026年11月3日時点の公式サイトによる)
旧霊廟は戦災で焼失しました。1958年の夏に文化財保護委員会が中心となって発掘し、遺体を調査したうえで荼毘にふし、現在の墓所に改葬しています。この発掘の報告書が、②で見た『増上寺徳川将軍墓とその遺品・遺体』です。
家茂の墓の隣には、和宮の墓があります。公式サイトは、和宮が本人の遺言により家茂と並んで祀られていると説明しています。
新潮社の『波』に載った作家・鈴木由紀子のエッセイ(2006年)は、発掘報告書に触れながら、和宮の墓から若い男子の写った湿板写真のガラス板が見つかった経緯を紹介しています。
ただし、写っていた人物を家茂と断定できる記録は、本記事では確認できていません。
和宮の生涯は、降嫁から江戸開城の嘆願まで、こちらの記事でたどっています。
徳川将軍15人の墓所が日光・増上寺・寛永寺・谷中の4か所に分かれる理由は、15人をまとめた記事で整理しています。
徳川家茂は何をした人だったのか 生涯のふり返り
徳川家茂は、満12歳(数え13歳)で14代将軍となり、和宮を正室に迎え、将軍として3度上洛し、満20歳で亡くなった人物です。生涯は表にまとめました。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 名前 | 徳川家茂(いえもち)。もとの名は慶福(よしとみ) |
| 生没年 | 弘化3年閏5月24日(1846年7月17日)〜慶応2年7月20日(1866年8月29日)。満20歳没(数え21歳) |
| 出自 | 紀伊藩主徳川斉順(家斉の子)の子 |
| 将軍宣下 | 安政5年10月25日(1858年11月30日)。同日に家茂と改名 |
| 正室 | 和宮(仁孝天皇の皇女、孝明天皇の妹)。文久2年2月11日(1862年3月11日)に江戸城で婚儀 |
| 主な出来事 | 公武合体、将軍として3度の上洛(1863・64・65年)、第2次長州征討 |
| 法号・墓所 | 昭徳院。東京都港区・増上寺 |
参考:徳川家茂|コトバンク
将軍の跡継ぎをめぐっては、紀伊藩主だった慶福を推す南紀派と、一橋慶喜を推す一橋派が争いました。大老の井伊直弼が慶福を継嗣に決め、安政5年10月に将軍宣下を受けます。満12歳(数え13歳)でした。
和宮との結婚は、朝廷と幕府が手を携える公武合体の象徴とされました。1863年から3年続けて上洛し、孝明天皇から攘夷の期日を迫られたのもこの時期です。
上洛の回数は、日本大百科全書と世界大百科事典が3度とします。山川 日本史小辞典は、1863・64年の2度を上洛として挙げています。

将軍になってから8年足らず。駆け足だったと思いますか。

いや、余はよく歩いた。江戸から京へ何度も上り、最後は大坂で止まった。
年で数えると短く見えるが、一つずつは長い道のりであったぞ。
そなたは二十年で、何里歩ける。余のほうが多いかもしれぬぞ。
2027年の大河ドラマ『逆賊の幕臣』の登場人物と配役は、こちらの記事で整理しています。
よくある質問(FAQ)
徳川家茂の死因は何ですか?
脚気による急性の心不全「脚気衝心」とする見方があり、篠田達明『徳川将軍家十五代のカルテ』(2005年)もこの病名を挙げています。一方、今回確認した事典は、病名を示さず「病死」「病没」と記しています。
徳川家茂は何歳で亡くなりましたか?
満20歳です。事典や増上寺が書く「21歳」は数え年です。弘化3年閏5月24日(1846年7月17日)生まれで、慶応2年7月20日(1866年8月29日)に亡くなりました。
徳川家茂はいつ、どこで亡くなりましたか?
慶応2年7月20日(1866年8月29日)、第2次長州征討の本営を置いていた大坂城で亡くなりました。死去が公表されたのは30日後の8月20日(9月28日)です。
徳川家茂は暗殺(毒殺)されたのですか?
今回確認した事典と公開資料の範囲では、毒殺・暗殺を裏づける記録は確認できませんでした。死去から公表まで30日あったことを根拠に挙げる記事がありますが、将軍の死をしばらく伏せるのは、家治・家斉・家慶・家定にも見られることでした。
徳川家茂の虫歯が30本というのは本当ですか?
1958年の増上寺の発掘調査にもとづくものとして、「残っていた31本のうち30本が虫歯」という数字が一般向け記事で紹介されています。調査報告書(鈴木尚ほか編、1967年)の刊行は確認できますが、この数字の掲載箇所は本記事では確認していません。
徳川家茂は遺言で田安亀之助を後継に指名したのですか?
和宮付きの女官・庭田嗣子の日記に、天璋院が家茂の言い置きとして亀之助を継嗣に推した記事があり、研究でも取り上げられています。家茂自身の遺言書は確認できていません。亀之助が宗家を継いだのは慶応4年(1868年)です。
和宮の墓から家茂の写真が出てきたという話は本当ですか?
新潮社『波』(2006年12月号)の鈴木由紀子のエッセイが、発掘報告書に触れながら、和宮の墓から若い男子の写った湿板写真が見つかった経緯を紹介しています。写っていた人物を家茂と断定できる記録は確認できていません。
徳川家茂の墓はどこにありますか?
東京都港区芝公園の増上寺、徳川将軍家墓所です。法号は昭徳院。隣に正室の和宮(静寛院)の墓があります。拝観は有料で、2026年10月27日から12月1日までは券売所の工事のため休所と公式サイトに案内されています。
大河ドラマ『逆賊の幕臣』で徳川家茂を演じるのは誰ですか?
神尾楓珠さんです。2026年6月23日に発表され、大河ドラマ初出演です。
インタビュー後記 徳川家茂の最期から見えてくるもの
「脚気」の一語を疑ってみたら、事典のどこにもその字がない。それが今回の出発点でした。
病名の答えをたどると、本記事が確かめられたのは後世の医師の診断でした。1866年の大坂城にいた医師たちが何と見立てたのか、その記録にはたどり着けませんでした。
脚気衝心が誤りだと言いたいのではありません。答えの出どころを知ったうえで読むのと、知らずに読むのとでは、同じ一語の重さが違うと思うのです。
亀之助の話は、事典にはなくても、和宮付きの女官の日記に残っていました。事典に書いていないことと、記録がないことは別なのだと、あらためて思い知らされました。
家茂の名代として休戦に動き、4か月半後に将軍となった徳川慶喜は、どんな人物だったのか。大河ドラマの描き方とあわせて、こちらの記事でたどっています。
参考資料
- 国立国会図書館サーチ『増上寺徳川将軍墓とその遺品・遺体』(鈴木尚・矢島恭介・山辺知行編、東京大学出版会、1967年12月、第2刷1997年11月)※1958年の発掘調査の報告書の書誌の根拠。本記事は本文を確認していません
- 奈良文化財研究所 全国遺跡報告総覧『増上寺徳川將軍墓とその遺品・遺体』※同書の発行日(1967年12月25日)と発行機関の根拠
- 国立国会図書館サーチ『骨は語る 徳川将軍・大名家の人びと』(鈴木尚、東京大学出版会、1985年12月)※発掘調査にあたった人類学者の一般書の書誌の根拠。本記事は本文を確認していません
- 神戸大学学術成果リポジトリ 北上真生『近世期における宮廷記録とその周辺』(博士論文、2009年)※本文136頁。庭田嗣子の日記の慶応2年7月24日・26日条を引き、天璋院が家茂の言い置きとして田安亀之助を継嗣に推し、和宮が再考を求めたのち折れたことを論じている根拠
- 新潮社『大奥の奥』(鈴木由紀子、新潮新書)書籍ページ掲載の『波』2006年12月号エッセイ「ミステリアスな江戸城大奥」※発掘報告書への言及と、湿板写真のガラス板が見つかった経緯の紹介の根拠
- 千葉市立郷土博物館「館長メッセージ 令和5年度 その2」※松本良順の自伝(明治35年配布)に、家茂の最期に側に侍し脈と心臓の動きを確かめたという回想があることの根拠。出典は小川鼎三・酒井シヅ校注『松本順自伝・長与専斎自伝』(平凡社東洋文庫、1980年)
- 国立公文書館「公文書に学ぶ 大人の美文字講座」※徳川家達が田安慶頼の三男で幼名を亀之助といい、明治元年に徳川宗家を相続したこと、静岡藩の最初で最後の藩主であることの根拠
- 名古屋大学附属図書館 旗本高木家文書「御内々(今般大坂表より大切の御用物御下りの件、御他界の趣相違なき件などにつき書状)」(慶応2年8月4日、福長氏旧蔵西高木家文書)※目録の備考「将軍家茂の遺骸などの江戸送付に関する記述と推測される」の根拠
- 松戸市戸定歴史館「徳川慶喜・昭武関係年表 一」※慶応2年3月6日の昭武の御機嫌伺い、7月20日の家茂没と昭徳院の諡、7月29日の勅許、8月16日の奏請、8月20日の徳川宗家相続、8月21日の休戦の勅命、12月5日の将軍任官の根拠
- 増上寺「徳川将軍家墓所|境内散歩」※家茂(昭徳院)の略歴と「享年21」、和宮が遺言により家茂と並んで祀られていること、昭和33年夏の文化財保護委員会による発掘と桐ヶ谷での荼毘・改葬、葬られている6人の将軍と計38人、拝観料・休所期間の根拠
- コトバンク「徳川家茂」※日本大百科全書「7月20日、21歳で城中に病死した」、日本人名大辞典「大坂城で病没(発喪は8月20日)」、山川 日本史小辞典「8月20日発喪」、ブリタニカ「失意のうちに大坂城で病死」、世界大百科事典「病没」、生没年月日、斉順の子、将軍宣下の日、上洛の回数(日本大百科全書・世界大百科事典は3度、山川は1863・64年の2度)の根拠
- コトバンク「和宮」※日本大百科全書「1866年7月20日の家茂病死後、同年12月に薙髪し静寛院宮」、1877年9月2日に箱根塔ノ沢温泉で没、山川「朝敵となった徳川家の存続を朝廷に嘆願」、日本人名大辞典「32歳」、婚儀の日の根拠
- コトバンク「徳川家達」※文久3年7月11日生、田安慶頼の三男、元治2年に田安家当主、慶応4年に慶喜のあと徳川宗家を継ぎ駿河府中70万石、家茂の遺言に関する記述がないことの根拠
- コトバンク「田安慶頼」※日本人名大辞典「将軍徳川家茂の後見職となり」の根拠
- コトバンク「徳川慶喜」※日本大百科全書「家茂が死去したため、12月、第15代将軍職を継いだ」、ブリタニカの将軍宣下12月5日の根拠
- コトバンク「長州戦争」(山川 日本史小辞典)※慶応2年6月7日の攻撃開始、7月の家茂の死、名代の慶喜による休戦、9月19日の撤兵命令の根拠
- コトバンク「脚気」※世界大百科事典(脚気衝心の説明、江戸わずらい)、日本大百科全書(1910年の鈴木梅太郎、1911年のフンク)の根拠
- コトバンク「浅田宗伯」※日本大百科全書「1861年(文久1)に幕府の侍医となり、和宮、天璋院、第14代将軍徳川家茂などの診療にあたった」の根拠
- コトバンク「松本良順」※改訂新版 世界大百科事典「将軍家茂・慶喜の侍医を歴任」の根拠
- 新潮社「徳川将軍家十五代のカルテ」(篠田達明、新潮新書、2005年5月16日)※目次の家茂の項「死因は脚気衝心(心不全)」と、増上寺の霊廟から発掘された遺体と文献をもとに現代医学で診断した本であることの根拠。本記事は本文を確認していません
- サライ.jp 倉田大輔「3代将軍徳川家光、14代将軍徳川家茂も罹った恐怖の病気|セレブ病だった『脚気(江戸煩い)』」(2019年8月2日)※暗殺の疑惑が語られる背景として死去の非公表を挙げていること、症状と経過から脚気が死因と考えられるとしていることの根拠
- ITmedia ビジネスオンライン 小日向えり「虫歯だらけで早死にした徳川「スイーツ将軍」とは?」(2016年6月18日)※「残っていた31本の歯のうち30本が虫歯」という数字が一般向け記事で紹介されていることの根拠
- クランクイン!「ふかわりょう、神尾楓珠、岩田剛典、大河ドラマ初出演 27年『逆賊の幕臣』新キャスト発表」(2026年6月23日)※徳川家茂役が神尾楓珠さんであることの根拠








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