島津斉彬の死因を調べると、ネットには毒殺とコレラの話が並びます。コトバンクで事典を引いても大半は「急死」で、「コレラにかかって急死」と書くのはブリタニカだけでした。
どうせ決め手はないのだろう。そう思っていたら、医学史の論文に、斉彬の症状を日ごとに記した侍医の書き付けが載っていました。容体書(ようだいしょ)と呼ばれる記録です。
この記事の結論
島津斉彬の死因は確定していません。安政5年7月16日(1858年8月24日)、鹿児島で亡くなりました。享年は数え50歳で、国立国会図書館が掲載する生年月日によれば満49歳です。
侍医の坪井芳洲は容体書の結びで、末期の虚脱を「当時流行のコレラの病状か」と記しました。同じ容体書には「赤痢」の字もあり、のちの医師は赤痢と見ています。
毒殺の噂は死去の当時からありました。ただ、今回確認した史料と論文の範囲に、毒を裏づける記録はありません。容体書の原本は、1993年の論文の時点で見つかっていませんでした。
- 満49歳
国立国会図書館が掲載する生年月日による。数え年では50歳 - 7日後
容体書の記録が始まる7月9日から、16日の死去まで - 昼夜40回
2通の容体書が記す下痢の最多(7月11日)
5つの説の出どころ、2通の容体書が記す日ごとの容体、遺言と墓所を順に見ていきます。
2027年の大河ドラマ『逆賊の幕臣』では、斉彬を西岡德馬さんが演じることが発表されています。放送の前に、この急死について言えることと言えないことを分けておきたいと思いました。
語り手として、島津斉彬AI(島津斉彬をモデルにしたAI)にも登場してもらいます。
※以下のインタビュー部分は、公開されている史料をもとに島津斉彬の人物像を再現した創作です。史料で確認できない心情や受け止め方を補った創作的な対話であり、実際の発言をそのまま掲載したものではありません。
出典の確かめ方と、公開前に行っているチェックは編集方針にまとめています。

はじめまして。あなたの死因をネットで引くと、毒殺かコレラかという話ばかり出てきます。
ご本人の前で聞きにくいのですが、どちらだと思いますか。

毒かコレラか、か。そなたは何で確かめた。
己の身に起きたことを己で見立てるのは、いちばん当てにならぬ検分であろう。余の口から病の名は決められぬ。
書き付けが残っておるなら、まず持ってまいれ。話はそれからじゃ。
島津斉彬の死因は?5つの説を一覧で確認
語られてきた説は5つあり、どれも確定していません。医学史の学会誌『日本医史学雑誌』に論文を発表した泉彪之助が、「坪井芳洲と薩摩藩」(1991年)で諸説を表に整理しています。下の表はそれをもとに、確認できた範囲を添えたものです。
| 説 | 内容 | 言い出した人・資料 | 確認できた範囲 |
|---|---|---|---|
| ① コレラ説 | 末期の虚脱は流行中のコレラの病状か | 侍医・坪井芳洲の容体書。ブリタニカも「コレラにかかって急死」 | 容体書の校訂文を確認。原本は未発見 |
| ② 赤痢説 | 血の混じる下痢から赤痢と見る | 高木兼寛、森重孝『薩摩医人群像』 | 泉論文の整理で確認。高木の原文は未確認 |
| ③ 腸炎ビブリオ説 | 食中毒の可能性を見る | 森重孝『薩摩医人群像』、山崎光夫『薬で読み解く江戸の事件史』 | 泉論文と書評で確認。両書の本文は未確認 |
| ④ 心因説 | 病気に心の負担が重なった | 『唱義聞見録』、鮫島志芽太『島津斉彬の全容』 | 泉論文の整理で確認。原文は未確認 |
| ⑤ 毒殺説 | 何者かに毒を盛られた | 死去当時の噂、ポンペの伝聞、海音寺潮五郎の著作 | 裏づける記録は確認できず |
参考:坪井芳洲と薩摩藩(泉彪之助、1991年)|日本医史学会
①から③は病名の見立てで、森重孝は②と③を並べて挙げています。④は病気を否定せず、心の負担を足す見方です。⑤だけが、病死そのものを疑っています。
ウェブの記事には腸チフスを挙げるものもありますが、誰の説なのかは分かりませんでした。

説が5つあります。ご本人としては、多いと感じますか。

多いな。炉が割れたとして、理由が五つ並ぶうちは、まだ何も分かっておらぬのと同じじゃ。
数が増えるのは、確かめる手立てが足りぬ証しであろう。
で、どの説が、どの書き付けの、どの行を見て言うておる。
島津斉彬の死因を史料から検証する
手がかりの中心は、死去の前後を記した2通の容体書です。どちらの原本も、泉彪之助の論文(1993年)の時点で見つかっていません。
- 坪井芳洲の容体書:蘭方医の芳洲が書いた日ごとの記録。福岡藩主の黒田長溥が宇和島藩主の伊達宗城へ送り、明治期の写しなどで伝わる
- 漢方医の容体書:奥医師の名で出された記録。寺師宗徳『贈正一位島津斉彬公記』(1908年)に載るが、原史料は分かっていない
- 現代の病名への当てはめには限界がある:容体書には当時の病名や見立ても記されているが、それだけで現在の病名を確定することはできない
参考:坪井芳洲筆島津斉彬容体書について(泉彪之助、1993年)|日本医史学会
5つの説を順に見ていきます。
① コレラ説 侍医は結びに「か」を付けて書いた
芳洲の容体書は、末期の虚脱を「コレラの病状か」と結んでいます。芳洲は1854年に薩摩藩の奥医師となった蘭方医で、坪井為春の名でも知られます。
愚按ニ初日三日単純善性御痢疾御容体ニ奉伺候処終末転変御虚脱御症状ハ全ク当時流行性之コレラ病状ニ可被為入候歟奉存候
出典:泉彪之助「坪井芳洲筆島津斉彬容体書について」校訂文
泉彪之助の現代語訳では「思うに、初日三日は単純良性下痢の症状と考えたが、末期に急変した虚脱症状は、全く当時流行していたコレラ病状にいれるべきかと考える」となります。
芳洲がコレラと見たのは、最後の急変でした。最初の3日は、単純な下痢と見ていたのです。
この年の夏にコレラが広がったのは確かで、長崎で流行が始まり、夏のあいだに江戸でも感染者が出ました。鹿児島の状況は、今回の資料ではつかめていません。
参考:学芸員自然と歴史のたより「幕末のコレラ流行」|横須賀市自然・人文博物館
コレラの症状としてよく挙げられる嘔吐は、泉が整理した症状の一覧に見当たりません。書かれていないからといって、なかったとまでは言えないでしょう。
治療への批判も残っています。黒田長溥は宗城あての書簡で芳洲の努力を認めつつ、「後事には候えどもキナ塩など十一、二日ごろ用い候わば」と書き添えました。容体書でキナ塩が出てくるのは15日です。
松木弘安(のちの寺島宗則)も治療が不十分だったと批判しました。泉はこれに対し、病気の本態が決まっておらず、当時の治療法も限られていたのだから、不適切な批判だとしています。

芳洲さんは最後に『コレラの病状か』と、『か』を付けています。主治医としては弱気だと思いますか。

『か』を付ける医者のほうが、余は好きじゃ。見ておらぬものを見たと言い切る者は、蘭書を読ませても使いものにならぬ。
芳洲を奥医師に抱えたのは余である。その者が『か』と書いたなら、書いた分だけ正直であろう。
当たっておるかどうかは、余に聞くな。
② 赤痢説 容体書そのものに「赤痢」の字がある
芳洲の容体書は、7月12日と13日の条で症状を「赤痢」と書いています。12日は「赤痢で血交りの滑便(粘血便?)」、13日は「赤痢だが血便は軽く」というのが泉彪之助の訳です。
漢方医の容体書も、11日以降の記述に「血便」の語を使っています。一般向けの記事には血便の記述がないとするものもありますが、校訂文には血の混じった便がはっきり出てきます。
参考:坪井芳洲筆島津斉彬容体書について(泉彪之助、1993年)|日本医史学会
赤痢と見た一人が、海軍軍医総監の高木兼寛でした。日向国の出身で、1849年生まれです。斉彬が亡くなったときは満8歳で、患者を診てはいません。後年の判断です。
高木の見立ては、森重孝『薩摩医人群像』(1976年)が引くものとして泉の表に載っています。森自身も、赤痢または腸炎ビブリオ感染としました。高木がどの記録の何を根拠にしたかまでは、確かめられていません。
参考:高木兼寛|コトバンク
『鹿児島県史』第3巻は「痢病の状を呈し」、寺師の伝記は「痢病に罹り」と書きました。読んだ箇所に「赤痢」の字はありません。

赤痢と見た高木兼寛は、のちに海軍の軍医のいちばん上に立つ人です。あなたが亡くなった年は、日向の8歳の子どもでした。

八つの子が軍医の頭に、か。赤痢か否かより、そちらを先に聞かせよ。
その者はどこで医術を学び、何を根拠に申した。
記録しか見ておらぬなら、余の脈を取った者より不利じゃ。もっとも、後から読む者にしか見えぬものもある。
③ 腸炎ビブリオ説 食中毒の可能性を見る
森重孝は赤痢と並べて、腸炎ビブリオ感染の可能性を挙げました。腸炎ビブリオは、現代の食中毒の原因菌の一つです。一般向けの本でこの見方を取り上げたのが、作家の山崎光夫でした。
山崎の『薬で読み解く江戸の事件史』(東洋経済新報社、2015年)には「島津斉彬怪死事件の謎を解く」という項があります。
参考:薬で読み解く江戸の事件史(山崎光夫)|国立国会図書館サーチ
榎戸誠の書評によれば、山崎は芳洲の「容態書」を読み解き、赤痢がもっとも疑われ、さらに腸炎ビブリオの可能性があるとしています。
芳洲の腕と漢方嫌いが死を招き、経験豊富な漢方医なら救えた可能性がある、という結論まで紹介されていました。
参考:島津斉彬急死の真相、孝明天皇急死の黒幕…|榎戸誠の情熱的読書のすすめ
ただ、漢方医の容体書によれば、10日からは朝稲三益と清水養正が診察に加わり、薬を出しています。同書の本文は未確認なので、この点をどう扱っているかは分かりません。
何を食べて発病したのかを記す記録は、見つかりませんでした。

腕が足りなかった、漢方の名医なら救えたかもしれない、という本もあるそうです。芳洲さんの肩を持ちますか。

救えたかもしれぬ、は便利な言葉じゃな。試しようがない。
どの日に何を処方し、どう変わったか、表にして見せよ。肩を持つかはそのあとじゃ。
④ 心因説 近衛の密書のあと食が細ったという手記
ある国学者の手記『唱義聞見録』は、近衛公からの密書を受け取ったあと食欲が衰えたとしています。泉彪之助はこれを、衰弱して死去したという心因説として紹介し、表では「痢疾+心因」に分類しました。
鮫島志芽太『島津斉彬の全容』も、病気は否定できないにしても心因の加重があっただろうとする見方です。どちらの原文も、本記事では確認していません。
斉彬が亡くなった安政5年の夏は、政局が大きく動いていました。井伊直弼が大老となって将軍継嗣を決め、勅許のないまま日米修好通商条約に調印しています。
参考:坪井芳洲と薩摩藩(泉彪之助、1991年)|日本医史学会
斉彬は将軍の跡継ぎに一橋慶喜を推す側にいました。鹿児島県の資料は、斉彬が兵を率いての上京を計画していたところで急死したと紹介しています。
容体書の記述は、悪寒や発熱、腹痛といった体の症状から始まります。

政治の知らせで食が細ったのではないか、という見方があります。そんなに繊細な方でしたか。

文一通で飯が喉を通らぬ、か。そう思われておったのなら、少し愉快じゃな。
近衛殿との文の中身は、話すわけにはいかぬ。
心の重さを量る秤を、そなたは持っておるのか。ないなら、それは見立てではなく想像であろう。
⑤ 毒殺説 死去の当時からあった噂に裏づけは確認できない
毒殺説は死去の当時からありますが、毒が使われたことを示す記述は、読んだ史料と論文に出てきません。泉彪之助は「毒殺説は、斉彬死去当時からあった」とし、海音寺潮五郎が改めて取り上げて注目を引いたと整理しています。
オランダ人医師ポンペの『日本滞在見聞記』も、泉の表では「毒殺伝聞」に分類されています。ポンペが自分で診た記録としては扱われていません。
参考:坪井芳洲と薩摩藩(泉彪之助、1991年)|日本医史学会
疑いの背景として語られてきたのが、藩内の対立です。世界大百科事典の「お由羅騒動」の項には、斉彬の子女の夭折をめぐる世間の噂が出てきます。
斉彬の7人の子女が次々と夭折したのはお由羅の呪詛によるものだと,取りざたした。
出典:改訂新版 世界大百科事典「お由羅騒動」(コトバンク)
一般向けの記事は、父の斉興、異母弟の久光、井伊直弼らの名を挙げ、手段として砒素を挙げるものもあります。ただ、読んだ範囲では史料名が示されておらず、毒を確かめた記録も見つかりませんでした。
泉によれば、斉彬の死は種々の疑惑を呼びました。福岡藩主の黒田長溥は重病のうわさを聞いて側近の吉永源八郎を薩摩へ送り、その報告を容体書とともに宗城へ知らせています。
泉は発病を「消化器系感染症の症状」と書きましたが、記録が示すのは症状までです。

検索でいちばん多いのが毒の話です。父上の斉興さんや、弟の久光さんの名前まで挙がっています。

親や弟の名を、証しもなく並べるのは感心せぬ。
誰が、いつ、何を、どの膳に入れた。そこを答えられぬなら、それは検分ではなく噂じゃ。
なかったと言い切る術も、余にはない。だからこそ、言い切る者を余は信用せぬ。
海音寺が毒殺説を取り上げた著作として、泉は『史伝 西郷隆盛』を挙げています。該当の箇所は本記事では確認していませんが、斉彬と西郷の関わりをたどる歴史読み物です。
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島津斉彬の最期は?7月9日〜16日の容体をたどる
7月8日に天保山で調練を見た帰りに体調を崩し、16日の朝に亡くなりました。『鹿児島県史』第3巻によれば、翌9日に琉球の使者である伊江王子朝忠に会ったあと床に就き、発熱と痙攣が激しくなりました。
参考:鹿児島県史 第3巻(4頁)|国立国会図書館デジタルコレクション
8日に倒れたと書く紹介もありますが、2通の容体書はどちらも9日から始まります。表の回数は昼夜の下痢や血便の数で、裏急後重(りきゅうこうじゅう)は便意があるのに出にくい症状を指します。
| 日付 | 坪井芳洲の容体書 | 漢方医の容体書 |
|---|---|---|
| 7月9日 | 夜に診察。悪寒と発熱、舌苔が厚い。便意はあるがよく出ない | 昼過ぎから発熱、腰部の痙攣、腹痛。下痢がたびたび |
| 7月10日 | 熱が強く、腹痛と下痢。限局した激痛はない | 裏急後重の様子。昼夜30度ほど。漢方医2人が診察 |
| 7月11日 | 下痢昼夜40行。発熱は少し軽く、尿量が減る | 血便昼夜40度。胸苦しさがある |
| 7月12日 | 下痢33度。血の混じる便、裏急後重が強い。脈は87〜95ほど | 下痢33度。粥を望み、腹痛と発熱は薄い |
| 7月13日 | 下痢32度。血便も発熱も軽い。尿量は少ない | 下痢32度。発熱はごく軽い |
| 7月14日 | 下痢23度に減る。声に力がなく、脈は速く弱い | 血便23度。灸をすえる。脈が弱い |
| 7月15日 | 手足が冷える。下痢は昼10度。やや回復に見えたが晩方から悪化 | 血便10度。夕方から悪化し、薬も灸も効かない |
| 7月16日 | 記載なし | 「今朝六時」に養生かなわず |
参考:坪井芳洲筆島津斉彬容体書について(泉彪之助、1993年)|日本医史学会
参考:贈正一位島津斉彬公記(149〜150頁)|国立国会図書館デジタルコレクション
回数は11日を頂点に減っていくのに、体力は戻りませんでした。15日には一度持ち直したように見え、そのあと急変しています。芳洲が「終末転変」と書いたのは、この夕方からの変化でしょう。
2通の回数は、11日以降すべて同じ数字です。泉彪之助は14日の条の文面がよく似ていることに注目し、芳洲が漢方医の記録を参照した可能性を挙げました。
記録の日付にも揺れがあります。芳洲の容体書の日付は、伊達家の系統では「八月」、島津家の系統では「七月十六日」です。泉は、明治期の島津家の編集所で訂正された可能性を指摘しました。
死去の日にも揺れが残ります。寺師の伝記は、本文に「十五日暁薨ぜらる」と書きながら、同じ本の口絵は「七月十六日薨」です。ずれの理由は分かりませんが、県史も事典も16日としています。

下痢が昼夜40回と、回数まで書かれています。後世に読まれるのは、さすがにお嫌ですか。

数えるのは余の好むところじゃ。ただ、数えられるのが己の厠となると、いささか閉口する。
それでも数を残した者は褒めてやらねばならぬ。40とあれば、そなたはこうして並べて比べられる。
島津斉彬の遺言と、死を伏せた日々
斉彬は側役の山田為正を通じて、家老らに遺言を伝えたとされます。『鹿児島県史』第3巻によれば、相手は家老の島津久徴と新納久仰、側役の竪山利武でした。跡継ぎについての中身は、次の3点です。
- 跡継ぎの選び方:息子の哲丸が幼いので、弟の忠教(のちの久光)か、その長子の忠徳(のちの忠義)のうちから、父の斉興の意向で決める
- 忠徳の扱い:忠徳を娘の暐姫の婿養子とする
- 哲丸の扱い:哲丸を順養子(次に家を継ぐ養子)とする
参考:鹿児島県史 第3巻(4頁)|国立国会図書館デジタルコレクション
県史は続けて、忠教が着くと親しく後事を託し、国事にも及んだ「ともいふ」と書きました。伝聞の形です。
のちに官位を追贈するとき、朝廷の意向を幕府が伝えた文面にも「弟三郎え遺訓之儀共達叡聞」とあります。久光(通称は三郎)への遺訓は、天皇の耳に達していたことになります。
参考:贈正一位島津斉彬公記(152頁)|国立国会図書館デジタルコレクション
事典の言い方は「遺書により」(ブリタニカ)、「遺命により」(世界大百科事典)と違います。斉彬の手になる遺言書そのものは、今回の資料では確認できていません。
跡継ぎは忠徳に決まり、7月20日に布達されました。そして泉彪之助の論文によれば、公式の記録でも斉彬の死去は7月20日とされ、外へもそう発表されました。実際の死去から4日後です。
7月28日には、斉彬の重病を相談する書簡が薩摩藩の家老から福岡藩の家老へ届いています。黒田長溥が死去を知ったのは、長崎の留守居からの情報でした。こうした扱いの理由を記す資料は、今回見つかっていません。
参考:坪井芳洲筆島津斉彬容体書について(泉彪之助、1993年)|日本医史学会

跡継ぎの決め方が、かなり細かく書き残されています。これは斉彬さんの言葉として受け取ってよいのでしょうか。

枕元で何を申したかは、余からは語れぬ。書き留めた者が正しいかどうかも、いまの余には証しようがない。
ただ、いま問われれば、跡を継ぐ者の名より、継いだあとに家が割れぬ形を先に考えたいところじゃ。
親子と兄弟の争いで、薩摩は一度痛い目を見ておる。
斉彬の死後、薩摩藩はどうなったのか
藩主は忠義が継ぎ、当初は祖父の斉興が後見しました。山川 日本史小辞典によれば、斉興の死後は、父の久光が国父として実質的に藩政をみます。集成館の事業も、斉彬の没後に縮小されました。
斉彬の生前に始まった事業と、後継者が決めたことは、別の話です。
| 時期 | 出来事 | 出典 |
|---|---|---|
| 安政5年8月5日 | 福昌寺に葬られ、順聖院殿英徳良雄大居士とされる | 『贈正一位島津斉彬公記』 |
| 安政5年11月(1858年12月) | 西郷隆盛が僧の月照と鹿児島湾に投身し、西郷だけが助かる | 日本大百科全書 |
| 安政5年12月28日(1859年1月31日) | 忠徳が襲封。将軍家茂の一字を受けて茂久と改名。祖父の斉興が後見 | 『贈正一位島津斉彬公記』、山川 日本史小辞典 |
| 安政6年1月2日(1859年2月) | 哲丸が死去(数え3歳)。斉彬の男系が絶える | 『贈正一位島津斉彬公記』 |
| 安政6年9月12日(1859年10月) | 斉興が死去。以後、久光が国父として実質的に藩政をみる | 日本人名大辞典、山川 日本史小辞典 |
| 斉彬の没後 | 集成館の事業が縮小され、兵器製造に専念 | 山川 日本史小辞典 |
参考:贈正一位島津斉彬公記(151〜152頁)|国立国会図書館デジタルコレクション
参考:島津忠義|コトバンク
参考:島津久光|コトバンク
参考:島津斉興|コトバンク
参考:集成館|コトバンク
久光が実権を握った時期を、日本大百科全書のように1858年の相続に結びつけて書く事典もあります。
順養子とされた哲丸は、襲封の数日後、安政6年の正月に亡くなりました。遺言どおりに哲丸へ家が戻る道は、ここで閉じています。
泉彪之助は、後継者が斉彬の施策を中止した理由を「主として財政的な理由」と書いています。ただし、機械工場は薩英戦争で破壊されたあと、忠義が再建しています。斉彬の死で全部が終わったわけではありません。
西郷の投身について、日本大百科全書は「斉彬の急死で情勢が逆転し」と説明します。後ろ盾を失った影響は、藩の外にも及びました。

亡くなったあと、集成館の事業は縮小されたそうです。お金の問題だったと書かれています。

縮めたか。いくら要って、いくら入らなんだ。数を見ずに怒るのは愚か者のすることじゃ。
余の代に使いすぎたのなら、責めは余にもあろう。
見届けられなんだ話を、いま悔しがっても詮ないことよ。
島津斉彬の墓所はどこにあるのか
斉彬の墓は、鹿児島市池之上町の福昌寺跡にあります。福昌寺は島津家の菩提寺で、鹿児島市の資料によれば、墓地には6代当主の師久から28代当主の斉彬までの墓があります。
斉彬をたずねるなら、墓所と神社は別の場所です。
- 福昌寺跡(鹿児島市池之上町):島津家の墓地。寺は明治2年(1869年)の廃仏毀釈で廃寺となり、墓地が残った
- 照国神社(鹿児島市):祭神は斉彬。文久3年(1863年)に照国大明神の神号が授けられ、翌年に南泉院の跡へ社殿が建てられた
寺師の伝記によれば、7月23日に入寺、25日に入棺の式があり、8月5日に福昌寺へ葬られました。亡くなった7月16日から数えて20日ほどあとのことです。
神社の創建の年は、紹介する資料で文久3年と元治元年に分かれて見えます。これは神号の年と社殿の年の違いで、鹿児島市の資料は両方を書き分けています。
ドラマで描かれた島津斉彬の最期
『西郷どん』は斉彬の死を、2018年4月22日放送の第15回「殿の死」で描きました。斉彬は渡辺謙さんが演じています。翌週の紹介には「斉彬(渡辺謙)が病で世を去ったことを京で知った吉之助」とあります。
参考:『西郷どん』第16話、殿の志を継ぐ吉之助 だが安政の大獄が始まり…|クランクイン!
当時のレビュー記事は、軍事演習の途中で倒れる場面として紹介しています。『鹿児島県史』第3巻の書き方は、調練を見た帰りに病を感じた、です。ドラマが毒の疑いをどう扱ったかは、紹介記事からは分かりませんでした。
参考:「西郷どん」15話「打つ手なしや〜」「万事休す」「万策尽きた〜」さて、どうする|エキサイトニュース
2027年の『逆賊の幕臣』で斉彬を演じるのは西岡德馬さんです。発表された人物紹介は「斉彬はある一大計画を実行しようとするが……」と結んでいて、どこまで描かれるのかは、放送を待つことになります。
斉彬の役が加わった大河ドラマの顔ぶれは、こちらの記事にまとめています。

大河ドラマという長いお芝居で、斉彬さんは渡辺謙さんに演じられました。2027年は西岡德馬さんです。

余がまた芝居になるのか。ならば確かめたいことが一つある。
余は写真術を試して、己の姿を写させたことがある。その役者は、写真の余に似ておるのか。
似ておらぬなら、それはそれでよい。芝居には芝居の見立てがあろう。
島津斉彬は何をした人だったのか 生涯のふり返り
島津斉彬は、洋学を背景に近代工業を興そうとした薩摩藩主です。国立国会図書館の「近代日本人の肖像」によれば、1851年に藩主となり、洋書の翻訳、反射炉や軍艦の建設、洋式工場の設立に取り組みました。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 名前 | 島津斉彬(しまづ なりあきら) |
| 生年 | 文化6年。3月14日(1809年4月28日)とする資料と、9月28日とする資料がある |
| 没年 | 安政5年7月16日(1858年8月24日)。満49歳(数え50歳) |
| 立場 | 薩摩藩主。島津斉興の長男 |
| 主な事業 | 洋書の翻訳、反射炉・軍艦の建設、洋式工場の設立(1857年に集成館と命名) |
| 政治 | 老中の阿部正弘らと協力し、将軍継嗣では一橋慶喜を推した |
参考:島津斉彬|近代日本人の肖像|国立国会図書館
参考:島津斉彬|コトバンク
生年月日は、国立国会図書館が3月14日、山川 日本史小辞典とブリタニカが9月28日としています。満49歳は3月14日にもとづく年齢で、9月28日なら満48歳になります。
斉彬に見出された人物が、西郷隆盛でした。その後の西郷の歩みは、こちらの記事でたどっています。
よくある質問(FAQ)
島津斉彬の死因は何ですか?
確定していません。侍医の坪井芳洲は容体書で、末期の虚脱を当時流行のコレラの病状かと記しました。のちに高木兼寛は赤痢と見ています。毒殺説もありますが、裏づける記録は見つかっていません。
島津斉彬は何歳で亡くなりましたか?
満49歳(数え50歳)です。国立国会図書館が掲載する生年月日(文化6年3月14日)によります。山川 日本史小辞典とブリタニカの9月28日に従うと、満48歳になります。
島津斉彬はいつ、どこで亡くなりましたか?
安政5年7月16日(1858年8月24日)の朝、鹿児島で亡くなりました。公式の記録では7月20日に死去したとされ、外へもそう発表されたと、泉彪之助の論文にあります。
島津斉彬は毒殺されたのですか?
毒殺の噂は死去の当時からありましたが、今回確認した史料と論文の範囲に、毒を確かめた記録はありません。一方で、毒がなかったと証明する記録もありません。
父の斉興や弟の久光が犯人だったのですか?
名前を挙げるウェブの記事はありますが、関与を示す記録は、県史の該当箇所にも泉彪之助の論文にも出てきません。『鹿児島県史』第3巻は、斉彬の遺言のなかで、久光かその子から斉興の意向で跡継ぎを決めるとしたことを記します。
島津斉彬の最期の言葉は分かっていますか?
最期の言葉として確かめられるものは、見た資料のなかにありません。側役の山田為正を通じて家老らへ伝えた遺言の中身は、『鹿児島県史』第3巻に記されています。
島津斉彬の跡はだれが継ぎましたか?
甥の忠徳(のちの茂久、忠義)です。安政5年12月28日(1859年1月31日)に襲封しました。息子の哲丸は順養子とされましたが、安政6年1月(1859年2月)に亡くなりました。
島津斉彬の墓はどこにありますか?
鹿児島市池之上町の福昌寺跡です。祭神として祀る照国神社とは別の場所です。
大河ドラマ『逆賊の幕臣』で島津斉彬を演じるのは誰ですか?
西岡德馬さんです。2026年10月9日の第8次配役発表で明らかになりました。
インタビュー後記 島津斉彬の最期から見えてくるもの
毒殺かコレラか。この二択で調べ始めたのは、私のほうでした。
容体書を読むと、芳洲は「コレラの病状か」と「か」を付けて書いています。後世に伝わるあいだに、この一字が落ちていったように思います。
記録は多いのです。日ごとの症状や下痢の回数まで残っているのに、病名は決まりません。記録がないから分からないのではなく、記録があっても分からない死もあるのでしょう。
今回確認した範囲では、毒物の使用を裏づける記録は見つかりませんでした。だからこそ、侍医自身が残した「か」という留保を大切にしたいと思います。
斉彬が亡くなった年の秋、一橋派の人々への処罰が始まります。斉彬が見届けられなかった安政の大獄は、こちらの記事でたどっています。
参考資料
- 国立国会図書館デジタルコレクション『鹿児島県史』第3巻(鹿児島県編、1941年)4頁※7月8日の天保山の操練と帰途の発病、9日の伊江王子朝忠の引見、痢病の状、16日朝の逝去、遺言の相手と中身、7月20日の布達の根拠
- 国立国会図書館デジタルコレクション 寺師宗徳『贈正一位島津斉彬公記』(村野山人、1908年)148〜150頁※漢方医の容体書の全文、本文の「十五日暁薨ぜらる」、口絵の説明(「七月十六日薨」、斉彬の写真術)の根拠
- 同書 150〜151頁※7月23日入寺、25日入棺、8月5日の埋葬、法名、12月28日の襲封の根拠
- 同書 152頁※哲丸の死去(安政6年1月2日、数え3歳)、「公の男系絶えぬ」、幕府が伝えた追贈の文面の「弟三郎え遺訓之儀共達叡聞」の根拠
- 国立国会図書館「近代日本人の肖像」島津斉彬※生没年(文化6年3月14日〜安政5年7月16日、1809年4月28日〜1858年8月24日)、経歴の根拠
- 国立国会図書館サーチ『薬で読み解く江戸の事件史』(山崎光夫、東洋経済新報社、2015年9月)※書誌と「島津斉彬怪死事件の謎を解く」の項の根拠。本記事は本文を確認していません
- 国立国会図書館サーチ「坪井芳洲筆島津斉彬容体書について」※論文の書誌の根拠
- 日本医史学会 泉彪之助「坪井芳洲筆島津斉彬容体書について」『日本医史学雑誌』39巻2号(1993年)133〜156頁※容体書の校訂文と現代語訳、原本の未発見、日付の2系統と訂正の可能性、7月28日の書簡、吉永源八郎の派遣の根拠
- 日本医史学会 泉彪之助「坪井芳洲と薩摩藩」『日本医史学雑誌』37巻4号(1991年)567〜582頁※諸説の表、公式記録の7月20日、毒殺説と心因説の整理、黒田長溥の書簡、松木弘安の批判、芳洲の奥医師任命(1854年9月29日)、財政的な理由の根拠。高木兼寛・森重孝・『唱義聞見録』・鮫島志芽太・海音寺潮五郎・ポンペの見解は、本記事ではこの論文の整理で確認しました
- 鹿児島市「史跡めぐり 中央地区」※福昌寺跡の所在地と墓、廃寺、照国神社の祭神と神号・社殿の年の根拠
- 鹿児島市「史跡めぐり 吉野・磯地区」※機械工場が薩英戦争で破壊され、忠義が再建したことの根拠
- 鹿児島県 コラム「ニッポンの近代化をリード」ほか※斉彬が率兵上京を計画していたところで急死したという紹介の根拠
- 横須賀市自然・人文博物館「学芸員自然と歴史のたより『幕末のコレラ流行』」※安政5年の流行が長崎で始まり7月に江戸へ及んだこと、コレラの症状の根拠
- コトバンク「島津斉彬」※ブリタニカ「コレラにかかって急死した」、日本大百科全書・世界大百科事典・山川 日本史小辞典の「急死」、日本人名大辞典の「50歳」、生年の9月28日の根拠
- コトバンク「島津忠義」※ブリタニカ「遺書により」、世界大百科事典「遺命により」、山川「祖父斉興を後見として相続」「斉興死後,久光が国父として実質的に藩政をみた」の根拠
- コトバンク「島津久光」※精選版 日本国語大辞典「国父として実権を握った」、日本大百科全書の1858年の記述の根拠
- コトバンク「島津斉興」※日本人名大辞典の「安政6年9月12日死去」の根拠
- コトバンク「集成館」※山川「事業は縮小されて兵器製造に専念」の根拠
- コトバンク「お由羅騒動」※世界大百科事典の子女の夭折の噂の根拠
- コトバンク「西郷隆盛」※日本大百科全書の斉彬の急死と月照との投身の根拠
- コトバンク「高木兼寛」※生没年、日向国の出身、海軍軍医総監の根拠
- コトバンク「坪井為春」※号が芳洲であることの根拠
- ステラnet 第8次配役発表(2026年10月9日)※島津斉彬役が西岡德馬さんであること、人物紹介の根拠
- クランクイン!「『西郷どん』第16話、殿の志を継ぐ吉之助 だが安政の大獄が始まり…」(2018年4月28日)※「斉彬(渡辺謙)が病で世を去ったことを京で知った吉之助」の根拠
- エキサイトニュース「「西郷どん」15話「打つ手なしや〜」「万事休す」「万策尽きた〜」さて、どうする」(2018年4月29日)※第15回「殿の死」の放送日、軍事演習の途中で倒れる場面の紹介の根拠
- BOOK☆WALKER『史伝 西郷隆盛』(海音寺潮五郎、文春文庫)※作品紹介の根拠
- 榎戸誠の情熱的読書のすすめ「島津斉彬急死の真相、孝明天皇急死の黒幕…」※山崎光夫の見解の紹介の根拠







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