戦国武将の人気投票をやれば、たいてい上位に来るのが織田信長です。私も子どものころは「革命児」という言葉の響きだけで、この人が好きでした。
ところが大人になって調べ直すと、教わったはずの話が次々とぐらつきます。楽市楽座を最初に始めたのは信長ではありませんでしたし、長篠の「三段撃ち」も史料の裏づけが弱いのです。
では、イメージを取り払ったあとに何が残るのか。そこにこそ本当の信長がいるはずだと思ったのが、この記事を書いたきっかけでした。
この記事の結論
織田信長は、尾張から美濃・畿内へと勢力を広げ、天下統一への道筋をつけた武将です。
岐阜や安土の城下では楽市を行い、支配地域では関所の撤廃を進めて、人や物の移動を円滑にしました。
安土城という新しい城のかたちも生み出しています。ただし統一そのものは、本能寺の変によって果たせずに終わりました。
- 満47歳
没年齢(数え年49歳) - 14年
上洛から本能寺まで - 1567年
「天下布武」を掲げる
この記事では、基本プロフィールと人物像を押さえたうえで、代表的な3つの功績、最期、年表、後世への影響、思想の順に紹介していきます。通説がどこまで確かなのかも、そのつど書き添えました。
そして今回は、織田信長AI(織田信長をモデルにしたAI)にも登場してもらいます。教科書の一行では伝わらない、この人の身もふたもない語り口も一緒に味わってください。
※以下のインタビュー部分は、公開されている史料をもとに織田信長の人物像を再現した創作です。実際の発言をそのまま掲載したものではありません。

肖像画と教科書でしか知らなかった信長さんと、こうしてお話しできるとは……。
現代では、あなたは戦国時代を代表する武将の一人です。まずはご自身の口から、どういう人物なのかを教えていただけますか。

儂が織田信長よ。尾張の弾正忠家に生まれ、若い時分は「うつけ」と呼ばれておったわ。
家督を継いだころは身内の争いばかりでな、京の話などする余裕もなかった。それが桶狭間で今川を討ってから、風向きが変わったのじゃ。
儂のしたことを一言で申すなら、古いしきたりに縛られず、役に立つと見れば新しいやり方も取り入れた。それだけのことよ。
まずは織田信長の基本プロフィールと、何をした人なのかを2分で知ろう
織田信長(おだ のぶなが)を一言でいえば、戦国乱世の終わりに道筋をつけた武将です。尾張の一領主から身を起こし、京を含む広い範囲を治めるまでになりました。
生まれは尾張国(現在の愛知県西部)です。父の織田信秀は、尾張を治める守護代に仕える一族の当主でした。
まずは全体像を、次の表でつかんでみましょう。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 名前 | 織田信長(おだ のぶなが)※幼名は吉法師 |
| 生没年 | 1534年6月23日〜1582年6月21日(満47歳で死去/数え年では49歳) |
| 出身 | 尾張国(現在の愛知県西部)。生誕地は勝幡城とする説が有力だが諸説ある |
| 活躍した時代 | 戦国時代〜安土桃山時代 |
| 主な功績 | 桶狭間の戦いでの勝利、足利義昭を奉じた上洛と畿内での勢力拡大、城下町や流通のしくみづくり |
生年は天文3年5月12日で、これを西暦に直すと1534年6月23日にあたります。生誕地は勝幡城とする説が有力ですが、那古野城や古渡城とする説もあります。
注意したいのは、信長が天下統一を成し遂げた人物ではないことです。本能寺の変で命を落としたのは、まだその途上でした。

尾張の一領主から、京を動かす立場になられました。ご自身では、何をしてきた人間だとお考えですか。

大層な問いじゃな。儂は天下を平らげようとして、途中で終わった男よ。
尾張の田舎者が京を差配するようになったのは、運もあったであろう。じゃが、運だけで三十年は保たぬ。
儂がしたのは、戦の勝ち方と、人と銭の集め方を作り替えたところまで。仕上げたのは儂ではない。そこは正直に申しておく。
織田信長はどんな人だったのか
信長といえば「冷酷な革命児」というイメージが定着しています。ただ、それは後の時代につくられた人物像の影響も大きいところです。
同時代の記録からうかがえるのは、もう少し複雑な姿です。若いころは奇抜なふるまいで「うつけ」と呼ばれ、家中でも危ぶまれていました。
一方で、宣教師ルイス・フロイスは信長と何度も会い、その言動を書き残しています。決断を人に明かさず、家臣の忠言にほとんど従わない一方で、皆から畏敬されていたという記述が残っています。
| 見られ方 | 内容 |
|---|---|
| 同時代の評価 | 若いころは奇行から「うつけ」と評された。宣教師フロイスは、決断を明かさず家臣の忠言にほとんど従わないが、皆から畏敬されていた人物として記した |
| 後世のイメージ | 江戸時代以降の軍記物や創作を通じて「冷酷な革命児」「旧習の破壊者」という像が広まった |
| 伝わるエピソード | 『信長公記』には、桶狭間へ出陣する前に幸若舞『敦盛』を舞ったと記されている |
表の三つ目にある『敦盛』の一節が、有名な「人間五十年」です。ここでいう「人間」は人の一生ではなく、「人の世」を指す言葉だとされています。
なお「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」の句は、江戸時代後期の随筆に載る作者不明の作です。信長本人が詠んだものではありません。
日本遺産に認定されたストーリーを紹介する岐阜市の資料では、信長は武力だけでなく、もてなしによって人を集めた人物としても語られています。冷徹一辺倒の像は、実像の一面にすぎないようです。

若いころは「うつけ」と呼ばれていたと伝わります。周りからそう見られていたことは、ご存じでしたか。

知っておったとも。町を歩けば、皆が眉をひそめておったからのう。
帯に火打ち袋をぶら下げ、瓜や餅を立ったまま食い歩く。家中の年寄りどもは頭を抱えておったわ。
じゃがな、あの頃の尾張で儂が行儀よくしておっても、誰も従わなんだであろう。今にして思えば、侮られておるうちのほうが動きやすかったのかもしれぬ。
織田信長の代表的な3つの功績
信長の生涯には数多くの合戦と政策があります。ここでは特に大きなものを、この記事なりの整理として3つ取り上げます。
- ① 桶狭間の戦いに勝ち、尾張から美濃へ勢力を広げたこと
- ② 足利義昭を奉じて上洛し、畿内で主導権を握ったこと
- ③ 城下町・流通・城郭のしくみを整えたこと
三つとも「古いやり方に縛られない」という点で一本につながっています。順に見ていきましょう。
① 桶狭間の戦いに勝ち、尾張から美濃へ(1560年〜1567年)
信長の名を一気に広めたのが、1560年(永禄3年)の桶狭間の戦いです。駿河・遠江・三河を治める今川義元の大軍を、尾張で迎え撃ちました。
ここに至るまでの道のりを、表で追ってみましょう。
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1551年または1552年 | 父・信秀の死去にともない家督を継ぐ(没年には諸説ある) |
| 1556年 | 稲生の戦いで弟・信勝と争う。後ろ盾の斎藤道三も敗死する |
| 1560年 | 桶狭間の戦いで今川義元を討つ |
| 1562年 | 徳川家康と同盟を結ぶ(清洲同盟) |
| 1565年 | 犬山城の織田信清を退け、尾張を統一する |
| 1567年 | 稲葉山城を攻略し、井口を「岐阜」と改める |
家督を継いだ当初の信長は、決して恵まれた立場ではありませんでした。一族の内部でも争いが続き、まず身内をまとめることから始めています。
桶狭間の戦いの経過には諸説あります。長く「迂回しての奇襲」と語られてきましたが、『信長公記』の記述をもとに正面から攻めたとする見方も有力です。
今川方の兵数も史料によって幅があります。確かなのは、少ない兵で総大将を討ち取ったという結果のほうです。
そして1567年、美濃の稲葉山城を落とした信長は、地名を岐阜と改めます。岐阜市の説明によると、このころから「天下布武」の印を用いるようになりました。

桶狭間では、兵の数でかなり劣っていたと伝わります。勝てる見込みはあったのでしょうか。

見込みなど、あるものか。籠って待てば、じわじわ干上がるだけよ。ならば出るまでのこと。
出陣の前に敦盛を舞ったことは、牛一が書き残しておるようじゃな。何を思うて舞ったかまでは、そこには書かれておるまい。
運が味方したのは確かじゃ。じゃがな、義元がどこにおるかを掴むまで、幾人もの者が野を駆け回っておる。運とは、そこまでやった者のところに転がってくるものらしいのう。
② 足利義昭を奉じて上洛し、畿内で主導権を握った(1568年〜1573年)
1568年(永禄11年)、信長は足利義昭を奉じて京へ入ります。義昭は室町幕府の15代将軍となり、信長はその後ろ盾となりました。
ところが両者の関係はほどなく崩れ、各地の勢力を巻き込む長い戦いが始まります。この時期の動きを表で見てみましょう。
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1568年 | 足利義昭を奉じて上洛する |
| 1570年 | 浅井長政の離反で窮地に立つ(金ヶ崎の退き口)。姉川の戦いが起こる |
| 1571年 | 比叡山延暦寺を焼き討ちする |
| 1573年 | 義昭を京から追放し、浅井・朝倉両氏を滅ぼす |
| 1575年 | 長篠・設楽原の戦いで武田勝頼を破る |
| 1580年 | 石山本願寺と和睦し、10年におよぶ戦いが終わる |
1571年の比叡山焼き討ちは、信長への評価が最も分かれる出来事です。多くの犠牲が出たと伝わり、その規模については研究者のあいだでも議論があります。
1573年の義昭追放によって、室町幕府は事実上その役割を終えました。約240年続いた京の武家政権が、ここで一区切りを迎えたことになります。
1575年の長篠・設楽原の戦いでは、織田・徳川連合軍が武田勝頼の軍を破りました。新城市の説明では、連合軍3万8千に対して武田軍は1万5千とされています。
この戦いで有名な「三段撃ち」は、後世の軍記物に由来する話です。一次史料の『信長公記』に記述はなく、近年は慎重に見られています。

将軍を京に迎えながら、数年後には追い出すことになりました。あのとき、幕府をどう見ておられたのですか。

公方様を京へお連れしたのは、天下の仕置きに名分が要ったからよ。名分なくして、諸国の大名は動かぬ。
じゃがな、儂と公方様では、天下の治め方が次第に噛み合わなくなっていった。
やがて互いに相手を退けようとし、ついには袂を分かつことになった。それだけのことじゃ。
③ 城下町・流通・城郭のしくみを整えた(1567年〜1579年)
信長は戦だけの人ではありません。人と物が動くしくみを整えた点こそ、後の時代に大きく影響しました。
代表的な取り組みは次のとおりです。
- 楽市の実施:城下を楽市とし、座の特権を廃止するとともに、住人への諸役・諸公事を免除した
- 関所の撤廃:支配地域で関所の撤廃を進め、人や物の移動を円滑にした
- 鉄砲の大量運用:鉄砲を数多くそろえ、合戦での使い方を工夫した
- 安土城の築城:1576年に着工し、1579年に天主へ移った
ここで押さえておきたいのは、楽市楽座を最初に始めたのは信長ではないという点です。1549年に近江の六角定頼が城下の石寺新市に出した楽市令は、現存する史料で確認できる最も早い楽市の例として知られています。
信長も岐阜や安土の城下で楽市令を出しています。1577年(天正5年)には、安土城下に13か条からなる『安土山下町中掟書』を出しました。
掟書では城下を楽市とし、座の廃止や住人への諸役・諸公事の免除を定めています。あわせて、中山道を行き来する商人が安土に宿泊することなども決めました。
城下に人と金を集める、狙いのはっきりした政策だったと言えます。
そして1576年(天正4年)に着工したのが安土城です。文化遺産オンラインの説明では、山全体を高石垣で覆い高層の天主がそびえる、後の近世城郭の原形とされています。

楽市や関所の撤廃は、当時としては思い切った策だったと思います。何を狙って行われたのでしょうか。

難しい話ではない。人と荷が通れば町は肥える。町が肥えれば銭が入る。銭が入れば兵を養える。
関所は道々で銭を取るばかりで、荷の足を止めるだけのもの。座も同じよ。古株が儲けの口を握っておっては、新しい商人が入ってこられぬ。
ゆえに、やめさせた。もっとも、楽市は儂が最初ではない。近江の六角にも、すでに先例があったようじゃな。
織田信長の死因と最期
信長の最期は、味方だったはずの家臣の謀反によるものでした。1582年(天正10年)6月2日の本能寺の変です。
中国地方へ向かうはずだった明智光秀の軍が、京の本能寺に滞在していた信長を取り囲みました。
信長は本能寺の奥で自害し、御殿は焼失したと伝わります。秀吉の祐筆だった大村由己の『惟任退治記』には、信長が自ら御殿に火をかけて腹を切ったと記されています。
ただし『信長公記』の記述はこれと異なり、出火の詳しい経緯は確定していません。
最期のあらましを、表にまとめます。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 没年月日 | 1582年6月21日(天正10年6月2日) |
| 場所 | 京都・本能寺 |
| 死因 | 明智光秀の謀反により襲撃を受け、自害したと伝わる |
| 死亡時の年齢 | 満47歳(数え年では49歳) |
| その後 | 嫡男・信忠も二条御所で最期を迎えた。信長の遺体は見つかっていない |
太田牛一の『信長公記』には、襲ってきたのが明智の軍勢だと知った信長が「是非に及ばず」と述べたと記されています。是非を論じても仕方がない、という意味です。
光秀が謀反に及んだ理由は、いまも定説がありません。怨恨説・野望説・第三者の関与を想定する説など、さまざまな見方が並び立っています。
変のあと、中国地方から引き返した羽柴秀吉が山崎の戦いで光秀を破りました。謀反を起こした光秀の側から見ると、この事件はまた違って見えてきます。

重臣だった明智光秀に背かれました。あの朝、まず何を思われましたか。

……是非に及ばず。それしか出てこなんだ。
寄せ手が明智と聞いても、なぜ、とは思わなんだわ。思うたところで、囲まれておる事実は変わらぬ。
惜しむらくは、まだ半ばであったこと。安土とて、手を入れる所が残っておった。……まあよい。儂のような生き方をした男が、畳の上で終わると思うておるほうがおかしかろう。
織田信長の生涯を年表で振り返る
信長の歩みを年表で追ってみましょう。華やかな勝利だけでなく、身内の争いや敗走もあったことが分かります。
なお当時は現在とは異なる暦を用いていたため、西暦の日付との対応がずれることがあります。この年表は西暦の年で統一しています。
| 年 | 出来事 | ひとこと解説 |
|---|---|---|
| 1534年 | 尾張に生まれる | 天文3年5月12日生まれ。西暦では1534年6月23日にあたる |
| 1546年 | 元服し、織田三郎信長と名のる | 父・信秀は尾張で力を持つ一族の当主だった |
| 1549年ごろ | 斎藤道三の娘・帰蝶を妻に迎える | 敵対していた美濃との和睦を兼ねた婚姻。時期には幅がある |
| 1551年または1552年 | 父・信秀が死去し、家督を継ぐ | 没年には1551年説と1552年説がある。若い当主として一族内の争いに直面する |
| 1553年 | 傅役の平手政秀が自害する | 信長を諌めるための死とも伝わるが、理由には諸説ある |
| 1556年 | 稲生の戦いで弟・信勝と争う | 同じ年、後ろ盾だった斎藤道三が長良川の戦いで敗死する |
| 1558年 | 弟・信勝を排除する | 一族内の対立に決着をつけ、家中をまとめる |
| 1560年 | 桶狭間の戦いで今川義元を討つ | 少ない兵で総大将を討ち、名が一気に広まる |
| 1562年 | 徳川家康と同盟を結ぶ | 東の守りを固め、西へ動けるようになる |
| 1565年 | 犬山城の織田信清を退け、尾張を統一する | 家督相続からおよそ13年をかけて本国をまとめた |
| 1567年 | 稲葉山城を攻略し、井口を「岐阜」と改める | このころから「天下布武」の印を使い始める |
| 1568年 | 足利義昭を奉じて上洛する | 義昭は室町幕府15代将軍となる |
| 1570年 | 金ヶ崎の退き口と姉川の戦い | 浅井長政の離反で窮地に立ち、その後に反撃する |
| 1571年 | 比叡山延暦寺を焼き討ちする | 多くの犠牲を出し、評価が大きく分かれる出来事 |
| 1573年 | 足利義昭を京から追放する | 室町幕府は事実上終わり、浅井・朝倉も滅ぶ |
| 1575年 | 長篠・設楽原の戦いで武田勝頼を破る | 同年11月に権大納言・右近衛大将となる |
| 1576年 | 安土城の築城を始める | 3年後の1579年に天主へ移る |
| 1577年 | 安土城下に13か条の掟書を出す | 城下を楽市とし、座を廃止するとともに、住人への諸役・諸公事を免除した |
| 1578年 | 右大臣と右近衛大将を辞任する | 前年に右大臣となったばかりだった |
| 1580年 | 石山本願寺と和睦する | 10年におよぶ大坂での戦いが決着する |
| 1582年 | 武田氏を滅ぼすが、6月2日に本能寺の変で最期を迎える | 満47歳。天下統一の途上での死だった |
こうして並べると、信長の人生の前半が身内との争いに費やされていたことが見えてきます。桶狭間の勝利は、家督相続からおよそ8〜9年後の出来事でした。
上洛から本能寺までは、わずか14年です。世の中を大きく動かした期間が、意外に短かったことも分かります。
織田信長のすごさ・影響力
信長の影響力は、合戦の勝敗そのものよりも、後の時代への影響にはっきり表れています。
具体的には、次の点が挙げられます。
- 高石垣と高層の天主を備えた安土城が、後の近世城郭の原形とされていること
- 城下に商人を集める都市政策が、その後の城下町づくりに引き継がれたこと
- 関所の撤廃など、人や物の移動を促す政策を進めたこと
- 宣教師との交流を通じて、南蛮渡来の知識や品物に関心を示したこと
一つ目について、文化遺産オンラインは、高石垣と高層の天主を備えた安土城を後の近世城郭の原形と位置づけています。
二つ目も見落とせません。信長は領国の拡大と並行して、人と金が集まる城下町のしくみにも手を入れました。
一方で、比叡山焼き討ちや一向一揆との長い戦いのように、多くの犠牲を生んだ面もあります。革新性だけを取り出して語るのは、公平ではありません。
信長の政策や政権運営の一部は、形を変えながら秀吉や家康の時代にも影響を与えました。天下統一そのものは、信長の死後に果たされています。

あなたが整えた城下町や軍のしくみは、後の世に引き継がれていきました。ご自身では、何がいちばんの働きだったとお考えですか。

戦の話が出ると思うたか。違うわ。
儂がいちばん手をかけたのは城下じゃ。人が集まり、物が動き、銭が回る場所をこしらえること。戦は、それを守るための手段にすぎぬ。
岐阜も安土も、山の上の城ばかり見ておっては何も分からぬ。麓の町がどう賑わったかを見よ。そこに儂の三十年が詰まっておる。
織田信長の思想と現代へのメッセージ
信長の行動からは、前例にこだわらず、実用性を重んじたように見える場面がいくつも出てきます。ただし、それを一つの思想としてまとめられるかは別の話です。
よく挙げられるのが、家臣の登用です。木下藤吉郎、のちの豊臣秀吉が信長のもとで異例の出世を遂げたことは、人材登用を考えるうえでしばしば取り上げられます。
その秀吉が信長の死後に何をしたのかは、こちらの記事で詳しく紹介しています。
信長の歩みから筆者が考えた、現代へのヒントを並べてみます。
| 信長の歩み | 現代へのヒント(筆者の解釈) |
|---|---|
| 秀吉が信長のもとで出世した | 経歴だけでなく、実際の働きにも目を向ける |
| 鉄砲や南蛮の品を早くから取り入れた | 新しい道具を「よく分からないから」と遠ざけない |
| 城下を楽市にして人と物を呼び込んだ | 短期の利益より、人が集まるしくみをつくる |
一つ目のヒントは、今の職場にもそのまま当てはまります。年齢や社歴で役割が決まる場面は、現代にも少なくありません。
もちろん、信長のやり方をそのまま手本にはできません。比叡山焼き討ちのように、多くの命を奪った決断も同じ人物のものだからです。
だからこそ、その生き方は「古いやり方を変えるとはどういうことか」を考える材料になります。得るものと失うものの両方を含めて、です。

最後に、変わることをためらっている現代の読者へ、ひとことお願いできますか。

変わるのが怖いか。当たり前じゃ。儂とて、新しい物を入れるたび家中から反対されたわ。
ただな、そなたらが迷うておる間にも、世のほうは勝手に動いていく。留まっておるつもりでも、実は置いていかれておるのよ。
迷うても、最後は決めねばならぬ。……もっとも、急ぎすぎて足元をすくわれた男の言うことじゃ。そこは差し引いて聞くがよい。
あなたは織田信長の生き方から、何を学びますか?
よくある質問(FAQ)
織田信長は何をした人ですか?
尾張の一領主から身を起こし、桶狭間の戦いや上洛を経て、京を含む広い範囲を治めた戦国武将です。
楽市の実施や関所の撤廃で経済のしくみを整え、安土城を築きました。天下統一そのものは果たしていません。
「天下布武」とはどういう意味ですか?
信長が1567年ごろから使い始めた印の文字です。長く「武力で天下を統一する」という意味に解されてきました。
ただし「天下」を京を中心とする畿内と読み、「武」を秩序を保つ徳と読む解釈もあり、意味の理解には議論があります。
織田信長の死因は何ですか?
1582年6月2日の本能寺の変で、家臣の明智光秀に襲われ、自害したと伝わります。満47歳(数え年では49歳)でした。
遺体は見つかっておらず、光秀が謀反に及んだ理由についても定説はありません。
楽市楽座は織田信長が始めたのですか?
信長が最初ではありません。1549年に近江の六角定頼が石寺新市に出した楽市令が、現存史料で確認できる最も早い例として知られています。
信長も岐阜や安土の城下で楽市令を出し、1577年には安土城下に13か条の掟書を定めました。
長篠の戦いの「三段撃ち」は本当にあったのですか?
確かなことは分かっていません。一次史料の『信長公記』に三段撃ちの記述はなく、後世の軍記物に由来する話とされています。
鉄砲を大量に用いたこと自体は伝わっていますが、その使い方の細部は慎重に見る必要があります。
織田信長は天下統一をしたのですか?
していません。本能寺の変で亡くなった時点では、支配が及んでいたのは東海から畿内、北陸や中国地方の一部にとどまります。
その枠組みを引き継いだ豊臣秀吉が、信長の死から8年後の1590年に全国の統一を果たしました。
織田信長はどんな人でしたか?
若いころは奇抜なふるまいから「うつけ」と呼ばれ、家中でも危ぶまれていたと伝わります。
宣教師フロイスは、決断を明かさず家臣の忠言にほとんど従わないが、皆から畏敬されていた人物として記しました。
「冷酷な革命児」という像は、後世の創作を通じて広まった面が大きいと考えられています。
インタビュー後記|織田信長は「前提を疑い続けた人」
今回は織田信長AIに登場してもらいました。
調べ終えて残ったのは、「革命児」という言葉のざらついた手ざわりです。信長のやったことの多くは、まったくの新案ではなく、既にあったものを徹底して広げたものでした。
楽市は六角定頼が先に行っていましたし、鉄砲も信長の発明ではありません。それでも世の中が動いたのは、使えると判断したら一気に振り切ったからでしょう。
同時に、その徹底ぶりは比叡山焼き討ちのような結果も生みました。光と影のどちらも同じ人物のものだという事実は、書きながら何度も立ち止まったところです。
信長が生きた戦国・安土桃山時代には、ほかにも魅力的な人物が数多くいます。よければ、同じ時代を生きた人たちの記事ものぞいてみてください。
参考資料
- 岐阜市「信長公のおもてなし 3つのキーワード」
- 文化庁 日本遺産ポータルサイト「「信長公のおもてなし」が息づく戦国城下町・岐阜」
- 文化遺産オンライン「特別史跡安土城跡」
- 滋賀県観光情報[公式観光サイト]「安土城跡」
- 近江八幡市歴史浪漫デジタルアーカイブ「安土山下町中掟書」
- 豊明市「桶狭間古戦場伝説地」
- 国宝犬山城「織田信長の尾張統一最終章「犬山城の戦いと織田信清」」
- 新城市「長篠・設楽原の戦い」
- 亀岳林 万松寺「歴史」※織田信秀の没年と葬儀
- 愛知県公式観光サイト Aichi Now「勝幡城跡(織田信長、生誕の地)・幼少期の信長像」
- 国立国会図書館サーチ「惟任退治記(『史籍集覧』所収、近藤活版所)」※本能寺での出火に関する記述。編者は大村由己
- ウィキソース「惟任退治記(大村由己)」※原文の閲覧用
- 国立国会図書館サーチ「信長公記 : 現代語訳(太田牛一 著/榊山潤 訳、ちくま学芸文庫、2017年)」
- 国立国会図書館サーチ「完訳フロイス日本史 2 織田信長篇 2(ルイス・フロイス 著/松田毅一・川崎桃太 訳、中公文庫、2000年)」
- 平凡社「甲子夜話 1(松浦静山 著/中村幸彦・中野三敏 校訂、東洋文庫、1977年)」





コメント