ペリーが浦賀に来た嘉永6年(1853年)、幕府に大老はいませんでした。
幕府の最高位の職が空席のまま、黒船に向き合ったのは老中たちです。その5年後、今度は大老に就いた井伊直弼が、老中を入れ替えていきます。
2027年の大河ドラマ『逆賊の幕臣』では、この時代の幕臣、小栗忠順が主人公です。大老と老中の区別がつくと、誰が誰を辞めさせたのかが読めるようになる。そう考えて、この記事を書くことにしました。
この記事の結論
大老は、必要なときだけ老中の上に置かれた臨時の最高職で、定員は原則1人です。老中は、常に置かれた幕政の最高職で、定員は4〜5人でした。
役職の順位では大老が上です。ただし大老は月番などの日常の仕事を免じられ、ふだんの政務は老中が回していました。井伊直弼のように幕政を主導した大老は、一部にとどまります。
幕末の老中は、ペリー来航の時点の在職者から慶応4年(1868年)まで、老中格を含めて33人です。事典と一覧を突き合わせ、本記事では正規の老中を29人と数えました。
- 1人
大老の定員(原則) - 4〜5人
老中の定員 - 33人
幕末の老中(老中格を含む)
この記事では、大老と老中の違いを表で比べ、どちらが上なのか、大老は何人いたのか、老中首座とは何かを確かめます。そのあと幕末の老中33人を時期ごとの表で一覧にします。
語り手は、井伊直弼AI(井伊直弼をモデルにしたAI)と阿部正弘AI(阿部正弘をモデルにしたAI)です。大老の席と老中首座の席に、それぞれ座った二人に来てもらいました。
※以下のインタビュー部分は、公開されている史料をもとに二人の人物像を再現した創作です。実際の発言ではありません。阿部正弘は安政4年(1857年)、井伊直弼は安政7年(1860年)に没しており、それより後の出来事は筆者が質問の中で伝えています。

井伊さん、阿部さん、今日はよろしくお願いします。さっそくですが、大老と老中はどちらが上なのかと調べる人がたくさんいます。お二人の口から聞かせてください。

まず、井伊殿の見立てを聞かせていただきたい。
上か下かを問われて真っ先に口を開く者に、長く勤まった老中はおりませぬゆえ。

先に譲られたか。では申そう。
茶席に上座があるように、席の順なら大老が上じゃ。それは隠さぬ。
ただ、上座に座ることと、釜の湯を沸かし続けることは別の話であろう。
大老と老中の違いを表で比較
大老は臨時で原則1人、老中は常置で4〜5人というのが、いちばん大きな違いです。そのほかの違いも、事典の記述を中心に並べました。
| 比べる点 | 大老 | 老中 |
|---|---|---|
| 置かれ方 | 必要なときだけ置く臨時の職 | 常に置かれた職 |
| 定員 | 原則1人 | 4〜5人 |
| 位置 | 幕府の役職で最高位。老中の上 | 常置の職で最高位 |
| 日々の仕事 | 月番・評定所への出座・奉書への加判を免除 | 月番で政務を回し、大事は合議 |
| 就いた人 | 10万石以上の譜代とする事典がある。井伊家と酒井家に多い | 2万5千石以上の譜代大名とする事典が多い |
| 歴代の人数 | 9人または10人(事典で差がある) | 幕末だけで老中格を含め33人 |
| 代表的な人物 | 井伊直弼、酒井忠清 | 田沼意次、松平定信、水野忠邦、阿部正弘 |
定員は日本大百科全書の言い方では「通常1人」で、酒井忠清と井伊直澄の在任が1668〜76年に重なった例があります。
表のうち「奉書への加判」は、将軍の命令を伝える文書に判を加える仕事です。老中が「加判の列」とも呼ばれたのは、このためでした。
格の差は、ふるまいにも及びます。改訂新版 世界大百科事典によると、大老は老中と同道するときに1、2歩先を歩き、江戸城内では総下座の礼を受けました。
一方で、大老は常に置かれたわけではありません。日本大百科全書の補任順を見ると、井伊直亮の退任(1841年)から井伊直弼の就任(1858年)まで、大老は17年空いています。
阿部正弘が老中だった天保14年(1843年)から安政4年(1857年)までは、この空席の期間にすっぽり収まります。

阿部さん、老中のころ、前を歩く大老はいましたか。

そなたの調べのとおり、私が老中でおるあいだ、大老の席は空いておりました。
上を見ずに済むと申せば聞こえはよい。されど、責めを預ける先もない席でござる。

その空席に、予は座ったわけじゃ。
歩幅まで定まる世であるから、座れば一歩ぶんの重さがついて回る。
阿部殿、そなたなら座りたいと思うたか。

いま問われれば、遠慮申し上げたいところでござるな。
空いた席は、空いておるうちがいちばんよい席でござる。
大老と老中はどちらが上?井伊直弼の人事で見る力関係
職の順位は大老が上で、井伊直弼のときは大老の就任後に老中の顔ぶれが大きく変わりました。ただし、これをすべての大老に広げることはできません。
- 安政5年4月23日(1858年6月4日):井伊直弼が大老に就く
- 安政5年6月19日(1858年7月29日):勅許のないまま日米修好通商条約に調印
- 安政5年6月(1858年):老中の堀田正睦と松平忠固が罷免され、間部詮勝らが老中に入る
- 安政5年10月(1858年):老中の久世広周が解任される
就任の経緯からして、老中との間には緊張がありました。彦根城博物館によると、老中の堀田正睦は越前福井藩主の松平慶永を大老に進言し、将軍家定がこれを退けて直弼を挙げました。大老を望んだ老中の案が通らなかったわけです。
堀田と松平忠固に代わって登用された間部詮勝は、勝手掛(財政の担当)と外国掛を兼ね、安政の大獄では京都の弾圧を指揮します。その間部も、直弼との意見の食い違いから安政6年12月に老中を辞めました。
参考:間部詮勝|コトバンク
久世広周について、山川 日本史小辞典は「大老井伊直弼と対立して老中解任」と書き、ブリタニカ国際大百科事典はその中身を、安政の大獄で寛刑を主張したためとします。
参考:久世広周|コトバンク
一方で、大老がいつも強かったわけではありません。山川 日本史小辞典が実質的に幕政を主導したとみるのは酒井忠清・堀田正俊・井伊直弼などで、ほかの大老は日常の幕政運営に関与しなかったと記します。
大老の始まりも、権力の強さとは逆の見方ができます。世界大百科事典は、3代将軍の家光が土井利勝と酒井忠勝を大老の形に置いた措置を、優遇に見せて実権から遠ざけたものと推測しています。
参考:大老|コトバンク

井伊さん、老中から見れば、ずいぶん怖い上司ですよ。

堀田と松平忠固を退け、間部らを入れた。これは予の在任中のことで、逃げも隠れもせぬ。
怖いと言われるなら、それでよい。席に座る者が嫌われるのも、務めのうちじゃ。

堀田殿は、私が首座の席を譲った方でござる。
その話を聞いて、驚かぬと申せば嘘になりましょう。
井伊殿、堀田殿に一服、茶は差し上げなされたか。

……その問いには、答えぬでおこう。
茶の話を政の席へ持ち込むものではない。
井伊直弼の生涯と大老就任の経緯は、こちらの記事で詳しく扱っています。
大老は何人いた?事典で9人と10人に分かれる
大老の人数は、参照した事典に挙がる人物を数えると、9人と10人に分かれます。記述の違いが生じた理由までは確認できませんでした。
| 資料 | 挙がる人物 | 人数 |
|---|---|---|
| 日本大百科全書 | 土井利勝、酒井忠勝、酒井忠清、井伊直澄、堀田正俊、井伊直興(直該)、井伊直幸、井伊直亮、井伊直弼、酒井忠績 | 10人(直興の再任を数えれば11回) |
| 改訂新版 世界大百科事典 | 1638年の酒井忠勝・土井利勝のあと、酒井忠清、井伊直澄、堀田正俊、井伊直興、井伊直幸、井伊直亮、井伊直弼の7人 | 最初の2人と合わせて9人 |
| 山川 日本史小辞典 | 1638年の土井利勝・酒井忠勝のあと、幕末期までに7人。うち4人は井伊家 | 最初の2人と合わせて9人 |
参考:大老|コトバンク
日本大百科全書と世界大百科事典の差は、慶応元年(1865年)の酒井忠績です。世界大百科事典は幕末の直弼までで人名を終えています。山川 日本史小辞典は同じ9人でも「井伊家から4人」と書き、世界大百科事典の井伊家5人とは内訳が同じとは言えません。
ただし、最初の1人をめぐっても議論があります。日本大百科全書は「酒井忠世に始まると伝えるが確証はなく」と断り、1638年(寛永15)の利勝・忠勝を設置の時点とみています。
マイペディアは、大老の職名を正式に冠したのは1666年の酒井忠清が最初と記します。
就いた家の書き方もそろいません。精選版 日本国語大辞典は土井・酒井・堀田・井伊の4家とし、ブリタニカ国際大百科事典は保科氏・柳沢氏も1回ずつ数えます。
柳沢吉保は大老格の待遇を受けましたが、日本大百科全書と山川 日本史小辞典は、役職は側用人だったとしています。
最後の大老は、姫路藩主の酒井忠績です。元治2年2月(1865年)に大老へ進み、慶応元年11月に退きました。姫路市立城郭研究室も、酒井家の人物として「江戸時代最後の大老となった酒井忠績」を挙げています。
参考:酒井忠績|コトバンク
参考:酒井家文書|姫路市立城郭研究室

井伊さんの7年後に、最後の大老が出ます。酒井忠績という姫路の殿様です。

予のあとにも座る者がおったとは、いま初めて聞いた。
その者も、あの席の重さには手を焼いたであろうな。
老中の仕事と条件は?月番制と2万5千石の譜代大名
老中は、将軍に直属して幕政全体を統轄する職で、4〜5人が1か月交代の月番で仕事を回しました。条件は、2万5千石以上の譜代大名とする事典が多数です。
- 定員:4〜5人
- 月番:毎月1人が当番。小事は月番が処理し、大事は合議
- 文書:大事は老中一同の連署、小事は月番の老中1人の判で執行
- 職掌:朝廷・公家・大名の統制、財政、大規模な普請、知行、寺社、外交など
- 執務場所:江戸城の御用部屋
- 役料:なし
参考:老中|コトバンク
参考:御用部屋|コトバンク
職掌は寛永11年(1634年)の「覚」で示され、山川 日本史小辞典は1638年に制度として確立したとみます。「老中」という呼び名が一般化するのも3代家光のころで、それ以前は年寄・宿老などと呼ばれました。
「中」には、世界大百科事典によると「連中」「若者中」のように集まりを表す働きがあります。ただし、役職名の「老中」は、その職にある個人を指す場合にも使われます。
石高の条件は、事典ごとに幅があります。下限を2万5千石とするものが多く、精選版 日本国語大辞典と世界大百科事典は上限を10万石とし、日本大百科全書は「3万石から12万石ほど」と書きます。
大老と老中は譜代大名が就く慣例でした。幕末に家門の松平慶永を幕政に入れるときに別の職が新設されたのは、この慣例があったためです(後の章で触れます)。
出世の道筋は、奏者番から寺社奉行を経て、大坂城代や京都所司代へ進み、老中に上るものが知られます。田沼意次のように、側用人から老中へ進む道も1772年(安永元年)に開かれました。

阿部さんは老中を13年余り勤めました。4〜5人で月ごとに当番を回す仕事は、どんな感じでしたか。

当番の月に大事が来れば、結局は皆で額を寄せることになりまする。
一人で決めぬ仕組みとは、一人に責めを負わせぬ仕組みでもござる。
老中首座とは?勝手掛・老中格との違い
老中首座は、老中のなかの筆頭者を指す言い方です。事典は独立の役職としては項目を立てていません。世界大百科事典は「先任者または家門など特別な家柄のものが老中首座として全体を統轄した」と書きます。
| 語 | 何を指すか | 幕末の例 |
|---|---|---|
| 老中首座 | 老中のなかの筆頭者 | 阿部正弘、堀田正睦、久世広周 |
| 勝手掛 | 老中のうち財政を主管する者 | 間部詮勝 |
| 老中格(老中並) | 定員の外で、老中に準じる資格で政務に参与する者 | 小笠原長行、松前崇広、松平乗謨、稲葉正巳 |
参考:老中|コトバンク
参考:勝手掛|コトバンク
参考:老中格|コトバンク
勝手掛は、老中首座と同じ人を指す語ではありません。世界大百科事典によると勝手掛は1680年の堀田正俊に始まり、1761年から常置されて複数の老中が担う形が多くなりました。
幕末の老中首座には、阿部正弘・堀田正睦・久世広周らがいます。
阿部正弘は弘化2年2月(1845年)から安政2年10月(1855年)まで、堀田正睦は安政2年10月から安政5年6月(1858年)まで、久世広周は桜田門外の変のあとに再任されて首座に就きました。
参考:阿部正弘|コトバンク
参考:堀田正睦|コトバンク
久世のころの筆頭は、事典で書き方が分かれます。山川 日本史小辞典と世界大百科事典の「坂下門外の変」は久世を首座・首席とし、デジタル版 日本人名大辞典の「安藤信正」は、安藤を老中筆頭と書きます。
ほかの首座は、Wikipediaの一覧に名前が並びますが、今回確認した事典では1人ずつたどれませんでした。世界大百科事典の「松前崇広」の項が、老中首座として阿部正外を挙げている例があります。

阿部さん、首座を譲っても老中には残りましたね。気持ちは変わりましたか。

なぜ譲ったかと問われれば、いま答えるなら、一つの席に長く座らぬほうが物事は回ると申したいところ。
肩の荷が軽くなったかどうかは、堀田殿に聞いてくだされ。

その堀田さんが、3年ほど後に井伊さんに罷免されるわけですね。

そなたも人が悪い。話をそこへ戻すか。
阿部殿の前で蒸し返されるとは、予も覚悟が足りなんだ。
阿部正弘の最期については、死因の諸説を検証した記事があります。
老中首座としての正弘の歩みを物語で追うなら、祖父江一郎の長編歴史小説があります。
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この作品のポイント
- 作品紹介によると、ペリー来航の難局に向き合った正弘を描く長編歴史小説です
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大老・老中と若年寄・側用人の違いは?幕府のなかの位置
幕府の役職のなかで、大老と老中のすぐ下に置かれたのが若年寄です。老中が大名を軸に全国の支配を受け持ち、若年寄は旗本の支配を受け持ちました。
| 役職 | 老中との関係 | 定員の目安 |
|---|---|---|
| 大老 | 老中の上。臨時に置く | 原則1人 |
| 若年寄 | 老中に次ぐ重職。旗本・御家人を支配 | 3〜5人(幕末には10人以上) |
| 側用人 | 将軍の命を老中に伝え、老中の上申を取り次ぐ | 1人 |
| 大目付 | 1662年以来、老中の支配下。諸大名の監察や法令の伝達にあたる | 4〜5人(幕末には10人) |
| 勘定奉行 | 老中の支配下。三奉行の一つで、幕府の財政にあたる | 4人(ときに3〜5人) |
参考:若年寄|コトバンク
参考:側用人|コトバンク
参考:大目付|コトバンク
参考:勘定奉行|コトバンク
大老・老中・若年寄の3つは、御用部屋で執務した点が共通します。上之間に老中、下之間に若年寄が入りました。1684年に大老の堀田正俊が若年寄の稲葉正休に殺される事件があり、御用部屋は将軍の居室から遠ざけられています。
側用人は、老中とは別の筋で力を持つ職です。将軍と老中の間を取り次ぐ立場にあり、御用部屋が遠ざかったことがその介在を生んだと事典は説明します。

小栗忠順は勘定奉行でした。つまり老中の部下ですね。

勘定奉行は老中の支配下でござる。役目の上では、そうなりましょう。
その小栗なる者は、数字に強い者でござるか。

上下の話なら、それでよかろう。
ただ部下かどうかより、帳面を隠さず見せる者かどうかが肝心じゃ。
阿部殿、そなたの周りには、そういう者が何人おった。

さて、それを数え始めると、帳面が足りませぬな。
井伊殿こそ、まずそなたの見立てを聞かせていただきたい。
幕末の老中一覧33人を時期別に確認
ペリー来航の時点で在職していた老中から慶応4年までを数えると、老中格を含めて33人です。時期は次の3つに分けました。
- 嘉永6年〜安政7年:ペリー来航から桜田門外の変まで(11人)
- 万延元年〜慶応元年:和宮降嫁の交渉から第2次長州征伐の前まで(15人)
- 慶応2年〜慶応4年:15代将軍慶喜の時代と幕府の終わり(7人)
人数は就任の時期で振り分けています。井伊直弼は大老のため表に入れていません。酒井忠績は老中として数えています。
在任の月は、個人サイト「江戸幕府大老・老中一覧」の記載を人物ごとの事典と突き合わせたものです。就任と退任を事典で確かめられたのは21人で、残りは就任の年まで、または一覧サイトの記載によります。
西暦は日付を換算した年で、和暦の12月は翌年になることがあります。
ペリー来航から桜田門外の変まで(嘉永6年〜安政7年)の老中11人
この時期の老中は、開国と将軍継嗣問題の当事者です。上から就任の順に並べました。
| 氏名 | 藩 | 在任 | 主な出来事 |
|---|---|---|---|
| 阿部正弘 | 備後福山 | 天保14年閏9月〜安政4年6月(1843〜1857) | 首座。ペリー来航と日米和親条約。在職のまま死去 |
| 牧野忠雅 | 越後長岡 | 天保14年11月〜安政4年9月(1843〜1857) | 阿部を助けて海防・外交にあたる |
| 松平乗全 | 三河西尾 | 嘉永元年10月〜安政2年8月(1848〜1855)/安政5年6月〜万延元年4月(1858〜1860) | 2度の老中 |
| 松平忠優(忠固) | 信濃上田 | 嘉永元年10月〜安政2年8月(1848〜1855)/安政4年9月〜安政5年6月(1857〜1858) | 2度目に通商条約の締結に関わり、堀田とともに罷免 |
| 久世広周 | 下総関宿 | 嘉永4年12月〜安政5年10月(1852〜1858)/万延元年閏3月〜文久2年6月(1860〜1862) | 井伊と対立して解任。再任後に首座、和宮降嫁 |
| 内藤信親 | 越後村上 | 嘉永4年〜文久2年5月(1851〜1862) | 就任は事典で嘉永4年。一覧サイトは1853年とする |
| 堀田正睦 | 下総佐倉 | 安政2年10月〜安政5年6月(1855〜1858) | 再任して首座。ハリスと通商交渉。1841〜43年にも老中 |
| 脇坂安宅 | 播磨竜野 | 安政4年8月〜万延元年11月(1857〜1860)/文久2年5月〜9月(1862) | 外国事務を担当 |
| 太田資始 | 遠江掛川 | 安政5年6月〜安政6年7月(1858〜1859)/文久3年4月〜5月(1863) | 天保期にも老中。井伊と対立して辞任 |
| 間部詮勝 | 越前鯖江 | 安政5年6月〜安政6年12月(1858〜1860) | 勝手掛兼外国掛。安政の大獄で京都の弾圧を指揮 |
| 安藤信正 | 陸奥磐城平 | 安政7年1月〜文久2年4月(1860〜1862) | 和宮降嫁を推進。坂下門外の変で負傷 |
一覧にすると、直弼の大老在任中の入れ替わりがはっきり見えます。安政5年6月に3人が入り、その3人のうち2人が安政6年のうちに去っています。直弼の死の直前に就いた安藤信正が、次の時代の中心になりました。
和宮降嫁の交渉から第2次長州征伐の前まで(万延元年〜慶応元年)の老中15人
文久・元治の老中は、在任の短い人が増えます。朝廷と攘夷の問題が、そのまま人事に響いた時期です。
| 氏名 | 藩 | 在任 | 主な出来事 |
|---|---|---|---|
| 本多忠民 | 三河岡崎 | 万延元年6月〜文久2年3月(1860〜1862)/元治元年10月〜慶応元年12月(1864〜1866) | 2度の老中。年は一覧サイトによる |
| 松平信義 | 丹波亀山 | 万延元年12月〜文久3年9月(1861〜1863) | 外国御用取扱として生麦事件などを処理 |
| 水野忠精 | 出羽山形 | 文久2年〜慶応2年(1862〜1866) | 水野忠邦の長男。横須賀製鉄所の設立協約に調印 |
| 板倉勝静 | 備中松山 | 文久2年3月〜元治元年6月(1862〜1864)/慶応元年10月〜慶応4年1月(1865〜1868) | 松平定信の孫。大政奉還の建白を取り次ぐ |
| 小笠原長行 | 肥前唐津(世子) | 老中格 文久2年9月〜文久3年6月(1862〜1863)/老中格、老中 慶応元年9月〜慶応2年10月(1865〜1866)/老中 慶応2年11月〜慶応4年2月(1866〜1868) | 生麦事件の償金を独断で支払う。外国事務総裁 |
| 井上正直 | 遠江浜松 | 文久2年10月〜元治元年7月(1862〜1864)/慶応元年11月〜慶応3年6月(1866〜1867) | 2度の老中 |
| 酒井忠績 | 播磨姫路 | 文久3年6月〜元治元年6月(1863〜1864) | のち大老(元治2年2月〜慶応元年11月) |
| 有馬道純 | 越前丸岡 | 文久3年7月〜元治元年4月(1863〜1864) | 家茂の上洛に従う |
| 牧野忠恭 | 越後長岡 | 文久3年9月〜慶応元年4月(1863〜1865) | 京都所司代から老中。外交事務を担当 |
| 稲葉正邦 | 山城淀 | 元治元年4月〜慶応元年4月(1864〜1865)/慶応2年4月〜慶応4年2月(1866〜1868) | 国内事務総裁。一覧で最後に退任した老中 |
| 阿部正外 | 陸奥白河 | 元治元年6月〜慶応元年10月(1864〜1865) | 幕臣から白河藩主へ。兵庫開港問題で勅旨により罷免 |
| 諏訪忠誠 | 信濃高島 | 元治元年6月〜慶応元年4月(1864〜1865) | 老中と老中格の順序は資料で一致しない |
| 本荘宗秀 | 丹後宮津 | 元治元年8月〜慶応2年7月(1864〜1866) | 長州征伐に関わる。休戦交渉で対立し罷免 |
| 松前崇広 | 蝦夷松前 | 老中格、老中 元治元年7月〜慶応元年10月(1864〜1865) | 海陸軍総奉行。兵庫開港問題で勅旨により罷免 |
| 松平康直(康英) | 陸奥棚倉、のち武蔵川越 | 慶応元年4月〜10月(1865)/慶応元年11月〜慶応4年2月(1865〜1868) | 外国奉行から藩主、老中へ。会計総裁 |
水野忠精の就任月は、ブリタニカ国際大百科事典が2月、一覧サイトが3月で、退任月も5月と6月に分かれるため、表は年までにしました。諏訪忠誠の退任も、デジタル版 日本人名大辞典は慶応2年と書きます。
幕臣から藩主を経て老中に進んだ阿部正外と松平康英の名が目立ちます。小笠原長行は、藩主ではなく世子のまま老中格に入りました。奏者番から順に上がる道とは違う人事が、この時期には並んでいます。
阿部正外と松前崇広の罷免は、朝廷の勅旨によるものでした。
参考:松前崇広|コトバンク
慶喜の時代と幕府の終わり(慶応2年〜慶応4年)の老中7人
最後の7人のうち4人は老中格で、陸軍・海軍・会計など分野を持つ人が入っています。
| 氏名 | 藩 | 在任 | 主な出来事 |
|---|---|---|---|
| 松平乗謨(大給恒) | 信濃田野口 | 老中格 慶応2年6月〜慶応4年2月(1866〜1868) | 陸軍総裁。維新後は博愛社の創立に関わる |
| 水野忠誠 | 駿河沼津 | 慶応2年7月〜(1866) | 第2次長州征伐の陣中で老中に任じられ、9月に病死 |
| 稲葉正巳 | 安房館山 | 老中格 慶応2年12月〜慶応4年2月(1867〜1868) | 海軍総裁 |
| 松平定昭 | 伊予松山 | 慶応3年9月〜10月(1867) | 藩主になった3日後に老中。在任は1か月に満たない |
| 大河内正質 | 上総大多喜 | 老中格 慶応3年12月〜慶応4年2月(1868) | 間部詮勝の5男。鳥羽・伏見の戦いで幕軍を指揮 |
| 酒井忠惇 | 播磨姫路 | 慶応3年12月〜慶応4年2月(1868) | 忠績の弟で養子。鳥羽・伏見のあと慶喜とともに江戸へ |
| 立花種恭 | 陸奥下手渡 | 老中格 慶応4年1月〜2月(1868) | 会計総裁。老中格は一覧サイトとWikipediaで確認 |
参考:松平定昭|コトバンク
参考:大河内正質|コトバンク
一覧サイトの日付で数えると、慶応4年2月(1868年)の1か月に老中と老中格の8人が職を退いています。前の表の小笠原長行・稲葉正邦・松平康英を含む数字で、幕閣が一度にほどける様子が表に出ています。

阿部さん、この33人のうち26人は、ご自身の没後に席へ入っています。藩主になって3日後に老中、在任1か月弱という人もいました。

1か月でござるか。月番が一回りもいたしませぬな。
人が軽くなったのではなく、足もとの地面が揺れておったと見たいところ。
幕末の老中たちが向き合った黒船から幕府の終わりまでの流れは、学習まんがの通史でも追えます。
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学習まんが|BOOK☆WALKER
この本の読みどころ
- 作品紹介によると、第11巻は「江戸時代後期」を扱い、【電子特別版】はまんがのみを収録した版です
- 目次は第4章「江戸幕府の終わり」まで続きます。個々の老中がどう描かれるかは、作品紹介からは分かりません
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老中はいつなくなった?五総裁への移行と政事総裁職
老中の仕組みは、慶応3年(1867年)に月番制が廃止され、分野別の五総裁に分かれたことで大きく変わりました。ただし老中の職そのものがいつ消えたかは、今回確認した事典に明記がありません。
| 総裁 | 就いた人 | 確かめられた時期 |
|---|---|---|
| 陸軍総裁 | 松平乗謨(老中格) | 慶応2年12月 |
| 海軍総裁 | 稲葉正巳(老中格) | 慶応2年 |
| 国内事務総裁 | 稲葉正邦 | 慶応3年 |
| 会計総裁 | 松平康英 | 慶応3年5月 |
| 外国事務総裁 | 小笠原長行 | 慶応3年5月 |
参考:会計総裁|コトバンク
参考:陸軍総裁|コトバンク
参考:外国事務総裁|コトバンク
山川 日本史小辞典は月番の廃止を1867年6月とし、ブリタニカ国際大百科事典は慶応2〜3年と幅を持たせています。陸軍総裁と海軍総裁は、それより先の慶応2年末に置かれました。
世界大百科事典によると、勝手掛のほかに老中の間で所管を分ける制度はありませんでした。ただし幕末には、外国掛など担当を持つ老中がすでに並んでいます。
五総裁は、その分担を制度の形にしたものと読めます。
大老のほうは、幕末に別の形をとりました。文久2年(1862年)5月の勅諚は松平慶永を大老にと求めましたが、幕府が7月に任じたのは新設の政事総裁職でした。大老と老中は譜代が就く慣例で、慶永が家門だったためと、世界大百科事典は説明します。
参考:政事総裁職|コトバンク
老中の退任を一覧で追うと、最後に退くのは慶応4年2月21日(和暦)の稲葉正邦です。新潮社の書籍ページも、歴史学者の山本博文『お殿様たちの出世』の目次に「最後の老中稲葉正邦」の見出しを掲げています。

お二人の没後、月番がなくなりました。老中の仕事は五つの総裁に分かれたんです。

月番がなくなったと。
当番の月に黒船が重なる心配だけは、消えたわけでござるな。

予なら、まず誰が決めるのかを聞く。
分けたぶん、最後に引き受ける者が要らなくなるわけではあるまい。
大河『逆賊の幕臣』に出てくる大老と老中は?
2027年の大河ドラマ『逆賊の幕臣』では、井伊直弼を岡部たかしさん、阿部正弘を岩田剛典さんが演じます。小栗忠順と老中の関係を理解するうえで、史実から押さえておきたい点は次の3つです。
- 勘定奉行は老中の支配下で、小栗の役職の上に老中がいる
- 小栗が関わった横須賀製鉄所の設立協約には、老中の水野忠精が調印している
- 大政奉還の建白書は、老中の板倉勝静を通して提出された
参考:逆賊の幕臣 第5次出演者発表|ステラnet
参考:逆賊の幕臣 第3次出演者発表|ステラnet
参考:水野忠精|コトバンク
参考:板倉勝静|コトバンク
小栗と井伊の関係については、東善寺が井伊大老の抜擢を伝えていますが、事典の井伊の項には小栗の名が出てきません。目付は若年寄の配下なので、大老との直接の上下関係としても書けません。
ドラマを見るときは、老中の名前が出たら上の一覧と照らすと、その人がいつまで席にいたかが分かります。
逆賊の幕臣の配役と人物の関係は、こちらの記事にまとめています。
よくある質問(FAQ)
大老と老中の違いは何ですか?
大老は必要なときだけ老中の上に置かれた臨時の職で、定員は原則1人です。老中は常に置かれた職で、定員は4〜5人でした。
大老と老中はどちらが偉いのですか?
役職の順位は大老が上です。ただし大老は月番などを免じられ、ふだんの政務は老中が回していました。
大老は全部で何人いましたか?
日本大百科全書の順では10人、改訂新版 世界大百科事典と山川 日本史小辞典は最初の2人と合わせて9人と数えられます。違いが生じた理由までは確認できませんでした。
最後の大老は誰ですか?
姫路藩主の酒井忠績です。元治2年(1865年)に大老に就き、同じ年の11月に退きました。
老中は何人いましたか?
定員は4〜5人です。ペリー来航の時点から慶応4年までの在職者は、本記事の数え方で老中格を含めて33人でした。
老中になる条件は何ですか?
2万5千石以上の譜代大名とする事典が多数です。上限を10万石とする事典もあります。
老中首座とは何ですか?
老中のなかの筆頭者を指す言い方です。世界大百科事典は、先任者または家門など特別な家柄の者が全体を統轄したと書きます。
五大老と大老は同じものですか?
別の制度です。五大老は豊臣氏の職で、本記事の大老は江戸幕府の職です。日本大百科全書は、豊臣氏にも五大老があったと並べて記しています。
最後の老中は誰ですか?
一覧サイトの退任日では、慶応4年2月の稲葉正邦が最後です。新潮社の書籍ページも「最後の老中稲葉正邦」の見出しを紹介しています。
インタビュー後記 空席の17年
幕末の話は、大老だった井伊直弼にどうしても目が行きます。
ただ、幕府の揺れを測るなら、大老よりも老中の在任の短さを見たほうが分かりやすいと私は思います。月番を回すだけの人数が、席に落ち着いていられなくなっていくのが、3つの表を並べると目で追えるからです。
もう一つ、ペリー来航の年に大老が空席だったことは、もっと知られてよい事実だと考えています。
最高位の席が空いていても幕府は動き、席が埋まると老中が動かされる。この順番は、役職の上下を覚えるだけでは見えてきません。
大老がいない幕府といる幕府のどちらが強かったかと問われたら、私は、席の空いていた阿部の時代のほうに幕府の粘りを感じます。
一人に預けなくても、4〜5人で黒船に向き合えた。そこを評価したいからです。
参考資料
- コトバンク「大老」※定義、定員、起源、四家、職掌、歴代の数え方、格式の根拠(デジタル大辞泉・精選版 日本国語大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典・マイペディア・ブリタニカ国際大百科事典・山川 日本史小辞典)
- コトバンク「老中」※定義、呼称、1634年の覚、定員、月番、就任条件、役料、老中首座、所管の分掌の根拠
- コトバンク「老中格」※定員外で老中に準じる職の根拠
- コトバンク「勝手掛」※1680年の堀田正俊、1761年の常置、1867年の廃止の根拠
- コトバンク「月番」※1635年の職掌規定、1867年6月の廃止の根拠
- コトバンク「御用部屋」※上之間・下之間、1684年の移転の根拠
- コトバンク「若年寄」※職掌、定員、老中との分掌の根拠
- コトバンク「側用人」※職掌、定員、田沼意次の老中昇進の根拠
- コトバンク「大目付」※老中支配、定員、職掌の根拠
- コトバンク「奏者番」※譜代大名の昇進の道筋の根拠
- コトバンク「勘定奉行」※老中支配、定員の根拠
- コトバンク「政事総裁職」※松平慶永の任命、大老との関係の根拠
- コトバンク「会計総裁」※松平康英の任命、『徳川禁令考』の三総裁の根拠
- コトバンク「陸軍総裁」※松平乗謨の就任、勝海舟への交代の根拠
- コトバンク「外国事務総裁」※小笠原長行の就任の根拠
- コトバンク「将軍継嗣問題」※堀田正睦の上申と井伊直弼の大老就任の根拠
- コトバンク「井伊直弼」※大老就任日、条約調印の根拠
- コトバンク「阿部正弘」※幕末の老中一覧の藩・就任年・退任年・在任中の出来事の根拠
- コトバンク「牧野忠雅」※幕末の老中一覧の藩・就任年・退任年・在任中の出来事の根拠
- コトバンク「松平乗全」※幕末の老中一覧の藩・就任年・退任年・在任中の出来事の根拠
- コトバンク「松平忠固」※幕末の老中一覧の藩・就任年・退任年・在任中の出来事の根拠
- コトバンク「久世広周」※幕末の老中一覧の藩・就任年・退任年・在任中の出来事の根拠
- コトバンク「内藤信思」※幕末の老中一覧の藩・就任年・退任年・在任中の出来事の根拠
- コトバンク「堀田正睦」※幕末の老中一覧の藩・就任年・退任年・在任中の出来事の根拠
- コトバンク「脇坂安宅」※幕末の老中一覧の藩・就任年・退任年・在任中の出来事の根拠
- コトバンク「太田資始」※幕末の老中一覧の藩・就任年・退任年・在任中の出来事の根拠
- コトバンク「間部詮勝」※幕末の老中一覧の藩・就任年・退任年・在任中の出来事の根拠
- コトバンク「安藤信正」※幕末の老中一覧の藩・就任年・退任年・在任中の出来事の根拠
- コトバンク「本多忠民」※幕末の老中一覧の藩・就任年・退任年・在任中の出来事の根拠
- コトバンク「松平信義」※幕末の老中一覧の藩・就任年・退任年・在任中の出来事の根拠
- コトバンク「水野忠精」※幕末の老中一覧の藩・就任年・退任年・在任中の出来事の根拠
- コトバンク「板倉勝静」※幕末の老中一覧の藩・就任年・退任年・在任中の出来事の根拠
- コトバンク「小笠原長行」※幕末の老中一覧の藩・就任年・退任年・在任中の出来事の根拠
- コトバンク「井上正直」※幕末の老中一覧の藩・就任年・退任年・在任中の出来事の根拠
- コトバンク「酒井忠績」※幕末の老中一覧の藩・就任年・退任年・在任中の出来事の根拠
- コトバンク「有馬道純」※幕末の老中一覧の藩・就任年・退任年・在任中の出来事の根拠
- コトバンク「牧野忠恭」※幕末の老中一覧の藩・就任年・退任年・在任中の出来事の根拠
- コトバンク「稲葉正邦」※幕末の老中一覧の藩・就任年・退任年・在任中の出来事の根拠
- コトバンク「阿部正外」※幕末の老中一覧の藩・就任年・退任年・在任中の出来事の根拠
- コトバンク「諏訪忠誠」※幕末の老中一覧の藩・就任年・退任年・在任中の出来事の根拠
- コトバンク「本荘宗秀」※幕末の老中一覧の藩・就任年・退任年・在任中の出来事の根拠
- コトバンク「松前崇広」※幕末の老中一覧の藩・就任年・退任年・在任中の出来事の根拠
- コトバンク「松平康英」※幕末の老中一覧の藩・就任年・退任年・在任中の出来事の根拠
- コトバンク「水野忠誠」※幕末の老中一覧の藩・就任年・退任年・在任中の出来事の根拠
- コトバンク「大給恒」※幕末の老中一覧の藩・就任年・退任年・在任中の出来事の根拠
- コトバンク「稲葉正巳」※幕末の老中一覧の藩・就任年・退任年・在任中の出来事の根拠
- コトバンク「松平定昭」※幕末の老中一覧の藩・就任年・退任年・在任中の出来事の根拠
- コトバンク「大河内正質」※幕末の老中一覧の藩・就任年・退任年・在任中の出来事の根拠
- コトバンク「酒井忠惇」※幕末の老中一覧の藩・就任年・退任年・在任中の出来事の根拠
- コトバンク「立花種恭」※幕末の老中一覧の藩・就任年・退任年・在任中の出来事の根拠
- 姫路市立城郭研究室「酒井家文書」※酒井忠績を「江戸時代最後の大老」とする記述の根拠
- 彦根城博物館「井伊直弼の大老政治について」※堀田正睦の進言と将軍家定の判断の根拠
- いわき市「市公式Facebook連載シリーズ『安藤信正生誕200年』」※安藤信正の老中就任、文久2年4月の御役御免の根拠
- 誠之館同窓会「阿部正弘」年譜(PDF)※阿部正弘の老中就任、老中首座の在任の根拠
- 新潮社「お殿様たちの出世 江戸幕府老中への道」(山本博文、新潮選書)※目次の「最後の老中稲葉正邦」の根拠。本文は確認していません
- 「江戸幕府大老・老中一覧」(個人サイト)※在任の月の突き合わせに使用
- Wikipedia「老中格」※立花種恭の老中格の突き合わせに使用
- 東善寺「小栗上野介の略歴」※井伊大老の抜擢という伝え、勘定奉行の就任の根拠
- ステラnet「逆賊の幕臣」第5次出演者発表※阿部正弘の配役の根拠
- ステラnet「逆賊の幕臣」第3次出演者発表※井伊直弼の配役の根拠







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