2026年5月、NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』を見ていて、思わず声が出ました。画面の中の武田信玄が、史料には見当たらない意外な最期を迎えたからです。
放送直後のSNSは大いににぎわいました。私も歴史マニアの端くれとして、「そもそも信玄の死因は何だったのか」と、あらためて資料を読み直すことになりました。
そして調べるほどに、不思議に思えてきました。これほど名の知られた武将なのに、最期の状況、とりわけ死因がはっきりしないのです。
この記事の結論
武田信玄の死因は、今も確定していません。大きく病死説と狙撃説があり、いずれも定説にはなっていません。
病死説では、労咳(肺結核)のほか、胃がん・食道がん、日本住血吸虫症を推定する見方があります。長く通説とされてきたのは労咳説です。
確定できないのは、現代の病名に対応する診断記録が残っておらず、根拠となる史料にも成立時期や伝来上の制約があるためです。症状の記述を現代医学に置き換えること自体にも限界があります。
- 満51歳
没年齢(数え年53歳) - 約半年
出陣から死去まで - 1573年
撤退の途中で死去
この記事では、4つの説と侍医の書状を、根拠の史料とあわせて検証します。さらに、西上作戦から最期の地・駒場までの半年間、「死を3年間秘せよ」という遺言の真偽、墓所の謎、そしてドラマで描かれた最期までたどっていきます。
そして今回は、武田信玄AI(武田信玄をモデルにしたAI)にも登場してもらいます。病の名は名乗らず、体の具合だけを語る対話としてお読みください。
死因とあわせて、信玄が遺したとされる言葉のほうも「人は城」「風林火山」を含めて出典をたどっています。
※以下のインタビュー部分は、公開されている史料をもとに武田信玄の人物像を再現した創作です。史料で確認できない心情や受け止め方を補った創作的な対話であり、実際の発言をそのまま掲載したものではありません。
出典の確かめ方と、公開前に行っているチェックは編集方針にまとめています。

風林火山の旗でおなじみの信玄さんと、こうしてお話しできるとは……。よろしくお願いします。
さっそく核心からうかがいます。西へ兵を進めていた途中で、軍を返されました。あのとき、お体はどんな具合だったのでしょうか。

武田信玄じゃ。甲斐の山国に生まれ、信濃をおおむね従え、晩年は西へ兵を進めた身よ。……いきなり体の具合からとは、遠慮のない問いじゃのう。じゃが、よい。
陣中で病が重うなったと書かれ、西へは進めずに兵を返した。伝わっておるのは、そこまでと聞く。侍医の書状も、今に残るのは写しじゃそうな。
戦の退き際なら、いくらでも語れる。じゃが己の体のこととなると、語れることは驚くほど少ない。答えられぬところは答えられぬと申すゆえ、何なりと聞くがよい。
武田信玄の死因は?4つの説と史料を一覧で確認
まず、これまでに唱えられてきた説を一覧にしてみましょう。国立国会図書館の「レファレンス協同データベース」でも、信玄の死因については病死説と狙撃説の両方が紹介されています。
| 説 | 内容 | 主な根拠 | 現在の評価 |
|---|---|---|---|
| ① 労咳(肺結核)説 | 血を吐いた記述を喀血(肺からの出血)と読む | 史料にある「血を吐いた」という記述 | 長く通説とされてきたが、断定はできない |
| ② 胃がん・食道がん説 | 血を吐いた記述を吐血(胃・食道からの出血)と読む | 『甲陽軍鑑』(江戸初期の軍記物) | 挙げられている解釈の1つ |
| ③ 日本住血吸虫症説 | 後世に甲府盆地の風土病として知られた病にかかっていたとみる | 後世に本拠地周辺で流行した病だったという地域的事情 | 信玄の時代の流行や罹患を示す史料は確認されていない |
| ④ 鉄砲による狙撃説 | 野田城攻めの際に徳川方に撃たれたとする | 『松平記』(後世の軍記物) | 信頼できる一次史料には確認できない |
| (参考)侍医の書状 | 「肺肝」に病があったという記載。説そのものではなく、病死説を考える手がかり | 侍医の書状(写) | 現代の病名には置き換えられない |
表の①から④が、これまでに唱えられてきた主な説です。最後の侍医の書状は死因説そのものではなく、病死説を検討するための史料にあたります。
医師の側からの検討もあります。版元の紹介によれば、作家で医師でもある篠田達明氏の『「武田信玄」病死ミステリー』(新潮社)は、労咳・肝臓病・鉄砲外傷・日本住血吸虫病・末期がんの諸説を、文献をもとに検討した一編です。
そのうえで表を見ると、どの説にも「同時代の確かな史料」という決め手がないことが分かります。
歴史研究家の渡邊大門氏も、いずれの説も決定的な証拠を欠いており、死因は依然として不明だと結論づけています。
つまり「死因はこれだ」と断定した時点で、史料から離れてしまうのです。次の章では、どの説がどの史料に基づくのかを1つずつ確かめていきます。

労咳に胃の腑の病、土地の病、はては鉄砲。四つも並べられては、儂の陣立てよりにぎやかじゃのう。
決め手がないなら、決めぬのが正しい。物見も出さずに、分からぬ城へ攻めかかる者はおらぬ。
……とはいえ、総大将の死にざまが四つに割れておるのは、少々きまりが悪いわ。
武田信玄の死因を史料から検証する
ここからは、表に挙げた4つの説を順に検証していきます(侍医の書状は①のなかで扱います)。読み解きのポイントは次の3つです。
- 「血を吐いた」という記述を、喀血(肺から)と読むか、吐血(胃や食道から)と読むか
- 根拠になっている史料が、同時代の一次史料か、後世の軍記物か
- 現代の病名を、400年以上前の症状の記述に当てはめることの限界
この3つを頭に置きながら、1つずつ史料と一緒に見ていきましょう。
① 労咳(肺結核)説
最も古くから知られているのが、労咳(ろうがい)、つまり肺結核とする説です。長いあいだ通説として扱われてきました。
根拠とされるのは、史料にある「血を吐いた」という記述です。これを肺からの出血(喀血)と読めば、結核をはじめとする肺の病が候補に挙がります。
ただし、ここに落とし穴があります。同じ「血を吐く」でも、喀血か吐血かで疑われる病気はまったく変わるのです。
現存する関連記録には症状の記述はありますが、現代の病名に対応する診断記録は残っていません。労咳と読めるのは、あくまで後世の解釈です。
なお、侍医・御宿監物(みしゅく けんもつ)の書状の写しには、信玄の「肺肝」に病があったという記載があるとされます。
ただ、この「肺肝」も現代の病名にそのまま置き換えられる言葉ではありません。労咳説は長く通説とされてきましたが、断定できる段階にはありません。
日本大学医学部教授(刊行当時)で、医史学(医学の歴史)も専攻する早川智氏の『戦国武将を診る』(朝日新聞出版、2016年)は、目次に「武田信玄―本当は痩せていた?‐結核」という項を立てています。
目次から分かるのは、信玄の項で結核を取り上げていることまでです。
参考:戦国武将を診る 源平から幕末まで、歴史を彩った主役たちの病|紀伊國屋書店

野田城を攻め落とした直後から、たびたび血を吐かれたと伝わっています。この記述は、どこまで確かなものなのでしょうか。

野田の城が開いたあとから、たびたび血を吐いた。後の世の軍記には、そう書かれておるそうじゃな。じゃが肺から出たか、胃や食道から出たか、その書きぶりだけでは分けられまい。
野田攻めに手間取ったのも病ゆえ、と申す者がおるそうな。城攻めに手間取る理由なら、城の構えに兵糧、城兵の粘りと、いくらでも挙げられる。病ひとつに帰するのは、後から振り返っての推し量りであろう。
儂の身に何が起きておったか、確かなことを申せる者は、儂を含めて誰もおるまい。
② 胃がん・食道がん説
挙げられている説の1つが、胃がん・食道がん説です。『甲陽軍鑑』の記述をもとに、吐いた血を喀血ではなく吐血と読む見方です。
吐血であれば、出血元は肺ではなく胃や食道になります。医療関係者のコラムにも、従来の肺結核説に対して「実は食道ガンあるいは胃ガンではなかったのか」と述べるものがあります。
ただし、根拠となる『甲陽軍鑑』の性格には注意が必要です。同書は江戸初期に成立した軍記物で、信玄と同時代の一次史料ではありません。
さらに、診察も検査もできない過去の人物について、現代の病名を推定することには限界があります。現時点では、症状の記述から推定した説にとどまります。
胃がん・食道がん説は、症状の記述に対する解釈の1つです。確定した事実ではありません。
それでも、医療の側からこの説を推す声はあります。東京大学特任教授の中川恵一氏は、日本経済新聞の連載「がん社会を診る」(2023年6月14日)で、信玄の「死因は胃がんの可能性が高いとされています」と述べています。
参考:信玄と家康、死因は胃がん? ピロリ菌感染の疑い|日本経済新聞

侍医の書状の写しには、「肺肝」に病があったと書かれているそうです。いまの病名には置き換えられない言葉だと言われています。

肺肝とのう。じゃが儂は、己の腹の内を開いて見たわけではない。喀血か吐血か、言い当てる術は持たぬ。
それに、その書状も今に伝わるのは写しじゃ。写し一枚を頼りに病の名を決めるのは、物見の噂だけで陣を張るようなもの。儂なら、そういう陣は張らぬ。
書きぶりをどう読むかは、そなたらに任せるほかなかろう。
③ 日本住血吸虫症説
3つ目は、日本住血吸虫症(にほんじゅうけつきゅうちゅうしょう)説です。挙げられている説の1つで、ほかとは着眼点が異なります。
日本住血吸虫症は、後世に甲府盆地の風土病(その土地に特有の病気)として知られた病気です。後世に、信玄の本拠地だった甲府盆地で流行した病であることから、死因と結びつける見方が生まれました。
国立感染症研究所(現・国立健康危機管理研究機構)の研究者による解説でも、甲府盆地は国内の旧流行地の一つに挙げられています。
参考:住血吸虫症|国立健康危機管理研究機構 感染症情報提供サイト
この解説は病気一般についてのもので、信玄には触れていません。
ただし、この説の弱点ははっきりしています。信玄の時代の流行や、本人が罹患したことを示す史料は確認されていません。症状の記録と結びつけて論じられる段階にはないのです。
後世に知られた風土病という状況からの推測であり、ほかの説と並ぶ仮説の1つとして押さえておくのがよさそうです。
とはいえ、出身地の環境から病気の可能性を考えるという視点は、この説ならではのものです。死因をめぐる議論の広がりを示す一例と言えるでしょう。

甲府盆地は、後の時代に日本住血吸虫症という風土病で知られた土地です。その病にかかっていたのではないか、という説があります。

甲斐の土地が、のちの世にそのような病で知られたと申すか。……それは聞き捨てならぬ話じゃ。
じゃがな、後の世にその病で知られた、というだけで儂の身と結ぶのは早かろう。儂がその病にかかっておったと書き残されたものがあるのなら、ぜひ見せてもらいたいものよ。
病が潜む土地なら、兵も田も痩せる。儂の死因かどうかより、そちらの勘定のほうが気にかかる。
④ 鉄砲で撃たれたとする狙撃説
病死説とはまったく毛色が違うのが、鉄砲で撃たれたとする狙撃説です。
軍記物『松平記』には、野田城を攻めていた信玄が、城から聞こえる笛の音に誘われて近づいたところを、徳川方の鳥居三左衛門に撃たれたと記されています。
このほかに、野田城が落城する際の銃撃が原因だとする別の説もあります。
ただし、評価は厳しめです。渡邊大門氏は、狙撃説が信頼できる一次史料には確認できないことを指摘しています。
『松平記』は『甲陽軍鑑』と同じく後世の軍記物で、同時代の書状などで裏づけられているわけではありません。劇的な筋書きではありますが、裏づけの乏しい説です。
次の章では、この野田城攻めを含む最期までの半年間を、時系列で追っていきます。

笛の音に誘われて城に近づいたところを撃たれた、という話が残っています。ずいぶん劇的な筋書きですが、心当たりはありますか。

ほう、そのような筋書きが出回っておるのか。笛の音に誘われて城際まで出た、とな。風流な死にざまを用意してくれたものよ。
攻めておる城の間近へ総大将が出るのは、負けぬ戦の心得からいちばん遠い振る舞いじゃ。とはいえ、鉄砲の玉はどこから飛んでくるかわからぬ。なかったと言い切る証を、儂は持っておらぬ。
劇的な話ほど、人はよう覚えるものじゃ。真偽は、儂の口からは決められぬ。
武田信玄の最期|西上作戦から駒場までの半年
信玄の最期を理解するには、亡くなるまでの半年間の動きを押さえるのが近道です。元亀3年(1572年)10月、信玄は大軍を率いて甲府を出陣しました。世に言う西上作戦です。
出陣から死去までの流れを、表で確認しましょう。
| 年月日 | 出来事 | 解説 |
|---|---|---|
| 元亀3年(1572年)10月 | 甲府を出陣 | 大軍を率いて甲斐を発ち、遠江へ向かう |
| 元亀3年(1572年)12月 | 二俣城が開城 | 浜松市の資料では、11月に二俣城攻めを開始したとされる |
| 元亀3年(1572年)12月22日 | 三方ヶ原の戦いで徳川家康を破る | 西暦では1573年1月25日にあたる |
| 元亀4年(1573年)初め | 野田城を攻略 | 『甲陽軍鑑』などをもとに、このころから病状が悪化したとされる |
| 元亀4年(1573年)冬〜春 | 長篠城で療養したと伝わる | 全軍が駐屯したまま動けなくなったとされる |
| 元亀4年(1573年)春 | 甲斐への全軍撤退が決まったと伝わる | 近習・一門衆の合議によるとされる |
| 元亀4年4月12日(西暦1573年5月13日) | 信濃国駒場で死去したとする説が有力 | 三河街道を戻る途中。満51歳(数え年53歳) |
表のとおり、転機は野田城でした。新城市は、この野田城攻めを信玄最期の城攻めとして紹介しています。攻略に時間がかかった理由を、病状の悪化に求める見方もあります。
野田城の攻略後、信玄は長篠城で療養したと伝わりますが、回復には至らなかったとされます。全軍が動けないまま時が過ぎ、甲斐への撤退が決まったのは春になってからでした。
死没地は駒場(現在の長野県下伊那郡阿智村)とするのが有力です。侍医・御宿監物の書状の写しに、臨終の地として駒場が記されています。
ただし、死没地には浪合や根羽とする説もあります。最期の地にさえ諸説があることが、信玄の死の分かりにくさを物語っています。

三方ヶ原で家康さんを破ったあたりまでは、軍は順調に進んでいたように見えます。野田城のあたりから、何が変わっていったのでしょうか。

三方ヶ原までは、軍は西への進軍を続けておった。変わったのは野田からよ。攻め落とすのに存外手間がかかったと、後の書きものにも記されておるそうじゃな。長篠に留まって体を養うたと伝わるのも、そのころのことであろう。
大軍というものは、将が動かねば動けぬ。動けぬ大軍は兵糧を食うばかりで、国が痩せる。甲斐へ引くと決まったのは春と聞くが、その談合に儂がどこまで関わったかとなると、確かなことは申せぬ。
西へ進む道が、そこで途切れた。言い切れるのは、それだけよ。……して、そなたの退き際はどこじゃ。

正直に言うと、始めたことほど、やめどきが決められません。

それでよい。退くと決めるのは、進むと決めるより重いものじゃ。
もっとも、儂の最後の退き際を決めたのが儂であったかどうかは、いま申したとおり、確かではないのじゃがな。
「三年間、死を秘せよ」の遺言は本当か
信玄の死をめぐって必ず語られるのが、『甲陽軍鑑』に記された遺言です。内容は大きく2つあります。
- 自分の死を、3年間は秘匿すること
- 遺骸を諏訪湖に沈めること
この遺言はドラマや小説で繰り返し描かれ、信玄のイメージの一部になっています。諏訪湖の「水中墓伝説」も、この記述から生まれたものです。
ただし、この遺言が信玄の実際の発言だったかは確認できません。研究上も、記述をそのまま史実として扱うことはできないと指摘されています。
『甲陽軍鑑』は江戸初期に成立した軍記物で、武田の重臣・高坂昌信に仮託された書物です(仮託=実際の作者とは別の人物の著作という形をとること)。
つまり、信玄の言葉をその場で書きとめたような史料ではありません。遺言の内容も、そのまま事実として受け取ることはできないのです。
遺骸の扱いにも諸説があります。駒場にあたる長野県阿智村の長岳寺には、遺骸を安置したという伝承が残り、火葬に関わった寺としても語られてきました。
天正4年(1576年)4月、勝頼は菩提寺の恵林寺で信玄の葬儀を行っています。恵林寺は「遺言通り三年間の秘喪の後」と伝えており、死去から約3年後のことでした。

恵林寺は、葬儀を「遺言通り三年間の秘喪の後」に行ったと伝えています。葬儀は亡くなって約3年後の1576年でした。

寺がそう伝えておるのか。じゃが、儂がまことにそう申したかどうか、請け合う術は誰にもあるまい。
ただな、死を伏せる理屈そのものは、負けぬ戦の道理にかなう。大将の死が知れれば敵は勢いづき、国衆の心も揺れよう。跡継ぎの備えが調うまで喪を伏せるのは、筋の通った話じゃ。
ゆえに後の者が、信玄ならそう言い残すはずだと考えたのやもしれぬ。まことのところは、決めかねるがの。
武田信玄の死後、武田家はどうなったのか
信玄の死後、家督は四男の武田勝頼が継ぎました。その後の武田家の歩みを、まず年で追ってみましょう。
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 天正3年(1575年)4月12日 | 勝頼が信玄の三回忌の仏事を行う |
| 天正3年(1575年) | 長篠の戦いで織田・徳川連合軍に大敗する |
| 天正4年(1576年)4月 | 勝頼により恵林寺で信玄の葬儀が行われる |
| 天正10年(1582年) | 織田・徳川の侵攻を受け、勝頼の死により甲斐武田氏は戦国大名として滅亡する |
よく「信玄が死んだから武田家は滅びた」と語られます。ただ、これは因果を単純にしすぎた見方です。
長篠の敗戦も、その後の情勢の変化も、勝頼の代に起きた出来事です。確かなのは、信玄の死から9年後に、甲斐武田氏が戦国大名として滅亡したという事実です。
滅亡までの9年間に何があったのかは、それ自体が大きなテーマです。ここでは、信玄の死と甲斐武田氏の滅亡をひとつづきの因果として語らないことを、心に留めておきましょう。

亡くなったあとのことをうかがうのは、酷かもしれません。あなたが亡くなって2年後、勝頼さんは長篠で織田・徳川の連合軍に大敗します。

……長篠で、か。尾張と三河を一度に相手にしたのじゃな。
甲斐は山国で、実りが乏しい。一度の大敗が、そのまま国の力を削いでいく土地じゃ。いま問われれば、勝つより負けぬことを先に置け、と答えたいところじゃ。
じゃが、あれがなぜ戦うと決めたかは、あれ自身のものであろう。その場におらぬ儂が、あとから采配をあげつらうのは見苦しい。
武田信玄の墓はどこにあるのか
信玄の墓とされる場所は、実は全国にあります。死を秘したという伝承や、埋葬地を秘密にしたという伝承が、各地の墓所・供養地の成立に影響したともみられています。
- 恵林寺(山梨県甲州市):菩提寺。天正4年(1576年)に葬儀が行われた
- 武田信玄公墓所(山梨県甲府市岩窪町):死を隠していた3年間、遺体を葬っていたと言われる場所。火葬塚とも呼ばれる
- 大泉寺(山梨県甲府市)
- 長岳寺(長野県下伊那郡阿智村):駒場で亡くなった信玄の遺骸を安置したという伝承が残る
- 竜雲寺(長野県佐久市)
- 諏訪湖(長野県):遺骸を沈めたとする「水中墓伝説」が残る
このほか、高野山(和歌山県)、福田寺(愛知県)、妙心寺(京都府)などにも墓や供養の地があります。
注目したいのは、山梨県内だけでも複数の伝承地があることです。甲府市の公式サイトも、信玄の墓が全国にあることを紹介しています。
どこか1か所を「本物の墓」と断定することはできません。死を秘したという伝承そのものが、各地に墓や供養の地を生む土壌になったともみられています。
大河ドラマで描かれた「餅」の最期はどこまで史実か
2026年5月放送のNHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』第17回「小谷落城」で、信玄が餅をのどに詰まらせて急死する場面が描かれました。
Lmaga.jpは、SNS上の反応として「新鮮過ぎるぞ」「餅で殺すという脚本、おそろしいぜ」といった投稿を紹介しています。信玄餅との関連を、冗談めかして語る投稿もあったそうです。
ドラマの描写と史料の伝えることを、並べて整理してみましょう。
| 観点 | ドラマ『豊臣兄弟!』 | 史料が伝えること |
|---|---|---|
| 最期の場面 | 餅をのどに詰まらせて急死する | 『甲陽軍鑑』などでは、野田城攻略後に病状が悪化し、撤退の途中に亡くなったと伝えられる |
| 根拠 | ドラマ独自の解釈 | 後世の記録にもとづく。ただし死因は確定していない |
餅をのどに詰まらせたとする記録は、史料には確認できません。この場面は、ドラマ独自の解釈です。
ただ、私はこれを脚本の落ち度だとは思いません。死因が確定していないからこそ、創作には空白を埋める余地が生まれるのです。
脚本が空白をどう埋めたのかを知り、史料が語れる範囲はどこまでかも知っておく。この二つを分けて持っておけば、餅の場面は「そう来たか」と楽しめます。

2026年の大河ドラマでは、あなたは餅をのどに詰まらせて急死する姿で描かれました。SNSでは、信玄餅と結びつける声まで出ています。

ほっほ、餅とのう。しかも儂の名を冠した餅まであると申すか。いや、責める気は起きぬわ。死にざまの定かでない男の話は、語る者が思い思いに埋めていくものでな。
鉄砲と語る者もおれば、餅と語る者もおる。ただ、総大将が餅を詰まらせるまで、近習どもは何をしておったのか。儂にはそちらのほうが気がかりじゃ。
せめてその餅、うまい餅であってほしいものよ。
武田信玄は何をした人だったのか|生涯のふり返り
ここまで死因の話を続けてきましたが、最後に、信玄がどんな生涯を送った人だったのかを駆け足でふり返ります。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 名前 | 武田信玄(たけだ しんげん)。出家前の名は武田晴信、法名は徳栄軒信玄 |
| 生没年 | 1521年12月1日〜1573年5月13日(満51歳没・数え年53歳) |
| 出身 | 甲斐国(現在の山梨県) |
| 主な功績 | 信濃の平定、分国法「甲州法度之次第」の制定、治水や金山開発などの領国経営 |
信玄は甲斐の守護大名・武田信虎の嫡男として生まれました。天文10年(1541年)、父・信虎を駿河へ追放して家督を継ぎます。
その後は信濃へ進出しました。村上義清には上田原の戦い(1548年)や砥石崩れ(1550年)で敗れていますが、のちに信濃をおおむね平定します。
越後の上杉謙信とは、川中島でたびたび戦いました。1553年から1564年にかけて5回とされ、特に有名なのが1561年の第四次の戦いです。
川中島で信玄と戦い続けたその上杉謙信も、最期については死因が定まっていません。
内政では、分国法「甲州法度之次第」を定めたほか、釜無川の堤づくりや金山の開発など、領国経営にも力を入れました。この堤は後世「信玄堤」と呼ばれています。
信玄の人の使い方や領国の治め方については、作家の童門冬二氏が語った講演の音声があります。
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オーディオブック|Audible
『聴く歴史・戦国時代「人事と治世の天才・武田信玄」』
この作品の聴きどころ
- 信玄の人事と治世に焦点を当てた講演
- 戦略・知略で知られる信玄の「凄さ」を、講師の見方で語る
- 講師は歴史小説を多く手がけた作家の童門冬二氏
Audibleの聴き放題に入っています(2026年9月29日時点。対象は入れ替わることがあります)。30日間の無料体験があります。
※無料期間が終わると通常料金で自動更新されます。
軍旗の「風林火山」は、『孫子』の「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山」に由来する言葉です。
なお「人は城、人は石垣、人は堀」の歌は『甲陽軍鑑』に載るもので、後世に信玄の言葉として伝えられたものです。信玄本人の作かどうかは断定できません。
永禄11年(1568年)には駿河へ侵攻し、元亀3年(1572年)に西上作戦を開始します。その西上作戦を中止し、撤退する途中で亡くなったことは、ここまで見てきたとおりです。
よくある質問(FAQ)
武田信玄の死因は何ですか?
確定していません。労咳(肺結核)・胃がん・食道がん・日本住血吸虫症などの病死説と、鉄砲で撃たれたとする狙撃説があります。
いずれも決め手となる史料がなく、死因は不明とされています。
武田信玄は何歳で亡くなりましたか?
満51歳です(数え年では53歳。「享年53」と書かれます)。元亀4年4月12日(西暦1573年5月13日)に亡くなりました。
武田信玄はどこで亡くなりましたか?
信濃国駒場(現在の長野県下伊那郡阿智村)とするのが有力です。侍医の書状の写しに、臨終の地として駒場が記されています。
ただし、浪合や根羽で亡くなったとする説もあります。
武田信玄が餅をのどに詰まらせて亡くなったというのは本当ですか?
史料には確認できません。2026年放送の大河ドラマ『豊臣兄弟!』で描かれた、ドラマ独自の解釈です。
『甲陽軍鑑』などでは、野田城攻略後に病状が悪化し、撤退の途中に亡くなったと伝えられています。
「死を3年隠せ」という遺言は本当にあったのですか?
『甲陽軍鑑』に記されていますが、信玄の実際の発言だったかは確認できません。同書は後世に成立した軍記物です。
遺骸を諏訪湖に沈めるようにという記述も同書にあり、諏訪湖の水中墓伝説のもとになりました。
武田信玄の墓はどこにありますか?
菩提寺の恵林寺(山梨県甲州市)をはじめ、甲府市岩窪町の墓所・大泉寺・長岳寺・諏訪湖など、各地に墓や供養の地があります。
死を秘したという伝承や、埋葬地を秘密にしたという伝承が、その成立に影響したともみられています。
インタビュー後記|武田信玄の最期から見えてくるもの
信玄AIと一緒に死因と最期をたどってきて、行き着いたのは「分からない」という結論でした。
その結論が、思っていた以上に重く感じられます。信玄ほどの人物でも、現存する記録に残っているのは症状の記述までで、現代の病名に対応する診断は残っていませんでした。
だからこそ、労咳説も胃がん説も狙撃説も、そして餅の描写さえも生まれる余地がありました。死因の空白は、後世の想像力を刺激し続けているのです。
症状までは分かって、病名は分からない。この距離を、埋めずにそのまま置くことにしました。埋めようとした瞬間に、それは史料ではなく創作になってしまうからです。
参考資料
- 国立国会図書館 レファレンス協同データベース「武田信玄の最後の状況について知りたい」※死因に定説がないこと、病死説と狙撃説
- Yahoo!ニュース エキスパート/渡邊大門「武田信玄は鉄砲で撃たれたのか?死因をめぐる通説のウソとホント」※狙撃説と『松平記』、侍医の書状、死因は不明とする結論
- 末広医院「医療の歴史(73) 武田信玄と上杉謙信」※喀血か吐血かをめぐる胃がん・食道がん説
- 新潮社「「武田信玄」病死ミステリー」(篠田達明、新潮45 eBooklet 教養編2、2008年配信。初出は『新潮45』2007年4月号)※医師でもある著者が労咳・肝臓病・鉄砲外傷・日本住血吸虫病・末期がんの諸説を文献から検討していること。本記事は版元の内容紹介で確認し、本文は確認していません
- 紀伊國屋書店「戦国武将を診る 源平から幕末まで、歴史を彩った主役たちの病」(早川智、朝日新聞出版、2016年)※著者の経歴と、目次の「武田信玄―本当は痩せていた?‐結核」の項。本記事は目次で確認し、本文は確認していません
- 日本経済新聞「信玄と家康、死因は胃がん? ピロリ菌感染の疑い」(中川恵一、連載「がん社会を診る」、2023年6月14日)※信玄の死因を胃がんの可能性が高いとする記述。会員限定の記事で、本記事が確認したのは無料公開の部分です
- 国立健康危機管理研究機構 感染症情報提供サイト「住血吸虫症」(木村幹男・大前比呂思)※甲府盆地が国内の旧流行地の一つであること。執筆者は国立感染症研究所の研究者で、信玄への言及はない
- 浜松市「浜松市文化財情報vol.94」※二俣城攻め、12月22日の三方ヶ原の戦い、野田城攻めの頃からの体調悪化、元亀4年4月に駒場で病死したとされること
- 新城市「其の四 武田信玄最期の城攻め「野田城」」※三方ヶ原の翌年に野田城を包囲したこと、信玄最期の城攻めとされること
- 阿智村「長岳寺」※駒場で亡くなったこと、遺骸を長岳寺に安置したという伝承
- 乾徳山 恵林寺「恵林寺の歴史」※永禄7年に菩提寺と定めたこと、天正4年4月に勝頼が快川国師の導師で葬儀を行ったこと
- 甲府市「信玄公(武田家)ゆかりの場所」※信玄の墓が全国にあること、火葬塚の伝承
- 富士の国やまなし観光ネット(山梨県公式観光情報)「武田信玄公墓所」※甲府市岩窪町の墓所と、3年間葬っていたとされる伝承
- Lmaga.jp「武田信玄の死因に、SNS波紋「信玄餅の由来って…」滅亡…」※大河ドラマ『豊臣兄弟!』第17回の餅の描写とSNSの反応
- Wikipedia「武田信玄」※生没年、死没地の諸説、『甲陽軍鑑』の遺言をめぐる研究上の指摘





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