2026年5月、NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』を見ていて、思わず声が出ました。画面の中の武田信玄が、史料には見当たらない意外な最期を迎えたからです。
放送直後のSNSは大いににぎわいました。私も歴史マニアの端くれとして、「そもそも信玄の死因は何だったのか」と、あらためて資料を読み直すことになりました。
そして調べるほどに、不思議に思えてきました。これほど名の知られた武将なのに、最期の状況、とりわけ死因がはっきりしないのです。
この記事の結論
武田信玄の死因は、今も確定していません。大きく病死説と狙撃説があり、いずれも定説にはなっていません。
病死説では、労咳(肺結核)のほか、胃がん・食道がん、日本住血吸虫症を推定する見方があります。長く通説とされてきたのは労咳説です。
確定できないのは、現代の病名に対応する診断記録が残っておらず、根拠となる史料にも成立時期や伝来上の制約があるためです。症状の記述を現代医学に置き換えること自体にも限界があります。
- 満51歳
没年齢(数え年53歳) - 約半年
出陣から死去まで - 1573年
撤退の途中で死去
この記事では、4つの説と侍医の書状を、根拠の史料とあわせて検証します。さらに、西上作戦から最期の地・駒場までの半年間、「死を3年間秘せよ」という遺言の真偽、墓所の謎、そしてドラマで描かれた最期までたどっていきます。
そして今回は、武田信玄AI(武田信玄をモデルにしたAI)にも登場してもらいます。分からないことは分からないと答える、慎重な語り口の対話としてお読みください。
※以下のインタビュー部分は、公開されている史料をもとに武田信玄の人物像を再現した創作です。史料で確認できない心情や受け止め方を補った創作的な対話であり、実際の発言をそのまま掲載したものではありません。

風林火山の旗でおなじみの信玄さんと、こうしてお話しできるとは……。よろしくお願いします。
さっそく核心からうかがいます。あなたの死因は、現代でも分かっていません。ご自身の最期について、どこまでお話しいただけますか。

武田信玄じゃ。甲斐の山国に生まれ、信濃をおおむね従え、晩年は西へ兵を進めた身よ。……いきなり死因からとは、遠慮のない問いじゃのう。じゃが、よい。実のところ、己の死にざまというものは、当人が一番わかっておらぬ。
書き残されておるのは、陣中で病状が悪化したとする記述があること、そして西への進軍を続けられず陣を退いたことくらいのもの。侍医の書状も、今に伝わるのは写しだと聞く。
それより先を、儂の口から確かなこととして語る術はない。答えられぬところは答えられぬと申すゆえ、何なりと聞くがよい。
武田信玄の死因は?4つの説と史料を一覧で確認
まず、これまでに唱えられてきた説を一覧にしてみましょう。国立国会図書館の「レファレンス協同データベース」でも、信玄の死因については病死説と狙撃説の両方が紹介されています。
| 説 | 内容 | 主な根拠 | 現在の評価 |
|---|---|---|---|
| ① 労咳(肺結核)説 | 血を吐いた記述を喀血(肺からの出血)と読む | 史料にある「血を吐いた」という記述 | 長く通説とされてきたが、断定はできない |
| ② 胃がん・食道がん説 | 血を吐いた記述を吐血(胃・食道からの出血)と読む | 『甲陽軍鑑』(江戸初期の軍記物) | 挙げられている解釈の1つ |
| ③ 日本住血吸虫症説 | 後世に甲府盆地の風土病として知られた病にかかっていたとみる | 後世に本拠地周辺で流行した病だったという地域的事情 | 信玄の時代の流行や罹患を示す史料は確認されていない |
| ④ 鉄砲による狙撃説 | 野田城攻めの際に徳川方に撃たれたとする | 『松平記』(後世の軍記物) | 信頼できる一次史料には確認できない |
| (参考)侍医の書状 | 「肺肝」に病があったという記載。説そのものではなく、病死説を考える手がかり | 侍医の書状(写) | 現代の病名には置き換えられない |
表の①から④が、これまでに唱えられてきた主な説です。最後の侍医の書状は死因説そのものではなく、病死説を検討するための史料にあたります。
そのうえで表を見ると、どの説にも「同時代の確かな史料」という決め手がないことが分かります。
歴史研究家の渡邊大門氏も、いずれの説も決定的な証拠を欠いており、死因は依然として不明だと結論づけています。
つまり「死因はこれだ」と断定した時点で、史料から離れてしまうのです。次の章では、どの説がどの史料に基づくのかを1つずつ確かめていきます。

後の世の者どもが、儂の死をこうも細かう論じておるとは思わなんだ。労咳だの、胃の腑の病だの、はては鉄砲だのと、四つも説が並んでおるそうな。笑うてよいのか、恐れ入るべきか、迷うところよ。
じゃが、どの説にも決め手がないと正直に書いてあるのは、感心な物言いと見た。
わからぬものを、わからぬままに扱う。その慎重さは、いつの世でも大切なものであろうな。
武田信玄の死因を史料から検証する
ここからは、表に挙げた4つの説を順に検証していきます(侍医の書状は①のなかで扱います)。読み解きのポイントは次の3つです。
- 「血を吐いた」という記述を、喀血(肺から)と読むか、吐血(胃や食道から)と読むか
- 根拠になっている史料が、同時代の一次史料か、後世の軍記物か
- 現代の病名を、400年以上前の症状の記述に当てはめることの限界
この3つを頭に置きながら、1つずつ史料と一緒に見ていきましょう。
① 労咳(肺結核)説
最も古くから知られているのが、労咳(ろうがい)、つまり肺結核とする説です。長いあいだ通説として扱われてきました。
根拠とされるのは、史料にある「血を吐いた」という記述です。これを肺からの出血(喀血)と読めば、結核をはじめとする肺の病が候補に挙がります。
ただし、ここに落とし穴があります。同じ「血を吐く」でも、喀血か吐血かで疑われる病気はまったく変わるのです。
現存する関連記録には症状の記述はありますが、現代の病名に対応する診断記録は残っていません。労咳と読めるのは、あくまで後世の解釈です。
なお、侍医・御宿監物(みしゅく けんもつ)の書状の写しには、信玄の「肺肝」に病があったという記載があるとされます。
ただ、この「肺肝」も現代の病名にそのまま置き換えられる言葉ではありません。労咳説は長く通説とされてきましたが、断定できる段階にはありません。

野田城を攻め落とした直後から、たびたび血を吐かれたと伝わっています。この記述は、どこまで確かなものなのでしょうか。

『甲陽軍鑑』などの後世の記録には、野田の城が開いたあとから、たびたび血を吐いたと記されておるそうじゃな。じゃが、それが肺から出たものか、胃や食道から出たものか、残された記述だけでは分けられまい。
いつからが病の始まりであったかも、当人には境目のわからぬものよ。野田攻めに手間取ったのは病ゆえだと申す者がおるそうじゃが、それとて後から振り返っての推し量りであろう。
儂の身に何が起きておったか、確かなことを申せる者は、儂を含めて誰もおるまい。
② 胃がん・食道がん説
挙げられている説の1つが、胃がん・食道がん説です。『甲陽軍鑑』の記述をもとに、吐いた血を喀血ではなく吐血と読む見方です。
吐血であれば、出血元は肺ではなく胃や食道になります。医療関係者のコラムにも、従来の肺結核説に対して「実は食道ガンあるいは胃ガンではなかったのか」と述べるものがあります。
ただし、根拠となる『甲陽軍鑑』の性格には注意が必要です。同書は江戸初期に成立した軍記物で、信玄と同時代の一次史料ではありません。
さらに、診察も検査もできない過去の人物について、現代の病名を推定することには限界があります。現時点では、症状の記述から推定した説にとどまります。
胃がん・食道がん説は、症状の記述に対する解釈の1つです。確定した事実ではありません。

吐いた血は胃や食道から出たものだ、とする読み方があります。この読み分けについて、どうお考えですか。

喀血か吐血かで、見立てが分かれると申すのじゃな。じゃが儂は、己の腹の内を開いて見たわけではない。どちらであったかを言い当てる術は持たぬ。
ここで挙げられておる侍医の書状も、今に伝わるのは写しだと聞く。写しとして伝わる以上、その内容を扱うには慎重さが要ろう。
その記述をどう読むかは、そなたらに任せるほかなかろう。儂が口を挟めば、それこそ後の世を惑わすだけじゃ。
③ 日本住血吸虫症説
3つ目は、日本住血吸虫症(にほんじゅうけつきゅうちゅうしょう)説です。挙げられている説の1つで、ほかとは着眼点が異なります。
日本住血吸虫症は、後世に甲府盆地の風土病(その土地に特有の病気)として知られた病気です。後世に、信玄の本拠地だった甲府盆地で流行した病であることから、死因と結びつける見方が生まれました。
ただし、この説の弱点ははっきりしています。信玄の時代の流行や、本人が罹患したことを示す史料は確認されていません。症状の記録と結びつけて論じられる段階にはないのです。
後世に知られた風土病という状況からの推測であり、ほかの説と並ぶ仮説の1つとして押さえておくのがよさそうです。
とはいえ、出身地の環境から病気の可能性を考えるという視点は、この説ならではのものです。死因をめぐる議論の広がりを示す一例と言えるでしょう。

甲府盆地の風土病にかかっていたのではないか、という説があります。この見方を、どう受け止められますか。

土地の病を疑うという筋道か。なるほど、儂には思いつかぬ見方じゃ。
じゃがな、その土地に病があったというだけで、儂の身に起きたことと結びつけるのは早かろう。儂がその病にかかっておったと書き残されたものがあるのなら、ぜひ見せてもらいたいものよ。
儂が治水に力を注いだことと、その病の存在を知っておったかどうかは、分けて考えるべきであろう。そこを一続きに語られては、話を取り違えることになろう。
④ 鉄砲で撃たれたとする狙撃説
病死説とはまったく毛色が違うのが、鉄砲で撃たれたとする狙撃説です。
軍記物『松平記』には、野田城を攻めていた信玄が、城から聞こえる笛の音に誘われて近づいたところを、徳川方の鳥居三左衛門に撃たれたと記されています。
このほかに、野田城が落城する際の銃撃が原因だとする別の説もあります。
ただし、評価は厳しめです。渡邊大門氏は、狙撃説が信頼できる一次史料には確認できないことを指摘しています。
『松平記』は『甲陽軍鑑』と同じく後世の軍記物で、同時代の書状などで裏づけられているわけではありません。劇的な筋書きではありますが、裏づけの乏しい説です。
次の章では、この野田城攻めを含む最期までの半年間を、時系列で追っていきます。

笛の音に誘われて城に近づいたところを撃たれた、という話が残っています。ずいぶん劇的な筋書きですが、心当たりはありますか。

ほう、そのような筋書きが出回っておるのか。笛の音に誘われて城際まで出た、とな。……総大将が攻めておる城の間近へ不用意に近づいたという筋書きには、疑問も残ろう。
じゃが、なかったと言い切る証を儂が持っておるわけでもない。鉄砲の玉は、どこから飛んでくるかわからぬのが恐ろしいところゆえな。
劇的な話ほど、人はよう覚えるものじゃ。真偽のほどは、儂の口からは決められぬ。
武田信玄の最期|西上作戦から駒場までの半年
信玄の最期を理解するには、亡くなるまでの半年間の動きを押さえるのが近道です。元亀3年(1572年)10月、信玄は大軍を率いて甲府を出陣しました。世に言う西上作戦です。
出陣から死去までの流れを、表で確認しましょう。
| 年月日 | 出来事 | 解説 |
|---|---|---|
| 元亀3年(1572年)10月 | 甲府を出陣 | 大軍を率いて甲斐を発ち、遠江へ向かう |
| 元亀3年(1572年)12月 | 二俣城が開城 | 浜松市の資料では、11月に二俣城攻めを開始したとされる |
| 元亀3年(1572年)12月22日 | 三方ヶ原の戦いで徳川家康を破る | 西暦では1573年1月25日にあたる |
| 元亀4年(1573年)初め | 野田城を攻略 | 『甲陽軍鑑』などをもとに、このころから病状が悪化したとされる |
| 元亀4年(1573年)冬〜春 | 長篠城で療養したと伝わる | 全軍が駐屯したまま動けなくなったとされる |
| 元亀4年(1573年)春 | 甲斐への全軍撤退が決まったと伝わる | 近習・一門衆の合議によるとされる |
| 元亀4年4月12日(西暦1573年5月13日) | 信濃国駒場で死去したとする説が有力 | 三河街道を戻る途中。満51歳(数え年53歳) |
表のとおり、転機は野田城でした。新城市は、この野田城攻めを信玄最期の城攻めとして紹介しています。攻略に時間がかかった理由を、病状の悪化に求める見方もあります。
野田城の攻略後、信玄は長篠城で療養したと伝わりますが、回復には至らなかったとされます。全軍が動けないまま時が過ぎ、甲斐への撤退が決まったのは春になってからでした。
死没地は駒場(現在の長野県下伊那郡阿智村)とするのが有力です。侍医・御宿監物の書状の写しに、臨終の地として駒場が記されています。
ただし、死没地には浪合や根羽とする説もあります。最期の地にさえ諸説があることが、信玄の死の分かりにくさを物語っています。

三方ヶ原で家康さんを破ったあたりまでは、軍は順調に進んでいたように見えます。野田城のあたりから、何が変わっていったのでしょうか。

三方ヶ原までは、軍は西への進軍を続けておった。三河の兵を破ったその時点では、さらに進む構えであったと伝わっておる。
変わったのは野田からよ。攻め落とすのに存外手間がかかったと、後の書きものにも記されておるそうじゃな。長篠に留まって体を養うたと伝わるのも、そのころのことであろう。
大軍というものは、将が動かねば動けぬ。四月に入って甲斐へ引くと決まったと聞くが、その談合の場に儂がどこまで関わったかとなると、確かなことは申せぬ。
西へ進む道が、そこで途切れた。今の儂に言い切れるのは、それだけよ。
「三年間、死を秘せよ」の遺言は本当か
信玄の死をめぐって必ず語られるのが、『甲陽軍鑑』に記された遺言です。内容は大きく2つあります。
- 自分の死を、3年間は秘匿すること
- 遺骸を諏訪湖に沈めること
この遺言はドラマや小説で繰り返し描かれ、信玄のイメージの一部になっています。諏訪湖の「水中墓伝説」も、この記述から生まれたものです。
ただし、この遺言が信玄の実際の発言だったかは確認できません。研究上も、記述をそのまま史実として扱うことはできないと指摘されています。
『甲陽軍鑑』は江戸初期に成立した軍記物で、武田の重臣・高坂昌信に仮託された書物です(仮託=実際の作者とは別の人物の著作という形をとること)。
つまり、信玄の言葉をその場で書きとめたような史料ではありません。遺言の内容も、そのまま事実として受け取ることはできないのです。
遺骸の扱いにも諸説があります。駒場にあたる長野県阿智村の長岳寺には、遺骸を安置したという伝承が残り、火葬に関わった寺としても語られてきました。
天正4年(1576年)4月、勝頼は菩提寺の恵林寺で信玄の葬儀を行っています。恵林寺は「遺言通り三年間の秘喪の後」と伝えており、死去から約3年後のことでした。

「わしの死を3年隠せ」と言い残したと伝えられています。この遺言、本当にご自身の言葉なのでしょうか。

そのように語り継がれておるらしいのう。じゃが、儂がまことにそう申したかどうか、請け合う術は誰にもあるまい。何せ、当の儂がこうして首をかしげておるのじゃから。
ただな、死を隠すという理屈そのものには、うなずけるところがある。大将の死が知れれば敵は勢いづき、国衆の心も揺れよう。跡継ぎの備えが調うまで喪を伏せるのは、乱世の兵法として筋の通った話じゃ。
ゆえに、のちの人々が、儂ならそう言い残すはずだと考えたのやもしれぬ。まことのところは、儂の口からも決めかねるがの。
武田信玄の死後、武田家はどうなったのか
信玄の死後、家督は四男の武田勝頼が継ぎました。その後の武田家の歩みを、まず年で追ってみましょう。
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 天正3年(1575年)4月12日 | 勝頼が信玄の三回忌の仏事を行う |
| 天正3年(1575年) | 長篠の戦いで織田・徳川連合軍に大敗する |
| 天正4年(1576年)4月 | 勝頼により恵林寺で信玄の葬儀が行われる |
| 天正10年(1582年) | 織田・徳川の侵攻を受け、勝頼の死により甲斐武田氏は戦国大名として滅亡する |
よく「信玄が死んだから武田家は滅びた」と語られます。ただ、これは因果を単純にしすぎた見方です。
長篠の敗戦も、その後の情勢の変化も、勝頼の代に起きた出来事です。確かなのは、信玄の死から9年後に、甲斐武田氏が戦国大名として滅亡したという事実です。
滅亡までの9年間に何があったのかは、それ自体が大きなテーマです。ここでは、信玄の死と甲斐武田氏の滅亡をひとつづきの因果として語らないことを、心に留めておきましょう。

亡くなったあとのことをうかがうのは、酷かもしれません。家督を継ぐことになる勝頼さんに、伝えておきたかったことはありますか。

勝頼か。あれが跡を継いだのなら、案じることは山ほどあるわ。じゃがな、儂が最期に何を言い残したのか、それを確かに書き留めたものがあるとは聞いておらぬ。
ゆえにこれは遺言ではのうて、ただの親心と思うて聞くがよい。甲斐は山国で、実りが乏しい。一度の大敗が、そのまま国の力を削いでいく土地じゃ。
あれがその後どのような道を歩んだかは、儂の目には映らぬ。何を思い、何を選んだかも、あれ自身のものであろう。
武田信玄の墓はどこにあるのか
信玄の墓とされる場所は、実は全国にあります。死を秘したという伝承や、埋葬地を秘密にしたという伝承が、各地の墓所・供養地の成立に影響したともみられています。
- 恵林寺(山梨県甲州市):菩提寺。天正4年(1576年)に葬儀が行われた
- 武田信玄公墓所(山梨県甲府市岩窪町):死を隠していた3年間、遺体を葬っていたと言われる場所。火葬塚とも呼ばれる
- 大泉寺(山梨県甲府市)
- 長岳寺(長野県下伊那郡阿智村):駒場で亡くなった信玄の遺骸を安置したという伝承が残る
- 竜雲寺(長野県佐久市)
- 諏訪湖(長野県):遺骸を沈めたとする「水中墓伝説」が残る
このほか、高野山(和歌山県)、福田寺(愛知県)、妙心寺(京都府)などにも墓や供養の地があります。
注目したいのは、山梨県内だけでも複数の伝承地があることです。甲府市の公式サイトも、信玄の墓が全国にあることを紹介しています。
どこか1か所を「本物の墓」と断定することはできません。死を秘したという伝承そのものが、各地に墓や供養の地を生む土壌になったともみられています。
大河ドラマで描かれた「餅」の最期はどこまで史実か
2026年5月放送のNHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』第17回「小谷落城」で、信玄が餅をのどに詰まらせて急死する場面が描かれました。
Lmaga.jpは、SNS上の反応として「新鮮過ぎるぞ」「餅で殺すという脚本、おそろしいぜ」といった投稿を紹介しています。信玄餅との関連を、冗談めかして語る投稿もあったそうです。
ドラマの描写と史料の伝えることを、並べて整理してみましょう。
| 観点 | ドラマ『豊臣兄弟!』 | 史料が伝えること |
|---|---|---|
| 最期の場面 | 餅をのどに詰まらせて急死する | 『甲陽軍鑑』などでは、野田城攻略後に病状が悪化し、撤退の途中に亡くなったと伝えられる |
| 根拠 | ドラマ独自の解釈 | 後世の記録にもとづく。ただし死因は確定していない |
餅をのどに詰まらせたとする記録は、史料には確認できません。この場面は、ドラマ独自の解釈です。
ただ、私はこれを脚本の落ち度だとは思いません。死因が確定していないからこそ、創作には空白を埋める余地が生まれるのです。
大切なのは、「創作はこう描いた/史料はこう伝えている」という線引きを知っておくことです。線引きさえ分かっていれば、ドラマはドラマとして安心して楽しめます。

最近の創作では、あなたは餅をのどに詰まらせて亡くなる姿で描かれました。率直なところ、どうご覧になりますか。

ほっほ、餅とのう。後の世では、儂はそのような姿でも語られておるのか。いや、責める気は起きぬわ。むしろ少し愉快でもある。死にざまの定かでない男の話は、語る者が思い思いに埋めていくものでな。
鉄砲に撃たれたと語る者もおれば、餅と語る者もおる。それだけ儂の最期が、謎めいて見えるということであろう。語り継がれるとは、そういうものじゃ。
まことのところは、ここまで話したとおり、儂自身にもわからぬゆえ、是非もないこと。せめてその餅、うまい餅であってほしいものよ。
武田信玄は何をした人だったのか|生涯のふり返り
ここまで死因の話を続けてきましたが、最後に、信玄がどんな生涯を送った人だったのかを駆け足でふり返ります。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 名前 | 武田信玄(たけだ しんげん)。出家前の名は武田晴信、法名は徳栄軒信玄 |
| 生没年 | 1521年12月1日〜1573年5月13日(満51歳没・数え年53歳) |
| 出身 | 甲斐国(現在の山梨県) |
| 主な功績 | 信濃の平定、分国法「甲州法度之次第」の制定、治水や金山開発などの領国経営 |
信玄は甲斐の守護大名・武田信虎の嫡男として生まれました。天文10年(1541年)、父・信虎を駿河へ追放して家督を継ぎます。
その後は信濃へ進出しました。村上義清には上田原の戦い(1548年)や砥石崩れ(1550年)で敗れていますが、のちに信濃をおおむね平定します。
越後の上杉謙信とは、川中島でたびたび戦いました。1553年から1564年にかけて5回とされ、特に有名なのが1561年の第四次の戦いです。
内政では、分国法「甲州法度之次第」を定めたほか、釜無川の堤づくりや金山の開発など、領国経営にも力を入れました。この堤は後世「信玄堤」と呼ばれています。
軍旗の「風林火山」は、『孫子』の「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山」に由来する言葉です。
なお「人は城、人は石垣、人は堀」の歌は『甲陽軍鑑』に載るもので、後世に信玄の言葉として伝えられたものです。信玄本人の作かどうかは断定できません。
永禄11年(1568年)には駿河へ侵攻し、元亀3年(1572年)に西上作戦を開始します。その西上作戦を中止し、撤退する途中で亡くなったことは、ここまで見てきたとおりです。
よくある質問(FAQ)
武田信玄の死因は何ですか?
確定していません。労咳(肺結核)・胃がん・食道がん・日本住血吸虫症などの病死説と、鉄砲で撃たれたとする狙撃説があります。
いずれも決め手となる史料がなく、死因は不明とされています。
武田信玄は何歳で亡くなりましたか?
満51歳です(数え年では53歳。「享年53」と書かれます)。元亀4年4月12日(西暦1573年5月13日)に亡くなりました。
武田信玄はどこで亡くなりましたか?
信濃国駒場(現在の長野県下伊那郡阿智村)とするのが有力です。侍医の書状の写しに、臨終の地として駒場が記されています。
ただし、浪合や根羽で亡くなったとする説もあります。
武田信玄が餅をのどに詰まらせて亡くなったというのは本当ですか?
史料には確認できません。2026年放送の大河ドラマ『豊臣兄弟!』で描かれた、ドラマ独自の解釈です。
『甲陽軍鑑』などでは、野田城攻略後に病状が悪化し、撤退の途中に亡くなったと伝えられています。
「死を3年隠せ」という遺言は本当にあったのですか?
『甲陽軍鑑』に記されていますが、信玄の実際の発言だったかは確認できません。同書は後世に成立した軍記物です。
遺骸を諏訪湖に沈めるようにという記述も同書にあり、諏訪湖の水中墓伝説のもとになりました。
武田信玄の墓はどこにありますか?
菩提寺の恵林寺(山梨県甲州市)をはじめ、甲府市岩窪町の墓所・大泉寺・長岳寺・諏訪湖など、各地に墓や供養の地があります。
死を秘したという伝承や、埋葬地を秘密にしたという伝承が、その成立に影響したともみられています。
インタビュー後記|武田信玄の最期から見えてくるもの
今回は武田信玄AIに登場してもらい、その死因と最期をたどりました。
調べ終えて印象に残ったのは、「分からない」という結論の重さです。信玄ほどの人物でも、現存する記録に残っているのは症状の記述までで、現代の病名に対応する診断は残っていませんでした。
だからこそ、労咳説も胃がん説も狙撃説も、そして餅の描写さえも生まれる余地がありました。死因の空白は、後世の想像力を刺激し続けているのです。
分からないことを、分からないまま示すのは少し勇気がいります。それでも、史料と創作の線引きを知ったうえで味わう歴史は、いっそう面白いと私は思います。
参考資料
- 国立国会図書館 レファレンス協同データベース「武田信玄の最後の状況について知りたい」※死因に定説がないこと、病死説と狙撃説
- Yahoo!ニュース エキスパート/渡邊大門「武田信玄は鉄砲で撃たれたのか?死因をめぐる通説のウソとホント」※狙撃説と『松平記』、侍医の書状、死因は不明とする結論
- 末広医院「医療の歴史(73) 武田信玄と上杉謙信」※喀血か吐血かをめぐる胃がん・食道がん説
- 浜松市「浜松市文化財情報vol.94」※二俣城攻め、12月22日の三方ヶ原の戦い、野田城攻めの頃からの体調悪化、元亀4年4月に駒場で病死したとされること
- 新城市「其の四 武田信玄最期の城攻め「野田城」」※三方ヶ原の翌年に野田城を包囲したこと、信玄最期の城攻めとされること
- 阿智村「長岳寺」※駒場で亡くなったこと、遺骸を長岳寺に安置したという伝承
- 乾徳山 恵林寺「恵林寺の歴史」※永禄7年に菩提寺と定めたこと、天正4年4月に勝頼が快川国師の導師で葬儀を行ったこと
- 甲府市「信玄公(武田家)ゆかりの場所」※信玄の墓が全国にあること、火葬塚の伝承
- 富士の国やまなし観光ネット(山梨県公式観光情報)「武田信玄公墓所」※甲府市岩窪町の墓所と、3年間葬っていたとされる伝承
- Lmaga.jp「武田信玄の死因に、SNS波紋「信玄餅の由来って…」滅亡…」※大河ドラマ『豊臣兄弟!』第17回の餅の描写とSNSの反応
- Wikipedia「武田信玄」※生没年、死没地の諸説、『甲陽軍鑑』の遺言をめぐる研究上の指摘



コメント