上杉謙信の死因と最期は?謙信AIと5つの説を検証してみた

上杉謙信の死因と最期は?謙信AIと5つの説を検証してみた 死因・最期

戦国武将の死因を調べていると、必ずどこかで手が止まる一文があります。上杉謙信の場合、それは「厠(かわや。トイレのこと)で倒れた」でした。

戦国最強とも呼ばれる武将の最期が、なぜそんなに具体的に伝わっているのか。気になって史料をたどってみたところ、その一文はどうやら、謙信が亡くなってから100年以上あとに書かれたものだと分かってきました。

この記事の結論

上杉謙信の死因は、確定していません。 通説は脳卒中ですが、それを記した史料はいずれも江戸時代のもので、同時代の記録には別の言葉が使われています。

謙信の死の11日後、甥で養子の上杉景勝が書いた書状は、その死を「不慮之虫気(ふりょのむしけ)」と記しています。中世の「虫気」は、腹痛をともなう腹部の病気を指す語でした

一方で『当代記』は「大虫」と書き、『甲陽軍鑑』は「閑所」で倒れたと記します。どの語をどう読むかで、浮かんでくる死因が変わってしまうのです。

  • 満48歳
    数え49歳(享年49)
  • 5日間
    倒れてから死去まで
  • 1578年
    天正6年3月13日に死去

この記事では、謙信の死因として語られてきた5つの説を、根拠になっている史料の性格とあわせて並べます。倒れてから亡くなるまでの経緯、遺言、そして遺骸が越後から会津・米沢へ運ばれた道のりまでたどります。

語り手として、上杉謙信AI(上杉謙信をモデルにしたAI)にも登場してもらいました。分からないことは分からないと答える、慎重な語り口の対話としてお読みください。

※以下のインタビュー部分は、公開されている史料をもとに上杉謙信の人物像を再現した創作です。史料で確認できない心情や受け止め方を補った創作的な対話であり、実際の発言をそのまま掲載したものではありません。

筆者
筆者

謙信さん、本日はよろしくお願いします。さっそくで恐縮ですが、あなたの死因については今も説が分かれています。ご自身の最期について、まずはどうお感じですか

上杉謙信AI
上杉謙信AI

妙なことを聞くのう。己の死にざまというのは、当人が一番わかっておらぬものじゃ。

そなたらの世では、儂が厠で倒れたの、卒中であったのと、ずいぶん細かに語られておるらしい。じゃが、そこまで見ておった者が、はたしておったのであろうか。

儂に申せるのは、出陣の支度をしておったということ。そこから先は、そなたらが書物を突き合わせて考えるほかあるまいのう。

上杉謙信の死因は?5つの説・論点を一覧で確認

まず、これまでに唱えられてきた説を並べてみます。根拠がどんな史料なのかを、あわせて見てください。

説・論点内容主な根拠現在の評価
① 脳卒中(卒中風)春日山城で脳の血管障害を起こし、意識を失ったまま死去した『北越軍記』『謙信公御年譜』など江戸時代の記録長く通説。ただし根拠は没後100年以上あとの記述
② 腹部の疾患腹痛をともなう病で倒れ、5日間苦しんだのちに死去した上杉景勝書状(天正6年3月24日付)同時代史料にもとづく読み方として近年重視される
③ 「大虫」『当代記』が死因として記した語。語義が定まっていない『当代記』天正六年条語の解釈が分かれ、死因を特定できない
④ 大酒・塩分の多い食生活が背景酒好きで塩辛い肴を好んだ食生活が、病の背景になったとする見方馬上杯などの伝来品、後世の逸話生活習慣の推定であり、病名を特定するものではない
⑤ 暗殺織田方の刺客に襲われた、毒を盛られたとする話後世の読み物・俗説裏づけとなる史料は確認できない

この5つのうち、同時代の史料にさかのぼれるのは②だけです。①は長く通説の座にありましたが、その根拠となる記述はいずれも江戸時代に書かれたものだと指摘されています。

なお、この5つは同じ種類のものではありません。①②⑤が死因そのものについての説であるのに対し、③は史料に書かれた語をどう読むかという論点④は死因ではなく背景要因の推定です。

③は死因を記した貴重な記述でありながら、「大虫」という語の意味が定まらないため、そこから病名を導けません。順に見ていきます。

上杉謙信AI
上杉謙信AI

五つも並ぶとは、思いもよらなんだ。ひとつ気にかかるのは、そのうち儂の生きた世に近い書きつけが、たった一つきりということじゃ。

あとはみな、儂が死んでからずいぶん経って書かれたものであろう。後の世の者が、分かりやすい話に整えていったということかもしれぬ。

どれが正しいと儂が申したところで、確かめる術はあるまいて。

上杉謙信の死因を史料から検証する

ここからは、5つの説を1つずつ、根拠になっている史料と一緒に見ていきます。読み解きの手がかりは、次の3つの言葉です。

死因を分ける3つの言葉
  • 閑所(かんじょ):『甲陽軍鑑』が記す、倒れた場所。厠とも私室とも読める
  • 虫気(むしけ):上杉景勝の書状にある語。腹痛をともなう腹部の病気を指す
  • 大虫(だいちゅう):『当代記』が死因として記す語。語義が定まらない

同じ出来事を書いた記録でも、使われている言葉が違います。その違いが、そのまま説の違いになっています。

① 脳卒中(卒中風)説|「厠で倒れた」はどこから来たのか

もっとも広く知られているのが、春日山城の厠で脳卒中を起こし、意識が戻らないまま亡くなったとする説です。事典類でも「中気(脳溢血)により没した」「脳卒中で没した」と説明されてきました。

この読み方の出どころの一つとされるのが、江戸時代の軍学者・宇佐美定祐が著したとされる『北越軍記』です。三月九日に「卒中風」を煩ったとする記述に、「一説に十一日に厠より腹痛を煩い出した」という別説が併記されています。

宇佐美定祐は紀州徳川家に仕え、越後流軍学を広めるためにこの書を著したとされます。史料としての性格には注意が必要だと指摘されている書物です。

また、謙信の没後100年以上あとに編まれた『謙信公御年譜』にも「卒中風」の語があります。つまり「脳卒中」を明記した記録は、いずれも江戸時代のものなのです。

では、なぜ「厠」のほうが定着したのでしょうか。元和7年(1621年)までに成立したとされる『甲陽軍鑑』品第44には「寅の三月九日に謙信閑所にて煩出し」とあります。

この「閑所」は厠を指すこともありますが、静かな場所・私室の意味でも使われた語です。分かりやすい厠の側が採られ、広まっていったとみられています。

筆者
筆者

『閑所』という一語が、厠とも私室とも読める。この読み分けについて、どうお考えですか

上杉謙信AI
上杉謙信AI

ひとつの言葉が二通りに読めるとは、厄介なものよのう。儂の口から、あれは厠であった、いや私室であったと申すわけにはいかぬ。

倒れた場所を書き残したのは儂ではなく、後の世の者じゃ。そのうえ、その書き手も見ておったわけではあるまい。

分かりやすいほうが選ばれて広まるのは、いつの世も変わらぬのであろう。言葉ひとつで、話はまるで別のものになってしまう。

② 腹部の疾患説|同時代史料が記す「虫気」

近年の研究が重視するのが、腹痛をともなう病で倒れたとする読み方です。根拠は、謙信の死の11日後に書かれた上杉景勝の書状(天正6年3月24日付、小島六郎左衛門職鎮宛。『上杉家文書』六七二号)です。

そこには「去十三日、謙信不慮之虫気不被執直遠行(さる13日、謙信は不慮の虫気から回復されないまま亡くなられた)」と記されています。謙信の死を伝える、もっとも近い時期の記録の1つです。

『精選版 日本国語大辞典』は「虫気」を腹痛をともなう腹部の病気の総称と説明し、1462年の『蔭凉軒日録』に見える「御虫気」を用例に挙げています。謙信の時代にすでに使われていた語です。

この読み方をとると、通説では説明しづらかった点がひとつ解けます。

景勝は同じ書状で、謙信の遺言があるとして周囲から実城(本丸)へ移るよう強く勧められ、それに従ったと書いています。倒れてから一度も意識が戻らなかったとすると、遺言が残る余地はありません。

腹部の病と読めば、少なくとも発症後ずっと意識が戻らなかったとする描写との食い違いは生じにくくなります

ただし、これで死因が特定できたわけではありません。「虫気」は症状を指す語であって、病名ではないからです。現代の病名を、400年以上前に書かれた症状の一語に当てはめること自体に限界があります。

筆者
筆者

同時代の書状に残っているのは『虫気』という一語だけです。この語をどう受け止めますか

上杉謙信AI
上杉謙信AI

景勝がそう書き残したというのなら、そこは重く受け取ってよかろう。あれは儂の家中の者じゃからのう。

じゃが、虫気とはあくまで腹の患いを指す言葉であって、病の名ではあるまい。残された記述だけでは、それ以上は分けられまい。

一語しか残っておらぬものを、そなたらの世の病名に当てはめようとするのは、いささか無理があるのではないか。

③ 『当代記』の「大虫」|語義が定まらない記述

死因そのものを書き残した記録として、しばしば挙げられるのが『当代記』です。天正六年条に謙信の死を記した箇所があり、その死因として「大虫と云々(大虫であったという)」の語が置かれています。

ところが、この「大虫」が何を指すのかは定まっていません。腹部の虫による病とみる読み方、女性の月経を指す隠語とみる読み方などが並び立っている状態です。

語義が定まらない以上、この記述から病名を導くことはできません。『当代記』は江戸時代初期に成立したとされる記録で、謙信の死を直接見た人物が書いたものでもありません。

なお、この「大虫」を月経の隠語と読む解釈は、「上杉謙信は女性だった」という説の出発点にもなりました。作家・八切止夫が1968年に発表した著作に始まるとされる説です。

ただし、その説そのものは歴史学の立場からは支持されていません。根拠として挙げられるものの多くが、史料的な裏づけを欠くと指摘されているためです。

筆者
筆者

『大虫』という一語だけが残されています。この語について、どう思われますか

上杉謙信AI
上杉謙信AI

大虫、のう。そなたに問うが、その一語だけを見せられて、何の病と分かるものかのう。儂には分からぬ。

書いた者が何を指したのか、今となっては確かめようもあるまい。それを月のさわりと読む者がおるとも聞いたが、そのような読み方をする者がおるのかと、驚くよりほかない。

儂が儂の口で決着をつけられる話ではなかろう。

④ 大酒・塩分の多い食生活が背景にあったとする見方

医療の側から語られることが多いのが、酒と塩分が体をむしばんでいたのではないかという見方です。冬場に血圧が上がりやすいこと、排便時に腹圧がかかることを重ねて説明されます。

背景にあるのは、謙信が大酒飲みだったという伝えです。米沢の上杉神社稽照殿には、謙信が馬上で用いたと伝えられる馬上杯が残っており、酒の肴に梅干しを好んだという話も伝わります。

ただし、これらはいずれも後世に語られてきた伝えや伝来品にもとづくもので、謙信本人の飲酒量や食事の内容を同時代の史料で確かめることはできません。

そしてこの見方は、死因を特定するものではなく、あくまで背景要因の推定です。現代の生活習慣病についての知識を、400年以上前の一度きりの死に当てはめた説明であることは、押さえておく必要があります。

筆者
筆者

酒豪だったという話は、いまも謙信さんの人物像として広く語られています

上杉謙信AI
上杉謙信AI

酒の話ばかりが残るとは、な。儂が杯を手にしたことはあろう。

じゃが、どれほど飲んだか、何を肴にしたかまでを、そなたらが確かめる術はあるまい。伝わっておるものの多くは、後の世で語りやすく整えられた話であろう。

それに、酒が病を招いたと申すのは、そなたらの世の道理じゃ。その道理を、四百年前の一度きりの死に当てはめてよいものか、儂には決めかねる。

⑤ 暗殺説|裏づけとなる史料は確認できない

出陣を目前にした急死だったため、織田方の刺客に襲われた、あるいは毒を盛られたとする話も語られてきました。当時、謙信と織田信長は北陸で敵対関係にありました。

ただし、この説の根拠として示されるのは、後世の読み物や口承の類です。同時代の史料で暗殺をうかがわせる記述は確認できません。

景勝の書状も「不慮之虫気」と書くだけで、外傷や不審な死をにおわせる表現はありません。家中の動揺が大きい時期に、当主の死を病死として書き記していることになります。

急な死には、しばしばこうした話が生まれます。ただし、話が広く語られていることと、その話に根拠があることは別です。この説については、裏づけが乏しいと言わざるを得ません。

筆者
筆者

急死には、決まって別の筋書きが生まれます

上杉謙信AI
上杉謙信AI

そのような話が出回っておるのか。信長とは北陸で相対しておったゆえ、そう考える者が出るのも分からぬではない。

じゃが、なかったと言い切る証も、あったと言い切る証も、儂は持たぬ。急に人が死ねば、誰かが仕組んだのだと言いたくなるものらしいのう。

話が広く語られておることと、その話に根があることは、別じゃ。そこは取り違えぬがよい。

ここまで5つの説と論点を見てきました。同時代の史料にたどれる病状の語は「虫気」だけで、そこから病名を確定することはできません。

通説の脳卒中も、確定した死因ではなく、後世の史料にもとづく説の一つとして扱う必要があります。では、その5日間に何が起きていたのかを、次に時系列で追ってみます。

上杉謙信の最期|倒れてから5日間の経緯

謙信が倒れたのは、大きな出陣を控えた時期でした。天正6年(1578年)の正月に陣触れを行い、3月15日を出発の日と定めていたと伝えられます。

ただし、その行き先については関東への出兵とみる説と、上洛を目指したとみる説があり、定まっていません。目前に迫った出陣の準備のさなかに、謙信は倒れます。

年月日出来事解説
天正5年(1577年)9月加賀・手取川で織田方と戦う上杉方が勝利したと伝えられる。規模や実態には議論がある
天正6年(1578年)正月陣触れを出す3月15日を出発の日と定めたと伝えられる
同年3月9日春日山城で倒れる『甲陽軍鑑』は「閑所にて煩出し」と記す。『北越軍記』は11日とする説も併記
3月9日〜12日祈祷と投薬が行われたと伝えられる意識や容体の推移を直接伝える同時代の記録は確認できない
3月13日春日山城で死去満48歳(数え49歳)。景勝書状は「不慮之虫気」と記す
3月24日上杉景勝が書状を出す謙信の死と、遺言があるとして実城へ移ったことを伝える
同年中景勝と景虎の対立が表面化のちに御館の乱と呼ばれる内戦へ発展する

この表で目を引くのは、3月9日から13日までの4日間に、同時代の記録がほとんど残っていないことです。倒れた日付すら、江戸時代の史料が9日と11日の両説を併記しています。

同時代の史料から確認できるのは、3月13日に亡くなったことや、その死を示す「虫気」という語などです。発症日を3月9日とする記述は、後世の『甲陽軍鑑』などによります。

倒れてから亡くなるまでのあいだ、症状がどう推移したのかを直接伝える記録は残っていません。私たちが思い描く5日間の様子は、後世の史料によって具体化されたものです。

上杉謙信AI
上杉謙信AI

こうして並べられると、空いておるところがよう分かるのう。

九日から十三日まで、儂の身に何が起きておったかを書き留めた者は、おらなんだということじゃ。いや、書いたとしても残らなんだのかもしれぬ。

後の世の書物が、その空白を伝えてくれておる。じゃが、どこまで確かなのかは、慎重に見ねばなるまいのう。

上杉謙信の遺言と、家督をめぐる空白

謙信の遺言については、景勝自身の書状が手がかりになります。景勝は3月24日付の書状で、謙信の遺言があるとして周囲から実城(本丸)へ移るよう強く勧められ、それに従ったと書いています。

また、家臣の小島職鎮に「次吉」の刀を形見として授けるという話も、同じ書状に見えます。少なくとも景勝の書状では、謙信から遺言や形見分けの指示があったものとして伝えられていることになります。

謙信の最期をめぐって残っていること
  • 景勝が実城へ移ったのは遺言があってのことだと、景勝自身が書状に記している
  • 家臣への形見分けの指示があったものとして伝えられている
  • 家督を誰に譲るかを明記した文書は確認されていない

ここで問題になるのが、3つ目です。景勝の書状は遺言に触れていますが、それは家督の相続そのものを正式に定めた文書とは別のものです。

謙信には実子がなく、養子として景勝と景虎の2人がいました。誰が跡を継ぐのかがはっきりしないまま、当主が世を去ったことになります。

なお、『甲陽軍鑑』は「謙信公四十九歳にて他界なり、辞世に詩を作り給ふ」と、辞世の詩を作ったと記しています。ただし、広く知られる「四十九年 一睡の夢 一期の栄華 一盃の酒」の句が、いつどの史料に初めて現れるかは、本記事では特定できませんでした。

筆者
筆者

遺言をめぐっては、記録に残っているものと残っていないものがあります

上杉謙信AI
上杉謙信AI

遺言、と呼んでよいものかのう。景勝が実城へ移ったのは儂の遺言があってのことだと、あれ自身が書いておるそうじゃな。

じゃが、儂がそう申した覚えを、そなたらが確かめる術はあるまい。刀を誰に渡せという話も同じことじゃ。

誰に家督を譲るかを明記した文書は、そなたらの世には残っておらぬそうじゃな。それが争いを招く一因になったのであれば、心苦しいことよ。

上杉謙信の死後、上杉家はどうなったのか

謙信の死は、越後をそのまま内戦へ引き込みました。景勝と景虎、2人の養子が家督を争った戦いは、御館の乱と呼ばれています。

項目内容
期間1578年(天正6年)〜1580年(天正8年)
対立した2人上杉景勝(上田長尾氏の出身)と上杉景虎(北条氏康の子)
当初の情勢謙信旗本衆の多くが支持した景虎が優勢だったとされる
転機武田勝頼が景勝と和睦し、武田方の介入が止まる
結末1579年に景虎が自刃。1580年までに景勝方が越後を平定
その後景勝が家臣団を再編し、領国統治の基盤を固める

景勝は勝ちましたが、上杉家は2年におよぶ内戦で大きく力をそがれました。関東・北陸へ絶えず兵を出していた謙信の時代と比べると、その後の上杉家は守勢に立たされます。

一方で、この時期に北陸で上杉方と対峙していた織田信長は、越後の混乱をよそに勢力を広げていきました。ただし、謙信の死が信長の躍進を直接もたらしたと断定できるわけではありません。その4年後には、信長自身が本能寺で世を去ります。

同じように死因が確定していない武将として、信長の最期も追っています。

上杉謙信AI
上杉謙信AI

そこから先は、儂の目には映らぬ。景勝と景虎、どちらも儂が引き取った子じゃ。

その二人が刃を向け合ったと聞かされても、儂には確かめようがない。ただ、家督のことを書き残さなんだ者が誰であったかは、はっきりしておる。

国を保つ支度をしておきながら、その一つを欠いたということじゃ。言い訳をする気はない。

上杉謙信の墓所はどこにあるのか

謙信の墓所を調べると、複数の場所が出てきます。これは記録が食い違っているからではなく、遺骸そのものが何度も運ばれたからです。

遺骸は漆を塗り、甲冑を着せて納められたと伝えられています。その後、上杉家が越後から会津へ、会津から米沢へと移されるたびに、謙信の柩も一緒に動きました。

謙信の遺骸がたどった道のり
  • 越後・春日山城:死後、城内に安置される
  • 会津・若松城:慶長3年(1598年)8月、春日山から移され、城内西南隅の仮殿へ
  • 米沢城本丸:慶長6年(1601年)の移封にともない米沢へ。御堂が建てられる
  • 上杉家廟所(米沢市):明治6年の米沢城解体を経て、明治9年(1876年)に移される

会津への移送については、山形県立図書館がレファレンス協同データベースに登録した事例に、『米沢市史資料第9号』の「上杉謙信の尊体を春日山から手明百人の健脚で会津へ移奉し、城内西南の隅の假殿へ安置する」という記述が紹介されています。

現在、遺骸が納められているのは山形県米沢市の上杉家廟所で、1984年(昭和59年)に国の史跡に指定されています。歴代藩主の廟が並ぶ中央に、謙信の廟が置かれています。

このほか、謙信が幼少期を過ごした春日山林泉寺(新潟県上越市)にも墓があります。生前の居城だった春日山城跡は、1935年(昭和10年)に国の史跡に指定されました。

ドラマ・創作で描かれる上杉謙信の最期

謙信の最期は、たびたび映像作品で取り上げられてきました。2007年のNHK大河ドラマ『風林火山』では、GACKTさんが謙信を演じ、ミステリアスな人物像が話題になりました。

近年では、NHK『歴史探偵』が2026年5月20日に「上杉謙信、死す」を放送しています。番組は「死後、鎧兜姿でミイラ化され、城に安置された上杉謙信」と紹介し、近年発見された史料から新たな謙信像に迫る内容だと案内しました。

この「鎧兜姿」という点は、遺骸に漆を塗り甲冑を着せて納めたという伝えと重なります。ただし、番組で紹介された内容と、史料から確定していることの範囲は、分けて受け止める必要があります。

創作の側が謙信の最期を印象的に描くのは自然なことです。大切なのは、そこで描かれた場面が史料のどこまでに支えられているのかを、読者の側が知っておくことだと思います。

筆者
筆者

あなたの最期は、いまも繰り返し描かれ続けています

上杉謙信AI
上杉謙信AI

儂の最期が、幾度も語り直されておるのか。演じる者がおると聞くと、妙な心持ちがするのう。

じゃが、それを咎める気はない。人は、分からぬところがあるからこそ、そこを埋めたくなるものであろう。

ただ一つだけ願うなら、埋めた部分と、書き残されておる部分とを、そなたらが取り違えぬことよ。そこさえ分かれておれば、あとはどう描いてもらってもかまわぬ。

上杉謙信は何をした人だったのか|生涯のふり返り

死因からこの記事にたどり着いた方のために、謙信の生涯を短くまとめます。越後の守護代・長尾為景の子として生まれ、兄から家督を継いで越後をまとめた武将です。

項目内容
名前上杉謙信(初名は長尾景虎。のち上杉政虎・輝虎と改名)
生没年享禄3年(1530年)〜天正6年(1578年)。満48歳没・数え49歳
出身越後国(現在の新潟県)
主な立場越後の戦国大名、関東管領
主な出来事川中島の戦い、関東への出兵、北陸への進出

1561年(永禄4年)には上杉憲政から上杉の名跡と関東管領職を譲られ、以後ほぼ毎年のように関東へ出兵しました。武田信玄との川中島の戦いは、その名を広く知らしめた戦いとして知られています。

長年の相手であった武田信玄が遺したとされる言葉には、謙信を頼れという有名な一節も含まれています。

晩年は越中・能登・加賀へ進出し、織田信長と対立しました。「敵に塩を送る」の逸話でも知られますが、この話は後世に広まったもので、同時代の史料で確かめることは難しいとされています。

生涯のライバルとされた武田信玄も、死因が確定していない武将の1人です。

よくある質問(FAQ)

上杉謙信の死因は何ですか?

確定していません。長く通説とされてきたのは脳卒中ですが、その記述はいずれも江戸時代の史料によるものです。同時代の上杉景勝の書状はその死を「不慮之虫気」と記しており、中世の「虫気」は腹痛をともなう腹部の病気を指す語でした。

上杉謙信は何歳で亡くなりましたか?

満48歳です。当時の数え方では49歳で、享年49と記されます。享禄3年(1530年)1月21日に生まれ、天正6年(1578年)3月13日に亡くなりました。

上杉謙信はどこで亡くなりましたか?

居城の春日山城(現在の新潟県上越市)です。倒れた場所については、『甲陽軍鑑』が「閑所」と記しており、厠とも私室とも読める語のため、確定していません。

「トイレで倒れた」というのは本当ですか?

断定はできません。この話のもとになった『甲陽軍鑑』の「閑所」は、厠のほかに静かな場所・私室も指す語です。厠と明記するのは江戸時代の『北越軍記』で、そこでも別説が併記されています。

「上杉謙信は女性だった」という説は本当ですか?

歴史学の立場からは支持されていません。作家・八切止夫が1968年に発表した著作に始まるとされ、『当代記』の「大虫」を月経の隠語と読む解釈などが根拠に挙げられますが、いずれも史料的な裏づけが乏しいと指摘されています。

上杉謙信の墓はどこにありますか?

遺骸が納められているのは、山形県米沢市の上杉家廟所です。1876年(明治9年)に米沢城から移されました。このほか、新潟県上越市の春日山林泉寺にも墓があります。

インタビュー後記|上杉謙信の最期から見えてくるもの

今回は上杉謙信AIに登場してもらい、その死因と最期をたどりました。

調べていて印象に残ったのは、同時代の史料で謙信の死因・病状を直接示す言葉が、たった一語だったことです。「不慮之虫気」。厠、脳卒中、意識を失ったままという具体的な描写は、少なくとも同時代の史料では確認できず、後世の史料で具体化していったものでした。

分かりやすい話ほど早く広まり、やがて通説の顔をします。今回のように、通説の出どころをたどると江戸時代に行き着く、というのは戦国武将の死因ではよくあることのようです。

それでも、景勝が書き残した一語からは、当主を失った直後の家中の緊張が伝わってきます。遺言、実城入り、形見分け。書かれたことと書かれなかったことの両方を見ていくのが、この時代の記録との付き合い方なのだと思いました。

参考資料

コメント

タイトルとURLをコピーしました